唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変 心所相応門 (42) 触等相応門 (24)

2011-11-02 20:45:11 | 心の構造について

 三は大随煩悩を簡ぶ(散乱と不正知は第七識と相応しないことを述べる。)

 初めは散乱について説明する。

 「散乱は心をして外境に馳流(ちる)せ令む、此は恒に内に一類の境を執じて生じ、外に馳流せず、故に彼いい有に非ず。」(『論』第四・三十三右)

 馳流(ちる) - 心が対象に流散すること。

 (散乱は心を外境に馳流させる心所である。しかし此れ第七識はは恒に内を執着する。一類の境(第八識)を執着して生じるもので、外境に対して馳流するものではない、よって彼(散乱)は第七識とは相応しないのである。)

 散乱については、2010年2月24日~2月26日の項を参照して下さい。抜粋して表記しますと、 

 「云何なるか散乱。諸の所縁に於いて心をして流蕩(るとうーほったらかしにすること)ならしむるを以って性と為し、能く正定を障えて悪慧の所依たるを以って業と為す」といわれます。失念は意識の対象に於いて不能明記であると、記憶できずに正念を障えてしまうと言われていましたが、散乱は正念をもてないことから意識の対象に於いて心が散乱するのです。散乱した心をほったらかしにして正定を障えるのです。正定を障えることに於いて悪の知恵の依処となるのです。正念を障えて失念し、失念することに於いて散乱を招き正定を障えるのですが、そのことにより悪の知恵の依り処となるといわれるのです。

 流蕩とは「流は馳流(ちる)なり。即ち是れ散の功能の義なり。蕩とは蕩逸(とういつ)。即ち是れ乱の功能の義なり。」

 心が川の流れのように、流れる様子を散といい、蕩はとろける・とろかすという意味があります。水がゆらゆら揺れ動く様子を言い、心がだらしなく、しまりがない状態を乱というのです。「散乱は、あまたの事に心の兎角(とかく)うつりてみだれたるなり」(『ニ巻抄』)

 「散乱は別に自体有り。三の分と説けるは。是れ彼の等流なればなり。無慚等の如し。即ち彼に摂むるに非ず。他の相に随って説いて世俗有と名づけたり。」と、散乱と云う煩悩は独立して有ると言われます。三の分とは貪・瞋・癡の事ですが、この中に「散乱は有る」という説を退けるのです。「別に自体有り」と。

 散乱の別相について「散乱の別相とは。謂く躁擾(そうにょうー心が落ち着かない、心を落ち着かせない事)なり。」(「躁とは散を謂う。擾とは乱を謂う。倶生の法をして流蕩ならしむ」)軽躁という言葉がありますね。こころが落ち着かずそわそわしているのです。あるいは軽佻浮薄(けいちょうふはくー心がうわついて軽薄であるという意ー軽佻の佻は跳ね上がりで落ち着かない意)ともいわれます。散乱と云う心は独立して働いていると言われているのです。」

 五遍染師が散乱が第七識と相応しない理由を述べています。

 「然るに今此の師は設い別に体有りというとも、外を縁じて起こり或は間断するを以ての故に、一切の染にも遍ぜずとという。此の識の中には無し。一には恒なるが故に、二には内に執するが故に、三には一類の境を生ずるが故に、外に馳流せず。故に散乱無し。」(『述記』第五本・五十二右)

 『述記』に第七識の特徴が述べられていますが、三つの理由があると。

  •  (1) 恒であること。間断がない。
  •  (2) 内(第八識)を執着すること。
  •  (3) 一類の境に対して(第八識を対象として)生じること。

 以上の説明により、散乱と第七識では働く対象が異なり、第七識と散乱は相応しないのである、と。