唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (105) 第十・縁有事無事門 (2)

2015-05-15 21:07:29 | 第三能変 諸門分別 縁有事無事門
  

 縁有事無事門において説かれる煩悩は、本質相分の上に影像相分が立てられるか否かについての所論ですが、例えば、身見(薩迦耶見)が我執を起こす場合、本質相分は五蘊ということになります。認識一般では五蘊が存在して、五蘊を縁じて我執を起こすと説かれるわけですが、
 本科段においては、
 「身見等と及び此れと相応する法との等き、本質無きを無事を縁ずと名づく。余は此れと倶ならざるは有事を縁ずと名づく。行我と執せざるを以ての故に。此れはひと執によって論を為す、法執によらず。法執は余の一切の心に通ずるが故に、ただ我見のみに非ず。」(『述記』)
 身見が対象の用に迷う場合は、我を本質相分としてその上に我の影像相分を浮かべているのではなく、もともと我の本質が有るのではなく、無いものを本質とするわけにはいきません。本質相分として有るのは五蘊の身ということになり、我執を起こす身見は無事の煩悩とされます。
 しかし、身見が対象の体に迷う場合は、体は五蘊ですから、五蘊を本質相分として、身見の相分上に我の相である影像相分を浮かべ、五蘊を所縁として法執を起こしているわけですので、五蘊を対象としている身見は有事の煩悩とされます。
 身見と我執・法執の関係ですが、共に身見であり、ある一つの対象に向かい働くとき、其の対象の作用に迷うのを我執といい、体に迷うのを法執といいます。
 第七末那識の分位行相において、
 ① 補特伽羅我見と相応する末那識を人我見の末那識と云う。(末那識が、阿頼耶識を縁じて、人執の我を起こす。五蘊に迷うありかた。実体視)
 ② 法我見と相応する末那識を法我見の末那識と云う。(末那識が、阿頼耶識を縁じて、法執の我を起こす。依他起性に迷うありかた。実体化)
 ③ 平等性智と相応する末那識を無漏の末那識と云う。(末那識が、諸法無我を縁じて、平等性智を起こす)
 説かれていましたが、「我執は必ず法執に依って起こるを以て、要ず杌等に迷うて方に人等と謂うが如くなるが故に。」と。喩をもって説明されています。 詳細につきましては、2012/1/30~2月の投稿を参考にしてください。
少しポイントがずれますが、次のようなことも思います。
 「第七末那識は第八阿頼耶識の見分を縁じて自の内我と為す。我そのものとなす。我所を許さないのが護法の見解です。そして四種を除いた「瞋」・「疑」は他に対するもので、自に対するものではありません。第七末那識は自分に対して瞋りを持つことはないのですね。自分に対する深い愛着が性ですから、同時に自分を憎むということは成り立たないのです。ですから自分に対して疑いを持つこともありません。これが問題ですね。反省という言葉がありますが、我見によって執着された我をたのみ、愛着するところには反省は成り立たないのです。また自分から出る一切の出来事は我執に色づけされているのですから正見というわけにはいきません。あとは悪見の中の辺執見・邪見・見取見・戒禁取見です。薩伽耶見(我見)は倶生起の煩悩で、邪見・見取見・戒禁取見は分別起の煩悩ですね。「取」が特徴です。認識したり、考えたりするひとつの見解です。偏った見解ですね。邪見は因果の道理を否定するわけです。空を否定しようとする見方です。見取見は自分の見解が正しいと思い込んでいる見方です。戒禁取見は戒律のみが正しい生き方と思い込んでしまう見方ですね。いずれも我見から生じた分別起の煩悩です。我見から生じたものであるから簡ばれるのですが、辺執見と我所見はどうなのでしょうか。この二つの見は分別起の場合もあるが、倶生起の場合もあるのです。しかしこの場合は我見を前提として成り立っているので簡ばれるのです。また辺執見は極端に考える見解ですから、有る場合(常見)と無い場合(断見)とがあるという見方になります。我所見が成り立つのは我そのものが前提となります。我がなければ我所は成り立たないのです。我に対して対象化されたものが我所です。従って、我見を前提として他の見が成り立つわけですから、「我見あるが故に余の見生ぜず」と。我見の中に他の四つの煩悩、辺執見・邪見・見取見・戒禁取見は含まれるので、今は第七末那識に働く根本煩悩は四つ、我癡・我見・我慢・我愛であり、「無始よりこのかた未転依に至るまでこの第七末那識は任運に第八阿頼耶識を縁じて四の煩悩と相応する」といわれているわけです。」

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (104) 第十・縁有事無事門 (1)

2015-05-14 22:26:54 | 第三能変 諸門分別 縁有事無事門
 
 諸門分別 第十 縁有事無事門
 簡単に説明しますと、諸々の煩悩には、本質相分が有るのか無いのかを問うています。
 本質相分の無いのを無事
 本質相分が有るのを有事
 「諸の煩悩は皆相分有りと雖も、而も所杖(ショジョウ)の質(ゼツ)いい或は有り或は無きなり、有事無事を縁ずる煩悩と名づく。」(『論』第六・二十二左)
 諸々の煩悩にはすべて、相分が有るとは言っても、依り所となる本質相分が、有るものと、無いものとがある。本質相分の有無の点から、有事と無事を縁じる煩悩と名づけるのである。
            本質相分 (疎所縁)
   相分    〈
            影像相分 (親所縁)
 相分には、本質相分と、影像相分の二つがありますが、本科段の縁有事無事門は、本質相分の有無の所論になります。
 『対法論』の第七に説かれている(第六の誤りか)のを参考にしますと、
 「身見等と及び此れと相応する法との等き、本質無きを無事を縁ずと名づく。余は此れと倶ならざるは、有事を縁ずと名づくにあたる。行は我と執せざるを以ての故に、此れは人執によって論を為す。法執によらず。法執は余の一切の心に通ずるが故に、ただ我見のみにあらず。若しただ我見と及び倶なる法に、亦通じて法執を摂し盡さば、即ち余の四見と及び疑とに法執無かるべし。必ず我見と倶ならざるが故に。便ち大失となる。此の中に煩悩は何れが我見と倶なるや。何れか不共なる。前の自と倶有なる門に説けるが如し。」(『述記』第六末・六十四右)
 尚、随煩悩の十二にも、縁有事無事門が説かれています。そのこうを参照しますと、次のようになります。
 「随煩悩が本質相分(ほんぜつそうぶん)を持つのか、持たないのかを論じています。
 「然も忿等の十は但有事を縁ず。要ず本質に託して方(まさ)に生ずることを得るが故に。」(『論』)
 「下は第十二に、有事等門なり。忿等は但有事のみ縁じて、我見とは倶ならず。我見と倶なる心等は無事(むじ)を縁ずと名づく。本質の我なきが故に。此れは人執心の本質によって、無事を縁ずと名づく。准じて知る。後の十はニの所縁に通ず。」(『述記』)
 本科段は、「諸々の煩悩は皆、相分は有りと雖も、而も所杖(しょじょう)の質(ぜつ)いい、或いは有り・或いは無きなり。有事・無事を縁ずるを煩悩と名づく。」本質相分の有無ですね。本質相分を持つ煩悩を有事を縁ずる煩悩といい、本質相分を持たない煩悩を無事を縁ずる煩悩というと述べています。薩迦耶見(有身見)が我執を起こす場合は無事を縁ずる煩悩といわれます。何故なら本質の我(影像相分)とは関係がないからであると。本来無我ですから我を対象とすることは無いのですね。これは我執を起こす有身見は無事の煩悩と名づくといわれるのです。本質は影像相分(心。心所が心のうちにもろもろの対象を変現すること)の拠り所となるものですから、事物自体を本質といいます。「諸々の煩悩は皆、相分を持つとはいえ、所杖(影像相分の拠り所)いわゆる本質相分である。有身見の我執を起こすものと相応する煩悩は本質相分を持たない無事の煩悩といわれ、相応しない煩悩を有事の煩悩といわれるわけです。

 小随煩悩の場合ですが、ただ有事を縁ずるといわれますね。有身見が我執を起こす場合は無事でありますが、小随煩悩は本質相分に託して生じるので、無事を縁ずる有身見とは相応しないわけです。それで有事といわれるのです。有事といいますのは因を伴っているものと云うことになります。本質相分を因とするという事です。事は因の意味で、根拠を具するものと云うことになります。無事を縁ずるということは根拠が無いということになり、我執を起こすと云う場合は無我であるのに(五蘊仮和合)、五蘊が有ると誤って(我が有ると)執するのです。
 この項はもう少し熟考しまう。