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縁有事無事門において説かれる煩悩は、本質相分の上に影像相分が立てられるか否かについての所論ですが、例えば、身見(薩迦耶見)が我執を起こす場合、本質相分は五蘊ということになります。認識一般では五蘊が存在して、五蘊を縁じて我執を起こすと説かれるわけですが、
本科段においては、
「身見等と及び此れと相応する法との等き、本質無きを無事を縁ずと名づく。余は此れと倶ならざるは有事を縁ずと名づく。行我と執せざるを以ての故に。此れはひと執によって論を為す、法執によらず。法執は余の一切の心に通ずるが故に、ただ我見のみに非ず。」(『述記』)
身見が対象の用に迷う場合は、我を本質相分としてその上に我の影像相分を浮かべているのではなく、もともと我の本質が有るのではなく、無いものを本質とするわけにはいきません。本質相分として有るのは五蘊の身ということになり、我執を起こす身見は無事の煩悩とされます。
しかし、身見が対象の体に迷う場合は、体は五蘊ですから、五蘊を本質相分として、身見の相分上に我の相である影像相分を浮かべ、五蘊を所縁として法執を起こしているわけですので、五蘊を対象としている身見は有事の煩悩とされます。
身見と我執・法執の関係ですが、共に身見であり、ある一つの対象に向かい働くとき、其の対象の作用に迷うのを我執といい、体に迷うのを法執といいます。
第七末那識の分位行相において、
① 補特伽羅我見と相応する末那識を人我見の末那識と云う。(末那識が、阿頼耶識を縁じて、人執の我を起こす。五蘊に迷うありかた。実体視)
② 法我見と相応する末那識を法我見の末那識と云う。(末那識が、阿頼耶識を縁じて、法執の我を起こす。依他起性に迷うありかた。実体化)
③ 平等性智と相応する末那識を無漏の末那識と云う。(末那識が、諸法無我を縁じて、平等性智を起こす)
説かれていましたが、「我執は必ず法執に依って起こるを以て、要ず杌等に迷うて方に人等と謂うが如くなるが故に。」と。喩をもって説明されています。 詳細につきましては、2012/1/30~2月の投稿を参考にしてください。
少しポイントがずれますが、次のようなことも思います。
「第七末那識は第八阿頼耶識の見分を縁じて自の内我と為す。我そのものとなす。我所を許さないのが護法の見解です。そして四種を除いた「瞋」・「疑」は他に対するもので、自に対するものではありません。第七末那識は自分に対して瞋りを持つことはないのですね。自分に対する深い愛着が性ですから、同時に自分を憎むということは成り立たないのです。ですから自分に対して疑いを持つこともありません。これが問題ですね。反省という言葉がありますが、我見によって執着された我をたのみ、愛着するところには反省は成り立たないのです。また自分から出る一切の出来事は我執に色づけされているのですから正見というわけにはいきません。あとは悪見の中の辺執見・邪見・見取見・戒禁取見です。薩伽耶見(我見)は倶生起の煩悩で、邪見・見取見・戒禁取見は分別起の煩悩ですね。「取」が特徴です。認識したり、考えたりするひとつの見解です。偏った見解ですね。邪見は因果の道理を否定するわけです。空を否定しようとする見方です。見取見は自分の見解が正しいと思い込んでいる見方です。戒禁取見は戒律のみが正しい生き方と思い込んでしまう見方ですね。いずれも我見から生じた分別起の煩悩です。我見から生じたものであるから簡ばれるのですが、辺執見と我所見はどうなのでしょうか。この二つの見は分別起の場合もあるが、倶生起の場合もあるのです。しかしこの場合は我見を前提として成り立っているので簡ばれるのです。また辺執見は極端に考える見解ですから、有る場合(常見)と無い場合(断見)とがあるという見方になります。我所見が成り立つのは我そのものが前提となります。我がなければ我所は成り立たないのです。我に対して対象化されたものが我所です。従って、我見を前提として他の見が成り立つわけですから、「我見あるが故に余の見生ぜず」と。我見の中に他の四つの煩悩、辺執見・邪見・見取見・戒禁取見は含まれるので、今は第七末那識に働く根本煩悩は四つ、我癡・我見・我慢・我愛であり、「無始よりこのかた未転依に至るまでこの第七末那識は任運に第八阿頼耶識を縁じて四の煩悩と相応する」といわれているわけです。」