唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

「下総たより」 安田理深述 初講 (3) 曽我量深先生追弔会講話

2012-01-15 16:21:18 | 「下総たより」 安田理深述

 心を捉えようとすれば主観になる。併し自我を必要とせん。それは無限に掘り下げる。掘り下げられるものが心です。こういうものが三心といっても二種深心といっても段階がある。そうでないものを媒介として、疑いは信心がないのであるが疑いを媒介として信心が開ける。疑いを止めにするのでない。疑いによって自己を知る。疑ったこともない人間が信ずるということはない。行き詰ったことを媒介とする、我々が勝手に掘り下げてゆくのでない、我々が内を掘り下げるということは内が我々に名乗るのである。それを願、心には知るということもあるが、もっと深い心の内面には願。願ということがこれは曽我先生の教を通して、人間の非常に深いものとして願がある。願に対する確信、願の信念。そういうものが曽我先生の信念であった。願というのは念仏もうさんとおもいたつ、たすけんとおぼしめしたちける、本願の面目は、おぼしめしたちける、念仏もうさんとおもいたつ、願というものの本来の面目は立つ、おもいたつ、漢文の聖典には願は願生、それが人間の本質である。如来の本願は人間の泥のような宿業の底に流れておる。願に目覚める所が願生、目覚めさせるのは欲、欲が意欲、意欲というものが宗教の原理、人間存在の原理である。願のない所に人間が生きておるということはない。生きておるということを証明しておるものは願、それが人間の根底にながれておる。それに目覚めるということは、願に目覚めれば願に生きる、願に目覚めたならば、ただそうかといっておるのでない。願に目覚めるということは願を我自身となす。

 自覚ということは思いということも自覚ですが、デカルトは "我思うが故に我あり〟 といって、思うということが人間の本質、そういう我思うという形で生きておる自覚を現す。そのデカルトの後に更にそれを深めてM・D・ビランは "我欲するが故に我あり〟 我欲するが故に我ありは我思うが故に我ありよりももっと深い。願というものは我々が生きておるという存在、それを成り立たしめておる存在のたましい、それが意欲。意欲というものが心の本質である。それによって心が無限に豊かな内面を開いてくる。願生というのは何かというと貧者の一灯、凡夫の心、凡夫の心は願生という所に謙譲無比の心がある。人間を偉くするのが宗教でない。普通の人にかえす。

 我々は本願がなければ普通の人になれん。偉いとか劣ったとか自慢するか卑下するか、そういうものを脱出することが出来ない。人間の本質は偉いとか劣ったとかいう所にあるのでない。人間は人間である。つまらん者として生きておるということも、そのつまらんということに意味がなければならん。その意味を発見しないで生きておっても何の為に生きておるかわからん。我々の生きておるということを明らかにしたいという願いが人間の在り方である。思うというのも人間の在り方であるが、存在そのもは如、如来の如。如というものは如というものがあるのでない、ものが如として根源的にある、総てのものが如として如来としてある。如来としてあるという在り方を具体化する。ものというだけでは一般論、個性とか産物とかいうことはない、意欲ということによって始めて存在が個性的なものになる。無の一般者は個性がない。我欲する、欲するということが一つの在り方、欲するということに於てある。

 願いというものが宗教の生産的原理、機能、働きである。宗教という世界を生産する機能を願力。願心は無であるがあらゆるものを産み出す力がある。願力は生産的原理である。願生という願は無限に内面の世界を創造する。それを荘厳、荘厳世界、世界を荘厳する。宗教は心の内の世界であって文化でない。貧しい者の、貧者の一灯の豊かさを浄土という。宿業の内面に絶対自由の創造の世界というものがある。大言壮語という所には生きたものはない。ないから大言壮語せんならん。内面の豊かさをもつ所に人間は当たり前の人でよい。凡人、偉い人にならんならん、悪人にならんならんのでなく、只の人で居られるということは内に満々たる豊かさをもっておるからである。心を掘り下げる、それを荘厳浄土。それは人生の原理宗教の原理である。そういうことを曽我教学というものに於て示されている。それ迄も確信をもって言ってきたが未だ言い尽くせん。それを生きている限り明らかにしたいと思うだけである。  (完)

 次回からは、『下総たより』第一号 「たのんで助かるとは」 を配信します。

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 M・D・ビラン(Maine de Biran) 1766~1824 「デカルトは我思う、故に我あり je pense, donc je suis」と述べた。しかし、ビランによればこれは訂正を必要とする。「思う(=考える)」という働きは知性の働きであり、何ら身体性を含まない。が、「思う」働きそれ自体が意識の事実として自己自身に現象するためには、その働きが「関係」を構成する必要がある。すなわち身体を必要とする。ビランによれば、「我志す、故に我あり je veux, donc je suis」である。意志の力の実行化は「関係」の対項として身体を含意している。意志の力が発露するのも、身体の抵抗に出会うことによってであると説く。

  


「下総たより」 安田理深述 初講 (2)

2012-01-08 16:35:28 | 「下総たより」 安田理深述

 龍樹は中論の巻頭帰敬の頌をおかれている。それは

        不生にして亦不滅

        不常にして亦不断

        不一にして亦不異

        不来にして亦不出

        能く是の因縁を説いて善く諸の戯論を滅したまえ

        り、我稽首して仏を礼す。

        諸説中第一なりと。

 其のに能く戯論を滅し、戯論寂滅ということが出ておる。普通は煩悩の寂滅を涅槃という、煩悩も多情多恨でどうもこうも出来ないというのもつらいかも知れん。けれども煩悩が寂滅した涅槃は小乗の涅槃で阿羅漢、ところが戯論寂滅したのは一切智者、仏である。 この戯論というのが有にあらず、無にあらず、有と無との間を絶えず動揺しておるのが戯論で、一旦分別の中に足を突っ込んだら泥沼のようなものでそこから脱出することが出来ない。煩悩が寂滅したら阿羅漢であるが阿羅漢は老人、戯論寂滅したら童子になる、そういう純真たらしめられる。

 そこで先生は何を教えられたか、各々聞く人が問題をもっておる。問題のない人が聞けば何の答えもないが問題があれば響く、学問的の問題は頭の問題であるから頭に響く、先生の言葉が私に響いたのは根元的のところに響く。

 頭を通して肉体にまで響く、或は骨に響く、我々が頭で聞くというのは感心するだけである。曽我先生から感心するような教えを受けたことはない。感心させる理論は軽薄なもので理屈にすぎん。人を感心させる論理は上層的、人間の上部でなしに根幹に響く教えをうける、それを肉体といってよい。

 肉体といっても生理的なものでない。肉体とか身体とかいうことは非常に大事で、生きておるということ、肉体というところに生きておる。生きておることを証しておるものが肉体である。響く肉体があれば必ず世界がある。肉体で感ずる世界、世界に生きておるがその世界は何処にあるか、肉体を通して感ずるものが世界、肉体を通さん世界は観念であって生きた世界でない。抽象的世界である。肉体に感動する世界が生きた世界である。肉体に対して心というものは具体的に主観でないかと片づけてしまう。心というのは世尊我一心、荘厳浄土の心、願生心或は菩提心、至心信楽欲生の三心、教行信証では心を取り扱うのは信の巻以後で、教行二巻は法の世界である。

 現代人が忘れてしまっておるのは心でないか。考えた心は心の概念、そういうものをあらしめておるものが心、向こうにおけんものが心、向こうということを成り立たせておるものが心、現在の文化、哲学が置き忘れておるものが心の世界である。これは眼に見えん世界で、心というものは絶対に対象化することは出来ない。いつも主体になる。向こうに対象的ににおくものでない。対象の成り立つものである。

 その意味で曽我先生の論文をみてもカントの哲学の用語が出てくる。カントの哲学の用語が使ってあっても、何所迄も先生自身の表現というもが一貫して流れている。カントの哲学の用語が使ってあっても認識論的意味を述べられたのでない。やはり先生の思想を述べられた。存在の本質がかえられたようなもどかしさが感ぜられるけれどそうでない。何所迄も曽我先生の表現というものがそこにある。本能という言葉も生理学の概念を使って生理学でない先生の思想を現わされた。思想家は他人の言葉で話さん、それは表現である。そうでないと読めん。その一つとして心、心というものを感、感ずるのが心、意識の野、或は意識の場、野というのはただ空間という意味でない。種をまけば生える、物を生産する生きた人間の世界を現わすものが野である。或は又場です。於いてある所、あらゆるものがそれに於いてある、そういうものは心に於いてある。

 於てというのが場であって、心というものはそれ自身何物でもないが故に、何物にもなる。これが心だといえばそういうものも心に於てある。

 自覚というものは無限であって。自覚したということも自覚されなければならん。だから西田哲学では自覚というのは知るものと知られるものと一つだ。自己が自己を知る。知るものと知られるものと一つ、ものを知ることを通して知るもの自身を知る。曽我先生の行き方は自己が自己に於て自己を知る。於ては場、或は野です。心というものは野とか場とか考えらえる。よく考えると心というものに於てそれ等のものが生前としてある。心に似て心でないもの、それは自我。主観の主というものは心で捉えにくい。心を概念的に捉えたものが主観になる。言葉の端に捉えられて・・・・・・言葉の尻を捉えたものは批判にならん。心というものは自我というけれども実は自我を必要とせん。それ自身統一がある。あえて自我を必要とせん。心というものが実体化されてくると心は自我になる。自我は我執、我執と自覚は紙の裏表のように近い。

                                (つづく)

 


「下総たより」 安田理深述 初講 (1)

2012-01-01 00:00:06 | 「下総たより」 安田理深述

               弥陀成仏のこのかたは
                いまに十劫をへたまえり
                法身の光輪きわもなく
                世の盲冥をてらすなり 

  明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

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          曽我量深先生追弔会講話(一部)

 「今日は先生の追弔会ということで・・・・・・追憶するということは、単に我々と先生とは学問上の教師というだけでない。学問上の教師であったことも否定出来ないのであるが、人生の教師、生きておることの教師、我々の生きておることの意義を明らかにして下された。

 仏教の言葉で善知識、善き教師である。道元禅師は古仏といわれた、古鏡古道ということもある。それはただ古いというだけでない。伝統伝承ということを現す、古い所に新しい、新しいといえば己証、古いものを否定して新しいのを造るのでない、古いものの中に新しい、クラシックといえばただ古いというだけでなく其の中にいつも新しい。釈尊は無師独悟であるが、ニカヤの経典をみると、自分が一つの道を見出してみたら其の道は既にあった。仏になってみたら既に仏はあった、こういう意味の譬に古い森をこえて行ったらそこに古い城がたっておった、それが古仏、自分が仏になってみたら既に仏があった。そういうものを展開してきて釈尊の背景として五十三仏がある。

 さきの話のように本は題目がきまれば半分は出来たようなもの、講和も常に考えておることを話すよりないが、そういう時に題目がないと漫談に終わる。展開、歩みというものがない。それと同じように善き教師をもてば学問も成長がある。教師のない学問は危ない。師を見出すということは、よき本よき教典を見出すと同じこと、我々が道というものにふれるならば自分以外の人は皆教師であり、誰からも学ぶ、特定の人を教師という必要はないともいえる。けれども教師ということは問題がある。ただ一人ということもないけれども、人は沢山あっても誰でもよいということはいえぬ。私は幸いにして師を求めて歴訪したという経験がない、金子・曽我という先生を得たということが幸せであった。師によって指導を受けたことが一生かかっても、もう是で解ったといえん。或意味ではどの文章を取り上げてみても、其文章に於て教えられた意味は一生これを受用しても尽くせない。其意味を尽くそうと思えば恐らく何生もかかるものがある。だから彼方へ行ったり此方へ行ったり巡礼する誘惑がない。もう一人野々村先生、これは鳥取の同郷の先生である。金子先生を通して曽我先生、師といえばこの二人が直接の師でしょう。野々村先生は龍谷大学に居られた時に異安心問題が起こった、金子先生も異安心問題があった、私の選んだ三人の先生は偶然にも異安心ということになっている。何か不思議な縁があるのかも知れん。今、曽我先生は単なる知識の先生でなく、生きておることの意義を教えられた。学問の教師と二重にかかっている。学問なんか駄目だ、体験が大事という訳でないのですが、解学行学ということがあって、解学でも自分に関係したら行学になる。自分という問題を忘れているならば行学といっても解学になってしまう。解学行学ということは学問に対象的にあるのでない、我々の態度にある。我々が学問の真理を探究することと自分が生きておることと区別が出来ない。人生の意義に裏付けられた学問でないと学問といえん、本当の学問というものはそこにある。

 こういう意味で学問といっても思想の裏付けがなければ知識になってしまう。思想の裏付けによって学問を通して自覚をはっきりする。学問はどういうものかというと、偉いから学問する、頭がよいから学問するのでない、学問というもので明らかにせんならん程頭が悪い、そういう具合に考えておる。そういう意味でよき教師、自分は今曽我先生を研究するということは考えられない。それは先生の教えられた道とは違う。曽我教学の意義とか位置とか、そんな研究をする必要はない。それは歴史がきめてゆく。舎利弗・目連は釈尊の顔を知っておったが、七高僧の最初の龍樹が釈尊の精神を明らかにした。これは大事なことで、釈尊が人類の教師であるということはどこできまったか。釈尊から始まった歴史に龍樹・天親という人が出て釈尊を人類の教師にした。そういう時に歴史がある。曽我先生と私とはただ個人関係というものでない。先生をほめて私は其の先生の弟子だ、ほめて師を所有する。所有された先生は汚れんけれども所有した人は汚れる。わいわいいって先生をほめるということもそれは悪いことではないが、如何にほめても足らん、そう度々何時でも出遇う先生でない。併しそういう先生は長い歴史が決定する。曽我教学は是だといわんでもよい。低い人間がほめても却って低めるだけだと思う。そこに曽我先生に遇うた歴史的意義は個人を超える、個人の問題は思想の問題でない。思想問題は個人を超える人類的問題である。そこになると曽我先生をして先生たらしめたような問題がある。先生を微に入り細に入って調べるのでない。例えば親鸞はそばが好きであった、善哉がすきであった等とそんな事を調べ上げるのは或る意味で残忍な話で、裏から表から調べて検査する、曽我先生の後を追っかけるのでなしに、我々の背後、発遣というもの、背後をもった人が人類的、背後というのが人類的なものである。釈尊はどうして出られたのか、人類の発遣に答えて生まれて来られた。 「龍樹大士出於世」、あそこを懸記、懸記によって生まれた龍樹大士はただの個人でない。個人ならば天才であるが、人類の歴史から発遣されて生まれた、人類が生み出した、人類が自分が教を受けるために生み出した、そのために歴史が生まれた。歴史から生まれて、又歴史を生む。其人はどういう歴史から生まれてきたか、こういうことが決定する。歴史から生まれて又歴史を生んでゆく。歴史の先端という所に創造的個人がある。曽我先生を追いかけるのでなく其の背後をみれば清沢満之、その背後は親鸞、次々五十三仏がある。そういう歴史から生まれて又歴史を創造する仕事にあづかった。歴史ということは歴史自身をもつということが救いである。救済といっても重い荷物歴史の使命を感ずる。

 曽我先生の一面は野心がない。野心がないというのは何時も童心を失われなかった。純真な童心。子供の本能は遊びということで園林遊戯が子供の精神である。息のつまるような娑婆世界に遊ぶ、そういう童子のたましいを老人になられて亡くなられる迄もっておられた。ああいうことが何でもないようであるが本願にふれて人間は始めて純真になる。本願にふれてもしかめらしいのは本願に理屈をつけておる。学問は理屈をつけるものでない。ただ念仏というのは理屈をつけてみようがない。理屈をつける訳にいかんが併し理屈をつけんと発音しておるだけになる。念仏は安っぽいようであるから値打ちがあるからといって理屈をいわんならん。単純なものに満足するのは深い背景がいる。自己を堀り下げずにただ念仏ということはない。単純な念仏に満足するために至心信楽欲生の三心ということが教えられてある。心を明らかにする。法を頂くのは衆生が頂く。法は仏法、衆生といったら幾らでも居る衆生の心を明らかにする。そこには何所迄行っても明らかに出来んものが自分である。ものはこういうものだときまって居らん、低いものでも深いものに出来る。或いは自分が深くなればよい。単純なものに満足出来んのはものがさせんのでない。我々が単純なものに承知せん、うなずかん。我々が手を入れるのは法に手を入れるのでない。手を加えなければならんのは自分、それを掘り下げて掘り返す。自分の問題を忘れてしまうと法の方へ巡礼して流転してきた。私は何がつらいか、一番つらいのは思想というものが、金とかそういうものは背に腹はかえられんということもあるが、金は死んだらすむ。思想は死んでもすまん。はげしいものは深いことはない。深いものは微か、気にかかる。彼方の思想、此方の思想、思想から思想えと自分がきまらん。私では思想の動揺から抜けられんということがある。(つづく ・ 次回は1月8日に配信します。)