心を捉えようとすれば主観になる。併し自我を必要とせん。それは無限に掘り下げる。掘り下げられるものが心です。こういうものが三心といっても二種深心といっても段階がある。そうでないものを媒介として、疑いは信心がないのであるが疑いを媒介として信心が開ける。疑いを止めにするのでない。疑いによって自己を知る。疑ったこともない人間が信ずるということはない。行き詰ったことを媒介とする、我々が勝手に掘り下げてゆくのでない、我々が内を掘り下げるということは内が我々に名乗るのである。それを願、心には知るということもあるが、もっと深い心の内面には願。願ということがこれは曽我先生の教を通して、人間の非常に深いものとして願がある。願に対する確信、願の信念。そういうものが曽我先生の信念であった。願というのは念仏もうさんとおもいたつ、たすけんとおぼしめしたちける、本願の面目は、おぼしめしたちける、念仏もうさんとおもいたつ、願というものの本来の面目は立つ、おもいたつ、漢文の聖典には願は願生、それが人間の本質である。如来の本願は人間の泥のような宿業の底に流れておる。願に目覚める所が願生、目覚めさせるのは欲、欲が意欲、意欲というものが宗教の原理、人間存在の原理である。願のない所に人間が生きておるということはない。生きておるということを証明しておるものは願、それが人間の根底にながれておる。それに目覚めるということは、願に目覚めれば願に生きる、願に目覚めたならば、ただそうかといっておるのでない。願に目覚めるということは願を我自身となす。
自覚ということは思いということも自覚ですが、デカルトは "我思うが故に我あり〟 といって、思うということが人間の本質、そういう我思うという形で生きておる自覚を現す。そのデカルトの後に更にそれを深めてM・D・ビランは "我欲するが故に我あり〟 我欲するが故に我ありは我思うが故に我ありよりももっと深い。願というものは我々が生きておるという存在、それを成り立たしめておる存在のたましい、それが意欲。意欲というものが心の本質である。それによって心が無限に豊かな内面を開いてくる。願生というのは何かというと貧者の一灯、凡夫の心、凡夫の心は願生という所に謙譲無比の心がある。人間を偉くするのが宗教でない。普通の人にかえす。
我々は本願がなければ普通の人になれん。偉いとか劣ったとか自慢するか卑下するか、そういうものを脱出することが出来ない。人間の本質は偉いとか劣ったとかいう所にあるのでない。人間は人間である。つまらん者として生きておるということも、そのつまらんということに意味がなければならん。その意味を発見しないで生きておっても何の為に生きておるかわからん。我々の生きておるということを明らかにしたいという願いが人間の在り方である。思うというのも人間の在り方であるが、存在そのもは如、如来の如。如というものは如というものがあるのでない、ものが如として根源的にある、総てのものが如として如来としてある。如来としてあるという在り方を具体化する。ものというだけでは一般論、個性とか産物とかいうことはない、意欲ということによって始めて存在が個性的なものになる。無の一般者は個性がない。我欲する、欲するということが一つの在り方、欲するということに於てある。
願いというものが宗教の生産的原理、機能、働きである。宗教という世界を生産する機能を願力。願心は無であるがあらゆるものを産み出す力がある。願力は生産的原理である。願生という願は無限に内面の世界を創造する。それを荘厳、荘厳世界、世界を荘厳する。宗教は心の内の世界であって文化でない。貧しい者の、貧者の一灯の豊かさを浄土という。宿業の内面に絶対自由の創造の世界というものがある。大言壮語という所には生きたものはない。ないから大言壮語せんならん。内面の豊かさをもつ所に人間は当たり前の人でよい。凡人、偉い人にならんならん、悪人にならんならんのでなく、只の人で居られるということは内に満々たる豊かさをもっておるからである。心を掘り下げる、それを荘厳浄土。それは人生の原理宗教の原理である。そういうことを曽我教学というものに於て示されている。それ迄も確信をもって言ってきたが未だ言い尽くせん。それを生きている限り明らかにしたいと思うだけである。 (完)
次回からは、『下総たより』第一号 「たのんで助かるとは」 を配信します。
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M・D・ビラン(Maine de Biran) 1766~1824 「デカルトは我思う、故に我あり je pense, donc je suis」と述べた。しかし、ビランによればこれは訂正を必要とする。「思う(=考える)」という働きは知性の働きであり、何ら身体性を含まない。が、「思う」働きそれ自体が意識の事実として自己自身に現象するためには、その働きが「関係」を構成する必要がある。すなわち身体を必要とする。ビランによれば、「我志す、故に我あり je veux, donc je suis」である。意志の力の実行化は「関係」の対項として身体を含意している。意志の力が発露するのも、身体の抵抗に出会うことによってであると説く。