唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 ・善の心所 信について (1)

2013-04-29 20:46:24 | 心の構造について

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 今日から、第三能変にもどります。

 善の心所について述べます。

 「唯だ善の心と倶なるを善の心所と名づく。謂く信と慚との等とき定めて十一有り。」(『論』第六・初右)

 善の心所には何があるのかを述べています。十一ある、と。内容は、

 信・慚・愧(き)・無貪・無瞋・無癡・勤(精進)・安(軽安)・不放逸・行捨・不害

 である。しかし、『頌』では「及」の一字が挿入されていて「述記」には「及の言は二有り、下に至ってまさに知るべし。」と、後に述べるといっています。下の所論は「及というは、十一より義別なる心所ありということを顕す、謂く、欣と厭との等き善の心所ぞ」と説明されていますが、この説明は後に譲ります。

 無貪・無瞋・無癡を三善根といい、それに反して、貪・瞋・癡を三不善根、或は三毒の根本煩悩といわれている。

 無貪・無瞋・無癡の三善根と勤によって行捨・不放逸・不害が分位仮立(分位に仮立されたもの)されることを示している。

 善の心所が立てられるのは、その正反対の心所(煩悩・随煩悩)を対治するためである。

 初は 「信」 についてです。

 「云何なるをか信と為す。実と徳と能との於に深く忍し楽して欲して、心を浄ならしむるを以て性と為す。」(『論』第六・初右)

 「信」とは「実と徳と能とに於いて深く忍し楽し欲して心をして浄ならしむるを以って性と為す。不信を対治し善を楽うを以って業と為す」と言われているように、不純なる私の中にも、不純なものばかりではなく、真実を知る欲求があるということなのです。

  1. 実有を信忍する。-事実として存在している真理(真に存在するもの)を信じ理解する。信忍は仏の慈悲を信じて、安らいだ心。(三忍の一つ。三忍とは真理を悟る三種の智慧のことで、信忍・順忍・無生法忍のこと)『正信偈』には「韋提と等しく三忍を獲、すなはち法性の常楽を証せしむ、といえり」(真聖P207)と述べられてあり、信心に賜る智慧のことです。
  2. 有徳を信楽する。-徳は三宝(仏・法・僧の三宝)のこと。徳あるものを信じ尊ぶということ。楽(ぎょう)は喜び慕うという意。
  3. 有力を信欲する。-信欲は信心への意欲、信じようという願いのこと。有力は自分に善を修める力が有ると信じること。そしてその力を得ようとする意欲のこと。

「信」の内実は智慧だと思うのです。親鸞聖人は智慧の念仏といわれます。「智慧の念仏うることは/法蔵願力のなせるなり/信心の智慧なかりせば/いかでか涅槃をさとらまし」と和讃のなかで教えてくださっています。わたしたちの方向性は大般涅槃なのですね。その大般涅槃に至る道が智慧の念仏といわれ、信心の智慧といわれるもので、法蔵願力より賜わるものであるといわれているのです。「信は願より生ずれば/念仏成仏自然なり/自然はすなはち報土なり/証大涅槃うたがはず」といわれているのです。『愚禿鈔』には「本願を信受するは、前念命終なり。・すなはち正定聚の数に入る。・即の時必定に入る。即得往生は後念即生なり」と述べられ、真実信心の大切さを教えてくださいました。

 私たちの根源的要求は私の根源からの求めてやまないものなのですね。その要求は「~の為に」といった功利的なものではないということでしょう。私のエゴはいつでも自分のために利用しようとします。仏法をも手段とするのです。しかし私はいったいどうなりたいのでしょうか。何を求めているのでしょうか。「仏道を習うとは自己を習うことだ。自己を習うとは自己を忘れることだ」とは道元の仰せであります。自分の欲望の為にすべてを利用しようとしても、欲望は際限なく無崖底の闇にさ迷うだけなのです。「自己を問う」ことがない限り私たちはどんなに頑張ってみても現在に落在することはないのでしょう。そのような,さ迷ういの人生を翻す働きをもったのが「信」なのです。「心をして浄ならしむるは信なり」とは唯識からの提言です。私たちには限りない欲望と共に、また限りない善を求める欲求があるのです。仏道を求めるのも善の欲求です。その入り口が「信」なのです。

 

 


「人間として生まれて」を考える

2013-04-29 00:14:32 | 生きることの意味

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「人間と生まれて」を考える

 人間として生を享け、この荒波の人生を歩んで行くときの根本の問題は、どのように平和で暮らしやすい世界を構築する、ということではなく「自己とは」どのような者であるのかを知ることが一番であると、清沢先生は問いかけられています。いつの世も「どのようにしたら、戦いのない、平和で暮らしやすい世界を構築することが出来るか」を命題として、時の為政者は考えていたはずです。その結果人間の歴史は戦いの繰り返しに帰趨したのでしょう。これは、外界(環境)を変革することに於いて人々の暮らしがよくなるのだという呪文がもろくも崩れ去っていると、いってもよいのでしょう。それは外界(環境)をいくら変革しても、その結果、自縄自縛になってしまうのです。今の世の中いささか暴走しすぎではないかと常々思っているのですが、ここから退一歩することはもう出来ないのでしょうか。その鍵は「自己を問う」ことに於いて何が一番大切なことであるのによって伺えてくるのだと思います。源信僧都は「それ、一切衆生、三悪道をのがれて、人間に生まるる事、大なるよろこびなり。身はいやしくとも畜生におとらんや、家まずしくとも餓鬼にはまさるべし。心におもうことかなわずとも、地獄の苦しみにはくらぶべからず。世のすみうきはいとうたよりなり。人かずならむ身のいやしきは、菩提をながうしるべなり(中略)」というお言葉を遺されています。人間とは菩提を求める存在であると指し示しておられます。菩提を求める存在、これが真の人間像ではないでしょうか。人として生を享けたということは菩提を求める千載一遇のチャンスを得られたということなのですね。その意味で人間のことを「機」ともいわれます。私たちはすべてを物資化して、その価値を量っていますが、それでは本当の価値が見出せないのではないのです。生命を維持するためには「食」することは欠かせないことではありますが、「食」するために生命を維持しているわけではありません。他の生命を「食」しているわけですが「いただく」という言い方をします。大変きれいな言葉なのですが実際は「略奪」奪っているのではないでしょうか。「いただいてください」という命などどこにもないのです。奪って私の命をつないでいる、この私の命を「問う」ことが根本の問題なのではないでしょうか。これが「人間として」生きていくことの大切な問題であると思います。菩提を求める存在、仏教では菩薩といいますが、菩薩が人間としてのあり方を示唆していると思います。「上求菩提、下化衆生」上、菩提を求め、下、衆生を教化することをもって人間の道とする。親鸞は「自信教人信」に生きよと教えられました。また曽我量深先生は「信に死して、願に生きよ」と教えておられます。「願に生きん」これが親鸞の人間としての道、真宗の菩薩道なのでしょう。
私達が日常当たり前としていることに大切な意味があるのではないですか。暑さ、寒さを感じるのは当たり前。朝、目覚めるのは当たり前。朝、トイレにいくのは当たり前としていませんか。実はこれは当たり前の事ではないのですね。大変驚くべき出来事なのです。私の父は先年、94歳で他界しましたが、生前は、腎臓に疾患があり、排尿が自分では出来なかったのです。膀胱から直接、カテーテルを使用して体外に排出していました。また家内は腸閉塞で月に一度は絶食します。これは排出がスムーズに行われないからなのです。私達は排出・排尿は当たり前のように思っていますが、違うのですね。本当は「でてくださってありがとうございます」です。また身体の機能が正常に働かない人も沢山おいでになります。しかし父や家内をみていますと、不自由な身体にもかかわらず、生かされてある命の大切さを身をもって感じているようです。それに引きかえ私は何事も当たり前としていますから、生かされているという感覚より、生きているとしか思っていません。日常、当たり前としている事が、当たり前ではなかったのだ、と知ることが大切であると、父や家内から教えられています。
「人間の尊厳」とよく言われることですが、どこを指して「人間の尊厳」といわれるのでしょうか。いのちあるもの。生きとし生けるものを衆生(sattva)といわれています。人間もその衆生の一つのあり方なのですね。また心の働きや感情を持つ者という意味で有情とも言われます。これは人間も他の動物も衆生であり、有情であるわけです。衆生(有情)といわれる限り、人間も他の動物も平等の命を賜って、人間だけが特別というわけではないのです。金子みすずさんの詩に『お魚』と題する深いまなざしの歌が読まれています。「海の魚はかわいそう。 お米は人につくられる、牛はまき場でかわれてる、こいもお池でふをもらう。 けれども海のお魚は なんにも世話にならないしいたずら一つしないのにこうしてわたしに食べられる。 ほんとに魚はかわいそう」、また『大漁』では「朝やけ小やけだ 大漁だ 大ばいわしの大漁だ。 はまは祭りの ようだけど 海のなかでは 何万の いわしのとむらい するだろう」、金子みすずさんの感性の鋭さには驚かされます。私たちは、みすずさんの眼差しを真摯に受け止め、人間の傲慢さを恥じるべきではないでしょうか。そうしてもう一つ、他の命をいただいているその命の尊さを身に受け、命のあり方を問わなければなりません。「命のあり方」を問うこと、それが菩提心なのではなでしょうか。親鸞は浄土の菩提心について「浄土の大菩提心は/願作仏心をすすめしむ/すなわち願作仏心を/度衆生心となづけたり」「度衆生心ということは/弥陀智願の回向なり/回向の信楽うるひとは/大般涅槃をさとるなり」(『正像末和讃』・真聖P502)と菩提心と自信教人信のありかたを示唆しています。
 菩薩としての在り方は『華厳経』入法界品・善財童子の求道が思い出されます。五十三人の善知識を訪ね解脱する物語なのですが、一人一人訪ね歩いて行く中で、「人生とは何であるのか」を見極めていくのですね。この物語は東海道五十三次のモデルになっていることはあまりにも有名です。またこれは菩薩の階位を表すものでもあります。初発心の菩薩から仏に至るまでの五十三の階位ですね。それに『法華経』常不軽菩薩品に表されている常不軽菩薩の物語です。そこには「我れは深く汝等を敬い、敢えて軽慢せず。所以は如何、汝等は皆、菩薩の道を行じて当に作仏することを得べし」(すべての人々を敬い、軽んじあなどることをしないのです。)と菩薩の在り方を示しています。『大無量寿経』に説かれる法蔵菩薩も「一切の衆生を救わなければ我は覚りをひらかない」と菩薩の在り方を差し示しています。菩薩とは「衆生とどこまでも、深広無崖底の奈落のはてまで共に歩み、目覚めよと呼びかける」菩薩とは私に手を合わせながら、私の目覚めを待つ存在なのですね。そんな事を忘れて「これは私のもの」と自我に固執し、命の私有化を絶えず図っているのが私の姿なのでした。人間関係もお互いのエリヤを犯さない限りにおいて協調はしていますが、そのエリヤにひずみが見られますとすぐさま敵対するような危うい関係なのです。命の私有化を図りますと「然るに世人、薄俗にして共に不急の事を争う。・・・安き時あることなし。田あれば田を憂う。宅あれば宅を憂う。」(『大無量寿経』真聖P58)ということになり、その結果「人、世間の愛欲の中にありて、独り生じ独り死し独り去り独り来たりて、行に当り苦楽の地に至り趣く。」(同、P60)と孤独の淵に沈むことになるのでしょう。菩薩はその自我執心を鋭く見つめながら歩む存在といえるのではないでしょうか。
菩薩とは、絶対矛盾の自己同一という、西田哲学の命題ですが、その絶対矛盾の自己同一を生きる存在だと思うんです。自利と利他は矛盾概念ですが、絶対自利は絶対利他だと思います。末那識は分別ですし阿頼耶識は無分別ですから、これも矛盾概念です。末那識は、私たちは教えられていますから、知識として理解していますが実際はわからないです。水面下で漂う水のようなもので、聞法をして教えに触れたとき初めて迷いの心が見えてくるわけです。その迷いの心が阿頼耶識になるわけですから、私たちは阿頼耶識を通してしか末那識を知ることは出来ないのでしょう。「我執や」といってることの底に「我執」が潜んでいるのですから。これは龍樹の八不中道、否定の論理と同じことです。阿頼耶識は善・悪の判断はしないのですから、いうなれば白紙の意識ですね。こちらの色づけに染まるのです。位からいうと我愛執蔵現行位で、対象(所縁)となるのが種子・身・環境です。阿頼耶識は自我によって執着しているということも分別しないということでしょう。純粋だからこそ目覚めるということも可能になってくるのと違いますか。末那識と阿頼耶識は位が違うのでしょう。それと法蔵菩薩ですが、迷っている者・迷わせている者がいなかったら法蔵菩薩出現の意味がないないのですね。如来と私・法蔵菩薩と私、これは矛盾概念ですね。法に出遇うことを通して「如来は我なり」という法の深信が生まれ「されど我は如来にあらず」という機深信も生まれてくるのでしょう。親鸞聖人の和讃も機の深信と法の深信がおりなすハーモニーで自己が語られています。機と法、これも矛盾概念です。違うのは「位」が違うのです。接点は如来回向です。「至心に回向したまえり」によって、自己に於いて同一できるのですね。法を証明できるのは自己に目覚める一点によります。間違えますと自分が如来になったり、如来が迷ったりしますからね。「私は何を聞き、何を学ぶのか」を真剣に問い正さなければなりません。知識は必要ありません。僕は知識によってずいぶん迷いました。はじめは覚えよう覚えようと思って自分が見えませんでした。見ているつもりだったんですが、理性に走ってしまって、知ったかぶりの仏法だったのです。「自性唯心や」「知ったかぶりの仏法や」とよくいわれました。。今も自性唯心に陥っていますが、如来の分限・衆生の分限ははっきりしておかなければ成らないと思います。「親鸞に学ぶ」ことを通して唯識を学んでください。阿頼耶識と法蔵菩薩、これも矛盾概念です。唯識からみますと、法蔵菩薩が阿頼耶識とは絶対にいえません。教学から言いますと横暴でしょう。阿頼耶識は法を貯蔵するところから法蔵だいってもイコール、法蔵菩薩とはいえないのです。阿頼耶識は心の王様(心王)といわれています。この識が転識して私の意識が成り立っているわけです。だから私が迷っているということは阿頼耶識が迷っていることになります。「不断煩悩得涅槃」はどこで成り立つのか、聞法重ね、回心を通して阿頼耶識が大円鏡智という智慧に転じるのです。無始以来私たちは迷いを繰り返してきたのですが、「人身受けがたし、今すでに受く」、千載一遇の縁をいただいて「自己とは」と問わずにはおられない心の底からの疼き、これが法蔵菩薩出現の意味なのではないかと私は感じています。阿頼耶識は唯単に迷っているのではないということです。
「阿頼耶識は唯単に迷っているのではないということです。」と述べましたが、阿頼耶識が迷うということはないのです。では何故そのような表現をとらざるを得なかったのかと云うと、私の苦悩と共に歩む存在としての純粋性が、無始以来働いているということなのです。孤独や苦悩は、止むに止まれない現行性が転依すべき存在として人間の本質を言い当てているように思います。「然るに世人、薄俗にして共に不急の事を争う」ことをもって、平等の大地を示唆しているのでしょう。
 孤独という闇は人間としてのあり方ではありません。人は人との関わりの中で生きあって、はじめて人といえるのです。『涅槃経』にアジャセ王の回心について(回心皆往)語られています。父親殺しのアジャセ王がどのようにして救われていくのかという物語です。父親殺しという事実は覆すことは出来ません。これは五逆罪といって人間が犯しては成らない重罪なのです。(1)母を殺すこと(2)父を殺すこと(3)阿羅漢を殺すこと(4)僧の和合を破ること(5)仏身を傷つけることを指します。親鸞は難治の機としておさえられています。(真聖P251)難治の機の代表者としてアジャセ王がとりあげられ「その性弊悪にしてよく殺戮を行ず。・・・その心熾盛なり。乃至・・・父を害するに因って、己が心に悔熱を生ず。」と、このアジャセ王が「我今病重し。正法の王において悪逆害を興ず。」と慙愧しているのですね。「王、罪を作すといえども、心に重悔を生じて慙愧を懐けり。・・・二つの白法あり、よく衆生を救く。一つには慙、二つには愧なり。「慙」は自ら罪を作らず、「愧」は他を教えて作さしめず。・・・「慙」は人に羞ず、「愧」は天に羞ず。これを「慙愧」と名づく。「無慙愧」は名づけて「人」とせず。名づけて「畜生」とす。慙愧あるがゆえに、すなわちよく父母・師長を恭敬す。・・・善いかな大王、具に慙愧あり、と。」慙愧あるを以って「人」であることを教えています。このアジャセは歴史上の一人物ということでなしに一切凡夫を代表しているのですね。煩悩等を具足する者として。これは誰のことでもなく私のことなのでした。如来は、この私のために「涅槃に入らず」と。私のために共に迷ってくださる存在なのでしょう。法蔵菩薩とはそういう存在なのではないでしょうか。私からは救われる縁も種もないところに「信」が生まれるということは「無根の信」であると親鸞は抑えておいでになります。その手がかりが「慙愧心」なのです。そこに無根の信が花を咲かすのでしょう。「信」を依り処として、私の生涯が無碍の一道として尽くされていくのではないでしょうか。
「私一人がなぜこんなに苦しめられなければならないのか」という呟きの根源が、実は自分の中の自我愛が満たされていないところから発信していることだとは思いもよりませんでした。自他を分け、公私を分断して自分を優位に立てようとする意識から自縄自縛していたのです。縛る者なくして縛っていたのです。人間とは、いつも言われますように、一人では生きていくことができない存在です。人間だけに限らず命あるものは他に依っかかって、自らの生命を維持しています。簡単なことなのですが、自他を分けることに於いて自らの生命も分断しているのではないでしょうか。自分を本当にかわいがり、いとおしいと思うのあれば、他をかわいがり、いとおしく思わなければ成りません。人間にはそれができるのです。その根拠が純粋意識と呼ばれる阿頼耶識の存在です。阿頼耶識は自他の分別をしません。すべてを平等に受け入れるのです。「自分だけがよくなればいい」と、思いますと、思ったことが種子として、阿頼耶識に薫習するのです。また私たちは、生殺与奪の論理によって他の命を蝕んで自分の命を維持させているのです。本能の為せる業といってしまえばそれだけのことですが、「あなたの命を無駄にはしません」という思いやりがあれば、その思いが、阿頼耶識に薫習して来るのです。そして他者への思いやりがやがて、「生かされてある命の尊さ」というかたちで意識の上に現れてきます。私たちは目覚めているときは意識が働いています。その意識は深層の意識によって決定付けられていることを十二分に知る必要があると思います。「命はなぜ尊いのか」・「人は人を裁くことができるのか」・「人は人の命を奪ってもよいのか」という議論は尽くされなければ成らないと思いますが、それに先立って「自他分別の識がある限り、人は他を抹殺することをなんとも思わないものである」ことを知るべきなのではないでしょうか。ですから自我意識が転じて平等の大地に立てる世界があるということも語りつくさなければならないのでしょう。
「これは私のもの」(我所執)という命の私有化は、他との関係を断ちますから迷いの深淵へと落ち込んでいきます。孤独という闇に閉じ込めます。「生死いずべき道」「生死をはなれむとおもわば」という背後には熾烈な慙愧心があったと思われます。その慙愧心が「速やかに生死を離れる」という問いを生み出してきたのでしょう。慙愧あることを以て人間を回復するのです。そして人間として歩みを踏み出すのです。そこが聞法の課題になるのでしょう。しかし、親鸞は自己の深淵を「慙愧あることなし」と見極めていたのです。「無慚無愧のこの身にて/まことのこころはなけれども/弥陀の回向の御名なれば/功徳は十方にみちたまう」「小慈小悲もなき身にて/有情利益はおもうまじ/如来の願船いまさずは/苦海をいかでかわたるべき」(真聖P509)、この悲嘆は弥陀に遇いえた喜びに裏打ちされてのものだったのです。弥陀に絶対の信頼をおき自身に一点の価値をおかない絶対他力の大道なのでした。曽我先生は「私共には真実(まこと)の心などあろう道理はないが、弥陀回向の南無阿弥陀仏を頂いておるならば、その人の功徳は十方にみつる。十方に功徳がみちみつると云うことは、自分にはわからぬ。自分はどこまでも煩悩具足の凡夫に違いないけれども、念仏の行者には南無阿弥陀仏のお徳が十方にみちみつと云われているのである。」(『如来と衆生とのい感応』P40)と教えてくださっています。私は親鸞聖人が比叡山での堂僧としての修行の中でどうしても超えられない質を持った聖道のありかたに疑問を抱きつつ、比叡山との決別を決意されたのだろうと思っています。もう後戻りは出来ない中で、恵信尼消息によりますと「山を出でて、六角堂に百日こもらせ給いて候いければ、やがてそのあか月、出でさせ給いて、・・・後世の助からんずる縁にあいまいらせんと、たずねまいらせて、法然上人にあいまいらせて、・・・後世の事は、善き人にも悪しきにも、同じように、生死出ずべきみちをば、ただ一筋に仰せられ候いしをうけ給わりさだめて候いしかば、上人のわたらせ給わんところには、人はいかにも申せ、たとい悪道にわたらせ給うべしと申すとも、世々生々にも迷いければこそありけめ、とまで思いまいらする身なればと、ようように人の申し候いし時も仰せ候いしなり。・・・」(真聖P616)と親鸞聖人の「生死出づる道」の具体相が述べられています。法然上人との邂逅が親鸞にとっては驚天動地の出来事であったのでしょう。それは「横超」(『愚禿鈔』真聖P424)という言葉に如実に物語られていると思います。法然上人との邂逅が「断煩悩得涅槃」の道が「不断煩悩得涅槃」の道へと転じたのです。聖人の書簡」は如来に遇い得た喜びに裏打ちされた自身深信のハーモニーが見事につづられています。私はここに人間としてのあるべき姿、生き様が語りつくされています、少なくとも私にはそのように教えられています。
法然上人との邂逅はその著『教行信証』のいわゆる後序といわれるところに感慨をこめて「しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。」(真聖P399)と記されています。ここに親鸞の主体的な生き様が「本願に帰す」というかたちで生涯を貫いていくのです。「本願に帰す」という具体相は「念仏を申す」ということに他なりません。「念仏成仏これ真宗」の道、この道が大乗仏教で言う菩提心でありましょう。念仏成仏を真宗というのでしょうね。現に在る東西本願寺の伽藍をもって真宗というのではないのでしょう。いろんな宗派があってその中の一派というような真宗ではないのです。現今の殺伐とした世相の只中で真に救済される教えを浄土真宗というのではないでしょうか。「信に知りね、聖道の諸教は、在世正法のためにして、」まったく像末・法滅の時機にあらず。すでに時を失し機にそむけるなり。浄土真宗は、在世。正法・像末・法滅、濁悪の群萌、斉しく悲引したまうをや。」(真聖P357)人類の歴史を一貫して「人間の生きる道」を指し示している教えを浄土真宗というのでしょう。その中身は一点の我執をも許さない厳しさがあります。現今、「絆」の論理が席捲していますが、「絆」の論理の原点は自我愛に一点の妥協をも許すことのない厳しさが必要とされるのではないでしょうかね。親鸞聖人は、浄土真宗の大乗精神は自信教人信(みずからも信じ、人にも教えて信じさせること)というかたちで表現されています。
自信教人信という言葉は善導の『往生礼讃』「初夜讃」にみえます。親鸞聖人は『教行信証』「信巻・末」に引用(真聖P247)されています。「仏世ははなはだ値い難し、人信慧あること難し。たまたま希有の法を聞くこと、これまた最も難しとす。自ら信じ人を教えて信ぜしむ、難きが中に転た更難し。大悲、引く普く化する、真に仏恩を報ずるに成る、と」。インド、中国、朝鮮半島を経て伝わってきた(北伝)仏教は教信行証(教行証)というあり方です。生死解脱の道としてまず釈尊の教えを信ずる。そして証を得るために行ずるのです。初期仏教では八正道・苦集滅道諦として教えられ、大乗仏教では五念門・止観行(断惑証理)、いずれも煩悩を断じて涅槃の真理を悟ることを目的として、証を得るために行ずるわけです。これは非常に人間の心に訴えやすいですね。出来る出来ないは別として理解できるわけです。親鸞は教信行証という従来の仏教の修行の在り方に疑問を呈したのです。「常没の凡愚・流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、」と。悟りを開くことはそんなに難しいことではないのです、もっというならば、すでに悟りは開かれてあるのです。と従来の仏教の在り方を完全否定されたのです。「教行信証」として、何が難しいのかというと「真実の信楽実に獲ること難し」といわれています。信心を獲ることが難いのだといわれているのです。普通の感覚からですと行ずることは難しいけれども信ずることは、そんなに難しいとはおもいません。ここに私は人間として「自分を信ずる」ことがいかに難しいのかが示唆されているように思います。私たちは自分を信ずることができないためにアクセサリーを付けたがるのです。仏教も一つの教養としてのアクセサリーになっているのです。アクセサリーで身を覆うことが自分だと錯覚しているのです。親鸞は『教行信証』「行巻」において「謹んで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。」と述べています。はじめに大行あり、名としてわれわれに与えられているということですが、信もまた大信として回向されたものであると言っているのですね。「至心に回向せしめたまえり」と、大行も大信も共に如来回向であると明らかにされたのです。ここに自信教人信の真が尽くせるのでしょうね。
斉藤里恵さん。耳が不自由な中で、銀座のホステスをされています。有る時、あるお客さんから、耳が不自由で大変だね、困難だねといわれ、斉藤さんは「困難でない人生は無難な人生、困難のある人生はありがたい人生」と答えられたということです。私は驚きましたね。私の人生、ありがたい人生といえるのか。私の答えは不満だらけの人生としかいえないのではないのか、そんな気がするのです。それを自分の身と向き合って、その身をいただいて「ありがたい人生」と素直に言える斉藤さん。このお姿がお客さんに癒しを与えるのでしょうね。すばらしいことだと思います。ある意味、自信教人信の姿かもしれません。曽我量深師は、『歎異抄』の一番終わりに「煩悩具足の凡夫・家宅無常の世界は、よろづのこと皆もてそらごとたわごと真実あること無きに」(機の深信)「ただ念仏のみぞまことにておわします」(法の深信)と、動かすことの出来ない機法二種深信がある。だから私どもは、ちゃんと自信教人信を教えられている。念仏によって我らに深い自信力を与える。その自信力が自ずから人を教える。別に教えることを務めなくとも、その人の一挙一動が人を教える力をもつ。これを自信力と云う。「自信教人信」の「自信」とは、自信力をもつと云うことでしょう。それは自分を信ずると云うこと、自分について一点の疑いも、ごまかしもない、自分自身は助かるまじき自分である。いずれの行も及び難き悪人である、と云うことがはっきりし、一点のごまかしがなく、一切は仏に助けられてゆくと信じている人が本当の自信力をもった人である。」(『如来と衆生の感応』P40)と教えてくださっています。また「普通一般の自信力と云うのは、自分をごまかしたりしている自信力である。」とも教えてくださっています。自力の自信力は誤魔化しの偽りの自信力であるというのです。私たちは自分に自信がありませんから、先ずは財力、そして名誉でしょうか、世間的に立派だといわれるようなものをアクセサリーとして虚勢をはって生きている者なのでしょう。そんなものは溝に棄ててしまえばいいのです。そして本当に大切な過去・現在・未来を一貫して流れる阿弥陀の本願に目覚めていく「今」を明らかにしていかなければならない。これが一番やらなければならない仕事ではないの、そう教えられました。
人間として真宗に遇いえたということが、どれだけ希有なことなのか「人身受けがたし、今すでに受く、仏法聞きがたし、今すでに聞く」と、三帰依文に教えられていますが、私たちは真宗に遇うことによって大切な命の尊さを知ることが出来るのではないでしょうか。私たちはいろんな経験を繰り返しながら自分の人生を築いていきますが、その対処は知らず知らず自己中心にならざるを得ません。その結果、自他の分別が起こってくるのです。82歳になる叔母がいるのですが、定年まで銀行に勤め、今は悠々自適に暮らしているように私には見えるのですが、訪ねていろいろ話をして見ますと、そうでもなさそうなんです。愚痴が湯水のごとく溢れてくるのです。一生懸命働いてきて「満たされないのはどうして」僕は何時も聞き役に徹しているのですが、居場所というのか、帰る場所がないということが愚痴となって出てくるのではないかと知らされてきます。叔母には「老後はこのようにして暮らしていく」という夢があったと思うのですが、なぜか「何かが違う」と感じておられるのでしょう。先日も書いたのですが自分の身につけた「アクセサリー」が邪魔をするのでしょうね。アクセサリーにしがみついている自分に翻弄されているのでしょう。しかし「何かが違う」と感じるところに人間がもともと持っている「本当のことに出会いたい」という本能が働いているのだと思います。そのために生まれてきて、「本当のこと」を伝えるために「今」という時間が与えられているのではないかと思うのです。私たちは私の居場所を必死になって探し求めているのでしょう。その居場所は「これだ」と思っていたことが、いつの間にか、ずれて しまっていたということになるのではないでしょうか。そこに「教法に遇う」ということが本当に大切な大切なことになるのだと思うのです。仏教では私たちの帰る場所を浄土と表現しているのです。浄らかな国土、存在の有無ではないのです。経典には浄土は「三界を超えて」と教えられています。三界の向こうとは書いていないのです。超えるということは背中合わせということになるのだろうと思うのです。一番近くて一番遠い存在、それが浄土として、私たちの居場所として語られているのでしょう。
 「一度だけの人生だから今を大切に生きましょう」。「今やらなければいつやるんだ」という言葉をよく聞きます。それでわかったつもりでいるのですが、一度その中身を吟味してみる必要があると思います。「一期一会」という言葉もありますね。これは『山上宗二記』(千利休の弟子の宗二の著・茶湯者覚悟十体にみえる、一期に一度の会から)や『茶湯一会集』(「抑茶湯の交会は、一期一会といひて」)に語られているのですが「生涯にただ一度限りの交わり」という意味ですね。茶会に於ける一生に一度の交わりを大切にしましょうという意味の言葉が、好きな言葉の代表として使われているように思います。茶会といいますと主客の交わりが中心となり道具類の調和などトータルで織り成す侘びの芸術なのですが、ここでの一番大切なことは主も客も茶道具も主なんですね。それぞれが主となり主を取り巻く環境を最大限に引き立たせていくのです。ここに見事な調和の芸術が生まれてくるのですね。これが「一期一会」の本来の意味だと思います。このように見ていきますと「今」というのは「Eternal now」(永遠の今)を生きるということにつながると思います。進行形で「今」を考えますと過去になりますでしょう。点と点を結ぶ瞬間ですから。そうしますと点と点を連続して結んでいこうとしますと大変な修練が必要とされるわけです。いうなれば天台の「回峰行」(比叡山において、一日に山中を一周し、千日で終わる修行。平安中期より始まったといわれています。)や「篭山」(山に篭って一定期間下山しないで、大乗仏教を読み習う修行をすること)のような不眠不休の修練が要求されるわけです。それでも「今」を生きることに近づくことは出来るかもしれませんが「永遠の今」を生ききることはほとんど不可能なことだと思うのです。大乗仏教では「永遠の今」を「住不退」(不退に住すー再び迷いの世界に退転することのない境遇)と言い表していると思いますが、この不退の位を得るために菩薩は煩悩の火を掃うが如く修行に励むのです。「今」という言葉の中身は非常に厳しく、そして明日につながる・断絶しないことをもって「今」と言い表しているのです。龍樹菩薩は『易行品』に於いて「もし人疾く不退転地に至らんと欲わば、恭敬心をもって執持して名号を称すべし」と示唆し親鸞聖人はこれをうけ「不退のくらいすみやかに/えんとおもわんひとはみな/恭敬の心に執持して/弥陀の名号称すべし」と龍樹菩薩を讃えられています。
私の人生を振り返ってみますとね、「自分の思い通りにしたい、そして思い通りやってきて、思う通りにならなかった」というのが実感なんです。自分の思い通りにしようとするところに無理があるのですね。若いときには自分の人生観を描いていますでしょう。僕も夢を描いていましたが見事に自分の思いに自分を裏切ってしまいました。それどころか自分の周囲の人たちにも随分と辛い目にあわせてしまったものです。それにもかかわらず今でも夢を描いています。夢の方向性が昔日とは違っているのですが。だから夢のために邁進し努力する姿は大変美しいものなんです。夢を棄ててしまったら生きた屍になってしまいます。私の夢が破綻したのはなぜかといいますと、一番考えられるのは家族を含め自分の周囲の人を説得する努力と勇気がなかったからです。一歩を踏み出すには勇気が必要です。勇気が人を惹きつけ、自分のやりたいことを実現するための理解を得られるのではないですか。それを怠ってしまったら自分の殻に閉じこもっただけの夢に終わってしまうと思うんです。明日からでは遅いのですね。私なんかは「今日はもうええわ。明日からにしとこ」といつでも、明日明日と引き伸ばしていますが、これが自分勝手な思いなんでしょうね。せっかくの「今」というチャンスを逃しているのです。チャンスは与えられているのです。それに気づいたとき「今」が生き生きと輝くのでしょう。世間でいいますとね、いろんな職業に携わっておられる人がいますね。経営者であったり、従業員であったりして。また男性や女性という区別もありすね。また民族の違いもあるでしょう。いろんなカテゴリーのなかに人がいて社会は成り立っているのですが、大切なことはそのカテゴリーの中で自分を明らかにすることだと思うのです。経営者は経営者を縁として自分を明らかにする。従業員は従業員を縁として自分を明らかにする。男性は男性を縁として自分を明らかにし、女性は女性を縁として自分を明らかにするということではないかと思うのです。そこには一切の差別はありません。一如平等に与えられた人間としての出世の本懐なのです。「今」はすべての人に与えられた「人間として人間に成る」チャンスです。「今」をいただけるか、いただけないかの問題だと思います。縁を切ってしまって自己本位になることを罪福を願う人として親鸞聖人は厳しく叱咤されています。
人それぞれの立場を縁として「本当の自分に出遇う」ことが人として生を享けた私の存在理由なのではないでしょうか。仏教三千年の歴史も「ただこの事ひとつ」を明らかにしてきたのだと思います。ただ仏教もその伝来の過程で、本来の意味を時の為政者の思惑によって歪められてしまったという経緯があります。ようするに国体護持のために・五穀豊穣のために・疫病退散のために仏教を利用したのです。本来、仏教は「除苦悩法」なんですね。「生・老・病・死」の四苦と「愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦」の四苦をあわせて四苦八苦といいますが、この四苦八苦を引き起こしてくる根本の我執からの解放を求道者が求めてきたのです。仏陀釈尊は苦悩の根本要因は「のどが渇いて、常に渇ききって水を欲しがるような激しい自分にたいする執着(我執)である」と見抜いたのです。渇ききった愛ということで「渇愛」とも言われました。それがいつの間にか伝来の過程で本来の意味を失ってしまいました。仏教本来の意味を回復されたのが法然上人なのですね。南都北嶺の仏教の聖地にprotest・異議申し立てをしたのですね。「あなたたちの行っている仏教は間違っている」と正面きって抗議したのです。それが専修念仏の標榜なのです。念仏一つですべての人が救われるのだという当時としては非常にラジカルかつダイナミックな教えを宣言されたのです。それが「選択本願念仏集」として今に伝えられています。
善行という行為、善は私たちにとって大切な行為なのですが、本来は、涅槃に向かう道なんです。涅槃はニルバーナといい煩悩が滅した状態を指します。煩悩は私たちを悩ませ苦しめますから、涅槃は私たちが本来求めている世界なのだと思います。その世界を彼岸ともいいます。しかし、煩悩と彼岸は別のものでなないのです。煩悩を縁として彼岸を願う道が開かれてくるのですね。そして彼岸を拠り所にした生活が一番望ましい在り方なのでしょう。ではどのようにしたら彼岸を拠り所に出来るのでしょうか。それが『善』なのです。善は浄らかな心です。善の心に付随する法(心所有法)の一番最初に「信」が挙げられています。『正信偈』に「生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもって所止とす。速やかに寂静無為の楽に入ることは、必ず信心をもって能入とす、といえり」(源空章・真聖P207)と述べておいでになります。「信」の定義は龍樹菩薩の『大智度論』に「仏法の大海は信をもって能入と為し、智を態度と為す」と記されています。信は智と密接不可分の関係で捉えられています。親鸞聖人ははっきりと生死輪転の家は、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界と押さえておいでになります。これは仏法に疑いを持っていることから引き起こされる世界であるということです。そして涅槃を寂静無為の楽と、心澄浄の世界であると云われています。『歎異抄』に「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに(機の深信)、ただ念仏のみぞまことにておわします(法の深信)」と真実信心のみが「生死いづべき道」として指し示しておられます。唯識では第七末那識が我執(自我意識)として第八阿頼耶識に執着すると言われているのですが、その末那識に出世の末那といわれる働きがあるといわれています。無染汚の末那・已転依の末那ともいわれます。「審らかに無我の相を思量す」と、末那識は自分だけのことを思量するといわれているなかで、それだけではない無我という真理を認めているのです。これによって末那識が転依することが可能となるのです。そして「信」は「心をして浄ならしむを以って性と為し、不信を対治して善を楽ふを以って業と為す」といわれ、信によって心が浄くなることをいわれているのです。こころが浄くなるということは無我・無漏の智慧ですから自分のことがはっきりと見えるのです。「自己とは何ぞや」に答えてあるのですね。自覚・自らに覚めることを以って信を語らなければ、何を信ずるのかがはっきりしなくなります。信は不信というエゴイズムを払拭するものなのです。
古代インド、唯識の行者は瞑想の中から人間の奥深くに横たわっている意識を発見したのでした。私たちが悩んだり、苦しんだり、争いを引き起こす原因は自分の中にあると見いだしのです。それが自我意識の発見です。限りなく自分に執着する意識です。また唯識の行者は自我意識を超える方法も見いだしたのです。理論ではなく瞑想の中から「善」も行い得る意識をも見いだしたのです。それが「出世の末那」といわれるものです。私は、大胆に「仏性」と位置付けしたいのです。そして清沢満之師がいわれる宗教的要求、「人身の至奥より出る至誠の要求」が「善」に向かわすのではないかと思うのです。全ての人が持っている本能です。これを「一切の衆生は悉く仏性あり」といわれる所以ではないかと思います。私たちは今は眠った状態かもしれないが、必ず目覚めを待つ存在である、といえます。親鸞聖人は仏性について「信心仏性」といわれます。「信心よろこぶそのひとを/如来とひとしとときたまう/大信心は仏性なり/仏性すなわち如来なり」(浄土和讃)「信」が心澄浄といわれるこのは、そこにはエゴイズムがはいる余地がないからです。『成唯識論』には「信」とは「実と徳と能とに於いて深く忍し楽し欲して心をして浄ならしむるを以って性と為す。不信を対治し善を楽うを以って業と為す」と言われているのです。私の中には不純なものばかりではなく、真実を知る欲求があるということなのです。(追)「実・徳・能」についてー実有を信忍する。有徳を信楽する。有力を信欲するということ。
1.実有を信忍する。-事実として存在している真理(真に存在するもの)を信じ理解する。信忍は仏の慈悲を信じて、安らいだ心。(三忍の一つ。三忍とは真理を悟る三種の智慧のことで、信忍・順忍・無生法忍のこと)『正信偈』には「韋提と等しく三忍を獲、すなはち法性の常楽を証せしむ、といえり」(真聖P207)と述べられてあり、信心に賜る智慧のことです。
2.有徳を信楽する。-徳は三宝(仏・法・僧の三宝)のこと。徳あるものを信じ尊ぶということ。楽(ぎょう)は喜び慕うという意。
3.有力を信欲する。-信欲は信心への意欲、信じようという願いのこと。有力は自分に善を修める力が有ると信じること。そしてその力を得ようとする意欲のこと。
「信」の内実は智慧だと思うのです。親鸞聖人は智慧の念仏といわれます。「智慧の念仏うることは/法蔵願力のなせるなり/信心の智慧なかりせば/いかでか涅槃をさとらまし」と和讃のなかで教えてくださっています。わたしたちの方向性は大般涅槃なのですね。その大般涅槃に至る道が智慧の念仏といわれ、信心の智慧といわれるもので、法蔵願力より賜わるものであるといわれているのです。「信は願より生ずれば/念仏成仏自然なり/自然はすなはち報土なり/証大涅槃うたがはず」といわれているのです。『愚禿鈔』には「本願を信受するは、前念命終なり。・すなはち正定聚の数に入る。・即の時必定に入る。即得往生は後念即生なり」と述べられ、真実信心の大切さを教えられています。 「仏教の大海には信を以て能入と為す」。「信」は生きて働いているものであり、信があってはじめて一歩一歩、私たちの生活の歩みが始まるのです。善の心所でいわれる「信」は仏教に入る入口といえましょうか。親鸞聖人の他力回向の信心と言いましてもその入り口は、親鸞聖人が歩まれた仏道、浄土真宗を信ずることから始まります。信ずることなく信心の獲得はありえません。信心獲得の徴が「すでにあたえられてあった」という恩徳なのです。話は元に戻りますが、仏教でいう「信」は「チッタ・プラサーダ」といいます。チッタは「心」・プラサーダは「澄む」という意味を持っています。仏教を信ずるということで、心が澄むといわれているのです。心の浄らかさですね。信ずるということは信心という意味なのです。仏を信じ・仏教を信じ・仏法を信じる、ということです。なぜ信じるのかということは「この現前の境遇に落在する」ことができるからである。そして深信自身・深く自身を信ずることができるということなのです。そうとしたならどうなるのかといいますと「豊かな人生をいただく」ということになり、空しくすぐることのない日々が約束されるということなのです。仏教では「現生正定聚」・「現生不退」といいます。
 私たち日常の「信」はどのようなものなのでしょうか。「信頼」とか「信用」という意味で使用しています。英語で言う「Belief」ですね。この言葉は人間関係において使われます。「私は~を信用する」とか「私は~を信頼している」という時に使います。この「信」は、私は日常の信の二重構造と言っています。いつでも「私は裏切られた」「信頼していたのは間違いだった」という裏構造が隠されているからです。いつでも「私が」という主語がつくのです。いわゆる自己中心の物の考え方です。簡単にいえば日常で使う「信」はBeliefです。人間関係に於いて使っています。信仰とか信心という宗教に関しての「信」とは違うのです。これははっきりしておかなくてはならないと思います。
 宗教に関して「信」と表現するときは、英語ではFaithという言葉を使います。「信仰」という意味です。キリスト教に於いて使われます。「神を仰ぎ信ずる」ということです。信楽峻磨先生は「信じるという信仰の中身は、自己の知性によって抵抗するのを疑う。神を信じる、仰ぐというのは、自分の知性を放棄する、捨てる。そうしなければ、理屈を越えて神を信じない限り、神は納得できないのです。これが信仰の中身です。」と教えてくださいました。(2007.5.13    信道講座より)信仰というのは人間の生きざまに関して言えることなのです。


唯識入門」第六回目講義概要 (5) 分別起の我執について

2013-04-27 00:04:34 | 唯識入門

 分別起の我執について述べられます。<o:p></o:p>

 

 倶生起に対して今度は分別起の我執についてです。<o:p></o:p>

 

 「分別の我執は亦現在の外縁の力にも由るが故に、身と倶にしも非ず。要ず邪教と及び邪との分別を待って然して後に方に起こるが故に分別と名づく」<o:p></o:p>

 

分別の我執は、「亦」といわれていますように、虚妄熏習の内因力と、現在の外縁の力にも由るのである、と。内因力の種子と邪教等の外縁との二縁に由って生起するということなのです。『述記』には「内縁には必ず籍る。兼ねては外縁にも籍る。故に外縁に於て亦の字を説く」と説明されています。<o:p></o:p>

 

 内因とは、阿頼耶識の中の種子を内的な原因で内縁といい、それより他の外的な原因を外縁といいます。そして「内的な因(自の種子)と(現在の)外縁とより生じるが故に縁生と名づく」、因を縁起、果を縁生と分けられて説かれていますが、生まれるということは、自の業種子と父母を縁として生まれてきたということなのです。生まれながらにして外縁を待ってということが分別が起こるということは必然なのです。<o:p></o:p>

 

倶生起の我執は、「身と倶」といわれていましたが、分別起の我執は「身と倶にしも非ず」といわれて、倶生に異なることを顕しています。<o:p></o:p>

 

「要ず」以下は分別の義を顕しています。「分別」は、邪教の分別と邪思惟の分別という後天的な分別を待って起こる、これが分別起の我執である、と。<o:p></o:p>

 

邪教とは、仏教以外の諸思想の説なのですが、どうでしょうか、仏教以外ですから、西洋の諸思想や古代ギリシャの思想も含まれますし、古代インドのバラモンの思想も当然含まれています。それて邪分別ですから、自我意識に色づけされた自分の考えですね、これを邪分別といわれています。大まかに言えば、無我ではなく、有我を立てた思想全般ということになります。これは次に、「唯だ第六意識の中のみに有ること在り」と説かれています。<o:p></o:p>

 分別起の我執は、唯だ第六意識のみに存する有間断にして麤猛のものである、ということです。これは執の所在を明らかにしています。「間断なり、麤猛なり、故に此の執有り」と。(『述記』第一末・十五右)<o:p></o:p>

 

 そして第六意識以外の諸識は、浅であり、浅は前五識・第八識を指し、細(第七識)なり、及び相続(第八識)するから、横計(おうけ)という、間違って考えるという邪分別を起こすことは無い。邪分別は必ず間断し麤猛である。第八識は浅にして間ではない、前五識は間では有るが浅である。第七識は倶に無い、従って分別起この我執は第六意識のみに在る我執である。<o:p></o:p>

 分別起の二種の我執について「此に亦二種あり。 一には邪教に説く所の蘊の相を縁じて、自心の相を起こし、分別し計度して、執して、実我と為す。 二には邪教に説く所の我の相を縁じて、自心の相を起こし、分別し計度して、執して実我と為す」<o:p></o:p>

 と二種の分別起の我執が述べられています。<o:p></o:p>

 一は、即蘊の我、これは前回述べました。五蘊そのものが我であると分別し、計度して実の我であると執着しているのです。<o:p></o:p>

 二は、離蘊の我です。<o:p></o:p>

 我と五蘊の関係から、我の三種を説く。(前回)<o:p></o:p>

 即蘊 - 身と心とがそのまま我であるとする説。
 離蘊 - 五蘊を離れて独立して有るとする説。
 非即非離蘊 - 五蘊に即するものでもなく、離れるものでもないとする説。<o:p></o:p>

 先ず、即蘊の我を破す。<o:p></o:p>

 我が五蘊に即するというのであれば、五蘊と同じく常・一ではないであろう、と。我とは常・一の義といわれていますから、五蘊もまた常・一でなければならないのです。しかし、五蘊は積集の性(仮和合)と言われていますから、無常です。無常をもって常・一の我とはいえないということです。「又」と、五蘊それぞれについて論じられます。<o:p></o:p>

 

 「内(うち)の諸色」(肉体・五根と扶塵根)も「外の諸色」(外の物質)のように、質礙(ぜつげ)<o:p></o:p>

 

 質礙(ぜつげ)― 物質(色)が有する二つの性質(変壊と質礙)の一つ。物のさまたげる性質。同一空間・場所を共有することができないこと。同一空間・場所を共有することをさまたげるものは、我ではない、ということ。 尚、変壊は、事物・事象が変化して壊れること。苦が生じる因となる。「心」は心王・識。「心所法」は受・想・行 (余の四蘊)<o:p></o:p>

 

 これも亦た、実我ではない、なぜなら、余の四蘊は衆縁(さまざまな縁)をまって生ずるから、相続しませんし、断絶がありますから、我とはいえないですね。<o:p></o:p>

 

 「余の行」 諸行無常の行、有為法のことをいっています。最初の二つ以外の有為法(心不相応行法)と、「余の色」、外の諸色と法処所摂の色(五根と五境)五根は眼・耳・鼻・舌・身とその対象、色・声・香・味・触、それに意識の対象となる特別なもの、意識の所縁の色を法処所摂色といわれています。意識の対象となる特別の物質。、「第六識の無辺法界の事をしる中に有る色法なり」(『二巻抄』)法処とは意識の対象となる法という領域で、五識の対象とはなりえない、ただ意識の対象となるもの、という意味です。これらが、「覚の性に非ざるが故に」、覚性とは、心・心所のことで、「非」ですから、心・心所とは別なもの、たとえば虚空のようなもので、これを我というわけにはいかない。<o:p></o:p>

 

 次に、離蘊の我を破す。<o:p></o:p>

 

 五蘊に即するのでもなく、離れるのでもなく、というのであれば、我とはいえない、「瓶等の如く」とは仮法ですから、仮法をもって我とすることはできない。<o:p></o:p>

 

 故に彼が所執の実我は成ぜず」と。成り立たない。と説かれていましたが、そのような自心の相を起こして、分別し計度して実我と執しているのが分別起の我執ななおです。計度は簡単にいいますと、自分の損得勘定ですね、自分にとって、損か得かの判断を刀として分別していることなのです。しかし、この分別起の我執の行相は麤である、麤とはあらいこと、細という、微細のような目にみえないものではなく、麤猛という荒々しいものですから、断じ易いといわれます。見道に於いてその種子を断ずることが出来るのである。<o:p></o:p>

 

「此の二の我執は麤なるが故に断じ易し。初の見道の時に、一切の法の生空真如を観じて、即ち能く徐滅す」と説かれています。<o:p></o:p>

 

 次に、我執の所依である疎所縁(本質)について述べられますが、ここは次回に譲ります。<o:p></o:p>

 

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唯識入門」第六回目講義概要 (4) 修道断滅

2013-04-25 23:31:01 | 唯識入門

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 倶生起の我執は如何にして断ずることができるのか。

 「細なるが故に断じ難し」、と。

 「此の二つの我執は、細なるが故に断じ難し。後の修道の中にして、数々勝れたる生空観を修習して、方に能く除滅す。」

 無間断・有間断にかかわらず、この二つの我執は非常に細やかに、身と倶に染みこんでいるので、断じ難い、難かしいということですね。仏教の人間像は修道的人間とおさえていますが、見道的人間とは押さえていないのです。これは、倶生起という、無始以来任運にということが解決できないならば、修業というのも、元の木阿弥になるということを示唆されているのでしょう。大乗の仏教徒はこの課題に対して果敢に挑戦してきたのでしょう。それは、見道では解決のできない問題を見出してきたということに外なりません。ここに仏教徒のご苦労を思うわけです。これが「数々」という言葉に表されています。「生空観を修習して」ということですが、生空観とは何かといいますと、生は空と観察することです。生命的存在が実体として存在しないことを観察することですね。難しくいいますと、修道位に於て数々無漏の生空観を修習して、第十地の満心金剛喩定の現前する時に初めて除滅されることが出来るのである、と説明されます。

 我執を断ずることが出来るのは、無漏智のみであるということを明らかにしているのですが、しかし有漏智は我執を伏することはできるが、断ずることはできないと見抜いてきたのですね。無漏の生空無分別智を修習する時、我執の種子が断じられ、「方に能く除滅す」と、我執の種子が断じられるといっています。

 生空観と法空観

 生空観は、主に二乗について言われます。二乗は断煩悩得涅槃の道です。我空を観ずることによって煩悩を断じようとするものですが、大乗菩薩路は、我空・法空の二空を観ずるということですので、法空を観ずる、法空観を修することにおいて、生空観は修することはできるのです。煩悩即涅槃・生死即菩提と観察することです。本来は我空・法空なのですから、断ずべき煩悩はなく、執すべき生死はないということになります。

 次に、分別起の我執です。今回は、倶生起・分別起の我執を説明して終わる予定です。明日は、分別起の我執について述べます。


「唯識入門」第六回目講義概要 (4) 第六識の我執について

2013-04-24 23:39:36 | 唯識入門

 次に、有間断の倶生我執は第六識の作用である。

 「二には間断有る。第六識に在り。識所変の五取蘊の相を縁ずること、或は総に或は別にして、自心の相を起こし執して実我と為す。」

 頌の十六頌に、「無想天に生たると無心の二定と睡眠と悶絶をば除く」、除かれる、有間断で、意識が途絶えることがある。第六識の我執は、第七識に依止して生起してきますから、第七識が無漏智に転依するまで、その影響下に置かれ、我執から離れることはないのです。

 ですから第六意識は、自己中心的にしか働かないのです。「自分」という思いから離れることはできないということ、即ち身と心(五蘊)を自分と思っているのです。これを『論』では「識所変の五取蘊の相を縁ずる」といわれているのです。

 「或は総」五蘊を自分と思い込む。「或は別」五蘊の一部を自分と思い込み、定まらない。(第七識の我執は、第八識の見分を所円としていますから、定まっています。)定まっていないけれども、いろいろなことを考えますから倶生起の我執なのです。「取」は煩悩のことですから、五取蘊という場合は、蘊は取より生じ、またよく取を生ずるので取蘊といわれています。

 「薩多婆の中には一切の煩悩を皆名けて取と為す。蘊は取より生じ、或は能く取を生ず。故に取蘊と名く。今大乗は対法に説くが如し、欲貪を取と名くと。唯だ貪を以て体と為す。五蘊を染希するを以てなり。蘊能く取を生じ、蘊取より生ずれば蘊に取の名を立てたり。」

 「自心の相を起こして執して実我と為す」

 五取蘊の相の総に別にというのが、第六識の本質なのです。「自心の相を起こして」というのが、実我の影像の相である。影像の相を浮かべて執着しているわけです。「妄に我の解を生ず」と。

 『述記』は、

 有間断の執の所在を明らかにしています。「第六識に在る」と。第六は行相深遠なり。亦復間断す。第七は深にして而も断ならず。五識は断にして深ならず。第八は深にも非ず断にも非ず。故に此の我執は唯だ第六識の中にのみあり。」

 「此の二の我執は細さるが故に断じ難し。後の修道の中にして数々(しばしば)勝れたる生空観を修習して方に能く除滅す。」

 倶生起の二つの我執は微細に働いているから、断ずることが難しい、といわれています。

 この二つの我執は、「無始より串習して体相微隠なり。」そして、「遠く随って現行するが故に、作意せずして縁ずるが故にと云へり。是れ倶生の義なり。故に名けて細とす。」(『述記』第一末・十二右)

 「遠く随って現行する」というのは、無始以来身と倶に恒に任運に生起するもので、甚だ微細である、ということですね。

 明日は、倶生起の我執は、修道の中で除滅されることを明らかにします。

 


「唯識入門」第六回目講義概要 (3) 二種の我執について

2013-04-23 22:59:39 | 唯識入門

 恒相続の倶生我執は第七末那識の作用です。理由は『述記』に述べられています。先ず、問いを立てています。「何故に相続すること唯だ第七にのみある。略して二義有り」と。<o:p></o:p>

 一には、縁(生縁・現象が生じる原因の総称で、四縁がある。諸行の生縁に四種有り。一に因縁、二に、等無間縁、三に所縁縁、四に増上縁なり)少なきが故に。謂はく、眼と耳と鼻等(舌と身)と意と八と七との識は、或は九(眼識)と八(耳識)と七(鼻・舌・身識)と五(意識)と四(第八識)と三(第七識)とあるを以て、縁少なきが故に。」(『述記』一末・九左)<o:p></o:p>

  • 九は、眼識の九縁、明・空・作意・根・境・六識・七識・八識・種子。
  • 八は、耳識の八縁、明を除いたもの。
  • 七は、鼻・舌・身の三識は合中知であるから明・空を除いた七縁になる。
  • 五は、第六意識の根は、染浄依の第七識であって、明・空・作意・根を除いた五縁になる。
  • 四は、第八識は根・境が別であるから四縁がある。即ち、六識・七識・八識・種子が縁となる。
  • 三は、第七識が生起する縁、第七識の根は、第八識の境であることから、作意・第八・種子の三縁のみでる。<o:p></o:p>

 前に述べましたが、「此の第七識の本質をいはば即ち第八を以て境とす。第八は、一常に似り実我の相に似るに由って。故に第八を縁じて七の我恒に行ず。」といわれています。これは、第七末那識は第八阿頼耶識の見分を対境(本質)として自心の相分を浮かべ、そのものを常一主宰の実我と執する。唯だ第八識の見分は実がではないが、一類相続の為、常一主宰に相似し、その相似している見分を第七末那識は自己の相分を我であると錯誤して(実我)と執している。ですから相分は、第七識の見分からいえば染無記になり、第八識の見分に従っていえば、浄無記である。そして、第七識の我執は、第八識が一類相続であるので、第七識が無漏識になるまでは恒相続して生起するのである。無間断の我執、我執の根本はこの第七識の我執なのです。<o:p></o:p>

 次に、有間断の我執を、明日述べます。<o:p></o:p>

 


「唯識入門」第六回目講義概要 (2) 二種の我執について

2013-04-22 23:27:01 | 唯識入門

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YouTube: いつも何度でも/千と千尋の神隠し Nataliya Gudziy

 

 「凡愚は但だ内識が変現した諸蘊を縁じて、その上に自の妄情に随って種々に計度して我が有ると執着しているにすぎない、と明らかにしていますが、では我が有ると執する我執とはいかなるものであるのかが問われてきます。

 大体、我といっているのは、何を指して我といっているのでしょう。常一・主宰の義を以て我といっているのでしょうか。「わたし」といっている時は、身をたたいて「わたしは」といっているのではありませんか。身というのも五蘊仮和合なのです。五蘊仮和合にもかかわらず、五蘊は実なるものとして執着し我として煩悩を引き起こしているのが私の姿なのです。妄情計度分別して生死海に沈淪しているのですね。

 第四になります。科文に「彼の執の分別と倶生との伏・断の位次を釈す」とでています。「別して二執を解す」とし、二つの我執を説明します。

 「然も諸の我執に略して二種有り。一つには倶生、二つには分別なり。」

 執というのは唯だ見のみをいうのではなく、我見相応の心・心所法を皆な執と名づけるのである。

 「倶生」と「分別」の我執があると答えています。身と倶起するのを倶生と名づけ、後に横計(おうけ・間違って考えること。遍計所執)して生ずるのを分別起と名づけるのである。

 倶生起の我執とは、無始以来虚妄分別に熏習された(現行熏習子)内因の種子の力によって、生まれながらにして恒に六・七識の上に存在する。生まれながらにして、ということですから倶生起の我執は、生命と倶に(恒に身と倶)生起するということですね。我は無いにも拘らず、我は有るとして恒に(一瞬も休むことなく)執着しつづけ、その執着が自己の内、即ち第八阿頼耶識に熏習され、熏習された習気を種子として蓄積され、等流されて、瞬時瞬時我執が現行しつづけるのです。現行しつづけるというのは、任運(意図することなく。意思を働かせることなく)に転起する(種子生現行)、その転起は、邪教・邪分別に依らないといわれています。後天的なものではない、ということです。

 つぎに、倶生起の我執に二種有りと述べています。それは恒相続と、そうでないものがある、ということです。

 「此れに復二種有り。一には常に相続するぞ。第七識に在るぞ。第八識を縁じて自心の相を起こし、執して実我と為す。」

 「常に相続する」ということは、恒起の義である。「第七識に在るぞ」とは執の所依を顕しているのです。「第八を縁じて」とは、所縁の境を顕している。執着の所依は、第七末那識であり、第八阿頼耶識を所縁の境として恒に生起しているわけです。「自心の相を起こし、執して実我と為す」、第七識と第八識の関係は、第五頌に「依彼転縁彼」(彼(第七識)に依って転じて彼(第七識)を縁ず)といわれているように、第七末那識は、第八阿頼耶識の見分を縁じて「自分」だと思量しているのです。この相が「自心の相を起こし」ということです。そしてこれをもって、実の我であると執着を起こすのです。これが我執の根本になる、と教えています。無漏智を得ないときは、第七識の中の我執が恒に起こるところから、常相続という、と。生きているということは、縁と共に生きてあるということですから、縁と恒に一体となっている。無間断である。無間断ということから、第六意識と区別されるのです。第六意識の中の我執のようなものではない、と。

 『述記』には「此の第七識の本質(ほんぜつ)をいはば即ち第八を以て境とす。第八は一常に似り(のり)実我の相に似るに由って、故に第八を縁じて七の我恒に行ず。影像(ようぞう)の相の中には亦実我無し。唯だ第八にのみ似れり。是の第八識の自心の相は若し見に従って説かば染無記と名づく。若し本に従って説かば浄無記と名づく。染・浄を許すを以ての故に雑種所生なり。
 此の自心の相を執して以て常一とす。境に称はざるが故に名づけて執とす。本質に称はざるを以て名づけて執と為さば、五識とも亦応に名づけて執有りと為すべし。此れは影像に約していはば依他を以て相とす。若し所執に約していはば情に当って顕現するをも亦名づけて相とす。
 「第八を縁ず」というは即ち是れ本質なり。」


「唯識入門」第六回目講義概要 (1)

2013-04-21 11:25:07 | 唯識入門

 今週は、第三能変の記述をお休みさせていただきます。第四土曜日にあたる4月27日に、唯識入門の講義をさせていただきますが、『成唯識論』の内容が少し複雑になってまいります関係上、あらかじめ学習の参考になればと思い、今日より25日までのブログの更新は、講義内容について若干ふれておきます。ご了承ください。
 その(1)
 「前回は、実我は成り立たない理由をのべました。
 「故に彼の所執の実我は成ぜず」
 これは三量の中の比量をもって破斥しています。
比量とは推量のこと。
 次の科段は第三に上の二の差別の執我を破す。(『述記』第一末・三右)
此れが四つに分けられて説かれます。
初は、思慮有りや、思慮無きを破す。
二には、作用(さゆう)有りや、作用無きを破す。
三には我見の境なりや、我見の境に非ざるやというを破す。
四には、我は我見の境に非ず、我見は縁ぜざるべしと云を破す。
今は総じて前の所執の諸の我を問うが故に、諸と言うなり。

初を述べる。
問い 「又、所執の実に・・・思慮なしとやせん」
答、我に思慮があるとすれば、無常でなければならず、常一・主宰に反する。思慮無しとすれば、業を作ることも、その果を受けることもできない、だから所執の我は成り立たない。思慮とは、思は思うこと、慮は考えること。
 「汝が我の体は応に是れ転変無常なるべし。」と答え、数論(僧佉・ソウキャの音写)を批判します。数論は、神我は体性常住と説いています。
 二は、我に作用について有るのか無いのか、という問い
答。「若し作用有りと云わば、手足等(しゅそくとう)の如く、まさに無常なるべし。」
 有るといえば、無常でる。作用有るによって無常ということになる、数論に対しては、転変すること手等の如し、勝論(吠世史迦)に対しては滅壊なること足等のようである。
 「若し作用無しと云わば、兎角等の如く、まさに非我あるべし。故に所執の我は二つながら倶に成ぜず。」
 ないものを有ると思っているようなものであり、それを以て我ということはいえない。所執我とは、外道によって実体として存在すると執着された我であり、このような我は存在しないと破斥しています。(前回述べました)
 三は、我見の所縁となるのかという問いが出されています。
 「又、諸の所執の実有の我体は是れ我見が所縁の境とするや、不ずや(しからずや)。
 我が有るという見解です。我見といいます。この我見が、我を所縁の境として見ることができるのか、できないのかという問いになります。
 我見は末那識相応の四煩悩の一つに数えられますが、我見とは我執ですね。潜在的な自我執着心です。要するに、自己は存在するとみる見解ですね。「五取蘊のうえに我・我所と執する」と言われています。取とは煩悩の異名で、有情を構成する五つの要素(五蘊)は煩悩(取)より生じ、また煩悩を生ずるから五取蘊というんです。この五蘊を実体化するところに苦が生じるといわれています。五蘊盛苦です。「有漏を名付けて取蘊となす」(『倶舎論』)
 先ず、我を所縁の境として見ることができるのか、できないのかという問いが出されます。次に答です。
 「若し我見が所縁の境に非ずといわば、汝等、云何ぞ実に我有りと知るや」
我見が、所縁の境でないとすれば、どのようにして我が有ると知ることができるのか、そのようなことは有り得ないことである。所縁の境である、所執の我を縁じて我見が生ずるわけですから、我見は我の所縁の境ではないということ、所縁でないのにどうして我有るといえるのかという見解を破斥しているのです。
 次はその逆です。「我見が所縁の境ぞ」というのであれば、これは「我は是れ我見が所縁というを破す」といっています。我見が所縁の境であるならば、我有りという見解は顛倒ではないことになる、即ち正しい見解になるということです。正しい見解ならば、我見が涅槃を証することになる。そして正見が生死に沈むことになるという顛倒が起こってきます。それは「至教(しきょう)」にも説かれている通りである。
 至教とは、仏陀によって説かれたと伝えられた教説をいいます。至教では、無我の見は涅槃を証すると称賛され、我に執着する我見は生死に沈淪(ちんりん)する、と説かれている。
 「豈、邪なる見いい能く涅槃を証し、正なる見いい翻じて生死に沈淪せしむること有らんや。」
 これは、これまで述べてきたことの総括になります。無我の見が邪であるならば、どのようにして涅槃を証することができるのであろうか、所縁に順ぜないからである。そして我見が正であるならば、翻じて生死に沈淪するのであろうか。我見は境に順ずるからである、と。
 「又、諸の我をするの見は、実我を縁ぜざるべし。所縁有りというが故に。余を縁ずる心の如し」
 実我を縁じているのではなく、所縁を縁じているのである。所縁というのは、認識されるもの、五根の対象である、六境を指しますが、境無といいますから、見分が映じた相分ですね。遍計所執を認識して我であると錯誤しているわけです。実我を縁じていると思っているけれども、そうではなく、所縁を縁じているのである、と述べています。
 次に
 「余を縁ずる心の如し」
 何を縁じていても、それは実の我を縁じているのではない、ということですね。そしてですね、我は無我ですから所縁とはなり得ないのです。それは恰も
 「所余の法の如し」と。
 この辺の事情を『述記』には、
 「我見の所縁は定んで実我にあらざるべし、宗なり。是れ所縁なるが故に。因なり。猶し、所余の色等の諸法の如し。喩なり。宗・因・喩という三支作法という論理を以て答えています。
 我を縁じているのではないという喩として、木や花を縁じているにすぎないのであって、我を縁じているのではないということです。
 結論が述べられます。
 「是の故に、我見は実我をば縁ぜず。但だ内識が変現せる諸蘊を縁じて、自の妄情に随って種々に計度す。」
 故に、我見であっても、それは内識の変現(自体分が転変して見分と相分とに似て顕現すること)して諸蘊を縁じているのである。自の妄情(我執)がさまざまに分別を起こして、分別されたものを「我」と思っているにすぎないのだ、と。
 教証として『瑜伽論』(第六・第七巻)・『顕揚論』(第九・十巻)の十六の大論の如き、(「彼の二論の中に十六種の大外道論を明かせり。所縁は皆な是れ自心の相分なり。『演秘』第一末・二左」)皆な影像たる自心の相分を縁じて所縁縁と為す。一の我の是れ相分なるもの有ること無し。故に是れ但だ識が所変を縁ず。(五)蘊各別なるが故に。故に諸蘊と言う。・・・」(『述記』第一末・八右)
 以上が、我執によって引き起こされる種々の問題点を述べてきました。次は、我執に二種あることを明らかにしていきます。


第三能変 ・善について (1) 頌に曰く

2013-04-20 23:00:56 | 心の構造について

 『成唯識論』巻第六

 「已に遍行と別境との二位を説き、善の位の心所の其の相云何ぞ」(『論』第六・初右)

 『述記』第六本下・初右   成唯識論述記観第六本下

 「述して曰く。心所を明かす中に、下は第二段。初に前を結し後を問うなり。」

 頌に曰く。

 善と云うは信と慚と愧と、無貪等の三根と勤と安と不放逸と行捨と及び不害とぞ」

 『三十頌』第十一頌を説く。(第一段は、遍行と別境の心所について説明がなされました。次の科段から第二段、善の心所について説明がはじまります。)

 概説

 善は私たちにとって大切な行為ですが、本来、涅槃に向かう道なんです。涅槃はニルバーナといい煩悩が滅した状態を指します。煩悩は私たちを悩ませ苦しめますから、涅槃は私たちが本来求めている世界なのだと思います。その世界を彼岸ともいいます。彼岸を拠り所にした生活が一番望ましい在り方なのではないでしょうか。ではどのようにしたら彼岸を拠り所に出来るのでしょう。それが『善』なのです。善は浄らかな心です。善の心に付随する法(心所有法)の一番最初に「信」が挙げられています。『正信偈』に「生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもって所止とす。速やかに寂静無為の楽に入ることは、必ず信心をもって能入とす、といえり」(源空章・真聖P207)と述べておいでになります。「信」の定義は龍樹菩薩の『大智度論』に「仏法の大海は信をもって能入と為し、智を態度と為す」と記されています。信は智と密接不可分の関係で捉えられています。親鸞聖人ははっきりと生死輪転の家は、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界と押さえておいでになります。これは仏法に疑いを持っていることから引き起こされる世界であるということです。そして涅槃を寂静無為の楽と、心澄浄の世界であると云われています。『歎異抄』に「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに(機の深信)、ただ念仏のみぞまことにておわします(法の深信)」と真実信心のみが「生死いづべき道」として指し示しておられます。唯識では第七末那識が我執(自我意識)として第八阿頼耶識に執着すると言われているのですが、その末那識に出世の末那といわれる働きがあるといわれています。無染汚の末那・已転依の末那ともいわれます。「審らかに無我の相を思量す」と、末那識は自分だけのことを思量するといわれているなかで、それだけではない無我という真理を認めているのです。これによって末那識が転依することが可能となるのです。そして「信」は「心をして浄ならしむを以って性と為し、不信を対治して善を楽ふを以って業と為す」といわれ、信によって心が浄くなることをいわれているのです。こころが浄くなるということは無我・無漏の智慧ですから自分のことがはっきりと見えるのです。「自己とは何ぞや」に答えてあるのですね。自覚・自らに覚めることを以って信を語らなければ、何を信ずるのかがはっきりしなくなります。信は不信というエゴイズムを払拭するものなのです。

 古代インド、唯識の行者は瞑想の中から人間の奥深くに横たわっている意識を発見したのでした。私たちが悩んだり、苦しんだり、争いを引き起こす原因は自分の中にあると見いだしのです。それが自我意識の発見です。限りなく自分に執着する意識です。また唯識の行者は自我意識を超える方法も見いだしたのです。理論ではなく瞑想の中から「善」も行い得る意識をも見いだしたのです。それが「出世の末那」といわれるものです。私は、大胆に「仏性」と位置付けしたいのです。そして清沢満之師がいわれる宗教的要求、「人身の至奥より出る至誠の要求」が「善」に向かわすのではないかと思うのです。全ての人が持っている本能です。これを「一切の衆生は悉く仏性あり」といわれる所以ではないかと思います。私たちは今は眠った状態かもしれないが、必ず目覚めを待つ存在である、といえます。親鸞聖人は仏性について「信心仏性」といわれます。「信心よろこぶそのひとを/如来とひとしとときたまう/大信心は仏性なり/仏性すなわち如来なり」(浄土和讃)「信」が心澄浄といわれるこのは、そこにはエゴイズムがはいる余地がないからです。『成唯識論』には「信」とは「実と徳と能とに於いて深く忍し楽し欲して心をして浄ならしむるを以って性と為す。不信を対治し善を楽うを以って業と為す」と言われているのです。私の中には不純なものばかりではなく、真実を知る欲求があるということなのです。(追)「実・徳・能」についてー実有を信忍する。有徳を信楽する。有力を信欲するということ。

  1. 実有を信忍する。-事実として存在している真理(真に存在するもの)を信じ理解する。信忍は仏の慈悲を信じて、安らいだ心。(三忍の一つ。三忍とは真理を悟る三種の智慧のことで、信忍・順忍・無生法忍のこと)『正信偈』には「韋提と等しく三忍を獲、すなはち法性の常楽を証せしむ、といえり」(真聖P207)と述べられてあり、信心に賜る智慧のことです。
  2. 有徳を信楽する。-徳は三宝(仏・法・僧の三宝)のこと。徳あるものを信じ尊ぶということ。楽(ぎょう)は喜び慕うという意。
  3. 有力を信欲する。-信欲は信心への意欲、信じようという願いのこと。有力は自分に善を修める力が有ると信じること。そしてその力を得ようとする意欲のこと。

「信」の内実は智慧だと思うのです。親鸞聖人は智慧の念仏といわれます。「智慧の念仏うることは/法蔵願力のなせるなり/信心の智慧なかりせば/いかでか涅槃をさとらまし」と和讃のなかで教えてくださっています。わたしたちの方向性は大般涅槃なのですね。その大般涅槃に至る道が智慧の念仏といわれ、信心の智慧といわれるもので、法蔵願力より賜わるものであるといわれているのです。「信は願より生ずれば/念仏成仏自然なり/自然はすなはち報土なり/証大涅槃うたがはず」といわれているのです。『愚禿鈔』には「本願を信受するは、前念命終なり。・すなはち正定聚の数に入る。・即の時必定に入る。即得往生は後念即生なり」と述べられ、真実信心の大切さを教えてくださいました。

 「核なき世界の構築・核廃絶へ」」という提言が以前よりなされていますが、本当に核廃絶の動きが出てくるのでしょうか。核の脅威は広島・長崎に投下されたときからわかっていたはずです。人間が人間を破壊する兵器をもったのです。その時点で核は破棄すべきであったのです。しかし破棄するどころか今は広島・長崎に投下された原爆の数百倍ともいわれる威力を持った核兵器が作り出されているのです。これは国家によるエゴイズムです。自分たちのために核を保有するのが目的でしょう。そうとしたのなら「核廃絶へ」という動きは核を持たざるを得ない人間のエゴイスト性に眼を向けるべきではないでしょうか。「自分たちのために」という人間の目覚めが今要求されているのではないかと思います。「末那識」の自覚です。問題は自分の中にあるということに気づかなければ核廃絶の提言が新たな核を生み出してくる温床になりかねません。為政者は国家の利益を最大限に追求し、国民にその恩恵をもたらすのが役目でしょう。そうだとしたら新たな世界の創造の理念を確立していかなければなりません。拡大再生産の停止や技術革新の停止など、退一歩できるかどうかですね。エコロジーも花形の産業になりつつありますが、マイナス要因はないのでしょうか。そのことに気づいていけば、私たちの根源的要求は私の根源からの求めてやまないものであったと気づくはずです。その要求は「~の為に」といった功利的なものではないということです。私のエゴはいつでも自分のために利用しようとします。仏法をも手段とするのです。しかし私はいったいどうなりたいのでしょうか。何を求めているのでしょうか。「仏道を習うとは自己を習うことだ。自己を習うとは自己を忘れることだ」とは道元禅師の仰せであります。自分の欲望の為にすべてを利用しようとしても、欲望は際限なく無崖底の闇にさ迷うだけなのです。「自己を問う」ことがない限り私たちはどんなに頑張ってみても現在に落在することはないのでしょう。そのような、彷徨いの人生を翻す働きをもったのが「信」なのです。「心をして浄ならしむるは信なり」とは唯識からの提言です。私たちには限りない欲望と共に、また限りない善を求める欲求があるのです。仏道を求めるのも善の欲求です。その入り口が「信」なのです。

 

 

 


第三能変  受倶門・重解六位心所(51) 別境・五受分別門

2013-04-19 21:13:24 | 心の構造について

  - 審決等の四も苦と倶であることを述べる -

 審決(しんけつ) - 対象が何であるかをはっきりと認知すること。決定的に知ること。勝解の心所の定義でいわれる。

 「苦根を既に意識とも相応すること有りと云ひて、審決の四も苦と倶なりというに、何の咎かあらん」(『論』第五・三十五右)

  「述して曰く。前に已に苦根は意に在りと説きつるが如し。故に後の余の四も亦相応することを得。此れは他宗に就いて設として、五識には、欲等なしと説くが故に、苦根ありという義を説くなり」(『述記』第六本上・二十八右)

(「論。苦根既有至苦倶何咎 述曰。如前已説苦根在意。故後餘四亦得相應。此就他宗設説五識無欲等。故説自意識有苦根義」)

 苦根は、すでに意識とも相応するものであると述べた。従って審決等の四も第六意識と相応するすることに、何の問題(過失)があろうか、あろうはずがない、と。

 

 此れは正義を説く 

 ー 正義に就いて五識に五別境有るに約する也 ー 

 「又、五識と倶なるにも亦微細の印境等の四つ有る義は、前に説けるが如し」(『論』第五・三十五右)

 (此の説は正義なり)と。新導本の傍注にも(此れは正義を説く)と記されています。護法の正義については上来述べてきているのですが、ここで新たに、「此れは正義なり」といわれる理由は何でありましょうか。五識に五別境があるということが、第一師の説に対しての護法の正義を述べるものではなく、五識に五別境は並存するということが、護法の正義なのです。 

 「述して曰く。此の説は正義なり。五識にも並びに有ると。已に欲は憂苦と相応すと説くが故に。唯、四は苦等と倶なりと説く。並に前に説けるが如し。微細の解等あり。五受と相応す」(『述記』第六本上・二十八左)

 (「論。又五識倶至義如前説 述曰。此説正義。五識並有。已説欲與憂・苦相應。故但説四與苦等倶。並如前説。有微細解等。五受相應 。」)

 また、五識と五別境とは倶であることや、また、五識にも微細に印境する等の四つの別境の心所があることは、すでに説いた通りである。(欲を除いた他の四つ) 五識には、苦・楽・捨の三受相応といわれていますが、五識は第六意識の影響を受けるという視点から、五識にも五受があるという。 

 「斯に由って欲等は五受と相応す」(『論』第五・三十五右)

 「述して曰く。政(私に云く。政は正と相通ず)義を結す」(『述記』第六本上・二十八左)

 (「論。由斯欲等五受相應 述曰。結政義也。此論上文逐難分別。」) 

 このような理由に由って欲等の五は五受と相応することがわかるのである。

 

     第三能変 別境  ー 余門を例す ー

 「自下は第六に三性・第七に三界・第八に三学・第九に三断・第十に漏無漏と・第十一に報非報との等の諸門分別す」(『述記』第六本上・二十八左)

 (「自下第六三性。第七三界。第八三學。第九三斷。第十漏・無漏。第十一報・非報等諸門分別。」)

 
 『成唯識論』巻第五・別境の結びに、余門を例すとして、諸門分別が述べられます。

 「此の五を復、性と界と学との等きに依って諸門分別すること、理の如く思うべし」(『論』第五・三十五右) 

 『成唯識論巻第五』
 此の五(別境の心所である、欲・勝解・念・定・慧)をまた、性と界と学と断と漏無漏と報非報との等分別することは、理の通り思うべきである。
 別境について、五門に分けて説明がされていました。
1. 列名釈義門
2. 遮遍行門
3. 独並門
4. 八識分別門
5. 五受分別門
 これを以って別境の説明が終わり、巻第五は終わるわけです。その最後に、本来なら述べられなくてはならない第六門から第十一門などの諸門からの説明も、以上の五門と同じく、その理に由って考えるべきである、「理の如く思うべし」であるとして、諸門の説明は略しているのです。

 「述して曰く。自に任せて思を取るに、然も五数と煩悩・随煩悩と相応すること、有漏の善心と、或いは倶・不倶等ということ、下に自ら知るべし。煩悩等の中には欣と慼との行別なるを以ての故に。善の中には加行と生得との世と無為とを縁ずること別なるが故に。相応せざるに非ず。前の遍行の五は有心には必ず有り。明らかに一切に通じて皆遮すること無きが故に。但だ欲等に於て諸門分別す(『述記』第六本上・二十九右) 
  •  欣と慼(ごん・しゃく) - 欣は楽受と相応する、よろこぶ心。慼は苦受と相応する、うれう心。
  •  加行と生得 (けぎょう・しょうとく) 生得とは、生まれると同時に先天的に獲得されるもので、加行の対。加行は修行・努力・実践によってもたらされるものです。「三界の善心は、各々、加行得と生得との二種に分かつ」といわれています。生得慧(有漏智の一つで、生まれながらにして獲得されている智慧)・生得善(先天的に獲得される善)・生得智と云われ、後天的な加行に依って獲得される加行慧・加行善・加行智の対になる。修行の階位として第二段の位になる。第一段は資糧位で無上菩提に至るためのたくわえを集積する段階。その段階からさらに修行を深めていく段階が加行位です。世第一法ともいいます。世第一法は欲界の苦諦の理を縁じる段階。世間の汚れである存在(有漏法)のなかで最勝であるので、世第一法という。真理をさとる以前の修行の位で、そこで身につく慧を加行慧という 

              『成唯識論述記巻第六本上』 終
           導本奥書には
              顕慶四年十一月二十五日於玉華粛誠殿三蔵法師玄奘奉 詔譯 
                      飜経沙門基筆受
模写明詮僧都之導本  安和元年十月十六日点此巻畢
 興福寺沙門真興と記されています。尚、この記載については若干の問題があると指摘されていますが、唯識を学ぶ上では支障があるわけではありませんので、省略します。歴史的な勉学しようと思われる方は、深浦正文著 『唯識学研究 下』(永田文昌堂発行)・富貴原章信著 『日本唯識思想史』(大雅堂発行)を紐解いてください。
 次回からは『成唯識論』巻第六に入ります。