唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (35) 自類相応門 (21) 

2014-08-11 22:38:29 | 第三能変 諸門分別 自類相応門

 自類相応門 まとめ

 『安田理深選集』第三巻より抜粋引用

 「五蘊は経験の範疇であるから、五蘊では我というものは解けない。六識の我執は、五蘊の我執である。六識の我執は、五蘊で解きうるのである。しかし六識には間断がある。そこに、末那、阿頼耶の問題があるのである。六識しか説かぬ小乗阿毘達磨では解けないものがある。そこに初めて我執という問題が、瑜伽によって基礎づけられたのでる。ノエマ・阿頼耶、ノエシス・末那を見いだしてきた。ここで初めて我執が基礎づけられた。

 末那の我執は、経験をまって起こった分別起の我執でなく、経験の基底としての倶生起の我執である。存在規定としての我執である。それで倶生起といわれるのである。むろん、六識の我執には倶生・分別があるが、末那は倶生起に限るのである。

 六師記には倶生と分別がある。第六意識に相応する我執は、倶生起であっても間断する我執である。末那は倶生の我執である。

 煩悩といっても、分別と倶生という観点に照らして初めて、煩悩の存在規定としての性格が明瞭となるのである。末那の貪も、六識の貪も、概念は同じなのであるが、ものは別なのである。

 その次に、心・心所法は作用である。作用の法であるから、相応して起こる方である。単独の作用でなく、無数の作用が呼応の関係で相応する。打てば響く。一つの作用が起れば、他の作用が応えて起こる。意識の世界は、あるかないかということでなく、相応するか、しないかが問題である。その相応のしかたが規則的である。混乱がない。それで、心理学も成り立つのである。心と心所の相応関係。心所にも色々なものがあり、それらの相応関係などが吟味される。まず、十種の煩悩の相応関係がある。 (中略) 最後の痴は、九種の煩悩と相応する。痴は無明でるが、無明の特色は、無明の作用というものは、諸法の事理に迷うことである。諸法の相に迷うことであるから、無明は一切の煩悩の所依であるところにその特色があるのである。故に十二縁起でも最初に置かれている。

 見は慧でるが、見が正見となるか悪見になるかは、無明によるのである。見は解釈である。解釈が正見の反対になることが悪見である。見が正見・悪見に分かれるのは無明によるのである。諸法無我の理に迷うから、我でないものを我とし、有でないものを有とするのである。如何なる場合でも、無明が煩悩の所依となっているのである。こういう解釈によって、煩悩の厳密な理解ができるのである。」(『選集』第三巻p399~404)

 第三は、諸識相応門が説かれます。識というものとの相応関係を明らかにしようとされます。

 「此の十の煩悩は、何れの識とか相応する。」(『論』第六・十七左)

 前科段までに述べてきた十の根本煩悩はどの識と相応して働くのであろうか?

 先ず、問いだ出されます。識の視点から煩悩を分析し説明する科段ですね。大雑把な答は、煩悩が存在しない識もあり、また相応する煩悩が四つであったり、十のすべてであったりと限られているということもあり、必ずしもすべての煩悩が全ての識で相応するとは限らないということを明らかにしています。 

 随煩悩の前に煩悩ですね、「此の十煩悩に於いて誰は幾ばくとか相応する」と問いを出されて、最後に諸々の煩悩は「癡は九種と皆定めて相応す。諸の煩悩の生ずるは必ず癡に由るが故に」といっています。癡は無明ですね。無明は私たちには認識できないものです。意識される煩悩は認識することはできますが無明煩悩は仏陀の自内証ですから私にはわからないことです。わからないけれども仏陀の自内証ということで教えられているのです。癡は迷いの根源といわれているのです。仏道を障げるものです。無明が仏道に歩む姿勢を障害するのですね。しかし迷いの中からですね。どうしても止むにやまれない欲求が湧いてくることがあります。「本当のことを知りたい・真実とは何か」という欲求です。自身の内から湧出してくる「本当の自分に出遇いたい」という願いが聞法に突き動かすのでしょう。そうしましたら聞法は何を聞くのか、といいましたら「無明」を聞くのですね。「無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」と。無明を聞くのは無碍の光明に遇うということですね。無明煩悩を白日の下に晒すのは光明です。大悲の願船ですね。「円融至徳の嘉号は、悪を転じて徳を成す正智」といわれるわけです。ですから私たちは煩悩と戦う必要はないのです。煩悩が縁となり一歩前へ歩みを進めることができるのです。煩悩が輝くのですね。煩悩がなかったらどれほど楽かという思いがありますが、それでは「本当の自己」に出遇える縁を閉ざしてしまうのです。生きることの意味も、生まれてきたことの意味も、娑婆の縁つきなば彼の土へはまいるべきなりという、彼の土の意味もわからなくなり、ただ生殖本能だけの無味乾燥の生きる屍となってしまうのではないでしょうか。ですからね。煩悩は煩わしいことに違いないのですが有り難いご縁をいただけることにもつながってくるのですね。

 「此の十煩悩は何れの識とか相応する。蔵識には全に無し。末那には四有り。意識には十を具す。五識には唯三のみなり。謂わく貪・瞋・癡なり。分別無きが故に。称量等に由って慢等を起こすが故に」

 蔵、阿頼耶識です。この識には煩悩は全く無いといわれています。 「十の根本煩悩はどのような識と伴うのか」というところで、阿頼耶識には煩悩は無く、末那識(意)には四有りといわれているところを考えているところです。また煩悩にはですね。生まれつき持っている倶生起の煩悩と、生まれてからいろいろな経験を積んできて起こる分別起の煩悩があるといわれています。『摂論』第一章では阿頼耶識の名と本質について考察がなされていますがその中に汚染されて識と共に考察が進められているのです。それを世親菩薩は『唯識三十頌』において初能変は阿頼耶識の考察、第二能変は末那識(汚染された識)の考察として識の分別をされたのです。その意は私には図り知ることはできませんが、大胆に考えますと「命の尊厳」において別々にされたのではないだろうかと思うのです。「蔵識には全に無し」といわれることにおいて、命そのものには煩悩は働かないということ、命の主体は何ものにも覆われていない無覆無記であることをはっきりされたのだと思います。世親のもう一つの論書『浄土論』の帰敬序は「世尊我一心」ではじまります。この「我」ですが、煩悩に穢されていない「我」でしょう。我という命の主体は阿頼耶識ですね。このことにおいて我が透明性をもつのでしょう。私が生きているということは本来、透明性を持っているものです。私が単独に生まれ、単独に生きているのではありませんね。内因外縁といいますが、父母を縁とし環境を縁とし自らの意思をもって此の世に生を享受したわけです。これは無始無終の命の連綿としたつながりです。そして私にまで届いたのですね。私にまでなった命なのでしょう。公明正大なことですし、私利私欲ではないということです。私は私がと言って命を貪っていますが命の働きは純粋無垢だということを教えられているのですね。命そのものには迷いがないということ、迷っていないから私と共に流転出来るのであると思うのです。これが末那識だとそういうわけにはいかないでしょうね。末那識が主体だとしたら我執が主体ということになり私と共に流転はできないでしょう。内部分裂を起こしますよ。我執は我愛を満足させるために何が何でも利用しますからね。そして命の歴史にですね、私の命にまでになって伝えられてきた歴史です。その重みは何ものにも変えることができない尊厳をもっているのではないでしょうか。

 

 


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (34) 自類相応門 (20) 

2014-08-10 16:13:16 | 第三能変 諸門分別 自類相応門

 第六は、癡について説明されます。癡はその他の九種の煩悩と必ず相応することを明らかにします。此の中で、癡は無明と云われているわけですが、相応無明と独行無明のあることが明かされます。

 「癡は九種と皆定んで相応す、諸の煩悩の生ずることは必ず癡に由るが故に。」(『論』第六・十七左)

 本科段は、相応無明について一切倶起であることを明らかにし、一切の惑(苦悩)の生起するのは必然として癡に由るのである、と。

 

           貪
           瞋
           慢
 相応無明 {  疑      }  すべての煩悩の生起は癡に由る。
           薩迦耶見
           辺執見
           邪見
           見取見
           戒禁取見

 独行無明(不共無明)は二種に分けられます。

 

          恒行不共無明(末那識と相応して働く無明)
 独行無明 {
          独行不共無明(意識と相応して働く無明)

 

 「論。癡與九種至必由癡故 述曰。下第六無明有二種。相應無明與一切倶起。一切惑生必由癡故。獨行不然。但與諸論相違。此中皆會訖。」(『述記』第六末・三十七左。大正43・451a)

 (「述して曰く。下は第六に無明に二種有り。相応無明は一切と倶起す、一切の惑の生ずることは必ず癡に由るが故に。独行は然ず。但だ諸の論と相違すること此の中に皆会し訖る。」)

 尚、『論』に、いままで述べてきました十煩悩について『論』第六・十六左に問いが設けられていました。この問いについて『演秘』は簡略にまとめていますので、『演秘』の所論に学びます。少し長文ですが最後まで読んでみてください。『演秘』には問いのすぐ後に釈文があるのですが、会本には自類相応門の結文として取り上げられ、第三の識相応門への問いにつながっていきます。

 「論。此十煩惱誰幾相應者。諸論辨此相應不同。今略引之。五十五云。無明與一切。疑都無所有。貪・嗔不相應。此或與慢・見。謂染愛時或高擧或推求。如染愛憎恚亦爾。慢之與見我更相應。謂高擧時邪復推構 五十八云。五見是惠性故互不相應。自性自性不相應故。貪・恚・慢疑更相違故互不相應。貪染令心卑下。憍慢令心高擧。是故貪・慢更互相違 對法第六云。貪不與嗔相應。一向相違法必不倶故。又貪不與疑相應。由惠於境不決定必無染著故。餘得相應。如貪嗔亦爾。謂嗔不與貪・慢・見相應。若於此事起憎恚。即不於此生於高擧及推求。與餘相應如理應知。慢不與嗔・疑相應。無明有二。相應・不共。不共不與嗔・疑相應。疑不與貪・慢・見相應。會如此論及疏。故不重云。」(『演秘』第五末・七右。大正43・921c)

 (「論に、此の十煩悩において誰は幾ばくとか相応するやとは、諸論に此の相応を弁ずること不同なり。今略してこれを引く、五十五(『瑜伽論』巻第五十五。大正30・603a)に、無明は一切と與なり。
 疑は都て所有無く、貪と瞋と相応せず、此れ或は慢・見と與なり。謂く染愛する時に、或は高挙し、推求す、染愛の如く憎恚も亦爾なり。慢と見とは我は更に相応す、謂うく高挙する時、邪に復推搆(スイコウ)すと云へり。五十八(大正30・623a)に、五見は是れ慧の性なるが故に互に相応せず、自性と自性は相応せざるが故に。貪と恚と慢と疑は更に相違するが故に互に相応せず。
 貪・染は心をして卑下ならしめ、憍慢は心をして高挙せしむ、是の故に貪と慢とは更互に相違すと云へり。
 対法第六(『雑集論』巻第六。大正31・723a)に、貪は瞋と相違せず、一向に相違の法にして必ず倶ならざるが故に。また貪は疑と相違せずとは慧が境に於て決定せずんば必ず染著すること無きに由るが故に。余は相応することを得、貪の如く瞋も亦爾なり。謂く瞋は貪・慢・見と相応せず。若し此の事に於て憎恚を起こさば、即ち此れに於いて高挙を生じ、及び推求して余と相違せず。理の如く応に知るべし。慢は瞋と疑と相応せず。
 無明に二有り、相応と不共となり。不共は瞋疑と相応せず、疑は貪と慢と見と相応せずと云へり。会することは此の論と及び疏との如し。故に重ねて云わず。」)

 貪と瞋。貪と慢。貪と疑。貪と見
 瞋と慢。瞋と疑。瞋と見
 慢と疑。慢と見。         } の倶起・不倶起について
 疑と見
 癡は九種と皆定んで相応す。

 以上が、自類相応門で学んできたことになります。各項目の倶起・不倶起については元にもどって幾度も研鑽されますことを念じます。

 次科段からは、第三に識相応門が説かれてきます。
 

 


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (33) 自類相応門 (19) 

2014-08-08 21:42:45 | 第三能変 諸門分別 自類相応門

 第五は、五見同士の相応について

 「五見は展転して必ず相応せず、一心の中に多の慧有るものには非ざるが故に。」(『論』第六・十七左)

 五見は展転して相応しない。何故ならば、一つの心の中に多くの慧が同時に並起することはないからである。

 昨日も述べましたが、見の体は慧なのですね。五見同士の相応については、一つの心所の中に複数の慧が並起することはありませんから、五見同士は相応しないのですね。

 「論。五見展轉至有多慧故 述曰。下第五五見自亦爾。非一心中有多慧故。此據法體並起然前説第七識我見與別境慧倶者。約義別門説有名倶。非二體並起名倶也」(『述記』第六末・三十七右。大正43・451a)

 (「述して曰く。下は第五に五見は自亦爾なり。一心の中に多くの慧有るに非ざるが故に。此は法體並起に據る。然るに前に第七識の我見は別境の慧と倶なりと説くは、義別門に約して倶なりと名づくること有りと、二の体並起を倶なりと名づくるには非ず。」)

 第二能変に末那識の我見について論じられていましたが、そこに於いてもですね、一心の中に二つの慧が並起しないことから、末那識に我見のみが存在し、他の四見は存在しないことを述べているのです。

 末那識の説明の中に下記の所論が述べられています。

 「我見有るが故に余の見生ぜず、一心の中には二の慧有ること無きが故に。」(『論』第四・二十九左)

 (我見があるために、他の見は生じないのである。一心の中、即ち一つの識の中に二つの慧が生起することはないからである。)

  第七末那識は第八阿頼耶識の見分を縁じて自の内我と為す。我そのものとなす。我所を許さないのが護法の見解です。そして四種を除いた「瞋」・「疑」は他に対するもので、自に対するものではありません。第七末那識は自分に対して瞋りを持つことはあません。自分に対する深い愛着が性ですから、同時に自分を憎むということは成り立たないのです。ですから自分に対して疑いを持つこともありません。これが問題ですね。反省という言葉がありますが、我見によって執着された我をたのみ、愛着するところには反省は成り立たないのです。また自分から出る一切の出来事は我執に色づけされているのですから正見というわけにはいきません。あとは悪見の中の辺執見・邪見・見取見・戒禁取見です。薩伽耶見(我見)は倶生起の煩悩で、邪見・見取見・戒禁取見は分別起の煩悩ですね。「取」が特徴です。認識したり、考えたりするひとつの見解です。偏った見解ですね。邪見は因果の道理を否定するわけです。空を否定しようとする見方です。見取見は自分の見解が正しいと思い込んでいる見方です。戒禁取見は戒律のみが正しい生き方と思い込んでしまう見方ですね。いずれも我見から生じた分別起の煩悩です。我見から生じたものであるから簡ばれるのですが、辺執見と我所見はどうなのでしょうか。この二つの見は分別起の場合もあるが、倶生起の場合もあるのです。しかしこの場合は我見を前提として成り立っているので簡ばれるのです。また辺執見は極端に考える見解ですから、有る場合(常見)と無い場合(断見)とがあるという見方になります。我所見が成り立つのは我そのものが前提となります。我がなければ我所は成り立たないのです。我に対して対象化されたものが我所です。従って、我見を前提として他の見が成り立つわけですから、「我見あるが故に余の見生ぜず」と。我見の中に他の四つの煩悩、辺執見・邪見・見取見・戒禁取見は含まれるので、今は第七末那識に働く根本煩悩は四つ、我癡・我見・我慢・我愛であり、「無始よりこのかた未転依に至るまでこの第七末那識は任運に第八阿頼耶識を縁じて四の煩悩と相応する」といわれているわけです。

 

「一心の中には二の慧有ること無きが故に」 というのは、「見」は慧の一種であるといわれます。智と対比される見です。五種の見の体は慧です。『述記』には「行相別なるが故に」と。五種の見は体は慧で作用は別であるということです。ですから同時に二つの慧の用きが起こるものではないといっているのです。我見が用くと、他の見は用かない。辺執見でいうと、断見が用いているときは、同時に常見は用かないということになるのですね。

 

 この項の詳細は、2011年9月の投稿を参照してください。


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (32) 自類相応門 (18) 

2014-08-07 22:15:32 | 第三能変 諸門分別 自類相応門

 本科段(第四)は、疑と他の煩悩との相応について説明されます。

 前科段までに、疑と貪・疑と瞋・疑と慢との相応・不相応について説明されてきましたので、本科段では疑と見との相応・不相応について説明されます。

 「疑は審決(シンケツ)せず、見と相違す、故に疑は見と定んで倶起せず。」(『論』第六・十七左)

 疑は猶予と云われていましたが、それは審決しないということになります。つまり、対象が何であるのかをはっきり認知することがない、このような疑の行相は、審決する見の行相と相違する為に疑は見と相応しないと説かれているのです。

 「論。疑不審決至定不倶起 述曰。下第四疑。雖與慧倶與五見不倶起。見審決。疑猶豫。行相相返故定不倶。簡擇・猶豫可説慧倶。不審決故不與見並。」)(『述記』第六末・三十七右。大正43・451a)

 (「述して曰く。下は第四に疑は慧と倶なりと雖も、五見とは倶起せず。見は審決し疑は猶予す。行相相返するが故に定んで倶ならず、簡択し猶予すれば、慧と倶なりと説くべし。審決せざるが故に見と並ぶにあらず。」)

 「疑は慧と倶なりと雖も」と云われていますが、疑の体について「慧を決せざら令むるなり、即ち慧には非ざるが故に」と護法菩薩の主張を述べていました。疑は慧をして、決定をさせないものである、と。決定させないこと、即ち疑が慧でなはいからである、これが疑の自体であるわけです。しょして五見の体は慧なのですね。「諸の諦理の於に顛倒する染の慧を以て証と為す」と。五見は慧の分位仮立法であって、五見は染の慧であるということなのです。従って、疑と五見とは相応するはずであるのですが、疑と五見とは相応しないと説かれるのです。何故ならば、見は審決し疑は猶予するからであると説明されます。

 つまりですね、慧は審決する働きをもっているのですが、見もまた審決する働きをもっているのですね、そうしますと、見は慧という、染の慧を体とする働きを持つというわけです。しかし、疑は審決することが出来ない、審決することが出来ずに猶予する心所であるということになります。即ち審決することと、猶予することとは相返するわけですから相応しないということになるのですね。

 

 


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (31) 自類相応門 (17) 

2014-08-06 21:28:18 | 第三能変 諸門分別 自類相応門

 『了義燈』の所論をうかがいます。

 「 論。與身邪見一分亦爾。西明釋云。執極苦蘊爲我。即無慢倶。非極苦蘊亦得慢倶。故下文云。特苦劣蘊憂相應故 今謂本解爲正。許慢與彼執苦蘊身見得並。此言一分據多分説。故下初師亦許縁苦倶蘊起慢憂倶。第二師亦云亦苦倶起。西明若云執極苦蘊爲我無慢。慢何苦倶。不可與餘倶。不許身見並。無別因故 問據多分説。實理何倶 答據分別慢不與執苦蘊一分我見倶。下約倶生故得倶起 又慢有七。卑慢得倶。故瑜伽五十九云。若任運生。一切煩惱。皆於三受現行可得。若分別者略有二慢。一高擧慢。二卑下慢。高擧有三。一称量。二解了。三利養。此高擧慢喜根相應。若卑下慢憂根相應。」(『了義燈』第五末・二十左。大正43・758c~759a)

 (論に「身と邪見との一分とも亦爾也」というは、西明、釈して云く、極苦の蘊を執して我と為るは即ち、慢と倶なること無し。極苦に非ざる蘊ならば亦慢と倶なることを得。故に下の文に云く、苦の劣蘊を恃むとき憂と相応するが故にと云へり。
 今謂く、本解を正と為す。慢は彼苦蘊を執する身見と並ぶことを得と許す。此に一分と言うは多分に拠って説く。故に下の初師も亦、苦と倶なる蘊を縁じて起す慢は憂と倶なりと許す。第二師も亦、亦苦と倶に起ると云う。
 西明は若し極苦蘊を執して我と為すは慢無しと云はば、慢は何の苦と倶なるや。余と倶なるべからず。身見と並ぶと許さず。別の因無きが故に。
 問う。多分に拠って説く。実理何ぞ倶ならん。
 答う。分別の慢は苦蘊を執して一分の分別の我見と倶ならざるに拠る。下は倶生に約するが故に。倶起を得。
 又、慢に七有り。卑慢は倶なるを得。故に、瑜伽五十九に云く、若しは任運に生ずる一切の煩悩は皆三受に於て現行すること得可し。若し分別の者ならば略して二慢有り。
 一に高挙慢、二に卑下慢なり。高挙に三有り。
一に称量。二に解了。三に利養なり。此の高挙慢は喜根と相応す。若し卑下慢は憂根と相応す。」)

 高挙慢とは、増上慢ですね。有頂天です。自分は他人と比べて勝れていると誇るわけです。これは喜根と相応すと述べられています。一方卑下慢ですが、卑下するというところには、自分の愚かさを隠したいという欲求が働くんでしょうね。憂根と相応す、内に憂いを持っているわけです。それを覆い隠しているのが卑下慢だと説かれているところに着目したいですね。増上慢、卑下慢ともに慢心なのですが、出所が違うのですね。慢心の深さを思い知らされます。
 


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (30) 自類相応門 (16) 

2014-08-05 22:36:50 | 第三能変 諸門分別 自類相応門

 「下は、別して明かす」(個別に説明される)。初は、慢と断見とは必不倶生であること、そして、その理由が説き明かされます。

 「然も断見とは必ず倶生せず、我の断なりと執ずる時には、陵恃(リョウジ)すること無きが故に。」(『論』第六・十七左)

  •  陵恃(リョウジ) - 他者をあなどり、自分を頼りにすること(他人を陵し、自己を恃すること)。

 (前科段では、慢は五見とすべて相応すると説かれていたが、それは総説として説かれていたものであって)、厳密には、慢は断見とは必ず相応しないと説き明かしている。何故ならば、我は断絶すると執着を起こす時には陵恃することがないからである。

 辺執見には常見と断見があることは既に述べてきたことでありますが、この内、断見は慢とは相応しないことを説いています。

 断見とは自己存在は死んだ後は断滅して虚無になるという見解、断見を起こす者は断に執着して究竟とし、常見を非難し非とする見解になります。そうしますと、我は断絶しますから、断絶するところから他を見下すことも無く、自己を恃することもないわけです。従って、慢と断見とは相応しないと説かれているのですね。

 「論。然與斷見至無陵恃故 述曰。(下別明)。斷見及慢必不倶生。執我斷心。定無陵他而自恃故。」(『述記』第六末・三十六左。大正43・451a)

 (「述して曰く。下は別して明かす。断見と及び慢とは必ず倶生せず、我断と執する心は、定んで他を陵し而も自を恃すること無きが故に。」)

 『述記』によりますと、我を断絶する心は、絶対に他者をあなどって、しかも自己を頼りにすることが無い、と述べています。

 後半は、慢と薩迦耶見、慢と邪見との相応について考究されています。

 「身と邪見との一分も亦爾なり。」(『論』第六・十七左)

 慢は身(身見=薩迦耶見)の一部とも、邪見の一部とも相応しないのである。

 ここの所説は、『述記』によりますと、麤相に約して説かれていると述べています。つまり、大雑把にいえばということですから、暗に厳密にはそうではないこともあると云っているのでしょう。そこは「実に拠れば」と云っています。前者を麤相多分門、後者を実義門と云われています。

 先ず『述記』の所論を伺い、後に『了義燈』の所論に学んでいこうと思います。

 『述記』第六末・三十六左。大正43・451a) 

 「 論。與身邪見一分亦爾 述曰。准下憂倶初師所説。若約麁相。慢多縁樂蘊生。與縁苦倶蘊我見一分。及邪見撥無苦・集諦理一分。不與慢倶起。據實亦得。故下文説。慢・身・邪見皆與憂倶。恃執苦劣故。今約麁相多分而解。若縁樂倶蘊爲我。及撥無滅・道。可與慢倶。故恃己樂陵滅・道故。」  

 (「述して曰く。下の憂と倶なりという初師の所説に准じて、若し麤相に約せば、慢は多く楽蘊を縁じて生ず。苦と倶なる蘊を縁ずる我見の一分と、及び邪見の苦集の諦理を撥無する一分とは、慢と倶起せず。実に據れば亦得たり。故に下文に、慢と身と邪見とは皆憂と倶なり。苦ある劣(蘊)を恃むと説けり。故に今は麤相に約して多分を以て解す。若し楽と倶なる蘊を縁じて我と為し、及び滅道と撥無するとならば、慢と倶なるべきが故に、己の楽を恃んで滅道を陵するが故に。」)

 麤相に約すならば、慢は多くの場合楽蘊を縁じて生じるものであるから、苦と倶である蘊を縁じる薩迦耶見の一部と、及び邪見の苦諦と集諦のりを撥無する一部のものとは相応しないのである、と説明しています。これが本科段で述べられている要旨でもあり、本科段を説く護法の視点でもあるわけです。つまり、護法は麤相多分門によって本科段を説明している(実義に據る所論ではない)ということになります。

 尚、実義門ではどうなるのかについては、後半に述べられている所論になります。「若し楽と倶なる蘊を縁じて我と為し、及び滅道と撥無するとならば、慢と倶なるべきが故に、己の楽を恃んで滅道を陵するが故に」。

 実義門では、慢と薩迦耶見は相応する場合もあるということになります。同じように、慢と邪見の相応・不相応についていえば、邪見により苦諦と集諦の理を撥無する時は、慢と邪見は相応しないといい、邪見が滅諦と道諦の理を撥無する時は、慢と邪見は相応すると説かれています。

  •  撥無 - 因果の道理を否定する見解を因果撥無の邪見といわれていますが、撥無とは、存在をみとめないこと、否定することといいます。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (29) 自類相応門 (15) 

2014-08-04 20:10:40 | 第三能変 諸門分別 自類相応門

 慢と疑の相応についての説明が已り、次いで、慢と五見の相応について説明されます。

 「慢は五見と皆倶起す容し、行相展転(ギョウソウチンデン)して相違せざるが故に。」(『論』第六・十七左)

 慢は五見とすべて相応する。何故ならば、行相(見分の働き)が展転して相違しないからである。

  •  展転 - 本科段では、相互に関係し合うこと(同時相依相互的ありよう)、という意味で用いられています。
  •  行相 - (ⅰ) 行相とは境である。 (ⅱ) 行は能縁(見分)の用、相は所縁(相分)の境相である。 (ⅲ) 行は行解、相は影像である。
  •  行相所縁 - この場合は、行相は認識する主体的な側 面であり、見分を指し、所縁は認識される客体的な側面であって相分を指す。

 慢と五見がすべて相応するのは、慢と五見の見分の働きは相違しないからであると説明しているわけです。慢の働きと、五見の働きは同じであるということになりますが、必ずしもということにもなります。このことは次科段において、慢と断見は相応しない、或は慢は薩迦耶見と邪見の一分ともまた相応しないと説かれていることから、慢と五見はすべて相応するとは断言できないということになります。

 本科段は『述記』によれば「総じて慢は見と皆倶起すべきことを明かす」(明慢與見皆容倶起)と釈され、総論として述べられているとしています。意味するところは、「皆容」が倶起と不倶起が不定であることを表していると解釈されています。

 「論。慢與五見至不相違故 述曰。此總明慢與見皆容倶起。行相倶高縁順境起。不相違故。三處論皆同。總説見故。」(『述記』第六末・三十六左。大正43・451a) 

 (「述して曰く。此は総じて慢は見と皆倶起すべきことを明かす。行相倶に高にして、順の境を縁じて起こり、相違せざるが故に。三処の論皆同なり。総じて見を説くが故に。」)

 

 


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (28) 自類相応門 (14) 

2014-08-03 08:41:47 | 第三能変 諸門分別 自類相応門

 第三は、慢と他の煩悩との相応について説かれます。初に、慢と疑との相応について説かれ、後に、慢と(五)見の相応について説かれます。

 前科段までに、貪と慢・瞋と慢の相応については説き已ったので、本科段では、慢と疑の相応につき、慢と五見の相応について説き明かされます。

 「慢は境の於に定めたり、疑は則ち然るにはあらず、故に慢は疑と相応する義無し。」(『論』第六・十七左)

 慢(恃己の慢・陵他の慢)は対象が何であるのかを定めて起こるものである。しかし疑はそうではない、その為に慢は疑と相応しないのである。

 「 論。慢於境定至無相應義 述曰。下第三慢爲首。與貪・瞋説已。與疑定不倶。三論皆説故。境定不定故。不陵不定境。若疑彼勝負必不敢慢。慢若起者必自高故。境乃定也。」(『述記』第六末・三十六右。大正43・451a)

 (「述して曰く。下は第三に慢を首と為す。貪・瞋とは説き已る。疑とは定んで倶ならずこと三論に皆説くが故に。境、定と不定となるが故に。不定の境を陵せず、若し、彼の勝負を疑うには必ず敢て慢ならず。慢若し起こらば必ず自高するが故に境乃ち定なり。」)

  •  陵(リョウ) - 「自を挙して他を陵す」。あなどること。 
  • 自高(ジコウ) - 自高拳(ジコウコ)のこと。驕りたかぶること。他人と比べて自己が勝れていると思う、勝他のこと。

 慢が生起する必然性は、対象が何であるのかが明白であって、疑いようのないものなのですが、疑は対象を猶予し疑う心所でなのですね。従って、慢は疑と相応することはないわけです。対象が明白でなく、猶予し疑う心所である疑にたいして、慢は起こらないのである、と。

 前科段に於てもなかなか解りにくいところもあるわけですが、平面的に思考をするとなにがなんだかわかりませんね。慢と疑は相応しないということは、非常に厳密に煩悩の複雑さを説いているんだろうと思います。後に「癡は九種と皆定んで相応す、諸の煩悩生ずるは必ず癡に依るが故に」(『論』第六・十七左)と結論されていますが、平面的に考えますと、慢と疑は相応しているように思えるんですね。またそれに対して疑をもっていませんが、それが疑なんですね。そして慢と疑は相応しているように思えることを通して、実は慢と疑は相応しているように思えるのは癡に由るということを明らかにしているんです。相応無明といい、根本無明と押さえられているんでしょう。私は私のことの一番の理解者であるという妄想を打ち破ってくるんだろうと思いますね。ですから、私が私を頼りに生きていくということは、無明と共に歩むということと同一なんでしょう。

 道元禅師は、『正法眼蔵』の中で、「仏道をならふというは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己を忘るるなり、自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり」と教えておいでになりますが、「万法に証せらるるなり」とは私たちは縁的存在であるということですね。業縁存在であると。親鸞聖人は、『歎異抄』第十三条には「しかれども、一人にてもかないぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし。・・・さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」と、自己存在を客観的に「汝」として開示し「さればよきことも、あしきことも、業報にさしまかせて、ひとえに本願をたのみまいらすればこそ、他力にてはそうらえ。」と教えられているわけですね。「自力のこころをひるがえして」という、我執に依らず、我執を所依とせず、本願他力の宗旨を旨とせよと教えられているんだろうと思います。

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第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (18) 自類相応門 (4) 

2014-07-15 22:47:38 | 第三能変 諸門分別 自類相応門

 前科段に於いて、貪は慢と見と相応する場合と、相応しない場合があると説かれていた根拠を本科段で説かれます。

 貪は慢と相応する場合と、相応しない場合について

 「所愛(ショアイ)と所陵(ショリョウ)との境一に非ざるが故に、倶起せずと説けり。所染(ショゼン)と所恃(ショジ)とは境同なる可きが故に、相応することを得と説けり。」(『論』第六・十六左)

  •  所愛 - 「愛される」。「親愛な」。「好ましい」。「喜ばしい」等を意味する形容句。貪の対象。
  •  所陵 - 陵他の慢。他者を見下す慢のこと。他者を陵すること。
  •  所染 - 染著する対象。
  •  所恃 - 自己を恃すこと。自分をたよりにすること。

 語句説明でも解りますように。所愛と所陵とは境が違います。所染と所恃とは境が同じですね。

          陵他の慢         所陵の境
    慢  く          境  く
          恃己の慢         所
恃の境

 「愛所陵至説得相應 述曰。此解彼云。謂若於他起愛染者。必不陵彼。以境非同行相亦別。故不倶起。然縁己身起愛名所染。與所恃之我慢等境可一故。對法等説得相應。前約行相麁者。此約行相細者。如前第四卷第七識中已多門解。」(『述記』第六末・三十三右。大正43・450b)

 (「述して曰く。此こに彼(所愛)を解して云く、謂く若し他のうえに愛染を起こすと云うは、必ず彼を陵せず。境に同に非ず、行相も亦別なるを以ての故に倶起せず。
 然るに己身を縁じて愛を起こすを所染と名くるときは、
恃の我慢等と境一なるべきが故に。対法等には相応することを得と。前は行相麤なる者のみに約し、此は行相細なる者に約す。前の第四巻の第七識の中に已に多門を以て解するが如し。」)

 二段階で説明されています。初は、慢は陵他の慢であり、対象は所陵の境であるとされます。 これは対象を見下す煩悩ですね。しかし、所愛は、自分の愛著する対象に対して見下すことはないのです。要するに、見下す対象に対しては愛著を起こすことはないんです。従って貪と慢とは相応することがないとされます。

 しかし、所染の境(自身)と、所恃の境(自分を恃む慢)は同じものであることから、相応すると説かれているのです。

 教証として、『雑集論』(巻第六。大正31・723a)を引用しています、前半部分の教証は『瑜伽論』(巻第五十八。大正30・623a)が引用されます。