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― 所依門 ・ 根本識に依止す ―
「已に六識の心所相応することをば説きつ。云何が現起する分位をしるべき。
頌に曰く、
根本識に依止す 五識は縁に随って現ず
或いは倶なり 或いは倶ならず 濤波の水に依るが如し
意識は常に現起す 無想天に生るると
及び無心の二定と 睡眠と悶絶とをば除く」(『論』第七九右) 「根本識に依止す」と述べられています。依止とは所依のこと。杖託(じょうたく 一 杖の力に依る)の義にして所依を云う、といいます。
根本識とは、染浄の識のために依となる第八阿陀那識を指します。これが前六識の所依なのです。
この所依に二つあり、
一つには種子の第八識に依る(種子頼耶)因縁依といわれます。転識が生じる為の因となります。
二には現行の第八に依る(現行頼耶)増上縁依中の共依です。転識が生じる為の縁となります。
阿陀那識は第八識の別名です。「或いは阿陀那と名く。種子と及び諸の色根とを執持して壊せざらしむが故に」(『論』巻三・八識別名)、阿陀那識の名の由来は『解深密経』によります。
「阿陀那識は甚深細なり、一切の種子は暴流の如し」(『論』巻三・第三教証)。八識別名を立てるのは、第八識の特徴によって名前が変わるといわれています。“阿陀那識は生命を持続する、人格を持続していく、という角度から捉えたときに阿陀那識という。根本識というのは、私の人格や生命を持続していく角度から捉えたものなのです”(大田久紀氏)
表層の前六識は何を根本として働くのかというと、阿陀那識から生じるものであるという見方ですね。「五識随現縁」といわれますように、心の働きは「倶或不倶」なのです。生じたり生じなかったりするわけです(有間断)。そして前五識の場合には「縁に随って現起す」といわれ、第六意識は「常に現起す」といわれています。
「根本識に依止すとは、この句は下の第六識にも通ず。二は倶に第八識に依止するが故に。その共依を顕す。然るに依止に二あり。一に種子の第八識に依る。即ちこれ因縁の親しき依なり。阿毘達磨経の中の無始時来界なり。二に現行の第八に依る。即ちこれ増上縁依なり。即ち達磨経の中の一切法等依なり。六転識は、みな本識の種子と現行とに依って、現起することを得というなり。五十一に、阿頼耶識あるに由るが故に、五根を執受す。乃至、この識あるに由るが故に、末那あることを得。第六識はこれに依って転ず等と説くは是なり」(『述記』第七本・四十六右)
所依門とは「根本識に依止す」の一句で、前六識は根本識である第八識を因として生じるということを表しているのですね。根本識から転変してきた心ということなのですね。前六識は転識といわれます。この転識されて認識が成り立っている世界が、私が認識している世界なのです。
阿陀那の名の由来は『解深密経巻第一』の「心意識相品第三」に述べられています。唯識転変の由来を示して迷悟の文斎を明らかにしています。「此の識、身に於て随逐し、執持するが故なり。・・・阿陀那識を依止と為し、建立と為すが故に、六識身転ず。謂く、眼・耳・鼻・舌・身識と意識となり。・・・瀑流に似たる阿陀那識を依止と為し、・・・一切種子は瀑流の如し」と。(国訳大蔵・第八・p17)
「無始時来界 一切法等依 由此有諸趣 及涅槃証得」は『摂大乗論』第一(大正31・382)に『大乗阿毘達磨経』の詩句の中で説いている、と述べられ、『論』」巻第三に第一教証として引用されています。(この心の領域は、始めのない過去以来、すべての存在の依りどころであり、これがあるからこそ、生命の六っの種類(六道)の差異があり、また涅槃を得るということもある。もろもろの存在は、アーラヤによって存在する。それは、一切の種子ともいうべき情報集積体であるがゆえに、アーラヤと名づける」)
表層の前六識は阿陀那識を依止(所依)として働くのですが、この前六識は共通して第八識を所依となすのです。深層の一番深い所を依り所として前六識は働く。こういう意味で「共」というのです。「共と親との依」と云われていますから、全部共通ではないのですね。「種子の第八識に依る」、種子が直接的な依り所となって前六識が働きますので、それを「親」というのです。次の『論』の科段に詳しく説かれてきます。