六遍染説を論破する一段です。六遍染師は惛沈は遍染の随煩悩ではないと主張していることに対して、惛沈は遍染の随煩悩であると破斥します。
「対法等に云く、惛沈性とは、無堪任性ぞと云えり。又云く、無堪任に離れては染の性は成ぜずと云えり。是の故に惛沈は定んで染に遍して起こるが故に。掉を起こす時は既に是れ染心なるを以て惛沈は定んで有り。」(『述記』第五本・六十四右)
『雑集論』巻第一に「惛沈の本質的な働きとは、無堪任性である」と説かれている。惛沈は遍染の随煩悩ではないということは、染心には無堪任性が存在しないということになるということです。そして、「無堪任性を離れては染性は成り立たない」と述べられているのです。逆にいうと、染心に無堪任性が存在しないということは、染心は善心であるということになります。「是の故に惛沈は定んで染に遍して起こるが故に」と、惛沈は遍染の随煩悩であると説きます。
次は掉挙が遍染の随煩悩ではないという主張を論破します。主旨は惛沈と同じ染心に遍在して生起するからであるというこになります。
「掉挙若し無くんば、囂動(ごうどう)無かるべし。便ち善等の如く染汚の位に非ざるべし。」(『論』第四・三十五右)
(掉挙が若し(染心に)なかったならば、囂動もないであろう。すなわち善等のように染汚心の位ではないからである。)
従って、「煩悩が起こるは必ず無堪任・囂動・不信・懈怠・放逸の五つに由る。善心の起こる位には必ず掉挙の囂動を離れる」と説かれているように、染心である位には必ず囂動(動き回ること)が存在するのである。よって掉挙は遍染の随煩悩であると主張します。
2010年2月14日の記述より
掉はふり上げる、ふりうごかすという意味があり、挙は高く持ち上げるということです。掉挙は心の高ぶりであり、心が高ぶって揺れ動くということですね。冷静ではいられないという心の働きになります。
「心をして境に於いて寂静ならざらしむるを以って性と為し。能く行捨(ぎょうしゃ)と奢摩他(しゃまた)とを障うるを以って業と為す。」(『論』)
「境」に於いてといわれますから対象です、対象世界、私が見ている、考えている対象に於いて「寂静ならざらしむ」ということです。平静ではいられないということですね。心が静かではなく揺り動かされるということになります。心が平静を保てないという事が掉挙(じょうこ)の本性なのです。行捨(ぎょうしゃ)は善の心所十一の一つに数えられ「心を平静正直にならしむる心なり」(『ニ巻抄』)といわれ、奢摩他(しゃまた)は止と訳し、心が寂静になった状態を言います。「行捨・奢摩他」を障碍するのです。行捨・奢摩他は修行に於いていわれることです。止観行といいますね。雑念を止めて心を一つの対象に集中し、正しい智慧を起こして対象を観察する修行のあり方です。心をいつも平静を保った状態で精進と貪らず・瞋からず・愚痴らずという三根を修めていくのです。いわゆる精進努力です。これを妨げる働きが掉挙なのです。
「掉挙(じょうこ)の別相と云うは。謂く即ち囂動(ぎょうどう)なり。倶生の法をして寂静なら令しむるが故に。」 (謂く囂(かまびす)く掉(ふるっ)て挙動す。是れ此の自性なり。其の倶生する心心所法をして寂静ならざら令むるが故に。)
囂ーゴウ(ガウ)・かまびすしい。がやがやと騒がしいこと。掉ートウ・チュウ掉舌(トウゼツ)-さかんにしゃべること。掉臂(トウヒ)ー腕を振り動かす、ここはですね、がやがやと騒がしく、落ち着かず、心が揺り動かされることが掉挙(じょうこ)の別相といわれるのです。
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