唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変 心所相応門 (44) 触等相応門 (26)

2011-11-04 20:33:24 | 心の構造について

 「問、且く如(いま)二十二の随煩悩の中に忿等の十四をば文に無しと説くが如く、別境の五の法と及び随惑の中の妄念・邪欲・邪勝解の三とを何が故に此れが中に説かざるや。三に随っても亦遍に非ざればなり。」

 『述記』に問がだされます。忿等の十四の随煩悩は第七識と相応しないと述べられてきたが、別境の欲・勝解・念・定や善・煩悩(四煩悩を除く)・随煩悩の妄念・邪欲・邪勝解、そして不定が第七識と相応しないことが述べられていないのは何故なのであろうか。

 「答、随の中の三は即ち是れ別境の中の三が分なり。故に此に説かず。」(『述記』)

  随煩悩の中の妄念・邪欲・邪勝解の三は別境の中の一分でありる、慧を除いた欲・勝解・念・定は第七識と相応しないというのが五遍染師の主張ですから特にここでは説かないのである、と。

 「余の心所無きことは、義いい前に説くが如し」(『論』三十三左)

 (余の心所が第七識と相応しないのは前に説いた通りである。)

 「述して曰く、此れは上の第一の師と同なりと例するなり。若し遠く上(『論』第三巻)に例せば第八識と同じきが故に別に説かず。根本の四惑は前に共に説きしが如し。然るに妄念の一は縦令是れ癡が分という云うにも、其の行相と別境の中の念が分と別なること無きを以ての故に有りと説かず。不正知は設い慧が分と云うにも亦是れ癡が分と云うにも、散乱が別体と云うにも、定・慧と行相別なり。亦倶なりと謂はむかと恐るるが故に今別に説く。又不正知は行相増強なるを以て既に慧有りと許せば、亦有りと許さむかと恐るるが故に為に之を簡ぶ、妄念と邪欲と邪解とは前の理に由るが故に亦遍ぜる数に非ず。別境の少分なるが故に此に説かず。」(『述記』第五本・五十三右)

 余の心所が第七識と相応しないと説くのは第一師の説(余の触等と倶なるが故に)と同じであるということです。第一師の主張は、第七識と相応するのは根本の四煩悩と触等の五遍行の合計九つであるという。それ以外は相応しないと。別境は相応しないという立場です。それに対して五遍染師は別境の慧は第七識と相応する立場に立ちますが、それ以外の欲・勝解・念・定は第一師と同じく第七識と相応しないという立場になります。また五遍染師は、二十の随煩悩に基づいていますので、二十二の中の邪欲・邪勝解はもともと第七識には存在しないことになり挙げられていないのです。又第七識と相応しない心所は前に述べた第八識に相応しない心所から理解できるので別に説かないと示しています。

 以上で五遍染師の第七識と相応しない心所についての主張を説き終わります。