昨日の八識と生縁についての説明になります。どんな縁があれば起きるのかを説明するところです。
「眼識の場合は九つの縁が必要なのです。「空」は空間です。「明」は明るさ。空間と明るさが無かったなら眼識は働きません。眼と対象の間にある一定の空間がないと見えません。また闇では見えませんか、明るさが必要です。「根」は眼根、「境」は見る対象。「作意」は見ようとする働き。見ようとする働きがないと見えません。「第六」は意識。眼でみるのは色彩だけです。判断力があるのが意識ですが、黒板に何か書いてあるのを認識するのは前五識です。書いてあることに分別を加えるのが意識です。五具の意識と呼ばれています。そして意識を支えているのが染汚性をもった第七末那識ですし、その底に第八識が動いています。
第八識が具体的に意識を動かしてきます。ものの見方そのものが、過去の経験を踏み台にして動いてくるのです。そして現在の現行が種子として、未来の果を決定してきます。
生きるって、ほんまに厳しいですね。油断が自分の人生を形成しているといっても過言ではないようです。
「縁と云うは謂く作意と根と境との等きの縁ぞ」(『論』第七・九左)
(意訳) 諸識が生起する縁とは作意と根と境とそれぞれの識生起の等きの縁に依るのである。眼識は九縁・耳識は八縁等という衆縁所生という。
その理由を述べるます。
「謂く五識身は内には根本識に依り、外には作意と五根と境との等きの衆縁の和合するに随いて方に現前することを得。此れに由って或る時には倶なり或る時には倶起ならず。外縁の合することは頓・漸有るが故に」(『論』第七・九左)
(意訳) 五識身は内には阿陀那識に依り、外には作意(能令心驚覚といわれ、遍行の一種・深層の阿頼耶識のなかに種子として眠っている心を驚かし喚起して目覚めさせ、目覚めた心を対象に向かわしめる心作用である)と五根と境との等きの衆縁の和合するに随って識は現前する。いろいろな条件が重なって動くときも有るが、動かない時も有る。五識は縁の具不具に由って現前することは多少有るのである。
「述曰。五識は内には本識に託すと云う、即ち種子なり。外には衆縁に籍るに由る。方に現前することを得と云う。種子は恒なりと雖も、外縁の合するに頓漸あるを以て、五を起し、或いは四・三・二・一の識は生ずるが故に。或いは五より一に至って生ずること不定なり。故に或いは倶、或いは不倶なり。七十六の解深密に説く。広慧、阿陀那を依止と為す。建立と為すが故に。若し、その時に一の眼識の生ずる縁、現前することあれば、即ち此の時に於いて、一の眼識は転ず。乃至、五の縁が頓に現前すれば、即ちその時に於いて、五識身は転ず等と説けるが故に。五識は縁の具と不具とに由るが故に、生ずること多少あり。或いは倶なり、倶ならざることもあり」(『述記』第七本・四十九左)
『論』に「内・外」と言われていますが、どのような意味があるのか、ということは、『演秘』に答えられています。
「答。二釈あり。一に云く。十二処に約すして、本識は意処の所摂なるが故に、内と為す。作意は法処なり、故に外と名くるなり。 二は唯、第八識の若しは種、若しは現は生ずる根本なるが故に、独り名けて内と為す。所余の諸縁は根本に非ざるが故に皆、名けて外と為す。論は後に依って説く」(『演秘』第六末・二左)
内には阿頼耶識を種子とし、外には縁をまって生ずる、ということですね。縁は多いのです。前にも説明していますが、眼識は九縁の和合によって現前します。私が今ここに存在しているという事は衆縁が和合して「今、ここに」というご縁をいただいて存在しているのです。私の意思だけでは動かないのですね。条件が変われば、どのようにでも変わるということです。私たちは外の出来事について批判を繰り返しますが、縁をいただいていないだけのことで、縁が整えば人を千人殺すことも可能なのです。ただ人がよくて殺すという行為に及ばないということではないのです。よく考えてみる必要があります。
ブログを綴っていまして、一番学ばしていただいているのが僕自身なのですが、一番理解していないのも僕なんです。分かったつもりでいるのですが、わからんですね。
第三能変で語られる前六識の所依は、根本識に依止(所依)しているのだと。その根本識とは阿頼耶識ではなく阿陀那識である。
阿陀那は第八識の異名です。七つ挙げられていましたが、阿陀那は「種子と及び諸の色根とを執持して壊せざらしむるが故に。」このように説かれていました。
アーダーナの音写ですね。意味は維持する、保持すること。第八識は種子と有色根とを保持し、維持している。つまり、命の相続の面から阿陀那識というのだと。
そうしますと、前六識は、私の身体や人格を維持している働きに依止しているといえます。私の中で生き続けている種子を因縁依として、現行の第八識を増上縁依(倶有依)中の共依として起こっている、動いているわけです。
眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの心は阿陀那識に依って、依り所をして動いている。そして、この六つの心は「根本識(阿陀那識)を以て共と親との依と為す。」共と親を依り所としている。
共は共通、前六識は阿陀那識を共通の依り所としている。
六識といえばですね、なにか当たり前のように、朝、目を覚ましますと働いて有るものだと簡単に思っていますが、目覚めは「覚める」という、眠りから覚めるということは、眠りの中に第八識が動いているということですね。第八識を依り所として前の六つの心は動いている、この点から「共」という言葉で押さえられている。
私の意思を超えた世界の出来事の中で、命は支えられているのですね。
そうして、眼を覚ました時に、いろんなことを見聞きします。僕でしたら、先ずスマホを見ます。テレビをつけます。コーヒ飲もうか、朝マックにしようかと悩みます。これらは自の種子から生み出されてくるのですね。経験値を踏み台にしてスマホを見たり、テレビを見たりしている。学びもそうです。
今日も学びのお誘いがありましたが、月末ということもあってお断りをしました。これも経験なのです。断ったということが種子として熏習されます。また学びは学びとして熏習され、学びの深さにつながっていきます。
つまり、種子が直接的な依り所をして六識が動いているのです。これを「親」という言葉で押さえられているのです。
前六識でもって、私の生活全般を言い表しているのですが、私の生活そのものが、私の第八識を離れてはないということなんです。そして現在しているのは、自らの種子を依り所として現われているのです。
なにか大事なことを教えているように思いますね。
認識が起るということは、自の第八識から起こり、それが認識する、認識されるという時に、自の種子を依り所として世界が展開されていくのでしょうね。
このことは、真宗的にいえば、回向の世界ですね。廻向の世界を、自分の世界に置き換えてしまうのが自力という執心ですね。唯識では遍計所執性と押さえているのです。