唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変 心所相応門 (63) 触等相応門 (45) 護法正義を述べる (Ⅳ)

2011-11-26 16:55:44 | 心の構造について

 十遍染師は理と事とは相依しており、不一不異であることから、疑が理を縁じ疑が生起した時にはそこには事が含まれるという主張ですね。事が含まれるということは、当然そこには邪勝解が疑と相応すると理解されます。そしてもう一つの解釈は事にも疑は有るが、その行相は微弱であるため、論書には遍染の随煩悩としては挙げられていないのであるということです。この十遍染師の主張を破斥するのがこの科段です。護法の主張が述べられます。

 「疏に、前の解は但事のみを疑うに約すとは、即ち前に彼の五十八を引いて云わく、疑由五相より、如何有欲勝解二数に至るなり。此の解は彼の事の疑に約して難を為すなり。」(『演秘』第四末・二十二左)

 これが前にも述べましたが、第一解になるわけです。十遍染師は理と事とは相依の関係にあると認めているわけですから、理を疑うということは事をも疑うと云うことになります。それは疑の煩悩(『瑜伽論』巻第五十八)に説かれる他世の五相を疑うということを認めていることに為り、理と事に対して猶予するということになり、決定する邪勝解が存在することは有り得ないことになります。また決定されていない事柄に対して、他世は有るのか、無いのかと疑っているところに邪勝解が働くことはなく、また不確定な事柄に対して邪欲も働くことがないというのが 「且く他世は有りとせんか無しとせんかと疑える彼に於て、何の欲と勝解との相か有る。」(『論』第四・三十五右) という論破になります。

 「疏に、以疑理所引等者とは外は前の難に属す。故に此に之れを釈す。外の難の意の云く、若し事を縁ずる疑は、是れ煩悩ならばまさに見断に非ざるべし。見断は唯だ是れ迷理の惑なるが故に。答の意は詳らかに易し。」(『演秘』)

 見断は誤った教えを聞き、邪な思考をする等を因として後天的に身につけた知的な迷い、その迷いから生じる行為で、見道で断じられるものをいいます。

 第二解は理と事について邪欲と邪勝解が遍染の随煩悩ではないことを論証します。

 「然るに去・来の若しは事、若しは理に於て猶予を生ずは、心は現在を縁ぜず。但だ去・来のみを縁ずるは、何に於てか印を生ぜん。」

 他世の事・理に対して疑の煩悩が生じている時は、心は現在を認識していないということなのです。それが例として未来の涅槃の理を縁じて疑を起こしている時、現在の事を縁じていない。ただ他世のみを縁じているところにどのような邪欲と邪勝解が生起しようとするのか。存在することはない、現在の状況が決定的に理解されていないのだから、と論破します。(「故に知る。欲と解とは染心に遍せず。此れも亦、去・来の理と事とに双べて疑すると云う。」)

 一昨日からの記述と重なりますが考えてみました。

 余談になりますが迷いと云うものは面白いものですね。迷いが迷い自身を納得させようと働くのです。迷っているのは迷わせる原因があって迷っているだけだと。あなた自身に何の迷う原因はない。原因がないのに迷っているのは他に原因があるのだから、それを解決さえすれば迷いは晴れると、迷いが迷いを納得させるのです。「見取等の如し」といわれています。見取とは『(『瑜伽論』巻第十に「見取とは云何、謂く薩伽耶見を除いて所余の見に於けるあらゆる欲貪なり。」と定義され、『論』には「謂く、諸見と及び所依の蘊とのうえに執して最勝なりとなし能く清浄を得すという。一切の闘争の所依たるを以て業と為す。」と定義されています。五見の一つなのです。他の間違った悪見を正しいと認識し、それを自己の見解として執着する心で、それが闘争をもたらす原因となるわけです。闘争の原因となる背景には自己執着心が漂っているわけですが、それが細やかに詳らかに真実を覆い隠しているのですね。闘争という面からは自己との限りない闘争です。それほど自己とは深いものなのです。迷いが迷いを納得させようと働いているのは限りなく浅く、 「行相浅きを以て是れ煩悩にあらず」と。 迷いが迷いを納得させようと働いている底に流れている自己執着心が深いのです。第七末那識相応の煩悩は深いのです。自己自身の根幹に関わる問題です。聞法は自己闘争といってもいいのでしょうね。自己を納得させるものでは有りません。「仏法を聞いて心が落ち着き、晴れやかになりました」と。これは我執が納得しているだけの話ですね。すぐに現実に戻され退転しますから、聞き方を間違えますと仏法を聞いて仏法を利用する、己の利の為にですね。世間の法の選択肢の一つとして利用するという関係になります。仏法を利用しているだけではないのかという目覚めが必要になりますでしょう。そこを突破するというか、この闇を切り裂く働きが名号ですね。南無阿弥陀仏の法です。「極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」と。それが限りなく救われることはないという目覚めにつながるのでしょう。

          浄土真宗に帰すれども
             真実の心はありがたし
             虚仮不実のわが身にて
             清浄の心もさらになし


          外儀のすがたはひとごとに
             賢善精進現ぜしむ
             貪瞋邪儀おおきゆえ
             奸詐ももはし身にみてり


          悪性さらにやめがたし
             こころは蛇蝎のごとくなり
             修善も雑毒なるゆえに
             虚仮の行とぞなづけたる

             (愚禿悲嘆述懐和讃より)

 親鸞聖人の法の深信に裏づけされた機の深信の自信に満ちた領解です。

 道草をしましたが次に進みます。次の科段は護法が六遍染師の説を論破します。初は惛沈は遍染の随煩悩ではないという説を論破します。

 「煩悩の起る位に、若し惛沈無くんば、まさに定んで無堪任性有るにあらざるべし。」(『論』第四・三十五右)

 (煩悩の生起しているところに、もし惛沈がなかったならば、必ず無堪任性も存在しないであろう。)

 無堪任性(むかんにんしょう) - 身心が調いのびやかで健やかではない状態、身心が重く不活動であること。不善の心所である惛沈のありかた。無堪任性の対は善の心所である軽安のこと。

 煩悩の生起している状態の時に惛沈という、無堪任性が存在しないと心は染心ではなく善心になる。無堪任性ではなく堪任性であるならばこれは善性になる。煩悩が生起している状態の時に、堪任性が存在するとなれば、それは誤りである。染心にはかなら無堪任性が存在しているのであって、とりもなおさず、惛沈が存在しているのである。「無堪任性を離れては染の性は成ぜずと云へり。是の故に惛沈は定んで染に遍して起こる故に」(『述記』)と。従って惛沈は遍染の随煩悩であると破斥します。