唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変 心所相応門 (47) 触等相応門 (29)

2011-11-08 21:19:10 | 心の構造について

 「又内を縁ず、如何ぞ散乱を起こすや。誰か起こさずと謂う。如何なるかを散乱と名づくる。」(『述記』)

 (第七識は内を縁じて生起するのである、にもかかわらずどうして散乱を起こすのであろうか、誰か起こさないというのであろうか。何を散乱と名づけるのであろうか。)

 「煩悩の起こる時には心いい必ず流蕩(るとう)たり。皆境の於に散乱を起こすに由るが故に。」(『論』第四・三十三左)

 (煩悩が起こる時には心は必ず流蕩する。何故かと言うならば皆境に対して散乱を起こすことに由るからである。)

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  散乱については2010年2月24日~2月26日の項を参照してください。

 「云何なるか散乱。諸の所縁に於いて心をして流蕩(るとう)ならしむるを以って性と為し、能く正定を障えて悪慧の所依たるを以って業と為す」といわれます。失念は意識の対象に於いて不能明記であると、記憶できずに正念を障えてしまうと言われていましたが、散乱は正念をもてないことから意識の対象に於いて心が散乱するのです。散乱した心をほったらかしにして正定を障えるのです。正定を障えることに於いて悪の知恵の依処となるのですね。

 流蕩とは「流は馳流(ちる)なり。即ち是れ散の功能の義なり。蕩とは蕩逸(とういつ)。即ち是れ乱の功能の義なり。」

 といわれます。心が川の流れのように、流れる様子を散といい、蕩はほしいまま、しまりがないという意味で、とろける・とろかすという意味もあります。水がゆらゆら揺れ動く様子を散といい、心がだらしなく、しまりがない状態を乱というのです。「散乱ハ、アマタノ事ニ心ノ兎角(トカク)ウツリテミダレタルナリ」(『ニ巻抄』)と。

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 六遍染師が散乱が遍染の随煩悩であることを説明します。その理由は、煩悩が生起する時には心は必ず定まらず乱れ動く。このことはとりもなおさず心・心所を流蕩させる散乱の働きがあるからである、と。このことに於いて第七末那識が生起する時には必ず散乱は相応して働くのである、と説明します。

 「述して曰く、煩悩の起こりし時には、心は必ず境に馳流して縦蕩(じゅうとう)なり、善の位の如きには非ず。此れ何の為ぞならば、皆境の於に散乱を起こすに由るが故に方に流蕩せり。諸の論には散乱を解するに皆不寂と言へり。不寂とは流蕩の義なり。此れと理同なり。故に此の三法は諸の染心に遍ぜり。此の三無くして而も染と成る者は無し。」(『述記』第五本・五十五右)