唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 滅尽証(1)

2017-09-28 21:10:35 | 阿頼耶識の存在論証
  
 
~「むなしけれ 百人千人讃えても 我がよしとおもう 日のあらざれば」~九条武子~
 どれほど周囲からほめ讃えられようとも、我が身が我が身の事実に頷き、納得できないのなら、それは空しい人生と言わざるを得ない。しかし、どれほど我が計らいをめぐらし、外に感動を求めても、ひと時の幻影でしかない。傲慢でも卑屈でもなく、「私は私でよかったね」と、自分が自分に手を合わすことのできる人生。それは私の分別の思いを超えて、私となって生きている大いなるはたらきに目覚めて開かれる人生である。そこに自ずと、何事にも頭が下がりつつも、力強い人生を賜るのである。
 西本願寺の大谷光尊師の二女で、歌人で社会事業家であった九条武子さんのこの歌は、外にひたすら感動の涙を求め続けている現代に生きる私たちに、大きな問いかけをしているようである。 (大阪教区・銀杏通信より)

 今日から十理証の内、第九理証である滅定証に入ります。
 滅尽定や無想定に入っている有情も五根と命根(身命)を保持できることから第八識の存在を証明する科段になります。
 概略しますと、滅定に入った有情は、身の因である入出息(ニュウシュツソク)と語の因である尋伺(ジンシ)と心の因でる受想とを悉く滅する。而も滅尽定に入っても猶有情であり得るのは寿(ジュ)・煖(ナン)・識の三が互いに依持(エジ)して相続するからであると。そして前六識はこの滅尽定にあっては間断しているので、ここで言われる識は第八識でなければならないと論証しているのです。
 無想定(第六識まで無くなる)
                  } 無心定と云う。(心が無い状態)
 無尽定(第七識まで無くなる)
 心が働かなくて生きているのは何に依るのか、何が人間を支えているのか?これが第八阿頼耶識であると云います。
 仏道修行にとっては定に入ること、禅定がいかに大切なことであるのかを教えています。真宗では真正面からは禅定を修することはいいませんが、親鸞聖人が晩年(御年八十五歳)に詠われましたご和讃 、(康元二歳丁巳二月九日夜・寅時夢告云) 「弥陀の本願信ずべし 本願信ずるひとはみな 摂取不捨の利益にて 無上覚をばさとるなり」、このご和讃から窺えるのは、宗祖は、我執の心が転依された仏仏想念の世界に住しておられますね。これこそが禅定の世界ではありませんか。
 寿は命根
 根は五根
 煖は体温
 識は第八識
 これ等は一生涯において変化することなく相続していることが契教に説かれている。転識を超えた世界観ですね。どこまでいっても、私からは出て来ないものです。つまり回向されたものなのですね。回向は身が証明しているのです。
 次回より本文に入ります。

阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(33)識食の体について・結び(4)

2017-09-27 19:38:02 | 阿頼耶識の存在論証
 
 第三・総結』
 「既に異熟識のみ是れ勝食の性なり、彼の識という、即ち是れ此の第八識なり。」(『論』第四・三左)
 「異熟識のみ是れ勝食の性なり」について、『述記』は「識食は第八識に通ずと云うことを知ると雖も、唯だ異熟識のみ是れ勝れたる食の性なり。彼の食と云うは即ち是れ此の第八識なり。」(『述記』第四末・十二右)
 (すでに異熟識のみが勝れたる食の性(本質)である、彼の識と云うのはこの第八識である。)
 ここで、何を指摘しているのかといいますと、識食は第八識であるということを明らかにしたわけです。このことは、私たち有情が知る由もないことではありますが、私たちが生存しているのは、第八識に依っているのですね。
 つまり、第八識のみが、間断することなく、変化することなく相続している。無間断恒相続が勝の内容になります。
 先の科段で説かれていましたが、三義を具えているわけです。
 三義とは、
  「一類」(無覆無記が性である)
  「恒」 (恒に相続していること)
  「遍く」 (三界に遍く存在していること)
 識食の體は、「諸の転識とは別である異熟識が存在しており、この異熟識が一類に恒に遍く三界に存在し、身(五根)と命(命根)を執持して壊断させないようにしているということを、知るべきである」ということなのです。
 もし間断する識を、食の體としますと、間断している時に、有情は食を摂取することが出来ず、生存が不可能になります。「二無心定及び極睡眠・悶絶」の時にでも身命を支えつづけていけるのは、第八識が存在するからなのです。
 以上で四食証を終えます。
 次回より、第九理証である滅定証に入ります。

阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(32)識食の体について・結び(3)

2017-09-22 23:53:24 | 阿頼耶識の存在論証
 
 第二は、示現を以て有情とするということを説明します。
 第一では仏は有情ではないと説明したのですが、文献によっては、仏もまた有情であると説いていることがあります。それは何故、仏有情であるのかを説明しなければなりません。それが本科段になります。
 「説いて有情と為し、食に依って住すというは、當に知るべし、皆示現に依って説けり。」(『論』第四・三左)
 示現とは、仏・菩薩が衆生救済のため、神通力を以て、いろいろ姿を変えてこの世に現れることですね。
 「説いて有情と為し、食に依って住すというは」、まさに知るべきである。仏を有情とし、食によって生存していると説いているのは、みな示現によって説いたものである。
 『雑集論』等に「仏をば是れ示現依止住食と説けり」と述べられていることを証として挙げているのです。
 四食を四種に分けて説明されているのですが、世親菩薩は、如来の意図は有情に布施をさせ、浄信を発させしめ、福徳を増長させ、ついには菩提を証させるために四食を受容しているように見せていると云う。これが示現の内容になりますね。
 四種とは、
 (1) 不浄依止住食
 (2) 浄不浄依止住食
 (3) 清浄依止住食
 (4) 示現依止住食
 『雑集論』巻第五の説明によりますと、
 (1)の不浄依止住食とは、「欲界異生なり。具縛するに由るが故に」。欲界の異生の食は、具縛によるからである。
 何か考えさせられますね。段食だけになりますと、生きる為に食するということなのでしょうね。しかし食しても死ぬわけですから、欲界の異生は、生死を考えない存在なのでしょう。
 (2)の浄不浄依止住食とは、「有学と及び色無色界の異生なり。余縛有るが故に」と説明されます。物質的な執われは離れても、まだ纏縛ですね、己に対する執が残っているんですね。三界は虚妄といわれる論拠になりますね。
 (3)の清浄依止住食とは、「阿羅漢等なり。一切の縛を解脱するが故に」と説かれています。つめり、分別起・倶生起の煩悩障を断じた位が清浄といわれるのです。それ以前は不浄ですね。
 (4)の示現依止住食とは、「諸仏と及び已に大威徳を証得せる菩薩なり」と云われています。此の位は「唯示現の食の力に由りて住するが故に」と。
 このところの説明は『世親摂論』巻第十(大正31・716c)にも、同様のことが述べられているということです。
 「唯示現食は但だ説けり、唯仏なりと。世尊は実に食を受けず、亦食を仮らず、彼は四食に約して論を作す故に。菩薩を説かず、異熟識食は彼示現に非ざるが故に。」
 諸仏及び大威徳菩薩(八地以上の菩薩のこと)の食は示現住食である。ただ示現の食力によってのみ存在するからである、と、説かれます。つまり、仏は自らが示現させた四食によって生存しているとされ、此の時には、仏も亦有情であると示されます。
 異熟識のみが勝れたる食の性であり、食というのは第八識のことであると結ばれるのです。
 私たちが知る、知らないにかかわらず、第八識によって「いのち」は保たれているのですね。

 

阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(31)識食の体について・結び(2)

2017-09-20 20:54:42 | 阿頼耶識の存在論証

 前回の講義の中で、私が救われるのは、どのような道理に由ってなのかを考えてみました。『歎異抄』では「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき」ですが、この時は永遠を表しますね。つまり「無始よりこのかた」自分の所まで届いてきた法が有るということなのでしょう。難しく言えば「空性」ですね。唯識では「円成実性」です。能対治の法です。道を求める時にたまたま出遇うことができる、求めなければ出遇うことは適わないのですね。そして出遇ってみれば、始めから自分の所に届いていたということですね。それが無漏法です。
 有漏法は考えられたもの、量られたものです。量られたものは、必ず分別を起します。この分別は自損損他であると、善導大師は教えてくださいました。
 有漏は有漏を尽くしても無漏にはならんということですね。無漏に依って有漏が所対治の法になるわけでしょう。考えられたものを超えるわけです。イデアではないのです。転(パリナーマ)が自然法爾として自らの身の上に起こるわけでしょう。此の位を正定聚の機と宗祖は押さえられました。
 もう少し、識食の體について考究します。
 問が、一切有情の中に仏ははいるのかという問題です。二つ答えが用意されています。
 (1) 仏は有情に含まれない。
 (2) 示現を以て有情とし、示現によって食と云う。『雑集論』巻第三等に「説仏是示現依止住食」(仏をば是れ示現依止住食と説けり)
 初めに仏は有情の中に含まれないということについて、 
 「唯だ取蘊に依ってのみ有情を建立す、仏は有漏無きを以て、有情には摂めらるるに非ず。」(『論』第四・三左)
 つまり、有情は無常の五取蘊を持つ者を指します。迷いの生存の自覚が有情なんです。有情という存在は何処にもいないわけです。ですからね、自分の裁量でもって他を裁いては駄目なんですね。先ほども書きましたが、他を裁くことが自を傷つけることになる。ここが外道から内道への要になるのでしょう。
 第二については次回にします。

阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(30)識食の体について・結び。

2017-09-17 12:54:48 | 阿頼耶識の存在論証
 
  識食の體について学んでいるのですが、このことは食を通して、相分の根拠は善悪を超えて(包み込んでと言った方がいいのかも知れません)、第八阿頼耶識が所依となることを論証しています。
 結論は、世尊の教説である『四食経』を以て、すべての有情は、みな食に依って住していると説かれるのである、ということです。
 『述記』は補足説明として、「本識に由るが故に、是の説を作して言く・・・」と、食が成り立つのは、本識である第八阿頼耶識であると説明します。
 本識は、先に述べましたように、一類である、三性が変化する六識とは対照的に無覆無記である。すべてを分け隔てなく無記として受け入れている、それが恒に相続し、三界に遍く存在しているという特徴を持っているのですね。
 このような理由から世尊は「一切の有情は、みな食によって生存している」と説かれるのです。
 「世尊、此れに依って、故(カレ)是の言を作す。一切の有情は食に依って住す」(『論』第四・三左)と。
 一切の有情とは三界に存在する者ということですから、二無心定の有情も、という意味になります。
 少し振り返りますと、
 六識には間断があるという点からですね、六識をもって食の體とすることは出来ないということでした。
 「謂く、無心定と熟眠(ジュクメン)と悶絶と無想天との中には、間断すること有るが故に。」(『論』第四・二右)
 つまり、前六識は無心定と熟眠と悶絶と無想天の中では間断するからである。
 本頌の第十六頌を受けて説明されています。
 「意識は常に現起す。無想天に生まれたると及び無心の二定と睡眠と悶絶をば除く。」(第十六頌)
 意識が起らない時があるのは、無想天に生まれること。無想定と滅尽定の二定と睡眠と悶絶の中では間断するからである、と。そして意識が起らないと意識を依り所としている前五識は当然起こることは無い。
 五位無心に間断がある意識が識食の体であるとすると、間断のある時に有情の身命を維持し保持するのは如何という問いが起こってくるのは当然のことですが、本科段は、間断のある識は識食の体とはなり得ないと部派の主張を退けています。
 では、無心の時は仕方ないとして、有心の時には識食の体なり得るのかと問題について、三性等は転易するところから、有心の時でも、識食の体とはなり得ないと部派の主張を破斥します。
 「設ひ有心の位にもあれ、所依と縁と性と界と地との等きに随って転易すること有るが故に。」(『論』第四・二右)
 「所依と縁と性と界と地」とは、所依の根と所縁の境界と三性(善・悪・無記)と三界九地の等(有漏・無漏)に随って転易(変化)することが有る、転易するものは識食の体とはなり得ないと述べています。
 理由は、前六識は一つには恒有ではない。二つには転易するからである。身命を維持し保持するのは、何時でも・どこでも・何があっても三界九地に遍在していなくてはなりません。それは恒有であり、転易が有ってはならないのです。それは第八識以外には無いのですね。随って、第八識をもって識食の体とするということになると説明されていました。
 ここで一つ問題が生じてきます。
 一切の有情の中に仏もは入るのかということです。答えは、仏は有漏無きをもって有情の中には入らないと説明します。
 
 

阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(29)識食の体について

2017-09-12 21:37:07 | 阿頼耶識の存在論証
 
 「此れに由って定んで知んぬ、諸の転識に異にして異熟識有り、一類に恒に遍して、身命を執持して壊断せざらしむということを。」(『論』第四・三左)
 以上述べてきたことに由って、必ず知ることができるであろう。
 諸々の転識とは別にして、異熟識が存在していることを。この異熟識は一類に恒に三界に遍在して、身(有根身)と命(命根)を執持して壊断させないようにしているということを。
 本科段は第三に、識食の體を結ぶ段になります。
 『述記』の釈には、
 「異熟識は三義を具するに由る」ことが識食に體となるという理由を挙げています。
 ここで云う三義とは「一類に」・「恒に」・「遍く」ことが条件になっておるのですね。この条件に適うのが異熟識であって、転識は除かれるということになります。
 一類は、第八識は三性にわたるということではなく、ただ無覆無記としての存在であり、変化しないということです。
 恒は、相続ですね。一類・恒で一類相続を表します。
 遍は三界に遍く存在するということです。
 転識をみてみますと、以前にも述べましたが、
 六識の中で前五識はしばしば間断し三性が善であったい、悪であったり、無記であったりと変化します。
 また、前五識の中で、鼻識と舌識は欲界のみにしか存在しません。あとの眼識・耳識・身識も欲界と色界初禅までにしか存在しないのです。
 従って、欲界の有情が色界に生じたり、無色界に生じたりした時には、前五識は色界定・無色界定の有情の身命をささえることは出来ないのですね。また第六識は、三界に遍く存在はしますが、二無心定などの五位無心の時は存在しませんから、第六識もまた識食の體とはなり得ないのです。
 詳細は先に説明されていますので振り返って学んでください。

阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(28)無色界には身無し。

2017-09-05 21:38:08 | 阿頼耶識の存在論証
  
 「又、無色には身無きを以て、命いい能く持すること無くなんぬべきが故に。衆同分の等きは実体無きが故に。」(『論』第四・三左)
 また、無色界には身が存在しないので、存在のしない身が命根を保持し、相互に食となることはできないのである。また、衆同分は実体がないから、実体のないものは食とはなり得ないのである。
 本科段は、経量部の主張を一応認めたとしても、理に合わないと論破しています。
 「設ひ、身は是れ食と許すとも、理いい亦然らず。無色界には身無し、汝が命根は能く持するもの無くなりぬるが故に、若し衆同分能く命根等を持すと言はば、皆実体無きが故に亦是れ食に非ざるべし。」(『述記』第四末・十一右)
 『述記』の説明は的を得ています。
 衆同分(シュドウフン)とは、同分ともいいます。同一種類、同類性、相似性という意味で、人間なら人間としての相似性があり、猫なら猫としての相似性があるということです。有部はこの相似性について実体(体が有るという意味)があるという立場です。唯識は、仮立衆同分という立場をとります。
 また実体の無い衆同分もまた食とはならないとして、有部の主張を退けます。
 次科段は識食の体についての結論を述べます。

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 講座のお知らせ
 先月はお休みをいただきました唯識に学ぶは前回で一応の区切りをさせていただきます。今回より、真宗と唯識というテーマで、『正信偈』の背景を学ばせていただきます。ごくごく初歩の学びに徹していくように心がけます。ご門徒さんをはじめとして、仏教を初歩から学ぼうと思っておいでになられましたら、是非ご聴聞ください。筆記用具のみの持参で結構です。会費はいただきませんし、お心遣いも無用にしてください。
 真宗大谷派正厳寺で、今週の日曜日(10日)(地下鉄谷町線千林大宮駅二番出口より国道一号線北より一本目を右折すぐです。)午後三時より五時まで。