唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の三相門について・ 因相門 (11) 本有新熏分別 護法の正義

2014-02-28 23:10:03 | 唯識入門

 昨日は、「種子に各二類有り」という護法の正義を述べました。次の科段は、本有説・新熏説のそれぞれの間違いを破斥します。

 初は、本有説を破す。

 「若し唯だ本有のみと云はば、転識いい阿頼耶が與に因縁性と為る応からず。」

 若し本有種子のみで、始起の種子がないとするならば、それでは因縁が成り立たない(転識が阿頼耶識のために因縁性と為ることがなくなってしまう。)

 因縁とは四縁の中の因縁ですが、転識と阿頼耶識とは互いに因縁と為るわけです。即ち、(本有)種子生現行にとどまってしまうということが起ってきます。これは錯誤ですね、現行は必ず種子を熏習します。現行熏種子です。この熏種子が始起になります。またこの熏種子が大変重要な鍵を握っているのですね。

 『大乗阿毘達磨経』を引用し、その証としています。

 「契経に説くが如し。
  諸法をば識に於て蔵せらる、識を法に於ても亦た爾なり。更互に果性と為り、亦た常に因性と為る。」 

 「此の頌の意の言はく、阿頼耶識と諸の転識とは、一切の時に於て展転(チンデン)して相生(アイショウ)し互に因果と為る、といはむとぞ。」

 諸法は七転識で、阿頼耶識に種子として蔵せられます。阿頼耶識が能蔵、諸法が所蔵です。また、諸法が能蔵になり、阿頼耶識が所蔵という関係になり、阿頼耶識が諸法の熏習を受けて蔵せられているのですね、それが互いに因となり果となり、亦た果が因となり、現行熏種子・種子生現行・(種子生種子)と更互に因縁となることが説かれているのが、その証である、と。

 第二の証は『摂大乗論』の説を引用し論証しています。

 更互に因縁と為ることについて、炷(シュ)と焔の喩、束蘆の喩えが説かれて論証しています。


阿頼耶識の三相門について・ 因相門 (10) 本有新熏分別 (6) 

2014-02-27 22:15:53 | 唯識入門

 護法合生義を読んでみます。(護法の正義が示されます)

 「有義は種子に各(オノオノ)二の類有り。
 一つには本有(ホンヌ)。謂く無始より来た、異熟識の中に。法爾に有りて蘊処界(ウンジョカイ)を生ずる功能差別(クウウノウシャベツ)なり。世尊此に依って諸の有情は無始の時より来た種々の界有り。悪叉(アクシャ)の聚(アツ)まるが如く法爾に有りと説き給う。余の所引(ショイン)の証は広く初(ハジメ)の如し。此を即ち名けて本性住種(ホンショウジュウシュ)と為す。
 二には始起(シキ)。謂く無始より来た数数(シバシバ)現行に熏習せられて而も有り。世尊此に依って、有情の心は染浄諸法(センジョウショホウ)の所熏習(ショクンジュウ)なるが故に、無量の種子の積集(シャクジュウ)する所なりと。諸論にも亦染浄の種子は染浄の法の熏習するに由るが故に生ずと説く。此を名けて習所成種(ジュウショジョウシュ)と為す。」

 護法は、種子には、本有と新熏の二類(両方)が有ると云われています。文面だけを取り上げてみますと、護法さんは、護月本有説と難陀新熏説を折衷して両方あるんだ、という解釈になりますが、護法さんの立場は、唯識無境でありますし、種子は阿頼耶識の相分であるということから、「自己とは何ぞや」という問いからの答えのように思えます。

 両方有ると云われる、一つは本有ですし、もう一つは始起といっています。新熏を始起とあらわしておいでになるのですね。始めて起ることを新熏というのだ、と。

 証を引いて本有と新熏の両方あることを論証しますが、最初に「本有を証す」という、本有の方ですね。

 「無始より来た」という過去を背負って現在があるという異熟識ですね。この異熟識の中に法爾(自ずから自然に)に有って、「蘊処界(ウンジョカイ)を生ずる功能差別(クウウノウシャベツ)なり。」 五蘊十二処十八界です。これを以て現行法を表わしています。この現行法は、私たちの中にある種子によって造られている、即ち生果の功能である、と。本有とは、私たちの中で造られている功能差別であって法爾にあるんだ、といわれるんですね。

 大事なことは、現行法である五蘊十二処十八界のすべては私の心が造り上げたものであるということです。

 悪叉(アキウシャ)と出てきますが、アクシャの音写で、悪いという意味ではありません。どんぐりに似た果実の名前なのです。この実が地面に落ちると一か所に集まるところから、おなじところに多くの種類が存在していることの喩に用いられているのです。

 悪叉聚の喩を以て、「法爾に而も有り」と説かれているのですね。五蘊十二処十八界という集まりによって自己形成が成り立っている、これは本来性であることから、本性住種と云われているのです。種は阿頼耶識の中に有る種子のことですが、この種子が先天的に有る種子のことを本性住種といいますが、これが「異熟識の中に法爾に而も有り」といわれているところです。無漏智を生じる先天的に有する種子のことですが、ここは有漏種子についても本性住種と云われています。

 生まれ持った性格・性質・才能というのは有るわけですが、これが先天的に持っている種子のことなんですね。しかし、この種子は本来無漏智を生じるべき種子なのです。

 問題はここですね、一面本有は有る、と認めつつ、本有を覆っている無明の闇が潜んでいるということではないでしょうか。種子が染汚されてしまうということにおいて、善(仏法を聞く)の種を熏習することの大切さが教えられているのでしょう。始起において、如何なる種子を熏習するのかですね。後天的に熏習されますから、習所成種といわれています。この二面性が有ると云われているのが護法さんなのですね。


阿頼耶識の三相門について・ 因相門 (9) 本有新熏分別 (5) 

2014-02-26 22:28:15 | 唯識入門

 論題からは横道にはずれてしまいますが、『大経』に「みな自然虚無の身、無極の体を受けたり」(真聖p39)と経文に述べられていますが、私たちは、本来、自然に身と体を受けているんでしょうね。これは事実と相違するかもしれませんが、私が生れる寸前にですね、産道を通過するときにですね、余りの衝撃と云うか、痛さに悶絶するというんですね、そうするとですね、過去の記憶が消え去ってしまう。いうなれば無想定の状態で生まれてくるわけです、ですから眼を覚まさなくてはならないのですね、オギャとですね。これを没するといいますけれどもね。本来の自己を忘却の彼方に置き忘れてくるんです。、そうしますとね、私たちが生れてきたことは、故郷を喪失して生まれきたということになります。そこにですね、「三界濁悪世には止まるべからず」と教えられるんですね。本来の身と土を置き忘れて、仮の身と土を本来と顛倒し、執着をしているのですが、これは四諦の理に違背していますから、苦悩が現出してくるのですね。苦悩の現行は本来生の乖離から生まれてくると言ってよいのでしょう、と私は思いますが。

 生きとし生けるもの、衆生ですね。衆生には自然治癒力という力が有ると云います。現在は全くといっていいほどサプリメントに依存していますから、自然治癒力や免疫が低下していますけれども、これも自然に逆らって生きている、顛倒なんですね。これもですね、本来の方向性が見えないから起こってくる問題なのでしょう。本来性とは、故郷回帰性なんだと思います。私たちは本来の身土を求めているんですね。求めているんですが、求めていることに先立って「みな自然虚無の身、無極の体を受けたり」と、「この現前の境遇に落在するもの」に開きを得るのでしょう。

 すべては自分が造ってきた境遇であったということですね。今の環境のすべてです。今日は聞法会だ、どうしても行かなくてはならない、しかし、どうしても外せない用事ができてしまった。やむを得ず聞法会は欠席することにします、ということもですね、私が造ってきた状況なんですね。他からやってきた条件ではないのです。すべてなんですね。自分が自分で作ってきた状況に振り回されているに過ぎないのです。「嗚呼そうだったんだ」という頷きですね。この頷きが回向なんでしょう。回向にあずかる、ということは本来の自己に帰るという頷きなんでしょうね。そこには、背いてきたという事実があるわけです。背いてきた過去を引きずって今が有る、今の自己存在が有るということなんでしょうか。今といってもですね、過ぎ去った過去でしかないわけです。自己中心的に云うならばですね。未来はないわけです。果てしのない放浪の旅を余儀なくされるのでしょうね。しかしね、本来回帰性という原点からはですね、未来から現在に向かって「西岸上に人ありて喚ぼうて言わく汝一心にして直ちに来れ、我よく護らん」という、「能生清浄願往生心」の賜りなのでしょう。

 唯識で、種子論ですね、本有種子と新熏種子という議論からですね、五姓各別と云う思想もうまれてきたわけですが、差別思想と云うわけではなくてですね、仏教徒の厳しい自己との格闘があったのでしょうね。一面からいうと、本来の無漏種子がないと解脱は出来ない。熏習を重ねても重ねても有漏の種子を増長するしかできない。そこには大きな隔たりがあってどうしても超えることのできない金輪際の壁が立ちはだかっているといわざるを得ないのですね。しかし、聞熏習を重ねることにおいて、恰も「麻の香気の華を以て熏ずるが故に生ずるが如し」といわれていますように、熏習に由って種子が有るということにも頷きを得るわけです。

 「界・趣・生を引く」と説かれていましたが、私たちは、人として生を受けたということですね。三悪趣を離れて人として生まれたということです。人の果報を受けたのですね。源信和上は「人かずならぬ身のいやしきは、菩提をねがうしるべなり。」と。人として生を受けたのは、菩提を願うことだと教えてくださいました。「また妄念はもとより凡夫の自体なり。妄念の外に別の心もなきなり」と、妄念の外に自己存在は無いんだと言明されています。妄念が自体とは、無根ですね。仏じ成る資格のない者ということになりますが、ここにこそですね、仏に成ることの出来る道があるんですね。

 『信巻』を引用し、今日の雑感とします。

 「世尊、我世間を見るに、伊蘭子より伊蘭樹を生ず、伊蘭より栴檀樹を生ずるをば見ず。我今始めて伊蘭子より栴檀樹を生ずるを見る。「伊蘭子」は、我が身これなり。「栴檀樹」は、すなわちこれ我が心、無根の信なり。「無根」は、我初めて如来を恭敬せんことを知らず、法・僧を信ぜず、これを「無根」と名づく。世尊、我もし如来世尊に遇わずは、当に無量阿僧祇劫において、大地獄に在りて無量の苦を受くべし。我今仏を見たてまつる。これ仏を見るをもって得るところの功徳、衆生の煩悩悪心を破壊せしむ、と」(真聖p265)


阿頼耶識の三相門について・ 因相門 (8) 本有新熏分別 (4) 

2014-02-25 22:49:10 | 唯識入門

 護月本有義の主張は「無漏種子は法爾に本有なり」。元々(生まれつき)持っているものでり、「熏ずるに従って生ずるものにはあらず。」と。熏習の意義もですね、本有説からですと、本有に熏習するという意味になります。もともと有ったものが経験に由って増長していくのだといっています。本有が種ですね、それに経験が熏習していくという構図で考えられているようです。ですから、本有が無漏なのか、有漏なのかが大きく問われることになるのでしょう。

 次に、難陀の新熏義を読んでみます。熏習うの積み重ねの悠久性を説いているわけですが、『論』には

 「有義は、種子は皆熏ずるが故に生ず。所熏と能熏と倶に無始より有り。故に諸の種子は無始より成就せりと云う。種子は既に是れ習気(ジッケ)の異名なり。習気は必ず熏習するに由って而も有り。麻の香気(コウケ)の華(ケ)を以て熏ずるが故に生ずるが如し。」

 「契経」以下は証文を引いて論証しています。

 本有説から真向対立した意見が出されています。種子がもとも有るわけではなく、熏習があるから種子は有るのだという主張になります。

 この主張の要は、種子には所熏と能熏が有るということ、これが無始より来た有るという主張ですね。阿頼耶識の三義の中では、能熏が阿頼耶識の所蔵になり、所熏が阿頼耶識の能蔵になって種子が蓄積されてくるという構造を持っているのだ、と。

 種子はまた習気ともいう。気分とも表されますが、習は現行による熏習、経験によって蓄積される熏習ですね。気とは現行の気分であるといわれています。熏習するという点から習気といい、習気が再び現行を生ずることから種子といわれていますが、内にある香気を習気、香気が表に現れ香を漂わす現行を種子という内外相応ですね。習気は熏習がなければ存在し得ないわけですが、また熏習に由って種子があるのだ、ということになりますね。

 例えば 「麻の香気(コウケ)の華(ケ)を以て熏ずるが故に生ずるが如し。」 というようなことである、と。

 新熏説はですね、経験が蓄積され熏習されて一人の私の人格を形成していくのだ、という主張です。

 阿頼耶識は無覆無記という純粋性をもっているわけですから、そこに何を植え付けるのかが問われているのでしょうね。それによっては、どのように変化するのかわからない自分であるともいえますね。

 本有と新熏、対立しているように思われるのですが、よく両方の主張を尋ねてみますと、意外にも隠された部分の主張が見えてまいります。

 護法はこのところを鋭くついています。人間には本来的に持つ一面と、生活を通して吸収し取得していく一面とが有るということです。この二面の備わったのが現実の人間存在であるという人間観ですね、それを確立したのが護法さんであるというわけです。これが、護法合生義(ゴホウガッショウセツ)になります。


阿頼耶識の三相門について・ 因相門 (7) 本有新熏分別 (3) 

2014-02-23 22:39:38 | 唯識入門

 『涅槃経』の一番特徴的なのが、一切衆生悉有仏性(イッサイシュジョウシツウブッショウ)ですね。すべての衆生には仏に成る性質を持っているということを説いているのですが、もう一つの特徴は、一闡提回心皆往(イチセンダイエシンカイオウ)が説かれていますね。ここは、文面から察しますと、五種性として、本有の種に違いが有る、もう全く悟りを開く種を持っていない者がいると読めるわけです。

 「法爾の種子有りて熏ずるに由りて生ぜ不る応し」

 と。本有の種子の違いに由って、五種性に別れてくるんだと。熏習によって五種性の違いがあるのではない。、といっているんですね。

 五種性というのは、菩薩種姓・独覚種姓・声聞種姓・不定性種姓・闡提(無姓)種姓を指します。

 菩薩種姓・独覚種姓・声聞種姓は、悟りを開く無漏の種子を持っている人を指しますが、不定種姓というのは、定まっていない、あらゆる可能性を持っているということになるのでしょうが、問題は闡提(無姓)種姓ですね。無漏の種子を持っていない者がいる。不般涅槃法として取りあげられているわけです。

 『成唯識論』は単刀直入に、悟りを開くことのできないものがいると切り込んできたのですね。「それは誰のことか」という問いです。「あなたは仏教を学んで、本当に悟りを開くことが出来ると思っているのか」ということでしょうね。ここに『涅槃経』と『成唯識論』の対応が生れてくるように思います。ここは非常に厳しい問いかけではないでしょうか。

 無姓種姓であっても、阿頼耶識は無覆無記である、人生を見直し変革することが出来るんだと教えています。「我が身は底下の凡愚」ではあっても「底下の凡愚」を目覚ましてきた法に触れているわけですね。

 

 「世尊、我世間を見るに、伊蘭子より伊蘭樹を生ず、伊蘭より栴檀樹を生ずるをば見ず。我今始めて伊蘭子より栴檀樹を生ずるを見る。「伊蘭子」は、我が身これなり。「栴檀樹」は、すなわちこれ我が心、無根の信なり。」

 

 無根というのは、無漏種子が無いという自覚から生まれてきた信ですね。「無始より来、雑染の為に互に縁」となつて迷っているわけです。とりもなおさず仏種が無いということの頷きが自然法爾に浄土への方向性を決定づけてくるのでしょう。大事なことは、新熏種子の熏習です。法有種子が有るのか、無いのかはわかりません。私は、本来的に本有種子は有るものでも無いものでもないと思うんです。法に触れた時に初めて仏種は無いという目覚めを頂くのではないでしょうか。そこから開けてくるのが新熏種子の熏習ですね。聞法です。聞法が人をして、人として歩んで生きる道を指示していくのでありましょう、そのように思えてなりません。

 

 先ず、自分なりの意見を述べて、『成唯識論』の中身に入って学んでいこうと思います。今日はここまでにしておきます。


阿頼耶識の三相門について・ 因相門 (6) 本有新熏分別 (2) 

2014-02-20 23:13:16 | 唯識入門

 本来ならば、本有説に対する難陀新熏説を述べる所ですが、『論』の次第により、本有説を立証する証拠の文献を挙げて自説(本有説)を証明します。

 (1) 「契経(『無盡意経』)に説くが如し、一切のの聚(アツマ)れるが如くにして法爾(ホウニ)に而もありという。界と云うは即ち種子(シュウジ)の差別(シャベツ)の名なるが故に。」

 (2) 「契経(『阿毘達磨(アビダツマ)経』)に説かく、無始の時より来た界(因の義・種子)たり、一切の法が等(ヒト)しき依たりという。界というは是れ因(種子)の義なり。」

 「一切の法が等(ヒト)しき依たり」とは、第八識が七転識の所依であることを述べています。種子が無始より来た、本有であることを証明する言葉として引用されています。

 (3) 瑜伽(『瑜伽論』巻第二)にも亦説かく、諸の種子の体は、無始の時より来た、性本有と雖も、而も染浄に由って新たに熏発(クンポツ)せ所(ラ)ると云う。
 諸の有情類は無始の時より来た、若し般涅槃法(ハツネハンホウ)の者ならば一切の種子皆悉く具足せん、不般涅槃法(フハツネハンホウ)の者ならば便ち三種の菩提の種子を闕(カケリ)と云う。是の如き等の文(モン)の誠証(ジョウショウ)一に非ず。」

 三種の菩提(智慧)の種子を闕けり - 声聞菩提・独覚菩提・仏菩提というそれぞれに違いがありますが、不般は、悟りを開く智慧の種子を闕いている者ということになります。

 又(『楞伽経』)諸の有情は既に本より五種の性の別有りと説く。故に定めて法爾の種子有りて熏ずるに由って生ぜざるべし。

 傍線の部分が、唯識独自の解釈になりますが、古来より言われています五性各別説になります。大別しますと、般涅槃法の者(無漏種子も有漏種子のすべて具足している者)と不般涅槃法の者(無漏種子を具足していない者)に分けられます。

 今日はここまでにしておきますが、親鸞聖人を通して伺えるところは、『涅槃経』の中に説かれています無根の信ですね。喩が出されていますが、根の無いところに信心の華が開く、という問題です。悟りを開く、信心を開く種子が無いところに信心の華が開花するとはどういうことなのかですね。徹底的な無具足の自覚ですね。『涅槃経』の一切衆生悉有仏性を説いているところとの関連を考えていかなければと思います。

 それとですね。唯識無境ですから、外界は存在しない、有るのは阿頼耶識の相分であるということですから、不般涅槃法の者が外側に在るものではありませんね。外側に存在するのであれば唯識無境とはならないです。


阿頼耶識の三相門について・ 因相門 (6) 本有新熏分別 (1) 

2014-02-19 22:43:04 | 唯識入門

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 「人は、法を求めるに止まって、法に生きることを、忘れている。」 高光大船 (法語カレンダーより)

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 この科段より、七。本有・新熏分別門が説かれます。

 種子は本より有るものなのか、熏習によって新たに生じたものなのかを考究します。

 前回において、種子に、有漏の種子と無漏の種子があることを述べましたが、今回は、本有(ホンヌ)の種子と新熏(シンクン)の種子について考究されるところです。

 最初に本旨が述べられています。古来、護月本有義と云われている所ですが、護法もこの本有説を踏襲しています。説としては、護月の本有説、難陀の新熏説、護法の合釈説という三説があります。

 先ず第一説です。(護月本有説)

 「此の中に有義は、一切種子は皆本(ミナモト)より性有り。熏ずるに従(ヨ)りて生ずるものには非ず。熏習力に由りては但し増長す可し。」

 種子は本より存在していて、熏習によって新たに生ずるものではない、と説いています。そして「熏習力に由りては」は問いになります。これは諸の経・論に、種子は「熏習に由りて有り」と説かれているのはどういうことなのか、という問いですが、「増長すべし」と答えられ、種子は熏習に由っては増長するだけである、と。

 出体門において、種子は「本識の中にして親しく自果を生ずる功能差別なり」と定義されていました。種子は自果を生ずる功能、功能は力であるといわれていましたから、私の人格を形成する力となるものが、生果の功能なんですね、そういう力が本有である、本来備わっているものである、と護月は主張しているのです。熏習力というのは、本有の上に、新たに熏習するという意味であって、新たに本識の中に蓄積し熏ずるというものではないというんですね。元々ですね、その上に経験に由って積み重ねていく、増長するものである。これが本有説から述べられる熏習の定義になります。

 ここから先はですね、読み方を間違えると大変差別的な表現になってしまいます。この本有説もですね、人は生まれ以て種子をもっているということですから、生まれに由って決定すると読めなくはないのですね。生まれつき持っている種子の上に経験を積み重ねることにおいて熏習を増長する、ということですからね。

 仏法は、自覚から出発する、というのが第一の定義になります。信心もですね。、信心を得たところから聞法が始まります。まぁそれまでは資糧門ですね。

 「人身受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。」

 ここからの出発です。人として生まれたということが、種子を持ったということになるのでしょうね。人身の上に一切、あらゆる経験が熏習されるのですね。

 それともう一つですね、素質といいますか、持って生まれた才能ですね。これは否定できません。素質の有無は確かに有るんですが、それに由って人生が決定されるものではありません。人生を決定する縁にはなります。これは大変難しい所ではありますが、私は私の人生を振り返って思いますことは、若いころは無茶苦茶な生きざまをしておりました。人様から後ろ指をさされても、いたしかたのないような生き方です。親から勘当され、長い長い放浪の生活を余義なくされたのですが、私にはこれしか仏法に出うすべはなかったんですね。仏法に出遇うためには長い時間が必要だったんです。お一人お一人、立場は違うでしょうが、それぞれの立場において仏法に出遇う縁が育てられているのではないでしょうかね。そのように思われてなりません。

 あなたも、あなたも、今、仏法に出遇うチャンスを得ているんですよ。人として生まれたのは、人として生きる、人として生きよ、というメッセージなんでしょうね。仏法に出遇うた者の責任として、「生きる」ということはどのようなことなのかを発信していかなければならないと思います。

 もう少し踏み込んで言うと、「私を見よ」ということになるのでしょうか。「仏をみたけりゃ、私を見よ」というた人がおられましたが、このような自信力が自信教人信の内実なんでしょうね。

 次は証文をひいて自説を論証します。次回に述べます。


阿頼耶識の三相門について・ 因相門 (5) 三性分別 (3)

2014-02-18 23:23:56 | 唯識入門

 煩悩の異名として纏(テン)が云われます。纏はまとわりつくという意味がありますが、まとわりつくとですね、元に戻そうとする運動が起ります。煩悩は、身心を擾乱(ニョウラン)すると云われているのですが、しかし煩悩は煩悩自身が、煩悩障浄智所行真実(ボンノウショウジョウチショギョウシンジツ)という真実の智慧に戻ろうとする自浄作用を働かせるのでしょうね。「苦悩を転じよ」という催促なのではないかと思います。

  •  煩悩は、「煩是擾義、悩是乱義」(煩は是れ擾の義、悩は是れ乱の義)と定義されます。擾はみだれる、さわがしい、という意味です。煩はわずらわしいことですから、煩わしく騒がしいい。乱はみだれる。わずらわしく、さわがしく、自分の心が乱れることを煩悩であるといいます。

 少し煩わしくなりますが、何故煩悩が起るのか、を考えてみたいと思います。『瑜伽論』に煩悩の起る因を分析しています。それによりますと、煩悩が起る因に六種あると説かれています。

  1.  由所依(ショエニヨル)
  2.  由所縁(ショエンニヨル)
  3.  由親近(シンゴンニヨル)
  4.  由邪教(ジャキョウニヨル)
  5.  由数習(シュジュウニヨル)
  6.  由作意(サクイニヨル)

 (1) 所依に由る。所依は我執です。自分に執われて起ってくるのが煩悩である。所依を転じ、仏法を所依とすると清浄意欲が起ってくる。

 (2) 所縁に由る。何を対象にしているのか。私たちは常日頃なにを対象に動いているのかが問われています。我所の問題ですね。所依は我、所縁は我所。ともに無なのですが、有とするところに煩悩は起こってくるのですね。

 (3) 親近に由る。親近するものに依って煩悩が起きてくる。これも自他を分別し、自そのものが有るとする考えから、煩悩が起ってくるのは他の責任であるという、責任転嫁ですね。

 (4) 邪教に由る。間違った教えに依って煩悩が起きてくるということです。これも、自分の功利心ですね。功利心が邪教に導かれていく。邪教は功利心につけ込んでいくんですね。

 (5) 数習に由る。これは習慣に由る。数習の数はしばしばということ。生活習慣に依って煩悩は起こってくる、と。

 (6) 作意に由る。作意は、心を驚かすという、驚覚の義があります。心を驚かして立ち上がる。何かをしようと思い立ち上がることにおいて煩悩が起きてくる、といわれているのです。

 (1)から(6)までは自分が中心なのですね。それに依って煩悩が起きてくるのですが、自分を仏法に置き換えますと、善法欲になるのですね。

 大切なことは、煩悩が起こっている時に、静かに精神統一、心を一点に集中して定に入るのですね。そうするとですね、煩悩が起ってくる因はですね、(1)から(6)の理由に依ることが解ると云われているのですね。

 「若し爾らば」という問いが立てられています。異熟についての解釈の違いです。異熟の定義に『述記』には、三釈述べられています。

  1.  変異熟
  2.  異時熟
  3.  異類熟

 三番目の異類熟が異熟無記のことなのです。異類にして熟す。因是善悪・果無記のことを指します。

 一番目の変異熟は、変異して熟すという意味で、善悪業が変異して熟す、例えば、柿が赤くなって熟すようなものである。二番目は、異時にして熟す。時間的隔たりをもって果を受ける。因と果の間に時間的隔たりがあるということです。

 異熟無記という場合は、同時因果になります。果は無記、因は善悪という類が異なるということです。

 問いは、異熟について質問し、三性分別で説かれている異熟無記とは異なることを明らかにしているのです。

 明日は、本識と無漏種子について考えます。


阿頼耶識の三相門について・ 因相門 (5) 三性分別 (2)

2014-02-17 21:47:08 | 唯識入門

 有漏の漏は、アビダルマでは「不浄を流出すると、三界に留任させる」という意味で、漏が使われています。それとの関わりでしょうか、漏を漏泄(ロゼツ)ともいい、ともにもれるという意味ですが、泄をエイと読むときは、ながながと引きずるという意味に使われています。

 何故漏れるのかという問題ですね。ここに倶生起と分別起の法・我執の問題があると思っています。阿頼耶識の流れは、「恒に転ずること暴流の如し」と云われていますように、一時たりとも留まるということはないのですね。しかし我は常として留まるのです。本来は無我と教えられていますから、我と無我の流れの中で我は堰を造ってしまうのでしょう。我は有漏、無我は無漏ですね。流れに堰を造ってしまいますから、容量を超過しますと、当然のこととして溢れ出します。この溢れ出しているのを煩悩と呼んでいるのではないでしょうか。堰は我執ですね。表面は六識相応の煩悩であり、堰の中に留まっているのが末那識相応の四の煩悩ということになりましょうか。

 ここで問題はですね。表面に現れた根本煩悩に対しての善、所謂有漏の善ですが、ここでの善行というのは倫理・道徳の問題になるのではないでしょうか。倫理・道徳は非常に大切な人倫の道なのですが、漏れているところがあるんです。根にですね、堰の中に留まっている染汚・ヘドロが隠されているんですね。有漏の善はどこまでいっても、雑毒の善であり、行は虚仮の行になるのでしょう。雑毒の善・虚仮の行を尽くしても無上大涅槃を得ることはできないのですね。

 親鸞聖人は『信文類』(真聖p215)に

 「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、中に虚仮を懐いて、貪瞋邪偽、奸詐百端にして、悪性侵め難し、事、蛇蝎に同じ。三業を起こすといえども、名づけて「雑毒の善」とす、また「虚仮の行」と名づく、「真実の業」と名づけざるなり。もしかくのごとき安心・起行を作すは、たとい身心を苦励して、日夜十二時、急に走め急に作して頭燃を灸うがごとくするもの、すべて「雑毒の善」と名づく。この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に求生せんと欲するは、これ必ず不可なり。」

 

 と教えておられます。竪超の道ですね。どこまで尽くしても超えられない壁があるということでしょう。それは「中に虚仮を懐いて」という倶生の染汚が漂っていることにメスを入れていないからなのでしょう。これが有漏の種子の問題になるのではないでしょうか。ここに無漏の種が説かれなければならない必然の問題があるように思います。

 

 二は、無漏種(ムロシュウ)について説かれます。

 

 「諸の無漏の種(シュウ)は、異熟識の性の所摂(ショショウ)に非ざるが故に、因も果も倶に是れ善性に摂めらるるが故に唯だ名づけて善と為す。」

 

 無漏の種子は、無我の種子ですね。仏果ですから、異熟果の識ではないということになります。すべて善性である。因は現行の無漏智であり、その所熏が無漏種子。現行の果が無漏であるならば、熏じられる所の種子も無漏であるということになります。ここに仏道を歩むという最大の課題があるのでしょうね。

 

 有漏から無漏へという課題にどうやって答えていくのか。親鸞聖人の課題もここにあったのではないでしょうか。

 

 「雑毒の行を回して、かの仏の浄土に求生せんと欲するは、これ必ず不可なり。」

 

 有漏の善をつくしても、超えられない道がある、もし有るとするならば、その道とはいかなる道なのか。このような問いが、問いに先って問いを生んでくる背景があるのでしょう。それが未来からやってくる。浄土から穢土へという還相の相なのではないでしょうか。それに応答していく相が往相ということになり、横超の道として、有漏から無漏へ超えることが可能となることを教えておられるのだと思います。

 

 「愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。」という表白ではないでしょうか。

 

 世親菩薩の課題もここにあったのではないでしょうか。有漏から無漏へ、

 

 『浄土論』(真聖p141)に「すなわちかの仏を見たてまつれば、未証浄心の菩薩畢竟じて平等法身を得証して、浄心の菩薩と上地のもろもろの菩薩と畢竟じて同じく寂滅平等を得しむるがゆえなり。」と述べられている背景には、菩薩十地の階位に於いて、七地から八地という絶壁が立ちはだかっているところを超えることができるのかという、菩薩が絶望ともいえる大海原を眼前に立ち尽くして行き場をなくしてしまう死との葛藤があったのではと思うのです。

 

 親鸞聖人も、この荘厳不虚作住持功徳成就を大切になさいまして、『信文類』(真聖p285)に引かれて横超の大菩提心を明らかにされています。

 

 「また言わく、「すなわちかの仏を見れば、未証浄心の菩薩、畢竟じて平等法身を得証す。浄心の菩薩と、上地のもろもろの菩薩と、畢竟じて同じく寂滅平等を得るがゆえに」とのたまえり。「平等法身」とは、八地已上の法性生身の菩薩なり。(「寂滅平等」とはすなわちこの法身の菩薩の所証の)寂滅平等の法なり。この寂滅平等の法を得るをもってのゆえに、名づけて「平等法身」とす。平等法身の菩薩の所得なるをもってのゆえに、名づけて「寂滅平等の法」とするなり。」

 

 次は問難が出されています。明日考えます。

 

 


阿頼耶識の三相門について・ 因相門 (5) 三性分別

2014-02-16 21:34:03 | 唯識入門

 種子には二種あって、その種子はいずれの性に摂まるのかを考察します。一切種子の三性分別門になります。三性とは、善・不善(悪)・無記になりますが、種子は無記性であることを立証しています。

 種子の二種とは、一つは有漏の種子であり、一つは無漏の種子である。種子に二種あり、いい言葉ですね。私たちの蓄積していく経験に二種類あるんだと。それは有漏の経験と、無漏の経験である、しかしですね、共に果は無記性に摂められるといいます。どんな経験であっても、現行してきた果そのものは無記性だというんですね。第四頌第一句に「是れ無覆無記なり」と述べられていますが、現行そのものは、無覆であり、無記であるということなのですね。茲にですね、私たちが目覚めていくことのできる鍵が隠されているように思います。

 先ず、有漏の種子について考察されます。

 「諸の有漏(ウロ)の種(シュウ)は、異熟識と体別(タイコト)なること無きが故に無記性(ムキショウ)に摂(オサ)む。因も果も善等の性有るが故には亦善等とも名く。」

 一つは有漏の種子であるということです。有漏の漏は、流れ出すもの意味になります。何が漏れるのかといいますと、「我」が漏れるのです。これが煩悩といわれている正体なのですね。

 この有漏の種子がさらに分析されています。解釈に二つあるということを述べています。

 「異熟識と体別なること無きが故に無記性に摂む」と。有漏の種子であっても、異熟識と体は別なることはなく、無記性である、ということを明らかにしているのです。これが第一の解釈になります。本識と種子の関係で述べられています。本識は無覆無記性で有りますから、種子は本識の功能ですから、用を摂めて体に帰せしめる解釈なんですね。人間の持っている根底といいますか、深層の心は、無色透明であるということなんですね。善でもなく、悪でもない、無色透明の自己が純粋経験として有るということを教えています。いうなれば、経験そのものは善でも、悪でもないということです。生命の誕生といいますか、誕生そのものは善でもなく悪でもない、何ものにも色づけされていない無記であるということなんですね、阿頼耶識はね。しかし、ここの論題ではありませんが、倶生我執・倶生法執ということを学びました。無記性を覆ってくるものがあるんですね。ここの関わりですね、矛盾しますけれどもね、しかし、本来無記であるということなんです。

 矛盾したかかわりの仕方を、第二の解釈で述べています。

 「因も果も倶に善等の性有るが故には亦善等と名く」と。

 「因」は能熏の現行法です。能熏の現行法が善であれば所熏の種子も善である。「果」は所生の現行法、能生の種子が善であれば所生の現行法も善である。また逆もいえます。悪の種子は悪として熏習されるということです。そうなれば、善因善果・悪因悪果になるのではないかという疑問が生れます。善因は楽果、悪因は苦果を生み出すといわれていることと矛盾するではないか、ということですね。しかし、『論」は、たとえ因が善でもあれ、悪でもあれ、果は無記であると教えているのですね。無記であるということが聞法を成り立たしめている原点なのではないかと思います。自分のことを振り返って思いましても、私の過去の残虐非道さをもってしては悪道に堕すことはあっても、善道に歩むということは不可能なんです。しかし、仏法に出会い、念仏の教えに出遇うことを通して、仏法を讃嘆させていただける身に育てられてきた。ということは、一切衆生、すべての人々が回心できる性質をもっている、それが無記性と教えられていることではないのかと思うのです。無記性なるが故に、善にも向かい、悪にも向かい得ることになるのでしょう。その点からも、聞法ですね、仏の教えを蓄え、熏習することが大事なことになるのではないでしょうか。無記性の二面性ですね。これが有漏の種子になるのではないかと思います。無色透明だからこそ、なにものにも染められていくということなのでしょう。善にも染められ、悪にも染めらる、しかしそれを底辺から支えているのが無記性といわれる働きでり、この働きは本来性に戻そうとする働きではないのかと思うんです。逆に向いた悪のねじれを本来に戻す働き、真っ直ぐ向いた善の方向は真っ直ぐに伸びていく働きを持っているのが無記性という性質なのではないでしょうか。

 明日は、無漏の種子について考えます。