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「人は、法を求めるに止まって、法に生きることを、忘れている。」 高光大船 (法語カレンダーより)
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この科段より、七。本有・新熏分別門が説かれます。
種子は本より有るものなのか、熏習によって新たに生じたものなのかを考究します。
前回において、種子に、有漏の種子と無漏の種子があることを述べましたが、今回は、本有(ホンヌ)の種子と新熏(シンクン)の種子について考究されるところです。
最初に本旨が述べられています。古来、護月本有義と云われている所ですが、護法もこの本有説を踏襲しています。説としては、護月の本有説、難陀の新熏説、護法の合釈説という三説があります。
先ず第一説です。(護月本有説)
「此の中に有義は、一切種子は皆本(ミナモト)より性有り。熏ずるに従(ヨ)りて生ずるものには非ず。熏習力に由りては但し増長す可し。」
種子は本より存在していて、熏習によって新たに生ずるものではない、と説いています。そして「熏習力に由りては」は問いになります。これは諸の経・論に、種子は「熏習に由りて有り」と説かれているのはどういうことなのか、という問いですが、「増長すべし」と答えられ、種子は熏習に由っては増長するだけである、と。
出体門において、種子は「本識の中にして親しく自果を生ずる功能差別なり」と定義されていました。種子は自果を生ずる功能、功能は力であるといわれていましたから、私の人格を形成する力となるものが、生果の功能なんですね、そういう力が本有である、本来備わっているものである、と護月は主張しているのです。熏習力というのは、本有の上に、新たに熏習するという意味であって、新たに本識の中に蓄積し熏ずるというものではないというんですね。元々ですね、その上に経験に由って積み重ねていく、増長するものである。これが本有説から述べられる熏習の定義になります。
ここから先はですね、読み方を間違えると大変差別的な表現になってしまいます。この本有説もですね、人は生まれ以て種子をもっているということですから、生まれに由って決定すると読めなくはないのですね。生まれつき持っている種子の上に経験を積み重ねることにおいて熏習を増長する、ということですからね。
仏法は、自覚から出発する、というのが第一の定義になります。信心もですね。、信心を得たところから聞法が始まります。まぁそれまでは資糧門ですね。
「人身受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。」
ここからの出発です。人として生まれたということが、種子を持ったということになるのでしょうね。人身の上に一切、あらゆる経験が熏習されるのですね。
それともう一つですね、素質といいますか、持って生まれた才能ですね。これは否定できません。素質の有無は確かに有るんですが、それに由って人生が決定されるものではありません。人生を決定する縁にはなります。これは大変難しい所ではありますが、私は私の人生を振り返って思いますことは、若いころは無茶苦茶な生きざまをしておりました。人様から後ろ指をさされても、いたしかたのないような生き方です。親から勘当され、長い長い放浪の生活を余義なくされたのですが、私にはこれしか仏法に出うすべはなかったんですね。仏法に出遇うためには長い時間が必要だったんです。お一人お一人、立場は違うでしょうが、それぞれの立場において仏法に出遇う縁が育てられているのではないでしょうかね。そのように思われてなりません。
あなたも、あなたも、今、仏法に出遇うチャンスを得ているんですよ。人として生まれたのは、人として生きる、人として生きよ、というメッセージなんでしょうね。仏法に出遇うた者の責任として、「生きる」ということはどのようなことなのかを発信していかなければならないと思います。
もう少し踏み込んで言うと、「私を見よ」ということになるのでしょうか。「仏をみたけりゃ、私を見よ」というた人がおられましたが、このような自信力が自信教人信の内実なんでしょうね。
次は証文をひいて自説を論証します。次回に述べます。