唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (48)

2017-03-31 22:23:55 | 阿頼耶識の存在論証
  
 「下は比量を以て大乗経は是れ仏説なることを成ず。」(大乗仏説義)
 大乗非仏説義にたいしての大乗側からの応答になります。
 これまでの四教証は、大乗の主張を述べたものであって、部派の学徒にとっては容認することが出来ないものなんですね。そこで第五教証は大乗経が真に仏説であることを『荘厳論』の七因をもって論証してきます。『成唯識論』所説の『荘厳論』は、古くから大乗仏説義を説く書として学ばれています。 
 前に「別に第八識の性有り」と述べられていましたが、これは大乗経典の中で説かれていることなんです。しかし、大乗経典は仏滅後に成立したこともあって、本当にお釈迦様がお説きなられたのか、勝手に作ったのではないのかという批難があつたのですね。それが大乗非仏説論なのです。
 参考として、大乗仏教経典成立に関しての論考を引用しておきます。古来からは天台大師智顗の五時教判が学ばれています。
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 初期大乗仏典―紀元2世紀ごろまで、すなわち龍樹[150-250頃]以前の成立と考えられるもの。般若経典・浄土経典や『法華経』『華厳経』など、大乗仏教の骨格をなす経典はこの頃の成立と考えられる。
 中期大乗仏典―4、5世紀の成立。唯識説を大成した無著(むじゃく)・世親兄弟(4、5世紀)の頃までに成立していたと考えられるもの。『解深密経』など、唯識説を説くもの、『勝鬘経』『涅槃経』のように、如来蔵・仏性を説く経典はこの頃の成立と考えられる。
 後期大乗仏典―その後の成立。主として密教経典で、中国・日本で重視された『大日経』や『金剛頂経』は7世紀には成立していたと考えられる。
 一口に大乗仏典といっても、このように長い期間にわたって、異なる条件の下で成立している。原始経典が全体でまとまった体系をなしているのに対し、大乗経典はそれぞれ独立したグループのなかで、必ずしも相互の関連がなく創作されているのである。例えば、般若経典なら般若経典を、『法華経』なら『法華経』を創作し、信奉するグループがあり、それらはある場合には正統的な仏教教団と反目したり、弾圧を受けることもあったと思われる。
(『日本仏教史―思想史としてのアプローチ』末木文美士/新潮社)
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 日本においてもですね、江戸末期の学者である、大坂懐徳堂の富永仲基はその著『出定後語』の中で、痛烈に大乗仏教批判を展開しています。「経説、多くは仏滅後五百歳の人の作れるところ」であるとし、本居宣長や平田篤胤らに引き継がれていくことになります。
 大乗側としては、大乗は仏説であるということを論証しなかればならなかったのですね。しかし、『成唯識論』で、第八識の存在論証としての第五教証で、大乗は仏説であることを論証されているのです。
 論考として参考文献を挙げておきます。
 印度佛教学研究第四十巻第二號 平成四年三月所収、竹内真道著 「『成唯識論』における大乗仏説論」をお読みください。(ネット検索できます。)
 部派仏教から大乗仏教へという流れのなかで幾度となく軋轢が生じながら、Mahāyāna(マハーヤーナ)というお釈迦様が真に伝えたかった事を、大乗は仏説であることを、『成唯識論』は比量で述べているのです。それが次の科段になります。
 またにします。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (47)

2017-03-29 21:24:30 | 阿頼耶識の存在論証

 心が波立つ時や、頭が真っ白になる時等身に覚えがありますが、『楞伽経』には「境等の風に撃(キャク)せられて」と。境は対象或は環境と云ってもいいかと思いますが、境遇ですね。私たちは、境遇が私を支配していると思っています。私がこうして困っているのは貴方の精だと。あんたなんか信じられん、何を信じたらいいのか途方に暮れるわ等、環境の影響によって左右される自分を受け止めれないということがありますね。
 確かに、環境の影響によって左右されることはあるのです。
 仕事上でいいますと、予定していた仕事がキャンセルになる。仕事が入ってこない等、取引先の都合によって、こちら側が影響されます。影響されるだけですが、影響されて、「それでは困る」と思うのは、こちらの都合になるわけです。
 「諸識の浪を起し、現前に作用転」じてきますけれども、自然なんですね。本章の論題ではありませんが、少し思うことがあって書いてみました。
 第八識が本識で、後の七つの心は転識である理由を、次の科段で説明されます。
 「眼等の諸識は、大海の如く恒に相続して転じて諸識の浪を起こすこと無し。」
 「故に知る。別に第八識の性有りと。」(『論』第三・二十一左)

 常に御縁の風にうたれて心が波打っているわけですが、眼・耳・鼻・舌・身・意の働きには間断があります。恒にというわけにはいきません。前五識も常に働いているというわけにはまいりませんし、知・情・意も休んでいる時があります。そうしますと、「無始よりこのかた」、「大海の如く恒に相続」している心、前六識を支えつづけている心は、どういう心なのか。
 ここが第八識がなくてはならない論証になるのです。
 ですから、大乗経典のなかには、別に第八識が有るんだと説かれていることになります。
 私の全体を支えている世界、それが第八識だと。それに依っていのちを持続させ、人格を形成させている元になる、人格は境遇に由って変化するのではなく、第八識の中に蓄えられた様々な経験の習気が引き起こしてくるのだと、こういうことを言いたいのですね。
 「此れ等の無量の大乗経の中に皆別に此の第八識在りと説けり。」(『論』第三・二十一左)


阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (46)

2017-03-28 21:02:47 | 阿頼耶識の存在論証
  
 第四教証は『入楞伽経』の経文です。
 安田先生は、「さらに『成唯識論』は『楞伽経』の経文を挙げるが、これは第三教証を補うものにとどめる。」と釈しておられます。
 一応読むだけですが、眼を通したいと思います。
 『入楞伽経』にも、第八識が説かれており、六識では説明のつかない、こころにはもっと深いものがある。こころの要が第八識であることを証明しているのです。
 「入楞伽経に亦是の説を作す。」(『論』第三・二十右)
 余談ですが、『述記』の説明が、喩をもって説明されていますので紹介します。『論』はこの『入楞伽経』の頌を引用して教証としています。
 「述して曰く、「楞伽」とは是れ獅子国(スリランカの古称)の山の名なり。「入」と言うは昔仏彼しこに入ってもの王神の為に法を説きたまえり。故に復入と言う。即ち(菩提流支の訳)十巻楞伽経第二巻の中に仏の答えたまえる頌なり。(求那跋陀羅の訳)四巻楞伽経ならば第一巻の中なり。頌に譬えば巨海の浪の斯れ猛風に由って起こって、洪波の冥豁(ミョウカツ)を皷(うっ)て断絶する時有ること無きが如し。蔵識の海も亦然なり。境界の風に動ぜられて種種の識浪謄躍(シキロウトウヤク)して転じて生ず。然も(旧訳の経)の頌は(新訳の論所引)と稍別なり。彼しこに楞伽と言うは正しからざるなり。」(『述記』第四本・二十二右)
 また、『入楞伽経』にも次のような教説が述べられています。第三経証と同じことを言っています。
 「一切の凡愚は諸法を分別す、而も諸法は是の如く有なるに非ず、此れ但妄執のみにして性相有ること無し。然れども諸々の聖者は、聖慧の眼を以って如実に諸法の自性有ることを知見す。」と。
 説明
 【楞伽経】について、 
 大乗経典。漢訳は求那跋陀羅(グナバツナラ)・菩提流支(ボダイルシ)・実叉難陀(ジッシャナンダ)による三種が現存。如来蔵思想と阿頼耶識思想とが交流したインド後期の大乗仏教思想を表す。禅宗で重んじる。
原題はサンスクリット語《ランカーバターラ・スートラLaṅkāvatāra‐sūtra》(ランカー城に入って説いた経典)。仏陀が魔王ラーバナの住むランカー城に入って説いたとされる。サンスクリット原典のほか,チベット語訳と3種の漢訳が現存する。漢訳は求那跋陀羅訳《楞伽阿跋多羅宝経》4巻,菩提流支訳《入楞伽経》10巻,実叉難陀訳《大乗入楞伽経》10巻である。全10章からなるが,漢訳4巻本は第1,9,10章を欠き,最も古い形を残していると考えられる。

 「海の風の縁に遇うて、種々の波浪を起し、現前に作用転じて、間断する時有ること無きが如く、蔵識の識も亦然なり。境等の風に撃せられて、恒に諸識の浪を起し、現前に作用転ずと云う。」(『論』第三・二十右)
 シンプルに説明しますと、
 初めに「海の風の縁に遇うて」とあります。海が風に遇ってですね、「種々の波浪を起」す。海が風の縁に伴って波を起こすのですね。風が弱ければ、さざ波ですが、強ければ波浪になり、海が荒れますね。風と云う縁に遇って作用が転じて波が起ってきます、それは太古の昔から間断することなく、今日まで、そしてこれから先も絶えることがないでしょう。「蔵識の海」阿頼耶識を海に喩て、阿頼耶識も同じである。縁という風に遇って波浪を起すのである。静かな時、穏やかな時モあり、時には激しく動揺し、怒りがこみあげ、心が恰も波のように変化してやまない。
 このことで教えられるのは、縁に遇って、激変するこころがあるということですね。静かで、穏やかな海が、愛別離苦・怨憎会苦という縁に遇うことによって、変化する心があるということなんですね。縁のもっている意味は、依あたしが私の心を知る「えにし」であるということでしょう。縁そのものに働きはないのですね。ここが大事なところだと思います。私たちは、縁を「さるべき業縁」として、外界に存在すると思っているのですが、、それが迷妄なんでしょう。 (つづく)

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (45)

2017-03-27 20:58:49 | 阿頼耶識の存在論証
  
 「凡愚には開演せず」の意味について考えていましたが、凡・愚という人間は仏陀によって見出された存在でしょう。私の側からは凡・愚という自覚すらない存在であるわけでしょう。
 仏陀の眼からみますと、確かに凡・愚という人間は存在するのかもしてません。「此に於て分別の執を起こす」から、「開演せず」。「勝者のみに我開示す」と。
 自己保身に関わってくる問題であろうと思います。「恒審思量」を固める手段になることではないのかな。
 僕たちね、歴史の一コマの中で、たいしたことしてないんですよ。大義名分はありますよ。でもね、名聞利養ではありませんか。扇の要がしっかりしているのかということなんです。扇のかなめが無いのが凡・無性有情と云われている存在。扇の要に触れているけれども、己自身の覚りに満足して他を顧みない存在を愚とおさえているのでしょう。
 この両者に共通することは、自分の思いを固めているということですね。違うのはね、凡は自分の心にバリヤーを巡らしているということですし、愚は法を利用しようとする、己の保身の為に仏法を利用しようとする、謗法です。『大経』でも唯除といわれていますでしょう。唯除は唯除といわれなくても、除かれている存在なんですね。「自分の思いが満足されればいい」・「自分だけが救われればそれでいい」という根性には仏法は届かないのですね。
 それでも、仏法に出遇いたいという思いは、一大阿僧祇劫を経てきた菩薩さまだと思います。志半ばであっても、菩薩だと思いますね。
 つまりですね、自分の心にバリヤーを巡らし、仏法を利用しようとする己であったと頭が下がったところに、仏陀は「我開示す」と仰られるのでしょう。頭が下がると云うのは、無我の心なんでしょうね。
 私たちは、先生方の御法話を天秤にかけてはいませんか。あの先生の話は良かったけれど、今日の先生の話は今一やった、とですね。どこに要があるのでしょう。これでは聞こえてきませんね。
 こんなことを思うのですが、この思いが第八識に納められて、自己形成につながっていくのです。ちょっと怖いですよ。能蔵は何一つ捨てませんからね。捨てるのはこちら側の分別です。「前念命終」といわれますが、分別に死するのでしょう。分別でしかない己に出遇うことですね。
 次回から第四教証に入ります。随分きつい言葉が並べられますが、真意は仏陀の大悲なんですね。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (44)

2017-03-26 19:42:00 | 阿頼耶識の存在論証
 
 三月も最終週に入り、卒業式そしてやがて入学式。社会では異動や入社式と節目にしては慌ただしく季節が通り過ぎようとしています。何か、四月と云う声を聞きますと、「気合を入れて」と思うのですが、四月は第二週の9日、11日が皆さんと考えさせていただくご縁を頂戴するわけですが、またまた資料ができておりません。また怒られそうだなぁと思いながら時は過ぎ去ってゆきます。
 「見えないところで、つながりあって生きているのは、つくしんぼだけじゃない」(四月のカレンダーより)
 昨日は、「故に我が世尊為に開演せず」の一段を読ませていただきました。
 まとめを、安田先生のご講義より引用させていただきます。
 「なぜ開演せぬかというと、凡と愚は阿陀那識を説くと、説かれた阿陀那識を執して我とする。いらぬものを説くと迷わせる。凡と愚にはいらぬものである。分別というのは倶生を簡ぶ。凡と愚は説いても説かないでも我としている。我としているのは、しかし、その場合は倶生である。倶生として執している。生まれながらに執している。もし説くと分別して執することになる。分別で固めると、凡は悪趣に堕し、愚は聖道を障える。
 凡と愚との第六識が分別して我と執し、そこにかえって誤らせる。凡夫は悪趣に堕し、二乗は聖道を障える。傷を受ける。末那識は説こうが説くまいが、初めから我としている、倶生の我見は、凡を悪趣に堕したり二乗をして聖道を障えしめるのではない。二乗が覚を開くのに倶生起の煩悩は問題ではない。かくのごとき意味で特に分別と云う字をおいてある。」(『選集』第二巻P335)
 二乗は聖道を障えるということで大乗は批判してくるのですが、障えることの最大の因は「捨悲障」なんですね。慈悲を捨てる。慈悲は抜苦与楽という利他の大悲ですが、これが無いと云われています。
 凡 - 無性有情
             } を、「彼」で押さえています。
 愚 - 趣寂(二乗)
 「彼、此に於て」、「此」は阿陀那識です。凡と愚は阿陀那識と聞いて分別の執を起して三悪道に堕し、或は慈悲心を障えてしまう。分別の執着ですから後天的なものですね。つまり、倶生起の煩悩を断じて覚りを開こうとするのですが、凡と愚はかえって分別の執を起して、持ち替えしまう恐れがある、この為に開演しないのだと。説かないと云うのは慈悲なんですね。説くと悪道に堕し、聖道を障えてしまう。いえばですね、時が熟していない(時熟ではない)、機根が整っていないから誤解する恐れがあって説かないんだと。
 この辺りが聞法の難しさですね。よく「聞き方が悪い」と叱られる先生がおられますが、聞いたことを持ち替えてしまうことの愚かさ、危険さを教えておられると思います。自分を棚に上げてということがありますが、外界のすべては自分の姿を演じてくれている影なんですね。家屋も衣服も職業も世界という資具も趣であるわけです。
 「資具も亦趣と云う名を得」、解釈としては、資具は器界で所縁の外器になります、亦は惑・業・苦の流転を表しています。能趣・所趣の関係です。因果同時に於て流転と還滅の法が示されているのですね。

 今朝は、お腹が少し緩んでいて体調不良だったのですが、お昼三時過ぎから阪急梅田本店で開催中の未生流展を拝見させていただきました。朋友の専立寺様の坊守さんが全期に出品されており、招待券も頂いておりましたので伺いました。見事なものでしたね。素材も南米マダカスカルの貴重なものを見事にアレンジしておられました。そして気に入ったものを二三昧パチリと。
 

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (43)

2017-03-25 23:35:11 | 阿頼耶識の存在論証
 
 https://youtu.be/zYuPAPoD6DU

 『述記』の説明を伺います。
 「述して曰く、若し分別の我・法二執を起こすときは、凡は悪趣に堕し愚は聖道を障う。凡は聖道無きが故に愚は聖を生ず可きが故に。故に各偏の義を以て説く。此の過有らんかを恐れて「故に我が世尊為に開演せず」という。」 聖道は無漏の聖智をさします。
 次の釈には大事なことが述べられています。
 「然も凡・愚の為に第八を説かざるときも、凡と愚との第七識は恒に第八を縁じて、執して我・法として二見(我見愛)亦生ぜり。」と。
 私たちは、分別の執を起して、生ずべき聖道を障えているんだと。
 「生ずべき聖道」とはどういうことを云い現わしているのでしょうか。「べき」ですから肯定しています。必ずという意味ですが、必ず無漏の智慧を頂くことが出来る、にもかかわらずどうして悪趣に堕すのかです。ものすごく厳しい問いが与えられています。
 ちょっと話は変わりますが、昨日友からラインがありました。「今日ある人と会食をしているのですが、このお店にさりげなく綴られた言葉があるんです。感動しました、その通りだと思います。そう思われませんか」というものでした。それは好きな言葉、嫌いな言葉というものでしたが、異論を差し挟む余地はありません。しかし問題は有るんです。この問題が聖道門と浄土門の違いだとおもいますね。難易二道といいますと、二つの道が有るように思いますね。どうでしょうか。僕は二つの道ではなく、浄土門に於て聖道門が尽くされる思うんです。
 私たちは、聖道的在り方で生きていると思います。倫理を考えて頂ければ頷けましょう。倫理は当たり前のことをいっているんでしょう。例えば、身近では、お年寄りにやさしくしましょう。社会に迷惑をかけないように、大きな問題としては、戦争を起さない、人を殺めない、原発稼働をしない等です。しかし犯してしまうんです、悲しい事ではありますが、犯してしまう。これはいけないことなんですよ。ではどうしたら実現可能なのでしょう。一番大事なことは、犯してしまう悲しさを持つことではないでしょうか。何故犯してしまうのか、ここははっきりとしておかなくてはなりませんね。そして聖道門の課題に浄土門は本当に答えているのだろうか、という眼差しが必要だと思います。
 煩悩を持って、浄土往生は不可なんですよ。不断煩悩得涅槃と教えられていますから、煩悩を断ずる必要はないと思っていますが、煩悩は邪魔にならんということなんです。かえって、煩悩は菩提の水となることに意味があるのですね。
 「弥陀の本願信ずべし、本願信ずる人はみな、摂取不捨の利益にて、無上覚をばさとるなり」
 一点の曇りもないですね、我執は払しょくされています。信によって我執が超えられたのです。この狭間での葛藤、悶々とした心との闘いが、私をして聞に動かしている原動力なのではないのかなと思います。聞の所に信は成就されているのでしょう。
 本科段は、ここのところを持ち替えてしまう愚かさを指摘されているように思いますね。
 
 

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (42)

2017-03-24 22:26:46 | 阿頼耶識の存在論証
  
 阿頼耶識の所縁は二の執受と処であると明らかにされているのですが、阿陀那というときには、さらに二の執受を種子は執持とし、有根身を執受と厳密なんですね。それは覚受作用があるのか、無いのかによって定められています。覚受は五遍行の受、感受作用ではなく、感覚であると説明されていました。
 覚受とはどういうことなのだろうかと思いましたら、意外なところでこういうことなんだと思い至りました。
 年老いるということもいいのかもしれません。感覚が鋭くなるんですね。週末になりますと、年々ですが疲れてきまして、茶店でうつらうつらするんです。身に受けているのですね。種子はこういう感覚はありませんので、執持と執受、鋭い分け方ですね。種子の永遠性と、身体の有限性ですかね。
 今日は、次科段です。
 「凡と云うは即ち無性。愚と云うは即ち趣寂なり。」(『論』第三・二十右)
 無性有情を凡夫といい、趣寂種姓を愚という。趣寂種姓とは声聞、独覚のことで、自己の苦しみを滅して寂静にのみ趣こうとする人たちのことですが、大乗は「通達すること能わず」と批判してきます。自己のみの覚りの中に、気づきを得ない我執が潜んでいると。いくら煩悩障を断じて阿羅漢になっても、やがては退転し、孤独の闇の中に自己を閉じ込めざるを得ないのではないでしょうか。それは菩薩の死なんですね。
 理由が述べられます。
 「彼(無性有情も趣寂種姓も)此(阿陀那識)に於て分別の執を起し諸の悪趣に堕して生ずべき聖道を障うるを恐れて。」(『論』第三・二十右)
 分別の執は煩悩ですね、倶生起の煩悩、分別起の煩悩があります。
       倶生起(身と倶なり。邪教と邪分別に依らず)
 煩悩 く
       分別起(身と倶にしもあらず。邪教と邪分別に依る)
 後天的な分別起は、世の中の出来事を見ていれば頷けます。他人ごとではありませんよ。邪分別に依って育てられ、何の反省も無く、邪によって子育てをしている。子供は無分別に受け入れて、やがて分別に転嫁していくのですね。、そこに倶生起が動いているのでしょうね。
 分別の我執・法執を起すと、凡は悪道に堕し、愚は聖道を障えるのです。凡は聖道がないからだと云われていますが、仏法に出遇っていないので、聖道そのものが分からない、我執が一番だと思い込んでいますから、我執の満足しか考えていないのですね。
 愚は生ずべき聖を障えている。
 このことに於て世尊は阿陀那識を「開演せず」と述べられている。我に執着するからですね。 (つづく)

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (41)

2017-03-22 21:47:57 | 阿頼耶識の存在論証
 
 ちょっと雑談です。「お遍路訴訟、62番札所の脱退認める。霊場会の請求棄却」という記事が流れました。此れに関しての北田さんのコメント、グサッときました。さすがはもとジャーナリストですね。感性が素晴らしいですね。北田さんは、今の仏教界は曖昧な性善説に頼っているから、トラブルが起こるんだと指摘されています。はっきりしていないのは情けないですね。僕も昔のことですが、あるお坊さんから、河内君は人間は性善か性悪かどちらだと思うと聞かれたことが有ります。この質問自体が曖昧なんです。仏教ははっきりしているんです。無記性だと。善でもなく、悪でもなく、純粋を性としている。純粋だからこそ、善にも染まれば、悪にも染まっていく、そこでお互いを認めていく地平が持てるわけですね。このことに於いて、自他差別を超えて平等の大地を歩むことが出来るんだと教えているのです。
 仕方ないのかもしれません。仏教界も資本主義体制の中に組み込まれていますからね。教団も出世間にあるのではなく、世間の中に存在しています。職種が違うというだけのことでしょう。そこで僧侶は聖職だと思っていたら大きな誤りですね。身近なところで、葬儀も僧侶派遣業として大手が参入していますが、はっきりいって人の死をまって成り立っている業種です。時代の変化はこういうように現われてくるのでしょうが、いつの時代、どのように変化しても無記性だと。この無記性が仏教が仏教としての存在意義たらしめているのではないですかね。それを失ったら自尊損他です。仏教徒は何を求めたのか、そして何を捨てたのか、すべては無記が教えてくれます。

 今日は、第二句の「一切種子は暴流の如し」の説明になります。
 種子といいますから、なにか留まっているように思うのですが、種子生種子で一類相続なんですね。現行は衆縁を待ってですね、五遍行と倶に動くのです。触・作意ですね。縁に触れて心が動くわけです。恒にですね。縁に触れた時に問題と為るのは、種子です。どのような種子を宿しているのかですね。種子は無記なんですよ、あるがままに受け入れていますからね。あるがままが種子生種子なんですね。私たちは、あるがままに生きているんです。それがどうしてあるがままに生きれないのかですね。問とはこういうことではないですか。
 『歎異抄』には、親鸞聖人の師訓として、
「「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」とこそ、聖人はおおせそうらいしに、当時は後世者ぶりしてよからんものばかり念仏もうすべきように、あるいは道場にはりぶみをして、なむなむのことしたらんものをば、道場へいるべからず、なんどということ、ひとえに賢善精進の相をほかにしめして、うちには虚仮をいだけるものか。願にほこりてつくらんつみも、宿業のもよおすゆえなり。さればよきことも、あしきことも、業報にさしまかせて、ひとえに本願をたのみまいらすればこそ、他力にてはそうらえ。」
 と教えられていますが、「さるべき業縁のもよおせば」・「業報にさしまかせて」が無記の性質ですね。ここでははっきりと出ていませんが、種子が問題とされているようです。例えば二乗の阿羅漢は煩悩を断じていますから、煩悩が起こる縁がもよおしても、煩悩の種子を遠離して、現行はしません。
 種子生現行なのですね。種子から現行が生起する。「さればよきことも、あしきことも、業報にさしまかせ」よ、ということでしょう。分別を超えるのですね。分別を超えた世界が無覆無記で、縁となるのが有覆無記ですね。有覆無記が無覆無記に転ずることが出来るのは無記性だからです。
 今日の課題はここではないのですが、脱線しました。
 「是れ一切の法の真実の種子にして、」(『論』第三・二十右)
 「真実の種子」は現行を引き起こす因であり、第八識の体であることを現わしているのです。「一切種子」は体です。用は「如暴流」ですね。種子と現行の関係です。体は一切種子識ですが、現行の用は縁に依る、あたかも波浪のような暴流のような激しさを持っているのです。これが私の意識の底で激しい流れのように私を支え続けていると教えています。
 「縁に撃(キャク)せられて便ち転識の波浪を生じ、恒に間断すること無し、猶暴流の如し。」(『論』第三・二十右)
 まぁ言えば、どのように変わるかわからん存在でもあるわけです。今笑っているかと思いきや、次の瞬間に怒り蠢いている。或は泣いているのかと思ったら笑っているとかです。五受相応と云われる所以ですね。意識の上に現われてくるでしょう。意識は、如何る状況をも受け止めているわけです。問題は、何を蔵に入れたのかです。
 無記と云うのは、蔵と同じ意味だと思います。貯蔵庫、倉庫を第八識としますと、倉庫そのものは善でもなく、悪でもありせん。入れ物ですからね。これを能蔵といいますが、なんでも入れます。それが蔵の性質ですからね。蔵には、この品物は保管するが、この品物は保管できないと云う管理人がいるわけです。第八識の管理人は第七末那識なんですね。第七末那識の好みを保管させるのです。つまり、我執に色づけされたものをですね。倉庫を明け渡して、倉庫を乗っ取られている状態です。
 でも、このような状態は本来の姿ではありません。本来第八識の蔵は智慧を宿すところなんですね。「本来無一物」、これが智慧ですね。
 蔵というけれども、智慧なのでしょう。智慧を覆っているのが第七末那識ですね。我見愛です。智慧には用が無いのかも知れませんが、覆っているということは意識されているということでしょう。そこには当然、本来への指向性はあるものと思います。このギャップに苦しみ、悩んでいるのが私の姿ではないでしょうか。いつでも目覚めを待っている。それは激しく、縁に撃せられて、絶えることが無いのです。つまり、善も悪も縁になる、目覚めの縁となるということでしょう。
 次科段からは、もっと詳細に論考されます。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (40)

2017-03-21 21:43:51 | 阿頼耶識の存在論証
  
 阿陀那識の三義を説きおわって、凡夫と二乗の性が明かされます。
 甚深と甚細の義を以て、凡夫と二乗の種姓の違いがあるのですね。
 「無姓有情(ムショウウジョウ)は底を窮むること能わざるが故に甚深と説く。趣寂種姓(シュジャクシュショウ)は通達(ツウダツ)すること能わざるが故に甚細と名く。」(『論』第三・十九左)
 (無姓有情(凡夫)は無漏の種子を持っていないので甚深と説いている。非常に深い意味があることを容易に知ることが無い存在であるから。またこうも説かれている。「無姓有情は阿陀那識に於て窮底すること能わざるが故に甚深なりと説く。」と。
 趣寂種姓(自己の苦しみを滅して寂静にのみ趣こうとする声聞と独覚をいう)この人たちは慈悲を捨てるということがあって、阿陀那識の深い意味を知ることが無く、深い自己の根底に目覚めることがないので、「通達すること能わず」、つまり甚細である。)
 凡に対しては甚深、愚に対しては甚細です。後に出てきますが、凡は無性に約し、愚は趣寂に約して説かれています。
 『呼応する本願』(藤元正樹師述)で、藤元先生は、
 「求めたことが与えられることが救いではなくて、むしろ求めたものがまちがいであったということが明らかになることが救いでしょう。・・・救済を求める心が迷いであることを知らされるんです。救済を求めた心が実は迷妄であったことを知らされる。・・・むしろ人間の求める心そのものの変革を求める。・・・どんな状況にあっても、自分を見捨てない自己とはいったい何なのかと、ただ単なる自己ではない。そういう自己というものをいいあてたのが本願というようなものでございましょうね。・・・」まぁ、このように教えてくださっています。
 私の救いは私の思いが叶うことだと思っているわけですが、そうではなく、そのことが逆に私を縛ってくる因になる。だからまた結果を求めなくてはならないのですね。因果同時というわけにはいかないのです。このことが甚深が持っている意味ですね。
 甚細が二乗に約されるのは、二乗は我執を断じていますから、我と執する愛着処が見えないのです。所知という愛着処ですね。所知は二乗では問題にはならないのです。それで甚細と説かれるのです。

 まとめますと、
 三義はバラバラということではありませんね。執持と云う場合は、執受と執取が背景にあります。
 執持ば「無始以来界たり」です。梶原先生は、時間の連続性と教えてくださいました。
 執持 - 種子
 執受 - 色根
 種子は、色根に依るわけですね、種子には覚受はないけれども、身体には感覚がある。何を感覚しているかと云うと、第八識ですね、具体的には種子でしょう。種子は経験の全体を表しますから、経験の全体化であると教えていただきました。
 執取 - 諸有
 種子は有漏種子ですから、そこに結生相続が生れてくるといえましょう。結生相続は「菩提をもとめる印」といって云いのでしょうか。菩提を求める印が感覚なのでしょうか。梶原先生は、「存在の世界性を与えるものとしてこの身を感覚させる用きである」と教えてくださっています。
 ですから、経験といってもですね、何かを経験したということではなく、私がどのように感じたのかが問題なのでしょう。身の問題ですね。感じたことが種子として宿ることになるのでしょう。その種子が「求めるべき存在として身」を現行と倶に感受されているのかもしれません。身体を通して感覚しているのが、種子生現行の時、捨と倶に苦楽を感じて、捨が苦楽を縁として清浄業処を願う機縁となるのではないでしょうか。
 思考不十分ですね、もう少し考えさせてください。いずれ投稿します。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (39)

2017-03-20 11:22:09 | 阿頼耶識の存在論証

 昨日は、執持・執受・執取について少し考えました。
 さらに考究を進めていきたいと思います。
 「阿陀那」の名を、三義を以て解釈している一段になります。
 『摂論』巻第一には、第八識を何故阿陀那識と名づけるのかという問いが出されています。
 「何の縁にて此の識を亦復説いて阿陀那識と名くるや、一切の有色の根を執受するが故に、一切の自体の取る所依なるが故なり。所以は何ん、有色の諸根はこの執受に由りて失壊(シツエ)すること有る無く、寿を盡すまで随って転ず。また相続して正しく結生する時に於て彼の生を取るが故に、自体を執受す。是の故に此の識も亦復説いて阿陀那識と名く。」と。
 
 参考文献を挙げます。無性釈の『摂論』大正31・383b~c。第一巻所知依分第二の一
 「論曰。何縁此識亦復説名阿陀那識。執受一切有色根故。一切自體取所依故。所以者何。有色諸根。由此執受無有失壞盡壽隨轉。又於相續正結生時。取彼生故執受自體。是故此識亦復説名阿陀那識 釋曰。執受一切有色根故。等者顯聲轉因以能執受。一切眼等有色諸根。安危共同盡壽隨轉。是故説名阿陀那識。若不爾者應如死身即便失壞。一切自體取所依故。等者謂是一切。若一若多。所有自體取所依性。若色等根未已生起。若無色界自體生起名爲相續。攝受彼故名正結生。受彼生故。精血合故。非無阿頼耶識而有執受一期自體。譬如室宅院攝光明。是一期自體習氣所熏故。」
 無性の釈は、
 「「一切の有色(ウシキ)の根を執受(シュウジュ)するが故に」等とは、声(ショウ)の転ずる因を顕す。能く一切の眼等の有色の諸根を執受するを以て安危(アンギ)を共同(グウドウ)して寿(いのち)を盡すまで随転す。是の故に説いて阿陀那識(執持識)と名く。若し爾らざれば応に死身の如く即ち失壊すべし。「一切の自体の取の所依なるが故に」等とは、謂く是れ一切の、若しくは一、若しくは多の有らゆる自体の取の所依の性なり。若しくは色等の根の未と已との生起(未だ生起しないものと、已に生起しているもの)、若しくは無色界の自体の生起を名けて相続と為す。彼を摂受するが故に「正しく結生す」と名く、彼の生を受くるが故に、精血合するが故なり。阿頼耶識無くしては一期の自体を執受すること有るに非ず。譬へば室宅院の光明を摂するが如し。是れ一期の自体の習気の熏ずる所なるが故に。」

 『摂論』では、「諸法の種子を執持し」という釈はありません。若し阿陀那識の種子をいうのであれば、執持というのである、と。これが第一義です。理由がですね、種子を失うことがないからである、と。種子と有身根を保持している面から阿陀那識というのですが、「無始よりこのかた界たり」、界は種子のことであると釈されていました。受といわないのは、覚受がないからである。色根と依処とにおいては執受という。覚受は感覚のことです。阿陀那識は種子を執持し有根身を執受すると云われています。
 阿頼耶識の所縁は処と執受でした。種子と有根身を執受すると云われていましたが、阿陀那識ということにおいては三義があると、細に入って分析をしています。種子と有根身は生理的関係にありますから、種子が現行することにおいて身は感受作用を起こします。
 色根と依処は、色根は勝義根です。五根のことを指します。勝義根と扶塵根とに分かれますが、根を依処としてと云う場合は、勝義根を指すのです。依処は五根の集合体の身体ですから、根が傷つけば身は痛みを感じますね。
 ですから、「覚受を生ずるが故に。」(『述記』)と釈されているのです。
 有色とは、五蘊の中の色蘊の色(物質的なもの)ですが、有色根は、感覚器官、眼根・耳根・鼻根・舌根・身根を指します。そしてこの有色根を有した生きものを有色有情といいます。「執受するが故に」というのは、有執受で、心・心所によって維持されるもの、有根身のこと、身体です。
 執取は「若し初に結生し後に生を相続するをば名けて執取とす、諸有を取るが故に。」(『述記』)と釈されます。胎中に入って再び生を結び、生をつづけることを執取と云っています。私の処まで届いた寿ですね。(命ではなく寿でいのちを押さえています)寿は相続を表しています。私の処まで届いてきた寿の背景には、生まれ変わり、死に変わりしてきた輪廻転生という面から執取と押さえ、執持と執受と執取の三義を以て阿陀那識と名けるのだ、と。
 取は認識する、知覚すると云ういみなのですが、十二支縁起で云われます取は広義の煩悩ですね。輪廻転生としての阿陀那は煩悩を持って生まれてきたと云うことに通ずるのでしょうか。異熟因が異熟果を引く時にですね、迷いの生存は迷いの種子をもって相続され、転依するチャンスがなかったならば、再び結生相続をしていくということになるのでしょう。
 今の言動が明日の身を造っているということに思いを馳せねばなりませんね。一瞬の内に六道輪廻しているともいわれます。六道輪廻は外界に在ると云うことでもなさそうです。