釈尊伝 (49) (1)煩悩の実相 - 煩悩即菩提 -
ですからそこに仏陀は、いわゆる煩悩をのがれようとして道をもとめておられたが、これをのがれた道は道ではなかったということに気づかれということがあります。そこで煩悩そのまま菩提と、即の字がつきます。煩悩即菩提。これは熟語であります。仏教というものの一番簡単明瞭で、意味が深くてむずかしいけれどもいいつくされている言葉であります。煩悩即菩提ということばは、ちょっとやそっとではわかりませんけれども、これをもとにしてできたのが仏陀であります。そこで今ここで菩提樹ものとに坐ったというが、菩提樹の下になにがあったのかというと、煩悶、煩悩であります。菩提樹の根は煩悩であります。どしっと煩悩に坐ったといってもいいのです。私たちは、はじめは釈尊が樹の根っこに坐られたのだと、そこならが日があたっても涼しいと、しかし雷がおちたらたいへんだなとよけいな心配をしたりします。人間とは妙なものです。そころが釈尊が坐られた菩提樹なんてあったやら、なかったやら本当はわからないのですが、それが今ブッダガヤに、これが釈尊が樹の子孫なのだということが書いてあります。。そんな写真を見たことがあります。今日われわれはそういう意味で菩提樹を考えております。
しかし、菩提樹の根は煩悩であります。菩提樹という意味は、大地に樹がはえている。樹が菩提樹と名づけられたときには、そのはえている大地は煩悩であります。つまりわれわれが日夜煩悶している世界であるということです。その意味で、次にわれわれが日夜煩悶している世界を描写してあるわけです。 (つづく) 『釈尊伝』蓬茨祖運述より
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第三能変 受倶門 處位を明かす。
「諸の適悦受の五識と相応するをば、恒に名づけて楽と為す。」(『論』)
第四門(一の五)の、その三、定の位における受についての説明で、初めに(適)悦受を明かし、後に(逼)迫受を明かす。欲界と初定とにまさに随って皆、楽あり、という。(『述記』取意)初定とは色界初禅です。初めに五識と相応する適悦受を説明します。
(意訳) 諸々の適悦受で、五識と相応するものをつねに楽という。五識と相応する諸々の適悦受は楽受である、といっています。その範囲は欲界と五識が働いている色界初禅においてであり、第二禅(第二静慮)以上には五識は存在しないからです。尚、説明されることは、五識すべては欲界に存在し、鼻識と舌識は、欲界にのみ存在し、眼識と耳識と身識は、初禅にも存在するといわれていますから、『述記』に「欲界と初定とにまさに随って皆楽有り」と説かれているのです。
後は第六意識と相応する適悦受を説明します。
「意識と相応するにおいて、若し欲界と初・ニ静慮(じょうりょ)の近分(ごんぶんー近分定のこと)とに在るをは喜と名づく、但心のみを悦するが故に。若し初・ニ静慮の根本に在るをば楽とも名づけ喜とも名づく、身と心とを悦するが故に。」(『論』)
(意訳)第六意識と相応する適悦受において、欲界と色界初禅と色界第二禅(ニ静慮)の近分定に存在する適悦受を喜受と名づける。なぜなら但(ただ)心のみを喜ばせるからである。もし、適悦受が色界の初禅と第二禅(第二静慮)の根本定に存在するなら、楽受とも、喜受ともいう。それは身と心を喜ばせるからである。
また後に遍行のところで、受については説明がありますが、簡単にいいますと、「受は能く順と違と中との境を領納して、心等をして歓と慼(しゃく)と捨との相を起さしむ。心の起こる時に、随一無きことは無きが故に」とありますところの、捨ですね。捨は非苦非楽・苦でもなく楽でもない感情です。外界からの情報に触れて感覚や感情が起こるのですが、その時に三受あるいは五受に分類をして受け止めるわけです。苦痛と感じたり、快感と感じたりするのは身ですね。苦受・楽受は身で感じ、憂いたり、喜んだりする感情は第六意識にあるわけです。心が感じるのは憂受であり、喜受であるわけです。
- 根本定と近分定について - 定とは禅定のことですが、この禅定には四無色界定と色界の四禅(四静慮)の八段階と滅尽定の段階があるといわれています。そして定の入り方ですが、定に入る段階を近分定といい、定に入り終わった段階を根本定というのです。そして初禅から第二禅に入る段階に中間定があるといわれます。
「大乗は初(色界の初禅)二(色界の第二静慮)の近分(定)には喜のみ有り。『喩伽』五十七には未至地(色界初禅の近分定)に十一根(信・精進・念・定・慧の五根と意根と無漏根と命根と喜捨二受根)に喜有るが故に。・・・(色界初禅の近分定)はただ意識と身処の少分とに遍ず。・・・根(根本)の初・二を喜・楽と名づくることは、五根を適悦するが故に、勤勇なるに由るが故に、復名づけて喜と為す。・・・」(『述記』)
後半は根本定についてです。色界初禅と第二静慮の根本定では、意識と相応する適悦受は、楽受とも喜受とも名づけられる、と述べています。前に述べられていました無分別と有分別ですが、前五識は無分別であるが故にその感受は苦受・楽受と名づけられ、第六意識は有分別であるが故にその感受は憂受・喜受になるといわれていました。ここで有分別の第六意識における適悦受を楽受と名づけるのかという疑問が起こってきます。それに対し『述記』には根本定では「五根を適悦するが故に」と説かれています。これは喜受を通じて五根を悦することになるから、楽受も存在するというのです。此の時の喜受は勤勇であるからといわれています。