唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

『自己に背くもの』 安田理深述 (19) 変革の成就

2011-12-18 19:50:05 | 『自己に背くもの』 安田理深述

 政治や経済をいかに改めても自己は同じであって変わらない。ところが夢から覚めれば必堕無間が必得往生になる。絶対的生産的行為である。社会改造ということは、五逆罪は社会的罪であり、謗法は個人的事件にすぎぬと考えているけれども、実はそれは逆で宗教の世界と社会の世界とは違う。一瞬一瞬に驚天動地がある。社会変革は大事件のようであるが、たかがしれている。結局それは人間がやっていることである。人間のすることは限界がしれている。これは非常にありがたいことであるが、信仰認識が他の認識といかに違うか、即ち夢から覚めたというの偉大な特徴である。そこに認識の確実性、真理性、実在性をともなってくる。明覚知証が同時に遠離の変革をともなう変革の認識である。頭は解ったが腹はふくれないということはない。闇と光とはそういう対立である。こういう点譬が大切で親鸞聖人でもそうであるが、インドでは譬はふつう説得術としてあり、論義学の意義をもっている。譬喩を大前提であらわす、たとい・・・・・何々の如し、全て作られたものは滅するというのを作られたるが如し・・・・・という。譬が非常に大事である。譬を大前提であらわす。 「凡ては死す」 ということは直覚的自明な真理である。直覚性が譬喩をとって、そこでは論理は要らない。正信偈に、譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇 といってあるが、あれは親鸞聖人の会心の作である。親鸞聖人の得意なところである。これはここの千歳の闇室と連関がある。信仰認識をいかに捉えたかというと日光である。 「譬えば日光の雲霧に覆わるれども雲霧の下明らかにして闇無きが如し」 こういう譬は信仰を外から模索しているような立場では出てこない。ここで大切なことは信仰の光によって 「雖」 「にもかかわらず」 ということが大事な点である。闇はないけれども雲霧はある。闇が晴れたことは夜の明けたことである。夜が明けておれば必ずしも晴天でなくとも、曇天であってもさしつかえない。もし夜が明けたことが晴天ならば、信心を頂いたことは成仏で凡夫ではない。信心が頂けたからといって貪愛瞋憎雲霧即煩悩がなければ仏になったのである。そうなると 「怪しく候いなまし」 となる。もう腹はたたないという人があるか。煩悩があってもさしつかえない。疑惑があっても無明があってもよいというがそれは逆であり、根本的な誤解である。くもっていることが直ちに夜だと思っているが、実は雲が見えたということは実は夜が明けた証拠である。雲が見えることは自分が見えることである。自分が見えることが夜が明けた証拠である。ここに親鸞聖人の譬は他力廻向の信心においては雲の有無は問題でない。夜が明けたか、明けぬかということが問題である。雲があってもいっこう障りではない。 「悪も恐れなし」 という現生不退の譬喩で語っている。これは親鸞聖人の得意なところであろうと思われる。業というものが暗いということは夜がまだ明けていない証拠である。業というものを実体化し運命化しているからである。本当に深い業というものは夜が明けている。そこに煩悩が頂ける。 「悪も恐るべからず」 というのは既に転悪成善している。転じないのは実体化しているからである。それが十念の念仏によって消えるという。煩悩が頂けるという。だからよく 「信仰を頂けば光は光自身を顕すとともに闇をあらわす。光を頂けば益々深い闇が頂けるという。そんなことはないと思う。知ればなくなるのが闇であると思う。そうでなければ暗いのが信仰の状態であると思うことになる。夜が明けるということは自力我執の心が折れたことである。自力我執の心、頭をあげていると悪作であり、頭を下げないのは悪むものがあるからである。頭は実践理性である。実践理性が五逆罪を悪む。頭を下げれば煩悩自身が頭をさげてくる。人に妨げられるのは人を妨げているからである。自力我執の心が砕かれれば煩悩自身が喜んでくる。煩悩自身が随喜してくる。

 在縁、妄想に依止しては在心という。虚妄顛倒の見である。 「この十念は無上の信心に依止して阿弥陀如来の方便、荘厳、真実、清浄、無量功徳の名号に依りて生ず」 無上の信心は 「善知識の方便安慰して実相の法を聞かしむるに依りて生ず」 とあるが、その無上の信心は第一の在心をいうのである。 「阿弥陀如来の方便、荘厳、真実、清浄、無量功徳の名号」 を在縁という。在心は信心、在縁は名号である。これは何かといえば、五逆罪は父を殺し、母を殺し・・・・・そういうものは煩悩の虚妄果報、果報であるところの煩悩によって衆生を対象として行われた罪悪というものは父を殺し、母を殺し・・・・・即ち五逆を犯した衆生、煩悩果報の衆生である。衆生を所縁として起こった。罪は誰かを所縁として起こされたものでる。所縁とは対象である。阿闍世が父を殺し、提婆は仏から血を出したというが、仏といっても提婆は仏を見ているのではない。仏というのは身体があったり、いろんなことを行為したりしている。五逆に立てば仏も衆生である。日本人は天皇を神といってきたが、神はご飯を食べないのか、食べなければ天皇も死ぬ。死ぬならば天皇は神でない、というのは愚直である。ああいう飯を食ったりしているものを神といっているのではない。位をいっているのである。人間だけを見ていれば子供もある。煩悩果報の衆生である。しかし仏や天皇は殺されるものではない。だからわれわれの殺すことができるものを衆生というのである。殺すことのできぬ、否定し得ないものを名号という。ここにも譬喩がある。首楞厳経にある名号を聞く功徳を滅除薬の鼓を聞くに譬ている例を出してある。

 此の十念は無上の信心に依止し阿弥陀如来方便・・・・・・名号に依りて生ず 譬ば人有りて毒の箭を被って中る所筋を截り 破骨滅除薬の鼓を聞けば即箭出て毒除こるが如し。あに「彼の箭深く毒厲しからん、鼓の音声を聞くとも箭を抜き毒を去ることあたわじ」と言うことを得べけんや。これを「在縁」と名づく。(真聖p275・信巻)

 名号を聞くと鼓の音を聞いて毒箭が除かれるように、三毒の箭は自然に除こる。例えば薬で病を癒すというが、それは病の征服に薬というのは人間解釈である。世のなかは直す者もなければ癒すものもない。薬品は意志をもっていない。病気も苦しめようとしていない。素直に病気になっている。そうなるべくして成っている。自然に病気の現象があるばかりである。だから癒るのは別に癒すものなくして癒る。それが根本的事実である。癒すとか癒さないとかということは後から加えた解釈である。念仏を聴聞すれば正しい道理が知らされる。正しい道理でわれわれは救われるのである。仏に救われるというのは間違いである。そういうことをいうと判らぬが道理に助けられる。仏という人に助けられるのではない。自然の道理に救われる。道理は癒す意志があるわけでない。本当の絶対現実に帰ってゆく。そこに決定がある。罪の意識というものは有後心、有間心である。後がある心、間の有る心である。間とは間雑である。外のものが交わってくる。念仏の信心とは違う。信心の無後心、無間心である。人間がいかに頑張っても本質的にまが抜けている。空虚がある。弱い心である。ところが念仏の信心はそれ自身最後の心である。自力の最後の心である。自力の最後のところ、自力の終わるところに念仏の信心がある。こういうところに決定ということがいわれている。兎に角、在心・在縁・在決定と三つを通じて質が違うということをいっている。

 念仏とか信心とかいっても一念というところにはっきりする。信行という事実に触れてくるのである。この場合時間でない、のみならず意識的時間でない。ふつう考えられる時間は意識的時間である。空間に翻訳した時間である。存在的時間である。それに対してあるものは現在である。過去としてあるものは記憶である。現在において繋留したものである。永遠の今はまだ意識的時間である。一年は行為的時間である。だから時節を問わぬ内容をもっている。なるほどというとき、多刹那にわたって一つの行事成弁という。一つの事実がそれによって完成するのを一念というのである。一刹那をもって完成するとき一念という。信仰のもっている行為的時間である。空前絶後のときであり、無始以来の自己、曠劫来死んでいる自己が新しく生まれるときである。それが本願のできごとである。十念といってあるが、十という数を知れることが既に反省しているでないか。反省していれば一心一向になっていないでないか。一心一向になったら数えられないであろうと。

 ひぐらしは夏生まれて夏死んでしまう。ひぐらしは春秋を知らず、従って夏も知らない。夏といっているのは人間である。十念もわれわれは知らない。十念は仏の知っていることである。

                                 (完)

 繰り返し繰り返し安田先生の声を耳をすませてお聞きください。願生浄土の道を歩まれんことを節に願います。

 


『自己に背くもの』 安田理深述 (18) 虚妄と実相 

2011-12-11 13:35:49 | 『自己に背くもの』 安田理深述

 ここに問題は業というものを実体化して考えているのではないかと思う。それに対して答えて曰く、

 汝五逆十悪の繋業を重とし、下下品の人の十念を軽として・・・・・・

 問題は十念で重罪を消してしまうということは判らぬ、それは業道を否定するものであると、それに対してそういう考えは間違っている。軽重というのは全て十念も業も量的に考えている。量的に考えている根本には実体化がある。質的に考えていない。両者は質的相違によるのであると。時節とか多少とかそういうことで軽重を定める標準にはならない。外的標準を以て内面のj標準としようとするものであると。 「時節の久遠多少には非ざるなり」 それ以下在心、在縁、在決定、三標準を以て形而上をはかる標準を出されたわけである。

 先ず、如何が在心。在心というのは在縁からみると、善知識が方便安慰して実相の法を聞かしむるによって生ず。聞かしむるは次の解釈によってみると信心である。真実の心である。それに対して念仏の心は信心、信心が念仏する。ところが五逆を造る心は虚妄顚倒の見である。虚妄の心である。それが業を造る。見というのは間違った智慧で、一つの確定である。思想が確定したとき見という。疑いではない。あああであろうか、こうであろうかではない。虚妄顚倒も確定したものがある。信心も確定している。見はふつう悪い方だけにつかわれるが、正見ということもある。信心は正見である。虚妄顚倒の見が邪見である。正見と邪見、正邪の区別がある。業というものは邪見を根拠として罪業が造られる。念仏は正見を根拠としている。虚妄は不信である。不信が根拠になっている。念仏は信心となっている。ここには主観は絶している。実と虚、実と虚とは闘うということはない。ものは同格であるとき闘う。ここでは闘うというものすらない。五逆は虚から出た実であると思う。五逆罪は偉いことをやったというが、もとは虚、夢のなかのできごとである。第一義諦からみると、親鸞聖人が 「煩悩具足の凡夫 火宅無常の世界 よろずのこと皆持てそらごとたわごとまことあることなし」 といっていられる。 「ただ念仏のみぞまことにておわします」。 そらごとたわごとに対して実相の法とは念仏である。信心は善知識の言葉を通して実相の法を聞かせて頂くようなものが生じたということが信心である。善知識はよき人の仰せである。実相は 「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」 という教えを聞いて信ずる信心である。念仏が実相の法である。虚妄に対して実相、実相からみれば虚妄は夢である。実相は絶対現実というものである。そういうものは考えてみても思索してみても掴めるものではない。我は実相という思想をつかんでいる。信心ということも信仰を得るということと、信仰の論理を理解することとは違う。知識人はその論理的構造を把握したのが信心とおもっている。そこでは宗教的用語を哲学的用語に変えている。信仰を得ることは客観的絶対的できごとを得ることである。信仰は直接触れることはできない。念仏を通して。念仏は絶対実在の言葉である。南無阿弥陀仏の言葉を通して実在を得る。実在にかなうもの、そういうものはどうして得るか、教えを通して得る。親鸞聖人をゆかしく思うのは、信心といわずにただ念仏して、といっていられることである。ただ念仏に信心を返したのでも足らないで、更に教えに返す、教えによって助けられる。そこまで返した。善知識で信心を語る。ここには妙な例がひいてある。恐らくこの譬喩は曇鸞大師の作と思うが、喩喩が巧妙である。例えば氷上燃火、大切なところにくると喩喩で語ってある。譬えというものが大事であることは印度以来のことである。千歳暗室も一晩の光で消失する。虚と実との関係である。明と闇とは闘うもののように考えているが、そうではない。善と悪というようなものではない。闇が先取権を主張するというようなことはない。闇は千年も前からここを動かぬということはいわない。闇は光がくればたんたんとして去る。千年の闇が千年の光となる。それは真に実体化を離れた世界である。行けともいわない。また去れともいわない。去るともいわない。闇そのものが光となっている。闇も光も実体ではない。形はない。こういうことを思う。

 わたしはこの実相をみる智慧のことを唯識などでは覚という言葉であらわしている、つまり仏教における認識を、即ち信仰認識を覚という言葉であらわしているところに仏教を特徴づけていることを思う。仏教では広く悟りをいう。覚には悟・性というものがある。菩提、サトリというのは信仰認識である。その信仰認識の他と区別する語が覚である。覚は夢に対していう。夢から覚めたという経験から信仰認識というものを考えている。ここに信仰における認識論という大問題がある。そういう問題があるが、まあ近代の考えとは大分違う。近代の考えは構成とぴう、主観が客観を構成するというが、悟りというものは本来のものに目を覚ますというか、信仰というものの認識の確実性は、夢という経験を考えてみると、夢のなかにどんなことを考えていても、覚めた瞬間に夢のなかの経験から努力なくして絶対的な距離を見出す。その超絶的な距離を遠離という。お経を読むと、認識というものは明とか覚とか智とか証とかいうものは遠離による解決と直接結びつくものである。これが信仰認識の特徴である。夢のなかに例えば大きなボタ餅をもらった。明日食べようと思って戸棚に入れておいた。それが夢だった。夢が覚めたら再び戸棚を開けようとしない。貰ったのを夢だったかといって、惜しいとか執着を残さない。努力なくして生死を解脱する一点が信仰認識の特徴である。常識から科学的知識に、科学的知識から哲学的認識に移ったからといって夢から覚めたということはない。以前のものが去るということはない。いかに天文学的法則を知っていたとしても常識から地球が動くというようにはならぬ。連続がある。東から風が吹くと天気になるという常識はあるところにだけ通用している知識である。科学はこれに対してどこにでも妥当する知識体系を見出し位置づける。その間に絶対断絶がない。常識から科学に移ってもわれわれ自身は変わらない。しかし宗教の場合は夢であった認識主体が覚めたときに変わる。凡夫が仏になる。それが大事なことである。われわれが何かを知るということによって、知る者自身が変えられて行くのが宗教的行為の特徴である。宗教の世界にのみ真の意味の変革がある。これは全く他の人間行為の認識には見出されぬことである。瞬間に新しく変わる。念仏しても元の木阿弥ということはない。することによってなされる。念仏することによって変革される。これは冒すべからざる特徴である。これが信仰認識である。                  (つづく)

     次回は最終講になります。 「変革の成就」 を配信します。 又少し時間を開けまして次年度から安田先生の 『下総だより』 を配信したいと思います。


『自己に背くもの』 安田理深述 (17) 業道の超越 (Ⅲ)

2011-12-04 17:12:00 | 『自己に背くもの』 安田理深述

 先ず重きものが牽くというのは約束する。牽引という。牽引は何かに区別されていう。それは生起因に対して牽引因という。生起因というものはものを生ずる、現在したのは今であるが、未来を約束する。どこにあるというようなものではない。目に見えたときは生起である。阿闍世が父殺しを煩悶し後悔して身に瘡を生じた。そして阿闍世は、我今此の身に果報を得たりといっている。果報というとき地獄を予感している。未来を約束するとき牽引というものがある。大願業力という。業というものを媒介として願というものが考えられてくる。引く、繋属する。牽くにしても縛りつける。これらのことを現代では運命的という。宿業は運命と違う。縛られるというところに運命ではないが運命的であるといえる。しかし運命というときは他者的で、そこに自己の責任ということがない。今日はその業を運命としてしまっている。これも前世の業でというが、それでは運命というものになっている。運命ということの自覚のないところにこれも業でと逃げている。実存の自覚を離れたら業というも運命になってしまう。これは業を運命的に実体的に考えている。業を実体化するところに業は運命となる。業は実体化する実体観というものが問題を提起する。例えば仏陀が懺悔した阿闍世に向かって、六師外道に似た詭弁的な言葉を以て説法していられるが、阿闍世の廻心の経路というものは書いてない。月愛三昧で象徴的に書いてある。この点実に内面的に書いてある。仏陀も六師外道と同じように語っていられる。父はお前に殺されたが殺されるような業をもっていたからである。これは何かというに実体化の思弁を払おうとする。罪を悲しむことは同時に自己を傷ける。傷つけるというのが実体化である。悲しんだということは純粋であるが、自己を傷つけるというのが実体化である。

 仏陀は偉大な心理学者である。医者には臨床医学というものがある。運命というものは救いがない。宿業には救いがあるが運命には救いはない。宿業は責任を引き受けると同時に超越がある。宿業には責任を引き受けると同時にそれを背負う力が与えられている。絶対必然を通して、その絶対必然のところに自由が与えられている。その必然と自由とが対立してくることは実体化しているからである。そうすると自己をいためる。自分を暗くする。暗くすることと悲しみとは別である。悲しみが徹底しないと暗く陰鬱である。本当に深い悲しみは明るい。大悲は素直である。秋空のように透明である。静かで明るい。一点の不平不満がない。そこには静かな深い悲しみがある。そこに懺悔と後悔と区別がある。暗いのは欲があるからである。実体化があるためである。子供を悲しむことにおいて自己を悲しんだりするのは実体化があるからである。エゴイズムの変形である。そこに懺悔と後悔の区別がある。後悔には煩悩がある。後悔は悪作と定義される。作したことを悪む。しまったというのは煩悩で懺悔とはいわぬ。慚愧という。慚(ざん)と濁るのである。懺悔というときはザンゲではなくサンゲと濁らない。懺とは印度の音である。

                次回は 「虚妄と実相」 を配信します。


『自己に背くもの』 安田理深述 (16) 業道の超越 (Ⅱ)

2011-11-27 22:17:40 | 『自己に背くもの』 安田理深述

 今日業といわれてきたものは行為ということである。業、行為ということを深く考えた行為は人間が考える限り必ず結びついたものである。人間が問題ににされるところ必ず行為、自由意志が問題である。仏教でも行為を深く考えたところに業の問題があるようである。親鸞は信巻において論註並びに善導の散善義の解釈と共に、五逆というものについて小乗の五逆とか大乗の五逆とかいうことを述べておられる。一般の五逆について五逆というのは世間の恩田・福田に背くという意味である。一、故(ことさら)に思うて父を殺す、二、故に思うて母を殺す、三、故に思うて羅漢を殺す・・・・・・と「故に思うて」とある。思うというのはここでは俗語ではない。日本語の思うというものではない。仏教の熟語の場合は心所有法の謂である。心所有法、心は意識、即ち意識に属する法である。心に属する法、心法ともいう、心的な存在である。意識的な存在感情とか意志とか表象とか、意志、心的存在である。これは現代語では意志 Will をあらわす。業というのは行為であるが、その本質は意志である。ただ運動というものではない。立ったり座ったりは意志ではない。無記の業である。意志のいかんにかかわらず転ぶ、そこでは行為ということは成り立たない。自由な意志を以て、意志決定を以て断行するところに行為がある。行為は自由を前提としている。しかし自由を前提としているそれのみで行為は成り立つか。それは必要な条件ではあるが十分な条件ではない。 「旅の恥はかきすて」 ということがあるが、そういうことはできない。なぜ行為が大事であるか、それは為すことは自由であるが為したということを捨てることはできぬ。行為にはちょっと待ってくれということができない。あるときにおける、あるところにおける、誰かの自由意志決定である。行為には保留ができない。判断を中止することができない。猶予・躊躇が出来ぬ、猶予すれば猶予したということになる。そういうところに行為のもつ非常に厳粛な事実がある。キリスト教では信仰は決断であるという。決定的な信仰は二十願の信仰である。二十願は決断的信仰である。一心一向ということはそういうことをあらわしている。決断の信仰を語る言葉である。それだから自分を殺すも阿鼻地獄の運命を決するのも、その全権が自分の上にある。自由は行為の欠くべからざる契機であるが、それのみでは十分な条件でない。行為は意志、意志の体験である。意志の経験が行為である。ものがあることは現在である。あるということが現在している。過去はないということ、未来はないということ、現在は刹那という。為したということは時を貫いて残る。することは自由であるが、したことは時と共に消えない。ここに責任ということがついてまわる。この責任ということがなかったら行為ということは成り立たない。この契機が必然である。自由と必然、なすことによって縛られる。為したことは為した昔を限定する。逆に限定される。逆限定である。逆限定ということが行為の本質である。本当に敵を知らんと欲せば自己を知れというが、なるほど逆限定を語る西田哲学の偉いところだと思う。逆限定ということが歴史の論理の原理となる。大体いうと、行為ということと業ということと、言葉の感じが違う。行為という言葉は外国の用語からきている。業というのは仏教でいう。日本語はその両方ともに翻訳されたものである。行為というときは自由な感じがする。創造的行為などといって明るい感じである。業というと暗い感じがする。そこに行為の把握の方法が違う。暗く問題にしているところに東洋人がある。明るく問題にしているところにキリスト教の伝統がある。仏教では行為における責任ということを強くいい、そこに重点をおく。西洋の方は創るという方に重点をおいている。仏教では後を引き受けるという風に重点をおく。そこに行為をいかに把握するかの問題がある。行為の責任というものを誰が引き受けるか。意志か、肉体か、そこに阿頼耶識の問題が出てくる。行為の主体、行為の責任を荷負するものを世間では我という。ヨーロッパでは自我が行為の主体である。仏教では無我、無我というところにはじめて行為が成り立つ。だから業とは責任感という自覚をおさえていっている。つまり人間は自分自ら行為して自らを縛っている。これを自業自得といっている。自己の主体は何か。自己と自我とを区別しなければならない。仏教の区別では自我と自己、自我が行為であるというときは自己を見てない。本当の自己は法蔵菩薩的構造をしている。人間存在そのものが法蔵菩薩的構造をしている。一切を荷負する。重担を荷負するという構造をもっている。自我は嫌いなものは拒否する。好きなものは取り入れる。自己は好悪を離れてそれらを無心に自己としている。自我にはそれができない。行為する自己即意志と引き受ける自己とは段階がある。悪党息子を外にみると自他の対立、相対があるが、一度内観すると意志的な(意志は行為を作るが)行為を引き受けてくれる。一切衆生は悪をつくるが、それを引き受けるのが法蔵菩薩、そういうところに全体責任ということがある。業、そういうことが行為を厳粛に考えた問題である。(つづく)

                     次週はその(Ⅲ)を配信します。


『自己に背くもの』 安田理深述 (15) 業道の超越 (Ⅰ)

2011-11-20 18:07:13 | 『自己に背くもの』 安田理深述

 問曰 『業道経』言業道如称重者先牽・・・・・・(『業道経』に言はく、業道は称の如し。重きもの先ず牽く・・・・・)(真聖p192・聖全Ⅰp309)

 これは第六番目の問答である。ここからまた問題の内容が新しくなってくる。仏教の経典は業道を語っている。業道経は特定の経典ではない。業道経とは何経を指しているのか明らかでない。業道は秤の如く重いものが先ず牽くということが業道についていわれている。ここでは五逆罪であろう。五逆罪ということが業道ということになっている。それが観無量寿経によってみると、十念念仏によって五逆罪を犯したものが救われるといってある。そこに新しく問題を出しておられる。観経下々品の場合は迴真懺悔して十念念仏すると五逆罪を犯したものも往生することができると 「人ありて五逆十悪を造り諸々の不善を具せむ・・・・・・無量の苦を受くべし」 そういう五逆等の罪を犯したものは悪道に堕するという。これは一つの業道自然の道理として重きもの先ず牽くという必然性である。しかるに 「命終の時に臨んで善知識の教えに遇うて南無阿弥陀仏を称えしむ・・・・・・」 これは観経のままの言葉ではない。ここにこれに続いて 「安楽浄土に往生して即ち大乗正定聚に入ることを得」 とあるが、観経にはこの大乗正定聚の言葉はない。これは曇鸞大師の信仏の因縁を以ての易行道という大師のお考えによって、下々品の趣意を取って述べられた言葉である。つまり五逆を犯した罪人が十念念仏即ち念仏の信心によって、永遠に業道自然を超えて安楽浄土において不退を得ると。故にこれは観経下々品と大経本願成就文とを二つ一緒にしたお言葉である。

 「是の如く至心して令声不絶十念を具足して便ち安楽浄土に往生して即ち大乗正定聚に入りて畢竟して不退を得て三途諸苦を永く隔てむ」(聖全p309 - 「問曰。『業道經』に言たまはく。「業道は稱の如し。重き者先づ牽く」と。『觀无量壽經』に言たまふが如し。人有りて五逆・十惡を造り諸の不善を具せらむ。惡道に墮して多劫を逕歴して无量の苦を受くべし。命終の時に臨て善知識の敎に遇て南无无量壽佛と稱せむ。是の如き心を至して聲をして絶へざらしめて、十念を具足して便ち安樂淨土に往生して、即ち大乘正定の聚に入て、畢竟じて退せず。三塗の諸の苦と永く隔てむ。」)

 これは本願成就の文のお言葉である。それを下々品に一緒にして述べられたものである。つまり念仏の信心を得れば、永遠に業道自然を断つ、そうすると業道自然の道理というものはどうなるのか。五逆罪を造ったものが、五逆罪のみならずそういう罪を造ったものが、ただ十念念仏で業道自然を断つというのはどういうわけか、十念念仏と五逆の罪とを較べてみると五逆罪の方が重い。重いものが先ず牽かねばならぬ。こういうことであれば業道経と観無量寿経とは矛盾する。

 先づ牽くの義、理に於て如何ぞ。又曠劫より已來、備に諸の行を造て有漏の法は三界に繋屬せり

 こういう風に重ねて業には先ず牽くという義に今一つ繋がれるということがある。無始嚝劫已来悪業を造って来た罪人が、十念によりて業道自然に超越するということはどういうことか、こういう問題である。先ず牽く、業を造ったものは三界に繋がれるという繋業の義という業道の道理と、念仏の信心との間にいかにしても否定することのできぬ業道の必然性を破壊するという難がありはしないかというのである。        (つづく) 次週はそのⅡを配信します。


『自己に背くもの』 安田理深述 (14) 自力の罪 

2011-11-13 16:22:11 | 『自己に背くもの』 安田理深述

 「観経・涅槃経というものを比較対照することによって本願成就文の、特に誹謗正法というものの意義が明らかにしてきたところに、曇鸞大師のご努力があったのである。たとい五逆は救われても謗法は救われない。仏法を否定するものが仏法に救われるということはあり得ない。本願が本願を排斥するのではない。本願を排斥するものをも包むところに本願はある。自身が自身を除いている自己矛盾である。そういうように特に謗法の重い咎を知らしめる。誹謗正法を自覚せしめる。こういうことが唯除の根本精神である。だからいってみれば、問題は簡潔にいえば、本願においては五逆罪はあある意味では恐るべからず、第一義に立てば五逆罪を恐るべからずということになる。五逆罪を恐るべからずということは、裏からいえば善も欲しからず、善が助けられる益になるのでもなく、悪が障りになるものでもないことをいい得るであろう。ただ本願における、もし罪あらば本願自体が罪だということである。そういうことによって曇鸞大師の唯除は信心為本をあらわし、本願は信心を要とするということになる。涅槃経の説法は意義深い言葉である。信巻きの終わりを読むと、始めは阿闍世王の倫理的な煩悶苦悩を描き、慚愧のいたみ、堕地獄のおののきが、六師外道との対話を通じて述べられている。ところが阿闍世の迴心懺悔を経て述べられる仏陀の説法が後にある。六師外道は詭弁を述べている。罪悪というものはない。貴方の罪でないという。阿闍世の罪悪の意識を否定し、地獄を否定する。 「若し常に愁苦すれば愁い終に増長す、人眠りを好めば眠即滋く多きが如し」(『信巻』真聖p255) といって五逆罪を犯したことにくよくよするな、くよくよすると反って身心を害ねるだけの無駄ごとであると、詭弁を弄して阿闍世の罪を苛責をなぐさめている。ところが阿闍世が罪を懺悔して救われた後、仏陀の説法もこの六師外道とさして変わっていないようなことを述べていられる。罪の固執というものを淳々と述べておられるが、六師外道と同様な詭弁の形をとっている。何も貴方が父を殺したというが、父王も殺される因あって殺されたのである。何も貴方に罪はない、と六師外道と同じことをいっていられる。つまり同じ言葉が迴心を境としてその意義を一変してくる。迴心とは自力心を捨てる。迴心懺悔する。仏智疑惑を懺悔してそれを捨てる。迴心について自らの善しと思う心を捨て、善を頼みにしない。同時に悪しき心を賢く省みず。省みるは善悪のはからいである。それは世間の立場である。五逆の人間は人間の良心の限界内にある。第一義諦に立ってみれば道徳反省は一つの小賢しき分別となる。善を頼みとしないが、悪を見つめるというのは実のところ善を頼む心の裏返しである。それは善を頼みにする心と同じである。善なるが故に救われるというのが傲慢であるならば、悪なるが故に救わるというのも邪見である。ともに人間の理性である。だから論より証拠で悪を省みるということは悪を省みる力を自認している。そこに反省する能力があるということを自認している。そういうことに対して悪を賢しく省みないと自力の配慮を切り捨てるところに仏陀の詭弁と六師外道の詭弁というものの差異がある。

 要するに、本願を疑うということが最高の罪である。自力が最高の罪である。だから唯除五逆誹謗正法が信心為本ということを明らかにしている。曇鸞大師は明らかに五逆罪と謗法罪との質的相違のあることを認められたが、その五逆と謗法との関係はどうであるか、両者は無関係にあるのかということを問題にしていられる。そこに五逆の根底には謗法がある。謗法を根底として五逆が成立するところに、両者の本来的な関係を見出していられる。さすれば五逆罪を犯すところに既に謗法をば前提としている。教行信証にくれば、五逆について三乗の五逆と大乗の五逆罪とを区別しておられる。大乗の立場では誹謗正法が入っている。三乗の立場では謗法はない。親鸞は唯除の内容を信巻の終わりに経文を引いて三乗の五逆と大乗の五逆との別あることをいっていられる。(真聖p277~288)大乗では五逆というところに謗法を包んでいる。五逆と謗法を区別しつつ、主体的に謗法を根底として五逆の成立していること、直接的には五逆罪、間接的には謗法ということを語っていられるように思う。そういうことによって唯除を置かれてあるということは十方衆生の機の自覚というものを明らかにされた。一切の衆生というものの機の自覚として、唯除を置くことによって唯除を自覚せしめる。大乗の五逆からいうと一人も逃れぬ。一人も悪人・凡夫でないものはない。自覚すれば一人も残らず悪人・凡夫である。一切善悪凡夫人である。こういう自覚を通してはじめて十方衆生至心信楽欲生我国の三信、あの三信とは 「他力の信心なり」 といって、自力の迴心懺悔をあらわす。自力の迴心懺悔を通して迴向というものを明らかにするのである。われわれが深く考えてみなければなたぬことは、現代親鸞の精神、即ち真宗の信仰の不透明になった一番の原因は信仰の決断を喪失していることである。今日の真宗は天下りな直接的信仰に転落している。他力中毒にかかっている。決断がない。信仰が死んでいる。それは実に懺悔を通さないからである。決断は懺悔の精神にある。今日真宗の教学も布教も生気がない。法文いじりになっている。それは懺悔が失われたからである。親鸞聖人によって開顕された教行信証の精神というものは、信仰の自覚、それを他力迴向の信心というが、信仰というものは陰気なものではない。信仰の超越性であり、今日の言葉でいえば他力迴向の信心の自覚とは、人間の根源的自覚という。人間の根源的自覚にたつ、それは内に入ることではなくして却って外に出ることによって自己の根元に立つのである。そこに信仰の超越性がある。その必然的関門は懺悔である。その懺悔がない、それを失ったところに今日の真宗のふるわない原因がある。親鸞は涅槃経の言葉を以て無根の信といっている。信仰の超越性である。生まるべからざるものが生まれた。私の上に、信仰は私の上に君臨した。カール・バルトは信仰というものがわれわれの上に現臨(ゲーデンバルト)したといっている。無根の信とはそういうものである。信仰は私のうちにおける一つの体験ではない。私はそれに召され、それに立って私自身が変革されるようなものである。だから親鸞は信仰を海という。だから私が反って自己から出ることによって達する自覚である。だから私に君臨してくるものは名号である。名号の外に信心はない。名号が信心である。名号に信心をプラスするのではない。名号を意識することではない。名号のなかにわれわれが生まれる新たな事実に目をさますのである。そこに信仰の絶対客観性が明らかにされる。絶対批判、人間の根源に対する絶対批判というものがなければならない。唯除が置かれていることはそこに帰着する。不可能だということに達する信心である。   (つづく)

          次回は 「業道の超越」 を配信します。


『自己に背くもの』 安田理深述 (13) 仏智疑惑 

2011-11-06 13:12:15 | 『自己に背くもの』 安田理深述

 「仏智は第一義である。第一義を疑惑し迷うている。疑惑と無明とには一応区別がある。迷うという、迷謬するということを唯識でいっている。無明とはこの迷いをいう。疑惑は第一義に昏い。第一義がはっきりしない。それに対して謗法というのは迷いに対して謬という。無明によって迷う。迷うが故に謬まる。誹謗正法の根底には不了仏智というものがある。仏智に対して無明がある。従って本願を疑うと、疑うというときは本願に対する疑惑である。弥陀智願海といって智に対しては無明がある。願に対しては疑いがある。こう大体の約束がある。不了仏智の故に本願を疑惑する。そういうものが迷いである。そうするとそこに誹謗正法ということが起こってくる。これは謬である。積極的なものである。だから誹謗正法というようなことはそうだと思うが、その根底には仏智疑惑ということがあると思う。誹謗正法といったときはどういう意味があるか。誹謗正法の根底には仏智疑惑がある。そういうものは闡提といってよいかもしれぬ。誹謗正法というところに、いかなる独自の面目があるかといえば、曇鸞大師は仏法否定といっていられる。そこに謗法の面目がある。誹謗正法ということは直接に判らぬ無明なる故にである。これが無明であるといったときには無明はない。無明といったときはもっと直接的なものである。誹謗するところに明らかになる。誹謗性というところに一つの反逆性というものがある。反逆ということ、ここに誹謗正法の独自の面目があるということを明らかにして頂くのである。

 それで前にいったように、人間それ自体を考えてみると人間が人間に対するそれ自体が問題となる。そこに宗教の問題がある。人間自体というところに宗教の根拠がある。というのは本願というのは

 十方の衆生 至心に信楽して我が国に生まれんと欲え 乃至十念せんに若し生まれずんば正覚を取らず

 と願われたから、十方衆生の本願である。一切衆生というものを救わんという本願である。誹謗している人間も十方衆生のなかにいる。十方衆生というなかには五逆も謗法もある。本願のなかに在りつつ本願に反逆するものがある。それ故人間が人間に対するに先立って仏に対するというが、仏は超越者という如きものではない。人が神に対する関係は、われわれが絶対関係というものを相対関係の形で考えるから、それはどこまでも相対関係を出ないで真の絶対とはならない。人と人とは汝と我の関係である。そこで例えば 「汝一心正念にして直ちに来れ」 といってあるがあれが欲生我国を意味する。あそこに如来が衆生と永遠の隔てを隔てて呼ぶと、こういうのであるが、永遠の隔てを以て呼ぶというところをよく注意しないと、如来が 「来れ」 と叫び、衆生が 「ハイ」 と答えるように思う。それは絶対関係を相対の形で考えているのである。しかしまたそういう形でないと絶対をあらわすことができない。それで相対関係を以て絶対をあらわすのである。如来と衆生とは、我と汝との形である。如来諸有の群生を招喚したまう勅命なりと親鸞聖人が解釈されたのは、善導大師の二河譬喩による。二河喩もやはり我と汝との形である。相待関係では我と汝とでは実在関係である。絶対関係というところではそれは象徴というものである。我というものが如来の勅命である。我としてある如来の勅命が、勅命があって我が聞くのではなく、勅命というところに我がある。そこに人間存在が確定される。人間の実存が成り立つ範疇である。それで人が仏に対する関係は仏が在って人間に関係するのではなく、仏は人間の成り立つ根拠である。だから反逆することは他に対するのではなく、自己の根拠に反逆することである。本願は十方衆生と呼んでいる。だから五逆も謗法も十方衆生のうちに在る。十方衆生があって本願があるのではなく、本願より十方衆生が出てきた。本願以外に十方衆生はない。本願以外に十方衆生があるというようなものは妄想である。本願のなかに十方衆生が生まれてきた。そういうことはちょっと解らない。自覚の世界である。自覚的に十方衆生というものを考えると自己の成り立つ根拠がある。本願を信ずるというも、本願の廻向の信心である。本願を本願が自己を承認する用きを信心という。廻心というは一般の俗語である。仏教語では依止を転廻する。転廻とは主体が確立されることである。

                        (つづく)

         次回は11月13日に 「自力の罪」 配信します。


『自己に背くもの』 安田理深述 (12) 本願の正機

2011-10-30 20:01:50 | 『自己に背くもの』 安田理深述

 「さて前に述べてきたことを繰り返すことになるが、浄土論註上巻の解釈を終わって曇鸞大師は、天親菩薩の浄土論の流通文の普共諸衆生往生安楽国というお言葉の衆生というものをおさえて、衆生とは何ぞやという問題を提起された。そこに浄土論の願生の機というものに触れてきた。天親菩薩が自らいかなる立場に身を置いて普共諸衆生往生安楽国といわれたかということは、直ちに天親菩薩が浄土論を製作された立場の問題であるのみならず、それは本願の正機という問題である。本願の正機とは何か。天親菩薩が始めに 「我一心・・・・・」 と願生されたのは単に個人の問題でなく、一切衆生と共にと人類の問題において自己の問題を解決された言葉である。自己の問題を人類の問題とし、人類の問題を自己の問題として解決された問題というものこそ阿弥陀の四十八願である。一心とはその解決である。普共諸衆生とは願成就文では諸有衆生である。これはお話してきたところであるが、こういう問題からやがて唯除の問題に触れてくる。曇鸞大師はかくして問題を展開してきておられるが、これが善導大師を通し更に親鸞の教行信証を通してきた歴史的問題の先尖端を切られたというところに大きな意義がある。教行信証を通してみると、本願文では謗法を善導大師の謗法闡提迴心皆往のご指南を通し、更に涅槃経を以て唯除五逆誹謗正法の問題を解決しておられる。それは経典を以て経典を解釈するという形であるが、涅槃経は仏陀最後の説法である。如来去って後涅槃に入るべし、三ヶ月後には涅槃に入るだろうといわれている。仏陀最後の旅行記を主題にして経典であり、仏陀入滅を機縁としてそこに不生不滅の大涅槃というものを開顕しようとした経典である。そしてこの涅槃経は、我、阿闍世のために涅槃に入らずと悪逆の阿闍世を待って入涅槃を前にせられた釈尊の大慈悲に阿闍世が遂に救済されるという劇的な物語が説かれてある。観経の機であった韋提希は凡夫の善人であり、そこに説かれる未来世の悪人の代表たる阿闍世は凡夫の悪人であり、ここに一切善悪の凡夫人を憐愍する釈尊の悲心がある。大涅槃とは大慈悲である。 「阿闍世の為に涅槃に入らず」 阿闍世が救われなければ自分も涅槃に入ることができぬ。こういうことが唯除のかくれた問題をあらわしている。阿闍世のために涅槃に入らずとは一つの密義即秘儀を有している。阿闍世のために 「為に」 というのは何かというに一切衆生ということである。阿闍世は五逆罪である。五逆罪を犯したものを阿闍世という。 「為に」 は一切の凡夫人である。観経の為未来世の衆生と同様である。未来世の衆生の為にという。それは韋提希が自分だけの救いのために仏陀の十六観の説法を請うたように見えるが、そうではない。韋提希は自分の救いを請うたのであろうけれどもその奥には密義をあらわしている。それを別選所求といっている。つまり韋提希が諸仏浄土のなかから特に阿弥陀仏のお浄土に往生したいといっている。そこに法蔵菩薩の体験がある。選択本願の体験がある。未来世の衆生の為にというあの一句に、善導大師は感激され、あそこに人類の問題が開かれた。あそこに 広開浄土門 の讃嘆のお言葉を放っておられる。そこに韋提希の志願によって永遠の人類の問題を開顕されたのである。そこに韋提希の意識を超えた意識がある。人類の問題がある。われわれが人類の問題を救うと意識しているようなものでない。未来世の衆生のためにというそれと相応して阿闍世のためにといってある。 「為に」 とは一切凡夫人である。凡夫といっても善人悪人があるが、阿闍世は悪逆の凡夫人である。悪凡夫のために涅槃に入らずということは一切の凡夫人のために涅槃に入らずということである。天親菩薩が普共諸衆生といわれた衆生ということは悪人の凡夫というところに立場をおかれた、そういう意義を曇鸞大師が開顕されたのである。

 天親菩薩が、世尊我一心と願生を述べられた 「我一心」 は個人の我ではなく、一切人類の苦悩の問題を自己の問題として開顕されたのである。阿弥陀仏の本願の上に自己の問題を見出すと共に、人類の問題をそこに見出されたのである。願生道というものは単なる個人の問題ではないということを語っている。我一心ということを普共諸衆生は偈の両端に相照している。ここに衆生という言葉を手がかりとして曇鸞大師は願生の機を定義されたのである。そして本願成就文と観経下々品との二経を以て曇鸞大師が衆生というものを明らかにせられたことは前述の通りである。それは単なる私見ではなく経典に照らして衆生というものを明らかにせられたのである。

 が、そこにいろいろ考えられることもないではないが、その範囲を出ないので今少し練らないとお話できないように思う。ただ経文を拝読したと一応の解釈に終わっておく。曇鸞大師は大経と観経との比較を以て、そういう形を通して問題を明らかにせられた。経典を離れて自分勝手なことをいっているのではない。経典に即して問題を明らかにしてゆく、こういうところから大経の唯除と観経の下々品の五逆とを通してそれらを対照してみると、五逆と謗法、大経では五逆を除くと、観経では五逆も救われると、ああいう径路というものはなかなかない。つくりとつくる悪業煩悩も間に合わぬ。転教口称といって念仏の教えを聴聞する余裕もなく、ただ南無阿弥陀仏を称えよというところまでいっている。そういう非常な場合を挙げている。それが涅槃経には具体的に出てくる。下品下生を代表しているのが阿闍世である。親鸞はその涅槃経を照らして更に唯除の問題を明らかにせられた。観経では五逆罪を犯したものも救われるとある。大経では十杷一からげにいってあるが、観経・涅槃経を通してみると、五逆が始めて救われている。そこに大経・観経の矛盾がある。謗法は程度が悪いというようなものではなく、五逆が救われても謗法は救われぬということが明らかになってくる。

 五逆がわれわれの反省の内容である。人間理性の限界内にある。曇鸞大師は明瞭に二つの質的相違を明らかにされた。五逆罪は世間的、謗法罪は出世間的罪である。曇鸞大師もその当時の思想に応じて仁義礼智信を掲げておられる。人権の尊重というようなものかもしれぬ。五逆は人間と人間との関係における問題である。人と人との間柄に関係するものが社会であり、倫理的な問題である。それに対して第一義は人と神、人と仏に対する関係である。それが出世間の問題である。人が仏に関係するものとは何かというに、人が人に関係するところに世間道があるが、そこには大きな根源的関係を前提としている。人がそのものがどういうものか、人間が人間として措定されている関係がある。人間の絶対関係がある。そこにおいて初めて人間が人として成り立つ関係である。だからわれわれの理性とか実践理性とか良心とか、そういうものの対象となる。だから誰でも人間であればわかる。阿闍世が五逆罪を犯したときに六師外道がなだめた。なだめればなだめるほど、問題になる。六師外道は皆五逆罪を犯したことを欺瞞する方法を与えた。耆婆だけが阿闍世の懺悔というものを称讃している。悔いていることを称讃している。そこに起きた阿闍世の懺悔を手がかりとしている。六師外道は懺悔させない。懺悔は罪を肯定する。罪を己に引受け荷負する。そこにはじめて懺悔がある。そのとき即ち懺悔というところに人がいる。慚愧なきものを畜生というといってある。人と動物との区別される一点は懺悔にある。責任とは自由意志である。他より強制をまつことなく自由意思を以て引受ける。そこに懺悔があり、人が成立する。そういうように五逆罪は道徳的意識、人間意識の内容と成る。五逆というものを反省し得るところに人が成り立っている。しかし人間というものは反省を超えたものである。人間そのものというものは反省内容にならない。五逆罪というものは人間の反省の内容になってくれる。そういう点が曇鸞大師の問答により明らかにされるところである。本当に人間の、むしろ人間のこの意識を超えた自己自身に触れる問題、ここに誹謗正法があり、それを深めて求めてゆけば無明ということである。不了仏智、仏智疑惑である。             (つづく)

   次回は11月6日(日) 「仏智疑惑」 を配信します。


『自己に背くもの』 安田理深述 (11)  唯除の自覚、その(2)

2011-10-23 16:03:11 | 『自己に背くもの』 安田理深述

 よく真宗の人で罪悪をみとめるというが、罪悪を認めるということではない。罪悪を認めるのを邪見という。善も肯定しないが悪も肯定しない。親鸞聖人は「五逆の罪人を嫌い謗法の重き咎を知らせんとなり、この二つの罪の重きことを示して十方一切の衆生皆漏れず往生すべしと知らせんとなり」といって唯除は二つの罪を知らせんためと申されている。それはいかにも簡単に述べてあるが廻心皆往ということである。廻向というは謗法の罪の重大なるの警告である。われわれについては本願を疑う。本願に洩れている。そういうことによって三信は根の信であると誹謗正法を否定媒介として廻向の信に触れる。『涅槃経』の文を結んで親鸞はこのようにいっておられる。

 「ここをもって、今大聖の真説に拠るに、難化の三機・難治の三病は、大悲の弘誓を憑み、利他の信海に帰すれば、これを矜哀して治す、 これを憐憫して療したまう。たとえば醍醐の妙薬の一切の病を療するがごとし。濁世の庶類・穢悪の群生、金剛不壊の真心を求念すべし。本願醍醐の妙薬を執持すべきなりと。知るべし。」(真聖p271)

 この親鸞聖人のお言葉は非常にデリケートである。第一の本願を憑む、利他の信海に帰せよ。われらは本願を信ずるということである。信海に帰せよと、帰せよの呼びかけを受けているものは難治の三機である。信海に帰せよ、海に入れよと、それは意識ではない。帰入せよというのは信ずる意識ではない。信ずる意識というようなものは帰してみようがない。信海に帰命せよ。帰命するとは頂いたことである。無根の信である。勿体ないと頂いた。それに自力の信心が批判されている。自力の信心を否定媒介として大きな信海に目覚める(意識的にではない)本願の海に目覚める外に意識はない。桶の底が抜けた。抜けた底に意識があったわけではない。だから信心というも超越的である。こういう信心を明らかにするにはどうしても仏智疑惑を否定する関門を透過しなければならない。

              次週は 「本願の正機」 を配信します。


『自己に背くもの』 安田理深述 (10)  唯除の自覚、その(1)

2011-10-16 19:30:56 | 『自己に背くもの』 安田理深述

 善人なる故に往生できるものではない。そんなら悪で救われるというのは邪見である。善人なるが故に救われるというのは憍慢である。信心によって救われる、こういうのが真宗の教相である。 「十方の衆生至心に信楽して我国に生まれんと思え」 といわれたからといって、 「さようですか」 といって信ずることができるわけではない。そこに獲信のためには根元の懺悔を通さなければならぬ。そこに至心信楽の機というものが生まれてくる。唯除ということを通さなければ、他力迴向が自覚的にならない。唯除が置かれるために自力が懺悔され、この迴心懺悔を通して無根の信に触れる。他力の信心は自力というものの根底的に打ち砕かれるところにある。自力の打ち砕かれるに即して打ち砕く他力あり、誹謗正法の迴心とは自力の懺悔である。それからくらぶれば五逆の懺悔は浅いものである。本願のなかにありながら本願に反逆している。その自己の反逆性が打ち砕かれて始めて至心信楽欲生の無根の信が明らかにされてくる。本願の三心が、無根の信であるということの自覚を与えてくれるものが唯除の精神と思う。今いったようにくると、唯除五逆誹謗正法の罪深いことを善導大師は明らかにされた。謗法は永遠に許さぬという曇鸞大師の解釈は、信ずるものは皆往くと語っている。本願を信ずるものは浄土に生まれるということを信心成仏という。それを明らかにされたのが論註である。誹謗は許さぬという、即ち本願を信ずれば皆往生すという信心為本を明らかにした。誹謗正法を許さぬというところに信心為本ということがある。その懺悔を通して迴向の信に目覚めるというのは曇鸞大師と善導大師との帰結を一にする。

 本願の分というものを読んでみると 「十方衆生至心信楽欲生我国・・・・・・・・不取正覚唯除五逆誹謗正法」 とある。不取正覚といったときに自分はどこにいるか、誓われた本願のうちにいるかというに外にいるという自覚、不取正覚と誓った後に唯除が出てくる。本願に触れてみれば本願の外にいる。こういうことからみれば除くということは排除でなくして、除くものなくして除かれている。除はわれわれの問題である。本願は救っている。われわれがしかるにもかかわれず除かれている。本願のうちにありながら背いている。自らが除かれている。除くという言葉によって除かれていることに目覚める。われわれの唯除ということによって本当の無根の信、他力迴向の信心というものを明らかにしている。第一義では善も悪も罪にならぬ。ただ仏智疑惑が本願の唯一の罪だという。唯除について信心為本を明らかにしてくることでないかと思う。親鸞聖人のお言葉では、 「唯除という唯除くという言葉なり、五逆の罪人を嫌い謗法の重きとがを知らせんとなり」     (つづく)

            次回は 「唯除の自覚」 その(2)を配信します。