唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変  三性門 その(2)

2012-08-31 23:00:40 | 心の構造について

 「此の六転識は何の性にか摂むる耶。」(『論』第五・十七右)

 (この六転識は三性(善・不善・無記)の中のいずれの性になるのであろうか。)

  「論。此六轉識何性攝耶 述曰。此即問起。然前第八識。辨心・心所已。方説言是無覆無記。今者解識即辨其性。前顯心・心所法其性必同。所以解心所已方始解性。今者識後明性。顯此聚亦爾。但是影顯二文令相互照。又彼諸法不定通三性。此定通故。使後學之惠起異論端故 下答之中。初擧頌。下別釋。」(『述記』第五・五十六左。大正43・418b)

 (「述して曰く。此れは即ち問いを起こす。然るに前の第八識には心・心所を弁じ已って、方に説いて是れ無覆無記と言えり。今は識を解して即ち其の性を弁ず。前には心と心所法は其の性必ず同なるを顕す。所以に心所を解し已って方に始めて性を解す。今は識の後に性を明せることは此の聚亦爾なりと顕す。但だ是れ二の文を影顕して相互に照さしむ。又彼の諸法は定んで三性に通ぜず。此れは定んで通ずるが故に。後学の慧をして異の論端を起さしむるが故なり。」)

 三性門は前六識は善・不善・無記のいずれの性に摂められるのかということを分別する門です。

  •  初能変 ー 無覆無記
  •  第二能変 - 有覆無記(何故有覆というのか、染汚の法だからです。染汚法の働きを有覆というのです。理由は、有覆は外には聖道の無漏智を障え、内には自心を覆うという用きを持つのです。煩悩のはたらきですね。一切を「有」(煩悩)で覆ってしまう、自己関心というものに色付けされるのです。善をなしても雑毒の善となる、という。この第二能変の末那識は六識の所依であるわけです。
  •  第三能変 - 三性のいずれにも定まらないというのが六識の特徴になります。いずれにもなりえる、と。

 この問いに対して、次の科段で答えられています。「三性に通ず」と。

 「謂く善と不善と倶非との性に摂む。」(『論』第五・十七左)

 「論。謂善不善倶非性攝 述曰。此擧頌答。即顯六識並通三性。」(『述記』第五末・五十七右。大正43・418b)

 (「述して曰く。此れは頌を挙げて答えるなり。即ち六識は並びに三性に通ずることを顕す。」)

 


第三能変 ・ 第四門 三性門 その(1)

2012-08-30 23:03:01 | 心の構造について

 2010年4月22日のブログより

 「第三能変の九門の中の第四門にあたります。第一は六識得名・第二は自性・第三は行相で第四で三性門(三性分別)に入ります。三性とは善・不善(悪)・無記(倶非)のことです。この三性については以下説明をしていきますが、要点だけ述べますと、「善」については「能く此世・他世のために順益するが故に名づかて善と為す」人未来際に亘って順益を為すことを善といい、為さないことを不善と云うのですね。「悪趣の苦果は此世には能く違損を為すと、他世に於いてするには非らず。故に不善に非ず。」とい云い、人天の楽果や悪趣の苦果は此世・他世を問わず善・不善の立場からは倶非なるものになるわけです。六転識との関係では善の心所と相応する識であれば善に摂められ、不善の心所と相応する識であれば不善に摂められると云われています。ここに問題が提起され『論』および『述記』に詳しく説かれています。

 4月23日のブログより

 第四の三性門を理解するのに初めに問いを寄せ、後に問いに依って答える。 

 「此の六転識は何の性にか摂むるや」(『論』第五・十七左)

 (この六転識は善・不善・無記の三性の中のいずれの性に摂められるのであろうか。)という問いです。

 「然るに(『論』第ニ巻)前の第八識には心・心所を解きおわって性は無覆無記と言う。今この六転識は何の性になるのであろうか、ということは識を解してその性を明らかにするのである。」その答えが「謂く善と不善と倶非との性に摂む」と云われるのです。第ニ能変の下には心・心所を解き終わって三性門を分別しているが、今この段は心王を説き終わって心所相応門の前にこの三性門が置かれているのは何故なのか、という問いなのです。「第八識の三性門は心王と心所とを説き終わって後にこれを説くのであり、第二能変も亦同じである。第三能変は心王を説き終わって後に三性門が置かれている。心所を後にて、先に三性を説くのにニの解釈がある。一つは初能変の時は心心所の法はその性は必ず同なるを顕すのであって、心所相応門の後に三性門を説くのである。第三能変の時は心王の性に従がって心所もその性必定する理由を顕さんとして心所相応門の前に三性門を説くのである。二つには初能変・第二能変は心王も心所もその性必同である。依って心心所を説き終わって後に三性門が置かれるのであり、第三能変は心王は三性に通じるが、心所はそうではない。どういう事かと云うと善位の心所は善に限り、煩悩は染汚の性に限るのである。そうであるので心所相応門の前に三性門を説くのである。(『泉鈔』取意)

 「謂く、善と不善と倶非との性に摂む。」(『論』第五・十七左)

 (六識は善・」不善・無記との三つともの性に通じるのである。)

 「此れは頌を挙げて答えるなり。即ち六識は並びに三性に通ずることを顕す」(『述記これは何を言おうとしているのかと云いますと、六識は善・不善・無記のいずれの性に定まっているのではなく、いずれの性にもなり得るということなのです。これは初能変が無覆無記・第二能変が有覆無記と定まっているのとは大きく異なる点であることに注意が必要です。六識は三性に通じるという事は十一の善心所(信・慚・愧・無貪・無瞋・無癡・勤・軽安・不放逸・行捨・不害)と相応する位は善であり、十の不善の心所(無慚・無愧・瞋・忿・恨・覆・悩・嫉・慳・害)と相応する位は不善であるわけです。そしていずれの心所とも相応しない時は無記の六識なのです。古い論議の中に「凡そ性類門は思の心所の能なり」と云われていまして、「先ず三性の造作は思なり」、ということはよくよく考えなければならないことです。「思の心所は心を善にも悪のも無記にも作りなす心なり。」といわれ、心の造作、意の働きを意味します。心を動かすはたらきですね。 次は三性について個別に説明がされています。三段にわかれて説かれます。

  1. 頌の文を説明する。
  2. 三性の同異を述べる。
  3. 果位は、三性中のいずれの性に摂まるのかを説明する。
  4.   


第三能変 自性並行相門 (5) 識という別名について

2012-08-29 23:12:02 | 心の構造について

 「所依頌曰。五四六有二。七・八一倶依。及開導・因縁。一一皆増二 五四者五識各有四依。一順取依。二明了依。三分位依。四依起依 六有二者。第六意識有二所依。一分位。二依起 七八一者。七・八二識各有一依。七有一。謂依起。八有一。謂分位。倶依者。顯上所明倶有依攝。開導者。即等無間依。因縁者即種子依。及者顯此諸識更加二依。一一皆増二。謂五有六。第六有四。七・八各三。如前第四卷説。

 所縁頌曰。因見各隨應。五三六有二。六一一不定。自在等分別 因者。簡自在位 見者。於因中取見分除自證分等 各者。顯別別界 隨應者。顯能縁識非決定故。隨其所應諸識縁故 五三者。色等五界三識所縁。一五識。二第六。三第八。第八者意界攝 六有二者。謂眼等五界。六・八二識所取。意界通爲六・七所取。瑜伽等説第七・八識意界攝故 六一者。謂眼等六識界。唯一意識縁。第七・八識不名意識界故 一不定者。即法界。若非他定・通等力所引。唯意識縁。若爲他引。五・八・六識倶能引之。於中復有異生・二乘・菩薩所引。各有差別 自在分別者。謂或初地・或八地・如來位各有差別。一一爲他八識縁也 等分別者。謂若因中法界心所。並自證分・證自證分。於七心界中處處加自。及果上十八界。爲七心界及法界所了。如理應知。」(『樞要』巻下本・二十九右。大正43-641a)

 (「所依の頌に曰く。五には四あり、六には二有り。七と八とには一の倶依なり。及び開導と因縁なり。一々に皆二を増せり。五・四とは五識には各々四の依有り。一に順取依、二に明了依、三に分位依、四に依起依。六に二有りとは、第六意識には二の所依有り。一に分位、二に依起なり。七・八に一とは、七・八二識には各々一の依有り。七には一有り。謂ゆる依起なり。八には一有り。一に謂く分位なり。「倶依」とは上の所明は倶有依に摂すと云うことを顕す。「開導」とは即ち等無間依なり。因縁とは即ち種子依なり。及とは此の諸識に更に二の依を加えることを顕す。「一々皆な二を増す」とは謂く五には六有り、第六に四有り、七・八に各々三有り、前の第四巻に説くが如し。」)

 所依については、前五識には各々四つの所依が有る。同境依・分別依・染淨依・根本依を所依としている。例えば、眼識の所依は眼根という不共依だけではなく、他に、第六意識と末那識と阿頼耶識の共依の三つを加えた四つを所依とする。

 第六意識は第七識を不共依とし、第八識を共依とする。第七識は第八識を不共依とし、第八識は第七識を不共依とする。ここで問題となっているのは、前五識ですが、前五識は、同境依としての五根、分別依としての第六意識、染淨依としての末那識、根本依としての阿頼耶識の合計四つの所依を持つのであると説明しているのです。

 (「所縁の頌に曰く。因の見は各々応に随う。五には三あり、六には二有り、六には一あり、一は不定なり。自在等との分別する因とは自在の位を簡ぶ。見とは因の中に於て見分を取って自証分当を除く。各とは別別の界を顕す。随応とは能縁の識は決定に非ざることを顕すが故に其の所応に随う、諸識縁ずるが故に。「五三」とは、色等の五界は三の識の所縁なり。一に五識、二に第六、三に第八、第八をば意界に摂す。「六有二」とは、謂ゆる眼等の五界は六・八二識の所取なり。意界は通じて六・七の為に所取なり。瑜伽等に第七・八識は意界に摂すと説くが故に。「六一」とは、謂ゆる眼等の六識界をば唯一意識のみ縁ず。第七・八識を意識界と名づけざるが故に。「一不定」とは、即ち法界なり。若し他の定と通等との力の為に引かざるるに非ず。唯だ意識のみ縁ず。若し他の為に引くならば、五と八と六識と倶に能く之を引く。中に於て復、異生と二乗と菩薩との所引有って、各々差別有り。「自在分別」とは、謂ゆる或は初地と或は八地と如来位とに各々差別有り。一々に他の八識が為に縁ぜるなり。「等分別」とは、謂ゆる若し因の中の法界の心所と並びに自証分は証自証分なりと。七心界中に於て処々に自を加えたるなり、及び「果の上の十八界」とは七心界と及び法界との為の所了なり。理の如く応に知るべし。」)

 所縁について説明しています。これもまた「義の便」によって説くということです。

 識そのものは能縁の作用ですね。しかし境を縁ずる作用もまた縁じます。何かを知るということは、識そのものは見分であるけれども、知るということを知るという作用が働いています。自己自身を自覚するということは、自覚する底に自証分があり、自証分を証自証分が証明しているという構造になります。見分・相分と二分が並列的に述べられますが、相分というのは厳密には見分によってとらえられたもの、見分内相分といえます。そしてその根底に自証分があるのですね。、識自体で、自体分ともいいます。これがまあ性相学といわれるのですが、「性とも相とも為す」と。性は自体分・相は能縁の作用であって見分ですね。義に於て相違するから分かって二門、自性門・行相門といいます。しかし第六意識の体と相とはその義が最も親しいので自性行相門といい、『論』に「了境為性相」というのである、と。

 


第三能変 自性並行相門 (4) 識という別名について

2012-08-27 22:49:13 | 心の構造について

 不共の所依・未転依の位・見分が所了を述べます。不共の所依とは不共依で同境依のことですが、前五識は五根を所依としていると経典には説かれていることについて会すわけです。未転依の位とは已転依の一切の法を縁ずるを簡んで、但、色等を縁ずると言っています。見分が所了というのは自証分を簡ぶ。「了境為性相」とは、体と相とのニ門をいい、了は自性に通じ、即ち自証分である、と。行相は識の見分になり、相を縁じて境といいます。自証は見分が依り所となって見分を縁じて境と為すわけです。また「境を了す」というのは識の自証であり、亦、行相になります。経にたいする疑問に答えるのに、しばらく共依を除き、已転依の位を除いて説いているということなのですね。そして見分の所了(認識対象)である相分を説いたということになります。五識の場合では五境を説いたということですね。

 「余の所依と了とは、前に已に説きつるが如し。」(『論』第五・十七左)

 (他の所依と了とは、前に已に説いた通りである。)

 「此れに由って五識の倶有所依は定めて四種有り、謂く五色根と六と七と八との識なり。随って一種をも闕くときには必ず転ぜざるが故に。同境(前五識)と分別(第六識)と染淨(第七識)と根本(第八識)との所依別なるが故に。聖教に唯だ五根に依るとのみ説けるは不共なるを以ての故に。又は必ず同境なり、近なり、相順せるが故なり。」(『新導本』巻第四p21)

 「余の所依」、所依には四つあるけれども、『経』には不共依の一つしか説かれていない。残る三つ、即ち分別依と染浄依と根本依は説かれていないのは、これはすでに前の第四巻に説いたのである、と述べています。

 「了」見分の働きについてもすでに、第ニ巻に説いている(四分義として見分・相分・自証分・証自証分)といいます。

 「論。餘所依了如前已説 述曰。餘依者。即分別依・染淨依・根本依。如前第四卷解。若依境立名。如次前説 餘了者。若自證分。如第二卷解。若自在五識見分境。如次前説。故此總言餘所依了如前已説。雖後明四智。今但指前。今應義准因果十八界爲縁不同 頌曰。因見各隨應。五三六有二。六一一不定。自在・等分別。所依之頌如前已説 准前文中。且依不共依。簡因・無間・及染・同境・共依等故。未自在位非他所引。若由他力定・通所引。 亦縁法故 又此應説三界繋・不繋之識。異生・聖者三乘人等縁境分齊。如對法第二末。六十五等抄説。 

 次第三段。將解第四三性之門。初寄問起。後依問答。」(『述記』第五末・五十六右。大正43・418a27~418b12)

 (「述して曰く。余の依とは、即ち分別依・染淨依・根本依なり。前の第四巻に解するが如し。若し境に依って那を立つることは、次前に説くが如し。余の了とは若し自証分は第二巻に解するが如し。若し自在の五識の見分の境は次前に説くが如し。故に此こに総じて余の所依と了とは前に已に説くが如しと。後に四智を明かすと雖も、今は但だ前を指す。

 (十八界の依・縁を明かす) 今応に義をもって准ずるに因果に十八界を縁と為すること不同なるべし。頌に曰く。因の見は各々応に随って、五には三あり(五塵界には五・六・八の三つ)、六には二有り(五根には六・八、意根には六・七の二つ)、六は一なり(六識には意識の一つ)。一は不定なり。自在と等とは分別なり。所依の頌は前に已に説くが如し。前の文の中に准ずうに且く不共依のみに依ると云えり。因(因縁依)と無間(等無間依)及び染(染淨依)と同境と共依との等(第六と五識と同境依と第八根本依)を簡ぶ。故に未自在の位には他の引く所に非ず。若し他力の定と通の所引に由るをば、亦法を縁ずるが故に。又此れに応に三界繋・不繋の識と異生と聖者三乗の人等が境を縁ずる分斉とを説くべし。『対法』第二の末と、六十五(『瑜伽論』)当との抄に説くが如し。)  十八界の所依と所縁について、『述記』に「今応に義に准ずるに因果に十八界を縁と為すること不同なるべし。頌に日く。因の見は各々応に随う。五には三あり。六にはニ有り。六は一なり。一は不定なり。自在と等とは分別すべしという。所依の頌は已に説きつるが如し。前の文の中に準ずるにしばらく不共依にのみ依る。因(因縁依)と無間(等無間依)と及び染(染浄依)と同境(第六と五識と同境依と根本依)と共依との等を簡ぶ。故に未自在の位に他の所引に非ざるをいう。」と説明されています。『樞要』(巻下・二十九右)には「五三とは色等の五界は三の識の所縁なり。一に五識。ニに第六。三に第八。第八をば意界に摂む。「六にはニ有り」とは眼等の五界は六・八ニ識の所取(客観的対象ー知られるもの)なり。意界は通じて六七の為に所取す。「六は一なり」とは眼等の六識界をば、唯一意識のみ縁ず。第七・八識を意識界と名づけざるが故に。「一不定」とは即ち法界なり。」と述べられています。

 『樞要』の文については明日述べます。

 

 


『阿毘達磨倶舎論』に学ぶ。 本頌 (2)  第一章第一節

2012-08-26 22:04:12 | 『阿毘達磨倶舎論』

 第一章は、諸法仮実論(原理論)・第一節 無為法の三種及びその他(有漏・無漏・有為・無為)を説明します。

 諸法論が述べられます。『倶舎論』における諸法論は七十五法の説明です。一に五位の分類と、二に蘊・処・界の分類になります。これが第一章の構成になりますが、第一頌から第四十八頌において説明されています。序説が終わった後、第二において、有漏・無漏・有為・無為の説明がされています。第四頌から第八頌に於て述べられています。

  1.  有漏と無漏との法なり。 道を除いて余の有為は、 彼に於て漏随増す。 故に説いて有漏と名づく。
  2.  無漏は謂く道諦と及び三種の無為となり。 謂く虚空と二滅となり、 此の中に空は無礙なり。
  3.  擇滅(ちゃくめつ)は謂く離繋(りけ)なり。 繋(け)の事に随って各別なり。 畢竟じて當生(とうしょう)を礙るに、 別に非擇滅を得。
  4.  又諸の有為法は、 謂く色等の五蘊なり。 亦は世路(せろ)と言依(ごんえ)と有離(うり)と有事(うじ)等となり。
  5.  有漏を取蘊(しゅうん)と名づく、亦は説いて有諍(うじょう)と、及び苦と集(じゅう)と世間と、見処(けんじょ)と三有(さんう)等と為す。

 これが第一段の五頌です。五位七十五法が述べられます。五位とは、色法(十一)・心王(一)・心所法(四十六)・心不相応行(十四)・無為法(三)の五で、蘊・処・界とは、五蘊・十二処・十八界の分類です。これは便宜上の説明になります。

 先ず、諸法を有漏と無漏に分けます。漏は、もれるもの・流れ出すものという意味で煩悩をさします。煩悩は有情の六根から流れ出すもので、漏というのです。世親菩薩は「有」を随増の義で説明しています。「有漏法は煩悩の対象になるばかりではなく、煩悩がその上にとどまって離れず、なお増大する、とするのは説一切有部アビダルマ独特の理解である。「随増」とはその意である。」(桜部 健著 『倶舎論』p60より。

 「道」とは四諦の中の道諦をいいます、「余の有為」とは苦・集の二諦を指します。苦・集二諦が有漏であるという。有為法とは因果関係の上に存在するもの、無常変化するもので、四種の有為法は、独自の本性をもち、三世に実有であるとする(三世実有法体恒有)、そして、刹那滅である、と。三世に実有であり、刹那滅である因果関係の上に成り立つのが諸法である、と説明しています。

 無漏は滅・道二諦の外に三無為の中の虚空と非択滅とをいいます。滅諦は択滅ですから、三無為とは虚空と択滅と非択滅です。ですから頌に「虚空と二滅」と述べています。

                     (つづく)

 

 

 


第三能変 自性並行相門 (3) 識という別名について

2012-08-25 23:25:21 | 心の構造について

疑問に対して答える。

 「彼の経は且く、不共の所依と未転依の位と見分が所了とを説けり。」(『論』第五・十七左)

 (彼の経は、しばらく、不共の所依(五根)と未転依の位と見分の所了(相分)とを説いているのである。)

 契経は、しばらくは不共依(五根)と未転依の位と見分の認識対象(相分)とを説いていると述べています。共依を説かないのではなく、ここでは除外しているということです。「未転依の位と見分の所了とを説いた」ということは、已転依の位と自証分も除外して説かないということになります。自証分は相分を認識対象とせず、見分を認識対象としているのです。ここではそれを除外して見分の認識対象である相分を説いているのです。眼識なら色境のみを説いているという事です。

 「論。彼經且説至見分所了 述曰。彼經且説諸所依中不共所依。簡餘依也 未轉依位。簡已轉依縁一切法。但言縁色等 見分所了。簡自證分。其實五識亦了識等。若依餘根・轉依位・自證分等。義即不定。亦了聲等。乃至廣説今此且據少分位説。非究竟言 有義此解非稱論文。此中論云如經説等。但明六識之次。引彼六識之經。證成六識自性。非爲前伏難有此論也 即第三句了境爲性相。體・相二門 了者即通自性 自性即自證分 行相即是識之見分。縁相爲境。自證爲見之依縁見爲境。是故總言了境爲性相 又解不須如是分別。此中但解了境者。是識自性。亦是行相。行相是用故。」(『述記』第五末・五十五右。大正43・418a)

 (「述して曰く。彼の経は且く諸の所依の中の不共の所依を説いて余の依を簡ぶなり。未転依の位と云うは已転依の一切法を縁ずるを簡ぶ。但だ色等を縁ずと言う。見分の所了と云うは自証分を簡ぶ。其の実は五識も亦識等を了す。若し余の根と転依の位と自証分の等に依ると云わば、義即ち不定なり。亦声等を了す。乃至広く説くべし。今此れは且く少分の位(因位未自在)に拠って説く。究竟の言に非ず。

 有義は此の解は論の文に称うに非ず。此の中の論に云く、経に説くが如し等と云うは、但、六識を明かすの次に、彼の六識の経を引きて、六識の自性を証成するなり。前の伏難の為に此の論有るに非ずなり。即ち第三の句の「了境為性相」と云うは、体と相との二門なり。了とは即ち自性に通ず。自性と云うは即ち自証分なり。行相と云うは、即ち是れ識の見分なり。相を縁じて境と為す。自証が見の依と為る。見を縁じて境と為す。是の故に総じて「了境為性相」と言う。

 又解す、是の如く分別すべからず。此の中に但だ境を了すとは、是れ識の自性なり、亦是れ行相なり。行相は是れ用なるが故にということを解す。」)

          ―      ・      ―

 「これは識というのは、いわく了別と定義されているが、識はビジュニャーナ、了別はビジュニャープチという。識は阿頼耶識とか末那識とかいう。作用の主体をあらわす時にビジュニャーナである。しかし唯識という時の識はビジュニャープチである。了別は唯識の識をあらわす。だから識という場合は了別というような作用をもったものである。了別というのは識そのものが現行している場合であり、作用が実現している場合である。了別境の識というのは識であるが、識は境を了別するものである。了別とは、境の了別である。識は了別という作用を持ったものであり、了別というのは境の了別として境の方に力がかかる。六種の境の了別、それを六識という。つまり六境になったもので、六境というものが内容としてあらわれている識であり、六境として顕現している識である。境を了別する用きが了別としえそこにあらわれている場合はである。」(『安田理深選集』巻三p235)


第三能変 自性並行相門 (2) 識という別名について

2012-08-24 22:30:34 | 心の構造について

 第三能変につけられた識という別名について、

 「斯に由って、兼ねて所立の別名をも釈して能く境を了別するを以って名づけて識とは為すが故に。」(『論』第五・十七左)

 

 「斯に由って」とは「了境為性相」を指し、立てられた所の別名をも説明して、よく境(対象)を区別して知ることを以って、識と名づけるからである。

  1. 「心」ー第八阿頼耶識を「心」といい、
  2. 「意」-第七末那識を「意」といい、
  3. 「識」-第六意識は「識」という別名を持つのです。「斯に由って」いわれていました「境を了すること」を自相・行相とも為す、といわれていたことが、同時に別名の識を説明したことになるといわれています。「境を了別」することが「識」と名づけられるからである、と説明されています。そして了別の働きは麤であるからともいわれます。

 「 論。由斯兼釋至名爲識故 述曰。釋心・意・識三種名中所名識別名也 能了別境名爲識故。謂了別行麁故。非心・意名識。」(『述記』第五末・五十四左。大正43・418a)

 (「述して曰く。心・意・識の三種名の中に名くるところの別名を釈す。能く境を了別するを名けて識と為す故にと云う。謂く了別の行麤なるが故に。心と意とを識と名くに非ず。」)

経典をもって会通する。経典の文を挙げる。

 「契経に説けるが如し。眼識というは云何ぞ。謂く、眼根に依って諸々の色を了別す。広く説かば乃至意識とは云何ぞ。謂く意根に依って諸法を了別すと。」(『論』第五・十七左)

  「論。如契經説至了別諸法 述曰。下會經也。此言可解。謂有問言。且如眼識。亦依餘根。縁境通能了一切法。云何但説依眼了色。不言依六・及七・八識了聲等耶。牒經問已 爲答此問故次論云。」(『述記』第五末・五十五右。大正43・418a)

 「述して曰く。下は経を会するなり。此の言は解すべし。謂く有るが問うて言く。且く眼識の如きは亦余の根にも依る。境を縁ずることも通じて能く一切の法を了す。云何ぞ、但眼にのみ依って色のみを了すと説いて、六(分別依)と七(染浄依)・八(根本依)との依って声等を了すとは言わざるや。経を牒して問うなり。此の問に答へん為の故に。次の論に云く。」

 『論』に言われていることから、経典の内容について疑問が起こると、『述記』には論述されています。経典では眼識は眼根に依って諸々の色を了別すると説かれているけれども、眼識の依り所は眼根だけではなく、分別依・染浄依・根本依の三つとあわせて、計四つを所依としているのではないか。また自在位には一切法を了別するといわれている。にも拘わらず「但眼にのみ依って色のみを了すと説いて、六(分別依)と七(染浄依)・八(根本依)との依って声等を了すと」言わないのか。という疑問です。「眼根に依って諸々の色を了別す」とだけ言われていて自在位には眼識が了別するはずの声等の一切法を挙げないのかということです。未自在位では眼識の対象認識は色境のみですが、自在位では眼識が認識するのは一切法なのです。このことを会通するわけです。前五識の所依・識が依り所とするのは五根だけではなく、分別依・染浄依・根本依の計四つの所依を持つと述べています。

 


第三能変 自性並行相門 (1)

2012-08-23 23:17:17 | 心の構造について

 能変差別門を閉じるについて整理をしておきます。

 「謂く本頌の中に初能変の識は、唯所縁を明かし(不可知の執受処)、所依を明かさず。第二能変には倶にニ種ながらを明かせり(彼に依って転じて彼を縁ず)。此の六識は共の所依を明かして(根本識に依止す)所縁をば明かさず。麤にして而も且つ顕なり、又復極成するを以って頌の文に略して説かず」(『述記』)

  • 初能変 第三頌(不可知執受処)で所縁を明らかにしています。
  • 第二能変 第五頌(依彼転縁彼)で所依と所縁を明らかにしています。第八識を所依として転じて第八識を所縁とする、ということです。
  • 第三能変 第十五頌(依止根本識) 六識すべては根本識(阿頼耶識)を所依として働いているわけです。

 「前に義の便に随いて已に所依を説いて、此の所縁の境をば義の便に當に説くべし」(『論』)

 前に(『論』巻四 依・所依の文 専註成唯識論ではp83・『論』巻五 六ニ縁証の文 専註成唯識論ではp103)(義の便に随って)已に所依を説いたので、ここでは此の所縁の境についても(第三能変の別名についての経典の会通の所論を指す。p108)義の便(意義内容をわかりやすく)のために当に説くのである。これはこの後に論議されます。

 そして、第二自性門と第三行相門が開かれます。

 第三能変は「差別なること六種有り」といわれますように、六識であることです。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識ですが、「差別なること」つまりそれぞれが対象(所縁)を明瞭に認識する働きを持っているという事です。六識は第八識(根本識)を依り所としているのです。所縁はそれぞれ色境・声境・香境・味境・触境・法境であることが述べられています。前五識はニ群に分類され(A)眼識・耳識・身識の群で欲界と初禅に働き、(B)鼻識・舌識は欲界のみに働くといわれます。前五識と第六意識はともに表層のこころで、深層の第七・第八識と区別されるわけです。そして表層のこころは麤であり、深層のこころは細に働いていますから、表層のこころは自覚できる心作用であるということができます。第三能変は表層の心の働きを分析した心所論を展開します。具体的には六位五十一の心所論です。心所論は第九頌から第十四頌まで展開されます。そして第十五頌に「根本識に依止す。五識は縁に随って現ず。・・・」第十六頌に「意識は常に現起す・・・」心は何に依って動き、働くのかを明らかにしていますね。「縁に依る」ということです。それでは自相・行相をみていきます。

 「次に了境為性相(りょうきょういしょうそう)と言うは、雙(そう)じて、六識の自性と行相とを顕す。識は境を了するを以って自性と為すが故に。即ち復彼を用って行相と為すが故に。」(『論』第五・十七右)

 次に「境を了するを性とも相ともする」と言うことは、六識の自性と行相とを並べて顕すのである。なぜなら、識は境を了別することを自性(本質)としているからである。すなわち、また、そのことを以って行相(働き)ともするからである。所縁の境を了別するのは見分の作用(行相)であり、本質は直ちには顕すことができないので、作用をあげて本質も復、了境であるといわれています。(『唯識学研究』取意)

 「 論。次言了境至爲行相故 述曰。於中有二。初釋頌。後會經。此初也。如前第七性相中解」(『述記』第五末・五十四右。大正43・418a)

 (「述して曰く。中に於いてニ有り。初めに頌を釈し、後に経を会す。此れは初めなり。前の第七の性相の中に解するが如し。」)

 第七末那識には識の所依論が述べられています。識の所依を種子依(因縁依)・倶有依(増上縁依)・開導依(等無間縁依)により、識相互の関係が述べられていました。(『専註成唯識論』p79~88)

 第七末那識では我執がどのように捉えられているのかが論じられ、第三能変では六識の具体的な働きについて論述されているのです。  


第三能変 能変差別門 (30) 疑問に答える。

2012-08-22 22:47:57 | 心の構造について

 已に所依が説かれたのと同じように、所縁の境についても説かれる。

 「前に義の便(びん)に随って、已に所依を説いて、此の所縁の境をば義の便に当に説くべし。」(『論』第五・十七右)

 (前に、「義の便に随って」(内容をわかりやすく説明するために)、すでに所依について説いた。ここでもこの所縁の境についても、義の便に随って、まさに説くのである。)

  • 「前」とは - 巻第四の所論と、巻第五の所論を指す。巻第四の所論は所依について述べられる。「若し法が決定せり、境を有せり、主たり、心心所をして自の所縁を取ら令む、乃ち是れ所依なり、即ち内の六処ぞ、」と「此の理趣に由って、極成の意識は、眼等の識の如く、必ず不共なり、自の名処を顕し等無間に摂められず、増上なる生所依有るべし、極成の六識の随一に摂めらるるが故に」
  • 「当に説くべし」とは - 「契経に説けるが如し、眼識というは云何ぞ。謂く、眼根に依って諸の色を了別するぞ。広く説く、乃至意識というは云何ぞ、謂く、意根に依って諸法を了別するぞ。」

「論。前隨義便至義便當説 述曰。然所依少別前已廣論。所縁別者義便當説。謂次下引云眼識云何即是説也。宗明唯識故不明境 又解前文非明頌無。我長行中以麁顯故不別説也。謂如瑜伽等説。眼謂四大所造淨色爲性6有見有對。各從自種生。或是異熟。或是長養。通何界繋。漏・無漏等。斷・不斷等。有衆多門。非此所明我亦不説。此解第二句差別有六種訖。即前言種類義是差別義。謂隨六根・境立六識名。即義差別有六種也。」(『述記』第五末・五十四右。大正43・417c)

 (『述して曰く。然るに所依の少別なること前に已に広く論ず。所縁の別なるは義の便に当に説くべし。謂く、次下に引て云く、眼識云何と云えり、即ち是れ説なり。唯識を宗として明かす、故に境を明かさず。又解す。前の文(前科段の文)は頌に無きことを明かすには非ず。我が長行の中に麤顕なるを以ての故に別に説かず。謂く瑜伽(巻第一)等に説くが如し。眼は謂く四大所造の浄色を性と為す、有見無対なり。各自種従り生ず。或いは是れ異熟なり。或いは是れ長養なり。何ぞ界繋に通ずるや。漏・無漏等・断不断等という。衆多の門有り、此の所明に非ず。我亦説かず。此れは第二句の差別有六種というを解し訖る。即ち前に種類義是れ差別の義なりと言えり。謂く六の根と境とに随って六識の名を立つ。即ち義いい差別するに六種有り。」)

 「自下解第三句第二三の門也。」

 (自下は第三句の第二・三門を解す。)


第三能変 能変差別門 (29) 疑問に答える。

2012-08-21 22:08:43 | 心の構造について

 諸根互用について会通してきましたが、『演秘』第四末・四十右。大正905c15~906c23)には尚、詳細が述べられています。長文になりますので割愛しますが大正蔵経を参照してくださいますならば、教化ということの意味がはっきりすると思います。

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 六識の根と境について説いていないことを明らかにします。

 「然れども、六転識の所依と所縁とは、麤顕なり、極成せり、故に此には説かず。」(『論』第五・十七右)

 (しかし、六転識の所依と所縁は麤顕であり、極成のことである、。そのために、此処(本頌)には説かない。)

  • 極成(ごくじょう) - 一般に認められていること。

 六転識の所依と所縁が麤顕であることは一般に認められていることから『唯識三十頌』には説かれていない、と理解する方がいいと思われます。

 本頌の文は唯識を明らかにするとはいえ、ただ見分についてのみ説かれている、しかし見分は根に依って起こるのであり、相分は見分に依って生じる、何が故に(にもかかわらず)、本頌では、根と境について述べられていないのであろうか(根と境とを弁ぜざるや)。

 この問いに対して答えているのです。

 根と境は、麤顕であるから説かれていない、と。

  • 麤顕(そけん) - はっきりと認識されるあり方。唯識では沈隠(ちんおん)の対としての麤顕である。阿頼耶識にある種子がはっきりと認識されえない深層的なありようを沈隠というのに対して、種子より生じた表層的な識がはっきり認識されうるありようを麤顕といいあらわしています。

  六根・六境はだれにでもよくわかることなので麤顕といい、これは大・小乗共に認めている共許のことなので極成と言い表しているのです。改めて説く必要はない、と。

  「論。然六轉識至故此不説 述曰。下顯不説。共依下説。且顯不共依 頌中不説。一色麁而且顯。二乃諸論皆有彼此極成。故本頌文更不別説。此即會本文無説根・境之頌。謂本頌中初能變識。唯明所縁不明所依。第二能變倶明二種。此之六識明其所依不明所縁。以麁而且顯又復極成。頌文略而不説。」(『述記』第五末・五十三左。大正43・417c)

 (「述して曰く。下は説かざることを顕す。共依は下に説く。且く不共依を顕す。頌の中に説かざることは、一に色は麤にして且く顕なり。二に乃ち諸論に皆有り彼此極成なり。故に本頌の文に更に別に説かず。此れは即ち本文に根と境とを説くこと無きことを会す。謂く本頌の中に初能変の識は唯だ所縁を明して所依を明かさず。第二能変には倶に二種ながらを明かす。此の六識には其の所依を明かして、所縁をば明かさず。麤にして且く顕なり、又復極成するを以て、頌の文に略して説かず。」)