唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変 所依門 (66) ・ 倶有依 (42) 浄月等の説を述べる

2011-03-31 23:31:59 | 増上縁依(倶有依)

 経典の次は論書を引用して第八識の倶有依には五色根も有ることを証明する。その (1)

 「瑜伽に亦説かく、眼等の六識は、各別の依あるが故に、有色根身を執受すること能わざるべしという。」(『論』第四・十九右)

 (『瑜伽論』巻第五十一に亦説かれている。「眼等の六識は各別の依なる故に」有色根身を執受することが出来ない、と。)

 論書を引いて自説を証明しているのですが、本文にある『瑜伽論』は『述記』によりますと、「瑜伽の八の証の中、五十一・・・八の証の中の第一の執受なり。五の因あるが中の第四の因なり。」と記述されており、『瑜伽論』巻第五十一に説かれる第八識の存在証明(八種の相に由って阿頼耶識決定して是れあるを証す。)をする八証の第一(阿頼耶識を離れては依止執受することは道理に応ぜず。)の五因の内の第四因(六識身は各別の所依の根によりて転ず、彼彼の所依の根に於て彼彼の識転ずる時、即ち彼の所依の根にまさに執受あるべく余の根には執受無きことは道理に応ぜず。設い執受すと許すも亦理に応ぜず、識遠離するが故なり、是れ第四因なり。)の文の取意ということになります。

 第八識の存在証明は『論』に十理証を以て説かれていますが、その中、第四理証の有執受法の「有色根身は是れ有執受なりと云う。若しこの第八識無くば彼の能執受は有るべからざるが故に。謂く五色根と及び彼の依処との唯現在世なるは是れ有執受なり。彼は定んで能執受の心有るに由る。」と第六理証の生死証の「諸の有情類の受生し命終するは必ず散と心とに住して無心と定とには非ずと云う。若しこの識無くは生し死する時の心有るべからざるが故に。」の理に由って五色根が第八識の倶有依であることを証明しています。

 『瑜伽論』巻第五十一の第四因の文面は「六識は各々の別々の依によって生起し活動している。識固有の依に依ってそれぞれの識が転じている。即ち彼の識の所依の根に執受があり他の根には執受がないことは道理にかなわない。たとえ執受があったとしても理にかなわない。何故なら根と識とは離れているからである。」と。六識は各々の別々の依に依って転じるので、執受の働きがなく、第八識のみが執受の働きがあることを論証している。 (明日につづく)


第二能変 所依門 (65) ・ 倶有依 (41) 浄月等の説を述べる

2011-03-30 22:43:05 | 増上縁依(倶有依)

 
  
 
 昨日の参考文献 『述記』に依る執受の説明を読んでみます。
 「執受有二。謂諸種子。及有根身」(『論』第二・二十五左)
 
 「執受義者、執是摂義、持義受是領義。覚義摂為自体、持令不壊、安危共同、而領受之、能生覚受、名為執受、領受境也。」(『述記』第三本・三十一右)
 (「執受に二有り。謂く諸の種子と及び有根身となり。」)
 (「執と云うは是れ摂の義、持の義なり。受と云うは是れ領の義、覚の義なり。摂して自体と為し持て壊せざらしむ。安危共同にして之を領受して、能く覚受を生ずれば、名づけて執受と為す。領して境と為すなり。」)
 
 執とは執摂の義・執持の義、受とは受領の義・受覚の義である。第八識は種子と有根身とを執摂して自体と為して、執持して壊せざらしめ、之を受領して境と為し、根をして能く識の覚受を生ぜしめる。故に第八識は能執受であり、種子・五根は所執受である。そして五根は能生覚受であり、五識は所生覚受である。第八識は種子と有根身とを摂して自体と為し、保持して壊さず、共に安と危を同じくするから執受と名づけるのである、と。
 
 『論』には「此の二は皆是れ識に執受せられ摂して自体と為して安・危と同じくするが故に。」と述べられています。安とは安心・善ですね、反対に危は危険・悪ということでしょう。この安・危を同じくするということは、種子と有根身と阿頼耶識は恒に一体となって働く、動いていくということです。そして大事なことは執受は所縁であるということ。「所変を以て自の所縁と為す」といわれているところです。所縁は識の所変であるということ。私が今見ている対象(境)は私の心によって変えられたもの、と。主観と客観が有るのではなく、主観によって、変化したものを見ているということです。変化したもの、それが所変です。「所縁は所変なり」と。恒に私は私の主観で捉えた対象を見ているのですね。
 
 少し脱線しましたが、本論に戻ります。
 第二に経を引く。『楞伽経』の文
 「契経に説けるが如し、阿頼耶識は、業の風に飄せられて、遍く諸根に依って、恒に相続して転ずという。」(『論』第四・十九右)
 (『楞伽経』に説かれている通りである。阿頼耶識は業の風に吹かれて、遍く諸根に依って恒に相続して生起し活動する、と。)
 飄(ひょう) - つむじ風
 第八識が五色根を倶有依とするという証拠を『経』を引用して証明しています。経とは『楞伽経』第九であると『演秘』は述べています。「遍依根と云うは、五識に異なるが故に、所有の根に随って、皆能く依るが故に。」(『述記』第四末・八十三右)第八識が遍く五色根を恒に執受して活動するのは、五色根すべてを倶有依としているからである、というのは、五根が第八識から遍く執受されていることを以て、五根を第八識の倶有依としている。その証拠が『楞伽経』の文であると。
 尚、『楞伽経』の文面については異論のあるとことであり、『述記』及び『演秘』にはその間の事情が説明されています。今は割愛します。

第二能変 所依門 (64) ・ 倶有依 (40) 浄月等の説を述べる

2011-03-29 22:26:50 | 増上縁依(倶有依)

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帰宅途中、家の近くの公園の桜が開花していました。私たちは自然の脅威と自然の美しさをあわせて共有しているのですね。しかし自然界からは自然の脅威でもなければ、自然の美しさということもないのでしょうね。すべてを受け止めて花は咲き、川は流れていDsc_0064

くのでしょう。人間は有史以来自然界と共存して、自然界の有様すべてを受け入れて生活をしてきました。しかし、近代以降、人間の浅はかな知恵は自然を破壊して自然を人間の隷属物として取り扱ってきました。やがて両極の氷河は大洪水になり、大自然は水没するかもわかりません。地球上の資源もこの一世紀で食いつぶしてきました。それでも人間の知恵は自然破壊をやめません。人間謳歌の賛歌は時として人間そのものを破壊していきます。「自然の恵み」というキャッチフレーズの元に自然を利用しつくす闇が、今はからずも一地域に限定して大惨事を引き起こしました。企業は中越地震の痛手から東北地方に部品調達の拠点を移しました。これは企業のエゴそのものですが、企業はそのことに気づいてはいません。中越を捨てて、その地方の人達を見限って拠点を移したところにまた大惨事が起ってしまったわけです。ある声が聞こえてきます。「なにもかも自粛・自粛といっていたら日本は沈没してしまう。」というものです。何故こういう大惨事が起こったのか。原発にしても私たちが要求したものでしょう。原発を廃炉にしたら、電気料金はいまの数倍になるということです。それだけ私たちは電気を消費しているのですね。これもまた自然を人間の都合のいい方向にあわせようとした結果として人間を苦しめているのです。『浄土論註』に自分の身を守る為に糸を出し続け、その結果、繭の中に身を閉じ込めて死んでしまうという喩えが出されていますが、今こそ、人間は人間の傲慢さに目覚め、無量寿・無量光に我が身を映しだす必要がありますね。一日も早い復興を願うものですが、親鸞聖人が明らかにされた「本願他力」の真宗・「生かされてある命の大切さ」に気づかなければなりません。私はすべての人と、すべての物のお蔭様の中で命が保たれているわけです。

           ー    浄月等の説    ー

 第八識の倶有依に色根もあることを述べる。(「自下は第三に第八識を亦色根に依らしむ。」)

 「又、異熟識は、有色界の中にしては、能く身を執持すれば、色根に依っても転ず。」(『論』第四・十九右)

 (また、異熟識は有色界の中ではよく身体を執持するので、色根に依っても生じて存在するのである。)

  •  有色界 - 欲界と色界
  •  身    - 有根身
  •  色根とは五色根(眼・耳・鼻・舌・身根)で五根のこと。五根は有執受である。
  •  有執受に安危共同と能生覚受がある。安危共同は「有根身は、謂く諸の色根と及び根依処となり。此の二は皆是れ識に執持せられ摂めて自体と為して安・危を同するが故に」と。第八識と五根の相互関係で述べられています。身と心の問題になります。第八識が善ならば、第八識に執受されているものも善であり、その反対に悪であれば、悪であるというように、第八識に執受されているものが第八識と安と危を同一するということ。尚能生覚受は十難の義の第六難で述べています。

 異熟識(第八識)は欲界と色界(有色界)の中にあって身を執受するので、第八識は第七識の他に色根を倶有依として生起し活動している、というのが浄月等が述べる第八識の倶有依の第三の説になります。

 参考文献 

 『述記』第三本に「執受義者、執是摂義、持義受是領義。覚義摂為自体、持令不壊、安危共同、而領受之、能生覚受、名為執受、領受境也。」

 執受 - 阿頼耶識は種子を執持し、有根身を執受する。心・心所によって有機的・生理的に維持されることをいう。

 

                                                                                                


第二能変 所依門 (63) ・ 倶有依 (39) 浄月等の説を述べる

2011-03-28 22:31:52 | 増上縁依(倶有依)

 
 種子に対する倶有依について説明する。

 「能熏と異熟とは、生じ長じ住するが依たり。」(『論』第四・十九右)

 (能熏と異熟とは生じ長じ住する依である。)

           - 依の義 -

  •  「彼の能熏の第六・第七の現行は是れ新しく熏ずる所の種子が生ずるの依なり。
  •  是れ本有種子が長ずるの依なり。前のは彼れ本無なるが故に、のちにのは此れ増せしむが故に。能熏の現行を以て生じ長ずるが依たり。
  •  異熟識を以て住が依と為す。第八の現行は種をば生ぜずと雖も、種は彼に依って住するが故に、異熟識の現行を以て住が依と為す。 (『述記』第四末・八十二右)

 能熏とは現行七識(七転識)であり、異熟とは現行第八識であり、能熏と異熟とは、生じる依・長ずる依・住する依が有ることを述べる。

  •  生じる依 - 第六・第七識の現行が第八識中に種子を熏習する時の依で、現行七識を指す。(現行七識により)新熏種子が第八識中に熏習され生じるので現行七識を新熏種子に対する「生依」という。これは新熏種子と現行七識とが倶時に生じるという点で倶有依であると述べています。因果の関係(因縁依)で「生依」と述べているのではないということです。
  •  長じる依 - 現行七識が第八識中の本有種子を増長させるので、現行七識を本有種子に対する「長依」という。現行七識と増長された本有種子が倶時に存在するという点で倶有依であるということを述べています。これも亦因縁依で述べているのではないという点で注意が必要です。
  • 住する依 - 種子は第八識に依って保持される点で、種子に対する「住依」という。現行の第八識は種子を生じるということはないが、種子を執持する働きがあり、現行第八識を以て「住依」とすると述べています。

 種子に対する倶有依の種類を述べているのですね。新熏種子を「生依」というべき倶有依であり、本有種子を「長依」というべき倶有依であり、新熏種子と本有種子を執持する「住依」というべき倶有依であるという意味で説明されています。尚、新熏種子に対しては「生じる依」と述べ、本有種子に対しては「長じる依」と述べています。「生依」も「長依」も現行七識と種子が同時に存在するということを述べているのであって、現行七識が種子を現行第八識中に新たに熏習するという意味の因縁依で説明しているのではないといっています。また現行七識が本有種子を増長させるという意味で述べているのではないということです。

 


日曜雑感 「世の中銭やー」に考えさせられて

2011-03-27 19:56:48 | 信心について

     悲深さんのHP・3月1日の「世の中銭やー」http://home1.catvmics.ne.jp/~hijin/という記事には考えさせられました。「本当に大事なことが見つからんから働いているんや。要するに暇なんやな。暇やから働いているんで有って、本当に大事なことが見つかったら働いてなんかいられへん」という先達の言葉を思い出しました。直接聞いたわけですが、その時は「そんなもんかな~」というくらいでした。しかし「世の中銭やー」といわれると、それも「そうかな~」という思いがします。そうであっても「世の中銭や」で生きていますのが私の姿ですね。世の中銭やで暮らしていて暇なときにお寺にいって聞法し、しったかぶりして仏法をかたっていますね。親鸞聖人は『正像末和讃』の跋文において
  よしあしの文字をもしらぬひとはみな
   まことのこころなりけるを
   善悪の字しりがおは
   おおそらごとのかたちなり(真聖p511)
と、自らを善しとする自らのあり方を批判されていますし、蓮如上人は『御文』第三条に「仏法しりがおの体たらく」(真聖p810)と、仏法知り顔の姿を厳しく批判されます。これは生活の現場と聞法の場とが切り離されて考えられているところから起こってくる問題ですね。「仏法と世法」という問題もありますが、仏法に包まれて世法でしょうね。世法が一人歩きをしますと、「自分さえよければいい」という世界を現出してきます。その延長が人間さえよければ善いとする考えでしょう。そうしますと、「世の中銭やー」になりますね。やっぱり銭がなかったらなにもできませんよ、ということになります。『大経』巻下の言葉が思い出されますね。「田あれば田を憂う。宅あれば宅を憂う。・・・・・田なければまた憂えて田あらんと欲う。宅なければまた憂えて宅あらんと欲う。」(真聖p58)、と。「世の中銭や」といいつつ、銭があったらあったで憂うのでしょうし、なかったらなかったで憂うのでしょうね。どちらにころんでも憂うるのですね。そしたら何故憂うるのかが問題になりますね。こういうところに問いは向こうから迫ってきます。問い以前ですね。何が何でも自己中心ですね。ここを大事に問うていかなければ、せっかくの問いも水泡に帰してしまいます。今、東北地方太平洋沖地震で日本が一丸となって支援の輪を広げていますね。そして「私が私に今できること」という問いかけに一生懸命答えようとしています。激甚災害がばらばらであった人とひとのつながり、一人で生きているのではない、生かされているんだ、という人間としての大切な価値観を思い出させてくれたこともまた事実だと思うのです。「私に今できること」を世界に発信し未曾有の災害から一日でも早く復興することを念じてやみません。そして一人でも多く“命”の大切さに目覚め、人は何故悩むのか、苦しまなければならないのか、という問いかけを共有したいとおもうのです。唯識の言葉に「安危共同」という大切な教えがあります。清沢先生の言葉を借りれば「生のみがわれらにあらず、死もまたわれらなり」ということです。生と死はばらばらのものではないということです。生の延長線上に死があるのではないということですね。死を見つめたときに生が輝くということでしょうね。今回の災害は地獄の闇をあからさまに現実化してしまい、死と一枚岩であることを否応なしに見せ付けられました。この事実は風化させることなく人が人として生きていく限りずっと見続けていかなければならないと思うのです。そして親から子へ、子から孫へと連綿として「命の大切さ」を伝えていかなければならないでしょう。

『唯信鈔文意』に聞く (26) 二十九有に至らず

2011-03-27 16:14:39 | 信心について

             
            蓬茨祖運述 『唯信鈔文意講義』より
   「二十九有に至らず」と。ふたたびもとの迷いに戻らんのだと。こういうふうに書きかえられておりますが、どちらかと申しますと、平たく解釈すればどちらでもよいのです。けれども、声聞の学説から申しますと、そうじゃない、と。二十九有と申しまして、二十八有までは生を得るという。生まれ変わってくる。まだ煩悩が残っているからですね、死にましても、またぞろ人間の生を受けてくる。またぞろ生死を経るんですけれども、生死をいくら経ましても、煩悩というものはそれだけしかないものですから、何らまどわないわけですね。二十八返までは生死を経るんですけれども、二十九返まではもうない。二十八返目の生を受けて、そしてなくなったら、それでもう再びこの世に生を得るということはないんだ、と。こういう説明なんですね。
 この二十九有ということですね。私は加藤智学という先生から聞きました。存覚上人は、二十五有界を広げて二十九有としてありますですね、『六要鈔』にですね。あれは間違いだ、と。そうじゃないんだ、と。初果の聖者は二十八有までは生死を経ねばならぬけれども、二十九番目の生はもう生まれてこないんだと。これが本当なんだ、と教えてくださったことがあります。ありがたいと思っております。
 しかし、存覚上人の間違いというのは、そういうことでないんですね。なぜかというたら、大体『倶舎論』あたりでいうていることですからね、それは。「二十九有に至らず」ということはですね、これ、誰もみておったものはないのです。一人もないんですよ。本当に二十八有からもう生まれてこなかったかどうかですね。二十八返まであって、もうこれでないと。本当にそうだと見ておって、なるほど本当にもう生まれて来ぬと、そんなことはないんですからね。変なもんです。ああいう書物というものにとらわれますとですね。二十九有だ、二十五有は間違いだというてみたところで、何もたいしたこと変わりないんですね。ですから、問題はそんなことではないんです。存覚上人はそんなこと知らぬわけでもない。学問した人ですから。しかし、あえて二十九有を二十五有ということは、そういう特別の人しか知らぬようなことをもってきたってしようがないんです。こちらの常識わかるのはで二十五有界に違いないんですよ。生まれ変わってくる世界は二十五有界に違いないんですよ。ですから再び二十五有に至らぬということだ、と。そういうことで解釈せられたのでございますね。いうてみますと、立場をどこへ置かれたというと、この「正定聚」というところへ立場を置かれた。だから二十九有も二十五有も同じだ、と。
 言葉をつないで、唯識法相の方からいうたら間違いだと指摘せられる。しかし、これは『倶舎論』の説明じゃないんですね。菩薩の正定聚についてのたとえですから、たとえとして見るならば、再び迷わぬということですよ。ですから、あながち間違いだというのは、立場というものを忘れての説明になるわけですね。「正定聚」ということを説明するためのたとえであったということですね。
 それから、菩薩は迷いを断じたら声聞とおなじですね。自利一方に偏してしまって、仏道を退転するどころか、仏道を消滅する。つまり仏法というものを滅ぼしてしまう。龍樹は極言しております。声聞・辟支仏地に堕すということは、地獄に落ちるよりも大きな患いであると、こういうことをいわれておるのですね。ですから空に沈んではならないんだ、どうしても空に沈まぬ工夫をしなくてはならないんだというわけですね。空に沈まなくなったということにおいて不退転というんです。じゃ、もう沈まぬか。あとはもう初歓喜地という位、必定の位ですね。定聚の位というものにいよいよ定まったとなったら、あとは寝ておっても仏になってゆくかといえば、そういうわけではないんです。そういうわけで定まったというのではないのです。むしろ、積極的な意味で睡眠懶堕ということをいわれたのだと思いますね。煩悩のことですから、煩悩を断絶してさとりを得るという意味においていわれた。そういうたとえをとられたとみてよいかと思います。
 ですから、進んで六道の生死の衆生、五逆謗法の罪によって無間地獄に沈んで、いつまで経っても出る時期がない。出たら出たで、また謗法の罪をおかして、また沈む。そんなもの、いくら助けても助けても、助けようがないんだ、と。だからそういうものは見すてるよりしかたがないとなったら、これは退転なんですね。それを見捨てないで、あくまでも、それが彼岸にわたるまでは、精進努力を怠らないんだという、そういう意味で、正定聚をもってこられたわけです。積極的に申しますと、「金剛の信心」ということになるわけですね。「金剛の信心となるゆえに、正定聚のくらいに住すという」のであります。
  「このこころなれば、憶念の心、自然におこるなり。」
という。自分のいわゆる睡眠懶堕ですね、煩悩によって妨げられるのですけれども、しかし憶念の心が自然におこってくる。
  「この信心のおこることも、釈迦の慈父、弥陀の慈母の方便によりて、無上の信心を発起せしめたまうとみえたり」
 釈迦・弥陀の慈悲の父母の方便ですね。「方便によって無上の信心を発起」といわれてありますね。「発起」ということは、自覚するということでございます。無上の信心を自覚するということ。それで「発起せしめたまう」は、自覚せしめたまうことなんですね。「せしめたまう」という。こういう意味で「自然」を解釈せられてあります。で、無上の信心を発起するということがあって、憶念の心は自然におこるのである。
  「これ自然の利益なりとしるべしとなり。」
 自然の利益ということですね。一つには、これ我々の自利の信心ですね。みずから自覚したという、信心。それから、いま一つには、利他の信海。つまり、一切衆生を生死の流れを渡して彼岸に済度するという利益に外ならぬわけでありますから、それがなくては、信心を得たということにならないわけですね。はからいの信心というより外ないのであります。はからわずに、その利益があるということをいわれるのでございます。 (つづく)
 

第二能変 所依門 (62) ・ 倶有依 (38) 浄月等の説

2011-03-26 23:04:23 | 増上縁依(倶有依)

 第二、種子識の倶有依についての浄月等の説を述べる。
 「現起の識は、種を以て依と為すと許しつ、識種も亦現の識に依ると許すべし。」(『論』第四・十九右)
 (現行の識は、種子を以て依と為すことは認められているので、識の種子もまた現行の識に依ると認めるべきである。)
 初めに浄月等の(現行の)第八識(現行頼耶)の倶有依は第七識であると述べられていましたが、更にですね。種子の第八識(種子識・種子頼耶)は現行している識を倶有依とすることを述べているのです。
 『述記』を読んでみます。
 「述して曰く、謂く共に、現行の所生の識は能生の種を以て依と為すを許しつ。」
 所例と言われる部分です。種子生現行の関係ですね。(例にして)そのことに於いて
 「故に今(本有・新熏の)種をも現の識に依るべからしむ。」
 能例と言われる部分で、現行熏種子の関係で述べられます。現行の識は、種子を以て依と為すことは認められていることを例として、識の種子もまた現行の識に依ると認めるべきである、ということになります。ここにいう「依」とは倶有依のことであると説明されています。種子生現行の関係では種子は現行に対して因縁依であるわけです。「種子を依と為す」というのは因縁依のはずなのですが、『述記』には因縁依を簡ぶと説明されています。
 「若し論文に現行は種子を以て因縁依とすと言うは、即ち此れが中に種は能熏及び異熟の現行の識に依るというに、宗の同喩無き過あり。倶有依なるが故に。」と述べ、問答を通して倶有依であるべきことを明らかにしています。
 「問うて曰く、種を現に望め現を種に望めて皆是れ因縁ということは、前に已に解すが如し.何が故に今亦まさに倶有依と為るべし等と言うや。
 今助けて解して云く、
 (一切現行依の意義)種を現に望めて因縁依とすと許すと雖も、然も現を種に望めて種子依とは名づけず、現は種子に非ざるが故に。既に現行は種子が與に種子依に非ず。故に今此の師は倶有依の義を成ぜしむ。
 (異熟現行依の意義)又現行は種に望むるに是れ因縁なりと雖も、然も異熟の現行は種を熏成すること能わず。種に於いては能熏の力無きをもって因縁依に非ず。故に此には余心の現行を自の種子に望むと言わず。但異熟の第八の現行を之に望むるのみを言う。余は皆能熏なるが故に。
 (唯本識現行依の意義)又諸識の異熟心は皆倶有依有りということは已に前に解するが如し。種を彼に望むるに現は因縁に非ざること亦此れに同じけれども今は略して述せず。今依を説かざることは種に於いて力無きが故なり。但今彼の第八識のみを説くが故に、唯第八の種のみ現に望むるに是れ依なり。
 現行に二有り。一には是れ異熟の識、二には是れ能熏の識なり。此の種を彼に望めて彼は皆是れ依なりや不や。」(『述記』第四末・八十一右)
 「望」(もう) - (1)のぞむ、欲すること。(2)対すること。比べること
 「能熏」 - 熏とは、熏習のこと。六識と末那識を指す。現行・転識が阿頼耶識に種子を熏じることをいう。熏じられる阿頼耶識を所熏という。
 「熏成」(くんじょう) - 現行・転識が阿頼耶識の中に種子を植え付け生成すること。
 種子を現行に対し、現行を種子に対しての「依」は因縁依と認められるが、現行を種子に対しては種子依とは名づけない、何故ならば現行は種子ではないからである。種子と現行の関係は同時因果の関係ですから、種子が自らの果を生じることを因縁依とし、種子を現行に対する倶有依とするのですね。
 「現行識に依る」ということについて『述記』の三解を挙げましたが、解説しますと、
 第一解は、一切現行依で、一切の現行七識に依るということ。能熏の現行七転識が熏じられる阿頼耶識に種子を熏じることをいう。因縁依の関係ですが、この時、現行識と熏習された種子が同時に存在することから、現行識を種子に対する倶有依とする、という。(次の科段で説明されます。)
 第二解は、異熟現行依で、異熟の現行は種子を熏成しない、種子は能熏の力を持たないから因縁依ではないとし、異熟の現行を倶有依とする。
 第三解は、本識現行依で、現行第八識を種子に対する倶有依とする。
 以上が浄月等の種子の第八識の倶有依の説明になりますが、結論としては、種子の第八識は現行第八識と現行七転識の二つの倶有依を持つということになります。
 
 

第二能変 所依門 (61) ・ 倶有依 (37) 浄月等の説

2011-03-25 22:51:35 | 増上縁依(倶有依)

 安慧等の説を論破し、第一には現行第八識の倶有依が第七識であることを述べる。

 「第八も余に類するに、既に同じく識性なるをもって、如何ぞ倶有依有りと許さざる。」(『論』第四・十九右)

 (第八識も余の識に例して、すでに余の識と同じく識の一種であるのに、どうして倶有依があると認めないのであろうか。)

 安慧等が第八識には倶有依は存在しないと主張していることに対して、浄月等が第八識にも倶有依が存在することを述べています。

  •  宗 - 第八の識も倶有依あるべし。
  •  因 - 余の七識と同識性なるが故に。
  •  喩 - 余の七識の如く。

 「第七・八識は、既に恒に倶転するをもって、更互に依と為るという、斯れ何の失が有る。」(『論』第四・十九右)

 (第七識と第八識は、すでに恒に倶転するので互いに所依と為る。これに何の過失があるというのであろうか。)

  「述して曰く、謂はく此の二の識は恒に倶転(くてん - 同時に共に生じて働くこと。)するが故に相依らしむ。」(『述記』第四末・八十左)

  •  宗 - 其の第八識はまさに他の恒転の識に依るべし。
  •  因 - 恒に起こるを以ての故に。
  •  喩 - 第七識の如くと。

 前六識は間断するので、第八識の倶有依とはならないのですね。恒転する識は第八識と第七識であり、互いに倶有依となるというのですね。第七識の倶有依が第八阿頼耶識であるとすれば、第八阿頼耶識の倶有依は第七末那識であるということに、何の過失があろうか、と浄月等は説いています。

 


第二能変 所依門 (60) ・ 倶有依 (36) 浄月等の説

2011-03-24 22:33:31 | 増上縁依(倶有依)

 浄月等の倶有依説は概略しますと、前五識の倶有依・第六識の倶有依・第七識の倶有依は安慧説と同じく、第八識の倶有依が異なります。

  •  前五識の倶有依 ー 五色根及び第六意識
  •  第六識の倶有依 ー 五識及び第七末那識
  •  第七識の倶有依 ー 第八阿頼耶識
  •  第八識の倶有依 ー 第七末那識の色根・第八阿頼耶識の現行・七転識の現行。

 第八識の倶有依が異なるということは、安慧等の説の第八識には倶有依は存在しないと言うのは未だ理を尽くしていない説であると浄月等は述べているのです。

 「初めに理を立て、次に正を結し、後に前を指す。理を立つるに三有り。」(『述記』)

 第三説は浄月等の説が述べられます。大別して初めに第八識にも倶有依が存在することを説き、次に第八識の倶有依についてまとめて説き、後に第八識以外の倶有依は前の安慧等の説と同じであることを述べます。そして初めの理を立てることがさらに三つにわけられ説明されます。(1)安慧等の説を論破し、現行第八識の倶有依が第七識であることを説きます。(2)種子の第八識の倶有依について説きます。(3)第八識の倶有依には色根もあることを説明します。

 初めは安慧等の説を論破し、第八識にも倶有慧が存在することを述べます。

 「有義は、此く説くことも猶未だ理を尽くさず。」(『論』第四・十八左)

 (有義は、浄月等を指します。このように説かれることも、なお未だ理を尽くしていない、と安慧等の説を批判します。)

 浄月等は安慧等の説の大部分は承認し、第八識の倶有依についてのみ不備があると指摘しているのです。

 「述して曰く、此の説は次前を指す。猶未と言うは、理は未だ足らずと明かす。即ち是れ可(許可)と止(遮止-否定し止める)の辞なり。次前の説に於て述可(じゅつか-そうであるということ。承認・許可)するする所あり。闕少(けっしょう-欠けること)する所の差別の義あり。其の述可とは下に自ら之を指す。余は前に説くが如し。更に別に叙せず。差別する所は今正しく之を叙(じょ-主張を述べる)す。」(『述記』第四末・八十右) 

 「疏に「即ち是れ可止の辞」とは、止と云うは止住ぞ。この言は即ち是れ近に止まる辞なり。故に次の説は前の師には及ばず。或いは字の誤りなり。指の字に為すべし。」(『演秘』第四本・三十三左)

 「猶未」とは可と止の言葉である。可とは安慧等の説を承認する部分と、止、即ち遮止という否定の部分とがあることを示す言葉である、ということですね。上に説明している通りです。『演秘』に『述記』に述べられる「止」は拒絶することであり、近を指すという意味である、と。即ち安慧等の第八識の倶有依は存在しないと言う説を論破することを指す、と説明しています。

               ー    雑感    ー

 久しぶりに家内と父のバトルが始まりました。今日の昼にメールが飛び込んできて「私が真剣に怒っているのに笑える神経が信じられない!もう知らない。あなたの親だから我慢してしてきたけど」というものです。もう「ごめんな」というしか言いようがないのですが、教えられましたね。私の為に一つの舞台が設定されていたのです。私の姿は鏡を通してしか私の姿を知ることはできませんね。いうなれば対象を鏡として私は私の心を知ることが出来るのです。対象がない場合には何もでてきません。すべては覆われていますが、対象を鏡として「我」が頭をもたげてきます。私が私に対して愚痴ったり、怒ったり、妬んだりするわけですね。これはもともと私の心の中に愚痴る心・怒る心・妬む心などが存在しているわけです。そして大事なことはこれらの心は「本当のことを知りたい」・「本当の私に出会いたい」という自性清浄心が、愚痴る心・怒る心・妬む心を通して私に「本当の自分に出会いなさい」と催促をしているのです。ですから愚痴る心・怒る心・妬む心は、いらない心ではなく大切な真実信心に出会える縁となる心なのですね。「我慢をしてきた」、あるいは「辛抱をしてきた」ということも父を縁として自分の心の有り様をみているのです。問題は自分の心なのです。同じ状況・同じ条件のもとではあっても、自分の心の状態によって反応は様々です。そして家内と父のバトルを通して私は私の心をまざまざと見せ付けられています。


第二能変 所依門 (59) ・ 倶有依 (35) 安慧等の説

2011-03-23 21:03:06 | 増上縁依(倶有依)

 ー その(3)第七識の倶有依について ー

 「第七転識は、決定して唯一の倶有依有り、謂く第八識ぞ。」(『論』第四・十八左)

 「述して曰く、七に転易有るを以て。六の如く倶有依有るべし。」(『述記』第四末・七十九左)

 (第七識には唯一の倶有依が有る。つまり第八識である。)

 安慧の第七識の倶有依について説かれています。理由として、第六識と同じように転易があるからである、と。

 ― その(4)第八識の倶有依について ―

 「唯第八識は、恒に転変することなくして、自ら能く立ちぬる故に、倶有依なしという。」(『論』第四・十八左)

 「述して曰く、因の中に於て転易せざるを以ての故に、倶依を仮らずということ聖教に違せず。」(『述記』七十九左)

 (ただ第八識は、恒に転易することがなく、自らよく立つので倶有依はないという。)

 ここまでが安慧が主張する四つの倶有依説です。この説はあくまでも安慧の正義を述べているのであって、後に護法が論破していきます。次は、浄月等の説が述べられます。