唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (91)九難義 (31) 第六 現量為宗難 (3) 

2016-09-29 22:05:51 | 『成唯識論』に学ぶ
  

 今日は、先ず梶原先生が先日姫路本徳寺でお話しくださいました要旨を、先生自身がFBで投稿してくださいましたのでご紹介させていただきます。
 「カウンセリングと唯識 勉強会覚え書き 梶原敬一著
 第八識は不可知の執受と處と了となり。と説かれる訳ですから、意識によっては知られない、存在と世界とそれをつなぐ識作用を言うはずです。さらに初能変として転変して意識される世界を構成するとされます。三十頌はこの第八識を根拠として唯有識と説かれる訳ですから、何よりも執受としての有根身と種子によって私の根拠を確かめることを求めます。
そのことを、種子によって過去と未来を、有根身によって世界と他者を、根拠とする私の存在が与えられると説きます。 それを能蔵、所蔵として意識の深層に見いだすと、同時に執蔵として愛着されるものとなると教えます。だから阿頼耶識は迷いの識として自覚されます。しかし、この阿頼耶識は異熟識、一切種子識と転ぜられていきます。第八識が変わる訳ではなく自己認識が変わるのです。
それが修道ではなく念仏で初めて全てのものに可能となると示したのが教行信証だと思います。」

 「論じて曰く。此れは何の所説なりや。謂く、若し実に外の色等の処有りて色等の識の與に各別に境と為らば、是の如き外境は或は応に是れ一なるべし。勝論者の有分色を執するが如し。或は応に是れ多なるべし。実に衆多(シュウタ)の極微有りて各別に境と為ると執するが如し。或は応に多の極微の和合及び和集すべし。実に衆多の極微有りて皆共に和合・和集して境と為ると執するが如し。」

 外界実存論者も大乗の論者も、その所説は変わりのないものですが、「執するが如し」と言われていますように、執の問題なのですね。執することに於いて固定される。自由が失われるのですね。仏教はもっと柔軟性をもったものなんでしょう。
 前回の復習です。
 認識の対象は何かが問われます。
 問 復た、云何ぞ仏は是の如き密意趣に依って色等の処有りと説くも、別に実の色等の外法有りて色等が識の各別の境と為るに非ざるや。」(外界実存論者かたの問いです。ではまた、仏はそのような密意趣(特別な意図)に依って色・形等の諸部門が実在すると説いたとしても、どうして識とは別に、外界に色・形等が実在して、それらの色・形等が識のそれぞれの対境とはならないのか?)
 梵文和訳(中公『大乗仏典』より引用)
 (反論)「しかし、君の言うような意味で世尊が色形などの諸部門の存在を説いたのであって、決して、色形などの諸部門が外界に実在していて、色形の認識をはじめとする一つ一つの認識の対象となるのではない、ということをどうして知りうるのか」
 「頌に曰く、
 彼の境は一に非ず。亦た多の極微(ゴクミ)にも非ず。又、和合等にも非ず。極微は成ぜざるが故なり。」(第十頌)
 (世親は偈頌をもって答える。
 彼の識の対境は単一なるものではない。また、多くの極微でもなく、また、極微の和合したものでもない。だから、極微は成り立たないのである。)
 梵文和訳
 それは単一なものとしても対象とならず、多数の原子としても対象とならず、またこれら原子の集結したものとしても対象となりえない。原子は証明されないものだから。
 
 この頌にたいして世親自身が釈してきます。
 問、何が説かれたのであるか?(何が意味されているのか?)
 答、すなわち、色形などの部門が、色形の認識などにとってそれぞれ対象となるとすれば、それは、(一)勝論学派が想像している全体性のように単一なものであるか、(二)原子のままで多数のものであるか、あるいは、(三)原子の集結したものであるかのいずれであろう。
 (一)そのうち、単一なもの(極微からから成る単一体)は認識の対象とならない。というのは、対象の諸部門と別に、単一な全体性などどこにも認識されはしないからである。(二)原子の一つ一つは、対象の形象をもつものとして認識されはしないのであるから、多数の原子が対象の形象をもってあらわれることもない。(三)さらに、それらが集結したものも認識の対象とはならない。というのは、集結体の部分としての原子が一つの実体であるとは証明されないから、それらが集結体を構成することもありえないからである。
 注
 極微(ゴクミ)とは物質の最少の大きさを表します。有部と唯識ではその主張が違います。有部は、極微は存在し身体や物質は極微から構成されると説きます。対して、唯識は、意識によって事物を分析して心のなかに仮に作り出された影像にすぎないと主張します。
 そして、極微は極めて微細な粒子の単位を表しますが、この極微が七つ集結したものを微塵と呼んでいます。
 
 



「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (90)九難義 (30) 第六 現量為宗難 (2) 

2016-09-28 21:12:14 | 『成唯識論』に学ぶ
  

 論主の答
 「現量に証する時には、執して外とは為さず。後の意いい分別して妄(ミダリ)に外想(ゲソウ)を生ず。」(『論』第七・二十三左)
 現量の現は「そのまま」量は「はかる」、そのまま分別を加えることなく知覚することです。直接知覚と訳されます。これが正しい認識の根拠になります。「実に外境無し」と。
 「後の意」は「五識等の後の意が妄に心外の境と云う想を生ず」と云われています。外境は実有であると云う分別があるものではなく、後にと云いますが、知覚は現量なんです。現量即時ですね。現量を覆う働きで妄分別が生起し、そこに心外実境の想を為すと云われているのです。
 『述記』には喩が出されて論証しています。
 「如似夢中所縁諸法。不可執爲是實。亦執爲心外之色。」(大正43.493b)
 (夢中の所縁の諸法の如似く、執して是れ実と為し、また執して心外の色とすべからず。)
 夢の中で縁じているものは、現に色があったり、声がしていたり、まぁ夢の中でデートをしていたりとかですね、確かに有るわけですが、実有ではありません。心外実有の法はこの喩と同じようなもので、私たちが心外にも事物が有ると云う妄分別の境は、外界が存在しているように見えるが、実は存在していないのであって、外界に事物が有るということを以て心外実有の証明にはならないのです。
 次科段の『故に現量の境は・・・」外界に事物は存在しないことを詳細に述べていますが、その前に『唯識二十論』から五境が実在しないことの論証をたずねてみたいと思います。
 外界は実在しないことの理証(理論的証明)を第十頌から第十四頌において世親は証明します。
 先ず第十頌前半です。
 「復云何知佛依如是密意趣説有色等處。非別實有色等外法爲色等識各別境耶。頌曰 以彼境非一 亦非多極微 又非和合等 極微不成故論曰。此何所説。謂若實有外色等處。與色等識各別爲境。如是外境或應是一。如勝論者執有分色。或應是多。如執實有衆多極微各別爲境。或應多極微和合及和集。如執實有衆多極微皆共和合和集爲境。且彼外境理應非一。有分色體異諸分色不可取故。理亦非多。極微各別不可取故。又理非和合或和集為境。」(『二十論』大正31.75c)
 認識の対象は何かが問われます。
 問 復た、云何ぞ仏は是の如き密意趣に依って色等の処有りと説くも、別に実の色等の外法有りて色等が識の各別の境と為るに非ざるや。」(外界実存論者かたの問いです。ではまた、仏はそのような密意趣(特別な意図)に依って色・形等の諸部門が実在すると説いたとしても、どうして識とは別に、外界に色・形等が実在して、それらの色・形等が識のそれぞれの対境とはならないのか?)
 梵文和訳(中公『大乗仏典』より引用)
 (反論)「しかし、君の言うような意味で世尊が色形などの諸部門の存在を説いたのであって、決して、色形などの諸部門が外界に実在していて、色形の認識をはじめとする一つ一つの認識の対象となるのではない、ということをどうして知りうるのか」
 「頌に曰く、
 彼の境は一に非ず。亦た多の極微(ゴクミ)にも非ず。又、和合等にも非ず。極微は成ぜざるが故なり。」(第十頌)
 (世親は偈頌をもって答える。
 彼の識の対境は単一なるものではない。また、多くの極微でもなく、また、極微の和合したものでもない。極微は成り立たないのである。)
 梵文和訳
 それは単一なものとしても対象とならず、多数の原子としても対象とならず、またこれら原子の集結したものとしても対象となりえない。原子は証明されないものだから。
 そして偈頌の内容について世親自身が釈して述べます。「論じて曰く」、以下です。又にします。

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (89)九難義 (29) 第六 現量為宗難 (1) 

2016-09-27 20:34:17 | 初能遍 第三 心所相応門


第六に現量為宗(ゲンリョウイシュウ)の難。(現量を宗と為すという難)
 いろいろな難題が提起されているのですが、提起されている問いは、私の立場が見えない私の立場からの問いかけなんですね。外界は有るのか、無いのか。外界が無であるならば、現量知で認識する必要があるのか、外界が存在するからいろんな問題が起こってくるのではないのか、という問いなんですね。
 前五識は現量です。前五識が捉えた対象は、直接に明瞭に誤謬することのない働きを持っている。
 問題は意識なんです。意識は現量(ゲンリョウ)・比量(ヒリョウ)・非量(ヒイリョウ)の三量に通じていますから、現象的存在(有為)と非現象的存在(無為)の一切法を所縁としているのです。
                 五同縁の意識
       五倶の意識 〈
                 不同縁の意識
  意識 〈
                 五後の意識
       不倶の意識 〈            定中の意識
                 独頭の意識 〈  独散の意識
                            夢中の意識

 上記のように意識は、五識と倶に働く意識と倶でない意識があるということになります。
 本科段の現量という場合は「現量に証する時には執して外とは為さず。後の意分別して妄て外想を生ず」るのです。前五識(眼・鼻・耳・舌・身)は分別を起さない、対象を対象のまま現量知で捉えるのですが、前五識は必ず意識に色づけされて認識を起します。
 前五識の対象は五境(色・声・香・味・触)ですが、前五識が五境を認識する時は「外境を分明(ブンミョウ・認識の対象がはっきりしていること。明了依)に五識は現証す。是れ現量得なり。」
 後に出てきますが、「五識倶現量意識同於五識。此二現量不分別執。」(五識と倶なる現量の意識は、五識の同なり。この二の現量は分別の執にあらず。)つまり執の問題なのです。
 ここで問いが出されるのです。「寧ぞ撥して無とするや。」(どうして対象を否定して無境と言うのか?)
 『唯識二十論』に「諸法は量に由って有無を刊定す。一切の量の中には現量を勝と為す。」と云われている。若し外境が実有でなければ現量に外境は無と覚知すべき筈ではないのか、現量知で認識する必要がどこにあろうか。
 「論。色等外境至寧撥爲無 述曰。此文第六現量爲宗難。外人問曰。色等五外境。分明五識現證。是現量得大・小極成。寧撥爲無。唯識二十云。諸法由量刊定有無。一切量中現量爲勝。若無外境寧有此覺。我今現證如是境耶。」(『述記』第七本三十一左。大正43.493a) 
 以上が外人からの批難になります。明日は論主答えを読みたいと思います。それぞれお考えください。
 実有存在論者は対象である境(一切法)は存在すると云います。境が存在するから認識が成り立つのであって、境が撥無されれば認識そのものが成り立たない、成り立たないのをどうして現量と云えるのか。前五識の認識のあり方が問われているのですね。
 例えば、眼は対象を捉えています。眼識が捉えた対象と対象そのものとは分別が無いのです。しかしこれは考えたことです。捉えた瞬間に意識が入り込んでいます。分別を起しています。私と、という関係になりますね。私と対象。私の分別が対象を色づけています。論主の言いたいことはこんなことではないかなと思います。また明日に。おやすみなさい。

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (88)九難義 (28) 第五 色相非心難 (3)

2016-09-26 22:46:52 | 『成唯識論』に学ぶ


今日は、『成唯識論演秘』より、無性摂論を読んでみたいと思います。先ず原文を挙げます。
 「論。亂相及亂體等者。攝論第四無性釋云。亂相許爲似色變識。亂體許爲非色變識。順結頌法。故文隔越其義相屬。若無似色所變因識。非色果識不應得有。似若無境有境亦無 釋曰。言順結等而釋外難。外難意云。准長行釋與彼頌文何故不次。故答彼言約順結頌。取義相屬故文隔越亦不相違。其文隔越對看可悉。先因後果名之爲順 又云。似若無境無似色境。有境亦無。能有彼境顛倒之心名爲有境。」(大正43.935b18~b27)
 「論。亂相及亂體等者」の釈を『演秘』は引用して頌の意味を明らかにしているのですね。
 昨日の説明でははっきりしておりませんでした乱相・乱体・似色・非似色の意味がはっきりしてきます。
 乱相とは相分を表す。(果)
 乱体とは見分を表す。(因)
 似色とは相分を表し、非似色は見分等を表します。
 「『論』に、乱相と及び乱体とを等とは、『摂論』の第四に無性釈して、乱相は似色を変する識と為すと許す。乱体は非色を変ずる識と為すと許す。順に結ぶは頌の法なるが故に文は隔越(カクオツ)するも其の義は相属(ソウゾク・互いに関係すること)せり。若し似色を変ずる所の因識無くば、非色の果の識は応に有ることを得べからず。若し境無くば、境を有するものも亦無きを以てと云えり。釈して曰く、順に結ぶ等と言うは外難を釈す。外難の意に云わく、長行の釈に准ぜば彼の頌文と何故に次ならざる。故に彼に答えて言わく、順に結ぶは頌に約すと云えり。義を取ること相属す。故に文は隔越すれども亦相違せず。其の文隔越すること対看(タイカン・観察すること)して悉にすべし。因を先にして果を後にする。これを名けて順と為す。又云わく、若し境無ければ似色の境無きを以て、境を有するものも亦無しと。能く彼の境を有する顚倒の心を名けて境を有するものと為すといえり。」
 『摂論』に見られる認識の在り方は、一切唯識の立場から、認識される部分(相分・相識)と認識する部分(見分・見識)とに分かれ、そこに認識が成り立つと説きます。またここで述べられる相属は、根(器官)と境(対象)とが能取(認識するもの)と所取(認識されるもの)との関係にあると説きます。

            根=能取=見分=見識=非色の識=乱体=因
 識が変化したもの。〈
            境=所取=相分=相識=似色の境=乱相=果
 
 「因を先と為して果を後にする」を順と名けるのは、「因と果とは相順せり」という意味ですね。顚倒の心は相順しないということになります。自他分別の心は有境の立場にあるわけですね。境が有って、自分の心が乱される、これが顚倒の心ですね。相順しないわけです。しかし、私たちはここが立場になっています。この立場に気づくことが求められているのでしょう。

 「もし色・形が識なのならば、なぜ色・形に似て現象するのだろうか。なぜ連続し確定的に持続して、前も後も似ているのだろうか。妄想(顚倒)などが煩悩の依り所になっているからである。若しそうでなければ、実在でないものを実在とするという妄想は成り立ちえないだろう。若し実在についての妄想がなかったならば、煩悩という障礙と、智慧についての障礙という二種類の煩悩は成り立ちえないだろう。しかし、それらは実際に成り立っている。若し二つの障礙がなければ、清浄さということもまた成り立たない。それゆえに、さまざまな識がこのように生起するということは事実だと信じるべきである。これについて詩句を説く。
 妄想の原因と妄想の本体は、色・形の識と色・形の無い識でる。若し前の識がなければ、後の識は発生しえない。」

 傍線の言葉は大事ですね。迷いは迷いのない世界からのメッセージなんでしょうね。逆に言えば、迷えるわけです。安心して迷えるのが浄土の真宗ですね。安心してというのは、因果の関係がはっきりするわけです。内因外縁。内なる因が外境を縁として果を生ずる。迷いは外なる因が内を縁として果を生ずるという構造になりますね。これが煩悩の依り所となるわけです。
 こういうところから、唯識無境が証明されるわけです。

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (87)九難義 (27) 第五 色相非心難 (2)

2016-09-25 14:05:49 | 『成唯識論』に学ぶ


 『述記』によりますと、「摂論の第四の無著の頌本なり」と注釈がされてあります。釈は世親菩薩と、無性菩薩の二つがありますが、『演秘』には「無性釈して曰く」と無性摂論を以て解釈されているようです。
 一応読んでみたいと思います。先ず『論本』を読みます。
 「若し此の諸識も亦体是れ識ならば、何の故に乃ち色性に似て顕現するや。一類にして竪住し、相続して転じ、顚倒等の諸の雑染の法の與に依処と為るが故なり。若し爾らざれば非義の中に於て義を起す顚倒は応に有ることを得ざるべし。此れ若し無ければ、煩悩所知の二障の雑染も応に有ること得ざるべし。此れ若し無ければ諸の清浄の法も亦応に有ること無かるべし。是の故に諸識は是の如く転ずべし。此の中に頌有り、
 乱相(ランソウ)と及び乱体とを、応に許して色識と、及び非色識と為すべし、若し無ければ余も亦無し。」
 (注)
 乱は心等の妄倒。みだれること。相は因。色識を以て因とし、妄心を起す。定まった心に於いてと云われています。散乱は定の於に起こってくる事柄なんですね。つまり、定まった心に於て心が外界に流れて散乱することを云い表わしているのです。
 乱体なのですが、諸識であると云われています。転識ですね。転識の所依は末那識ですから、乱相は色識(所変)、色識と非色識が乱体(能変)になります。
 ここで外道からの問いが出されます。
 「若し外の色有りと許さざれば、云何ぞ色に似て現ずるや」と。
 答えは、外境が問題ではなく、乱相・乱体を起してくることが問題であると云うのです。乱相・乱体が無かったならば、色識・非色識も無いのである、と。
 「若し所変の似色の乱因無ければ、能変の乱体も亦有ることを得ず。境の因はよく心の果を生ずるが故に。」
 顚倒は煩悩障・所知障の二障が因と為って生起するのであると明らかにしているのですね。二障を因として生起するのが顚倒なのですね。
 顚倒の見と云いますが、はっきりしていることは、煩悩を依処としていることなんです。煩悩は何処から生起してくるのか、煩悩が我見から生起してくるのですね。我が身可愛いと云うことから離れられない自身の問題なのです。
 本科段は、自他分別を起こす側からの批難であって、応答は、自他分別は自の問題であると明確に述べているのです。

 参考文献
『摂大乗論本』(無著造玄奘訳)
 「論曰。若此諸識亦體是識。何故乃似色性顯現。一類堅住相續而轉。與顛倒等諸雜染法爲依處故。若不爾者。於非義中起義顛倒應不得有。此若無者。煩惱所知二障雜染應不得有。此若無者。諸清淨法亦應無有。是故諸識應如是轉。此中有頌 亂相及亂體 應許爲色識 及與非色識 若無餘亦無。」(大正31・138b)
『摂大乗論釈』(世親菩薩造玄奘訳) 
 「釋曰。一類堅住相續轉者。由相似故名爲一類。多時住故説名堅住。諸有色識。相似多時相續而轉。顛倒等者。即是等取諸雜染法與煩惱障及所知障爲因性故。爲依處者爲彼因性。若彼諸識離如是轉。於非義中起義心倒應不得有。此若無者。若煩惱障諸雜染法。若所知障諸雜染法應不得有。於此頌中顯如是義。亂相亂體如其次第。許爲色識及非色識。此中亂相即是亂因。色識爲體。亂體即是諸無色識。色識亂因若無有者。非色識果亦應無有。」(大正31・339a)
『摂大乗論釈』(無性菩薩造玄奘訳)
 「釋曰。若此諸識亦體是識等者。此問色識一類堅住相續轉因。言一類者是相似義。前後一類無有變異。亦無間斷故名堅住。即此説名相續而轉。與顛倒等諸雜染法爲依處故者。等即等取煩惱業生諸雜染法。眼等諸識與顛倒等諸雜染法。作所依處。所依處者即是因義。故者須也。觀彼問意而作此答。謂無義中顯現似於眼等諸識。一類堅住相續而轉。由此起彼顛倒等法。若不爾者。若不如是轉。於非義中起義顛倒。應不得有。若無顛倒。煩惱所知二障雜染應不得有。無因縁故。若無雜染清淨亦無。要息雜染顯清淨故。是故諸識應如是轉者。眼等諸識應如是轉。爲不因力諸法得生非須力耶。不爾隨問1興答言故。彼問所須不問因種。由彼不執別有諸色。但問何須。阿頼耶識變作諸色。不唯作識故作此答。亂相許爲似色變識。亂體許爲非色變識。順結頌法故文隔越。其義相屬。若無似色所變因識。非色果識不應得有。以若無境有境亦無、」(大正31・401a)

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (86)九難義 (26) 第五 色相非心難 (1)

2016-09-24 23:58:43 | 『成唯識論』に学ぶ
  

  第五 色相非心(シキソウヒシン)の難
 「下の文は第五に色相は心に非ずと云う難なり。外人は問て曰く」
 色相とは、もののありようのこと。物質の特徴を云います。「色相の差別とは青黄赤白等を謂う。」
 
 問 「若し諸の色処も亦識を以て体と為すと云はば、何に縁ってか乃ち色相に似て顕現し、一類に竪住に相続して而も転ずるや。」(『論』第七・二十三右) 
 (若し諸の外界は、識を体とするというのであれば、外界は同じような性質や特徴が相続し持続するのか。形質のない心から形質のある色相が顕現するということがあるのか?という難になります。)
 注
 一類竪住は、一類に相続して転ずること。
 
 答 「名言熏習(ミョウゴンクンジュウ)の勢力(セイリキ)を以て起こすが故に。」(『論』第七・二十三右)
 (無始より来た、(色相一類なり等と)妄習(妄分別を熏習する)することに由って、このような色相が起こってきたのである。つまり、その色相は色相に似て顕現するものであって、心外の境は実境ではない。)
 
 
「染・浄法の與に依処と為るが故に。謂く此れ(色等)若し無くば顚倒無かるべし。便ち雑染も無く、亦浄法も無くなんぬ。是の故に諸識はまた色に似て現ぜり。
 有る頌(『荘厳論』巻第四)に言へるが如し。
 乱相と及び乱体とを、色識及び非色識と為すと許すべし。若し余も無くばまた無けんと。」(『論』第七・二十三右)

 本科段は、顚倒は何を因として生起するのかを明らかにしているのです。無始以来、色等の境を迷執することに由るんだと。色等が無かったならば顚倒は起こらないと云っているのですが、因は色等の境が問題ではなく、妄執を起こす心が問題であって、もともと顚倒は無いわけです。
 顚倒の起こる因が雑染なんですね。雑染は煩悩と、煩悩によって起こす所の業と、その現行です。顚倒の体は煩悩と業と生ということになります。これは遍計所執性ですね。実体の無いもの、色相に似て顕現したものを実体化して、その実体化が顚倒を生起し、そこに煩悩を生み、業を造り、業果としての現行が争いが絶えない世界を生み出してきているのです。
 頌文については、明日にします。

無我の論証 補足 (3)

2016-09-23 20:42:31 | 『成唯識論』に学ぶ


 僕は思うんですよ。有我であれ、無我であれ、有我に執する、無我に執することが虚妄なんでしょう。執は何処から出てくるのかです。境からは出てきませんわ。執は内なる所から出てきます。我が有ると執するところから虚妄分別が出てきます。では何故虚妄分別が間違っているのかと云いますと、涅槃と菩提を障礙するからだと。障礙しますと、安楽という境地を得られないからですね。涅槃は己の道・菩提はボランティアだと思いますね。虚妄分別は、「虚妄熏習の内因力の故に」です。ここに「現在の外縁力」が働いて、我有りと執する在り方が生じてきます。
「我・法分別」は他と区別して認識するわけですが、何を基準とするのか、これは一言でいいますと、自分にとって損か得かという我意ですね。我意によって区別されたものが、我であり、法であるわけです。この分別された我法が無始以来熏習されている。それが大きな力でその力から逃れることはできないという構造になっている。無始以来刹那刹那に熏習された種子から現行してくるわけですから、今に始まったわけではないのですね。しかし、それは実我・実法ではないのですね、「変じて我・法に似れり」、「我・法に似ている」にすぎないのだと。「似ているにすぎない」のだけれども、無始以来、我・法と執着してきたわけですから、この認識から離れることはできないと述べています。
 「諸の有情の類は、無始の時よりこのかた、此れを縁じて執して実我・実法と為す。」
 有情という情識を有する者ですね、無始よりこのかた、外境に似て現じたものを縁じて実の我・実の法と思い込んでいる.いうなれば実存的なんですね。言葉にしますと、種子生現行現行熏種子です。
 昨日は第一問答について記憶等が成立しないという外人の非難を述べました。それに対する大乗側の答えが、種子生現行現行熏種子なんですね。
 「然も諸の有情に各本識有りて、一類に相続して種子を任持す。一切法の與(タメ)に更互(コウゴ)に因と為りて熏習する力の故に。是の如きの憶・識等の事有ることを得。」
 つまりですね、
 種子(因)生現行(果)・現行(因)熏種子(果)
                  種子(因)生現行(果)
                        現行(因)
 三法展転因果同時に依って憶・識等のことが成立するのであると説明します。これが識転変なんですね。すべては本識が転変したものである。

第二問答は、業と果報について、第三問答は、実我がないのであれば、誰が生死に輪廻するのか、また、誰が倶を厭い涅槃を求めるのかという問答ですが、この問答は、第一問答同様の論理をもって、外人の問いを、仏教の立場から問い質し、論主もまた問い質し、後に正義を述べ、外人の問いを破斥します。

 第四は、総結です。

 「此に由て故知ぬ、定めて実我は無くして但だ諸識のみ有って、無始の時より来かた前の滅すれば後の生じつつ因果相続す。妄熏習に由て我の相に似て現ぜり。愚者いい中に於て妄執して我と為すということを。」

 以上の問答を通して知られるように、実我は定んで無いということ。ただ諸識(八識)のみが有って、無始の時よりこのかた、前後滅生して因果相続されている。一類相続の中で、第八識の見分が常・一に似ていることから、第七識は第八識の見分縁じ、第七識の相分上に妄熏習し、実我となしているに過ぎないのである。
私たちは、生命そのものが、常のものであり、いつまでも自分は有る、私は変わらないものであり、自分の思う通りに出来ると思っているわけです。本能ですね。「無始の時より来かた」という妄執が本能であると同時に、妄執を縁として菩提を得ることもまた本能なのであると明らかにしているのではないでしょうか。つまり、妄執を縁としない限り菩提に求趣することはできないという構造をもっていると思われます。
 
 そして、第七の因果法喩門に至って、阿頼耶識は断なのか、常なのかというといが立てられるのです。
 「問い。 阿頼耶識は断滅することがあるのか、それとも常一不変のものなのか。
 答え。断でもなく、常でもない、その理由は、恒転する性質のものだからである。
 「恒」とは、つまり、この第八阿頼耶識は無始の時よりこのかた今日に至る迄、一類に(変化することなく)相続して、常に間断することがない。これは三界・五趣・四生と分かれる根本である。
 そしてまた、性質は堅密で種子を持して消失することがないからである。
 「転」とは、この第八阿頼耶識は無始の時より今に至る迄念々に生滅をする、相前後し、刹那生滅を繰返しているのである。因が滅すると果が生じ、果が滅すると因が生じて、常・一・主宰ではない。
 このような性質だから、七転識の熏習する種子を受熏し貯蔵しておくことができるのである。
 「恒」という言葉の持つ意味は、断絶をするという性質を遮るために云うのである。
 「転」という言葉の持つ意味は、常住不変のものではないという性質を表すのである。
 それは恰も、暴流のようなものである。つまり、因と果とが自然に織りなす世界であり、因は果、果は因となって暴流の水が非断非常に連続し相続しているように、阿頼耶識は、長時(いつまでも)に漂っている草木や流れの速さを知らない魚をも包み込んでいるように、無始の時より今に至る迄生滅し相続して、非常非断であって、有情を漂溺(漂ったり、沈んだりを繰返しながら)して解脱という出離に向かわしめないのである。
 又、暴流が風雨等にたたかれて様々な波浪を起しても、しかもながれが絶えることことがないように、この阿頼耶識もまた、同じような性質を備えているのである。
 様々なご縁に触れて、阿頼耶識を依り所をしながら七転識を起こすことが有っても、阿頼耶識は恒に相続するのである。
 又、漂溺の喩のように、水の上に草木を漂わせ、水の中に魚を泳がせていていても、流れそのものの性質は変わらないのと同じように、この阿頼耶識も同じように、内には習気を蓄え、外に対しては触等の五遍行に従って恒に転変していくのである。
 このように、法とその喩とは、意はこの阿頼耶識が無始より今に至る迄相続して、因と果とが、断滅するのでもなく、また常でもないということを顕している。
 つまり、この第八阿頼耶識は無始よりこのかた刹那刹那に生滅を繰り返し、果が生ずる時には、因は滅するということで説かれてきたのである。
 果が生じるという点から、阿頼耶識は断絶ではないのである。因が滅するという点から云えば、常住ではない。
 断絶でもなく、常住でもないというのは、真理は縁に依って生起するのである。
 以上のような点から、阿頼耶識は、「恒に転ずること流れの如し」と云われるのである。
 このような道理を、「恒に転ずること流れの如し」というのである。
(「阿頼耶識爲斷爲常。非斷非常以恒轉故。恒謂此識無始時來一類相續常無間斷。是界趣生施設本故。性堅持種令不失故。轉謂此識無始時來念念生滅前後變異。因滅果生非常一故。可爲轉識熏成種故。恒言遮斷轉表非常。猶如瀑流因果法爾。如瀑流水非斷非常相續長時有所漂溺。此識亦爾。從無始來生滅相續非常非斷。漂溺有情令不出離。又如瀑流雖風等撃起諸波浪而流不斷。此識亦爾。雖遇衆縁起眼識等而恒相續。又如瀑流漂水下上魚草等物隨流不捨此識亦爾。與内習氣外觸等法恒相隨轉。如是法喩意顯此識無始因果非斷常義。謂此識性無始時來刹那刹那果生因滅。果生故非斷。因滅故非常。非斷非常是縁起理。故説此識恒轉如流。」)
(『成唯識論』「巻第三・七左。大正31・12c)
 
 同じことの繰り返しになりますが、ここが頷けないのですね。何故理解できなかと考えますと、教えを「我」によって分別しているからですね。我が主・教えは従。仏陀より自分の方が偉いのですわ、親鸞様より自分の方が偉いと「我」は思っているわけですから、頷けないのも当然です。
 「我」によって分別されたものが熏習されます。現行熏種子です。生現行は衆縁を伴いますが、種子は過去の経験のすべてを保持しています。「我」に色づけされた有漏の種子です。教えは無漏ですが、有為の世界に働きを持ちますから、有為無漏法ですね。有為転変の中に往生浄土の道を歩むことが有漏の種子が転じて有為無漏の法と相応するわけです。
 それが信心の内実ですね。
 すべては信心獲得のご縁なのです。一つとしてご縁でないものはないのです。もし切って捨てるものが有るとすれば、それが我執です。我執がご縁として、支えられている自分に頷きを得ることになるのでしょう。転依の世界です。転依が回向されている。自分から向かうのは虚妄でしかないということでしょうね。計算が働いていますからね。南無

無我の論証 補足 (2)

2016-09-22 21:02:29 | 『成唯識論』に学ぶ
  

 実我存在論者は、実我が無いならば、過去に経験したあらゆる出来事を想い起こすことは不可能である、と主張します。実我を軸として想起と再認知が生ずるのであると。
 このような発想については、ウパニシャッドの基本思想を少し述べる必要がありそうです。簡単には、この現象世界はにおは、唯一不変な実体としてのブラフマン(梵)がその本質として存在し、そしてそれが人間の個体の本質としてのアートマン(我)と同一であるということなのです。
 「この現象世界の諸存在は、言葉による表示にすぎず、その本質は唯一の実体である「有」(アートマン)にほかならないとするものである。
   「タット・トヴァム・アシ」(汝はそれである)
 この世のすべてのものは、それ(有)を本質としている。それは真に存在するものである。それはアートマンである。」
 シャーンデイリヤの教えや、蜜蜂の喩、ニヤグローダの樹の喩に梵我一如の思想が看取できます。

 仏教の立場はアートマンのそんざいを認めない、いわゆる無我説で、この立場は固体の本質としてのアートマンを積極的に認め、これを宇宙の本質と同一視する「ウパニシャット」の思想と対立するものなのです。

 では何故アートマンがブラフマンと一如になって覚醒しないのかという問題が生じてきますが、これは、祭祀者としての婆羅門が西欧からの帰化人であったことと関係すると思うのです。例えば、キリスト教の原罪論ですね。神の啓示を受けない本来の人間性を喪失した在り方を、本来の在り方へ戻そうとする崇高な思想であったと思われるのです。
 ブラフマン = 神
 アートマン = 人間(分別を持った者)
 
 そしてこのような実体化を認めない世親菩薩は、想起と再認知は「念の境についての想の流類」であると述べています。「久しき所思・所作・所説に於て記憶」されているのが「念」ですが、「想の流類」は過去に対象を領納した働きを初刹那として、初刹那の想が因として次刹那の想を果として相続が成り立つとされることになります。ですから領納は「憶念に随って過去に曾て経した諸行の相を謂う」とされます。

 以上のことから、『成唯識論』では論主が返質しています。
 「所執の実我は既に常にして変無しといわば、後のも前の如く是の事有るに非ざるべし。前のも後のが如く是の事無きに非ざるべし。後のは前のと体別なること無きを以ての故に。」と。
 実我が「有」であるとすれば、すでに常であり、変化しないはずである。実我存在論者も認めている事柄である。それなら、前後は同じで変かが無いことになる。前後が同じで変化が無いなら、記憶は成り立たない、認識了知も成り立たず、読誦も、熏習も報恩も怨みを晴らすことも出来ないのではないか?」
 ここで実我存在論者は、体と用(ユウ)が別で有ることを主張します。
 体 = 常一主宰の義
 用 = 分別
 つまり、我の用は前後で変化するので、論主の言う批難は的外れである、と。
 「理いい亦た然はあらず。」(それもまた道理に合わない)と。
 これは、体と用が別であると主張しなければ、アートマンは真如になるわけです。真如ですと、迷うことも、怒り腹立ち、欲望も起こり得ないのですね。
 論主は「用は体を離れず」と一喝します。
 ここで論主が正義を述べますが、『倶舎論』においては有部の立場から想起と再認知について上記しましたように、「念の境についての想の流類」であると述べているのです。
 明日は大乗の立場から考えてみたいと思います。

無我の論証 補足 (1)

2016-09-22 00:10:06 | 『成唯識論』に学ぶ
  

 実我が無いということで、実我存在論者から記憶(想起と訳される)などはどのように起こるのか、想起するための条件が問われます。想起する為には記憶がないとできません。そうすれば、記憶は何処にあるのかが問題になります。
 昨今は唯脳論として、脳に記憶された事柄を想い起こすことであると云われたいますが、仏教は心のはたらきとして捉えています。
 実我存在論者は無我を主張する仏教に対して、
 「若し一切の類の我体が都て無くんば、刹那滅の心は曾所受の久に相似せる境に於て、何ぞ能く憶し知せんや。」(『倶舎論』)
 曾(ゾウ)は過去のこと。久(ク)は久しい・過去という意味。「曾所受の久」は久しい過去の対象、はるか以前に領納した対象について、という意味になります。
 「一切の類の我」とは、実我存在論者が考える我には様々な種類が有るので、このように云いますが、『成唯識論』では三種の我を出して実我の否定をしています。
 実我存在論者は無我説を非難して、もし実我がなければ、刹那的存在のもろもろの心において、はるか以前に領納した対象について、どのように記憶され了知(再認知)されるのか、されることはない、と。
 
 仏教者の考え方は、「此の憶念の力に由りて後に記知の生ずること有り」。
 憶念が想記と訳され、記知は再び認識することで、真諦は更知(再認知)と訳している。
 憶念が、記憶と訳されるのは、過去に経験したことを思い出し、思い出したことを忘れずに念じつづけること、つまり明記不忘という念の心所のはたらきを云います。そして「念」は「久しき所思・所作・所説に於て記憶するを業と為す」はたらきをもったものということなのです。
 刹那の前後で考えられたのですね。(後に大乗仏教において破斥されます。)
 実我存在論者はアートマンの実在性をもって説明するのですが、尤もな論理なのです。私たち今の考え方に近いのではないでしょうか。
 アートマンは、記憶の貯蔵庫なんですね。つまり、記憶(想起)の主体としての実我が有れば、アートマンの中に過去から現在という、想起から再認知の仕組みも説明がつくのですね。どうでしょうか。
 私たちも、過去の経験の記憶が思い出されるのは、過去も現在も変わることのない「自分」が存在すると疑いようもなく当たり前としていませんか。
 刹那の前後であっても、前後を貫いて存在しつづける主体がなければ、想起も再認知も可能ではないのですね、可能にするのが実我の存在であると主張します。
 この辺の事情は『成唯識論』では問いとして出されています。
 「実我若し無くば、云何ぞ憶と識と誦(ジュ)と習(ジュウ)と恩と怨との等きの事有ることを得ん。」
 実我が若し無かったなら、憶念(想起と再認知)や対象を認識し了知すること、また経典を読誦し、熏習や報恩、或は怨ですね、怨みや怨みを晴らすことが成り立たないのではないかという質問です。
 意外とですね、仏教を説いていても(法話などでも)、実我の存在を認めているのではないでしょうか。無我とはいいますがね。
 皆さんも考えてみてください。

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (86)九難義 (26) 唯識成空の難 (19)

2016-09-20 20:20:31 | 『成唯識論』に学ぶ
  

 諸行無常・諸法無我の論証
 古代インドの人たちは、天変地異を目の当たりにして、sahā(サハー)と呼んでいた、どうすることもできない事、音写されて娑婆と名づけられたのですね。漢訳されますと堪忍、サハーには大地という意味がありますから、この世は堪忍土であると。
 では、何故堪忍土なのかです。
「思うとおりにならないことを、思うとおりにしたいと思う心」が有るからですね。堪え忍ぶ土の背景に「無常」であり「無我」である事実が働いているのですね。「老病死」という、どうしようもない事実に苦悩する現実がある、何故なんだろうと、お釈迦さまは悩んでくださいました。そこから見出されたのが、常一であり、主宰である我の存在でした。
 無我の論証を『倶舎論』から学んできたわけですが、『成唯識論』では「是の故に我執は、皆無常の五取蘊の相を縁じて。妄って執して我と為す。」と結論づけています。
 五蘊は無常です。龍樹菩薩は「五蘊仮和合」と明らかにされましたが、唯識は、無常の五蘊を妄って執して我と為し、五取蘊の相として執して、自分は存在するのだと錯覚を起こしてくると教えています。
 では何故執するのか。阿頼耶識と転識である末那識の関係を明らかにする必要がありそうです。
 第二能変第五頌第三句の「依彼転縁彼」(彼に依って転じて彼を縁ず。)から学びますと、
 末那識は、阿頼耶識から転変したもの(転識)で、その阿頼耶識を認識の対象としているのです。彼とは第八阿頼耶識のことです。
 つまり、第七末那識は、阿頼耶識を依り所としてでてきた転識であり、そして、ひとえに阿頼耶識を認識の対象にしている、ということになります。
 縁は認識することですが、
 能縁は、認識するもの。認識する主体を能縁、見分として表されるのです。
 所縁は、認識されるもので、認識の対象となるもの、相分としてあらわされます。
 第七末那識、我執の心は、第七末那識の見分が、第八阿頼耶識の見分に働きかけて、第八阿頼耶識の見分を相分として、阿頼耶識を不変で実体的な「我」と錯誤し、恒に審らかに、途絶えることなく、我と執し思い量ることを本質として、具体的には六識に影響を与える働きをもった染汚識(ゼンマシキ)なのです。
「此の意は彼の識の種と及び彼の現の識とを以て倶に所依と為す。間断すること無しと雖も、而も転変すること有るをもって、転識と名づくるが故に。必ず現の識を仮って倶有依として方に生ずることを得るが故にという」(『論』第四・十三右)
(護法等の義は、第七識は第八識の中の第七識を生ずる種子と、第八識の現行している識とを以て倶に所依と為す、という。第七識は間断することはないといっても、転易(てんにゃく)するために転識と名づけられるからである。その為に、必ず現行している識の力を借りて、それを倶有依としてまさに生起することを得ることができるからである。)
「転というは、謂く、流転して、此の識は恒に彼の識に依って、所縁を取るということを顕示するが故に」(『論』第四・十三右)
(転というのは、つまり流転のことであり、此の第七識は恒に第八識に依って(第八識の中の第七識を生起する種子と現行識)、所縁を取ることを顕示する。)
 流とは相続の義。転とは起の義であると云われています。つまり、第八の或いは種、或いは現に依って相続して起こるの義なり、なのです。 
 つまり、第七識が恒に絶えることなく活動し続けていることを意味しています。 
 「転」の具体的な活動内容が「所縁を取る」ということなのです。 「彼に依って転じて彼を縁ず」といわれる「彼を縁ず」を指しています。「彼を縁ず」ということが何を指すのかと云うと「蔵識の見分のみを認識対象とする」ということなのですね。第七識は絶えることなく相続し、第八識の現行と、種子を所依として、所縁の境を認識し続けているということなのです。此の識が私の意識の底にあって私に気づかれることなく私を執着し続けているのです。
 この執が任運に法爾に働いているのですね。かんがえるという思考以前なんです。思考することも、この執に依るわけですね。
 唯識は、我執は無であることを、
 「然も諸蘊の相は、縁より生ずるが故に、是れ幻の如くにして有り。妄所執の我は、横(ホシイママ)に計度(ケタク)せるが故に、決定(ケツジョウ)して有に非ず」と論証します。そして正しい道理として、
 「此れに由りて故に知ぬ、定めて実我は無くして但だ諸蘊のみ有りて、無始の時より来た前の滅すれば後の生じつつ因果相続す。妄熏習に由りて我の相に似て現ぜり。愚者いい中に於て妄執して我と為すということを。」
 破我については、一応ここで終わりにします。次に破法になりますが、その前に、第五の色相非心難より第九の異境非唯難までを簡単に見ていきます。