![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/47/5f/fed7e20f05696a5617a1f629aa541762_s.jpg)
今日は、先ず梶原先生が先日姫路本徳寺でお話しくださいました要旨を、先生自身がFBで投稿してくださいましたのでご紹介させていただきます。
「カウンセリングと唯識 勉強会覚え書き 梶原敬一著
第八識は不可知の執受と處と了となり。と説かれる訳ですから、意識によっては知られない、存在と世界とそれをつなぐ識作用を言うはずです。さらに初能変として転変して意識される世界を構成するとされます。三十頌はこの第八識を根拠として唯有識と説かれる訳ですから、何よりも執受としての有根身と種子によって私の根拠を確かめることを求めます。
そのことを、種子によって過去と未来を、有根身によって世界と他者を、根拠とする私の存在が与えられると説きます。 それを能蔵、所蔵として意識の深層に見いだすと、同時に執蔵として愛着されるものとなると教えます。だから阿頼耶識は迷いの識として自覚されます。しかし、この阿頼耶識は異熟識、一切種子識と転ぜられていきます。第八識が変わる訳ではなく自己認識が変わるのです。
それが修道ではなく念仏で初めて全てのものに可能となると示したのが教行信証だと思います。」
「論じて曰く。此れは何の所説なりや。謂く、若し実に外の色等の処有りて色等の識の與に各別に境と為らば、是の如き外境は或は応に是れ一なるべし。勝論者の有分色を執するが如し。或は応に是れ多なるべし。実に衆多(シュウタ)の極微有りて各別に境と為ると執するが如し。或は応に多の極微の和合及び和集すべし。実に衆多の極微有りて皆共に和合・和集して境と為ると執するが如し。」
外界実存論者も大乗の論者も、その所説は変わりのないものですが、「執するが如し」と言われていますように、執の問題なのですね。執することに於いて固定される。自由が失われるのですね。仏教はもっと柔軟性をもったものなんでしょう。
前回の復習です。
認識の対象は何かが問われます。
問 復た、云何ぞ仏は是の如き密意趣に依って色等の処有りと説くも、別に実の色等の外法有りて色等が識の各別の境と為るに非ざるや。」(外界実存論者かたの問いです。ではまた、仏はそのような密意趣(特別な意図)に依って色・形等の諸部門が実在すると説いたとしても、どうして識とは別に、外界に色・形等が実在して、それらの色・形等が識のそれぞれの対境とはならないのか?)
梵文和訳(中公『大乗仏典』より引用)
(反論)「しかし、君の言うような意味で世尊が色形などの諸部門の存在を説いたのであって、決して、色形などの諸部門が外界に実在していて、色形の認識をはじめとする一つ一つの認識の対象となるのではない、ということをどうして知りうるのか」
「頌に曰く、
彼の境は一に非ず。亦た多の極微(ゴクミ)にも非ず。又、和合等にも非ず。極微は成ぜざるが故なり。」(第十頌)
(世親は偈頌をもって答える。
彼の識の対境は単一なるものではない。また、多くの極微でもなく、また、極微の和合したものでもない。だから、極微は成り立たないのである。)
梵文和訳
それは単一なものとしても対象とならず、多数の原子としても対象とならず、またこれら原子の集結したものとしても対象となりえない。原子は証明されないものだから。
この頌にたいして世親自身が釈してきます。
問、何が説かれたのであるか?(何が意味されているのか?)
答、すなわち、色形などの部門が、色形の認識などにとってそれぞれ対象となるとすれば、それは、(一)勝論学派が想像している全体性のように単一なものであるか、(二)原子のままで多数のものであるか、あるいは、(三)原子の集結したものであるかのいずれであろう。
(一)そのうち、単一なもの(極微からから成る単一体)は認識の対象とならない。というのは、対象の諸部門と別に、単一な全体性などどこにも認識されはしないからである。(二)原子の一つ一つは、対象の形象をもつものとして認識されはしないのであるから、多数の原子が対象の形象をもってあらわれることもない。(三)さらに、それらが集結したものも認識の対象とはならない。というのは、集結体の部分としての原子が一つの実体であるとは証明されないから、それらが集結体を構成することもありえないからである。
注
極微(ゴクミ)とは物質の最少の大きさを表します。有部と唯識ではその主張が違います。有部は、極微は存在し身体や物質は極微から構成されると説きます。対して、唯識は、意識によって事物を分析して心のなかに仮に作り出された影像にすぎないと主張します。
そして、極微は極めて微細な粒子の単位を表しますが、この極微が七つ集結したものを微塵と呼んでいます。