唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 随煩悩 大随煩悩  不正知 (6)護法の正義を述べる

2015-12-31 13:10:54 | 第三能変 随煩悩の心所
   

 今年一年、皆様方には大変お世話をおかけいたしました。また病いに臥しておりました折には大変なお気遣いと、御心配をおかけたしました。紙面上で申し訳ありませんが、お礼申し上
 また、ブログはFBとも連携しておりまして、FB上でもたくさんの「いいね」をいただきました。ありがとうございます。大変な励みをいだき、皆様方の後押しで、更新させていただいております。年が明けましてもよろしくお願い申しあげます。 平成27年大晦日

 護法の正義を述べる。
 「有義は、不正知は倶の一分に摂めらる、前(さき)の二の文に影略(ようりゃく)して説けるに由るが故に。論に復、此は染心(ぜんしん)に遍すると説けるが故にと云う。」(『論』第六・三十一右)
 (護法は、不正知とは、(慧と癡の)倶の一分であると云う。何故なら、前の二の文(『雑集論』と『瑜伽論』)に影略して説かれていることに由るからである。『論』(『瑜伽論』)にはまた、「(不正知は)染心に遍く存在する」と説かれているからである。)
 読むポイントは、影略ですね。詳しくは影略互顕(ようりゃうごけん)といいます。昨日の投稿が一つのポイントになりますので再録します。
 
 「第一師の説と第二師の説が相違するということではなく、『述記』は互相会文(ごそうえもん)といい、「此の第一第二師互に相い文を会するなり。皆是れ等流なり。と釈しています。つまり、第一師の引く文を第二師が会通し、第二師の引く文を第一師が会通し、「知ることを正しくさせないこと」が不正知であると説明しています。
 第二師からの会通の意味は、「知ることを正しくさせないこと」は慧が正しく働いていないからであるとする第一師の主張は、慧が正しく働かないのは癡であり、癡こそが不正知の体であると会通しているのです。
 また、第一師からの会通の意味は、『瑜伽論』に不正知が癡の一分と説かれているのは、不正知が癡と相応する慧であることを述べているもので、不正知が煩悩の癡の一分という意味で説かれているのではないと会通しているのです。」
 このような説き方の解明が影略といい、それによって顕れてくるのが互顕であるとう会通のしかたです。
 第一師 - 慧の一分であるとする。(癡の一分であることが隠されている。)
 第二師 - 癡の一分であるとする。(慧の一分であることも含まれている。)
 従って、「二の文は」共に不正知は慧と癡の一分であると説いている、これが第三師である護法の論拠となります。会通して表れてきた本意が倶の一分に摂めらる」ということなんですね。
 表面に説かれていることに執われるのではなく、言葉の持っている側面、行間を読むことの必要性を教えられます。
 文段は二つに分かれます。「論に復、此は染心(ぜんしん)に遍すると説けるが故にと云う」が後半の説明になります。『論』とは、『瑜伽論』巻第五十五と五十八を指します。 『瑜伽論』巻第五十五の記述、
 「・・・無慚無愧は一切の不善と相応し、不信、懈怠、放逸、妄念、散乱、悪慧は一切の染汙心(ぜんましん)と相応し、睡眠(すいめん)、悪作(おさ)は一切の善・不善・無記と相応すと。」
 『瑜伽論』巻第五十八の記述、
 「・・・煩悩と倶行し煩悩の品類(ほんるい)なるを随煩悩と名づく。云何が随煩悩と名づくるや。略して四相の差別に由りて建立す。一には一切の不善心に通じて起こり、二には一切の染汙心に通じて起こり、三には各別の不善心に於て起こり、四には善・不善・無記心に起こるも、一切処に非ず、一切時に非ざるなり。謂く無慚無愧を一切の不善心に通じて起こると名づく。随煩悩の放逸、掉挙、惛沈、不信、懈怠、邪欲、邪勝解、邪念、散乱、不正知の十煩悩は一切の染汙心(ぜんましん)に通じて起こり、一切処三界の所繋(しょけ)に通ず。忿(ふん)、恨(kん)、覆(ふく)、悩(のう)、嫉(しつ)、慳(けん)、誑(おう)、諂(てん)、憍(きょう)、害(がい)此の十随煩悩は各別の不善心に起こる、若し一生ずる時は必ず第二無し。是の如き十種は皆な欲界繋なり。誑(おう)、諂(てん)、憍(きょう)を除く。誑及び諂は初静御慮に至り、憍は三界に通ずるに由る。此れ並に二の若し上地(じょうち)に在るは唯だ無記性なり。尋(じん)、伺(し)、悪作(おさ)、睡眠(すいめん)此の四の随煩悩はは善・不善・無記の心に通じて起こるも一切処にに非ず一切時に非ず。若し極めて久しく尋求(じんぐ)し、伺察(しさつ)することあれば、便ち身(しん)疲れ、念失し、心を亦た労損(ろうそん)せしむ、是の故に尋伺を随煩悩と名づく。此のニは乃ち初静慮地に至り、悪昨、睡眠は唯だ欲界にあり。・・・。」
 と、詳細にわたって説かれています。

 『瑜伽論』の記述から、不正知が染心に遍く存在する心所であることが解ります。しかし、慧は染心に遍く存在するものではありません。そうであるなら、慧の一分であるとする主張は成り立たなくなります。では何故慧の一分であると『雑集論』は述べるているのか。そこを会通しているのが本科段であり、『雑集論』と『瑜伽論』の二つの文にかげ略して説かれているのであり、不正知は慧と癡の倶一分摂になると主張します。この倶一分摂の義が正しい意義を顕したとされています。

第三能変 随煩悩 大随煩悩  不正知 (5)不正知の体について

2015-12-30 17:37:56 | 第三能変 随煩悩の心所
  

 不正知の体について、三師の異説が述べられます。慧の一分説。癡の一分説で、『論』の立場、即ち護法の正義は癡と慧との両方を体とする、倶一分説を採ります。
 
 安田先生の講義から、
 「最後に、不正知とは、知を失わすというのではなく、知るのであるが、間違って知るのである。謬解(びゅうげ。誤って理解すること)である。これは体は、別境の慧の一分(いちぶん)であるという。慧が間違った場合であるという。しかし、癡の一分という考え方もあるのである。しかし『成唯識論』は、癡と慧との両方を体とするといっている。
 謬は迷と区別される。知がないのは、まったく迷っていることである。いわゆる真理を暗中模索している場合は、迷である。謬は、真理には触れる。真理をとらえたのであるが、間違ってとらえるのである。間違ってとらえることが謬である。癡は無明といわれている。明は知であるから、知がないのが無明、愚癡である。並べてみれば、愚癡というものの上に謬解ということが立てられるのである。別境の慧と癡が結合して起こると、その上に謬解が起こるのである。解があるのは慧が作用していることであり、それが間違ってくるのは癡が相応するからである、というのである。」(『選集』第三巻p484)

 第一師の説。
 「有義は、不正知は慧の一分に摂めらる、是れ煩悩と相応する慧と説けるが故に。」(『論』第六・三十一左)
 (第一師の主張は、不正知は慧の一分であるという。何故なら(『雑集論』巻第一)に「不正知は煩悩と相応する慧である」と説かれているからである。)
 前回『雑集論』を不正知の教証として挙げました。
 「不正知とは、煩悩と相応する慧を体と為し此の慧に由るが故に、不正知の身と語と心との行を起し、毀犯(きほん)の所依たるを業と為す。」
 不正知とは、実法ではなく、別境の慧の一分として立てられた仮法であると主張し、自説の正当性を証明するために『雑集論』の所論を引用してきます。
 「述して曰く、これ第一師なり。対法に、是れ諸の煩悩と相応する慧と説けるが故に。」(『述記』第六末・八十八右)と。

 第二師の説。
 「有義は、不正知は癡の一分に摂めらる、瑜伽に、此は是れ癡が分(ぶん)と説けるが故に。知ること正(しょう)ならざら令むるを不正知と名く。」(『論』第六・三十一左)
 (第二師の主張は、不正知は癡の一分であるという。何故なら『瑜伽論』(巻第五十五)に「これは癡の一分である」と説かれているからであり、知ることを正しくさせないことを不正知と名づけるのである。)
 『瑜伽論』(巻第五十五)の記述は、
 「復た次に、随煩悩は幾ばくか世俗有、幾ばくか実物有なるや」という問いが立てられ、忘念・散乱・悪慧(不正知)は是れ癡が分なるが故に一切皆な是れ世俗有なり、・・・」
第一師の説と第二師の説が相違するということではなく、『述記』は互相会文(ごそうえもん)といい、「此の第一第二師互に相い文を会するなり。皆是れ等流なり。と釈しています。つまり、第一師の引く文を第二師が会通し、第二師の引く文を第一師が会通し、「知ることを正しくさせないこと」が不正知であると説明しています。
 第二師からの会通の意味は、「知ることを正しくさせないこと」は慧が正しく働いていないからであるとする第一師の主張は、慧が正しく働かないのは癡であり、癡こそが不正知の体であると会通しているのです。
 また、第一師からの会通の意味は、『瑜伽論』に不正知が癡の一分と説かれているのは、不正知が癡と相応する慧であることを述べているもので、不正知が煩悩の癡の一分という意味で説かれているのではないと会通しているのです。これに対して護法は主張します。
 護法正義は明日読みます。

第三能変 随煩悩 大随煩悩  不正知 (4) 教証から

2015-12-29 21:36:46 | 第三能変 随煩悩の心所
 

 『阿毘達磨雑集論』(大正31)
の記述から会通される護法の主張を伺います。
 ・ 『阿毘達磨雑集論』は無著菩薩の『大乗阿毘達磨集論』と、その釈である獅子覚の釈論を安慧がこの二論をまとめたものが糅訳として世に流布したものである。
 大正31・699bに、不正知の説明がされています。
 「不正知とは、煩悩と相応する慧を体と為し此の慧に由るが故に、不正知の身と語と心との行を起し、毀犯(きほん)の所依たるを業と為す。」(『本論』)
  「不正知の身と語と心との行とは、謂く往来等の事に於て正しく観察(かんざつ)せず、応作(おうさ)と不応作とを了知せざるを以ての故に毀犯する所多きを云う。」(『釈論』)
 ・ 応作(おうさ) - なすべきこと。
 獅子覚の釈論から、不正知の身口意の三業とは、つまり往来等の事(物事の道理)に対して正しく観察せず、なすべきことと、なしてはいけないことを正しく判断しない為に罪を犯す(戒を犯す)ことが多いのである。と教えられます。
 往来等の事を物事の理と解釈しましたが、犯戒するというところから、仏陀の定められた戒律を正しく理解せず、自分の行う行為が正しいのか、正しくないことを誤って理解している為に、三業に悪業を行い、戒を犯すことになるということになりますね。
 この『雑集論』の記述は、『成唯識論』不正知の所論と同じことを述べています。
 『論』は「不正知とは、認識対象に対し、誤って理解することを以て本質的な働きとし、よく正知を妨害して戒を犯すことを以て、具体的な働きとする心所である。つまり、不正知の者は戒を犯すことが多いからである、と述べているところからも知られます。
 「所観の境に於て」、観察すべきところの対象に於いて「謬解」する。誤った理解をする、誤った理解をするとどうなるのか、厳しですね。「正知を障えて毀犯する」、つまり、正しい理解を妨げるということが起こってくる、それが不正知だと。
 そしてこの不正知は何によって生起するのかという問いに、三つの説があることが明らかにされます。『雑集論』の所論と『瑜伽論』の所論と『論』の所論の相違について会通し、「倶の一分に摂む」が護法の正義になることが示されます。
 「誤った理解」とは何をいうのか、問題ですね。考えてみて下さい。 (つづく)
  
 
 

第三能変 随煩悩 大随煩悩  不正知 (2) 教証から

2015-12-27 11:32:48 | 第三能変 随煩悩の心所
 

 『述記』の説明と、諸論の同意について
 『述記』によりますと、不正知の心所は「「述して曰く、境に迷って而も闇鈍(あんどん)なるに非ず。ただ是れ錯謬邪解(しゃくみょうじゃげ。認識的に間違いっている邪な理解)するを不正知と名く。不正知なれば多く業を発す。多く悪の身語業を起こし、而も戒を犯す。顕揚、対法、五蘊みな同なり。」(『述記』第六末・八十八右)
 不正知は、闇鈍(愚か)である為に、認識対象に迷って(認識対象が理解できず)いるのではない。ただ錯謬邪解であると、間違って理解している、それは不正である、と。対象を理解することが誤っていますから、多くは悪の身業と語業を起こして戒を犯すと説明していました。
 『述記』では、悪の身業と語業(多く悪の身語業を起こし)て、しかも戒を犯すと説明し、『顕揚論』や『雑集論』そして『五蘊論』に同旨の説明がされていると述べていますが、これらの文献は、不正知に由る身・口・意の三つの悪業が毀犯(きほん。戒をやぶること)の所依となると説明して、『述記』の説くところと少し相違する(『述記』では意業を含めていない)わけです。
 しかし、第二能変における八遍染師の護法説から伺えることは、身・口・意の三業によって戒に違背し、戒を犯すと述べているところから、毀犯の意業は深層に働き、表層は身・口の二業であることから、こういう所論になっているのか、明らかではありませんが推測されるわけです。
 この辺の事情は余談になりますが、八遍染の護法の所論から伺いますと、
 失念と不正知とは遍染の随煩悩であることを明らかにする中で、
「若し失念と不正知が無くんば、如何ぞ能く煩悩を起こして現前せん」 という問と答えが述べられます。
 煩悩が生起する時には必ず失念と散乱不正知が存在する、と六遍染師は主張してしていましたが、護法はこの説を踏襲してこの三は遍染の随煩悩であると説いています。
 「要ず曾受けし境界の種類を縁じて、忘念と及び邪簡択とを発起して、方に貪等の諸の煩悩を起こすが故に」
 失念は正念を障へ散乱を所依とし、また不正知は正知を障へ毀犯(罪を犯すこと)することを業と為す、といわれていますように煩悩は失念と不正知によって起こされるわけです。その性は染汚であり、不善と有覆無記であり。この二の性は穢らわしい心があるので染汚性の法であるといわれるわけです。
 正念を障えるから散乱が生起し、正知を障えるから悪を為すという、即ち失念と不正知が煩悩を起こして現前させ、正しい認識理解をあやまることが煩悩を生起させるわけですから、私たちが迷っているという、正法に対する疑惑が煩悩を生起させ現前させるのであると教えていると思われます。
 横道に外れますが、
 根本の四煩悩と五遍行と別境の慧と随煩悩の八が第七末那識と相応する、といわれ、捨受相応になります。第七末那識は無始已来任運に一類に相続しますから、憂・喜・苦・楽の変異受とは相応しないのです。
 第七末那識の性格は恒審思量といわれていますように、恒に細やかに我を思いつづけている働きなのです。ですから恒に真実を覆い隠し、心を染汚していくのです。そのことによって自らが自らを縛っていくという性格をもっています。
 そして八つの大随煩悩が第七末那識と倶に働くわけです。根本煩悩と倶に八大随煩悩が働きます。この大随惑といわれる煩悩は不善と有覆無記との両方に働きますが、第七末那識と相応するときには有覆無記として働きます。不善は麤動に働きますが、有覆無記の働きは審細なのです。自覚することが非常に難しいというより、不可能なわけです。ここに聞法の課題があるように思われます。ついつい、自分が聞いているという立場になって、自己判断という物差しで、法をも分別していますからね。
 「しかるに常没の凡愚・流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽実に獲ること難し。何をもってのゆえに。」(真聖p211)という課題です。
 つまり、別境の慧の心所が第七末那識と相応するということです。慧の心所は「所観の境の於に簡択するを以て性と為す」といわれています。我と我所を簡択する心所なのですね。自分と自分のものを明らかにし、恒に自分の利益になるように働いていくエゴイズムです。それが自と他(自尊損他)を分ける働きを持つ慧の心所なのです。無意識的に、いわば自己防衛本能として意識の底に漂っている我執なのです。我執を乗り越えようとする意識を覆い隠そうとする潜在的意識が働いているのです。
 護法は、根本の四煩悩と五遍行と別境の慧と随煩悩の八が第七末那識と相応すると説き、忘念(失念)を念と癡の倶一分とし、不正知を慧と癡の倶一分の随煩悩とするならば、染心に遍在して生起すると説きます。何故ならば癡はあらゆる煩悩・随煩悩と相応するからである。忘念と不正知は癡と倶に働くから第七末那識相応の心所であるといい得るのである、と。
 『大乗阿毘達磨雑集論』巻第一の不正知の心所については後程考えたいと思います。

第三能変 随煩悩 大随煩悩  不正知 (2) 性と業 

2015-12-25 23:52:27 | 第三能変 随煩悩の心所
  

 「云何なるか不正知(ふしょうち)。所観(しょかん)の境に於いて謬解(みょうげー誤った理解)するを以って性と為し。能く正知を障えて毀犯(きぼんーそこなうこと)するを以って業と為す。謂く不正知の者は、毀犯する所多きが故に。」(『論』第六・三十一左)) 
 (どのようなものが不正知の心所なのか。不正知とは、所観の境(知られるべき対象)に対して誤って理解をすることが本質的な働きであり、よく正知を障礙し、本当のことを損なうことを以て、具体的な働きをする心所である。)
 「不正知ハ、シルベキ事ヲアヤマチテ知ル心ナリ。」(『ニ巻抄』)
 不正知とは、本当に知るべきことを誤って理解する心である、と良遍は釈しています。本当に知るべきことは物事の理ですが、物事の理が解らないために、本当でないもの(我)を立てて、(我が)本当のものであると錯覚をしているのが私たちの姿であると教えています。
 正知は善の心所に入るべきものなのですが、十一の善の心所には数えられていません。そのことは、正知は善慧(正慧)の一分なのです。別境の分位である心所について説明されています。
 
 不散乱と正見と正知と不妄念について、別境(欲・勝解・念・定・慧)の分位としての善の心所であることを明らかにする中で、
 「不散乱の体は、即ち正定に摂めらる。正見と正知とは、倶に善の慧に摂めらる。不妄念とは、即ち是れ正念なり。」(『論』第六・九左) 
 「述して曰く。不(散)乱の体は即ち正定なり。散乱は別に体有り、或は体無しと雖も、即ち定の少分にして皆な彼(散乱)に翻ずれば正定と名づく。性は対治なるが故に。
 •(体) 正定 - (能対治)不散乱 → (所対治)散乱
  根本の中の染の見と随の中の不正知とを、今翻じて皆な善の慧に入れ摂せらる。
 不正知は、或は別境の慧の分、或は癡が分皆な爾なり。性は対治なり。
 •(体) 正慧 - (能対治)正知 →(所対治)不正知 不妄失念は是れ正念なり。設い別境の念の分、或は是れ癡の分と云うも亦爾なり。
 •(体) 正念 - (能対治)不妄念 →(所対治)妄念
 正知の体は正慧であり、正知は善の慧のみではなく、無癡もその体の一分としている。本科段である不正知は正知によって対治されますから、不正知も慧と癡の一分から成り立っていることが知らされるわけです。
  
 「述して曰く、境に迷って而も闇鈍(あんどん)なるに非ず。ただ是れ錯謬邪解(しゃくみょうじゃげ。認識的に間違いっている邪な理解)するを不正知と名く。不正知なれば多く業を発す。多く悪の身語業を起こし、而も戒を犯す。顕揚、対法、五蘊みな同なり。」(『述記』第六末・八十八右)
 
 不正知は、闇鈍(愚か)である為に、認識対象に迷って(認識対象が理解できず)いるのではない。ただ錯謬邪解であると、間違って理解している、それは不正である、と。対象を理解することが誤っていますから、多くは悪の身業と語業を起こして戒を犯すと説明しています。
 五逆謗法が何故起こるのか、いいヒントが与えられていますね。   (つづく)

第三能変 随煩悩 大随煩悩  不正知 (1) 概略

2015-12-24 23:01:22 | 第三能変 随煩悩の心所
  

 不正知について学びます。先ず、概略を述べます。
 「不正知は、しるべき事をあやまちて知る心なり。」(『ニ巻抄』)
 境に於いて誤解を起こさせる心所なのです。正しく知るという事は智慧ですね。それに対し不正知は間違って知る心です。

 「云何なるか不正知(ふしょうち)。所観(しょかん)の境に於いて謬解(みょうげー誤った理解)するを以って性と為し。能く正知を障えて毀犯(きぼんーそこなうこと)するを以って業と為す。謂く不正知の者は、毀犯する所多きが故に。」(『論』第六・三十一左))

 対象に於いて謬(びゅう)は誤る、誤解することですね。解は理解、了解で、謬解は誤った了解ということになります。それが不正知の性格であると云われています。此の事に由り、正知という、はっきりと心にとめていることを妨げ損なうことが行為となって現れるのですね。『成唯識論』宗前敬叙分の造論の意趣に「迷・謬」とありました。迷は無明・縁起の理や真如の理に昏いのですが、謬は厄介ですね。知っているのですが疑っているのです。疑惑です。仏智疑惑という謗法です。知ったかぶりの仏教ということがありますね。知っているのですが間違って理解をしているのです。その誤った理解が正知を邪魔をする不正知です。
 或は、仏教を学んでいても、世間一般の学問と同じように、対象学としての仏教。仏教と自己が切り離されて学んでいる。生活の現場から自己が問われていることへの眼差しが欠如している。自己が問われないところが不正知の本質になるのでしょうが、不正知は何を以て生起するのか、異論があり、三師の説が挙げられ、第三師の護法の説が正義とされます。
 1. (異説)不正知は慧の一分に摂める。
 2. (異説)不正知は癡の一分に摂める。
 3. 護法の正義は、不正知は倶の一分に摂める。(慧と癡の両方の働きによる。)
 我執によって空・無我の理が覆われ、正しく簡び分けられないのです。第一説の慧の一分ということですが、慧は正しく分別するということですね。簡択の義といわれていました。不正知には慧という心所が働いているといわれているのです。しかし間違って働いているという事が厄介なのです。それが無知という無明煩悩と共に働いてくるのが不正知なのです。これもまた「染心に遍ず」といわれ、「散乱」と同じく悪と有覆無記の心です。
 「境に迷って闇鈍に非ざるなり。但だ是れ錯謬して邪に解するを不正知と名づく。不正知、多く業を発し。多く悪の身語業を起こして、多く惑を犯す。」(『述記』) 
 間違った理解は、間違った行為を起こし、間違った身・口・意の三業を起こして多くの惑、迷いを生み出してくる。惑染の凡夫といいあてられています私ですが、何が惑染かといいますと、はっきりと不正知であると、唯識無境といいますが、境に迷っているのではないですね。自己の執着が錯謬させているのです。自己の利益が優先されますから道理に反し邪に理解をしますから惑をもたらして来るのです。 
「不正知は倶の一分に摂めらる、前の二の文に影略(ヨウリャク)して説けるに由るが故に。論に復、此れは染心に遍ずと説けるが故にと云う。」(『論』)
 不正知は慧と癡の倶の一分である。何故ならば、前に説かれていた『雑集論』と『瑜伽論』の二つの文に影略して説かれているからである。そして、さらに『論』にまた、「不正知は染心に遍く存在する」と説かれているからである。
 詳細は明日以降に述べます。
 
 

第三能変 随煩悩 大随煩悩 散乱(5)掉挙も散乱の相違の問題点 (2)

2015-12-23 21:30:11 | 第三能変 随煩悩の心所
  

 掉挙と散乱が、染汚心の時には働いているのか、働いていないのかが説明されます。
 「染汙心(ぜんましん)の時には掉と乱との力に由って、常に念々に解を易え縁を易えしむ応し、或は念等の力に依って制伏(せいぶく)せられたること、猿猴(えんこう)を繋げるが如し、暫時(ざんじ)に住せること有るが故に、掉と乱とは倶に染心に遍せり。」(『論』第六・三十一左)
 (染汚心の時には、掉挙と散乱との力に由って、常に念々に解を変えせしめ、所縁を変えしめるのである。或は、念等が生起する染汚心では、念等の力に依って掉挙と散乱が制伏されていることは、あたかも猿猴を縛っているようなものであり、しばらく心が静かに住しているのである。しかし、掉挙と散乱は恒に染汚心に存在しているのであって無くなったわけではない。)
 本科段は、掉挙と散乱は如何なる場合においても存在していることを説明します。
 文段は三つに分けられます。
 (1)染汙心(ぜんましん)の時には掉と乱との力に由って、常に念々に解を易え縁を易えしむ応し。
 (2)或は念等の力に依って制伏(せいぶく)せられたること、猿猴(えんこう)を繋げるが如し暫時(ざんじ)に住せること有るが故に。
 (3)掉と乱とは倶に染心に遍せり。
 (1)の文は前段に於いて説明されました。(2)の文の意味は、染汚心の時であっても、あたかも、心が静かになっている場合はどうなのかについて説明します。この科段は厳しいです。私たちは、心が冷静で、落ちついている時は、何事においても平静を保っているように思うのでが、阿頼耶識を覆っている闇は深く、水面下で自己を貪り心は絶えず散乱し、見聞するすべての心・心所を自己の思うままに変容し、色づけして、自分の思いが通らないのは外界にその責があるという、責任転嫁をもって自己を充実させようとしている。まさに日常の在り方はこの通りなんです。
 「私は悪く無い、私に落ち度はない」という立場から抜け出ないんですね。そこには周りが見えていないという大きな欠落があります。それを分別というんでしょうね。自分の物差しだけや!ここを教えられていかなくてはならないです。唯識の底を破った、真宗の醍醐味ですし、親鸞聖人のダイナミズムですね。でもね、護法さんは、そこをきっちりと押さえておいでになります。すごいです。
 問は、染汚心であっても、念や定等が生起している時は、念や定の力によって、解が変わらず、所縁も変わらず、心は静かである(寂静ではない)。それならば、(心は掉挙も散乱もしていないから)掉挙も散乱も存在しないのではないのかという、当然の指摘ですね。親鸞聖人の御消息を伝える『恵信尼消息』の「殿の比叡の山に堂僧つとめておわしましけるが、・・・」という叡山での修行の中で、一分の愛執を読み切られたのでしょうか。唯識はこの辺のことを「念等が生起する染汚心では、念等の力によって掉挙も散乱が制伏されることは、あたかも猿猴を縛っているようなものであり、しばらく(暫時)静かな心が住するのである、と。従って、掉挙も散乱は存在しているのであって、無くなったわけではないと説いています。
 二つの意味があるようですね。
 麤と細です。掉挙も散乱も麤である場合。あらあらしく阿頼耶識を覆っている、これはなんとなく分かる気がします。しかし、心が平静を保っている時なんですが、その時も掉挙も散乱も微細に働いている、微細に働いているというのは、掉挙も散乱も用をみせずに阿頼耶識を覆っているというのでしょう。それはあたかも、喩ですが。猿が縄等で動きを制限されているようなものであるというわけです。
 問題なのは、掉挙や散乱ということではなく、染汚心なんですね。染汚心が問われているわけです。(3)は自ずとその意味は知られます。
 所依の転依が求められています。我執を依り所とするのか、法を依り所とするのか、その決断は「今」だというわけです。「この身今生において度せずんば、いずれの生においてかこの身を度せん」と。

第三能変 随煩悩 大随煩悩 散乱(4)掉挙と散乱の相違の問題点 (1)

2015-12-21 22:04:22 | 第三能変 随煩悩の心所
 

  掉挙と散乱の相違は「彼(掉挙)は解を易え令め、此(散乱)は縁を易え令む。」と説明されましたが、一刹那と多刹那に於いて解と所縁はどのように変化するのかが問われます。また、染汚心の場合はどうなのかという問題も論じられます。
 「問、五識等の如き一念の染心において、如何ぞ易えると説くや。」(『述記』)と発題をして『論』の所論が述べられます。
 (五識などは、一刹那という間に、どうして理解内容や認識対象をかえることが出来るのか?という問題提起です。
 「一刹那には解と縁とを易(か)うること無しと雖も、而も相続するに於ては易うる義有るが故に。」(『論』第六・三十一右)
 (一刹那においては解(理解すること)と所縁(認識対象)とが変わることが無いといっても、しかし多刹那に相続すという点から、解と所縁が変わるという意味がある。)
 「述して曰く、一念のうちに解と縁との二法に、倶に易える義は無しと雖も、而も多念に相続するにおいて、解と縁と易える義あるが故に。一刹那のうちに、この二有りと雖も、行相は知りがたし。故に相続を以て、その行相を顕す。もしただ一念ならば、穏なる故に説かず。」(『述記』第六末・八十七・右)
 前段の『述記』の所論を今一度振り返ってみますと、
 「述して曰く、下は論主の答え。掉挙は心を挙(こ)す。境は是れ一なりと雖も、倶生の心心所をして解が数転易せしむ。即ち一境において多解するなり。散乱の功は心をして縁を易え境を別なら令む。即ち一の心において多境を易えるなり。」(『述記』第六末・八十六左)
 掉挙の「解」はこちら側(能縁)の了解であり、「易」はかえしめる、変化させるという意味で、心を高ぶらせて、認識対象は一であっても、その理解内容は数々変えさせる働き(囂動)であるということなんですね。
 散乱は「所縁を易え令む」といっています。一つの心心所の認識対象を次々に変えていく作用を持つ心所であるということなんです。
 作用が全く違うわけですね。
 認識対象に対して、多くの理解を生ずるのが掉挙であり、心心所は一つだけれど、多くの認識対象をもつのが散乱であると、その相違点を説明していますが、五識等は、一刹那という短時間で、解や所縁を変えることが出来るのかという問題ですが、簡単にいいますと、一刹那には解と所縁とかわることは無い、しかし、多念相続することに於いて変わるという意味がある、というわけです。
 説明としては不自然ですが、『述記』に「行相知り難し」と。一刹那では変化は見られないが微細に変化して、多念に相続するにつれ、行相がはっきりとしてくるとということなのでしょう。一刹那の用(はたらき)はわかりませんね。わからないから執着するのでしょうか。そういう点からも、何故執着するのかが見てきます。

 本科段を学ぶ上で、(唯識論全般にわたってですが)、八識の倶有依(増上縁依)について十分理解をされる必要があると思います。FB上になりますが「唯識に自己を学ぶ」において八識の倶有依を学んでいます。そちらの方もお読みいただければと思います。
 

第三能変 随煩悩 大随煩悩 散乱(4)掉挙と散乱の相違について

2015-12-18 23:06:53 | 第三能変 随煩悩の心所
  
 本年度の講義は、本日の聞成坊様での学びをもって終了させていただきました。幾度となく折れそうな心を、暖かい目で応援していただきました皆様方には感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。m(__)m 年明けは一月十日の正厳寺様からスタートです。よろしくお願いいたします。

 「掉挙(じょうこ)と散乱(さんらん)と二が用(ゆう)何ぞ別なるや。」(『論』第六・三十一右)
 「下は差別(しゃべつ)を顕す。此は掉(挙)と散(乱)との用、何の差別と問う。」(『述記』第六末・八十六左)
  掉挙と散乱の二つの作用jはどのような相違があるのか、と問いを立てています。
 掉挙と散乱の相はよく似ているんですね。掉挙の別相は、囂動(きょうどう・騒動しく動くこと)であり、掉挙と倶生する心心所を寂静ならしめないのですが、散乱の別相は、躁擾(そうにょう)であり、倶生の心心所をみな流蕩(るとう)ならしめるということなんですね。
 大雑把にいうと、ともに騒々しい、騒がしいということと、寂静ならしめない、定を障えるということで非常に似通っているわけです。そうするならば、掉挙と散乱が違うのはわかるけれど、どこがどのように違うのかという疑問が立ってきます。この疑問に答えるのが、次科段の論主の答えになります。

 「彼(掉挙)は解(げ)を易(か)え令(し)め、此(散乱)は縁を易え令む。」(『論』第六・三十一右
 (掉挙は認識対象に対する理解内容が一境多解であり、散乱は一心多境である。)
 「述して曰く、下は論主の答え。掉挙は心を挙(こ)す。境は是れ一なりと雖も、倶生の心心所をして解が数転易せしむ。即ち一境において多解するなり。散乱の功は心をして縁を易え境を別なら令む。即ち一の心において多境を易えるなり。」(『述記』第六末・八十六左)
 掉挙の「解」はこちら側(能縁)の了解であり、「易」はかえしめる、変化させるという意味で、心を高ぶらせて、認識対象は一であっても、その理解内容は数々変えさせる働き(囂動)であるということなんですね。
 散乱は「所縁を易え令む」といっています。一つの心心所の認識対象を次々に変えていく作用を持つ心所であるということなんです。
 作用が全く違うわけですね。
 認識対象に対して、多くの理解を生ずるのが掉挙であり、心心所は一つだけれど、多くの認識対象をもつのが散乱であると、その相違点を説明しています。

 「問、五識等の如き一念の染心において、如何ぞ易えると説くや。」(『述記』)と発題をして『論』の次科段が述べられます。
 (五識などは、一刹那という間に、どうして理解内容や認識対象をかえることが出来るのか?という問題提起です。
 

第三能変 随煩悩 大随煩悩 散乱(3)護法の正義(しょうぎ)(2)

2015-12-17 22:25:37 | 第三能変 随煩悩の心所
  

 散乱の別相
 「散乱(さんらん)の別相(べっそう)と云うは、謂く、即ち躁擾(そうにょう)なるぞ、倶生(くしょう)の法をして皆(みな)流蕩(るとう)なら令(し)むるが故に。」(『論』第六・三十一右)
 (散乱の別相とは、つまり、躁擾(心がさわがしく乱れること)である。
   躁(そう) ― さわがしいという意味で、散を表す。
   擾(にょう) ― わずらわしい。みだれるという意味で、乱を表す。
 倶に生起したものは、すべて流蕩ならしめるからである。)
 散乱の別相は騒がしく乱れること。散乱と倶に生起した心・心所をすべて乱れ動かしてしまうからであると説明しています。つまり、散乱の本質は躁擾であり、心が乱れることが、さまざまな認識対象に於いて心・心所を流蕩ならしめ、倶生の法をみな流蕩ならしめるということなんです。
 散の反対語は定です。定を障礙するものが散の働きになります。私の心はいつでもどっかに飛び去っています。落ち着きがありません。仕事をしていても、今日は何処に飲みに行こうか。今度の休みは何をしようか等々、さまざまな誘惑に翻弄されて心が落ち着きません。「さまざまな誘惑に翻弄されて心が落ち着きません。」と言いましたが、違うんですね。落ち着くような心を持っていないことが本音です。落ち着かない心が、さまざまな誘惑を呼び込んでくるんですね。
 「今夜も誘惑に負けてしまった」といいますが、誘惑に負けるような心しか持ち合わせていなかったのです。何とかなるような心ではなく、散乱の本質は躁擾であると、護法さんは見抜いたんです。
 次の科段は「前説を破して言う」(第二師の説を論破します。)
   

 「若し彼(か)の三に離れて別の自体無しといわば、別に三摩地(さんまじ)を障(さ)うとは説く応(べ)からず。」(『論』第六・三十一右)
 (もし貪・瞋・癡と離れて散乱固有の自体が無いというのであれば、散乱固有の働きとして三摩地(定)を障礙するとは説かれないはずである。)
 「別して定を障う、故に是れ実有なり。然らずんば通して余を障うと説くべからざるが故に。」(『述起』第六末・八十六左)
 つまり、『論』及び『述起』の所論から、散乱固有の働きとして三摩地を障礙すると説かれているのは、散乱は貪・瞋・癡の上に仮に立てられた心所ではなく、固有の自体を持つ心所であることがわかります。
 「散乱固有の働きとして三摩地を障礙すると説かれている」のは、散乱の心所の定義を見ていただければわかりますが、そこでは「能く正定を障え悪慧が所依たるを以て業と為す。」と散乱の具体相が語られていました。ですから、第二師の主張のように、「貪・瞋・癡と離れて散乱固有の自体が無いというのであれば」・「散乱固有の働きとして三摩地(定)を障礙するとは説かれないはずである」ということになります。