唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第二 所縁行相門 四分義(30)

2014-12-31 10:06:17 | 初能変 第二 所縁行相門
  
 月日の流れは旅人の如し、と云われますが、今年も多くの人に支えられて命をつなぐことができました。命をつなぐことは連続無窮の中で「命の尊厳」を教えられ、「命の尊厳」を伝えていく役割を背負った者として、今此処に生かされて在る命に手を合わせていく営みであろうかと思います。有難うございました。来年度もご指導よろしくお願い申しあげます<(_ _)>今日は本年度最後の投稿になります。
 友は僕にいろんな課題を与えてくれました。何故・何故・何故という壁にぶちあたり、厚い壁に跳ね返され、跳ね返されても・跳ね返されても、何故を問う姿勢には真摯な求道心が読み取れました。時には投げやりになり、時には自分の殻に閉じこもり、時には思いやりの心を発揮し、時には問う姿勢を見忘れて、紙一重の壁に突き返された一年であったように思います。友はもう一人の私であったのです。
      
      衆生無辺誓願度 (衆生は無辺なり。誓って度せんことを願う)
      煩悩無尽誓願断 (煩悩は無尽なり。誓って断ぜんことを願う)
      法門無量誓願学 (法門は無量なり。誓って学ばんことを願う)
      仏道無上誓願成 (仏道は無常なり。誓って成ぜんことを願う)

 仏道を歩む基本的姿勢を四弘誓願として仏陀は教えられていますが、僕は人間が人間として命の営みをする時、度・断・学・成が基本的姿勢でなければならないと思っています。そこには「一切衆生と共に」生きんという如来の慈悲と智慧が無量寿・無量光として表されている。
 如来と衆生が呼応した時、時を同じくして如来が誕生し、衆生が衆生として命を尽くすことができる瞬間ではないのか、と。

   聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転
   (其の名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向せしめたまえり。彼の国に生れんと願ずれば、即ち往生を得、不退転に住せん。)
 衆生の自覚(目覚め)は「唯除五逆 誹謗正法」(唯だ五逆と誹謗正法をば除く)という「除かれる存在」であることへの頷きであろう。
 衆生は迷いの存在、迷いは我を中心とした生き方で、自他分別をし、自尊損他という慢心を内に潜めた我見に依る自己依存症である。自己依存症の気づきが「念仏もうさんとおもいたつこころのおこる時」なのでしょう。摂取不捨は如来の分限、「唯除」は機の分限。唯除は、何故唯除されなければならないのかを問い聞くのが唯識の問題であると思いっています。
 来年度も、何故「唯除」されるのかを問う歩みを重ねてまいりたいと思います。

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 今日は四分説のまとめになります。
 「是の如く、四分を或は摂して三と為す。第四をば自証分に摂入するが故に。」(『論』第二・二十九右) このように四分を説いてきたが、相分・見分・自証分の三つで人間の認識を分けるという見方もある。自証分の後にある証自性分を第三の自証分に摂めて、人間の認識を考えることも出来る。何故このようにいえるのかという問いですが、『述記』には「果体一なるが故に」と説明しています。自証分と証自証分は互いに因と成り果となる相互後因果関係ですから、体一に摂して自証分に摂め、「四分を摂して三と為す」と結論しているのでしょう。
 「或は摂して二と為す。後の三は倶に是れ能縁の性なるが故に皆見分に摂む。此に見と言うは是れ能縁の義なり。」(『論』第二・二十九右) 
 今度は四分二と分ける分け方がある。後の三を纏めて見分の中に摂めてしまう。何故ならば、後の三は能縁であり、能縁は見分の働きであるからである。つまり、認識は相分と見分、所縁と能縁の関係で成立しているから二つにまとめることができるという。
 「或は摂して一と為す。体別なること無きが故に。」(『論』第二・二十九右) 
 或は、四分を纏めて一つとする。体ことなることがないからである。体は一つ、開いて四分になるということですね。心は一つであるという見方です。心はさまざまに動いている、その構造をみると四分という働きがあるけれども、本体は一つであるということですね。自体分です。すべての認識の根本は自体分に依る、それ以外の認識の在り方は虚像という遍計所執になりますね。
 この辺をもう少し丁寧に見ていこうと思いますが、本年度はこの投稿をもって閉じさせていただきます。ありがとうございました。<(_ _)>

初能変 第二 所縁行相門 四分義(29)

2014-12-30 10:21:35 | 初能変 第二 所縁行相門
  
 纏縛について『述記』には 「相縛」と「麤重縛」の二つに分けて説明されていました。所取が相縛、相分に縛られる。能取を「麤重縛」。自分の心が自分を縛っていく。種子生現行の、現行は種子を因として生起してきますが、この因は有漏種ですから、種子生種子という一類相続の種子によって、種子を受け入れる場所(所熏)は第八阿頼耶識、種子を植え付ける働きをもったもの(能熏)は七転識であると所熏・能熏の四義で学びました。七転識は有漏心ですから、その有漏心(煩悩の種子)によって阿頼耶識が束縛されている。束縛するものは自分の行為であるのですね。外界が私を縛ってくることはないのです。例えば地球です。地球は私たちを束縛するものではありません。逆に私たちの行為を純粋に受け入れています。そうしますと私たちはどうでしょうか。環境問題を考えて見ますと、環境破壊によって苦しんでいるのは、地球が因でしょうか。違いますね、人類が人類の未来に明るい灯をともそうとして環境破壊をして苦しんでいるのでしょう。この様なあり方を麤重縛というのでしょう。自縄自縛です。でも、このような大局的な見方も私が作りだしたということなんです。何故か、相分の中に、相分を開いて器世間ですね。識体が転じて相分の中に器世間を作りだしているからです。自分が作りだしたものに縛られ苦しんでいる。
 自分が描いたものしか見えていないのですね。ですから正しいものが見えていない。間違ってものをみているのを恰も正しいと思って執着をして生きている。このような有り方を纏縛というのでしょう。
 「見は種々に或は量にも非量にも、或は現にも或は比にも多分差別なること有り。此れが中に見とは是れ見分なるが故に。」(『論』第二・二十八右)
 見は見分です。此の見分はさまざまな動きをする。量は認識の根拠、正しい認識です。非量は間違った認識、或は現量、対象を直接に明瞭に誤謬することなく捉える働きで、直覚的にものを知る働きです。或は比量、推理をしてものを知る働き。このような現量・非量・比量というさまざまな動きをして私たちの見分は働いている。私が描いた対象にむかって様々な心の動きをし、それに縛られて生きているのが私の姿であるとお教えているのですね。
 この辺の事情を『述記』は
 「此の四分の中に相と見とを外と名づく。見は外を縁ずる故に。三と四とを内と名づく。自体を証するが故に、唯だ見分のみ種々の差別あり。或は量・非量既に見分は或は非比と言うが故に。別に第四を立つ。此れは唯だ衆生の四分なり。故に纏縛と言う。相と及び麤重との二縛具するが故に。無漏心の等きは、四分有りと雖も而も纏縛に非ず。」
                                                                                                                                               
            自証分
        内 〈      〉互に能縁・所縁の関係
            証自証分
  二性〈
            相分 = 所取 - 所縁 - 相縛
        外 〈
            見分 = 能取 - 能縁 - 麤重縛 - 現量・非量・比量

 年末で各家庭もお正月を迎える準備で忙しい時期ですね。美味しいものを食べて、美味しい飲み物をいただいて正月三が日過ごすわけですが、美味しいものを頂くと、美味しいものに執われ縛られる心が動いてきます。あの時食べた刺身は美味しかったな
鍋も最高やった。或は出かける機会が多いと思いますが、見るもの、聞くものに目が奪われて欲いなという欲望が渦巻いてきます。能縁が所縁に縛られる(見るものが見たものに縛られるということ)ことを纏縛といっているのです。 それが私の心の働きである、自分が描いた対象に自分の心が執われていく、ここをしっかりと見据えていく必要が有るのでしょう。        
          
            
          
          
            
 

初能変 第二 所縁行相門 四分義(28)

2014-12-29 12:42:21 | 初能変 第二 所縁行相門
 
 相分といいますと、翻訳すると「対象」ですから、対象物は外にあるものという理解が生れます。また対象は「境」という言葉で表現されます。環境といってもいいのでしょう。それですから、外に有る対象という意味が相分ということになりますからどうしても誤解を生じます。私が存在して、私を取り巻く環境が有る。一般的な考え方ですね。唯識はそれが間違いだと教えているのです。何故かといいますと、私が存在することに由って、私に執着が生じますし、対象物が有るということにおいて対象物に執着が生れます。その執着は私が起こしたものですね。対象物からは執着は生まれません。対象物はあるがままなんです。自然です。そこに執着をするのは、私が描いた対象物であるからですね。自分の心が対象物を縁として色づけしているんです。そして色付けしたものを、恰も対象物であるかのように錯覚を起こしているのです。あるがままのものを本質として、本質を色付けをしたもの、それを影像といっていますが、私は私の影を見て私であると云っているようなものですね。影は影をいうでしょう。影を見て私であるとはいいませんね。それと同じように、対象と云うのは影なんです。影は本体がないと映りません。本体が有って初めて影が映るのですね。その本体を識体といいます。現象の世界は識体が対象に似たものを映じ、それを認識する働きを持って成り立っているのです。その影を相分といい、見る(認識する)働きを見分といっています。本体は八識です。眼識・鼻識・耳識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識の八識です。そして八識それぞれに独自の働きである用があります。私は相分・見分は、心の本体が外に投げ出されたものと理解しています。
 六識の相分は眼識から意識までが、色境・声境・香境・味境・触境・法境である。これ等の境は影像です。本質は第八阿頼耶識の相分になります。そしてこのような認識を起こしてくる本体が自証分といいます。六識相応の心所も同じような働きをします。
 六識の構造は今述べましたが、八識の中の第七末那識と第八阿頼耶識の相分は何かという問題が残ります。
 第七末那識は前六識と潜在識である第八阿頼耶識の中間にあって阿頼耶識を経由して前六識に影響を与えてくる識なのです。manasの音写で、意と訳されています。「末那は阿頼耶の見分に向かいて、是を我と思う、此の外に物を知ることなし」(『二巻鈔』)と説かれていますように、「ただ阿頼耶識の見分を縁じて我と為す」識で、ただただ我とのみ考える識ですから染汚性を帯びているわけです。そこから染汚意(ゼンマイ)とも呼ばれています。それは四の煩悩(我痴・我見・我慢・我愛)と恒に相応して働く所から付けられているのです。厳密には「末那識の倶なる薩迦耶見(有身見)は任運に一類であり恒に相続して生ず」と云われ、「我」と思うのは、末那識そのものではな、末那識と相応して働く我見によると云われています。理由は我見は任運であり、一類であり、恒相続して我執を起こすからである。
 阿頼耶識の見分は、常一・主宰というアートマンに似ていことから、固定化された我として末那識が執着を起こす対象となったんですね。末那識は八識の本体である阿頼耶識を対象として我と決めつけて働きますから、阿頼耶識が転じた表層の六識に、我執を帯びたものとしての影響力を与えているのです。飛躍した言いかたをしますと、末那識の自覚が我執を紐解く鍵になりますね。
 そして阿頼耶識の対象は何かということでうが、これが先日来より述べている「処と執受」になります。
 今日は昨日の問題提起ですね、「唯識の理成じぬ」の証明です。『厚厳経』の頌を引用して証明しています。
 「契経の伽他の中に説かく
   衆生の心(有漏心)は二性なり。 内(自証分・証自証分)と外(相分と見分)との一切の分は 所取(相縛)・能取(麤重縛)の纏(テン)なり。 見(見分)は種々に差別(シャベツ)なりと云えり。」
 衆生の心は二性である。即ち内と外という性質をもって心の全体像を捉えることが出来る。相分と見分を今度は所取・能取と言い換えて、取は執着をするといういみですから、所取・能取で執着されるものと、執着するものなのですが、所取・能取の関係はまといつくということ、縛られてしまう。何に依るのかとい云いますと、自分の描いた対象だからです。阿頼耶識の見分をひたすら我と執着する末那識の働きによって、その自我執着心が所取・能取の境を作り上げるのですね。
 相縛は相分が見分を縛ること。麤重縛は阿頼耶識が煩悩の種子に束縛された有り様をいいますが、相縛は衆生を縛るといわれ、麤重縛にも由るといわれています。自分の描いた対象に翻弄され、自分がそれを見ながら翻弄され、そして苦しんでいる、それを纏縛と教えています。
 『述記』には「教を引いて成ず」と教証は「『佛地論』にも有り。即ち『厚厳経』なり。謂く即ち内と外との二性なり。此の内・外の一切の分は皆な所取と能取との纏繞(テンニョウ)すること有り。故に四分を有り。」と説明しています。四分が何故説かれるのか。衆生の心はすべて自分が引き起こした煩悩によって纏わりつかれ真実を覆っている、その構造が四分であり、四分を知る、自覚することに於いて、自分が何どういう構造で苦悩しているのかを知る、知ることに於いて転ずる世界が有る。転じた世界を四智で表している。
 潜在識からの表現ですと、苦悩の現実を直視し、何故苦悩するのかを問いなさい。問が鍵となって苦悩の扉が開かれますよと、智慧の光が私に届いている。

初能変 第二 所縁行相門 四分義(27)

2014-12-28 12:32:16 | 初能変 第二 所縁行相門
 
四分義にはいっています。今日の所は『成唯識論』(巻第二・二十八左)からです。
 「第三第四をば皆現量に摂む。故に心心所は四分合して成ず。所能縁を具す。無窮の過無し。非即非離(即しても非ず・離しても非ず)唯識の理成ず。」
 自証分と証自証分の間に働くのは、現量だけである。証明するだけであって、相分をいろいろ分析して分別するということは無い。私達の心は四分によって働いている。相分は所量・はかられるもので唯だ所縁である。見分・自証分・証自証分はどうであるのか、といいますと、見分は唯だ相分を認識するだけである。認識する働きである見分は正しい判断や間違った判断を併せ持っている、このような働きをするのは第六意識なんですね。前五識は現量・第七末那識は非量・第八阿頼耶識は現量である。自証分は見分を相分として認識し、また証自証分を相分として認識を起こします。そして証自証分は唯だ自証分はを相分として認識を起こし、自証分と証自証分が互いに縁となって、所縁と為り、能縁となって互に証明し合う関係なのです。ですから第五分・第六分を必要としないわけです。
 四分の功能の別によって非即であり、四分の体は一つです。自体分が外に展開したのが相分・見分であり、内に開いたのが証自証分です。体は一つですがその用、働きは異なっている。それを非離と名づけられている。
 大体ここまでが前回までに学んできたところです。
 太田久紀師が奈良薬師寺で講義なさいましたのが唯識学寮から出版されています。この中で師は
 「四分は私全体像のことをいうんではありません。見という心の働きとか、聞くという心の動きとかというような細かい具体的な働きの中に四分はあるのです。ですけれど、そのことだけで見ていきますと、解り難いですから、自分が自分を見る、自分が自分を掘り下げていくという次元に置き換えてお話していますも
 内の交渉、外向きではありません。宗教は心を内に頂かなくてはいけない。その構造が四分というような認識構造の分析の中にも護法菩薩は出したかった。四分にされることによって、この認識構造が哲学の構造でも、思想の問題でもなくて、宗教の問題、仏様との問題、そういう問題に深まっていったと思います。三分で十分だとう学説に対して四分がいる。もう一ついる、これは護法さんがどうしてもおっしゃりたかったことだと。それは護法さんの宗教的な体験の深さといいますか、そういうものが、こいう論理的な認識構造の分析のなかにも滲み出ていると思います。四分があることによって、はじめて私共は心の中で、私と語ることが出来る。そいうことを四分で護法さんは組織化された。他の学者は誰も云ってないのに厳然として主張された。知的な興味とか論理的要請というこtだけでなく、私は護法さんの宗教体験に基づいていると思います。
 そういう意味で、四分というきょうも難しいところでした。お話しているほうもくたびれてしまうんです。皆様もたいへんであったと思います。判らなければ判らないで結構です。ただ心というものを四つに分けて細かく見た。ただ目でものを見るという時にも、五十一ある心所の三十四が目と一緒に動く可能性があるんです。善なる目として動く時もありますし、悪なる眼として動く時もあります。その時に眼に貪瞋痴が働くというんです。煩悩が目に働くというのはどういうことかと思うんですが、いやらしい目というようなのがありますか、あれかなと思うんです。ものを見るという一つの動きの中に、多い時は二十も三十もの心が動く、その一つ一つに四分があるんです。そんな複雑な仕組みで私たちは生きている。けっして単純明快なものではない。その根元にあるのが阿頼耶識、自分が何を蓄積しているか。それがこういう複雑な構造をおりなしながら、私共の見えている世界を造り上げている。自分の心が掘り下げられなければ、いつまでも表面しか見えないような人生になってしまう。そういうことを四分義というのは語るのだろうと思います。」
 このように教えて下さっています。
 少し戻りますが、四分義の初めに所量・能了・量果という判断の構造から識の三分が明らかにされました。これは三分説を主張されました因明学の祖である陣那論師の『集量論』の伽他の中にでてくる判断論なのですが、唯識が唯識である為の証明の論書なのです。古来より六経十一論で言い伝えられている、その中の一つに『集量論』があります。
 六経とは (1)『大方廣佛華厳経』、その根拠は 「三界唯一心心外無別法」の文を引用するのに由る。
      (2)『解深密経』、法相宗正所依の経典。
      (3)『如来出現功徳荘厳経』 (4)『阿毘達磨経』 (5)『厚厳経』、『成唯識論』に引用されている。伝訳はありません。
      (6)『楞伽経』
 十一論とは 
      (1)『瑜伽師地論』 (2)『顯揚聖教論』 (3)『大乗荘厳経論』 (4)『集量論』 (5)『摂大乗論』 (6)『十地経論』 (7)『分別瑜伽論』 (8)『観所縁縁論』 (9)『唯識二十論』
      (10)『辨中辺論』 (11)『大乗阿毘達磨集論』(対法論の名で親しまれている)
 次回は「唯識理成」の教証をあげて説明します。
 
 

初能変 第二 所縁行相門 四分義(26)

2014-12-25 21:52:28 | 初能変 第二 所縁行相門
 
 少し横道にそれていました。私たちの認識の在り方に、一分義・二分義・三分義・四分義という諸師の解釈があり、古来より「安難陳護の一二三四」(安慧の一分義、難陀の二分義、陳那の三分義、護法の四分義)と憶えなさいといわれてきたところです。私たちは意識においてものを認識します。ものを知ったり、見たり、聞いたりしますが、その知る働きを深く掘り下げて、認識が成り立つには四つの働きがあると明らかにされたのが四分義であります。何回も同じことを言いますが、私たちがものを見たり聞いたりする能動的な側面を能縁と云っています。これを見分といいます。認識するという意味です。物を知ったり、見たりするには知られるもの、見られるものがあります。客観的なところを相分といいます。普通はこのような関係で認識は成り立つと思っています。私がものを知り、ものを見ている。外にものが有り、見られる対象が有るということで認識は成り立っているという思い込みがあります。思い込みが有るのは、自分が見ているという自分が存在している。そして対象物も存在しているという、我・我所という執着を生み出す根拠となるものです。
  「識に離れたる所縁の境有りと執する者」。これが普通の認識ですが、唯識は間違いだといいます。外境が所縁であるということは、識に離れてものは存在する。例えば黒板です。私たちは黒板を見ながら、こころの中で黒板をイメージし黒板という影像を作りあげていく、これが相分だと。相分が有るんだと。相分が有って見ている、これが事実だというわけです。ところが仏教は外縁といいます。相分は所縁であると。黒板が所縁となって私は私の心を見ている。これを見分行相といいます。それを証明しているのが自証分である。心が所縁に似た相分を作りだし、心が能縁に似た見分を作りだして、見分が相分を所縁として認識が成り立つという構造を見いだしてきたのが大乗の仏教徒なんですね。ものすごいご苦労があったのです。ここを手掛かりに四分義をみていきます。
 「又心・心所を、若し細かく分別するに応に四分あるべし。三分は前の如し。復第四の証自証分有り。此れ若し無くば、誰か第三を証せん。心分と云うことは既に同なるを以て皆証す応きが有ゆえに。又自証分は果有ること無かるべし。諸の能量は必ず果有るが故に。見分は是れ再三の果には応ぜず。見分は或る時には非量にも摂むるが故に。此れに由って見分は第三を証せず。自体を証するは必ず現量なるが故に。」
 復習になりますが、今一度整理をしますと、
 「「又心心所を、若し細かく分別するに応に四分有るべし。三分は前(サキ)の如し。復第四の証自証分有り。」(『論』第二・二十七左) 心・心所を細かく整理し分類すれば、四分があることがわかる。三分は既に説いたが、その奥に証自証分が有るのである。
 次にその理由が述べられます。
 「此れ若し無くば、誰か第三を証せん。心分をば既に同なるを以て皆証すべきが故に」(『論』第二・二十八右) 若し証自証分が無かったならば、誰が第三目の自証分を自覚するのか。自証の証は証明する、自覚するという意味です。心分は、心の一部分という意味で、相分も心の一部分ですし、見分も心の一部分になります。見るのが見分の働きですが、見分をもって認識が成り立つのですね。見分が相分をみているという構造です。そうしますと、この見分を自覚する働きはどこにあるのかというと、相・見の要である自証分になるのです。識体です。八識でいえば、八つの心王が自証分なのです。そして自証分を見ている働きが証自証分になります。自証分が見ていることを、さらに証明する働きです。これをの能証といっています。三量でいえば、自証分・証自証分は現量になります。
 ここからですね、前回までに少し述べました、所量・能量・量果の三量と、新たに説かれてきます、現量・比量・非量の三量(現比非(ゲンピヒ)の三量といわれています。)
 自証分と証自証分の関係は、因果更互関係ですね。自証分は相・見に対して量果ですが、証自証分に対しては因である能量になり、証自証分が量果になります。しかし、量果である証自証分が因(能量)となり、自証分が所量・量果という関係です。この更互関係があって、第五の証自証分が必要ではないと結論づけています。自証分が能量である場合は、証自証分は所量であり、量果として自証分を変現する。この自証分・証自証分は現量であるので、こういう関係が成り立つのです。
見分と自証分との関係
 「又自証分は果有ること無かる応し。諸の能量は必ず果有るが故に。」(『論』第二・二十八右)
 「述して曰く。見分を以て能量と為することは、第三を以て量果と為す。若し細さんを能量とせば、誰を量果と為せん。量を為することは前の如し。彼若し救して第二の見分を以て第三の果と為すと云はば、(『述記』第三本・四十九左)
「量果」(認識の結果を確認するこころの働き)。量はものを認識する。能は知る働き、認識するもので、所は知られるもの、認識されるもので、その結果を確認する働きが量果といいます。本文に沿いますと、「諸の能量は必ず果有るが故に。」能量は自証分、自証分には必ず果がある、認識がそこで完成するということなのです。それが証自証分であるといいます。ですから証自証分がなかったなら、自証分の果が無いということになってしまいます。量果が要になりますね。纏め役です。
 そこで、相分・見分ですが、相分は所縁の影像であって認識する作用はないwけです。見分はただ相分を縁ずる外縁の作用飲みでありますから、自証分を証知することは出来ません。従って能量には必ず量果がなければならないのですね。そしt大事なことは、自証分の量果です。それが証自証分を立てる理由になります。
自証分は証自証分の所縁であり、かつ能縁であり、自称分と証自証分とは互いに能所縁となる。互に所量となり量果となりますから、ここで四分は完成されます。
 但し、問題はここで提起されます。
 若し、自証分と証自証分に互に能所縁の作用があるとするならば、見分と相分との能所縁の関係を認めて第四の証自証分は要らないのではないというものです。ここで三量をもって説明されます。証自証分が無くても、見分が自証分を縁じて完結すればいいのではないかというものです。
 「見分は第三の果には応ぜず。」(『論』第二・二十八右) 
 見分は或る時には非量(ヒイリョウ)に通じる。即ち、第八識の見分はただ現量であるが、第六識の見分は現量・比量・非量の三量に通じ、自証分の諸の識は現量である。当然、証自証分の諸八識も現量です。前五識も現量です。
 「見分は或る時には非量にも摂むるが故に。此に由って見分は第三を証せず。」(『論』第二・二十八右) 現量とは、対象を直接知覚する認識のことで、言葉を用いずに知覚しますから、自正明了であり迷乱することがなく捉える働きをいいます。ありのままの直覚的認識です。
 比量は、推量のことですね。推理・思考という推し量ることをいいます。言葉を用いた論理的思考をいい「遠くに焔を見て彼に火ありと知るが如く、現量を先と為して比量す。」と喩えられます。教えは現量です。ですから教えを聞いて、現量を推し量るわけです。仏法とは何か。真如とは何か。教えを通してしか知り得ないのですが、直接知ることはできません。聞法の大切さが知り得るわけです。聞法を通して思考し、推理して知っていく、ですから比較する、減量と比較して知っていくので比量といいます。
 非量は量ですね。現量と比量のことですが非ずと、似現量・似比量です。間違った認識の在り方です。この二つを纏めて非量といいます。
自証分と証自証分の相互互換性を明らかにする中で、見分と自証分が相互互換性が無いのはどうしてか、という問いが出されて、そこに三量分別に由って見分は「是れ第三の果には応ぜず」と答えられています。自証分は現量であるが、見分は非量にも摂められるからである、と。
 「此に由って見分は第三を証せず。自体を証するは必ず現量なるが故に。」(『論』第二・二十八右)
 見分は現量・比量・非量の三量に通じている。正しくものを見ることも出来るが、時には間違ってものを考えることがある。ほとんど、間違ってますね、自分を柱にしていますから、その柱を軸に見解が生まれてきます。我見と云われるものですが、公平性がないですね。それを依り処にしている限り、正しくものを見、判断することはありません。それを非量と現しています。ですから、見分が自証分を証明することは有り得ないのです。
 「識体転じて」と云われていましたが、識体が転じて相分・見分という相を取るということでした。識体が二分を証明しているということになりますね。
 自覚という言葉があります。真宗で大事にされている言葉です。深信も自覚だといわれます。自覚とは自らが自らに覚めるということなのですが、それは現量でなければならないということなのです。ここに自覚の厳密さが示されます。そこに私的な欲がはいると、自覚にはならないで、功利心となってしまうのですね。「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき」(『歎異抄』)は「報土の真因決定する時剋の極促を光闡せるなり」(『行巻」)と教えて下さっていますが、そこには一点の染汚性はありませんね。「「即」の言は、願力を聞くに由って」と、即得往生=摂取不捨は、信心決定という如来の大悲を一身にうけた「時」に開示されることですが、唯識は現量と押さえています。
 自体を証するとは、自分で自分を証明するということなのですが、証明するには必ず現量でなければならないと云っています。そこに非量が入っては駄目だといっているんですね。これは第七末那識とも関係することですが、自分で自分を正しく見ることはできますかね。末那識も自覚の深さなんですね。見れない、というところに仏法を聞くということがあるんでしょう。「聞」がなかったなら、「自分の事は自分が一番よく知っている」ということになるんでしょう。そこには必ず己を立てることが起こってきます。己を立てるにはどうしたらいいのかしか考えていません。これが非量だといっているんです

初能変 第二 所縁行相門 四分義(25) 帯質境について

2014-12-24 19:33:06 | 初能変 第二 所縁行相門
 
帯質境について
 帯という意味は、身につける、おびる。「腰に剣を帯する」という。質は本質(ホンゼツ)のこと。『演秘』には挾帯の義と似の義の二釈を挙げて説明しています。挾ははさむという意味ですが、『演秘』には「能縁の親しく所縁の境に附て相離れざるを名づけて挟帯と為す。世に身に剣を佩(ハイ)すというが如し。」と釈し、相分は常に本質を帯するけれども、能縁の心が境の自相を得ずして、これに異なる相分を生ずることがある。その相分を帯質境という。相分は常に本質をもっているけれども、正しく認識されたものでは無く間違って(第六意識の分別力等によって)とらえられた相分をいうんですね。この相分は本質をもって自らの種子から生じてきたものであり、本質と能縁との中間に生じたものといえます。
 玄奘三蔵の五言四句の偈頌の第三句の伽陀に
   「帯質は情と本とに通ず」
 とありました。ここの解釈ですが、『了義燈』には
 「第三句を解すとは、謂く、能縁の心、所縁の境を縁ずるに所杖の質有り(独影境を簡ぶ)。而も自性を得せざるなり(性境を簡ぶ)。此の相分は性を判ずること不定なり。或は有覆、能縁の心に従い、或は無覆、所縁の境に従う。種も亦不定なり。或は質と同種なり。或は復、別種なるを、帯質は情と本とに通ずと名づく。第七の第八を縁ずるが如く、是れ相を摂して、能縁第七の見に従えば有覆性なり。質に從えば無覆性なり。」と
解釈されています。
 「此の相分は性を判ずること不定なり」という性通情本について言えばですね、第七見分が第八見分を本質として、その上に相を浮かべて縁ずる時、「能縁第七の見に従えば有覆性なり。質に從えば無覆性なり。」と。能縁第七の見分に従えば有覆無記であり、本質に従えば無覆無記であるということになります。性境でもなく、独影境でもないという、帯質境は不定の境といっていいのでしょう。この他に種通情本・繋通情本(種は情と本とに通ず・繋は情と本とに通ず)を合わせて、三通情本と云われています。通とは通同の義を表し、帯質境の相分は能縁の情に通同し、所縁の本質に通同するという意味に解しています。情とは思量分別を指しています。
 帯質境に属するものとして、
 (1) 第七見分が第八見分を縁ずるときの相分。
 (2) 独頭の第六意識が有体法を縁ずるときの相分。
 (3) 第六意識が五根・七心界を縁ずるときの相分。
 (4) 第六意識が第八五数の見分を縁ずるときの相分。
 (5) 依如の無為を縁ずるときの相分。
 (6) 第六意識が過去の五蘊を縁ずるときの相分。
 以上の六つが挙げられますが、特に一番目の自我意識が帯質境の根本的な問題になるようです。
 以上をもって三類境の概略をおわります。
 (注) 七心界 - 六識と意根を合わせて七心界といいます。
 認識は根・境・識という三事和合で成り立っているわけです。六根・六境・六識という十八界で構成されていますが。界とは構成要素になり、認識が成り立つのは、認識対象と認識器官と認識作用が和合してはじめて認識が成立するのですが、問題は意根です。意根の所依は何かという問いが深層の意を見いだしてきたのです。過去の経験のすべてを引き受けている処である阿頼耶識と、阿頼耶識の見分を自我意識と執着する第七末那識の存在ですね。ここに八識五十一の心所が説かれることになります。迷いの構造と悟りの構造が、本質と影像の関係によって明らかにされたのです。
 

『雑感』 身と心について

2014-12-22 21:19:35 | 雑感
 身と心の問題ですが、身と心は一つのものか、異なるものかという問いがあるのではないかと思います。身が病むと心も病む。或は心が病むと身もまた病むということが云われます。つい最近ですが、職場で二人の職人さんが倒れられました。お一人は脳梗塞、お一人は肝硬変でした。病に侵されますと、病に負けてしまって心も落ち込んでいかれるんですね。一般的にはこういう意見が通るのかもしれません。しかし、先日友人が介護のお仕事をしていかれる中でお聞きした話なのですが、車いすの生活を余儀なくされている青年の介護を担当することになりました。その青年は、車いすという不自由な我が身をいただいてですね、心は自由に開かれている。どうしてそんな人生を送ることが出来るのか。ものすごく勉強になります、とお聞きしました。私の知り合いにも、余命何か月と云う死の宣告をされた方がおいでになりました。それはある日突然のことで、体が変調をきたしていたので、かかりつけの医者にいくとですね、すぐさま救急搬送され、その結果、末期の膵臓がんだったんです。本人は荒れ狂いました。「どうして俺が。何も悪いことをしていないし、家庭孝行もしてきたつもりやのに」と。つまり身が侵されて、心が沈んでしまったのですね。しかし彼も少しは真宗に触れておられましたので、毎日毎日『歎異抄』を黙読されて、面会にいくとですね。「君はどれくらい生きれるか知っているか」と聞くんです。「それはわからん」と答えますと、「僕は後三ヶ月かな、終着駅がはっきりしてるんや。ええやろ。何も知らんと死んでいくのと違うんや。俺な、病魔に侵されへんかったら、命の尊さなんか考えること無かったやろなと思うねん。なんかわからんけどな、癌をいただいて自分に遇うた気がする。」、このような会話のあと、静かに息を引き取っていかれました。彼は身は癌に侵されながら、心は自由に、おおらかに、命の尊さを教えてくれた我が身に手を合わせて亡くなっていかれたんです。僕はね、身と心の受ける感覚はどこかで違うのではないかと思うんです。身はどんな時でも、すべてを引き受けているのではないですか。心は違いますね。心は意識に左右されています。第六意識の分別力によってですね。お寺で法話を聞いている最中でもですね、身はちゃんと座っているんですが、心は飛び跳ねています。足が痛いなどうしよう。終わったらどこへ飲みに行こう、早く終わらんかな等々です。ですから、身が病むといいますが、身が病むことはないのではないですか。心がですね、身が病んでいると思い込んでいるのではないでしょうか。身は無常を生きているんでしょう。逆らわずにね。諸行無常・諸法無我を生きている存在が身ではないでしょうか。身において心が問われてくる、問われていると思うんです。
 先程、受ける感覚と云いましたが、受は五遍行の一つの心所です。「受の心所と云うは、楽をも倶をも、心の中の憂い悦びをも、いずれにもあらざる心に受け取る心なり」(「受と謂く、順と違と倶非との境の相を領納するを以て性と為し、愛を起こすを以て業と為す。」)という心の働きをいいます。識が起ると必ずついてくる心の作用です。感覚、苦しいとか楽しいなどを感ずる心作用なのですが、ここに深い意味があるのですね。身で受ける作用は五識相応であると云われ、心で受ける作用は意識相応と云われている点です。これは三受が五受に展開されて、身受(ミジュ)と心受(シンジュ)に分けて、それぞれの受ける感情は違うことを明らかにしていることですね。苦受と楽受は五識相応の身受であるということと、憂受と喜受は意識相応の心受であるという点ですね。苦受・楽受というのは五感覚器官に伴って働く身体的な感受作用なんです。善因楽果・悪因苦果という時の身体的感受作用と同じですね。しかし、憂受と喜受は精神的な感受作用なんです。意識で分別をするという点が身受とおおきく異なります。身は五識相応ですから現量ですね。しかし心受は第六意識相応ですから現量にも比量にも非量にも通じます。身はすべてを引き受けて私という存在を成り立たせているんですね。それを意識が翻弄して、恰も心が病むと身が病むと。身が病むという思い込みが心が病むんだと思いたいんですね。これも第六意識の働きになるんですね。ここの気づきが大切であろうと思います。
 「五識相応の苦受は、後得智の大悲力に従う。親しく引生せざるが故に無漏に通ずと云う」。心して聞いておかなければと思います。尚、五受につきましては2014年8月の投稿で解説をしております。参考にしていただければ幸いです。
 
 教証を挙げておきます。 
 
 身受と心受について『了義燈』の解釈。

 「又身心受。何故五倶名爲身受。第六識倶名爲心受答有二解。一云身者積聚義。五種色根皆積聚。依彼五根皆名身 二云身者唯屬身根。餘四依身相從名身。故能依受得名身受 難五識別依根。相應之受得身名。第六別依意。相應之受標意稱 答五根皆積聚受。從所依得名身。對色辨於心。第六相應非意受 問色心以相對六不同。五名身受。身・眼兩相望。眼不齊身立身受答身・眼倶色並得名身。對色・心殊六名心受 又受依於身即名身受。受依於意應名意受 且質答云。六受依於意。依意名意受。五受依眼等。應名眼等受。據門明別。身・心相對名身心受。不可齊責。」(『了義燈』第五本・二十四左。大正43・751a20~751b05)
 
(「身と心と受」に於て、何が故か、五と倶なるを名づけて身受と為す。第六識と倶なるを名づけて心受と為るや。答う、二の解有り。一に云く、身と云うは積聚(しゃくじゅ)の義なり。五種の色根は皆積聚なり。(「積聚の義は是れ蘊の義なり」)彼の五根に依って皆身と名づく。二に云く、身と云うは唯、身根のみに属す。余の四は身に依るを以て相従して身と名づく。故に、能依の受を身受と名づくることを得。
 難ずらく、五識は別に根に依る。相応の受は身の名を得ば、第六と別に意に依る。相応の受は意の称を標すべし。
 答う、五根は皆、積聚せり。受を所依に従えて身と名づくることを得る。色(身受)に対して心を弁ず。第六と相応するは意受に非ず。
 問、色と心と相対して六不同を以て、五は身受と名づく。身と眼と兩つ相望して眼をば身に斉しくせず。身受とは立てず。
 答、身と眼とは倶に色なるを以て、並びに身と名づくることを得る。
 色と心と対するに殊なるを以て、六を心受と名づく。
 又、受が身に依るを即ち身受と名づけば、受が意に依るを以て意受と名づくべし。
 且く質答して云く、六の受は意に依る。意に依るを意受と名づけば、五の受は眼等に依る、眼等の受と名づくべし。門を明すこと別なるに拠って身心相対して身心の受と名づく、斉しく責むべからず。」)。

 「論。又三皆通至無漏引故 述曰。一云若憂根・苦根皆能引無漏。無漏所引皆通無漏。受寛根狹。故論説苦受通無漏 一云五根中。唯以苦根於學・無學身中。無漏第六意引生故。或唯後得智中。方起五識精進等故。有苦根假名無漏。然五十七説是無漏。何以知者。彼漏・無漏門作是説故。此苦雖然憂非無漏。雖亦能爲無漏加行。仍爲未知欲知根性。非無漏引生。不倶起故。非無漏攝。」(『述記』第五末・八十左)

 (「述して曰く、一に云く、若し憂根・苦根、皆能く無漏を引く。無漏に引かれるをもって皆無漏に通ず。受は寛く根は狭し。故に論(『瑜伽論』巻五十七)には苦受は無漏に通ずとのみ説けり。ニに云く、五根の中に唯苦根の学・無学の身中に於いて、無漏の第六の意に引生せられるを以っての故に。或いは唯後得智の中に方に五識の精進等を起す。故に苦根を假りて無漏と名づくこと有り。然るに五十七に是れ無漏と説けり。何を以ってか知るならば、彼の漏・無漏門に是の説を作すが故なり。此れ苦は然りと雖も(無漏は)憂は無漏に非ず。亦能く無漏の加行と為すをもって、仍ほ未知欲知根の性と為すと雖も、無漏に引生せられたるに非ず。倶起せざるが故に無漏に摂するに非ず」。)
「五識相応の苦受は、後得智の大悲力に従う。親しく引生せざるが故に無漏に通ずと云う」(『了義燈』)と。
 

初能変 第二 所縁行相門 四分義(24) 独影境について

2014-12-21 10:08:26 | 初能変 第二 所縁行相門
 
 独影境とは、性境と正反対の事柄です。本質を有することなく独り影像のみがある対象のことをいいます。「独影は唯だ見に従う」と。性境は四不随心を立てていますが、独影は三随心を立てます。(1)種随心 (2)性随心 (3)繋随心
 (1)種随心は、種子は能縁見分と同一種であるからである。(見分と同じ種子から生ずる。) 
 (2)性随心は、三性は能縁見分の三性に随って転ずる。 
 (3)繋随心は、界繋も能縁見分の界繋に随って転ずる、これを三随心と教えています。
 独影境は実の種子より生ずるものでもなく、実の体と実の用もなく、第六意識の分別力によってとらえられて遍計所執性である。例えば亀毛や兎角のようなものである。第六意識の分別力によって無理に作りだされたもので仮の影像であるといえます。夏の盛り走行中に縄をみて蛇と勘違いすることがり、身震いをすることがありますが、これが第六意識の分別力によって作りだされた影像ですね。思い込みの心です。
 思い込んだ心が種子を熏じ(熏種子)、熏種子が因となり現行する時、実際には存在しないものが存在しているかのように錯覚を起こして心の中(相分の上)に現れてくる、このような現象を独影境といっています。
 『了義燈』によりますと、独影境を詳細すると次のように述べられています。
 (1)無体法及び仮法を縁ずる時の相分。(第六意識が無法を縁ずるときの相分)
 (2)第八識相応の五数心所の相分。(第八阿頼耶識に相応する心所の相分)
 (3)根互用の場合の他塵の相分。
 (4)他界縁の相分。
 (5)漏・無漏の相分。(漏・無漏の反対の性質のものが能縁となり所縁となる場合の相分である)
 (6)無為縁の相分。(識変の無為をいう)
 (7)第六意識が第八五数の相分を縁ずる時の相分。
 (8)第六意識が根互用の場合に五識が他塵の相分を縁ずる相分。
 以上の
事柄ですが、独影境は唯だ能縁の分別力によって生ずる境になります 

十二月度 講義内容概略

2014-12-17 11:39:54 | 初能変 第一 熏習の義
 
『法相二巻鈔』(大正71・115a~c)より、種子について学びます。
 次種子ノ事ヲロ
T2314_.71.0115a22: 申候ベシ。先種子ト云フ物ハ。何ナル物ゾ。ナ
T2314_.71.0115a23: ニトシテ出キ。何樣ニ物ヲ生ズルゾ。種子
T2314_.71.0115a24: ト申物ハ。色心ノ諸法ノ氣分。色ニモ心ニ
T2314_.71.0115a25: モ。各々8實法アリ假法アリ。其中ニ實法
T2314_.71.0115a26: ハ皆種子ヨリ生ジテ種ヲ熏ズ。熏ト申ハ。
T2314_.71.0115a27: 己ガ氣分ヲ留メ置ク也。留メ置ク樣ハ。先*暫ク
T2314_.71.0115a28: 眼識起リテ。色ヲ見ルカトスレバ。軈テ滅
T2314_.71.0115a29: ス。滅スルカトスレバ。軈テ生ズ。生ト申
T2314_.71.0115b01: 候ハ。ヤガテ色ヲ見ナリ。如是念々生滅
T2314_.71.0115b02: スル間。其ニシラルル色モ見ル眼識モ。生
T2314_.71.0115b03: ル時ハ必9各ガ氣10分ヲノコス。ノコス所
T2314_.71.0115b04: ノ氣分ハ。色ノモ心ノモ皆カクレシヅミ
T2314_.71.0115b05: テ。其ノ形チ見ガタシ。併阿頼耶識ノ中
T2314_.71.0115b06: ニ落チ聚ル11氣分ヲ。種子ト名テ。此種子ヨ
T2314_.71.0115b07: リ色心ノ生ズルヲバ。現行ト名ク。色ハ
T2314_.71.0115b08: 色ノ種子ヨリ現行ス。必ズヲノレガ氣分
T2314_.71.0115b09: ヨリ現行シテ。他ノ氣分ヨリハ不現行。
T2314_.71.0115b10: 現行ト申ハ。種子ニテアル時ハ。カクレシ
T2314_.71.0115b11: ヅミタルガ。顯レ起リタルヲ申候也。眼
T2314_.71.0115b12: 識ノ如ク。耳識ノ起リテ聲ヲ聞キ。乃至
T2314_.71.0115b13: 末那識ガ阿頼耶識ノ見分ヲ縁スルモ。皆
T2314_.71.0115b14: 如ク是種子ヲ熏ズル也。凡ソ有爲ノ諸法ハ
T2314_.71.0115b15: 皆刹那刹那ニ生滅ス。刹那ト申候ハ。時ノ
T2314_.71.0115b16: 至テ短キ也。髮12筋切ルヨリモ猶速ニ。電ノ
T2314_.71.0115b17: 光ヨリ猶迅ン。時ノ次第ニ過キ行ヲ以テ御
T2314_.71.0115b18: 心ヘアルベク候。過ルハ則滅スル也。是ヲ
T2314_.71.0115b19: 過去ト名ク。來ルハ則生ズル也。是ヲ現在
T2314_.71.0115b20: ト名ク。未ダ來ラザル13後ヲバ。未來ト名
T2314_.71.0115b21: ク。何レノ物カサアラヌ事カ候。暫クモユラ
T2314_.71.0115b22: ヱテ過ヌホドト云物ナシ。^^^^^^^
 
 種子の六義が終わりまして、熏習について学んでいます。前回は熏習される処、所熏処について考究しました。所謂所熏の四義です。今回は、所熏するもの、能動的に種子を投げ入れていく方面ですね。能熏といいます。それに相前後するのですが、種子についておさらいをしておきたいと思います。『二巻鈔』を読んでいただきますと、解り易く説明がされています。少し読んでみます。
 種子の六義を学びましたが、一番目に刹那滅、三番目に恒随転これが積極的に種子を規定していますが、刹那生滅を繰り返しながら仏果まで至る、これが種子の積極的な意義であるということです。種子生現行は「併阿頼耶識ノ中ニ落チ聚ル氣分ヲ。種子ト名テ。此種子ヨリ色心ノ生ズルヲバ。現行ト名ク。色ハ色ノ種子ヨリ現行ス。必ズヲノレガ氣分ヨリ現行シテ。他ノ氣分ヨリハ不現行。現行ト申ハ。種子ニテアル時ハ。カクレシヅミタルガ。顯レ起リタルヲ申候也。」と釈され、阿頼耶識が所熏の法であることを明らかにしています。
 それとですね、阿頼耶識の三相を学びました。第八識の自相は阿頼耶識である。開いて、阿頼耶識の果相は異熟、因相が一切種であるということでした。自相がさらに阿頼耶識の三義として現され、阿頼耶識の三相に依って三位を立てるといわれているところです。三義の中の能蔵と所蔵が、能熏と所熏の四義に開かれてくるのですね。能蔵・所蔵は「謂く、雑染のために互に縁となるが故に、有情に執せられて自の内我とせらるるが故に、此れは即ち初能変の識に所有せらるる自相を顕示す。因と果とを摂持して自相となるが故に。」と。ここを受けてですね、どういう条件を具えているのが所熏となるのか、またどういう条件を具えているものが能熏となるのかが展開されてくるのです。おして前回は所熏の四義について説明をしてきました。所熏の四義は、一つには竪住性でなければならない。変化するものは所熏にはならない。その上に無記性でなければならない。性質の変わらないもの、選別をするものは所熏にはならない。すべてを受け入れるものでなかればならない。そして熏習を受け入れる、すべての経験を受けとめる力をもっているものでなければならない。最後は能・所和合性です。熏習を受け入れる処と、熏習を植え付けるものが和合していなければならないと結論していました。阿頼耶識が所熏の法であるということは、阿頼耶識は阿頼耶識そのものの中に種子を受け入れるものであって、阿頼耶識そのものは種子を熏習することはないのですね。
 そして問題となるのは、阿頼耶識が所熏の法であり、能熏は必ず阿頼耶識以外の七つの転識、現行法といわれていますが、能熏は七転識であるということですね。問題は、阿頼耶識そのものの種子を熏習するものは何かということです。これは阿頼耶識そのものの種子を熏習するものは第六意識と第七末那識である。そうしますと、第六意識と第七末那識はどこが違うのかです。第七末那識は「恒審思量」と定義されていますように、第七末那識と同時に働く有身見は、任運である・一類である・恒相続である。しかし第六意識は考えられたものですから、任運ではない、変化しますから一類ではない、そして間断がありますから恒相続ではないということになります。
 八識という、すべての識にいえることです。それぞれの識を生ずる自らの種子というのは「見分の種子」なのです。阿頼耶識を生ずる種子は見分の種子ということになります。そうしますと、阿頼耶識の見分を対象としているのは第六意識と第七末那識ですから、阿頼耶識の種子を熏ずるのはこの二識に限られるということになります。「末那識ガ阿頼耶識ノ見分ヲ縁スルモ。皆如ク是種子ヲ熏ズル也。」と、阿頼耶識の見分を所縁として自我と執したことが種子として熏習されることになります。意識はさまざまな縁を伴って阿頼耶識の見分に働きかけます、それが種子として阿頼耶識の中に熏習していくことになります。
 所熏の四義は、『摂大乗論』にも同じ定義が述べられていますが、能熏の四義につきましては、護法菩薩独自の見解になります。能ですから、熏習する方の働きの定義になります。
 所熏は受け入れる方、能熏は能動的に種子を受け入れさせる方になります。しかし、この法則は同時同処で和合しているのですから不即不離と云う関係になりますね。
 能熏の四義の概略を述べますと、
1.  有生滅(ウショウメツ)。有為法は常住ではありませんから作用があり、作用があるから能く種子を熏習することが出来る。
2.  有勝用(ウショウユウ)。 (1) 能縁の勢用(セイユウ) (2) 強盛(ゴウジョウ)の勢用の二つがあります。
3.  有増減(ウゾウゲン)。能く種子を熏習するものは勝れた作用があって、その上に増減するべき性質のものでなければならない、とされます。
4.  所熏と和合して転ず。所熏と能熏は不即不離の関係でなければ種子を熏習することは出来ない。
 能熏となり得るものは七転識であると明らかにしているのです。七転識の心王と心所有法には能熏の勢力(セイリキ)がある、ということになります。
 これは、因位の第八識(所熏処)と果位の諸識及び因位業果の前六識は能熏の四義を備えていないので能熏とはならないということです
 詳細を述べますと、。
能熏の四義、その (1) 有生滅(ウショウメツ)
 「一(ヒトツ)には有生滅、若し法の常に非ずして能く作用(サユウ)有て習気(ジッケ)を生長(ショウジョウ)する乃ち是れ能熏なり。」
 「此は無為は前後不変にして生長の用無きが故に能熏に非ずと遮す。」(『論』)
 有為法と無為法を対比させ、有為法は常住ではなく作用がある、作用あるものは能熏となり得るが、作用の無い常住無生滅のものは能熏とはなり得ないと遮しているのです。
 宗 - 「作用有るを以ての故に方に能熏なり。」
 因 - 「無為をば簡ぶ因なり。」
 喩 - 「種子の生滅の用有るが故に能く果を生ずるが如し」
                             (『述記』)
 この科段では、能熏の条件の一つとして、有生滅、生滅する性質の有るものが種子を熏習していくのである、ということ。生滅変化が有る働きがあって、習気を生長させることができるのである、これが第一の条件になっています。
 私が、今、現に、此処に命を頂いているのは、無始以来からの諸条件に依っているんですね。種子生現行という有生滅の中で、「なに一つ無駄ではなかった」と云い切れる自分に出遇っていくことが大事なことなんでしょう。現在を通すということです。迷いの境涯が縁となって如来の本願に出遇っていく。本願があるわけではないのですね。迷いが大事だと教えているのです。
 「遇」、たまたま、ということですが、出遇ったということが、たまたまの出来事であったと云うことでしょう、背景に不生不滅の無為法に触れた感動が躍動していますね。ですから、出遇ってみれば必然であった、このこと一つに出遇うことがなかったならば、流転していることさえわからないまま、因果を分断し、他因自果として迷妄の渦の中に自己を埋没させているのではないでしょうか。
 世間 - 有為有漏
                  }  有生滅
出世間 - 有為無漏
 法 - 無為無漏     -  無生滅(不生不滅)
 難しいところではありますが、法が有って出遇うということではないでしょうね。此れだと「法体恒有」になりますから、法執ですね。そうではなく、聞法を通して「仏願の生起本末を聞く」ことが熏習し、習気を生長させながら現行してくる有様が、出遇ってみれば、如来の一人働きであった、という他因ではなく、自分を通してですね、自生自果として必然の世界が現出されてくるのでしょう。種子とは「親しく自果を生ずる功能差別」と教えられていましたが、聞法を通すわけですね。聞法が増上縁となり、自生自果という因縁が生起してくるのでしょう。その背景に如来の働きがあることを知るのでしょうね。
能熏の四義、第二番目は有勝用(ウショウユウ)
 「若し生滅有り勢力増盛(セイリキゾウジョウ)にして能く習気(ジッケ)を引く乃ち是れ能熏なり。」(『論』)
 第一番目に説かれていました有生滅ですね。それと勢力が増上であるものが能熏の条件であり、有勝用と名けられる。
 七転識が持つ性質の一つであり、善・不善という強い勢力を持っているものが能熏となり得る、と説いていますから、当然、勢力贏劣のものは能熏とはなり得ないのです。
 『述記』には、勝用に二つあると説いています。
•  「一つには能縁の勢用(セイユウ・作用のいきおい)。これは諸色を簡ぶ。相分と為して熏ず。能縁として熏ずるものには非ず。」
•  「二つには強盛の勝用。謂く任運起にあらず。即ち類別の異熟心等の縁慮用有れども強盛の用無きを簡ぶ。相分と為して熏ぜらる。能縁として熏ずるものには非ず。」
 能熏でないものは、
1.  色等は強盛の用はあるが、能縁の用は無い。
2.  異熟心等は能縁の用はあるが、強盛の用は無い。
3.  不相応法は二の用無し。
 色法は、質礙(ゼツゲ・物の妨げる性質)であって縁慮(エンリョ・対象を認識する心の作用)ではない。所縁相分として熏ぜられる。
 異熟無記の心心所は任運起であって、その勢力は甚だ贏劣である。所縁相分として熏ぜられる。
 不相応行法は二つ共に無いから能熏とはならない。
 「此は異熟の心心所等は勢力贏劣(セイリキルイレツ)なるが故に能熏に非ずと遮す。」(『論』)
 贏(ルイ)とは弱いという意味です。贏劣は、力が弱い、虚弱であるということ。
 「因是善悪・果無記」というところに、聞法は成り立っていることを思うわけです。恒に問われ続けている自分が存在している、そこに見えてくるものが反逆者としての自分である、唯除の自覚であろうと思われます。聞法を縁として熏習が起こるということでしょう。
 七転識によって熏習が生起するわけですが、この七転識が恒に問われているということなのですね。厳密には、第七末那識の一面である染汚意(ゼンマイ)が問われていることです。一面というのは、
 「染汚末那は四煩悩と恒に相応す」という一面と、その背景にある「染汚末那を転ずるが故に平等性智を得る」という一面なのですね。転ずる契機をもつのが第七末那識ということになりますから、種子(善・悪・無記)生現行(無記)・現行(善・悪・無記)熏種子という刹那生滅の因果関係ですね。一瞬の中に目覚めを与えるのが横超の大菩提心と、親鸞聖人は押さえておいでになるのでしょう。
 尚、種子生現行の種子を熏習と押さえ、現行熏種子の熏種子を習気と押さえています。因と果の違いに由るわけです。
能熏の四義の三番目は、有増減(ウゾウゲン)になります。
 「三(ミツ)には有増減、若し勝用(ショウユウ)有りて増す可く減ず可くして習気を摂植(セツジキ)するいい、乃ち是れ能熏なり。」
 摂植 - 摂殖と同義です。この場合には、ショウショクと読ませています。セツジキと読んでますが、間違いではないようです。阿頼耶識の中に種子を植え付けることを意味します。
 ここは、現行熏種子の条件を述べています。この場合の「熏」は習気を指しますが、阿頼耶識の中に種子を熏習させるのは、勝用(勝れた作用)が有って、勝用の上に増すべく、減ずべき性質のものでなければならないと規定しています。
 増減の有るものが能熏の条件であって、増減のあるものが種子を熏習するのである、と。増減があるというのは、能動的であるということ、動いている。何が動いているのかと云うと、聞熏習によって、無漏種子が増長され、有漏種子が減ずるということなのですね。
 私たちが生きていることは、能動的ですね。能動的側面が相続して、すべての行為が選択されることなく阿頼耶識の中に蓄積されるのです。阿頼耶識の所蔵面です。七転識が能縁・阿頼耶識が所縁になります。
 生きることの厳しさが教えられています。否応なくです。「疲れたな、嫌やな」と思ったことが即時に熏習されるんですね。仏法に遇う、聞法という機縁がなければ、永遠に迷いの淵を彷徨うことになります。
 先日の定例会で教えていただいたことは、「私はどこに向かっているのか」、その方向性がはっきりしていないのではないか、ということです。はっきりしていないと、どうなるか、あるものに縛りつくんです。一番は自分です、自分に執着を起こすんですね。これは当然の帰着なんです。そして有頂天と奈落の底を往ったり来たりしながら一生を空しく過ごしてしまうのでしょう。そのことさえわからないままにです。仏陀はこのような有様を「無明」と教えて下さっています。無明に気づけ、ということなんですね。因は執着でしょう。自我分別の根本は我執と教えられています。我執によって大菩提心が障碍されていきます。我執によって所執がもたらされ、紛争の種になるんですね。善行もまた憎しみを生み、妬みを生み、怒りを生み出してくるのでしょう。
 「ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。」(『歎異抄』第四条)
 「聖道の慈悲というは」と巻頭言がついていますね。聖道の中身が問題になるでしょう。聖道を証するということは、自利利他円満の仏陀ではありませんから、煩悩の習気が残っているんでしょう。所知障です。(無意識の領域の中に横たわっている)根本我執ですね。これが問題でしょう。究極のところ、「我が身」可愛さが残るんですね。そうでありますから「しかれば、念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべきと云々」という教えに出遇っていくことが絶対条件になるといっても過言ではないと思います。
 能熏が教えていることは、私は、今、何を、なすべきかと鋭く厳しく問い続けているのだと思います。そのことが問いとなって、「依」の問題が提示されるのではないでしょうか。
 「何所依・何故依・云何依」(何の所にか依る。何の故にか依る。云何が依る、と)ですね。曇鸞大師は「何所依は修多羅に依る。何故依は如来は真実功徳の相なるを以ての故にと。云何依とは五念門を修して相応するが故に」と釈しておられます。(『論註』真聖全p284)
 ここに曇鸞大師は、天親菩薩の一心五念門を、因の五念門、果の五功徳門と開いて教えて下さっています。即ち五念門を初めの四念門を自利(入)・第五の廻向門を利他(出)とし、因として果を導き出す、それが五功徳門でしょう。礼拝門を開いて近門・讃嘆門を開いて大会衆門が正定聚に住す功徳になり、作願門を開いて宅門・観察門を開いて屋門が滅度の功徳ですね。この初めの四功徳門が果相とし、五念門と四功徳門で往相廻向を明らかにされているのではないでしょうか。そしてこの全体が如来の自利とされているのですね。そして廻向門を開いて五功徳門最後の園林遊戯門を出第五門として利他を顕し、還相廻向として如来廻向の全体像を明らかにされているのでしょう。
 天親菩薩の一心五念門と曇鸞大師のご苦労を以て、私たちは阿弥陀如来を増上縁として教えを聞いていくことが出来るのでしょう。唯識で教えられている所熏・能熏の意義が何故厳しく問われているのかをうかがい知ることができると思われます。
有増減は、何を遮すのかですが、仏果の善法のような既に円満したものを簡ぶのですね。
 「此は仏果の円満の善法は増も無く、減も無し、故に能熏に非ずと遮す。便ち円満に非ず、前後の仏果に勝劣有りぬべし。」(『論』)
 仏果は熏習することなく、円満の善法(四智品)は増もなく、減もないので能熏にはならないと遮しているわけです。
 若し、仏果に能熏があるとすれば、どのような過失があるのかですね、仏果の諸識に能熏の作用があるならば、それは円満とはいえないだろう、即ち仏果は円満にして増減がないものである。よって仏果は熏習する本体にはならないのである、と説いています。
 四智品 - 大円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作智
 第四番目は、所熏の四つめと同じ和合転です。この科段は、(能熏は)所熏と和合して転ず、と云われています。
 「四には、所熏と和合して転ず。若し所熏と同時同処にして不即不離なる、乃ち是れ能熏なり。」(『論』)
 「述して曰く。要ず同時処なり、方に是れ能熏なり。所熏に説くが如し」(『述記』)
 所熏に説いてきた通りである。
 「此は、他身刹那前後との和合する義無きが故に能熏に非ず。」(『論』)
 遮するものは、所熏で述べてきたのと同じになります。刹那前後でもなく、他身でもない、このようなものは熏習とはなり得ないということになります。
 総結
 「唯七転識と及び彼の心所とのみ勝れたる勢用有りて而も増減する者のみ、此の四義を具するを以て是れ能熏なる可し。」(『論』)
 「述して曰く。総結なり。
 (心心所に約す) 即ち能縁の中の七転識と心所との等きを能熏と為す。若し相分と為るは何の法が障と為さん、即ち第八識は六・七識が為の所縁なるが故に、相分と為して熏ぜらる。
 (四分に約す) 何の分をか能熏と為するや。唯だ自体分のみなり。自体分のみ唯だ熏を受くるが如くなるが故に。見分の体なるが故に。」(『述記』)
 能熏となり得るものは、七転識の心王・心所のみであると論じています。所熏は阿頼耶識。現に働いている七転識が能熏となる、という。この七転識の心心所は強い勢力を以て阿頼耶識に種子を植え込んでいくのです。
 自分が自分の種子(経験のすべて)を宿し、この種子が表に現れて現実の私の人生を構成してくるわけですね。問題にしているのは、私はどこに向かっていこうとしているのか、私の人生の指針はどこに依るのか、のよって生きる方向性が違ってきます。本当にどうなりたいのかですね。死ぬのが嫌だから、働いて生きている、という方もおいでになりましたが、これでは自分の思い、自分の考え、自分を拠所にした人生観しか生まれてきません。仏教は、これを一切皆苦と教えてきたのではないでしょうか。苦を厭うわけでしょうが、かえって縛られることになってしまいます。
 「是の如く能熏と所熏との識は、倶生・倶滅して熏習の義成ず。」(『論』)
 このように、能熏と所熏の識は、倶生倶滅という、同時に生じ同時に滅しながら阿頼耶識の中に熏習していくのである。能熏・所熏は必ず倶に生滅して種子を熏習させる。「本識中親生自果功能差別」である。そして
 「所熏の中の種子を生長せ令むること、苣勝(コショウ)に熏ずるが如し。故に熏習と名く。」(『論』)
 阿頼耶識の中に蓄積された種子を熏習し生長させるのは、恰も、苣勝に熏ずるようなものである。
 苣勝 - 苣藤(キョトウ)とおなじ。胡麻の異名。阿頼耶識に種子が熏習される喩として用いられている。
 仏法は皮膚を通して染み入ってくんだ、と教えていただいていますが、染み入るということが、ここでは熏習と説かれているのですね。
 三法展転因果同時(サンポウチンデンインガドウジ)を述べる。
 「能熏の識等は種より生ずる時に、即ち能く因と為して復種を熏成す。三法展転して因果同時なること、炷(シュ)の焰(エン)を生じ、焰(エン)生じて炷(シュ)を燋(ショウ)するが如し。亦、束蘆(ソクロ)の更互に依るが如し。因果倶時なりと云うこと理傾動(リキョウドウ)せず。」(『論』)
 本科段は、「三法の喩を挙げて三法の体に喩う」(『述記』)といわれています。
 三法とは、種子・現行・種子の循環性を現します。種子生現行・現行熏種子です。更互に因と為り、果と為る。現行は種子が表に現れた相であり、種子生現行であり、同時に表に現れた行動が種子として蓄積されていく、この面を現行熏種子いわれています。この関係が同時因果であるのです。
 黒板にも書きましたが、種子が因と為って現行が果として生じ、生じた現行が因と為り、阿頼耶識の中に果としての種子を熏ずる。
 因としての、種子・果としての現行・因としての、現行・果としての種子これら三つからなる因果の連続が同時に起こることを三法展転同時因果と云う。
     「現われた自己は隠れた自己である。」(太田久紀師)
     「諸法をば識に於て蔵す。識を法に於ても爾り。更互に果性と為り、亦常に因性と為る。」(『阿毘達磨経』)
 種子が現行を生ずる場合には、生ずる縁が介在するわけです。さまざまな縁に依って生起してくるわけですから、衆縁(生)に依る、衆縁に依らない場合には現行は起こらず、種子は種子として阿頼耶識の中に蔵せられます。種子生種子として。
  今回は、終りから七行目の後半の「唯、七転識と及び彼の心・心所といい」より「略して一切種の相を説く」までを述べていきます。
 「そうしますと、どういうものが熏習することができるのかということになります。ただ七転識と七転識の心・心所です。七転識の心王・心所有法ですね。眼・鼻・耳・舌・身・意と第七末那識(我執の心)という、私たちの具体的な心の働きです。第八識を除いて七転識、而も仏ではないもの。「仏果の円満の善法は増もなく減も無きが故に能熏に非ず」と説かれていました。勝れた勢用(セイユウ)があって、そして増減するもののみ、そういうものが七転識であって、これが能熏である。このような(能熏の)四義を具えているもの。以上が能熏の四義である。
 次は、種子と熏習する意義を釈す。このように能熏(七転識)の四義を具え、所熏(第八識)の四義を具えていることにおいて、この二つの識が倶に(いっしょに)生じ、倶に滅する。他身と刹那前後では駄目なんです。「倶生・倶滅して熏習の義を成ずる」ものでなければならないのです。所熏の種子を生長(ショウチョウ)せしめるということは、恰も苣勝(コショウ)に熏ずるようなものである。胡麻の油に花の香りを染み込ませる。その油をクリームとして体に塗るわけです。古代インドの人は肌ケア―として、そういうものを作っていたんでしょう。胡麻の油に花の香りを染み込ませるようなものを熏習というんだと。香りが胡麻の油に熏習するわけですね。それと同じように、七転識が起ると第八識の中に熏習が生起する。同一刹那に種子と現行を生ずる。種子生現行です。時間的なずれがない、「今」の一刹那に種子から現行している。今の時をおいてないわけです。熏習する時も現行が生じている。その時にですね、その時をおいてほかに熏習する時はない。因と果は同時である。これを三法展転因果同時(サンポウチンデンドウジインガ)という。(仏教の時間論)
 喩が二つ出されていました。
 次に部派の倶有因と士用果をもって説明します。倶有因というのは互いに因となるということです。因の方面から倶有因といい、果の方面から士用果(ジユウカ)といっています。部派では六因・四縁・五果を立てますが、その六因の中の倶有因と相応因によってもたらされる果を士用果といっています。
 倶有因、お互いが因となって、倶にあることにおいてお互いが因果になっている。自分の中に蓄積されたものが今の私の生き方に現れている。これが種子が現行している姿です。この方面が種子生現行。表に現れた現行は即座に種子と為って蓄積されますから、これを現行熏種子といいます。種子(本種)・現行・種子(新種)これが三法、三法はお互いに関わりあって因果同時であるということです。因が果となり、果が因となって相続していく、こういう構造です。大乗仏教では、同時因果関係のみが因縁である。四縁(因縁・等無間縁・所縁縁・増上縁)の中の因縁のみが阿頼耶識の中の種子であると唯識はいいます。
 「種子の前後して自類相生することは、同類因を以て等流果を引くと云うが如し」。
 先程までは、種子(因)生現行(果)・現行(因)熏種子(果)。これは同時因果であることを述べていましたが、今度はですね、種子はそれだけではないということを説明します。種子のもう一つの要素は、種子は前後相続して続いていきますから、それによって種子生種子という形で前後相続していくわけです。種子の自類相生です。善の因は善の種として、悪の因は悪の種としてつづいていくわけです。これは永遠につづいていくわけです。これが業ですね。しかし、業は果たせば消える。犯罪を犯したとすれば、罪を償うことにおいて犯した事実は消えないが、償うことに於いて業を果たしたということになるんですね。
 これは今生きているという事実を考えるとよくわかります。今私たちは過去の業を果たしているんですね。ですから現行されたものは無記なんです。その無記の現行に、善悪という新しい業を造っていくんですね。
 過去における善悪業ですが、「今」という時に、過去の業を受けながら、過去の業を果たしつつ生きている。私たちは「今」という時を得ているわけですね。どれほど大切な時を得ているか、考えたことも有りませんから、これを罪というんでしょうね。「謗法罪・五逆罪」という時の罪ですね。この罪が「唯除」だと。唯除を生きている、生きていると云う傲慢さが唯除されるんでしょう。
 種子が前後し、自類相生して永遠に残っていく、それが「同類因を以て等流果を引くと云うが如し」と、部派の言葉を以て喩えていますから「如し」(そのようなものだ)ということになります。
 「此の二は」、種子生現行と現行熏種子の同時因果と、もう一つの種子生種子、この二つのが果において因縁性である。どちらが欠けても種子にはならない。唯識は、種子生現行・現行熏種子・種子生種子だけを因縁といいます。この余の法はすべて因縁ではないのです。部派の説く六因五果は仮に説いているだけである、と。•
 

初能変 第二 所縁行相門 四分義(23) 性境について(2)

2014-12-14 11:19:09 | 初能変 第二 所縁行相門
 第八識所変の境は執受(有根身と種子)と処であると教えられていました。執受は衆生世間、処は器世間です。種子は有漏であり、心法に属し、有根身と器世間は色法である。器世間と有根身は五根五境。五境によって成り立っている世界が器世間、有根身は五根をもって成り立っている。共に色法ですね。
 性境についていえば、性境は、実の種子から生じたもので、実の体用をもって、その能縁心の作用は現量であること。そして、境の自相を得る、対象それ自らのありのままの相をもっていることである。でしうから、処とは何であるかと云いますと、五境で成り立った世界、即ち色・声・香・味・触の五つで、この五つは欲望の対象となって心を汚すところから塵に喩えて五塵(ゴジン)といわれています。五識の対象です。そしてですね、これらは因縁変であるということです。
 「第八所変の五塵の境は、実種より生ずるを以て復、因縁変なる如きを名づけて性境と為す。」(『了義燈』)
 第八所変という転変には、一つに因縁変、二つには分別変があり、因縁変は、「因縁の勢力に随うが故に変ず」と云われ、「分別の勢力に随うが故に変ず」るのを分別変といわれているのです。因縁変には実の体用がある。例えば火傷です。火にふれれば火傷をしますが、考えてだけでは火傷はしません。他人の火傷には「熱かったでしょう」という思いはあるでしょうが、私には熱いということはないわけです。実用があるということは、火傷をするということなのですね。分別では火傷はしません。考えられたものだからです。
 第八識は因縁変、前五も因縁変、五根五境によって成り立つ識が前五識で、それを転変したのが第八識である。第七識・第六識も第八識の転変した識ですが、有分別の識であり、第六は第七末那識と関係する識ですから、考えられた識ということになりますから分別変です。第八・前五は無分別であるり、これは因縁によって変化するもの、因縁変である、と。
 阿頼耶識が現行する時は、種子生現行。能縁の用きのある転識は阿頼耶識の種子から生ずるものであって、その他のものから生ずるということはないのです。
 相分である器世間も阿頼耶識所変の境でありますから本質があるわけです。本質があるということが、実の体用が有るということなのです。

 「性境は心に随わず」とは、『了義燈』に「四の不随あり」と釈され、(1)性不随心、(2)繋不随心、(3)種不随心、(4)異熟不随心の四つが挙げられています。
 「一つには能縁に随って善染の性を同じくせず。二には能縁に従って一界繋を同じくせず。三に能縁に随って同一種より生ずるにあらず。四には能縁に随って是れ異熟等にあらず。」
 (1)性不随心
 「識体転じて能縁の見分と所縁の相分に似て現ずる」のですが、性不随心とは、すべて性境は能縁の見分から独立して、それぞれの実の種子を第八識の中に能蔵し、能縁の見分と共同時に現行して所縁の相分となるものである。
 「設え能縁の心と同界・同性なること有りとも、是れ境の自性なり。能縁の心の力に由って是れ此の性・界・地等にあらざるを、性不随心と名づく。且く五識は三性に通ずれども、相と質とは倶に無記にして、五に従って亦、三性に通ぜざるが如し。」
不随心というのは、このように能縁心に随従しないことをいう。すべて性境は能縁の見分に独立して、それぞれの実の種子を第八識中に蔵し、能縁の見分と共に同時に現行して所縁の相分となるものである。 (つづく)