『唯信鈔文意』に聞く (5)
― 余のことならわず ―
「それで 「唯信」 の言葉の説明が終わりまして、
「『鈔』はすぐれたることをぬきいだし、あつむることばなり」
つまり、すぐれたことをいうとすれば、どうしても、すぐれぬこともいわんと、すぐれたことはいえないわけですね。そういうわけで、経・論・釈の中にはいろいろと述べられてある。従って長くなるわけです。お経などは非常に長いものであります。論などは短くなりますけれども、解釈になると非常に長くなります。そういう中から、そのうちで特にすぐれたことを抜き出して、そして集めることを「鈔」というのであると。こういうわけで、
「このゆえに 『唯信鈔』 というなり」
こういうわけで 『唯信鈔』と名づけられたのあると。 『唯信鈔』というのは、浄土の経・論・釈の中から、すぐれたことを抜き出して集められたものであると。いろいろの意味がそこにあります。
「また 『唯信』 はこれ、他力の信心のほかに余のことならわずとなり」
これは他力の信心一つということですね。 「唯信」 というのは他力の信心一つのほかに、そのほかのことはならわない。他力の信心一つをならうのだということです。
「すなわち本弘誓願なるがゆえなればなり」
他力の信心一つということは 「本弘誓願」 ですね。弥陀如来の本弘誓願であるから他力の信心一つ。他力の信心をのぞいたならば如来の本願、如来の誓願というものはなくなることになるわけでしょうね。あってもあるといえない。他力の信心ということなくしても、本弘誓願のことはいくらでもいえるわけですけれども、それはもう如来の本弘誓願ではなくして、人のこころが思いうかべたものにすぎないわけです。本弘誓願があるということは、 「他力の信心のほかに余のことならわず」ということが、実際に真実にあうということでなくてはならぬという。他力信心をならうということがなくして如来の本願は存在しない。何故かと。他力の信心は本弘誓願というもののほかにないのだから。 「本弘誓願なるがゆえに」 と。 「ゆえ」 とありますね。 「ゆえ」 と申しますのは 「もと」 ということでありましょうね。 「ゆえ」 と。 他力の信心といっても本弘誓願からしか出ないのだという。本弘誓願から出るほかにないゆえに、という意味ですね。本弘誓願あって、他力の信心というのは存在する。しかし、他力の信心なくして本弘誓願というものは、またありえない。こういう意味が述べられているわけであります。
蓬茨祖運述 『唯信鈔文意』講義 第一講 完了 次回配信から第二講にはいります。
― 聖典の試訳(現代語化) ―
(親鸞仏教センター通信より、抜粋)
「本願他力をたのみて自力をはなれたる」
「阿弥陀如来の本願のはたらきをこの身にいただいて、有限な自分であるにもかかわらず、その努力で何でもなし得ると思うこころを離れたあり方」
(試訳をめぐって) 「本願他力をたのみて自力をはなれたる」。この現代語化を検討するなかで、 「世界は自分の範囲内だ、という自意識がひっくりかえる」 ということが語り合われた。自分の力をどこまでも有効だと執着するこころ、それを自力と言う。大きな因縁のはたらきの中にあることを見失い、自己責任という言葉が堂々とまかり通る 「現代」。 それは、自力全盛の時代なのかもしれない。
「(本願他力を) たのむ」 という一語こそ、 “唯信” の内実である。それをいかに現代語訳へと盛り込んでいくか。単に依存するのでもなく、 一心不乱に努力するのでもない、 “いま” というニュアンス、 “自覚” という意味も込めて、 「阿弥陀如来の本願のはたらきをこの身にいただいて」 と試訳をつけた。
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「他力」というテーマはいはば永遠のテーマであるのでしょうね。特に現代では俗世間の善くない言葉としてまかり通っています。もともと他力と云う言葉は、曇鸞和尚が『浄土論』を注釈される時、何度も何度も講義された、と聞いております。その折、龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』・易行品に出ている「易行道」とはどういうことであるのか、という疑問をだかれて、「難行道」の難というのは、「自力」であると。自力・他力は、これは当時の世間語ですね。その世間語を充当されたのですね。「自力にして他力の持つことなし」と。他力の内実を「信佛の因縁を以て浄土に生ずと願ず」と明らかされたのです。「信佛因縁願生浄土」です。私が生きているという事は、はかりしれない、大きな因縁の中に命が保たれている、という事実を押さえて “他力” といいあらわされたのだと思います。(誓換)