唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

『唯信鈔文意に聞く』 (5) 鈔の意味

2010-10-31 18:02:52 | 唯信抄文意に聞く

         『唯信鈔文意』に聞く  (5)

        ―  余のことならわず  ―

 「それで 「唯信」 の言葉の説明が終わりまして、

   「『鈔』はすぐれたることをぬきいだし、あつむることばなり」

 つまり、すぐれたことをいうとすれば、どうしても、すぐれぬこともいわんと、すぐれたことはいえないわけですね。そういうわけで、経・論・釈の中にはいろいろと述べられてある。従って長くなるわけです。お経などは非常に長いものであります。論などは短くなりますけれども、解釈になると非常に長くなります。そういう中から、そのうちで特にすぐれたことを抜き出して、そして集めることを「鈔」というのであると。こういうわけで、

  「このゆえに 『唯信鈔』 というなり」

 こういうわけで 『唯信鈔』と名づけられたのあると。 『唯信鈔』というのは、浄土の経・論・釈の中から、すぐれたことを抜き出して集められたものであると。いろいろの意味がそこにあります。

  「また 『唯信』 はこれ、他力の信心のほかに余のことならわずとなり」

 これは他力の信心一つということですね。 「唯信」 というのは他力の信心一つのほかに、そのほかのことはならわない。他力の信心一つをならうのだということです。

  「すなわち本弘誓願なるがゆえなればなり」

 他力の信心一つということは 「本弘誓願」 ですね。弥陀如来の本弘誓願であるから他力の信心一つ。他力の信心をのぞいたならば如来の本願、如来の誓願というものはなくなることになるわけでしょうね。あってもあるといえない。他力の信心ということなくしても、本弘誓願のことはいくらでもいえるわけですけれども、それはもう如来の本弘誓願ではなくして、人のこころが思いうかべたものにすぎないわけです。本弘誓願があるということは、 「他力の信心のほかに余のことならわず」ということが、実際に真実にあうということでなくてはならぬという。他力信心をならうということがなくして如来の本願は存在しない。何故かと。他力の信心は本弘誓願というもののほかにないのだから。 「本弘誓願なるがゆえに」 と。 「ゆえ」 とありますね。 「ゆえ」 と申しますのは 「もと」 ということでありましょうね。 「ゆえ」 と。 他力の信心といっても本弘誓願からしか出ないのだという。本弘誓願から出るほかにないゆえに、という意味ですね。本弘誓願あって、他力の信心というのは存在する。しかし、他力の信心なくして本弘誓願というものは、またありえない。こういう意味が述べられているわけであります。

   蓬茨祖運述 『唯信鈔文意』講義 第一講 完了 次回配信から第二講にはいります。

     ―   聖典の試訳(現代語化)  ―

           (親鸞仏教センター通信より、抜粋)

 「本願他力をたのみて自力をはなれたる」

  「阿弥陀如来の本願のはたらきをこの身にいただいて、有限な自分であるにもかかわらず、その努力で何でもなし得ると思うこころを離れたあり方」

 (試訳をめぐって) 「本願他力をたのみて自力をはなれたる」。この現代語化を検討するなかで、 「世界は自分の範囲内だ、という自意識がひっくりかえる」 ということが語り合われた。自分の力をどこまでも有効だと執着するこころ、それを自力と言う。大きな因縁のはたらきの中にあることを見失い、自己責任という言葉が堂々とまかり通る 「現代」。 それは、自力全盛の時代なのかもしれない。

 「(本願他力を) たのむ」 という一語こそ、 “唯信” の内実である。それをいかに現代語訳へと盛り込んでいくか。単に依存するのでもなく、 一心不乱に努力するのでもない、 “いま” というニュアンス、 “自覚” という意味も込めて、 「阿弥陀如来の本願のはたらきをこの身にいただいて」 と試訳をつけた。

              ―  ・  ―

 「他力」というテーマはいはば永遠のテーマであるのでしょうね。特に現代では俗世間の善くない言葉としてまかり通っています。もともと他力と云う言葉は、曇鸞和尚が『浄土論』を注釈される時、何度も何度も講義された、と聞いております。その折、龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』・易行品に出ている「易行道」とはどういうことであるのか、という疑問をだかれて、「難行道」の難というのは、「自力」であると。自力・他力は、これは当時の世間語ですね。その世間語を充当されたのですね。「自力にして他力の持つことなし」と。他力の内実を「信佛の因縁を以て浄土に生ずと願ず」と明らかされたのです。「信佛因縁願生浄土」です。私が生きているという事は、はかりしれない、大きな因縁の中に命が保たれている、という事実を押さえて “他力” といいあらわされたのだと思います。(誓換)


第三能変 第八倶転門 随縁現 (6)

2010-10-30 20:36:55 | 心の構造について

Capsvnx4 御堂筋・梅田から見た大阪駅付近の風景。コンクリートの壁に挟まれて息苦しくも感じられるのですが、時代の流れとともに高層化が進み、人間そのものの生き方に、「本当にこれでいいのか」という思いを抱きます。

        ―  第三能変 第八倶不倶転門  ―

                随縁現 (6)

 「此れ等の法と喩とを広く説くことは経の如し」(『論第七・九左) 

 (意訳) 以上述べてきた法と喩は経(『解深密経』等)に広く説くところである。

 「述曰。解深密等に言うが如し。彼の経にはただ五識あり。この論もまた已に彼に例同し訖る。ただ喩の中に彼にさらに一あることあり。謂く善浄の鏡面の如し。一の影の生ずる縁が現前することあれば、ただ一の影が起る。乃至、多の影もまた然なりと知るべしといえり。

 故に此に(論)に等というは、かの鏡の喩えを等ずるなり。いま此れに、この法喩等というべし。法の中に等ずるものなきが故に。これは通じて説く。総じて等の言をいたす。前の七識はみな濤波に似るなり。独り五を説くことは、五と倶にして定めて第六七あって恒に生ずるが故に」(『述記』第七本・五十左)

 昨日のブログで『解深密経』の鏡面の喩えを引用しましたが、ここでは、その・・・の部分の記述がされています。・・・の部分を書き込みます。

 「唯一影のみ起こる、若しは二若しは多くの影の生ずる縁現前すれば、多くの影起こること有り、此の鏡面転変して影と為るに非ず、亦受用滅尽すること得べき無きがごとし」

 (意訳) アーラヤ識は激流の水が流れやまぬように、永遠に絶ゆることはない。その流れの上に私たちは分別の意識を起して、眼識とその対境との浪を起すところに、歴然たる現象世界を認識している。他の耳・鼻・舌・身の四感も同様である。それはまた鏡の面に影が映って、鏡面が影そのものの如くになるようなものである。それは鏡面が転変して影となるのではない。

  •  鏡面 ー 「鏡」は「鏡に依って像、現ずることあり」といわれますように、心の認識作用に喩えられます。

 「五識を以て濤波に喩う」と。五識は第六意識と第七末那識があって恒に生起するものであるり、これ等の識は本識を所依とするということで、暴水に喩えられているのです。第七識がキーポイントになります。第六意識が如何に善・浄に働いているとしても、その第六意識を根底から支えている、深奥の底によどみなく働き続けている我に対する執着が問題にされてきたのです。その識が第七末那識です。間断がないのです。恒審思量、自我を思量する、これが性であり、相でもあるといいます。意識の上で「悪いことをした」と反省をしたり、「一日一善」、善行を行いましょうといっても、その底に流れている自我執着性は意識の上に上ってこないのです。これが凡夫と言われる現実性なのでしょう。凡夫であってもですね、仏法を聞いて世のため・人のために尽力をしますでしょうが、「恒に審らかに所執の我相を思量す」るのです。そしてこの第七識は第八識を所縁とすることなのです。ここは倶有依と関係するところですが、『論』では四師(難陀・安慧・浄月・護法)の説を挙げて護法の正義を明らかにしています。五識は五色根・第六意識・第七末那識・第八阿頼耶識を倶有依として生起しているのです。第六意識は第七末那識・第八阿頼耶識を倶有依とし、第七識は第八阿頼耶識を倶有依として、第八識は第七末那識を倶有依とする相互の関係になります。

 前五識の倶有依として五色根を捉えて、その五識が、第六識・第七識・第八識と相互に関係をもって、私の身体が成り立っているという唯識の人間観は人間が生きて行く上で非常に示唆に富んだ指摘であると思います。

 親鸞聖人は唯識に関しては一言も述べてはおられませんが、聖人の「機の深信」は因縁所生の法を鋭くえぐり出されていたのではなかったでしょうか。闇は光に出会うと一瞬の中に消え去るのです。だんだんと晴れるのではないですね。一瞬です。聞法を重ねてだんだんと解るというものではありません。解る時は一瞬です。だんだんと解ると思っている間は闇です。我執という鉄棒にしがみついているのですね。

 「自下は第三に起滅の分位を解す。中において二あり、初めに意は常に現起することを解す。後に除生無想天等を解す。初のうちに二の復次の解あり。将に第六の常現起を明かさんとするが故に、却って結んで、五識は縁に由るが故に生じ、生ぜざることを解するなり」(『述記』第七本・五十一右)

 (意訳) これから下は第九起滅門になり、第三の起滅の分位を説き明かします。初めに「意常現起」を釈し、後に五位無心を釈します。この初めの中に二の釈があり、第一には、「常現起の言」を釈し、第二に五識は縁に由って現起すること、或いは現起しないことを釈します。


第三能変 第八倶不倶門 如濤波依水 (2)

2010-10-29 22:56:16 | 心の構造について

       第三能変 第八倶不倶門 随縁現 (5)

        ― 濤波の水に依るが如し (2) ―

 「彼の解深密等に説く」と述べられてあります『解深密経』の記述は巻第一・心意識相品第三に説かれます。

 「広慧、阿陀那識を依止と為し、建立と為すが故に、六識身転ず。謂く、眼・耳・鼻・舌・身識と意識となり。此の中識あり、眼及び色を縁と為して眼識を生ず、眼識と倶に随行し、同時同境に分別の意識ありて転ず。識有り、耳鼻舌身及び声香味触を縁と為して耳鼻舌身の識を生ず、耳鼻舌身の識と随行して、同時同境に分別の意識ありて転ず。

 広慧、若しその時に於て一の眼識転ずれば、即ち此の時に於て唯一の分別意識のみありて眼識と所行を同うして転ず。若しその時に於て、二三四五の諸識身転ずれば、即ち此の時に於て唯一の分別意識のみ有りて、五識身と所行を同うして転ず。

 広慧、譬へば大瀑水の流れの、若しは一浪の生ずる縁現前すること有れば、唯一浪のみ転じ、若しは二若しは多浪の生ずる縁現前すれば、多浪転ずること有り。然も此の瀑水の自類は恒に流れて、断ずることなく、盡くること無きが如く、又善浄の鏡面の、若し一影の生ずる縁現前すること有れば、唯一影のみ起こる、・・・是の如く広慧、瀑水に似たる阿陀那識を依止と為し、建立と為すに由るが故に、・・・」

     ― 一切の種子は瀑流の如し ―

 『三十頌』 第四頌に 「恒に転ずること暴流の如し」と。 根本識に依止するということは、念念生滅の種子を縁とするということです。これが水に譬えられ、表層の意識の上に現れていることを濤波に譬えられているのです。縁に依って五識の多少が現起するのです。阿頼耶識は河の激しい流れのように常に変化して相続するもので、阿頼耶識の中の種子は生じた刹那に滅し、また次の刹那に新たな種子を生じるのですね。種子生種子といわれています。「一切種子は瀑流の如し」です。


第三能変 第八倶転門 如濤波依水

2010-10-28 23:27:30 | 心の構造について

       第三能変 第八倶転門 随縁現 (4)

          ―  如濤波依水   ー

 『頌』に「濤波の水に依るが如し」と。濤波(とうは)、大波・波のうねりのことを指します。以前、仕事で能登半島・羽咋市に行きました。海岸線を車で走れる千里浜(ちりはま)ロングビーチが日本海に面して広がっていました。波打ち際を8kmもドライブできるのですね。波の高い時には進入規制が行われるそうですが、12月のことでもあり、能登有料道路のドライブインから眺める日本海の荒々しい波しぶきは「濤波の水に依るが如し」を物語るものでした。親鸞聖人は海に託して仏法を語られますが、聖人が流罪に遇われた新潟県居多ケ浜での日々が、海と共に生活をされる人々の中に「生きることの意味」をくみとっておられたのではないでしょうか。海辺に立って荒れくるう日本海の中に自身の心の動きを見ておいでになったのでしょうね。「五識は第八識に依るが如し」

 「水の濤波、縁に随いて多少なるが如し」(『論』第七・九左)

 水が波うねる時には、縁に随って波立つように、外の縁の力に依って私の心が変化し、働くのです。起こるのは縁に依るわけです。ですから波がいつも起こっているわけではないし、またその縁は一つでもないのです。

 「述曰。彼の解深密等に説く。広慧は大暴流水に、若し一浪の生ずる縁が現前することあれば、ただ一浪が転ず。乃至、若し多浪の生ずる縁が現前すれば、多浪が転ずることあるが如く、諸識もまた爾なり。暴流の如き阿陀那の故に、乃至、諸識は転ずることを得等といえり。これは五識を以て濤波に喩う。本識を暴水に喩う」(『述記』第七本・五十右)


第三能変 第八倶転門  随縁現 (3)

2010-10-27 23:00:47 | 心の構造について

S200912021250_migoro 随分冷え込んできました。今年の紅葉は11月下旬頃が見頃だそうです。湖東三山の紅葉にはうっとりさせられますが、ライトアップされた紅葉は幻想的な雰囲気をもって私たちを出迎えてくれます。一献傾けながら人生を語り合うのも晩秋ならではですね。妄想ですが息子とともに一献傾け合う日を夢みています。

           ―     ・     ―

           第三能変 第八倶転門  

           ―  随縁現  (3)  ―

 「縁と云うは謂く作意と根と境との等きの縁ぞ」(『論』第七・九左)

 (意訳) 諸識が生起する縁とは作意と根と境とそれぞれの識生起の等きの縁に依るのである。眼識は九縁・耳識は八縁等という衆縁所生という。 10月25日の項参照してください。

 その理由を述べる。

 「謂く五識身は内には根本識に依り、外には作意と五根と境との等きの衆縁の和合するに随いて方に現前することを得。此れに由って或る時には倶なり或る時には倶起ならず。外縁の合することは頓・漸有るが故に」(『論』第七・九左)

 (意訳) 五識身は内には阿陀那識に依り、外には作意(能令心驚覚といわれ、遍行の一種・深層の阿頼耶識のなかに種子として眠っている心を驚かし喚起して目覚めさせ、目覚めた心を対象に向かわしめる心作用である)と五根と境との等きの衆縁の和合するに随って識は現前する。いろいろな条件が重なって動くときも有るが、動かない時も有る。五識は縁の具不具に由って現前することは多少有るのである。

 「述曰。五識は内には本識に託すと云う、即ち種子なり。外には衆縁に籍るに由る。方に現前することを得と云う。種子は恒なりと雖も、外縁の合するに頓漸あるを以て、五を起し、或いは四・三・二・一の識は生ずるが故に。或いは五より一に至って生ずること不定なり。故に或いは倶、或いは不倶なり。

 七十六の解深密に説く。広慧、阿陀那を依止と為す。建立と為すが故に。若し、その時に一の眼識の生ずる縁、現前することあれば、即ち此の時に於いて、一の眼識は転ず。乃至、五の縁が頓に現前すれば、即ちその時に於いて、五識身は転ず等と説けるが故に。五識は縁の具と不具とに由るが故に、生ずること多少あり。或いは倶なり、倶ならざることもあり」(『述記』第七本・四十九左)

 『論』に「内・外」と言われていますが、どのような意味があるのか、ということは、『演秘』に答えられています。

 「答。二釈あり。一に云く。十二処に約すして、本識は意処の所摂なるが故に、内と為す。作意は法処なり、故に外と名くるなり。 二は唯、第八識の若しは種、若しは現は生ずる根本なるが故に、独り名けて内と為す。所余の諸縁は根本に非ざるが故に皆、名けて外と為す。論は後に依って説く」(『演秘』第六末・二左)

 内には阿頼耶識を種子とし、外には縁をまって生ずる、ということですね。縁は多いのです。前にも説明していますが、眼識は九縁の和合によって現前します。私が今ここに存在しているという事は衆縁が和合して「今、ここに」というご縁をいただいて存在しているのです。私の意思だけでは動かないのですね。条件が変われば、どのようにでも変わるということです。私たちは外の出来事について批判を繰り返しますが、縁をいただいていないだけのことで、縁が整えば人を千人殺すことも可能なのです。ただ人がよくて殺すという行為に及ばないということではないのです。よく考えてみる必要があります。


第三能変 第八倶転門  随縁現 (2)

2010-10-26 23:09:56 | 心の構造について

          第三能変 第八倶転門 

           ―  随縁現 (2)  ―

 「五識は縁に随って現ず」のところを読んでいます。心の動くのは随縁現である、縁に随って動くということです。「衆縁(しゅえん)の和合するに随って方に現前することを得」ということです。衆縁は、さまざまな縁という、補助原因をいいます。また、「縁によって生ずる」、生縁(しょうえん)ともいわれます。ものごとが生ずる因の総称です。「心心所法の起ること四の縁に籍る」といわれます。四縁とは、因縁・増上縁・等無間縁・所縁縁で、諸識が生起するには所依と生縁が不可欠なのです。所依は因縁依(種子依)・増上縁依(倶有依)・等無間縁依(開導依)の三種の依と説かれます。その理由は、「依」は広く四縁に通ずるけれども、「所依」と云う場合には、四義を具さなければならないといわれています。

  • (1) 決定の義ー或る時は依られ、或る時は依られない  という不定のものは所依とはいえない。
  • (2) 有境の義ー認識される対象をもっていること。
  • (3) 為主の義ーよく主となるものでないといけない。
  • (4) 心心所をして自ら所縁を認識するものでないといけない。

の四つです。

 前六識は第八根本識の中の各自の種子を因縁依とし、現行の第八識を増上縁(倶有依)と為すのです。

 前五識の倶有依  (A)不共依ー同境依ー五根を云う。五識と同じく現前の境を認識するから同境と名づく。 

       (B)分別依ー第六識をいう。「五識は意を以て依      と為す。意散乱する時、五生ぜず」(『摂論』)

  共依{ (C)染浄依ー第七末那識をいう。五識が有漏となるのは末那識が染汚であり、五識が無漏となるのは末那識が浄であるからであり、出世の末那といわれます。

       (D)根本依ー第八識をいう。五識はこの根本識に依って生起するからである。

(B)・(C)・(D)は共依と名づける。五識は皆、共に所依と為すからである。

 第六識の倶有依  (A)不共依ー第七識をもって第六識の倶有依と為す。相順(そうじゅん=互いに一致していること。因と果の関係)と計度(けたく=分別すること。三世にわたる事柄を思考すること。第六識と第七識が計度分別を為し、前五識と第八識には計度分別は無い)の故に。(B)共依ー第八識をもって第六識の共依と為す。

 第七識の倶有依―根本依の第八識のみ

 第八識の倶有依―末那識のみ       }この二つの識は常に間断なく任運にして一類である。(任運は分別に由って起こらないこと。 一類は無始以来変わることなく相続していること。)

 開導依(等無間縁依)ーある心が滅してそこに余地を開くことによって次の刹那の心が導かれて生じるから、一刹那前に滅した心を開導依という。「開導」は「開避引導」の略。前滅意をいう。諸の心心所は皆この依に託し、これを離れては生起しない。即ち、これは何を言い表しているのかといいますと、後念の心心所を引導して障りなく生起させる前滅の心なのですね。意根を指します。ですから開導依なくしては心心所は生起しないのです。

 護法の正義 - 開導依の三義

 「開導依とは、謂く有縁の法たり、主たり、能く等無間縁と作る。これ後に生ずる心・心所法に於て、開避し引導するを開導依と名く」(『論』巻第四・新導本p169)

  • (1) 有縁の義 - 心心所に限定され、色・不相応・無為等を簡ぶ。
  • (2) 為主の義 - 心王に限られ、心心所法を簡ぶ。
  • (3) 等無間縁の義 - 異類と他識と倶時の心心所と及び、後時の心を前心に望むことを簡ぶ。

といわれています。また開導依は必ず等無間縁であるけれども、等無間縁は必ずしも開導依でないといわれます。

 この項については第二能変の所依門について詳細したいと思っています。   


第三能変 第八倶転門 (1) 随縁現 (1)

2010-10-25 21:36:45 | 心の構造について

Shosoin_top第六十二回 正倉院展 2010が10月23日より11月11日まで奈良国立博物館で開催されていますね。詳細は朝日新聞や読売新聞に連載されていますが、この正倉院展には、深い思いがあります。中学一年の折りにはじめて正倉院の御物に触れたのですが、古代の叡智とロマンに驚愕の思いを抱きました。それが私には、仏教への道しるべになったのかもしれません。この秋、皆さんも、古代のロマンを訪ねて奈良へ出かけられてはいかがですか。

               ―  ・  ―

      ―  第三能変 第八倶転門 (1)  ―

           ―  随縁現 (1)  ―

 「随縁現と云う言は、常に起こるものに非ずと云うことを顕す」(『論』第七・九左)

 (意訳)五識は縁に随って縁ず、ということは、常に現起するものではないということを顕す。

 「五識は縁に随って方によく現起す。これは常に生ずるもにに非ずということを顕す。縁は恒にあらざる故に。第六意識もまた縁に随って方に現ずと雖も、時に縁は恒に具す。故に言わざるなり。・・・この五識は多く間断するに由るが故に問、何者を縁とするや」(『述記』第七本・四十八左)

 五識は常に起こらない、ということは、縁に随っていろいろなことが起こってくるということですね。縁がなければ起こらないが、縁が起きると様々なことが起こるということになります。いつも働いているというわけではないということです。「何者を縁とするや」と。どんな縁があれば起きるのか、という問が出されます。

 内に種子をもっているけれども、縁がなければ現起しない、種子だけで生ずるのではなく縁をまって生ず、と。

 『歎異抄』第十三条の親鸞聖人のお言葉が心に響きます。「故聖人のおおせには、「卯毛羊毛のさきにいるちりばかりもつくるつみの、宿業にあらずということなしとしるべし」とそうらいき」(真聖p633)と。

 「縁」の問題は次の科段で述べられます。ここは内に阿頼耶識を種子とし、外には縁を待つ。縁を待って生ずる、といわれています。

 「縁と云うは、謂く作意なり。根と境との等きの縁ぞ」(『論』第七・九左)

 「眼識は肉眼に依るは九の縁を具して生ず。謂く空と明と根と境と作意と五は小乗に同なり。若し根本の第八、染浄の第七、分別倶の六、能生の種子を加えるならば、九の依をもって生ず。若し天眼ならば、唯、明、空を除く。

 耳識は八に依る。明を除く、

 鼻舌等の三は七に依る。また空をも除く。至境を方に取るを以ての故に。第六識は五の縁に依って生ず。根は即ち第七なり。境は一切法なり。作意と及び根本の第八なり。能生は即ち種子なり。五の依を以て生ず。

 第七、八は四縁を以て生ず。一に即ち第八、七識なり。倶有依となる。根本依なし。即ち倶有依となすが故に。二に随って取るところを以て所縁と為す。三に作意、四に種子なるが故に、四縁あるなり。

 或いは説く。第八は四に依る。第七は三に依る。即ち所依を以て所縁と為すが故に。これは正義による。

 然るにもし等無間縁をとれば、即ち次の如く、十、九、八、六、五、四の縁を以て生ず。即ち所託の処をみな名づけて縁と為す。故にこの別あり。故に論に等という」(『述記』第七本・四十九右)

 『述記』の説明をまとめますと、次のようになります。

  • 眼識(九) 空・明・根・境・作意・第六・第七・第八・種子
  • 耳識(八) 空・〇・根・境・作意・第六・第七・第八・種子
  • 鼻識(七) 〇・〇・根・境・作意・第六・第七・第八・種子
  • 舌識(七) 〇・〇・根・境・作意・第六・第七・第八・種子
  • 身識(七) 〇・〇・根・境・作意・第六・第七・第八・種子
  • 意識(五) 〇・〇・根・境・作意・ 〇・ 〇・ 第八・種子
  • 末那識(三)〇・〇・根・〇・作意・ 〇・ 〇・ 〇 ・種子
  • 阿頼耶識(四)〇・〇・根・境・作意・〇・ 〇・ 〇・種子

       深浦正文『唯識学研究』下・p336より引用

 前五識は縁がなければ起きない。縁あれば起こり、縁なければ起こらないということですね。条件が整わないと働かないのです。例えば眼識ですと、九つの条件が整わないと眼の働きは作用しないということです。条件が整えば、否応なしにはたらくのです。空とは空間です。明は明るさですし、根・境・識が和合してものを見るという動きが出てきます。そして、作意です、見ようとする心の働きです。それがなのものであるかを判断するのが第六意識です。その第六意識は深層の第七末那識を所依としていますし、第七末那識は第八阿頼耶識を所依・所縁としてわたしの意識構造が成り立っているのですね。  


唯信鈔文意に聞く (4) 虚仮はなれたるこころ

2010-10-24 18:50:43 | 唯信抄文意に聞く

    『唯信鈔文意』に聞く (4) 

        ―  虚仮はなれたるこころ  ―

 「それから今度は、それだけでは意味がはっきり出ないわけでありますね。その一人の内容となるべきもの、一つということの立場、絶対という意味がどこで成り立つか。一人というものの内容が空虚でないためには、その一人はどこで成り立つかという意味で 「信」ですね。

   「『信』は、うたがうこころなきなり」

 「うたがうこころなきなり」ということがどこから出てくるかと申しますと、「ふたつならぶことをきらうことばなり」からです。疑うということがなくなる。「疑う」とは二つあっての疑いですから、一つの場合は成り立たない。一つという場合には疑いというのは成り立つことが出来ないわけですね。ですから二つあって疑いは成り立つ。自己と自己に対するものとあって疑いが成り立つわけですね。その疑うこころがないという意味において、一つであり、一人である。そういうこころですね。そういうこころは、

   「すなわちこれ真実の信心なり」

と。ここに「これ」と。「これ」といわれてありますのは、いま文字の解釈ですから、そういう文章の意味に考えられるわけでありますが、「すなわちこれ真実の信心なり」といわれた場合に、「これ」という時には、何かそこに具体的にものがあるわけですね。「すなわちこれ」と「真実の信心なり」。「唯信」というのはすなわち「これ真実の信心なり」と、こういわれるのであります。

 真実の信心ということは、門弟の人達と親鸞との間にはかねてより共通になっている言葉でありますから、「唯信」というのも「真実の信心」のことをいわれているのだということですね。別なことではないのだということです。

 「真実の信心」というのは何かと。いうまでもなく、「真実の信心は必ず名号を具す」とありましてですね。「これ」という時には名号、仏の名号というものが「これ」といわれるのであります。「これ真実の信心なり」といわれた時には名号である。従って、ここにものがらから申しますと、名号のほかに、ふたつならぶことをきらうということがいえるでしょうし、それから一人という時には、その念仏をする人ですね。「親鸞におきては、ただ念仏して」という、あるいは「親鸞一人」といわれた「一人」ですね。つまり他の人はかえりみずという意味です。そういう意味で、真実の信心ということが平常語られているわけでありますから、すなわち「これ真実の信心なり」と結ばれておるわけです。

   「虚仮はなれたるこころなり」

 「虚仮」というのは、真実に対しての虚仮です。「真実の信心なり」という「真実」という言葉から「虚仮はなれたるこころなり」と。虚仮というのは何かといえば、ふたつならぶことであり、ふたつならべるこころなのでしょう。それを虚仮、と。その虚仮を離れたこころ、だからふたつならぶこともない。二人が並ぶということもないわけですね。一人で充分という意味になるわけです。

   「『虚』は、むなしという。『仮』は、かりなりという」

 「虚は、むなし」。先程申しましたように、むなしい。他の人と並べての一人はむなしいですね。多くの中の一人というのはむなしい、それから「仮は、かりなり」という、一人というその一人、一つというその一つは、二つ、三つと数えられるうちの一つのことですね。ですからそういう場合、相対的にいえば、一というのは二に対する一と。これは仮なのですね。その場合は仮という意味が、出てきます。絶対という意味では、一ということもいえないわけです。ですから一という時には、二、三、四に対する一ですから、仮という意味があるわけですね。二に対する一は仮んおです。二に対しない一、これが「実」なのですね。二に対しない一というのは、もはやそこに二、三、四、五というものはない。どこへいったのか。どこへもいきはしないまま、仮であった、と。二、三、四も仮であったということです。仮に立ててあったのだという時には実の中に皆おさまって、実と一つになってしまうわけですね。

   「『虚』は、実ならぬをいう。『仮』は、真ならぬをいうなり」

 真実という言葉を、今度は虚仮に当てはめまして、虚とはまことならぬをいう。実という意味は、実際にあるように思っているけれども、実際にないということですね。虚というのは、ないものをあるように思うのですが、あるように思う時には、実際にあると思うわけですね。実際にあると思うている。その実というのは、一、二、三という相対的なものが絶対的にあるものだと誤って見る、そのことを虚というのであります。相対的にあるものが、絶対的なものだと考える。それは実ではないのですね。一、二、三、四とあるではないかと。ある、、仮にあるのだ。仮のものを実際のものと間違えるのですね。実のものと間違える。実際にあるものという意味においては、それはむなしい、そういう意味ですね。

 その場合、我々は、一、二、三、四と実際にあると思っていますから、そこでないものに迷い苦しんでゆくわけです。金がなくなったといって苦しむ。どれだけなくなったのかと。一円なくなったのでは苦しまないのですね。一円なくなったのでは苦しみませんけれども、一万円入れておいたのがなくなったというと、さわぎますね。「ないと困るのだ」といっている。しかし、一万円札は何のためにあったのか。困るためにあったのかというと、そうではないのですね。それがつまり困るためにあることになってしまうのですね。一万円札があるから困らないと思っていたところが、なくなったら困るのだと。困ったといって大騒ぎを始めるということは困るためにあったことになるでしょう。もとからなかったのなら困らないのであったと。普通の人にいってごらんなさい。普通の人にいってみますと、「話にならん」といいますわ。もともと話にならない話をしようとしているのです、人間はですね。話にならぬといっても、話にならない話ばかりやっているのですから、今さらあわててさわいでも仕方ないことを大騒ぎするのですね。「さわがずにおれるか」というのです。それなら困るために持っていたのか。そうではないのだ、なくなって困るのだ、と。あって困らないものは、なくなって困るのは当たり前で、初めから分かっていることなのですね。なくなったら困ることぐらいは分かっていることなのです。持った時から分かっていることなのです。仮にあるものですからね。仮にあって実にあるものでないからこそ使えるのです。実際にあるものならば使えませんよ。財布の中にはりついたきりで、引っ張っても取れません。実際あるものならね。人に渡ってゆくのは仮にあるからです。仮のものですね。それは仮です。相対の存在です。相対的な存在であるということは仮ということですね。これは一面だけしか真実と見ないということですね。

  「虚は、実ならぬをいう。仮は、真ならぬをいうなり」と。これは真と実と違うように思いますけれども、そうではないのでありまして、互いに違いに表わしているだけで、「虚は、真実ならぬをいう。仮は、真実ならぬをいう」といってよいのです。結局「虚仮は真実ならぬをいう」ということを互いに違いに字を分けて、互いに違いに表わされるのであります。これも虚仮なのです。うっかりすると、こういうことに引っかかりますね。虚は実ならぬをいう、仮は真ならぬをいう、と。仮は真ならぬことなのだと、虚は実ならぬことをいうことなのだといっててですね、虚仮に引っかかるのです。同じことなのです、虚仮も真実もですね。こういうふうに示されて、いずれにでも用いられることをあらわされるのであります。

 相対的な存在であるものを絶対的なものと、我々は思い誤っておるわけですね。思い誤っている立場というものが相対的に一、二、三、四とか、いろいろなものを並べているからでありましょうね。それから、自分というものをいろいろな多くの人間のうちの一人だということよりほかに考えたことがないということもあるのですね。そういう意味があるわけですから、相対的な一面というものを否定するのではないのです。相対的な一面はあるけれども、しかしどこまでも相対的なものだから、それを固執すれば虚仮になるわけですね。相対的なものから絶対的なものに如何にして立ち得るかという課題ですね。それをかかげたものが「真実信心」であるということになります。それで次に、

  「本願他力をたのみて自力をすつるをいうなり、これを『唯信』という」

と結ばれているわけです。それでは如何にすれば、相対的なものにとらわれている我々が、その相対的なとらわれから離れて絶対的な立場に立つ、そういうことが出来るかというと、本願他力をたのんで、自力を離れるほかにないのだ、と。「本願他力をたのみて自力をすつるをいうなり、これを『唯信』という」のだと。   (つづく) 来週は『鈔』の説明です。 蓬茨祖運述 『唯信鈔講義』 より 

 


第三能変 第七所依門 (5) 所依の三義

2010-10-23 21:21:53 | 心の構造について

         第三能変 第七所依門 (5)

          - 所依の三義について -

 所依について述べていますが、第二能変においてですね、それまでは漠然としていた「依」の問題が、精密に、丁寧に応えられてあるのです。

 「諸の心・心所をば、皆有所依と云う。然も彼の所依に総じて三種有り」(『論』巻第四・十三右)

 「有所依」とは、『述記』には「能く所依を有するが故に。・・・心・心所法をば、有所依と名づけ等と云へり。・・・然るに彼に所依と言うは、唯倶有依に約して説く。・・・眼識の倶有依と云うは、謂く眼なり。等無間依と云うは、意なり。種子依と云うは、謂く阿頼耶識なりと云う。この中の三の依は、三縁に約して名を作れり」と説かれています。また『瑜伽論』巻第一に「彼の識の所依に三つある。一つには倶有依であり、根である。二つには等無間依であり、意根である。三には種子依である。一切種子を執受する所依であって、異熟に摂められる阿頼耶識である、と説かれています。

 有所依とは「所依を有していること。心が生じる依り所である感覚器官(根)を有していること」なのです。

 所依に三種有り(心が生じる三つの因)、と説かれていますが、(1) 因縁依(種子依)・末那識の依り所 (2)増上縁依(倶有依) (3) 等無間縁依(開導依)といい、自己はどう生きているのか、そしてどう生きなければならないのかと云う問題が、この「依」という問題なのですね。自己と関わりのないところで述べられているのではなく、主体的に自己存在の在り方を問うているのです。我執の問題です。阿頼耶識から末那識が生まれ、その末那識が阿頼耶識を対象として自分を汚していく。これが循環していくわけですね。これが所依の問題です。

 ここにまたですね。根本識に依るということがありますけれども、また五識が五根に依り、意識が意根に依るということもある。倶有依ということです。「依」に根本依として四依がいわれます。(1) 同境依 (2) 分別依 (3) 染浄依 (4) 根本依で、五識のいずれかが生じるための四つの所依である。 第六識は阿頼耶を根本依、末那識を染浄依としているのです。

 上のことについては、初能変・第二能変で詳しく述べたいと思います。

 「根本識を以て共と親との依」にもどります。

          種子識 ー 因縁 ー 親依           

  第八識  { 

               現行識 ー 増上縁 ー 共依

 第八識の種子は自己の種子であって、他の種子を持ってくることはできませんから、共依というわけにはいきませんね。因縁依といわれます。第八識の中の種子が前六識を生んでくるのです。「ものはもの自身からものになる・・・他から演繹されない」と安田先生は教えておられます。「各別の種なるが故に」です。そして前六識は第八識を離れてはない、ということ。眼・耳・鼻・舌・身・意という六つの心は共通して第八識を所依とするわけですから共依といいます。現行の本識が共依ですね。

 次は五識と六識にわけて説明されます。

 「五識とは謂く前の五転識ぞ。種類相似せり。故に総じて之を説く」(『論』第七・九左)

 前の五転識とは、眼等の五根所生の識ということを顕す。五つの心はお互いによく似ているので、「種々相似せり」といわれます。「故に総じて」というのに、五つの説明がされます。(1) 五識は倶に色根に依る。 (2) 倶に色境を縁じる。 (3) 倶にただ、現在を縁じる。 (4) 倶に現量である。 (5) 倶に間断がある。 それぞれ分野は違うけれども構造は相似しているということです。

              ―  ・  ―

 種子依について再考

 「種と現行との互いに因と為る義を顕す。・・・種子と果とは必ず倶なりと。・・・是の如く八識と及び諸の心所とは、定めて各別に種子の所依有り」(『論』巻第四)

 護法の正義は、因と果は時間的な流れがあるという一面と、同時であるという一面の、その二面があるという。種子と現行が同時にお互いに関わり合う、「今」という一瞬の時間の中で同時に捉えられてくるという一面、これを種子生現行といわれています。また、時間的な経過の中で捉えられてくる一面があるのだという見方です。種子生種子といわれるんですね。この二面の見方なのですが、総ては自己の種子から生じるということを教えています。

 

 

 


第三能変 第七所依門 (4) 依止について

2010-10-22 22:51:39 | 心の構造について

       第三能変 第七所依門 (4)

          - 依止について 

 「依止とは、謂く前の六転識なり。根本識を以て共と親との依と為す」(『論』第七・九左)

 「述曰。七転識の中、前の六転識なり。第七を除くなり。第七識は縁ずること恒に礙りなきを以て。又彼の(頌)文に於て、已に依彼転縁故と明せり。故に第七識を除く。

 又解す、第八七識には並びに有漏を断ずる分位を明す。この六転識には、伹だ起滅の分位を明すのみ。有漏を断ずる分位をいわず。第八七識は一切の時に行ず。今の六識にも亦断位あることを顕す。影顕の文なり。下の転依の中に自ら当に解するが故に。

 この六転識は根本識を以て共依と為す。即ち現行の本識なり。識に皆共なるが故に。親依とは即ち種子識なり。各別の種なるが故に。即ちこの一句は二頌に通ずること訖る。

 自下は第二に諸識の倶不倶の相を解す」(『述記』第七本・四十七左)

 影顕(ようけん) - 影略互顕(ようりゃくごけん)の略。ある語句がその表現しようとする意味の一部を省略し、しかも、その影においてその意味を顕すように造られている語句構成の一つの形式。一方で略したことを他方で顕し、他方で略したことを一方で顕して、相互に具・略をもたせて双方を照らし合わせることによって、意味の全部を知らせるように説くこと。例えば、「慈父悲母」という語句をいう。

 「依止」とは、表層の六識(眼・耳・鼻・舌・身・意)は阿陀那識を依り所として働く。そして共通して第八識を依り所とする(増上縁)。親(しん)とは、「親しく」「直接に」「現前に」という意味で、「此の中、何の法を名づけて種子と為すや。謂く本識中の親しく自果を生ずる功能差別なり」(『論』第二・十四)と説かれています。第八識の中の種子が前六識を生んでくるのです(第八識に執持されている種子のこと)。それが現前に現行(種子生現行)してくるのです。種子が直接的な所依(親因縁)となります。直接的な依り所となるので親というのですね。(転識とは、阿頼耶識(潜在的な根本心)から転じて生じた七つの識で、七転識といわれ、転識と阿頼耶識はとは相互に因となるのです。「阿頼耶識と諸の転識とは互いに縁性と為りて転ず」といわれます。また、阿頼耶識を所依となし、転識を能依となす、ともいわれます。)

  「七転識」といわれていますから、第七末那識も転識なのです。転易(てんじゃく)し間断(けんだん)するので、転識と云われます。しかしこの第七識は「間断なしと雖も而も転易すること有るを以て転識と名づくるが故に」といわれます。第八識との関係で「依彼転縁彼」といわれ、阿頼耶識を対象といているのです。第八識(彼)に依って転じて第八識を縁ず」と。「依彼転とは、此の所依を顕す。彼と云うは謂く即ち前の初能変の識なり」と。この第七識は第八識の種子と現行の両方を所依とするのです。この所依に三つ出てきますが、次回に述べたいと思います。