今日は、不信の因と果について考えてみたいと思います。
「若し余の事(じ)の於(うえ)に邪(よこしま)に忍(にん)し楽(ぎょう)し欲(よく)するは、是れ此が因と果となり。此が自性には非ず。」(『論』第六・二十九右)
(もの他の事(染法)に於いて、邪に忍し、邪に楽い、邪に欲するならば、これはこの(不信の)因と果である。これ(不信)の自性ではない。)
不信によるために、善法に対しては「忍せず」・「楽わず」・「欲せず」は不信の自性であることが明らかにされましたが、「他の事」(染法)に対してはどうなのかという問いです。
不信は、善法に対しては「忍せず」等ですが、染法に対しては、邪に忍し、楽い、欲するわけですね。熟語ですと、邪勝解・邪欲になります。
思いだしていただければ、「諸の我執に略して二種有り。一には倶生、二には分別」。我執は何を依り所として起こってくるのか。倶生は「無始の時よりこのかた虚妄熏習(こもうくんじゅう)の内因力」に依り、分別は「現在の外縁の力にも由るが故に。邪教と及び邪分別とを待って、然(しこう)して方に起こる」と説かれていました。
不信で代表されますが、諸煩悩の根っこは我執なんですね。「邪」は二つに分ける。分断する。自己中心の主従の関係を築いてきたわけです。「忍する」は勝解のことですから、自己の信念や主張を貫き通し、引き込めることはないということであると、「勝解は引転(いんてん)すべからざるを業と為す」。
私たちは、無始以来ですね、染法を依り所として輪廻したきたわけです。自分が絶対者なんです。他に絶対者はいないんですよ。どうでしょうか。すべての事柄に対し自分の意思で裁いてはいませんか。僕は、この世の中で、絶対君主であり、君たちは臣下である、と。依り所を転ぜよ、と云われますが、転ずることが出来ない自分に遇うことが大切なことなんではと思いますね。
本題に戻ります。
染法に対して働いていますから、邪に忍し(邪勝解)、邪に楽し、邪に欲し(邪欲)は、不信とは別の自性を持つもので、これは不信の自性ではないということになります。では、別の自性とは何かといいますと、これが本科段のテーマであります、不信の因と果になるわけです。
つまり、不信の対象は、実有・有徳・有能という善法であり、この善法に対して不忍・不楽・不欲するのが不信の自性なんですね。
染法に対して、邪に忍する(邪勝解)が不信の因になり、邪に楽い、邪に欲するが不信の果ということになります。邪勝解という刃を振りかざしますから無茶をいうわけです。
三帰依文をみますと、「至心に三宝に帰依し奉るべし」と拝読していますね。
本願文ですと、「設我得佛、十方衆生、至心信樂、欲生我國、乃至十念。若不生者、不取正覺。」(十八願文)
成就文には、「諸有衆生、聞其名號、信心歡喜、乃至一念。至心回向。願生彼國、即得往生、住不退轉」
親鸞聖人は、願文では「心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて」と読まれ、成就文では「至心に回向せしめたまえり」と、如来回向の願成就として受け止められています。
衆生の立場からですと、忍するということが信の因になり、楽うことと欲することが信の果になるわけですが、衆生の立場からですと、「忍する」ということは出て来ないと宗祖ははっきりさせられたんでしょう。
信の因は如来回向の果、つまり如来還相回向によって衆生の往相回向が成り立つのでしょう。往還二回向が成就文で語られる信楽の自相なんでしょう。そこに果相としての至心が頂けます。果相は異熟ですね。異熟はすべてを受け止めている心、そういう心を至心として頂いているのですね。ですから至心は大切なことを語っているのですね。無分別智なる円成実性なんです。これによって願生浄土という欲生心が生まれてくるのでしょう。
信の自相は、「忍する」ことを因とし、楽うこと、欲することを果とするものと教えらています。
「至心」というときは、「すべてを引き受けた今があるんだ」「自分の人生で何一つ無駄は無かった」という叫びなんでしょう。これは如来の大悲心に触れ得た感動の叫びですね。このことに違逆しているのが私の実相です。不信の自相になります。
善法に対して、忍せず、楽わず、欲しないこと、これが不信の自相なんです。求道心の無い相ですね。
そして、不信の因果は、
染法に対して、忍することを因とし、楽うこと、欲することを果としています。自己中心の生き方になりますね。