唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 随煩悩 大随煩悩  不信(ふしん)その(6) 因と果

2015-11-30 22:09:21 | 第三能変 随煩悩の心所


今日は、不信の因と果について考えてみたいと思います。
 
 「若し余の事(じ)の於(うえ)に邪(よこしま)に忍(にん)し楽(ぎょう)し欲(よく)するは、是れ此が因と果となり。此が自性には非ず。」(『論』第六・二十九右)
  (もの他の事(染法)に於いて、邪に忍し、邪に楽い、邪に欲するならば、これはこの(不信の)因と果である。これ(不信)の自性ではない。)

 不信によるために、善法に対しては「忍せず」・「楽わず」・「欲せず」は不信の自性であることが明らかにされましたが、「他の事」(染法)に対してはどうなのかという問いです。
不信は、善法に対しては「忍せず」等ですが、染法に対しては、邪に忍し、楽い、欲するわけですね。熟語ですと、邪勝解・邪欲になります。
 思いだしていただければ、「諸の我執に略して二種有り。一には倶生、二には分別」。我執は何を依り所として起こってくるのか。倶生は「無始の時よりこのかた虚妄熏習(こもうくんじゅう)の内因力」に依り、分別は「現在の外縁の力にも由るが故に。邪教と及び邪分別とを待って、然(しこう)して方に起こる」と説かれていました。
 不信で代表されますが、諸煩悩の根っこは我執なんですね。「邪」は二つに分ける。分断する。自己中心の主従の関係を築いてきたわけです。「忍する」は勝解のことですから、自己の信念や主張を貫き通し、引き込めることはないということであると、「勝解は引転(いんてん)すべからざるを業と為す」。
 私たちは、無始以来ですね、染法を依り所として輪廻したきたわけです。自分が絶対者なんです。他に絶対者はいないんですよ。どうでしょうか。すべての事柄に対し自分の意思で裁いてはいませんか。僕は、この世の中で、絶対君主であり、君たちは臣下である、と。依り所を転ぜよ、と云われますが、転ずることが出来ない自分に遇うことが大切なことなんではと思いますね。
 本題に戻ります。
 染法に対して働いていますから、邪に忍し(邪勝解)、邪に楽し、邪に欲し(邪欲)は、不信とは別の自性を持つもので、これは不信の自性ではないということになります。では、別の自性とは何かといいますと、これが本科段のテーマであります、不信の因と果になるわけです。
 つまり、不信の対象は、実有・有徳・有能という善法であり、この善法に対して不忍・不楽・不欲するのが不信の自性なんですね。
 染法に対して、邪に忍する(邪勝解)が不信の因になり、邪に楽い、邪に欲するが不信の果ということになります。邪勝解という刃を振りかざしますから無茶をいうわけです。

 三帰依文をみますと、「至心に三宝に帰依し奉るべし」と拝読していますね。
 本願文ですと、「設我得佛、十方衆生、至心信樂、欲生我國、乃至十念。若不生者、不取正覺。」(十八願文)
 成就文には、「諸有衆生、聞其名號、信心歡喜、乃至一念。至心回向。願生彼國、即得往生、住不退轉」
 親鸞聖人は、願文では「心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて」と読まれ、成就文では「至心に回向せしめたまえり」と、如来回向の願成就として受け止められています。
 
 衆生の立場からですと、忍するということが信の因になり、楽うことと欲することが信の果になるわけですが、衆生の立場からですと、「忍する」ということは出て来ないと宗祖ははっきりさせられたんでしょう。
信の因は如来回向の果、つまり如来還相回向によって衆生の往相回向が成り立つのでしょう。往還二回向が成就文で語られる信楽の自相なんでしょう。そこに果相としての至心が頂けます。果相は異熟ですね。異熟はすべてを受け止めている心、そういう心を至心として頂いているのですね。ですから至心は大切なことを語っているのですね。無分別智なる円成実性なんです。これによって願生浄土という欲生心が生まれてくるのでしょう。
 信の自相は、「忍する」ことを因とし、楽うこと、欲することを果とするものと教えらています。

 「至心」というときは、「すべてを引き受けた今があるんだ」「自分の人生で何一つ無駄は無かった」という叫びなんでしょう。これは如来の大悲心に触れ得た感動の叫びですね。このことに違逆しているのが私の実相です。不信の自相になります。
 善法に対して、忍せず、楽わず、欲しないこと、これが不信の自相なんです。求道心の無い相ですね。
 そして、不信の因果は、
  染法に対して、忍することを因とし、楽うこと、欲することを果としています。自己中心の生き方になりますね。
  

第三能変 随煩悩 大随煩悩  不信(ふしん)その(5)

2015-11-29 01:43:01 | 第三能変 随煩悩の心所
 御満座

 本日、大坂坊主BARのオーナーでもある、平野瑞興寺住職の清師からイベントの案内がきました。以下お知らせです。拡散お願いします。
 いつもお世話になり有難うございます。
 清は、東本願寺の役職を務めていますが、下記、講演会、映画会が、東本願寺で催されます。
 お忙しい時期ですが、時節がらとても大切な内容ですので、ぜひご参加いただきたく、ご案内申し上げます。
 有縁の方々にもご案内ください。拡散大歓迎です。どなたでもご参加頂けますので。
 【開催趣旨】
 戦後70年を迎えた本年6月、真宗大谷派宗議会・参議会は、「非戦決議2015」を決議し、あらためて「非戦の誓い」と「真の平和」を希求することを表明した。その一方で、多くの国民の反対表明にも関わらず、9月には安全保障関連法が成立し、再び戦争を行うことができる状況が生み出されてしまった。
 本年4月、宗議会同朋社会推進委員会は、戦前から戦後の国策について学習するため満蒙開拓平和記念館(長野県阿智村)を訪れた。同館の寺沢秀文専務理事は、悲しい歴史を繰り返さないためにも意思表明のできる国民でいられるよう、史実に学び教訓とすることが重要であると語られた。
 このたびの学習会は、宗門の継続してきた、非戦・平和に資する取り組みの一環として映画「山本慈昭 望郷の鐘-満蒙開拓団の落日-」を上映するとともに、監督の山田火砂子氏に講演していただき、満蒙開拓について学習を深める機縁としたい。なお、本学習会は、宗門内外において広く課題が共有されることを願い、一般にも公開する。
  記
 参加無料
 1 期 日  
   2015年12月16日(水) 
 2 会 場  
   京都烏丸六条 本願寺内 視聴覚ホール
 3 内 容  
   映画「山本慈昭 望郷の鐘-満蒙開拓団の落日-」上映
 山田監督講演会
 4 日 程  
 10:00  受  付
 10:30 
 挨  拶(清 同朋社会推進委員会委員長)
 10:40  山田火砂子監督
 講 演 会(60分)
 11:40  質疑応答
 12:00  休  憩
 13:00  映画「山本慈昭 望郷の鐘-満蒙開拓団の落日-」
 上映上 映 会(102分)
 14:40  閉会

      以上。

 不信は、自らを穢すだけでく、他をも穢す作用がある。その他のすべての心所を穢す、濁してしまう働きを持つと云われています。自分だけならともかく、他をも巻き込んでしまうというところに不信の特徴があるようです。不信は先にも説明しましたが、根っこは仏法を信じないことなんです。根っこが不信ですから、不信で捉えらえたもの総てが濁ってしまうのですね。真実を覆うということの闇の深さが知らされます。闇の深さとは、明るさが有ると思っている意識なんでしょうね。闇が闇と知られますと、もうじっとはしておられません、模索します。平然としておられるのは忍び寄る闇に気づかない証なんでしょうね。
 「不信に由るが故に、実と徳と能との於に忍し楽し欲せず、別に性有るものには非ず。」(『論』第六・二十九右) 不信に由る為に、実有と有徳と有能とに対し、忍せず、楽わず、欲しない。これらの忍せず、楽わず、欲しないは不信とは別の性が有るものではない。即ち、忍せず、楽わず、欲しないは不信の自性である。
 本科段は、不信の自性について説明されるところになります。ここは信の自性の所論と比較して見ていかなければならないと思います。すこし戻って考えてみてください。
 忍は勝解のことであり、これが信の因になり、楽・欲が信の果になると説かれていました。そして信の自性は「心を浄ならしむるを以て性と為す。」心を浄らかにすることをもって自性とするのである、と。
 忍せずは勝解の心所ではありますが、忍しないということは勝解の心所ではないのです、以下、楽せず、欲せずも同じように欲の心所ではないのです。因がありませんから果もありません。「別に性有るものには非ず」と。つまり、忍せず、楽せず、欲せずが不信の自性ということになります。「忍せず」、「楽せず」、「欲せず」が不信の具体性なのです。
 これらは不信の因や果ではないということになります。では不信の因と果は如何なるものなのかは次科段で説明されます。

第三能変 随煩悩 大随煩悩  不信(ふしん)その(4)

2015-11-27 22:18:13 | 第三能変 随煩悩の心所
  

 不信について詳しく述べます。不信の三相以下ですが、科段としては三つに分けられて説明されます。
  一に、境を弁ず(不信の対象について述べる)。
  二に、心を穢せしめることを弁ず(不信は心を穢すことを本質的な働きとすることを述べる)。
  三に、不忍等の差別を釈す(不信における対象と「忍する」・「忍せず」等の関係について説明する)。

 「不信の三の相は、信に翻じて応に知るべし。」(『論』第六・二十九右)
 不信の三の相は、信の三の相を反対にして知るべきである。
 信の三の相は、「実・徳・能に於て忍し楽し欲する」ことですから、その反対は「実・徳・能に於て不忍・不楽・不欲」ということになります。
  実有(真如等)を信じない。
  有徳(三宝の徳)を信じない。
  有能(一切の善法を信受せず、不信なる為に善法を求める希望を起こさない)を信じない。
 不信の対象(境)は、実有であり、有徳であり、有能である、と。

 復習をしますと、信の自相は、心・心所を浄らかにすることであり、信の因は、実有を忍すること。有徳を楽うことと有能を欲することは信の果を表すと学びました。それに順じてみますと、実有を信じないが不信の因で、後の二つは不信の果であると考えてしまうのですが、実は、この三つが不信の自相なんです。不信の因と果は、染法に対して「忍し」が不信の因、染法に対して「楽し」「欲する」ことが果になります。誤解を生じないように注意をはらう必要があります。
 
 「然も諸の染法(ぜんほう)は各々別相有り。唯だ此の不信のみ自相渾濁(じそうこんじょく)なり、復能く余の心・心所をも渾濁す、極めて穢物(えもの)の、自も穢れ他をも穢すが如し。是の故に、此は心を穢せしむるを以て性と為すと説く。」(『論』第六・二十九右)
 しかも諸々の染法(二十の随煩悩)には各々別相がある。しかし、この不信のみが自相が渾濁(濁ること)である。
 また、不信のみが、よく他の心心所をも渾濁する。喩ていうならば、極めて穢れた物が自らも穢れ、他をも穢すようなものでる。
 この為に、不信は心心所を穢すことを以て性と為す(本質的なな働き)と説かれるのである。これが不信の別相になります。

 信は、心心所を浄らかにすることですが、不信は染法を依り所としておりますから、心心所を穢すことを本質としていることになりますね。
 染法といいましても、染法がどっかに有るわけではありません。実有・有徳・有能を否定することが染法なんですね。そして染法の出てくる背景が我執ということになります。我執を依り所としておりますから、すべての善法を穢し、我執の色づけをしていくわけです。しかし、いくら色づけをしても、善法(道理)を覆すわけにはいきませんから、善法を覆って曇らすんですね。
 まあ、道理に違する罪として、苦悩は与えられいると思うんですが、苦悩は与えられたもの、苦悩もまた廻向されたものとしますと、その背景には、道理の働きがある。働いていることによって、苦悩を縁として浄を求めることも、また与えられている。
 唯識論を読んでいますと、阿頼耶識は能動体ではなく受動体であるという印象が強いのですが、私たち現実の動きの中から、阿頼耶識の能動する相を見出されたのが親鸞聖人ではなかったか、と。そんな気がしてならないんです。阿頼耶識に頭が下がる
。これって他力ですよね。そうしますと、唯識の修道論である五位の階位も法蔵菩薩の修道の内容となりますね。五念門と同じようにです。
 明日は、不信の自性と、不信の因と果について論究します。
 

雑感 講義補足内容

2015-11-26 23:47:28 | 雑感
  

 今日は、聞成坊様で、唯識の講義をさせていただきましたが、最後はすごくはっしょってしまいました。遠方よりお越しいただきましたのに申し訳なく思っています。経量部の主張からの一段になりますが、来月の講義までに整理をさせていただきたいと思っています。
 一応の論旨を述べさせていただきますと次のようになるかと思います。ご拝受ねがえたら幸いです。
 「次科段は、経量部の説を破斥します。
 「然るに今大乗は一切有部に同じく触の体は是れ実なりと云う(『倶舎論』第十巻に説かれる)唯、経部の一師は三和して触を成ずと云う者、大乗を難じて(大乗を批判して)曰く、触は是れ三和と説かば、何が実体有ることを得んやと。彼が計を破さんとして、故に説いて云く。」(『述記』
 大乗の論破の要旨は、
 「然るに触の自性は是れ実にして仮に非ざるべし」(『論』第三・二右) と。
 経量部の主張は、三和の他に触はないんだと、いうわけですね。三和の他に触という実体は無いわけですから、触は仮ということになります。大乗は、触は仮ではなく、触の自性は実のものであると主張します。ここに三つの証拠を挙げて論証してきます。
 触は仮のものではなく、触の自性は実であることを、三因を以て証明します。第一が、六の六法の中の心所に摂められる。
 「六の六法の中に心所の性なるが故に」(『論』第三・二右)
 ここでいう、六の六法は、『界身足論』の説です。『界身足論』は、説一切有部における六つの論書の中の一つで、六つ合わせて、『六足論』と呼ばれています。足は各論という意味ですね。『界身足論』は、『(阿毘達磨)界身足論』(あびだつま かいしんそくろん、Abhidharma-dhātukāya-pāda-śāstra, アビダルマ・ダートゥカーヤ・パーダ・シャーストラ)と呼ばれているものです。
 『倶舎論』や『阿毘達磨順正理論』等で言うところの、六内処・六外処・六識身・六愛身・六触身・六受身とでは少し違って説かれています。
 『界身足論』には、六識・六触・六受・六想・六思・六愛の六の六法を表しています。
 六識は、六識身のことで、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六つの集まり。
 六触は、六触身のことで、眼触・耳触・鼻触・舌触・身触・意触の六つの集まり。
  触とは、根(感覚器官)と境(認識対象)と識(認識する心)との三つが和合したところに生じ、生じたところから逆に和合せしめる心所をいい、根・境・識とのそれぞれ六つあ  り、三者の結合から生じる触にも六つあることになります。
 六受とは、六触から生じる六つの受の集まりことで、まとめて六受身と云う。
 六想とは、六触から生じる六つの想の集まりことで、まとめて六想身と云う。
 六思とは、六触から生じる六つの思の集まりことで、まとめて六思身と云う。
 六愛とは、六触から生じる六つの貪愛の集まりのことで、まとめて六愛身と云う。
 この場合の身とは、触所生の受身・想身・思身・愛身のことですが、すべて触から生じるということで、これが触れが自性あるという根拠になるわけです。個の根拠を以て、経量部の仮法であるという主張を論破してきます。
 「触は別に体有るべし。六の六法の中に心所の性なるが故に」(『述記』)が結論として説かれてきます。
 第二の因は、食(じき)に関してです。 
 「是れ食に摂むるが故に。」(『論』第三・二右)
 食は四食を指しますが、食が体を支えている。つまり、身を養う段食・触食・意思食・識食の食事をいいますが、この四つは身体を維持する支えとなる食なんですね。例えば触食ですが、触れるという食事という意味なのですが、私はあなたとの触れ合いの中で私の身を養っているし、養われていることなんですね。触ることにおいて身体を作っていることは、仮のものではないという証明になるわけです。
 段食(だんじき)は、食べ物一般のことですが、私と関係する時には、口の中に入れて噛み砕き、段々と食べることから段食といわれます。これも私の身体、命を支えているものですから仮のものではありませんね。
 意思食(いしじき)とは、意志と云う食事。意思を食事に喩というわけですが、浄土に生まれようと意欲を起こし希望することが心によい影響を与え、それが身体を養うことにつながるのですね。
 識食(しきじき)とは、心の深層識である阿頼耶識によって身体が生理的に維持され、寿命全うするまで腐食することなく存続されていることから、識を食に喩て識食といっているわけです。
 『成唯識論』では巻第四冒頭に、四食の証明が引かれてあります。『選注』ではp69~p71になります。
 「この四は能く有情の身命を持して壊断せざらしむるが故に名けて食と為す。」と説明されています、つまり、有情の身命を保って、身命を壊さないで保持していく働きを持つのが食だというわけです。
 冒頭の文章は、
 「契経に説かく。一切の有情は皆食に依って住すと云う。若しこの識無くば彼の識食の体有るべからざるが故に。謂く契経に説ける食に四種あり。」ここから説かれるわけです。
 触の心所は実で有ることの証明をしているところですが、十二支縁起をみましても、「触を縁として受あり、受を縁として愛あり」といわれていますように、触は直接受の基礎になっている、受の所依は触であることを語っています。このことは、五遍行においても、触が、受・想・思の所依であることを明かししているものと思います。
 『論』の「能く縁となるが故に」ということは、触が実有であり、受・想・思の所依と為ることを明らかにしているわけですね。
 『述記』にも、
 「縁起支の中の心所に摂むるが故に。愛は取に縁たるが如し。愛は思の分位なるが故に彼も亦実なりと許す。諸の心所の支は皆是れ実有なるを以てなり。・・・」と。
 受(感受作用・感情)は触が元になっており、触は処が元になっているわけです。処は根・境・識ですね。つまり、十二処・十八界が触の背景になっている。六根・六境と六識の三和から触が生起してくることが解ります。しかし、触ということが、すでにして三和しているということなのです。三和が因として、果は触。触を因として三和が果という構図になります。
 ここも、因縁変として説かれ、分別変ではないということです。考えられたものではなく、事実を事実たらしめているもの、それが触であるということ。三和して触が生まれると云うけれども、触という事実が、三和しているという事実になるわけです。説明すれば、交互因果関係になります。
 種子としてあるときは、三は和合していないのですが、種子が縁に触れて現行する時に、変異して分別(ぶんべつ)
するわけです。もの柄が違ってきます。種子が相をもつわけです。それが三和生触ということなのですね。
 安田先生は、 
 「かくのごとく、三和の用きを触が分別しているから、心心所を境に触れしめる。それが自性になる。一切の心心所を和合して、一つのグループとして境に触れしめる。つまり、眼識が起こるなら、眼識は色の知覚であるが、そうすれば、そこに色についての感情が起こる。声として境に触れれば、声というものについての感情が起こる。
 かくのごとく、触が一切の心心所を境に触れしめるのが自性であるから、他に対してはそれをもって受・想・思の根拠になるのである。」(『選集』巻第二、p211)
 と教えてくださっています。
 触は仮有のものではなく、実有であることの第三の証明として、十二支縁起で説かれている、触・受・愛を出していました。「縁起支の中の心所に摂むるが故に。愛(欲望・渇愛)の、取(執着行動)に縁ぜるが如し」(『述記』)と。
 行相所縁門をうけて、心所相応門が展開されているわけですが、種子から現行を生起する時に、根・境・識が三和合し、境に触れしめる心所として、触が語られるわけです。触れたら、そこに新たな実種を生みます。それが「異熟識が持する所の一切の有漏法の種なり、この識の性に摂めらるるが故に、是れ所縁なり。」と説かれていることなのですが、これに先立って『唯識二十論』には、次のような記述があります。
 「識は自の種従り生じ、境の相に似て転ず。内・外の処を成ぜんが為に、仏は彼を説きて十と為す。(第八頌)
 「論じて曰く、此れは何の義を説くや。色に似て現ずる識は自の種子の縁が合し転変差別すること従りして生ず。・・・」
 つまり、阿頼耶識は阿頼耶識の中にインプットされた種子より生じ、外境に似て、似た相を顕現しているわけです。
 「仮に由って我・法と説く。種々の相転ずること有り。彼は識が所変に依る。」と、識の所現は、識の所変に依ることを明らかにしたわけです。
 「識体転じて二分に似るを倶に自証に依っておこるが故に」と。
 種子から現行が生じてくるのは、種子が自己内容となることなんです。ですから、いかなる種子を植え付けるかが問題となりますが、ここで問題となることは、縁生なんです。阿頼耶識の種子より現行を生じてくるのは、縁起されたものなんですね。
 「任運に法爾にこの現前の境遇に落在せるもの」が自己存在なんですね。ここには分別の入り込む余地はないんですね。蓮如上人は「仏教は無我にて候」と教えてくださっていますが、本来、似我・似法であって、実我・実法は存在しないのです。執して、謬って錯誤しているにすぎないのですが、私たちは、無常の風に流されながらも、生まれて死ぬまで、一貫して変わらない自分が存在していると思い込んで、自分に執着を起こして暮らしています。
 ヒントになるのが、
 「阿頼耶を依と為して、故(かれ)末那転ずること有り。心(第八識)と及び意(第七識)とに依止して、余の転識(六識)生ずることを得と云う。阿頼耶識の倶有所依も亦但一種なり。謂く第七識ぞ。彼の識無くば定めて転ぜざるが故に。論に蔵識は恒に末那と倶時に転ずと説くが故に。・・・」(『論』巻第四)
 ここはしっかりと学ばなくてはいけないところです。課題として提起しておきます。
 そこで問題提起されているのが、第四頌第三句です。
   「恒転如暴流」(恒に転ずること暴流のごとし)
 第八識は、間断することなく、恒に(無始以来・未来永劫に亘って)転じている。あたかも、ナイアガラの大瀑布のようにです。この科段は後に詳細を述べますが、第七・因果法喩門と呼ばれています。「相続」と「因・果」が課題として提起されています。
 先ず、断見・常見の問題です。
 「阿頼耶識をば、断と為すや、常と為すや。」
 輪廻と我の問題です。十二支縁起も、無我の道理を理解できませんと、「我」が存在して、それが輪廻するということになってしまいます。しかし、私たちは我を依り所として生命活動を起こしています。
 自業自得という言葉がありますが。自らの造った種は自らが摘み取らなければならないということなんです。道理なんですね。縁起されたものなんですが、自らが引き受けることができないという問題が起きてきます。縁起に逆らうわけですね。本来は縁起されたものなんです。
 「阿頼耶識は断にも非ず常にも非ず。」と。
 ここで、一類相続という、無覆無記性として恒相続しているが明らかにされます。
  「受等の性の如く即三和に非ざるべし」(『論』第三・二右)
 「触」は仮のものではなく、実の用きがあるものであることの結論を述べます。
 経量部の一師は「三和成触」という、触は即ち三和のことであって、触は仮に説かれたもので実のものだはないという主張します。。それが先に述べました、三因に由って実であることの証明をしてきたわけです。
 また経量部の一師は、三和して触を生ず(「三和生触」)と主張する。三和して触を生ずる触は三和ではないと説いているわけです。
 また説一切有部の主張は、触の体は実であるけれども、変異に分別して心心所等を生ずることはなく、ただ受等の所依になることを業とするものであると説きます。
 これらの主張を、前段では、三因を以て論破したわけです。結論の言葉が「如受等性非三和」という本科段になります。本科段の意味するところは、受等が実であるように、経量部の一師が主張する「三和が即ち触であり、三和以外に触というものはないから、三和=触であり、触という実はなく、三和そのものが触であるから、触は仮のものである。」ということはないんだと云っているわけですね。
 三和と触との関係は大変難しいところではありますが、大乗は「触の自性は是れ実にして仮に非ざるべし」と説きます。そして有部との違いは「三和して変異に分別す。心心所を境に触れしむるを以て性と為す」と。
 触は実のものであり、境に触れしめる作用があるんだと主張しています。触・受・愛ですね。触れたその時は、受の所依となることはあっても、それほどの執着はみられないのですが、触・受となりますと、受は愛着の所依となりますから執着が深くなってくるわけですね。五受相応とみましても、迷いがだんだんと深くなってきます。
 触・受は実の作用あるものですから、十二縁起の中に入っているわけですし、遍行の心所にも入っているということになります。仮に説かれたものではないということなんですね。
 やっぱり、触は因縁変なんでしょうね。考えて触れることはないんでしょう。触れた瞬間に、同時にバラバラであった根・境・識が三和して認識が起こる、触れても、認識が起こらない場合がある、その時は三和していないということであって、三和していないと対象を認識しませんから、触の心所は動いていないということになるのでしょう。

第三能変 随煩悩 大随煩悩  不信(ふしん)その(3)

2015-11-25 23:38:06 | 第三能変 随煩悩の心所
    明日26日から28日まで、親鸞聖人讃仰講演会が、しんらん交流館で開かれます。午後六時から九時まで。同時刻ネット配信もされるようです。是非御聴聞ください。

 昨日は、信について考えてみました。
 信が「実と徳と能とに於て忍し楽し欲す」ることでしたが、不信は「不」がつきます。打消しです。否定しているわけです。「実と徳と能とに於て忍し楽し欲す」ることがなかったなら、すべてのことが不信になるわけですね。
 「実有を忍ず」。真実の世界。仏界です。一如の世界といってもいいでしょう。一如来生、私たち人間も一如の世界より来生しているわけです。やがてまた一如の世界に帰っていくわけです。そうしますと、現世は中有(ちゅうう)なのかもしれません。
 そういう真実の世界があるんだと信ずる。忍は認識の忍になります。信ずる、ということは認める。真実の世界があると認めること、これが忍なのです。真実の世界があると認めないのが不信の第一番目です。実有を不忍することです。
 真実の世界には必ず三宝の徳が備わっているわけですが、それを願う。「有徳を楽(ぎょう)す」。三宝の徳を願う。三宝の世界には豊かな功徳があること、それを願い求めようとする。不信は是をも否定してくるわけです。
 三番目が「有能を欲する」。有能を信ずる信である。つまり、世(世俗世間)の善と、出世間の善とに対し、深い力をもって、よく得ようとし、よく成し遂げんと信じて希望(けもう、欲の心所)を起こすからである。有能とは一切の善法を指します。世出世(自と他者)に対して一切の善法を成し遂げようと希望することを起こす、というのが有能を信ずる信である。善とは善法欲ですから、浄土に生まれたいと願い欲すること、いいかええば、真実に、或は誠実に生きたいと願う。至誠心ですね。これをも否定してくるのが不信なんです。
 これは人間が持ってる徳目である、知・情・意を持って真実とは何か。自己とは何を求めている存在なのかを欲するという願いに生きることを「信」と押さえられているわけでしょう。
 不信はこれがないわけです。信は澄浄心、心を澄浄ならしめる働きをもつわけですが、これを否定しておりますから、穢を依り所とします。「忍し楽し欲せず」です。「心を穢すを以て性と為す。」心を穢すことを本質として、浄信を妨げ、惰の依となる、と云われています。惰は惰性・怠惰とか云われますが、ただ単に怠け者と云うわけではないんですね。どんなに一生懸命に生きているとしても、「実と徳と能とに於て忍し楽し欲す」ることがなかったならば、怠惰なんだと。これを「不信の者は懈怠多きが故に」と押さえられているわけです。
「人心の至奥よりいずる至誠の要求」に眼を逸らして者は、精進努力することがないわけです。精進努力は、お金儲けの為に一生懸命になることをいっているのでは無いんですね。それは貪りなんです。貪りと精進努力とは違うということです。精進努力は仏道に於て初めていえることなんです。逆に言えば、仏道に於て、貪りは意味をもってくるわけでしょう。
 今日はここまでにしておきます。

第三能変 随煩悩 大随煩悩  不信(ふしん)その(2)

2015-11-24 23:48:56 | 第三能変 随煩悩の心所


 今日は、善の心所から、信について先ず学んでみたいと思います。長いですがお付き合いくださいm(__)m
 また、信・不信は仏道を修する上で大きなキーワードになりますから、しっかり学んでいかなければならないと思っています。
 「云何なるをか信と為す。実(じt)と徳(とく)と能(のう)との於(うえ)に深く忍(にん)し楽(ぎょう)して欲(ほっ)して、心(しん)を浄(じょう)ならしむるを以て性と為す。」(『論』第六・初右)
 「信」とは「実と徳と能とに於いて深く忍し楽し欲して心をして浄ならしむるを以って性と為す。不信を対治(たいち)し善を楽(ねが)うを以って業と為す」と言われているように、不純なる私の中にも、不純なものばかりではなく、真実を知る欲求があるということなのです。
 1.実有(じつう)を信忍(しんにん)する。-事実として存在している真理(真に存在するもの)を信じ理解する。信忍は仏の慈悲を信じて、安らいだ心。(三忍の一つ。三忍とは真理を悟る三種の智慧のことで、信忍(しんにん)・順忍(じゅんにん)・無生法忍(むしょうぼうにん)のこと)『正信偈』(しょうしんげ)には「韋提と等しく三忍を獲、すなはち法性の常楽を証せしむ、といえり」(真聖P207)と述べられてあり、信心に賜る智慧のことです。
 2.有徳(うとく)を信楽(しんぎょう)する。-徳は三宝(仏・法・僧の三宝)のこと。徳あるものを信じ尊ぶということ。楽(ぎょう)は喜び慕うという意。
 3.有力(うりき)を信欲(しんよく)する。-信欲は信心への意欲、信じようという願いのこと。有力は自分に善を修める力が有ると信じること。そしてその力を得ようとする意欲のこと。
 「信」の内実は智慧だと思うのです。
 親鸞聖人は智慧の念仏といわれます。
 「智慧の念仏うることは/法蔵願力のなせるなり/信心の智慧なかりせば/いかでか涅槃をさとらまし」と、
 和讃のなかで教えてくださっています。わたしたちの方向性は大般涅槃(だいはつねはん)なのですね。その大般涅槃に至る道が智慧の念仏といわれ、信心の智慧といわれるもので、法蔵願力より賜わるものであるといわれているのです。「信は願より生ずれば/念仏成仏自然なり/自然はすなはち報土なり/証大涅槃うたがはず」といわれています。『愚禿鈔』(ぐとくしょう)には「本願を信受(しんじゅ)するは、前念命終(ぜんねんみょうじゅう)なり。すなはち正定聚(しょうじょうじゅ)の数に入る。・即の時必定に入る。即得往生(そくとくおうじょう)は後念即生(ごねんそくしょう)なり」と述べられ、真実信心の大切さを教えてくださいました。
  私たちの根源的要求は私の根源からの求めてやまないものなのですね。その要求は「~の為に」といった功利的なものではないということでしょう。私のエゴはいつでも自分のために利用しようとします。仏法をも手段とするのです。しかし私はいったいどうなりたいのでしょうか。何を求めているのでしょうか。「仏道を習うとは自己を習うことだ。自己を習うとは自己を忘れることだ」とは道元の仰せであります。自分の欲望の為にすべてを利用しようとしても、欲望は際限なく無崖底(むがいてい)の闇にさ迷うだけなのです。「自己を問う」ことがない限り私たちはどんなに頑張ってみても現在に落在(らくざい)することはないのでしょう。そのような、さ迷ういの人生を翻す働きをもったのが「信」なのです。「心をして浄ならしむるは信なり」とは唯識からの提言です。私たちには限りない欲望と共に、また限りない善を求める欲求があるのです。仏道を求めるのも善の欲求です。その入り口が「信」なのです。
 善の心所の第一が述べられます。信の心所についての所論が、『顕揚論』巻第一・『対法論』(『大乗阿毘達磨雑集論』)巻第一・『倶舎論』巻第四等に説かれている通りである、と。
 信の心所の定義は、「心をして浄ならしむるを性と為す」という心の働きに他なりません。いうなれば、「心を浄らかにする心の働き」といっていいでしょう。従って、「信」と云った場合には、必ず「清浄ならしめる」という働きをもったものということができます、(対象物として)信ずるという意味合いでの信は仏教ではいいません。「心浄為性」が自体である、と。信=心浄為性なのですね。ここが大変大事なところです。一歩間違えば、自我意識のままに、対象として何かを信じ、信じたことを利用して果得しようとする功利性が伺えます。これは信じるという因と、信じたということによってもたらされた果であって、信そのものではないのです。
 「実・徳・能の三は是れ信の依処なり」、そして「深く忍し楽し欲す」とは是れ信の因果なり」と述べられていますことは、この一文は、信そのものを言い表しているのではないということなのです。信の因果を顕しています。実(実有)・徳(有徳)・能(有能)に対し、深く、「忍し」、「楽い」、「欲する」という。「対し」ですから、対象としてですね。対象として信ずる、信そのものではない、ということです。
 実有を忍(対象を認可すること。認識確定すること)することは、信の生ずる因である。これが因となって、有徳を楽い、有能を欲するという(信の)果が生起してくるのです。このことを『述記』には「信の依処」である、信の所依、信が起こるための依り所、及び所縁の境(認識対象)となっていることを示しています、それが実有であり、有徳であり、有能であるということです。実有が因となるということは、実有が因となって信そのものである、「心を浄らかにすること」を起こしてくるのです。そして信そのものを因として、有徳を楽し、有能を欲するという果が生起してくるという構造になります。これは信が生起するということは、心を浄らかにすることですから、実有を忍(真実を願う)することが必須条件となります。それ以外の功利的な罪福信は信とは言えないということになります。
 信の心所の業用は、「不信を対治し、善を楽うを以て業と為す。」(『論』第六・初右)ということ。
 信の働きである業用(作用)は、不信を対治し、善を楽うことを以て、業とする心所である。信が因と為り、①不信を対治すること。②善を楽うという業が果と為る。信が能対治、不信が所対治という関係になり、信には必ず不信を対治するという作用が働くということです。
 「論。對治不信樂善爲業 述曰。此明業用。顯揚説有五業。然治不信。初與此同。此言樂善。即彼四種。能得菩提資糧滿故。利益自他故。趣善道。増長信。即是論中堅固信也。對法論説。樂欲所依爲業。即是彼第九云。信爲欲依。約入佛法初首爲論。若言通論一切信業。顯揚五業中。除第二菩提因」(『述記』第六本下・二左。大正43・434a)
 (「述して曰く。此は業用を明かす。顕揚に五業有りと説く。①然るに不信を治するというは初なり。此と同なり。此に楽善と言うは即ち彼の四種なり。②能く菩提を得る。資糧満つるが故に、③自他を利益するが故に、④善道に趣く、⑤信を増長す。即ち是れ論の中の堅固の信なり。
 対法論に説く。楽欲の所依たるを業と為すと云へり。即ち是れ彼の第九に云く、信を欲の依と為すと云へり。仏法に入る初首たるに約して論を為す。若し通じて一切の信の業を論ずることを言はば、顕揚の五業の中に第二の菩提の因を除く。」)
 『顕揚聖教論』巻第一(大正31・481b)に、信の業用に五業有ることを挙げている。『論』の前半の文である、「対治不信」が、『顕揚論』に挙げられている信の業用の第一に同じであるという、「不信を治するというは初なり。此と同なり」と。そして後半の「楽善」が『顕揚論』の第二から第五の四種にあたるといっています。第五の「信を増長す」とは、浄信を増長させるという意味ですが、堅固の信であると注意しています。堅固の信は「仏法に入る初首たるに約して」という。即ち、資糧位の初発心住の信とされます。
 「論。樂善爲業者。按顯揚第一。信業有五云。斷不信障爲業。能得菩提資糧圓滿爲業。利益自他爲業。能趣善道爲業。増長淨信爲業。後之四種此樂善攝。爲樂於善方起四故 疏。即是論中堅固信者。即攝大乘第七頌云。清淨増上力堅固心勝進。名菩薩初修無數三大劫。又按瑜伽五十七云。問世尊依何根處説如是言。於如來所淨信深固根生建立。一切世間若諸沙門。若婆羅門。若天魔・梵。無有如法能引者。答依信根説。此顯其信於聞・思・修勝堅固義」(『演秘』第五本・十九。大正43・913c)
 (「論に善は楽うを以て業と為す」とは、顕揚の第一(大正31・481b)を按ずるに信の業に五有り。不信の障を断ずるを業と為す。能く菩提の資糧円満するを得るを業と為す。自他を利益するを業と為す。能く善道に趣くを業と為す。浄信を増長するを業と為すと云へり。後の四種は此の楽善に摂む。善を楽うが為に方に四を起こすが故に。疏に、「即ち是れ論中の堅固の信なり」とは、即ち摂大乗の頌(『無性摂論』巻第七。大正31・425c)に、清浄と増上との力にて堅固心にして昇進(『演秘』は勝進ですが、『摂論』は昇進になっています。)するを、菩薩の初修の無数の三大劫と名づくと云へり。又瑜伽の五十七(『瑜伽論』巻第五十七。大正30・617b)を按ずるに。問う、世尊何の根拠に依りて、是の如きの言を説きたまえるや、如来の所において浄信深固にして根生じて建立すれば一切世間の若しは諸の沙門、若しは婆羅門、若しは天魔と梵の如法に能く引脱(引奪を引脱に改める)する者有ること無しと。答う、信根に依りて説きたまえり。此は其の信の聞思修に於て、勝解(勝を勝解に改める)の堅固なる義を顕すと云へり。」
 信という内実は、「不信を対治する」ということが総、「善を楽う」ことが、総を開いて別してということになります。不信を対治するということの内容が、『顕揚論』に説かれている第二から第四の説明にあたります。後に喩として紹介されますが、 「水清の珠の能く濁水を清むるが如し」 と。
 善の心所についての安田先生の了解、 『安田理深選集』第三巻p328~331より抜粋
 「そこで最初に信を挙げている。信から始まっているのは意味の深いことである。これは「実と徳と能とにおいて、深く忍じ楽じ欲して心浄なるを性となす」と定義される。これが信の本質的な作用である。「不信を対治する」のが業である。信そのものの作用は性である。その作用であることによって他に対しての用きは、不信を対治するといわれている。これは実を忍じ徳を楽じ能を欲する。「深く」は全部にかかる。これを丁寧に解釈して実を深く信忍し、徳を深く信楽し、能く深く信じて欲を起こすといってある。これは信というものがとらえにくいものだからである。我々がただ信仰とか信念とかいうが、その本質は何か。広く宗教一般においても真宗においても、これが大きな問題である。
 三つの相に分けて信を明らかにしてある。実徳能は信の対象である。何を信ずるかというと、三つの対象に即して信というものが三つの用きとして述べられてある。実というものを対象として信じているのは忍ずるという形である。徳を信ずるのは楽ずる形。そして能を信ずる結果必ず欲が起こってくるといわれている。信忍、信楽、信欲するものが信であり、信それ自体をあらわす言葉が心浄である。そういう信が三つの対象の相にあらわされている。」
 『法相二巻鈔』より
 「次ニ信ノ心所ト云ハ。世ノ常ニ信ヲ起ト云ハ是也。貴ク目出度キ事ト深ク忍ビ願ヒテ澄清ノ心也」(大正71・110c)
 信は、信忍、信楽、信欲との三つより成り立っている、忍は勝解の働きと同様である。信楽の楽と信欲の欲とは、別境の欲と同じ作用をもつといわれている。従って信は勝解と欲とによって成り立っているのである。これは相であって、本質は澄浄といわれるような、「澄ミ清キ心」である。澄んだ心であり、「水清の珠の能く濁水を清むるが如し」と、心全体を清浄にしていく力があるという。非常に能動的な働きをもつものである、ということですね。能対治・所対治という働きをもちます。信は不信を対治する。信は能対治・不信は所対治です。
 「こういう三つのことが完備して、信心といえる。信の対象には自己というものが入るのである。自信という意義がなければならぬ。仏を信ずることによって仏となりうる自己を信ずるのである。この三義を含んで信というものの形態を全うするのである。経典は『観経』では深心、『大経』には至心信楽欲生という。ああいうのは心理的必然である。至心に信楽して欲生するのは心理的必然をもって移っていくのである。安心の心理を明らかにしたものである。必得往生という一つの確信の心理を明らかにしたものである。三心釈は信心の記述でなく、信心を成り立たしたものである。・・・・・・信そのものとは何か。それが浄というものである。浄は濁っていないということである。信が、欲か勝解に誤解されるが、信そのものは心に濁りのないことである。そこに私とかいうものが無い。つまり自分を自分で欺かないことである。自分が自分に偽りが無い。そいうものである。
 これが信の面目である。諸法の真理に触れて初めて自己が透明になるのである。「和して同ぜず」は信にしていえることである。自分が自分に嘘をつかぬことである。たいていは信の因を信と間違えたり、信の果を信と間違えたりしているのである。」(『安田理深選集』第三巻p330~331)
 第一は、実有を信ずる信について、
 「一に実有を信ずる。謂く諸法の実の事と理との中に於て深く信忍するが故に。」(『論』第六・初右)
 初めに、実有を信ずる。つまり、諸法の実の事と理とに対して深く信忍するからである。
 「諸法の実」とは、四諦の体、実有であり、実有の体に忍可の信を起こすからであるといわれています。理は無為・事は有為の諸法ですから、有為・無為の一切法のありのままのことを実と表現し、信忍の忍は認と同じで、認可するという勝解の心所であるわけです。諸法の理と事に於て分別を加えないで、認可することが信であり、実有の信、忍可の信といわれているのです。それがそのまま信そのものという、心を浄ならしめるという果となって生起するという構造になっているのですね。実有を信ずるということが因となり、心浄という果を引き起こしてくるのではないでしょうか。
 「論。一信實有至深信忍故 述曰。謂於一切法若事若理信忍皆是。對法云。於實有體起忍可信。古師依此謂此四諦體實有也。今此中言。若信虚空此是何等。體非實故。亦非諦故。爲信虚空即此攝故。但可總言若理若事。空雖體無。有空理故。」(『述記』第六本下・三右。大正43・434a)
 (「述して曰く。謂く、一切法の若しは事、若しは理に於て信忍する皆是れなり。対法に云く、実有の體に於て忍可の信を起こすと云へり。古師は此れに依る。謂く此は四諦の體実有なり。今此の中の言く、若しは虚空を信ずば、此は是れ何等ぞや。體実に非ざるが故に、亦、諦に非ざるが故に。虚空を信ずるは即ち此に摂せんが為の故に。但だ総じて若しは理、若しは事と言うべし。空は體無と雖も空の理有るが故に。」) 
 先ず、実有を信ずるという段階ですね。欲(善法欲)が生起する前段階になるといわれています。それは諸法の理と事(諦実)に於て忍可の信を起こすという因が明らかにされているのですね。
 第二は、有徳を信ずる信について説明される。
 「二には有徳を信ず、謂く、三法の真浄の徳の中に於て深く信楽するが故に。」(『論』第六・初左)
 二には有徳を信ずる、つまり三法(徳を有した仏・法・僧の三宝)の真浄の徳に対して深く信楽(仏・法・僧の三宝の徳を信じ楽う)するからである。有徳を信ずという信は、願うこと(欲)が信という意味になります。
 『述記』の説明から伺いますと、三宝には、同体・別体と有漏・無漏と住持・真行のあらゆる三宝はすべて有徳に摂められるのであると、即ち、「有徳を信ずる」とは、これらすべての三宝の殊勝な徳を信ずることである、と。
 真如は真浄である。その他は真浄の方便にして亦真浄と名づけるのであると説明されます。
 至心・信楽・欲生の信楽です、また楽は「愛楽仏法味」といわれる、楽というのは、欲の心所になります。「有徳を信ずれば、自ずと三宝に順じ、三宝を願うことが生起するという意味なのですね。
 「論。二信有徳至深信樂故 述曰。同體別體・有漏無漏・住持眞行所有三寶。皆是彼攝。如眞淨故。所餘是此眞淨方便亦名眞淨。」(『述記』第六本下・三左。大正43・434a)
 (「述して曰く。同體別體・有漏無漏・住持眞行とのあらゆる三宝は皆彼に摂す。如は真浄なるが故に、所余は是れ此の真浄の方便なるを以て亦真浄と名づく。」) 
 第三は、有能に対する信について説明される。
 「三には、有能を信ず、謂く、一切の世出世の善の於に、深く力有って能く得し能く成ぜむと信じて、希望(けもう)を起こすが故に。」(『論』第六・初右)
 三には有能を信ずる信である。つまり、世(世俗世間)の善と、出世間の善とに対し、深い力をもって、よく得ようとし、よく成し遂げんと信じて希望(欲の心所)を起こすからである。有能とは一切の善法を指します。世出世(自と他者)に対して一切の善法を成し遂げようと希望することを起こす、というのが有能を信ずる信である、といわれています。
 「論。三信有能至起希望故 述曰。謂於有漏無漏善法。信己及他。今能得後能成。無爲得有爲成。世善得出世成。起希望故。希望欲也。忍・樂・欲三如次配上。對法但言謂我有力能得能成。且據自成。此亦通他總致能得等言 上來已解信所依訖。隨文便故未解心淨。次釋彼業。」(『述記』第六下・三左。大正43・434a~b)
 (「述して曰く。謂く有漏無漏善法に於て、己と及び他との、今能く得し、後に能く成じ、無為を得し、有為を成じ、世善を得し、出世は成ぜんと希望を起こすが故に。希望とは欲なり。忍楽欲の三は次の如く上に配す。対法には、但だ謂く我力有って能く得し能く成ぜんと言う。且く自成に拠る。此は亦他に通じて総じて能得等の言を致せり。
 上来已に信の所依を解し訖る。文便に随うが故に、未だ心浄を解せず。次に彼の業を釈す。」)
 信の業用(作用)について
 「斯に由って彼を信ぜざる心を対治して、世出世の善を証修せむと愛楽す。」(『論』第六・初左)
 此れに由って(以上のことを以て)彼(実有・有徳・有能の実事)を信じない心を対治して、世間の善と、出世間の善を証し修そうと愛楽する、と述べられています。
 「 論。由斯對治至世出世善 述曰。正治不信彼實事等。能起愛樂於無爲證。有爲善修。故是信業 自下欲顯忍・樂・欲三是信因果。及欲顯彼心淨之言是信自相寄問徴起。於中有四。一問。二答。三難。四通」(『述記』第六本・四右。大正43・434b) 
 (「述して曰く。正しく彼の実事等を信ぜざるを治して、能く無為を証し有為の善を修せんと愛楽することを起こす、故に是れ信の業なり。
 自下は忍楽欲の三は、是れ信の因果なりと云うことを顕さんと欲し、及び彼の心浄の言は、是れ信の自相と云うことを欲して問いに寄せて徴起す。中に於て四有り。一に問い、二に答え、三に難、四に通ず。」)
 信の業用とは、無為を証し、有為の善(出世間的な善、及び世間の善)を修めようとすることである。ここで言わんとすることは、たとえ世間的な善であれ、善を修するということは尊いことである、と述べているのです。恒審思量という末那識の存在が横たわろうと、末那識を転じていく働きは善を修するということであり、善を修しても雑毒の善であるという自覚が又末那識を転じ、智慧に転ずる機縁となるのですね。
 積極的な利他行が、利他は成り立たないという自覚をもって限りなく利他行が行じられていくものなのでしょう。そこに自利が満足していける世界が開かれてくるのではないでしょうか。
 信の自性について

 「忍と云うは、謂く勝解ぞ、此れ即ち信が因なり。楽欲と云うは、謂く欲は即ち是れ信が果なり、礭(確・まこと)に此の信を陳ぶれば、自相是れ何なるものぞ。」(『論』第六・初左)
 忍とは、つまり勝解のことである。これは即ち信の因である。楽欲とは、つまり欲の心所であり、これは信の果である。まことに、この信を述べるならば、その自相はいかなるものであろうか。
 信の本質的な作用が問われています。忍は認可であり、境を忍可するから勝解であり、これは信の因であり、楽欲(欲求)は欲の心所であり、境を楽希するので、信の果である。信の因と信の果を確かめて、何が信の自相であるのか、改めて問われています。
 「論。忍謂勝解至自相是何 述曰。此外問也。前言忍者即謂勝解。忍可境故。即是此信同時之因。下言樂・欲並是欲數。樂希境故。即是同時信所生果。此中何者是信自相。確實論其自相是何。確者實也。或忍・樂・欲。異時因果。理無遮也 下論主答彼。因解心淨。」(『述記』第六本下・四左。大正43・434b)
 (「述して曰く。此れ外の問いなり。前に忍と言うは、即ち謂く勝解なり。境を忍可するが故に。即ち是れ此の信の同時の因なり。下に楽欲と言うは、並びに是れ欲数なり。境を楽希するが故に。即ち是れ同時の信が所生の果なり。此の中何れが是れ信の自相なるや。確実に其の自相を論ぜば、是れ何ぞ。確とは実なり。或は忍楽欲するは異時の因果とするも、理として遮することなし。下は論主が彼に答う。因て心浄を解す。」)
 忍楽欲とは、忍と楽と欲。信の心所の三つの構成要素で、「心を浄ならしむるを性と為す」といわれ、信は「心を浄らかにすること」が信の自相であるとされます。 
 護法の答えは、
 「豈適(サキ)に言わずや、心を浄ならしむるを以て性と為す。」(『論』第六・初左)
 「論。豈不適言心淨爲性 述曰。適者向也・纔也。」(『述記』第六本下・四左。大正43・434b)
 適 - 適(シャク)とは向(サキ)・纔(ハジメ)という意である。「シヤク」と読む場合には、「さき」の意味になり、「チャク」と読む場合には、「たまたま」「かなう」という意味になる。
 どうして、サキに述べなかったのか、今まさに述べるであろう。「心を浄らかにすることを以て自性とすると」。
 信の自相とは何か、について答えられます。
 尚、自相・自性・自体(本質的な働き)は同意として用いられています。信の本質的な働きは「心を浄らかにすること」なのですね。従って欲・勝解が信の自性ではないということなのです。
 「此れ猶未だ彼の心浄という言を了せず。若し浄即ち心なりといわば、応に心所に非ざる応し。若し心を浄なら令むといわば、慚等と何ぞ別なる。心と倶なる浄法ぞといわば、難と為ること亦然なり。」(『論』第六・初左)
 外人(げじん)からの批判。
 外人は更に護法の答えに対して批判を加える。「これだけの説明では、なお「心浄」という言を了解(理解)することは出来ない。もし、浄がそのまま心であるというのであれば、信はまさに(心王であって)心所ではないであろう。もし、信は心を浄らかにするというのであれば、信は慚等とどこが異なるのであろうか、異なるはずはない、同じものになるのではないのか。また、信は、心と倶である浄法であるというのであれば、心浄の場合と同じような問題が起こるであろう。
 ① 浄がそのまま心であるというのであれば、信はまさに(心王であって)心所ではないであろう。(「浄の体が即ち是れ心の持業釈にして、信は心所に非ざるべし。浄即ち心なるが故に。」)
 ② 信は心を浄らかにするというのであれば、信は慚等とどこが異なるのであろうか、異なるはずはない、同じものになるのではないのか。(「浄の体は即ち心に非ず、心を浄なら令むるならば、心の浄なるが故に依士釈に依る。」)
 ③ 信は、心と倶である浄法であるというのであれば、心浄の場合と同じような問題が起こるであろう。(信の意味が、心と倶である浄法であるという意味であるならば、①と同様の問題が起こると批判しています。)
 外、難じて言う(外人からの批判)
 「此れ猶未だ彼の心浄という言を了せず。若し浄即ち心なりといわば、応に心所に非ざる応し。若し心を浄なら令むといわば、慚等と何ぞ別なる。心と倶なる浄法ぞといわば、難と為ること亦然なり。」(『論』第六・初左)
 これだけでは猶未だ「心浄」という言葉を理解することはできない。もし浄がそのまま即ち心であるというのであれば、まさに心王であって、心所ではない。またもし、信は、「心を浄らかにする」というのであれば、信は慚等とどこが別(異なる)のであろうか、異なるはずはないであろう。また信は、心と倶である浄法であるといえば、心浄の場合と同じような問題(難と為る)がおこるであろう。
 「論。此猶未了至爲難亦然 述曰。三外難言。此由未了彼心淨言。若淨體即是心持業釋者。信應非心所。淨即心故 若淨體非即心令心淨者。心之淨故依依士釋第三轉聲。慚等何別。亦令心淨故。若心倶淨法。隣近釋者。淨與心倶故。爲難同令淨。亦慚等無別。」(『述記』第六本・四左。大正43・434b)
 (「述して曰く。三に外難じて言く、此れ未だ彼の心浄の言を了せざるに由るに、若し浄體即ち是れ心の持業釈にして、信は応に心所に非ざるべし。浄即ち心なるが故に。若し浄體は即ち心に非ず。心にして浄なら令むるは、心の浄なるが故に、依士釈に依る。第三転の聲なり。慚等と何ぞ別なるや。亦心にして浄なら令むるが故に。若し心と倶なる浄法にして隣近釈ならば、浄心と倶なるべし。難と為ること 浄なら令むるは亦慚等と別無きに同す。」)
 第四は、護法の会通。
 「此は性澄清にして、能く心等を浄ならしむ、心いい勝れたるを以ての故に心浄という名を立つ。」(『論』第六・二右)
 此(信)は、自性は澄清であって、能く心等(心王と心所)を浄らかにする。心王は勝れているものなので、その心王を浄らかにするという働きをもって、心浄という名を立てるのである。
 護法は、外人からの批判に答えて、心浄という意味は、心の体は澄清(澄浄)であって、心王・心所を浄らかにする働きを持つ、と会通していきます。
 護法の会通に二義が示されます。第二義は後の『論』の所論である、「又染法・・・・・・故浄為相」の解釈に『述記』は「此れ第二義なり」と述べていることから遡ってこの科段を第一義とします。
 「論。此性澄清至立心淨名 述曰。論主通曰。此信體澄清能淨心等。餘心・心所法但相應善。此等十一是自性善。彼相應故。體非善。非不善。由此信等倶故心等方善。故此淨信能淨心等。依依士釋。又慚等十法體性雖善。體非淨相。此淨爲相。故名爲信。唯信是能淨。餘皆所淨故。以心王是主。但言心淨。不言淨心所。文言略也。」(『述記』第六本下・五右。大正43・434b~c)
 (「述して曰く。論主通じて曰く。此の信は體澄清にして能く心等を浄ならしむ。余の心心所法は但だ相応善なり。此れ等の十一は是れ自性善なり。彼は相応なる故に。體善にも非ず、不善にも非ず。此の信等倶なるに由るが故に。心等方に善なり、故に此の浄信能く信等を浄ならしむるを以て依士釈なり。又慚等の十法は體性善なりと雖も、體浄相に非ず。此れは浄ならしむるを以て相と為す。故に名づけて信と為す。唯信のみ是れ能浄なり。余は皆所浄なるが故に、心王は是れ主たるを以て但だ心浄と言う。心所を浄なると言わず、文言略せり。」)
• 能浄 - 浄める側
• 所浄 - 浄められる側。
 信のみが能浄であって、それ以外、慚等の十法は体性は善ではあるが体は浄相ではない、どこまでも所浄であると会通しています。
 喩を挙げて説明される。(清珠を信の体に喩える)
 「水精の珠の能く濁水を清むるが如し」(『論』第六・二右)
 「論。如水精珠能清濁水 述曰。喩如水精珠能清濁水。濁水喩心等。清珠喩信體。以投珠故濁水便清。以有信故其心遂淨 若爾慚等例亦應然。體性淨故。斯有何別。」(『述記』第六本下・五左。大正43・434c)
 (「述して曰く。喩は水精珠の能く濁水を清くするが如し。濁水は心等に喩う。精珠を信の体に喩う。珠を投ずるを以ての故に濁水便ち清し。信有るを以ての故に其の心遂に浄し。若し爾らば慚等も例するに亦然るべし。体性は浄なるが故に斯れ何の別か有る。」)
 喩は
 信の体 - 水精の珠に喩え、
 濁水 - 他の心・心所に喩る。
 「若し爾らば慚等も例するに亦然るべし。体性は浄なるが故に斯れ何の別か有る。」という疑問が呈せられます。
 前段の『述記』の所論にも述べられていましたが、「此の信の体は澄清にして、よく心等を浄ならしむ、(信の心所以外の)余の心・心所法はただ相応善なり。これ等の十一は是れ自性善なり。」と。
 信の体は、余の心・心所を浄めるという働きをするのであれば、慚等の善の心所(自性善)も他の心王等(相応善)を浄めるという働きをするのではないのか、という問いに対して、
 信以外の慚等の十の善の心所は、体相は善ではあるが、浄を以て相とは為さない、即ち信のみが心心所を浄ならしめるのである、ということを明らかにする。
 「慚等は善なりと雖も、浄を以て相と為るに非ず、此は浄ならしむるを以て相と為す、彼に濫ずる失無し。」(『論』第六・二右)
 信以外の慚等の善の心所は、善ではあるとはいえ、浄をもって自相(自性・体性・体相)とするのではない。此れ(信)は心を浄らかにすることを以て自相とする、その為に慚等の十の善の心所と信が混乱する過失は無いのである。
 「論。慚等雖善至無濫彼失 述曰。其餘慚等體性。雖善令心等善。不以淨爲相。但以修善・羞恥等爲相。此信以淨爲相。無濫慚等之失。非慚慚故。信是無慚。非信信故。慚是不信。今此淨者。信體之能。」(『述記』第六本下・六右。大正43・434c)
 (「述して曰く。其の余の慚等は體性善なりと雖も、心等をして善なら令む、浄を以て相とは為さず。 但だ善を修して羞恥(しゅうち)する等を以て相と為す。此の信は浄ならしむるを以て相と為す。慚等に濫ずるの失無し。慚にして慚ずる故に信は是れ慚なること無きに非ず。信にして信ずるが故に慚は是れ信ならざるに非ず。今は此の浄とは信の體の能なり。」)
 『了義燈』はこの『述記』の所論を釈して、
 「疏言非慚慚故信是無慚非信信故慚是不信者。顯體各異。非以信令心淨。慚是不信。非以慚令心善。信是無慚。諸餘廣略性・業同別准此釋知。」(『了義燈』第五末・初左。大正43・754a)
 (「疏に、慚として慚するに非ざる故に、信は是れ慚なること無し。信として信ずるに非ざる故に、慚は是れ信ぜずと言うは、體、各々異なることを顕すなり。信として心をして浄ならしむるに非ざるを以て慚は是れ信に非ず。慚として心をして善ならしむるに非ざるを以て信は是れ慚なること無し。諸の余の性と業とを廣略する同別は此の釈に准じて知れ。」) 
 又、『演秘』は問いを設けて釈しています。
 「論。慚等雖善非淨爲相者。問若慚非淨。如何前難云若令心淨慚等何別 答慚既稱善。何得非淨。然不似彼淨爲其相。與信不同。由斯難・答望義不同。故無有失。」(『演秘』第五本・二十一左。大正43・914b)
 (「論に、「慚等雖善非淨爲相者」(慚等は善なりと雖も浄を以て相と為すに非ずという)は、
  問う、若し慚は浄に非ずんば如何ぞ前に難じて若し心にして浄なら令むるならば慚等と何んぞ別なりと云うや。
 答う、慚をば既に善と称す、何んぞ浄に非ずということを得ん、然るに彼(信)が浄を其の相(自相)と為すに似ざれば信と不同なり。斯に由りて難と答と義に望めて同じからず。故に失有ること無し。」)
 羞恥とは、はじることなのですが、「内に羞恥を生ずるを名づけて慚と為す」といわれていますように、心心所をして善ならしめる働きをもつものなのです。自性善ではあるが、浄ではないということで、信と慚等とは混乱する過失はないという。
 第二義(護法会通の第二義)
 「又諸の染法は各別に相有り。唯だ不信のみ有って自相渾濁(じそうこんじょく)し、復能く余の心心所をも渾濁す、極めて穢物(えもつ)の、自も穢れ他をも穢すが如し。信は正しく彼に翻ぜり、故に浄を以て相と為す。」(『論』第六・二右)
 また諸々の染法には各別に自相がある。その中でただ不信のみ自相が濁っており、不信はまたよく他の心心所をも濁らせるのである。それは極めて穢い物が、自らも穢れ、他をも穢れさすようなものである。それに対し、信は、不信の対極にある心所である。その為に心を浄らかにすることを以て自相とする。
 護法は、信の心所の本質的な働きは、自らも浄く、他の心心所をも浄らかにする心所である、と会通しています。不信とは染法であり、貪愛等の煩悩であるという。不信は「心心所を穢すことを以て性とし、浄信を妨害し、懈怠の依り所となることを以て業とする」心所なのですね。懈怠は不信によって生じ、不信とは、具体的には貪愛等の煩悩であり、惑・業・苦という循環的な苦悩の因になるのですね。
 「論。又諸染法至故淨爲相 述曰。此第二義。所餘一切染法等中。各別有相。如貪・愛等。染心所内唯有不信。自相渾濁。渾濁餘心等令成染汚。如極穢物自穢穢他。亦如泥鰍動泥濁水。不信亦爾。唯一別相渾穢染汚。得總染也。信正翻彼不信渾濁。故以淨爲信之相也。下破有二。如文可知也。」)(『述記』第六本下・六右。大正43・434c)
 (「述して曰く。此れ第二義なり。所余の一切の染法等の中に各別に相有り。貪愛等の如し。染の心所の内に唯だ不信有り。自相渾濁にして、余の心等を渾濁して染汚を成ぜ令む。極穢の物の自を穢し、他をも穢するが如し。亦泥鰍(どじょう)の泥を動かし水を濁すが如し。不信も亦爾なり。唯一の別相のみ渾穢染汚して総じて染なることを得るなり。信は正しく彼の不信の渾濁に翻ずるが故に。浄を以て信の相と為すなり。下は破なり、二あり、文の如く知るべきなり。」) 
 異説を述べる。先ず上座部の説、或は大乗の異師の説です。
 「有るが説かく、信は愛楽するを以て相と為すという。」(『論』第六・二右)
 有る義は次のように説いている、信は愛楽するということを以て自相とする、と。ここでいう愛楽とは、対象を愛し楽うこと、欲のことである。
 「論。有説信者愛樂爲相 述曰。上座部義。或大乘異師。謂愛樂彼法故。」(『述記』第六本下・六左。大正43・434c)
 (「述して曰く。上座部の義なり。或は大乗の異師、謂く彼の法を愛楽するが故に。」)
 第二は、論主(護法は) 論破していう。
 「応に三性に通ずべし、体即ち欲なる応し、又苦集は信の所縁に非ざる応し。」(『論』第六・二右)
 上に述べてきたように、上座部や大乗の異師の説である、「信は愛楽を以て相と為す」ということならば、信はまさに三性(善・悪・無記)に通じてしまうことになる。そのような信の体は欲になるであろう。また、苦諦と集諦は信の所縁ではない、苦諦や集諦は愛楽されるようなものではないからである。しかし、上座部や異師の説であるならば、苦諦も集諦も信の所縁になってしまう。このような主張は容認することはできず、誤りである、と論破しています。
 信の自相は「心を澄浄する」ことを自相としているのですから、欲を対象とするならば、悪をも愛楽する対象となるという問題が起こる。信は欲の心所ではなく、悪・無記を対象とするものではないことから、上座部・大乗の異師の説は退けられる。
 大衆部の説を挙げ、次に論破する。
 「有るが執すらく、信は随順するを以て相と為すという。」(『論』第六・二左)
 大乗の異師、或は大衆部の論師は、法に随順することを信の自相とすると説く。
 「論。有執信者隨順爲相 述曰。或大乘異師。或是大衆部。以隨順彼法是信相故。」(『述記』第六本下・七右。大正43・435a)
 (「述して曰く。或は大乗の異師、或は大衆部なり。彼の法に随順す、是れ信の相なるを以ての故に。」)
 「応に三性に通ずべし、即ち勝解と欲なるべし。」(『論』第六・二左)
 大乗の異師等の主張であるならば、信はまさに、三性に通ずることになるであろう。即ち悪にも通じてしまう、信が三性に通じるのであれば信の体は、即ち勝解と欲とになるであろう。
 しかし信の自相は勝解や欲ではないことはすでに述べた通りである。信の体は欲ではない、また勝解は三性に通じるが、善の心所である信が三性に通じたり、悪に通じるということにはならないのである。
 「論。應通三性即勝解欲 述曰。境有三性故隨通三。若許爾者應勝解・欲 彼若救言雖言隨順體非解欲者。」(『述記』第六本下・七右。大正43・435a) 
 (「述して曰く。境に三性有り。故に随って三に通ずべし、若し爾なりと許さば、応に勝解と欲なるべし。彼若し救して随順すと言うと雖も、体は解と欲とに非ずと言わば、)
 護法の論破
 「若し印して順ずるならば、即ち勝解なるべきが故に。若し楽うて順ずるならば、即ち是れ欲なるべきが故に。」(『論』第六・二左)
 若し信が、印して順じるものであるならば、それは即ち勝解に他ならない。そして、信が楽って順ずるものならば、それは即ち欲に他ならないのであって、信ではない。
 大衆部及び大乗の異師の説として、「信は随順することを以て自相とする」と主張していましたが、護法はこれを論破したことをうけて、更に反論をするという構成になっています。「その体は欲と勝解ではない」と。体は欲と勝解でなないという反論に対して護法は論破します。随順の体こそが勝解や欲に他ならない、と。 
  随順に二種あるというのが護法の正義になります。一には印順は、つまり勝解である、信が印して対象に順じるものであるならば、それはつまり勝解に他ならないのである。二は、楽順(楽って順じるものであるならば)つまり、これは対象を楽うものであるから、欲の心所のことである。
 従って、「信の体は随順することをもって自相とする」という限り信は勝解と欲の心所と同じことなり、それは信ではないと論破します。
 「論。若印順者至即是欲故 述曰。論主難云。隨順有二種。一者印順即是勝解。印而順彼故。二者樂順即是欲數。樂於彼法即是欲故 若彼救言二倶之順體是信。非即欲・解。」(『述記』第六本下・七左。大正43・435a)
 「若彼救言二倶之順體是信。非即欲・解。」(若し彼救して二倶なるの順の体是れ信なり。即ち欲と解とに非ずと言わば)
 「二倶(勝解・欲を同時に備えたものが)なるものが随順の体なのであって、これが信である、随順の体は欲と勝解なのではない」というのであるならば、と大乗からの異師の再反論が提出されています。
 護法、論破して言う。
 「彼の二の体に離れては順の相無きが故に。此に由って応に知るべし、心を浄ならしむるいい是れ信なり。」(『論』第六・二左)
 彼(欲・勝解)の二の体を離れては順(随順)の相(自相)は無いからである。即ち、随順の自相は欲と勝解の働きであって、信の働きではない。これによって知るべきである。心を浄らかにするのが信である、と。
 「論。離彼二體至心淨是信 述曰。論主難云。若離欲・解決非順相。非彼二故。如受・想等。故論但言離彼二體無順相故。由此應知心淨爲信。忍可及欲是信之具。正理論師以忍可爲信。即當此勝解也。」(『述記』第六本下・七左。大正43・ 435a)
 (「述して曰く。論主難じて云く。若し欲と解とを離れて決して順の相に非ず。彼の二に非ざるが故に。受想等の如し。故に論に但だ彼の二の体に離れて順の相無きが故に、此れに由って応に知るべし、心の浄なるを以て信と為す。忍可及び欲は是れ信の具なり。正理論師忍可を以て信と為すは即ち此の勝解に当たるなり。)
  忍可とは、勝解のことです。忍可と欲は信の具であると説明しています。具ですから、まあ材料ということになりますね。信そのものではなく、信の具材、信が備えていうものということになります。他の大乗の異師や大衆部の論師の主張は、信の因(忍可)と信の果(欲)を信の自相と錯誤しているのである、と論破します。正義は、信は心を浄らかにする働きである、と。
 信の心所をみていきますと、不信とはどういうことを言っているのかが知られてきます。
 少し長くなりましたが、これを基にして不信の心所を、もう一度、自分に引き当てて考えてみたいと思います。

第三能変 随煩悩 大随煩悩  不信(ふしん)・ 懈怠(けだい)その(1)

2015-11-23 10:49:56 | 第三能変 随煩悩の心所
    今日逮夜と初夜勤行にお参りさせていただく予定です。

 不信と懈怠について、『成唯識論』本文を先ず読んでみましょう。
 「云何不信。於實徳能不忍樂欲心穢爲性。能障淨信惰依爲業。謂不信者多懈怠故。不信三相翻信應知。然諸染法各有別相。唯此不信自相渾濁。復能渾濁餘心心所。如極穢物自穢穢他。是故説此心穢爲性。由不信故於實徳能不忍樂欲。非別有性。若於餘事邪忍樂欲是此因果。非此自性。云何懈怠。於善惡品修斷事中懶惰爲性。能障精進増染爲業。謂懈怠者滋長染故。於諸染事而策勤者亦名懈怠。退善法故。於無記事而策勤者於諸善品無進退故是欲勝解 。非別有性。如於無記忍可樂欲非淨非染無信不信。」
 
 云何不信(いかなるかふしん)。実(じつ)と徳(とく)と能(のう)とに於(おい)て忍(にん)し楽(ぎょう)し欲(よく)せず。心(しん)を穢(けが)すを以て性(しょう)と為し、能く浄心(じょうしん)を障(さえ)て惰(だ)の依たるを以て業と為す。謂く不信の者は懈怠(けだい)多きが故に。不信の三の相は心に翻(ほん)じて応(まさ)に知るべし。然(しか)も諸(もろもろ)の染法(ぜんぽ)は各(おのおの)別相(べつそう)有り。唯(ただ)此の不信のみ自相(じそう)渾濁(こんじょく)にして、復(また)能く余の心・心所をも渾濁すること極めて穢(けが)れたる物の自らも穢れ他をも穢すが如し。是の故に是は心(しん)を穢せしむるを以て性と為すと説けり。不信に由るが故に。実と徳と能とに於て忍し楽し欲せず。別に性あるに非ず。若し余の事(じ)に於て邪(じゃ)に忍し楽し欲するは是れ此の因果(いんが)にして、此の自性(じしょう)には有らず。
 
 云何懈怠(いかなるかけだい)。善・悪品(あくぼん)の修し断ずる事の中に於て懶惰(らんだ)なるを以て性と為し、能く精進(しょうじん)を障えて染(ぜん)を増(ぞう)するを以て業と為す。謂く懈怠の者は、染を滋長(じちょう)するが故に。諸の染の事に於て策勤(さくごん)する者をも亦懈怠と名く。善法を退(たい)するが故に。無記(むき)の事に於て策勤する者は、諸の善品に於て進退(しんたい)すること無きが故に。是れ欲と勝解(しょうげ)となり。別に性有るに非ざること無記に於て忍可(にんか)し楽欲(ぎょうよく)するは浄んも非ず染にも非ざるを以て信・不信無きが如し。

 今日は概略を述べ、詳細は明日以降にさせていただきます。。
  不信とは仏法を信じない心です。真実に触れたくない心と言い換えてもいいのではないでしょうか。縁起の道理を信じないという事ですから、自分の思いを信ずる心ということになりますでしょうか。仏法の門は「信を以って能入と為し、慧を以って能度と為す」(『大智度論』)といわれますように「信」が大切なキーワードになります。すこし戻りますが「信」とは「実・徳・能に於いて深く忍じ楽し欲して心を浄ならしむを以って性と為す。」といわれますね。「一に実有を信ずる」(「一切法の若しは事・若しは理に於いて信忍する皆是なり」)実有ということは『演秘』には「因果の体・四諦の事」といっています。四諦の真理、因果の理を信じるという事ですね。今私がここに存在するという事は事実ですね、それは縁起の理にかなっているわけです。事実の中に真理があるのです。事と理は離れては無いという事ですね。事と理を深く信忍することが「信」のないようになるのです。「忍」は認識するということになります。ニは「有徳を信ずる」(「三宝の真浄の徳の中に於いて深く信楽する故に」)三宝の徳を信じ尊ぶということです。三は「有能を信ずる」(「一切の世と出世の善の於いて、深く力有れば能得・能成なることを信じて希望(けもう)を起こすが故に」)自分にも善を修する力が有ると信じ、その力を得ようと希望を起こすことになります。希望とは欲ですね。清浄意欲です。そしてこの三が心を清浄にするのです。ですから随煩悩でいわれる不信は信を崩壊する働きを持ちますね。不信は自己中心的に考えますから全ては疑いからはじまります。人間関係も砂上の楼閣です。自分の都合に合わせて聳え立っているだけですね。「信」は浄・「不信」は染汚です。不信は「実・徳・能」を信じないということになり、心を穢すことになるのです。「能く浄信を障えて惰の依たるを以って業と為す」と。怠惰が所依となるのです。「不信の者は懈怠多きが故に」といわれています。懈怠や怠惰の心の状態は自分の中だけにとどまらないのですね。「自相渾濁にして、復た能く余の心・心所をも渾濁すること極めて穢れたる物の自らも穢れ他をも穢すが如し」といわれますように、自分の穢れが他をも穢していくことになるのですね。これは自分の浄がまた他をも浄にしていく働きを持つという事をいわんとしているのですね。如何に自分の振る舞いが大切であるのかが教えられています。
次は懈怠です。「不信の者は懈怠多きが故に」といわれていました。不信は浄信を障えて惰を依所とするのですが、惰の依とは懈怠であるといわれているのです。『論』に「善・悪品の修し断ずる事の中に於いて懶惰(らんだー怠け怠ること)なるを以って性と為し。能く精進を障えて染を増するを以って業と為す。」いわゆる廃悪修善です。善を修し、悪を断ずる事の中にといわれますね。廃悪修善という事実の中に懶惰であるということが懈怠の性格なのです。懈怠が精進を障えるのです。それだけではなく染を増すといわれます。汚染です。汚れを増長するのです。「謂く懈怠の者は、染を滋長(じちょう)するが故に。諸の染の事に於いて策勤(さくごん)する者をも。亦懈怠と名づく。善法を退するが故に」ここは大変に面白いことがいわれますね。策勤(さくごん)は努力です。悪いことに対して努力をすることも懈怠であるというのです。これは大切なことを教えていますね。自己中心的に物事を観て自分の思い通りに努力することも、一生懸命ではないのですね。懈怠なのです。私たちは一生懸命に努力することは素晴らしいことだと思っていますが、真理からみると懈怠なのです。そういえば訓覇信雄師は「本当に明らかにしなければならないことが見出せば仕事なんかしていられん、あんた達はようするに暇なんや、暇やから仕事に精を出しているんや」といわれていたことを思い出します。非常にインパクトの強い言葉の響きがあり、心に突き刺さります。
 

第三能変 随煩悩 大随煩悩 「掉挙(じょうこ)」・「惛沈(こんじん)」について。

2015-11-22 13:58:05 | 第三能変 随煩悩の心所
 

 2015年6月7日より暫く見ておりませんでした随煩悩について学びたいと思います。
 小随煩悩の忿等の十と、中随煩悩の二は既に述べました。大随煩悩には、[掉挙](じょうこ)」・「惛沈(こんじん)」・「不信」(ふしん)・「懈怠(けだい)」・「放逸(ほういつ)」・「失念」(しつねん)・「散乱」(さんらん)・「不正知」(ふしょうち)の八つがあげられています。「悼挙等の八は染心(ぜんしん)に遍(へん)せる故に大随煩悩(だいずいぼんのう)と名(な)づく」といわれます。「自ら倶生(くしょう)すること得れば、但だ染(ぜん)に皆な遍じて倶生することを得るが故に。小と名づくべからず。染に皆、遍するが故に中と名づくべからず。・・・故に八を大と名づく。」(『述記』)「悼挙等の八は七識に遍ぜるが故に。説いて名づけて大と為す。」(『演秘』)と。「大」というのは染心にということです。「中随煩悩」が「不善に遍ず」といわれるのとの違いです。不善は悪ですが染心は悪と有覆無記の両方が含まれるということなのです。随煩悩に小・中・大と分位差別(ぶんいしゃべつ)があることは以前に述べていますが、今一度おさらいをしておきます。
 小随煩悩は第六識と相応するのです。意識的な分別心ですね。十の随煩悩と相応して働きますが、各別起(かくべつき)といわれ各々、別々に働くといわれています。  
 中随煩悩はニ(無慚・無愧)有りますが、「遍不善」(へんふぜん)といわれ、不善の働きには必ずみられるといいます。六識と共に働きます。いわゆる眼・耳・鼻・舌・身・意の心と共に働くのですね。
 大随煩悩、大随惑ともいわれますが、「遍染心(へんぜんしん)」といわれ、八つ数えられます。七識に働くのです。六識と末那識をくわえた七識ですね。末那識は染汚識(ぜんましき)ともいわれますし、有覆無記(うぶくむき)といわれます。有覆ですから汚れですね。何に依ってかは、四の煩悩に覆われているからです。我執によって覆われているのです。
 「染」とは不善と有覆無記との両方を含みます。末那識と働く時には有覆無記として働くのです。我意によって知らず知らずの内に人を汚していくのですね。自と他をはっきりと選び分け、自の得を選びとるといわれています。(「慧」の心所で簡択(けんじゃく)「恒審思量」(ごうしんしりょう)といわれ、恒(つね)に審(つまび)らかに自分を思い量(はか)っているのです。この心は、心の深層に微細に働くのですね。ですから気づかないのです。小・中随煩悩は表層に働きますから認識できるわけです。見えるもの(認識されるもの)は何とかなるのですが、見えない(認識されない)大随煩悩は教えに出遇えない限り自覚することは無いのです。末那識は外には働きません。阿頼耶識の見分を対象としていますから、いのちを自分のものと執着を起こし他を捨てているのです。
 では大随煩悩の一つ一つについて考えてみます。今日は、掉挙(じょうこ)と惛沈(こんじん)について窺います。
 掉挙(じょうこ)ついて、
 掉はふり上げる、ふりうごかすという意味があり、挙は高く持ち上げるということです。掉挙は心の高ぶりであり、心が高ぶって揺れ動くということですね。冷静ではいられないという心の働きになります。
 「心(しん)をして境(きょう)に於いて寂静(じゃくじょう)ならざらしむるを以って性と為し。能く行捨(ぎょうしゃ)と奢摩他(しゃまた)とを障(さ)うるを以って業と為す。」(『論』)
 と定義されます。
 「境」に於いてといわれますから対象です、対象世界、私が見ている、考えている対象に於いて「寂静ならざらしむ」ということです。平静ではいられないということですね。心が静かではなく揺り動かされるということになります。心が平静を保てないという事が掉挙(じょうこ)の本質なのです。
 行捨(ぎょうしゃ)は善の心所、十一の一つに数えられ「心を平静正直にならしむる心なり」(『ニ巻抄』)といわれ、奢摩他(しゃまた)は止と訳し、心が寂静になった状態を言います。「行捨・奢摩他」を障碍(しょうげ)するのです。行捨・奢摩他は修道(しゅどう)に於いていわれることです。止観行(しかんぎょう)といいますね。雑念を止めて心を一つの対象に集中し、正しい智慧を起こして対象を観察する修行のあり方です。心をいつも平静を保った状態で精進と貪らず・瞋からず・愚痴らずという三根を修めていくのです。いわゆる精進努力です。これを妨げる働きが掉挙なのです。
 また、掉挙には別の相があると云われています。
 「掉挙(じょうこ)の別相と云うは。謂く即ち囂動(ぎょうどう)なり。倶生の法をして寂静なら令しむるが故に。」 (謂く囂(かまびす)く掉(ふるっ)て挙動す。是れ此の自性なり。其の倶生する心心所法をして寂静ならざら令むるが故に。)
 囂 ― ゴウ(ガウ)・かまびすしい。がやがやと騒がしいこと。
 掉 ― トウ・チュウ。熟語としては、掉舌(トウゼツ)-さかんにしゃべること。掉臂(トウヒ)-腕を振り動かす、ここはですね、がやがやと騒がしく、落ち着かず、心が揺り動かされることが掉挙(じょうこ)の別相といわれるのです。
 仏道は精進ですね。生死いづべき道を求めるのです。その人を菩提薩多(ぼだいさった)といわれてきました。菩提は自行化他であり忘己利他の精神ですから、そのありかたを妨害する働きが大随惑の最初に云われる掉挙なのです。心の中からですね。「やめとけ」というのです。心が寂静になり菩提と涅槃に向かうと末那識が困るのです。どこまでいっても自己を溺愛し続けますから、溺愛を否定されることは自我執着心にとって天敵なわけです。ですから騒がしく寂静になることを妨げて自己否定から自己を保守する働きをするのです。
 身につまされます。別に言い当てていただかなくてもいいそうですが、仏道はここが突破口になるのですね。避けては通れない道ですね。
 惛沈(こんじん)ついて、
 惛沈(こんじん―重く沈んだ心)「しずみおぼれたる心なり」(『ニ巻抄』)といわれ、心が重く沈んだ状態をいうのですね。掉挙の反対です。掉挙は高ぶる心といわれていました。「境」に於いて、私の境遇です。境遇は縁に依って与えられるものですね。縁に依って与えられた境遇に耐えられなく心が沈んでしまうのが惛沈です。
 「心を境に於いて無堪任(むかんにん―耐えられない)ならしむるを以って性と為し。能く軽安(きょうあん)と毘鉢舎那(びばしゃな―観)とを障るを以って業と為す。」
 「述して曰く。此れは乃ち別して善の中の軽安を障う。通じて観品を障う。過失増することを顕わしてニ(軽安と毘鉢舎那)を障ゆること有りと。」(『述記』)
 「境に於いて無堪任」ということが本質であると。自分にとっての境遇に耐えられないで心が重く沈んでしまうという状態ですね。「軽安(きょうあん)と毘鉢舎那(びばしゃな―観)」とを障碍するということですから、ここでも仏道修行においていわれています。
 先に高ぶる心(掉挙)は奢摩他を障うるといわれていましたが、奢摩他は止・毘鉢舎那は観で奢摩他毘鉢舎那(しゃまたびばしゃな)で止観(しかん)と訳されます。心を禅定に保ち、ものの本質を観ずることなのです。それを障碍する心が掉挙であり、惛沈なのです。軽安は善の心所の中にありました。のびのびとしているという心です。境遇に於いて煩悩を遠離し調和して軽やかであるというのです。
 また、
 「惛沈は別に自性有り。痴の分と雖も而も是は等流なるを以ってす。不信等の如し。即ち痴に摂めらるるものには非ず。」(第三説)
 いろいろな説が紹介されているのですが、まず第一説は貪りの一分であるというもの。
 第二説は一切の煩悩に於いて共通して有るものという。
 そして第三説が本旨です。「惛沈は別に自性有り」といい、独自の心所であるといっています。ですから癡の一分とか、一切の煩悩に共通して有るというものではなく、独立して働くというのです。心が高ぶったり、沈んだりするのは癡と共にとか、一切の煩悩と共にということではなく、独自に働いているといわれるのです。
 「惛沈は境に於いて瞢重(もうじゅう―暗く重い意識)なるを以って相と為し、正しく軽安を障ふ、而も迷・闇には非ず。」

 「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」とは縁起の道理ですが、私は、内に虚仮を懐いて外に賢善精進の相を現じているのです。このあり方が瞢重(もうじゅう)なのですね。曽我先生は「善人(賢善精進の人)は暗い、悪人(信心獲得の行者)は明るい」とよく仰せでした。佛道を歩むということは真実の自己に出遇うことなのでしょう。真実の自己に出遇うことに於いて我執に死して自信教人信のまことに生きる人生を賜ることな、このようにいただいております。
 掉挙(じょうこ)は「行捨と奢摩他を障ふる」といわれ、精進と無貪・無瞋・無癡の三善根の上に「心を平等正直無功用(びょうどうしょうじきむくゆう)ならしむる作用」(行捨、ぎょうしゃ)と奢摩他(しゃまた、止・寂静)「心を摂して縁に住し、散乱を離るる」といいますが、その行捨と奢摩他を妨害するのが掉挙という煩悩ですね。この煩悩は貪の一分や瞋の一分というのではなく単独で、独自に働く煩悩なのです。
 惛沈(こんじん)は惛昧沈重(こんまいじんじゅう)の意味で、惛も昧も暗いということです。沈重は怠惰・頑迷にさせる精神作用になります。「軽安と毘鉢舎那を障ふるを業と為す」といわれます。
 奢摩他毘鉢舎那という止観は仏教の大切な行ですが、親鸞聖人は『教行信証』信巻・証巻に『浄土論』『論註』を引用され還相回向の教証とされました。「奢摩他毘鉢舎那方便力成就(しゃまたびばしゃなほうべんりきじょうじゅ)をすることを得て、生死の稠林(ちゅうりん)に回入(えにゅう)して、一切衆生を教化して、共に仏道に向かえしめたまうなり。もしは往(おう)、もしは還(げん)、みな衆生を抜きて生死海を渡せんがために、とのたまえり。」と、衆生の救済です。救済という事の内実は「生死海を度す」ということですね。「生のみが我らにあらず、死もまた我らなり」という眼差しが、死して悔いのない人生を歩ませるのではないでしょうか。善導大師は「苦の娑婆を厭(いと)い、楽の無為を欣(ねが)いて、永く常楽に帰すべし。ただし無為の境、軽爾としてすなはち階(かん)うべからず。苦脳の娑婆、輙然(ちょうねん)として離るることを得るに由なし。金剛の志を発すにあらずよりは、永く生死の元を絶たんや。」と生死の元を絶つことが永く常楽に帰することであると教えています。生死の元は我執ですね。法に背いている自己です。そしてですね。法に背いている自己に目覚めるには「回向為首得成就大悲心故」(回向を首として大悲心を成就することを得たまえるが故に)という如来の願心に触れることが必要不可欠であるといわれているのです。それでなければ「親(まのあた)り慈尊に従いたてまつらずは、何ぞよくこの長き歎きを勉(まぬか)れん」と、苦脳の娑婆に生きていることを曇らせて微細に生死の元を覆い隠してしまうのですね。それによって私たちは迷い乱れていることの自覚がもてないのではないでしょうか。こんなことを思いつつお付き合いいただいております。ありがとうございます。

初能変 第六 心所例同門 (12) 六門例同の義 護法の正義 補足 

2015-11-20 23:41:35 | 初能変 第六 心所例同門
明日から御正忌報恩講が勤まります。報恩講に遇わさせていただく、有難いことです。南無阿弥陀仏。

 昨日の投稿で、いささか強引なところがありました。僕自身も整理が付かないままに投稿したことお詫びいたします。
 「触等亦如是」の後に、「恒転如暴流」(恒に転ずること暴流のごとし)という因果法喩門と伏断位次門がと説かれてきますから、この二門を含めて判断しますと、次のようになります。
 例同できるのは、
  果相門
  不可知門
  所縁門
  相応門 
  三性門
  伏断位次門
 例同できないものは、
  自相門
  因相門
  行相門
  受倶門
  因果法喩門
 となります。
 本科段でいいますと、第八阿頼耶識と、第八阿頼耶識と相応する心所である「触等」が「亦如是」というのは、例えば、果相門でみますと、果相門は異熟ですが、異熟と相応する心所も亦、異熟ということなのですね。以下、触等も不可知であり、触等も執受と処を所縁とし、自以外の五法と相応し、無覆無記であり、阿羅漢果において断捨されるものである。
 そして、自相門である阿頼耶識と、因相門である一切種と、行相門である了と、受倶門である唯捨受と、因果法喩門である常転如暴流は心王に属するものですから、触等とは例同しないということを明らかにしたのですね。つまり、阿頼耶識の心所を阿頼耶識に例同して、その意義を明らかにしたのです。これは唯だ阿頼耶識陀の問題ではなく、八識全般にわたっての問題になります。八識全体に触・作意・受・想・思は遍行しますから、第七末那識と相応する五遍行は有覆無記であるわけですね。第三能変第六意識になりますと、五遍行は三受(苦・楽・捨)と相応することになります。
  悩みが深いほど、触れてる世界が深い。
  自分が意識しない世界で、教えられ、仏法に触れた証が、
  今、苦悩を縁として華を開かそうとしている。
  自分はいつしか他に責任を押し付け、自分の立ち位置を確保したいと思っているけれども、
  道理は、理に違するものとして苦悩を与えてくる。
  苦悩は理に違することに対する必然の理(ことわり)なのである。
  いま、宗祖に出遇い、自分の生い立ちの背景の深さに気づかされる時、
  「この身今生において度せずんば、さらにいずれの生においてかこの身を度せん」。
  アーラヤ識、迷い識であると共に、純粋無垢なる識として、
  迷いの人生に、迷いとともに流転してやまないアーラヤ識。
  汝が汝として呼びかけられた声を聞きえる時、
  そこに与えられた世界は海一味であろう。 
  海一味に於いて、流れ出てきた河の染汚に深い悲しみをいただく。
  人生とは、悲しみと慶びの紙一重の重なりの中の営みなのであろうか。
  明日から御正忌報恩講が真宗本廟で厳修される。
  報恩講に出遇させていただける、そこに生まれたことの意義が見出せる。
  どんな生きざまであっても、いのちは輝いている。
  有難い事である。南無阿弥陀仏。

初能変 第六 心所例同門 (11) 六門例同の義 護法の正義 (3)

2015-11-19 21:25:53 | 初能変 第六 心所例同門
  

 「此に由りて故(かれ)知る。亦如是(やくにょぜ)と云うは、所応(しょおう)に随って説けり。一切を謂に非ず。」(『論』第三・七左)
 これに由って知られるであろう。「亦如是」という言は、例同(れいどう)するところと、例同できないところがあるので、所応に随って判断するべきである。一切をいうのではない。
 では何を例同し、難を例同しないのかと言えば、
 例同を示す。
 「此は幾門にか例同するとならば即ち六門なり。前の二師は五門に例同す。今は断捨(だんしゃ)を加えて所応に随うが故に。余に例せざることは義に准じて知るべし。文の便に随うを以て中間(ちゅうげん)に相例せり。故に「亦捨位」(やくしゃい)にも例すと許す可し。・・・」(『述記』第三末・四十四右)
 断捨とは、伏断位次門の「阿羅漢位捨」(阿羅漢の位に捨す)を指します。
「触等亦如是」の後に、「恒転如暴流」(恒に転ずること暴流のごとし)という因果法喩門と伏断位次門がと説かれてきますから、この二門を含めて判断しますと、次のようになります。
 例同できるのは、
  果相門
  不可知門
  所縁門
  相応門 
  三性門
  伏断位次門
 例同できないものは、
  自相門
  因相門
  行相門
  受倶門
  因果法喩門
 となります。
 初能変は「触等亦如是」まで見てきました。ここで暫く休憩をいただきまして、第三能変の続きを読んでまいりたいと思います。
 本年6月17日より休載しておりましたが、随煩悩の中随煩悩の説明を終えまして、小随煩悩について考究しえいきます。煩悩いついてですので、「ああ、そうか」という自分が言い当てられているというところもあろうかと思います。お付き合いよろしくお願いいたします。