「或は、此が所縁の内執受の境も亦微細なるが故、外の器世間も量測り難気が故に、不可知と名づく。」(『論』第二・三十二左)
種子
内執受〈 〉 所縁
有根身(身体)
外 器世間
所縁は相分ですが、相分は知りがたいと、自分の経験が自分の根柢の阿頼耶識の中に蓄えられ、縁に触れて現行してくるわけですが、そのことは思いもよらずで、具体的にどのような形で現れてくるのかはわからない、今こうしてPCの前でブログを更新しているわけですが、これも様々な縁の催しによるわけですね。明日ここに座っていることができるのかはわかりません。どういう形で現行してくるのか予測がつきません。どちらかというと希望的観測で、明日もこうであろうと判断しているだけに過ぎないのですね。
「内の執受の境に於いて、即ち有漏の種と及び有根身とは微細にして知り難し。非執受の境に於て、外の器世間は量大にして知り難し。」(『述記』)
外の器世間は量測り難し、私たちの知っている世界はたかが知れています。宇宙全体のことは微塵も解っていませんね。地球以外に生物が生存しているのかどうかもわからない、生命体がいても、その生命体がどのようにして命を持続させているのかも判らないですね。知っていることはたかが知れているわけです。
内執受と、外の器世間は不可知であるということは、私が知りえる範囲は非常に狭いということ。狭い範囲で本当に物事を正確に判断することができるのかが問われているわけでしょう。
その深い不可知の世界からの問いかけが阿頼耶識として、私の意識に、意識を超えた働きとしてあることを思います。
一応ここで第二の所縁行相門を閉じます。そして第三の心所相応門について考究させていただきます。