唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 能変差別門 (16) 識の得名

2012-07-31 22:12:48 | 心の構造について

第六識は、意根を所依としているので意識というのであれば、第七識も第八識もまた唯だ意のみを所依としているので、意識というべきではないのか、或いは第八識は、唯だ末那識のみを所依としていることから意識と名づけられ、第七識は心(第八識)のみを所依としているから、心識と名づけられるべきではないのかという問い(『述記』)がだされ、これに答えるのが本科段になります。

 「識の得名を弁ずるに、心と意とは例に非ず。」(『論』第五十六左)

 (識の名づけられかたを弁ずる(説明する)のに、心(阿頼耶識)と意(末那識)とは、識(六識)の例にはならない。)

 識に六あるのは、相望(相対)して名をつけているのであって、第八を心と名づけ、第七を意と名づけるのは相対の点からではない(「此に況するに非ず」)と。この点から(「例すること成ずるに非ず」)同一の例として論じることはできない、と説明しています。

「論。辨識得名心意非例 述曰。謂識有六相望辨名。第八名心。第七名意。非此所況故例非成。不望彼故。若望心・意六得名者。彼三各據一義勝故。心攝藏法集起法勝。意思量境恒計度勝。意識了境從所依勝 問何故七・八不從所依以得其名。意識即爾 答七・八相續當體彰名。六有間斷從依得稱。七・八據依亦有此義。諸論但依自勝立名。六對七・八以得名識。兼釋七・八得名意別 此下六識從境得名。」(『述記』第五末・四十八左。大正43・416c)

 「若爾七依八生何不名心。八依七生何不名意 答論云辨識得名心・意非例。又七・八自相續。當體得名。六識間斷。從依・縁目。或准界・處倶名心意。第七名心意。第八名意心。理亦無失。然無誠文。(『了義燈』第五本・十八右。大正43・749b)

 (「述して曰く。謂く識に六有るを以て、相望して名を弁ず。第八を心と名け、第七を意と名け、此に況するところに非ず。故に例すること成ずるに非ず。彼に望めざるが故に、若し心と意とに望めて六の名を得ることは彼の三は各々一の義勝れたるに拠って、故に心は法を摂蔵し法を集起(じゅうき)すること勝れたり意は境を思量して恒に計度(けたく)すること勝れたり意識は境を了すること所依に従って勝れたりを以てなり。

 問。何が故に七と八とは所依に従って以て其の名を得ず。意識は即ち爾るや。

 答。七と八とは相続するを以て当体に名を彰す。六は間断有るを以て依に従って称し得たり。七・八も依に拠って亦此の義有るべし。諸論は但だ自の勝れたるに依って名を立つ。六は七・八に対して識と名くことを得るを以て、兼ねて七・八の得名の意の別なることを釈す。

 此の下は六識は境に従って名を得と。」)(『述記』)

 (「(問) 若し爾らば七は八に依って生ず、何ぞ心と名けざる。八は七に依って生ず、何ぞ意と名けざる。

 答。論に云く。識の得名を弁ずることは、心と意と例に非ずと云えり。又、七と八とは自相続す、当体を以て名を得たり。六識は間断す、依と縁とに従って目(もく)けたり。

 目 - 名づけること。

 或は、界・処に准ぜば倶に心とも意とも名け、第七は心意と名け、第八をば意心と名け、理亦た失無し。然るに誠文無し。」)(『了義燈』)

 第七識・第八識の二識はその所依はあるけれども、(第七識は第八識を、第八識は第七識を所依とする)、恒相続の識であるから所依に依らず当体に名を立て、第六識は間断があるから前五識と同じく所依に随って名を立てるのである、と。

 


第三能変 能変差別門 (15)

2012-07-30 21:31:20 | 心の構造について

 第二解

 「或は唯だ意のみに依る故に、意識と名づく。」(『論』第五十六左)

 (あるいは、ただ意のみに依る為に、意識と名づけられるのである。)

 「論。或唯依意故名意識 述曰。謂眼等五亦依眼等五有色根。此第六識若等無間。若倶有依唯依意根。依唯意故得意識名。五通意・色二所依故 若爾七・八二識亦唯依意。或第八識唯依於意。第七依心。應名心識。或名意識。」(『述記』第五末・四十八右。大正43・416b) 

 (「述して曰く。謂く、眼等の五は亦眼等の五の有色根に依る。此の第六識は若しは等無間にも、若しは倶有依には唯だ意根に依る。唯だ意に依るが故に意識と云う名を得。五は意と色との二の所依に通ずるが故に。

 若し爾らば七・八の二識も亦唯だ意に依る。或は第八識は唯だ意に依る、第七は心に依る、応に心識と名づけ、或は意識と名づく。」)

 眼等の前五識は、意根を開導依とし、眼等の五の有色根(色根ともいう。眼根等の五根を指す。物質的なものから構成される感覚器官)を倶有依としている。しかし、第六識は等無間縁依(開導依)にも、倶有依にもただ意根に依るのである。このように第六識のみが、意根を開導依・倶有依ともしているので、意識と名づけられるのである。前五識は意根と色根との二つを所依としているのである。

 前五識は前滅の意と有色根との二の依に依るけれども、第六識は等無間縁依と倶有依とに依って、二倶に意であるから、前五識と異なり、第六識を意識と名づけられるのである、と。所依に随って名を立てている、と説明されます。

 六識は大・小乗共許ですね。小乗も認めている六識です。しかし、大乗仏教、特に瑜伽の大乗では六識の根底に末那識・阿頼耶識を見出してきたのです。六識の根底を明らかにしたというべきですね。逆にいうと、末那識・阿頼耶識を見出すことにおいて六識を位置づけたのです。

 問いが出されます。第六識は、意根を所依としているので意識というのであれば、第八識も第七識も、ただ意のみを所依としている、また第八識は、ただ意のみを所依としている意識と名づけれられ、第七識は心(第八識)のみを所依としているから、心識と名づけ、あるいは意識と名づけられるべきではないのか、という問いです。

 

 


『下総たより』 第三号 『再会』  追加 Ⅱ (その2)

2012-07-29 19:27:31 | 『下総たより』 第三号 『再会』 安田理

 阿頼耶識というものを考えてみると、種子ということがある。凡ての存在は種子から生れてくる。種子は可能性、可能性が現実性となる、阿頼耶識は一切のものを可能性としてもっている、現実性としてもっているのでない。現実性としてみえるものは既にあるものである。無限に現実というものを可能としてもっている、阿頼耶識は可能として世界をもっている。阿頼耶識を自己、自己は世界を未来としてもっている、私の上にどれだけの未来が生れてくるかわからない。未来は不安であるが不安はわからんから、わかったことは過去、無限に形をとってゆく、そういう意味で世界は未来から、過去から生れてくるものでない、未来から生れてくる。そういう未来を過去の根底にもっている。そういうことは過去と矛盾せぬ、過去の中にあっても然も過去を超えている。そういう時間の根元、あらんとするというところに、既にあったのでない。無限にあらんとするという、そういう純粋時間、当来ということもあるがそれは描かれる未来でない。期待として描かれる未来というものは理想である。理として想される、描かれるけれども行けない。純粋というものは描けんでもゆける、此方から描けんけれども併しゆける、理想というものは化土で、化土的世界が理想としての世界である。純粋の世界は真実報土、それは形がない。無限に形を生産する、われわれは未来の時に未来があるのでなくして、いつでも未来を現在の根元にもっている、寧ろ未来というものが現在というものの源泉である。        (つづく)                 


『阿毘達磨倶舎論』に学ぶ。 序章 (1)

2012-07-29 17:54:07 | 『阿毘達磨倶舎論』

 今日から毎週日曜日に世親菩薩が著されました『阿毘達磨倶舎論』(?????????? Abhidharmakośa)に学んでいきます。世親菩薩は唯識の大成者とし、また浄土教の祖師としても有名ですが、もとは説一切有部の学僧として、小乗仏教の論師でもありました。兄の無著菩薩に勧められて大乗仏教に転向したのはあまりにも有名です。

 『唯識論』と『倶舎論』を学ぶことには深い関わりがあります。昔から唯識三年倶舎八年といわれていますが、倶舎論を八年研鑽してようやく唯識が三年で理解されるといわれています。

 『倶舎論』は私たちの表層の六識について深く考究されています。その上に大乗仏教は迷いの構造を第八阿頼耶識に求めました。『倶舎論』に批判を加えて深層の心の構造を明らかにしたのです。

 先程、世親菩薩は説一切有部の学僧といいましたが、説一切有部の根本聖典は『阿毘達磨大毘婆沙論』でありました。この聖典の教理を組織して、これに批評を加えて完成したのが『倶舎論』なのです。

 説一切有部は釈尊滅後の教団の分裂に伴い「三世実有法体恒有」という極端な実有論を唱えました。上座部から派生したものです。そして有部から経量部が生まれました。諸部のもう一つの潮流に大衆部の存在があります。大乗仏教に多大な影響をおよぼしました。大衆部は「現在有体、過未無体論」を唱えました。

 『成唯識論』を学んでいく中で小乗諸部派の教説が多く述べられ、それに批評を加えて大乗の正義が説かれていますことは、「唯識に学ぶ」のなかで多く見受けられるところです。

 真宗大谷派でも古来より多く『倶舎論』が研究されたようです。

  •  美濃の法幢は倶舎稽古二巻
  •  法海は同講義十巻
  •  澄玄は同講述十巻
  •  宝成は同記四十六巻
  •  龍温は同講義十九巻
  •  法宣は同講義十巻(明治三十一年開版) 等々。

 近代に入って舟橋水哉著『倶舎論講義』・赤沼智善師の『阿含の仏教』一巻等が著述されているようです。

 『倶舎論』全体を貫く主張は三世実有論でありますが、諸法は無我であることを説くことに主題があります。九品に分けて述べられています。

  •  界品(二巻) 諸法の体
  •  根品(五巻) 諸法の用
  •  世間品(五巻) 果
  •  業品(六巻)  因  } 有漏
  •  随眠品(三巻) 縁          } 三十巻
  •  賢聖品(四巻) 果           (倶舎論記に依る)
  •  智品(二巻)  因  } 無漏
  •  定品(一巻半) 縁
  •  破我品(一巻半)

 初めの八品は諸法の事を明らかにし、後の破我品に於て無我の理を明らかにしています。

  1. 界品(かいぼん) - 存在の種類
  2. 根品(こんぼん) - 存在現象の活動
  3. 世間品(せけんぼん) - 世界の構成
  4. 業品(ごうぼん) - 有情輪廻の原因となる
  5. 随眠品(ずいみんぼん) - 有情の煩悩
  6. 賢聖品(けんしょうぼん) - 悟りの段階
  7. 智品(ちぼん) - 智慧
  8. 定品(じょうぼん) - 禅定
  9. 破我品(はがぼん)

界品・根品で基礎的範疇を説明し、世間品・業品・随眠品で迷いの世界を解明し、賢聖品・智品・定品で悟りに至る道を説く。最後に付録の破我品で異説を論破するという構成になっています。            (つづく)

 

 

 

 

 

 


第三能変 能変差別門 (14)

2012-07-28 22:18:13 | 心の構造について

「論。雖六識身至無相濫過 述曰。若如所問六皆依意。然唯第六獨依第七不共意根餘五即無。今依不共以立其名獨名意識。如五識身亦依於意。依不共根以得稱故。彼名眼識不名意識。此亦如是。五義具故 問如前説依五・八依七。何故第六稱不共依 答若染淨依・及倶有依。七望五・八倶是所依。然近順生不共識者。即唯第六。今言不共意顯近而順生。以六種子必隨七故。餘五等不然。故此得名無相濫失。此爲一解。」(『述記』第五末・四十七左。大正43・416b)

 (「述して曰く。若し問うところの如くんば六皆意に依る。然るに唯だ第六のみ独り第七の不共の意根に依って、余の五には即ち無し。今は不共に依って其の名を立てたるを以て独り意識と名づく。五識身も亦意に依る。不共の根に依って称を得たるを以ての故に。彼を眼識と名づけて意識と名づけざるが如し。此(第六識)も亦是の如し、五義具するが故に。

 問、前に依を説くが如し。五・八も七に依る。何が故に第六のみに於て不共の依と称す。

 答、若し(五の)染浄依及び(八の)倶有依たるをば、七を五・八に望めても倶に是れ所依なり。然るに近順生の不共の識は、即ち唯だ第六にのみあり。今不共と言うは意近くして順じて生ずということを顕す。六の種子は必ず七に随せるを以ての故に。余の五等は然らず。故に此れ名を得ること相い濫ずる失無し。此れを第一解と為す。」

 問いに言われているように、染浄依及び倶有依という点からは、第六意識だけではなく、前五識も、第八阿頼耶識も、また意識といえるのではないかという疑問は、染浄依と倶有依という点からはその通りである。末那識は前五識に対しては染浄依であり、第八阿頼耶識に対しては倶有依となる、このことは『述記』第四末に述べた通りである、と。しかし、「近順生」という点からは、ただ第六識しかないからであると説いています。この点については『了義燈』(第五末・十八左)に説明が加えられています。

「釋意識得名。問五・八皆依七。何故六稱不共依。獨得名意識非五・八耶。答若染淨依及倶有依。七望五・八倶是所依。然近順生不共依者。即唯第六。今言不共意。顯近而順生。何者以六種子必隨七種。七種生現意識隨生。如眼識種依眼根種。此亦如是。五・八不説依第七種。故此得名無相濫失。」(『了義燈』(第五末・十八左)。大正43.749b)

 「意識の得名を釈するに於て、

 問、五・八も皆七に依る。何が故に六のみを不共依と称す。独り意識と名くることを得て、五・八には非ざるや。

 答、若し染浄依及び倶有依ならば、七は五・八に望めて倶に是れ所依なれども、然も近く順じて生ずる不共依ならば、即ち唯だ第六のみなり。今不共の意と言うは近じて順生するを現わす。何んとならば、六の種子は必ず七の種に随せり、七の種の現を生ずるときに意識随って生ずるを以てなり。眼識の種の眼根の種に依るが如く、此も亦是の如し。五も八も第七の種に依ると説かず。故に此の得名において相い濫ずる失無し」と。

 第六意識の種子は、必ず第七末那識の種子に随い、第七末那識の種子が現行する時は、これに随って第六意識も生ずるからである。これは眼識の種子が五根の種子に依るのと同様である。このように前五識も第八阿頼耶識も第七末那識に依るとは説かない。意識が第七末那識を所依としていることを不共依といい得るという、と説明しています。

 


第三能変 能変差別門 (13) 

2012-07-27 23:05:40 | 心の構造について

 六識全体が意識であって混乱するのではないかという疑問が起こってくるのですが、、六識は不共であるから混乱はしないということなのです。混乱というのを濫という言い方をしていますね。それに対して末那識は六識にとって共依です。末那識は六識全体にかかってきますが、眼識は眼根にも依り、末那識にも依るということなのですが、意識は末那のみに依る、意識は意根が独自の依であるということです。それに対して眼根が眼識にとって独自の依、乃至身根が身識にとって独自の依になります。前五識と意識ですが、不共依ということで混乱の過失がないと説明しています。

 「六識身ながら皆意に依って転ずと雖も、然も不共なるに随って意識という名を立てたり、五識身の如く相濫ずる過無し。」(『論』第五・十六右)

 (六識身が、すべて意根に依って転じるといっても、不共という点から意識という名を立てたのである。五識身のように相い濫じる過失はない。)

 第一解 - 六識とも、意根(前滅の識を意根という点からの問題)に依る識であり、六識全体が意識と名づけられるべきであるが、どうして、そうならないのかという。第一解は、「ただ独り第七の不共の意根に依って」名づけられるのである。「余の五は即ち無し」と。「五識身も亦意に依るとも不共の根に依って称を得たるを以ての故に。」識は、その識独自の依り所である不共依の根に基づき名づけられるのである。「彼を眼識と名づけて意識と名づけざるが故に」。第六識は、末那識を不共依とし、第六識を意根による識、つまり意識と名づけられるのである、と。

 しかし、第七末那識を意根という場合には、さらなる問題が生じると『述記』は述べています。

 「問う、前に依を説くが如し。五・八も七に依る。何が故に第六のみにおいて不共の依と称す。」

 第六識に限らず、前五識も第八阿頼耶識も、第七末那識を所依としている。では何故第六意識のみにおいて不共依といい得るのか、末那識は第六識のみの不共依とは言えないのではないか、という疑問です。

 「答う、若し染浄依及び倶有依たるを以て七の五・八に望めても倶に是れ所依なり。然るに近順生の不共の識は即ち唯第六のみなり。今不共と言うは意近じて順生することを顕す。六の種子は必ず七に随せるを以ての故に、余の五等は然らず。故に此れ名を得ること相い濫ずる失無し。此れを第一解と為す。」(『述記』)

 若し染浄依及び倶有依であるという点から述べれば、六識全体は意識と述べなければならない、末那識は、前五識に対しては染浄依・第八阿頼耶識に対しては倶有依という所依であるが、「近順生」という点からは、ただ第六識しかないという。

 「若し染浄依及び倶有依ならば、七は五・八に望めて倶に是れ所依なれども、然も近く順じて生ずる不共依ならば、即ち唯だ第六なり。今不共の意と言うは近く順生するを顕す。何となれば六の種子を必ず七の種に随せり、七の種現を生ずるときに意識は随って生ずるを以てなり。眼識の種の眼根の種に依るが如し。此れも亦是の如し。五も八も第七の種に依ると説かず。故に此の得名に於て相濫ずる失無し。」(『了義燈』)

 『了義燈』は、「近く順じて生ずる」と説明しています。第六意識と第七末那識との関係は、他の識と違って密接な関係があるという点から、意識が末那識を所依としていることを不共依といい得ると説明しているのです。

 明日は『述記』と『了義燈』の所論を述べます。

 

 

 


第三能変 能変差別門 (12) 『演秘』の釈

2012-07-26 22:53:09 | 心の構造について

 『演秘』の釈は(1)総じて釈し、、(2)に正して釈しています。その中で初に「依根」を釈し、次に「助根」を釈し、最後に「如根」を釈しています。

 総じて釈す。

 「疏に、且く麤相に拠りてより識必ずしも生ぜずに至るは、

 問う、今盲冥の者は境有れども根は無ければ識生ぜざるを以て、識は眼に依ることを証す。眼有る者も境無きに由るが故に、識生ぜざるが如く、応に識は境に依るべし。又但根のみ有りて(根のみありて無境の場合)識即ち依りて生ずといわば、色界に応に鼻舌の両識有るべし。

 答う、至理を以て識の生ずることをいわば、実に根と境とに籍る。勝縁に就て説かば眼(眼根)に依りて色に非ず。亦猶し識と境と互いに相い因りて生ずれども、而も主として勝るに依りて称して唯識と為すがごとし。又巨川を済(わた)るときは唯だ一の筏のみには匪(あら)ず、諸の帆橈(帆と橈(かじ)を仮りてまさに利渉(りしょう)するに堪えたり。世には勝に就いて舟を度すことを為すと言う。

 疏に、如迦末羅病等とは、

 問う、黄に非ざるを黄と見るは自ら是れ意識なり。如何ぞ此れを以て眼識を証せんや。

 答う、根を損するに由るが故に、初め眼識をして而も分明ならざらしむを以て、後の意識(五倶の意識)は見ること錯乱すること有り。故に意を壊するを挙げて眼識の変を証す。

 疏に、謂わく根識に合するに由りて根をして損益有らしむ等とは、

 根と識と合して日月の光を観るに由りて、次いでの如く根に於て而も損益有り。又倶舎論の第二を按ずるに云わく、二因に由るが故に根に従いて号を立つ。一に根は是れ所依の性なるに由るが故に、境は即ち爾らず。二に所依は是れ不共なるに由るが故に、唯だ自の識のみに依る。色はまた通じて他身の眼識と及び自の意識とのために取らるるが故に。余の四も此に准ぜよ。斯れに由りて色等に従いて称を立てず。即ち二義なりと雖も、濫(らん)を簡ぶことまた畢る。」

 疏に、意識のみ然らざらん眼等も爾るべしとは、

 等無間に拠りていわば六皆意と名くべし。今第六のみに目けたり、故に不然と為す。五識は根(所依の根)は別なり、根に依りて名を立つ、濫無きを以て爾るべしと。」


第三能変 能変差別門 (11)  「如」の義について

2012-07-25 23:45:14 | 心の構造について

 第五に 「如」 の義につて、

 「根の如くなると云うは、彼に云わく、眼の如くなる識なるが故に眼識と名く。根と識との二法は倶に有情数なるを以て、彼の色の法は定んで是れ有情には非ず。六と七とも亦爾なり。唯だ内にのみ摂するが故に、

 根に随って五義勝れたるを以て多く根に依って名くと説く。問、前の等無間の中には六識皆意に依ると云う。何が故に第六を獨り意識と名く。意識は然らず、眼等は爾るべし。」

  •  有情数 (うじょうす) - 生命を持つもののグループ

 「如の義」というのは、如とは相似という意義があり、識と根とは相似て離れないという関係なのです。眼根等が有情数であるように眼識等も亦有情数であって、第六識・第七識の二識も亦同じように第七識が内法であるように、第六識も亦内法に摂するのである。眼の如しと。眼と識というものには、境が介在するが、境は外に属する。しかし眼は内に属するということです。

 「唯識論は更に注意している。意識ということについて、意によるの識という意味で意識というが、五識も意によるということがある。そういうことからいうと、五識が意による場合は染浄依である。末那識が有漏か無漏かで五識が有漏・無漏になる。五識は知覚であるが知覚の根底には内面があって、知覚といっても私の知覚である。知覚というものは人間全体を内にもっている。だから根底には末那識の影響を受けている。そういうことからいうと、全体が意識であって、混乱するのではないかという疑問があるが、これは不共ということである。末那識は六識全体の染浄が決定されるから共依である。それに対して眼根が眼識にとって独自の依であるように、意識にとっては意根が独自の依である。また五識は、たとえば眼識は眼根にもより、末那にもよるということがあるが、意識は末那のみによるのである。この点に混乱の過失がないという。」(『安田理深選集」第三巻p225~226)

 この『述記』の釈に対して、『演秘』はさらに詳細に説明しています。今日は『演秘』原文のみを記します。

  「疏。且據麁相至識不必生者。問今盲冥者有境無根而識不生。證識依眼。如有眼者由境無故而識不生。應識依境。又但有根識即依生。色界應有鼻舌兩識 答至理識生實藉根・境。就勝縁説依眼非色。亦猶識・境互相因生。而依主勝稱爲唯識又濟巨川匪唯一筏。假諸帆橈方堪利渉。世就勝言舟爲度矣 疏。如迦末羅病等者。問非黄見黄自是意識。如何以此證眼識耶 答由根損故令初眼識而不分明。而後意識見有錯亂。故擧壞意證眼識變。

 疏。謂由根合識令根有損益等者。由根識合觀日・月光。如次於根而有損益 又按倶舍論第二云。由二因故從根立號。一由根是所依性故。境即不爾。二由所依是不共故唯自識依。色亦通爲他身眼識・及自意識而所取故。餘四准此。由斯不從色等立稱。雖即二義簡濫亦畢 

 疏。意識不然眼等可爾者。據等無間六皆名意。今目第六故爲不然。五識根別。依根立名無濫可爾。」 (『演秘』第四末・三十八左・大正43・905b)

 

 


第三能変 能変差別門 (10)

2012-07-24 22:59:50 | 心の構造について

 「光明てらしてたえざれば 不断光仏となづけたり 聞光力のゆえ<wbr></wbr>なれば 心不断にて往生す」(『浄土和讃』・讃阿弥陀仏偈和讃)
   「光明一切の時、普く照らす。かるがゆえに仏をまた不断光と号<wbr></wbr>す。聞光力のゆえに、心断えずしてみな往生を得しむ、かるがゆえ<wbr></wbr>に頂礼したてまつる。」(『教行信証」真仏土巻)
 聞光力の左訓に「ミダノオンチカヒヲシンジマヒラスルナリ<wbr></wbr>」と記されている。

               ―      ・      ―

 四に「助」の義について、

 「第四に根を助くとは、彼に云く、眼を助くるの識なり。故に眼識と名く。根、識に合して領受する所有るによって、根をして損益せしむ。境界に於てには非ざる故に。謂く、根、識に合するに由って根に損益有ら令む。色、識に合するに由って、色に損益有ら令むるに非ず。識に離れたるの色は、識は損益すること無しと雖も、色に損益有るが故に、他の為に損たる色の如くなり。第六識倶に無漏なるが故に、第七に有漏を損して無漏と成るが如きが故に。」

 四に「助」の義というのは、根が識に合して領受する所が有ることによって、識が根をして損益させることを云う、と。

 例えば、第六識が無漏(人・法二空)であれば、その根である第七識は有漏を損して無漏となるようなものであると述べています。


第三能変 能変差別門 (9)

2012-07-23 22:38:57 | 心の構造について

 昨日と、一昨日、聞光洞の研修会が湯ノ山温泉湯ノ山ロッジで、高柳高祐師の講義と座談会が行われました。床に訓覇信雄師の「聞光力」と書かれた軸が掲げられてありました、それは大変迫力の有る力強い筆勢であり、圧倒的な迫力で私に「聞け」と訴えているようでした。そこではっきりしたことがあります。いかに環境(外なる世界)を変えても、一瞬の満足は得られるかもしれないが、やがて空しく過ぎ去り、、新たな不満足が生れてくるということです。では何故、空過し不満足が生まれくるのでしょうか。そして空過しない世界はどのようにしたら生れてくるのでしょう。そのキーワードが「聞」ということなんですね。「聞」という中身は、何故今の満足が退転していくのか、やがてその不満足が空しく過ぎ去っていくのは何故なのか、を問う歩みであると、教えられていることでありました。聞くということは、教えの組織(教相)を覚えるのでもなく、他を責める道具でもありません。聞くことを通して自分の居場所をはっきりとすることです(自信教人信)。その居場所を浄土として指し示されているのではないでしょうか。

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 「属」について

 「第三に根に属せりとは、彼に云う、眼に属するの識の故に眼識と名く。識の種子、根に随逐し生ずることを得るに由るが故に。此れは謂く生依なり。染浄依及び根本依・引発依に非ざるなり。此れに由るが故に知る、七は六に於て勢力有り、謂く六の種子は七の種子に随って、七の種子、現を生ずる時に六方に起こることを得。彼に力を與えるが故に。爾らずんば生ぜず。色の種子に識の種之れに随せるものには非ず。 此れ何等の如くぞや。此の色の有る時には必ず識に変ぜられるをもって、識有る時に必ず根に生ぜられるが如し。何ぞ識の種色に随って起らざることを得るや。色は是れ外法、根は是れ内法なり。根は恒に相続せり。色は即ち然らず。例と為すべからず。」

 「属」の義というのは、識の種子が根の種子に恒に随逐して生ずることをいう。(識の種子は内にあって恒に相続する根に隋逐するから根に随って生ずることができるのである、と。)これは生ずる依であって、染浄依でも、根本依でも、引発依でもないという。また第六の識の種子は第七の根の種子に随って、第七の根の種子が現行する時、第六の識の種子に力を與えるから、第六の種子は現行することができるのである、と。

 ようするに、眼に属する識という意味ですね。眼(根)に依って生ずる識です。眼に属する識ですから、耳に属する識でもなく、乃至意に属する識ではないということです。「あれをもって、これに代えることはできぬ。」と安田理深師は教えられています。