第六識は、意根を所依としているので意識というのであれば、第七識も第八識もまた唯だ意のみを所依としているので、意識というべきではないのか、或いは第八識は、唯だ末那識のみを所依としていることから意識と名づけられ、第七識は心(第八識)のみを所依としているから、心識と名づけられるべきではないのかという問い(『述記』)がだされ、これに答えるのが本科段になります。
「識の得名を弁ずるに、心と意とは例に非ず。」(『論』第五十六左)
(識の名づけられかたを弁ずる(説明する)のに、心(阿頼耶識)と意(末那識)とは、識(六識)の例にはならない。)
識に六あるのは、相望(相対)して名をつけているのであって、第八を心と名づけ、第七を意と名づけるのは相対の点からではない(「此に況するに非ず」)と。この点から(「例すること成ずるに非ず」)同一の例として論じることはできない、と説明しています。
「論。辨識得名心意非例 述曰。謂識有六相望辨名。第八名心。第七名意。非此所況故例非成。不望彼故。若望心・意六得名者。彼三各據一義勝故。心攝藏法集起法勝。意思量境恒計度勝。意識了境從所依勝 問何故七・八不從所依以得其名。意識即爾 答七・八相續當體彰名。六有間斷從依得稱。七・八據依亦有此義。諸論但依自勝立名。六對七・八以得名識。兼釋七・八得名意別 此下六識從境得名。」(『述記』第五末・四十八左。大正43・416c)
「若爾七依八生何不名心。八依七生何不名意 答論云辨識得名心・意非例。又七・八自相續。當體得名。六識間斷。從依・縁目。或准界・處倶名心意。第七名心意。第八名意心。理亦無失。然無誠文。(『了義燈』第五本・十八右。大正43・749b)
(「述して曰く。謂く識に六有るを以て、相望して名を弁ず。第八を心と名け、第七を意と名け、此に況するところに非ず。故に例すること成ずるに非ず。彼に望めざるが故に、若し心と意とに望めて六の名を得ることは彼の三は各々一の義勝れたるに拠って、故に心は法を摂蔵し法を集起(じゅうき)すること勝れたり、意は境を思量して恒に計度(けたく)すること勝れたり。意識は境を了すること所依に従って勝れたりを以てなり。
問。何が故に七と八とは所依に従って以て其の名を得ず。意識は即ち爾るや。
答。七と八とは相続するを以て当体に名を彰す。六は間断有るを以て依に従って称し得たり。七・八も依に拠って亦此の義有るべし。諸論は但だ自の勝れたるに依って名を立つ。六は七・八に対して識と名くことを得るを以て、兼ねて七・八の得名の意の別なることを釈す。
此の下は六識は境に従って名を得と。」)(『述記』)
(「(問) 若し爾らば七は八に依って生ず、何ぞ心と名けざる。八は七に依って生ず、何ぞ意と名けざる。
答。論に云く。識の得名を弁ずることは、心と意と例に非ずと云えり。又、七と八とは自相続す、当体を以て名を得たり。六識は間断す、依と縁とに従って目(もく)けたり。
目 - 名づけること。
或は、界・処に准ぜば倶に心とも意とも名け、第七は心意と名け、第八をば意心と名け、理亦た失無し。然るに誠文無し。」)(『了義燈』)
第七識・第八識の二識はその所依はあるけれども、(第七識は第八識を、第八識は第七識を所依とする)、恒相続の識であるから所依に依らず当体に名を立て、第六識は間断があるから前五識と同じく所依に随って名を立てるのである、と。