唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第二 所縁行相門 不可知について (14) 前後しますが (9)

2015-08-17 21:24:56 | 第二能変 所依門



 「爾らば諸仏は遍智に非ざるべし。」(『論』第二・二十二左)
 諸仏の智慧は遍く現象的存在を観察して、「我は無い」と覚られている。遍智です。遍智でなかったならば、仏とはいわないんだと。「無は是れ無なるを知る」智慧を備えたお方が仏様ということですね。それが大円鏡智であると云われているわけです。
 無漏位のことは簡単に述べられまして、最後に結ばれます。

 「故に、有漏の位の此の異熟識は但し器と身と及び有漏種とのみ縁ず。」(『論』第二・二十二左)

 阿頼耶識は何を対象とするのかが、最初の論題でしたが、縷々述べて、阿頼耶識の所縁は種・根・器で有ることをはっきりさせたわけです。それは因縁変によるわけです。

 「欲・色界に在って三の所縁を具す。無色界の中には有漏種のみを縁ず。」(『論』第二・二十二左)

 三界の境の別を明らかにしています。阿頼耶識の所縁は有漏種と有根身と器界ですが、欲界と色界においては三の所縁すべてが備わっているけれども、無色界に在っては有漏種だけである、と。私たちはどう考えても欲望渦巻く世界を徘徊しています。しかしどこでどう間違ったのか、私は正しいという立場をはずしません。なんという愚かしい事でしょう。私は正しいという立場が欲界の特徴なんでしょうね。何を語っても、「私にとって利益あること」が最優先なんです。その代表が財欲であり、名利心であり、慢心ですね。これらを着飾ることに奔走しているのが私の姿そのものです。そして、これらを求めるのが何故悪いのかということがありますが、悪いのではないのですね。これらに執着する心が問題だと指摘しているんです。
 少し前に戻りまして、業力所変、定力所変という問題が提起されていました。そこを読んでみます。

 「前来は且く業力所変の外器と内身との界地の差別を説けり。若し定等の力による所変の器と身とは、界地自他に於て則ち決定せず。所変の身・器は多く恒に相続せり。変ぜらるる声・光当は多分暫時なり。現縁の撃発(きゃくほつ)するに随って起こるが故に。」
 
 業力所縁は、因は是れ善か悪の結果としての対象を持っている。それが有漏種と有根身と器界なんです。阿頼耶識が変現したところの三つを所縁として見分の内容としている。これは動かすことができないものである。自分で自分の世界を作ってきた、そして今も作っているということなんですが、ここに定力所変という自己変革の鍵が提起されてきます。「果是無記」です。業の流れを受けて未来を切り開いていくチャンスが与えられているわけです。
 ここで非常に大事なことは、法に触れるということなんです。
 『三十頌』第二十一頌と第二十二頌を読んでみます。
   
   依他起の自性は、分別の縁に生ぜらる。円成実は彼が於に、常に前のを遠離せる性なり。(第二十一頌)
   故に此れは依他と、異にも非ず不異にも非ず。無常等のごとし。此れを見ずして彼をみるものには非ず。(第二十二頌)
 
 多川俊映師の現代語訳を引用します。
 「(第二十一頌)私たちの日常は、さきほどみたように、遍計所執の世界ですが、つぎに一般的にみて世界というものはどのようにして成り立っているのかを確認しましょう。むろん、勝手な思い計らいや執着はいけませんが、そういう世界も、ある絶対条件の下、単独に在るわけではありません。やはり、さまざまな原因が一定条件の下、一時的に和合しt成り立っています。つまり、元来は、縁起(さまざまな縁によって生起する)の性質のものです。唯識ではそれを、依他起(他に依って起こるもの)というのですが、どのような世界であれ、この依他起(えたき)ということが在り方の基本です。
 さて問題は、私たちが真に求めるべき世界です。唯識ではこれを、円満に完成された真実の世界という意味で、円成実(えんじょうじつ)といいますが、これも、依他起の性質がベースになります。ただし、その上によからぬ思い計らいや執着を一切加味しない、というよりむしろ、つねにそうした遍計所執の無縄自縛を隔絶した世界――。それが円成実の世界です。
 (第二十二頌)したがって、円成実と依他起との関係は、異なっているのでもないし、異なっていないのでもない。――という、はなはだ微妙な関係です。つまり、円成実と依他起とは、別のものでも同じものでもないのです。
 それはたとえば、無常という事実と真実のようなものでしょうか。すべては無常だという事実も、勝手な思い計らいや執着が加われば、たちまち事実無根の遍計所執に成り下がります。そうならないためには、それがまず、曲げようのない真理・真実だと深く心に刻むことではないでしょうか。すなわち、円成実という真実を見ないかぎり、依他起の事実もみえてこないのです。」

 聖書(ヨハネによる福音書・序・賛歌 神である言葉)に、「初めにロゴスありき」とでてきますね。原語はヘブライ語ですが、現代語訳では「1初めにみ言葉があった。み言葉は神と共にあった。み言葉は神であった。 2このみ言葉は初めに神と共にあった。 3すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。 4み言葉の内に命があった。そしてこの命は人の光であった。 5光は闇の中に輝いている。そして、闇は光に打ち勝たなかった。」

 「ロゴス」は「言葉」と翻訳されますが、「理性」、「論理」、「概念」などの意味も含めて、それらを統一して初めて理解される概念であって、「言葉」に意味を限定されてしまうと、ここでヨハネが言っている意味そのものが理解されないのではないかと思います。ドイツの哲学者ヘーゲルは、世界をロゴスの現れ、ロゴスの歴史的展開だというふうに見ました。これが、「初めにロゴスありき」の意味です。ヘーゲルは、ロゴスを「あるがままのものとしての観念」と定義し、あるがままのものとしての観念が、非本来的な姿すなわち物質世界としての世界として現れてる、それがこの世界だと意味づけているようです。
 意味はともかくとして、洋の東西を問わず、真理において在る者、それが命ある存在だということでしょう。キリスト教は原罪として神の許しを乞うことに信仰の在り方を見出したのでありましょうが、仏教は自身の中に、真理に反逆する心を見出し、断煩悩の道を歩むことになったのでしょう。断煩悩も真理に触れたからこそ求むべき方向性が見出されたものだと思います。そして、この真理に、真理そのものに能動的な働きを見出したのが他力回向の概念だと思います。ただ他力回向の概念は自己と離れているものではなく、自己自身の内に、煩悩と倶に歩んでいる根本の純粋意識に触れたんだと思います。なにものにも穢されることのない無垢なる識の発見が浄土の真宗として開顕されたのではないでしょうか。
   


 

第三能変 第四 随煩悩の心所について (37) 中随煩悩 無慚・無愧 (3)

2015-07-14 21:42:50 | 第二能変 所依門
   講座案内です。
 無慚等の中随煩悩について
 「云何なるをか、無慚と云う。自と法とを顧みずして賢と善とを軽拒(きょうこ)するを以て性と為し、能く慚を障礙し悪行を生長するを以て業と為す。」(『論』第六・二十六右)  (どのようなものが無慚の心所であるのか。無慚とは、自(良心)と法(教え)とを顧みず、賢と善とを拒否することを以て本質的な働きとし、よく慚を障礙して悪行を生長させること以て具体的な行為とする心所である。)
 中随煩悩の二は、無慚・無愧ですが、此の二は欲界にのみ存在し、ただ不善(悪)でる。
 賢善とでてきますね。
  『教行信証』信巻・真仏弟子釈には、
 「『経』に云わく、「一者至誠心」。「至」は真なり。「誠」は実なり。一切衆生の身・口・意業の所修の解行、必ず真実心の中に作したまえるを須いることを明かさんと欲う。外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、中に虚仮を懐いて、貪瞋邪偽、奸詐百端にして、悪性侵め難し、事、蛇蝎に同じ。三業を起こすといえども、名づけて「雑毒の善」とす、また「虚仮の行」と名づく、「真実の業」と名づけざるなり。もしかくのごとき安心・起行を作すは、たとい身心を苦励して、日夜十二時、急に走め急に作して頭燃を灸うがごとくするもの、すべて「雑毒の善」と名づく。この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に求生せんと欲するは、これ必ず不可なり。何をもってのゆえに、正しくかの阿弥陀仏、因中に菩薩の行を行じたまいし時、乃至一念一刹那も、三業の所修みなこれ真実心の中に作したまいしに由ってなり、と。おおよそ施したまうところ趣求をなす、またみな真実なり。また真実に二種あり。一つには自利真実、二つには利他真実なり。乃至 不善の三業は、必ず真実心の中に捨てたまえるを須いよ。またもし善の三業を起こさば、必ず真実心の中に作したまいしを須いて、内外・明闇を簡ばず、みな真実を須いるがゆえに、「至誠心」と名づく。「二者深心」。「深心」と言うは、すなわちこれ深信の心なり。また二種あり。一つには決定して深く、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」と信ず。二つには決定して深く、「かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑いなく慮りなくかの願力に乗じて、 定んで往生を得」と信ず。また決定して深く、「釈迦仏、この『観経』に三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしむ」と信ず。また決定して、「『弥陀経』の中に、十方恒沙の諸仏、一切凡夫を証勧して決定して生まるることを得」と深信するなり。また深信する者、仰ぎ願わくは、一切行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して行に依って、仏の捨てたまうをばすなわち捨て、仏の行ぜしめたまうをばすなわち行ず。仏の去てしめたまう処をばすなわち去つ。これを「仏教に随順し、仏意に随順す」と名づく。これを「仏願に随順す」と名づく。これを「真の仏弟子」と名づく。・・・」
 私たちは、善業や悪業について、世間の中の価値観で判断していますが、本当はそうではなく、「不善の三業は、必ず真実心の中に捨てたまえるを須いよ。またもし善の三業を起こさば、必ず真実心の中に作したまいしを須いよ」なんですね。
 ですから、綿sjたちの課題の一つは、何が真実なのかですね。自分kら発生する何事も不善です。「中に虚仮を懐いて、貪瞋邪偽、奸詐百端にして、悪性侵め難し、事、蛇蝎に同じ。三業を起こすといえども、名づけて「雑毒の善」とす、また「虚仮の行」と名づく。」と親鸞聖人は教えて下しました。真実に触れた言葉ですよね。真実とは、「「仏教に随順し、仏意に随順す」ということだと思いますね。どっかから借りてくるものでは無く、身と倶にあるもの、倶生起の煩悩(我執・法執)も身と倶ではありますが、真実も身と倶に働いている、その事実に目覚めなさいという促しが恒にあるわけでしょう。煩悩は有為法です、有為転変していますが、その有為転変の中に、有為転変を可能にしている働きを見いだしてきたのが浄土の真宗といわれる、本願他力の教えではなかったでしょうか。
 賢は、聖者も凡夫も、道を求めている人のことを指していると思います。菩薩的人間像の在り方。
 善は無漏善・有漏善を含んだ善業を指しますね。
 無慚の行相 ― 軽拒すること。
 無慚の別相 ― 賢と善が認識対象になる。
 善とか悪は相対的価値観ではないと思いますね。善の対局は悪であり、悪の対局は善であるという方程式ではないと思います。親鸞聖人は『歎異抄』のなかで「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。そのゆえは、如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ、如来のあしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」 と教えておられますね。
 「火宅無常の世界」という眼差しですね。自分が作りだした世界ですからね、先日の講義でも話をしましたが、深層の心がすべてを受けいるわけですが、このままだと何も問題は起こらないのです。認識が起る時は、受け入れたものを認識する、例えば、見るという場合は、(我執の心を経由して)眼識が動いて見るということが成り立つわけです。認識の持ち替えが起っているんですが、わかりませんね。我執の心を経由して出てくる言葉や行為が「火宅無常の世界」を作り上げてくるわけでしょう。
 無慚という心所は、私の根性を鋭くえぐりだしています。 南無阿弥陀仏

第三能変 第四 随煩悩の心所について (32)  小随煩悩 憍 (3) 脱線です。

2015-07-07 21:38:42 | 第二能変 所依門
 
 正論は正論に非ず、戯論は戯論にして戯論に非ず。
 正論、良く聞く言葉です。そこら中飛び交っています。「僕の言っていること間違っていますか。」「私の言い分正しいでしょう。」僕と私が交わらないのは何故でしょうか。正論は分別ではないのですね。分別はどこまで行っても分別です。分別を積み重ね、どこまで説明しても分別を超えることは有りません。
 正論とは、四諦八正道の中では、滅諦・道諦にあたる正しい見解(正見)・正しい見方で、縁起や四諦に関する正しい智慧をいいます。つまり、仏の智慧を正論というのですね。言い換えれば、無漏の智慧ですが、私たちの知恵は、有漏の知恵、煩悩が混じっているわけですね。癡・見・慢・愛が我の執を帯び、私達本来の在り方を覆っているのです。
 そういう意味では、私たちが日常、「正論」という見解は戯論になります。正論は正論に非ずして戯論なり。しかし、戯論は本来性の中から見出されてきたものであって、縁起性になりますから、戯論は戯論にして戯論に非ず、と。
 「僕の言っていた事は、自分から見た見解であって、貴方のことを何も考えず、貴方のことが目線に入っていなかった。こうしなさい、ああしなさいと僕の意見を押し通していたにすぎなかった。ごめんなさい。」と、正論と云う名の戯論に気づきを得る時に、慚愧の心をいただくのでしょう。
 慚愧の心が限りなく人間性を回復するわけです。人間は人間性を回復する道のりを歩んでいる旅人なんですね。人間が人間を取り戻した時に開かれてくる世界が、「人間性」なんでしょう。本来からの呼び声といってもいいでしょうし、人間回帰運動といってもいいかもし得ません。「帰」は浄土ですね。「帰」は帰命の「帰」ですから、いのちの帰する処を依り所として生きるという宣言だと思います。「いのちの帰する処」すなわち浄土です。言葉を変えれば、清浄業処無為涅槃界ですね。華厳でいえば、事事無礙法界(現象界の一切の事象が互いに作用し合い,融即していることをいう。法界とは真理の境地をいう。)です。
 法界からよどみなくあふれる言葉が正論なんです。私からではなく、未来からやってくる言葉としての願心が廻向と表現されていることなのでしょう。「私から」という内実は、過去も未来も無いわけです。大乗仏教は現有過未無体といいますが、体は過去でも未来でも無く現在で有るとはいっていますが、現在は果なんですね。異熟(果)です。因は過去に有る。「因は是れ善・悪。果は無記なり」。性というのは、異熟果であり、無覆無記性なんです。ここが大事なところだと思います。異熟果の中に、過去を背負い、過去を引きずっている現在が在るわけですが、この現在は、無覆無記性と云う、未来からの呼び声に応答する形で現在生が現行しているのです。現行が異熟生といい、過去と未来を孕んだ「今」という意味になりますね。
 何を言っているのかといいますと、人間からは正論は出て来ない、私の立場、貴方の立場によって、或は時(時代背景)と処(場所)と縁(条件)によって見解は変わる。いわば、常識は常識に非ず、です。過去の常識は現在の常識に当てはまらないですし、現在の常識も永遠性をもつものではありません。一過性のものですね。
 マラソンでも、42.159kmの先をめざしてスタート地点があるわけですが、一歩一歩が完全燃焼をもってペース配分をしていくことが大切なことなんでしょう。一歩一歩ゴール地点が近づいてくるわけです。ゴール地点は、言い換えれば真実です。真実が働きをもつわけです。働きを持っているから、目指すわけですね。目的地がハッキリ定まっているから走ることができるのでしょう。仮に途中でリタイヤすることはあっても、ゴールを目指したことには変わりは有りませんから、完全燃焼なんですよ。
 スタート地点とゴール地点を先ず決めるわけでしょう。スタート地点とゴール地点が同じ処が多いですかね。人生も同じではありませんか。生まれた処が死の帰する処なんでしょう。帰する処が、本来、人生の依り所なんですね。私たちが生れた目的は、涅槃を目指し、菩提を生きる、これが衆生と云う存在であり、如来生から見出された存在でもあるわけです。南無阿弥陀仏
 今日も脱線しました。
 きょうは、『正信偈』の中から、驕と慢について考えてみたかったのです。「邪見驕慢悪衆生」(「邪見・驕慢」の者を、「悪衆生」と言われているのです。)親鸞聖人は、驕は憍の異体字なのですが、意味するところは、「おごる・ほこる・ほしいまま」を表現する驕を使っておいでになるのではと思っています。間違っているかもしれません。
 ともかくですね、憍と慢とは行解が全く異なるところから、明日は、驕慢の者とはどういう存在なのか考えて見たいと思います。
  

第三能変 第四 随煩悩の心所について (30)  小随煩悩 憍 (1)

2015-07-05 01:00:29 | 第二能変 所依門
 
 今日から小随煩悩の第十番目、最後の憍(きょう)の心所に入ります。
 「云何なるをか憍と為る。自の盛んなる事の於(うえ)に深く染著(ぜんじゃく)を生じて酔倣(すいごう)するを以て性と為し、能く不憍を障え染が依たるを以て業と為す。」(『論』第六・二十六右)
 (どのようなものが憍の心所であるのか。憍とは、自分のおごれることに対して、深く執着を生じて驕ることを以て本質とし、よく不憍を妨害し染を所依として働く心所である。)
 憍 ― おごる心の働き。
 何に対して驕るのかと云いますと、自分の地位や財産や名誉といった飾り物、着飾って「どうや」と見せつける様ですね。僕はこのことについて思い出すことが有ります。若い頃、所謂繁華街で商いを営んでいたことがあります。その時の街の様子なんですが、繁華街はいろんな人の出入りがあるんですね。僕も経験が有りますから一概に云えなんですが、もうよれよれの服を着て、サロンとかパチンコ屋さんの従業員として雇ってもらうんですね。最初は複雑な問題を抱えておられるのでしょう、下を向いて歩いておられるんです。しかしどうなんでしょうか。すぐに店長とかに抜擢されてですね、背広を着て堂々と闊歩されるんですね。その時も、すごいな、あんなに変れるんや、と思っていましたが、まさに憍という心の闇を演出しておられたんでしょうか。しかし暫くすると、また頭を下げて歩いている、どうしたんだろうなと思うと、職探しをしているんですね。こういう例は数限りないのですが、はっきりしています。つまり、『顕揚論』巻第一に「謂く暫く世間の興盛(こうじょう)等の事を獲て、心に恃(たの)んで高挙(こうこ)すと云えり。」或は『対法論』巻第一には「一の栄利の事に随って、謂く長壽の相等と云えり。」と解釈されています。
 興盛とは世間での繁栄、或は過去と現在を比較して、現在が過去よりも裕福で勢力があること。これによってですね、心に恃んで驕ることである。自分を見忘れて、自分でないものを自分として恃んでいるわけです。これが縁となって憍が生起してくると言云われています。
 或は、
 「憍者。或依少年無病長壽之相。或得隨一有漏榮利之事。貪之一分令心悦豫爲體。一切煩惱及隨煩惱所依爲業。長壽相者。謂不死覺爲先分別此相。由此能生壽命憍逸。隨一有漏榮利事者。謂族姓色力聰叡財富自在等事。悦豫者。謂染喜差別。」(『大乗阿毘達磨雑集論』巻第一。大正31・699a)
 (憍とは、或は少年にして無病長壽の相に依り、或は随一の有漏栄利の事を獲る貪の一分にして、心をして悦豫(えつよ。喜ぶこと)せしむるを体と為し、一切の煩悩と及び随煩悩との所依たるを業と為す。長壽の相とは、謂うく不死の覚を先と為して此の相を分別し、此の相を分別するに由りて能く壽命の憍逸(きょういつ。おごりたかぶること)を生ず。随一の栄利の事とは、謂く族姓と色力(しきりき。容貌と才能)と聡叡(そうえい。知力が勝れていること。聡明であること)と財富と自在との等き事なり。悦豫とは、謂く染喜の差別なり。)
 憍とは、少年が無病であり、長寿の相があることを分別するに由って、寿命に対しておごりたかぶることを生み出してくるんだ、と。或は有漏の栄利のことであって貪の一分に摂められる。心をして喜ばせることを以て体とし、一切の煩悩と随煩悩の所依となることをもって働きとする心所である。有漏の栄利とは、具体的には ①族姓が勝れていること。 ②色力が優れていること。 ③聡叡であること。 ④財富(財力)があること。 ⑤自在という、権力の行使ができること、等であると示しています。
 今でいえば、対外的には、財力が有り、地位や名誉があり、政治を司るような権力があることでしょうし、内的には、若さ、健康、長寿、聡明さがあるということを以て、他と比べて自分が優れていると、心がおごりたかぶるのである、と云っているわけですね。此れは有漏法に対して述べていることなのですが、無漏法に対しても、おごりたかぶることは生ずるといわれています。このことにつきましては後述します。
  今日から映画「それいけアンパンマン ミージャと魔法のランプ」全国映画館で公開されます!子供も大人も楽しめるので観に行ってね!
#アンパンマン (大島優子ツイッターより)

第三能変 第四 随煩悩の心所について (18)  小随煩悩 嫉 (1)

2015-06-13 17:48:39 | 第二能変 所依門
 
 嫉の心所について
 『二巻鈔』は解り易く説いています。「嫉ハ、我ガ身ノ名利ヲ求ム故ニ、人ノ栄ヲ見聞テ、深ク妬マシキ事ニ思テ安カラザル心ナリ」(嫉というのは、自分の名利心を求めるが為に、他者の繁栄を見聞きして、他者の繁栄を喜べず、耐えることができなくて、ねたみ、そねみ、にくむことをもって心が安らかでないことを本質的な働きとしている心所である。)
 親鸞聖人は『一念多念文意』(真聖p545)に「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと」と、自身を凡夫と押さえて、臨終の一念に至るまで、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころが尽きないと頭を下げておられます。しかし、凡夫は頭が上がっているのですね。頭が上がって、名利心だけを求めて、人の成功・栄耀栄華を妬んで、耐えられなくして不嫉を障えているのです。ここにも、凡夫と云うのは他人事ではないということを語っておいでになりますね。凡夫という存在はどこにもいないんです。「凡夫ですから」と謙譲していわれる場合がありますが、私は凡夫ではありませんと白状しているようなものですね。凡夫は頭が下がった人のことなんです。いうなれば凡夫が菩薩道を歩むことのできる存在といえるのではと思います。
 「云何なるをか嫉と為る。自の名利を殉(もと)め他の栄に耐えずして妬忌(とき)するを以て性と為し、悩く不嫉を障え憂慼(うしゃく)するを以て業と為す。」(『論』第六・二十四左)
 殉 ― 元の読みはジュンですが、殉にはしたがう・たずねるという意味があります。ここでは「もとめ」と読ましていますが、名利を求めるという意味と、名利心に従う、或は名利心を訪ねているという意味の二つがあるように思われます。
 妬忌 ― ねたむことで、嫉妬と同じ意味です。
 憂慼 ― 憂も慼も「うれいる」と云う意味です。
 (どのようなものが嫉の心所であるのか。嫉とは、自分の名誉や利益をもとめる為に、他者の栄耀栄華を見聞きすることに耐えられず、ねたみ、そねみ、にくむことをもって本質的な働きとする心所である。嫉は不嫉を障礙して憂慼することを以て業とする心所である。)
 殉とは求めることであり、訪ねることである。
 耐はしのびがたいという、「不耐他栄」、他の栄にたえられず、しのびがたいという意味をもって表現しています。
 妬忌の意味を「ネタシフスホル」と注釈しています。
 「他の栄」なんですが、世間と出世間の栄を説いています。世間の栄は、富貴安楽である。出世間ならば、勝品(しょうぼん)の功徳を証(他者が勝れた功徳を証すること)を説くものである。勝品は能力の勝れた者、悟りを開いた者に対する嫉妬ですね。或は修業の階位においてもですね、妬みは存在するといわれているんです。
 『顕揚論の第一にですね、「他の所有の功徳、名誉、恭敬、利養において、心に妬むを嫉と為すといえり。然も見聞覚知の後には、みな嫉を起こすことを得。この中には勝れたるに拠って但だ見聞のみと言う。」と端的に質の特徴を説明しています。
 他者の栄を知らない(見聞覚知していない場合)は、嫉は生起しないのですが、見聞きすることに於いて、自分より勝れていると判断した場合に即座に妬みが起ってくるんですね。自分で自分の中心性を暴露しているんです。茲に気づきを得ると自我崩壊の音を聞くことができるのでしょう。
 

第三能変 第四 随煩悩の心所について (18)  小随煩悩  悩 (2)

2015-06-12 23:52:09 | 第二能変 所依門
 
 悩の業について
 「能く不能を障え蛆螫(だっしゃく)するを以て業と為す」。他者を恰も毒虫が刺すような鋭さを以て傷つけることを生業とする心所である。
 不能とは悩の反対語ですが、不悩は無瞋の分位仮立法という善の心所になります。そsれを阻害するのが悩の心所であり、瞋の一分であることがわかります。
 「謂く、往の悪を追い現の違縁に触れ、心便ち很み戻りて、多く囂暴凶鄙(きょうぼうくひ)の麤言(そごん)を発して他を蛆螫(だっしゃく)するが故に。此も亦瞋恚の一分を以て体と為す、瞋に離れて別の悩の相用(そういう)無きが故に。」(『論』第六・二十四左)
 囂- キョウ・ゴウ・かまびすしい、かしがましい。やかましいとか、さわがしいという意味ですが、囂暴の左訓にはサワガシクと意味づけています。上下の口は騒ぐの意味を表し、頁はあたまの意味で、頭から熱気があがるほどさわぐという、かまびすしいの意味を表しています。
 囂暴凶鄙は、サワガシク、アラク、アシク、イヤシクの麤言、アラキ言葉という意味になり、これ以上の暴言はなく、人を傷つけるようなひどい言葉を発して、毒虫が刺すように鋭く他者の心を傷つける行為ですね。自分の論理を正当化し、他者を悪として糾弾し、自分が傷ついていることに謝罪をせよという要求なんですね。「私がこんなに傷ついて、悩んで、落ち込んでいるのはあんたのせいや」という思いが、頭から熱気があがるほど荒々しい言葉をもってさわぎ、他者を傷つけると行為に及ぶわけなんですね。その事自体に全く気付きが無いと云う所に、瞋恚の一部としての悩の心所の特徴があります。
 (つまり、往は往年というむかしのこと、過去の悪を追憶し、現在の違縁に触れて、心が很み戻りて、多くの場合は、囂暴凶鄙の荒々しい言葉を吐いて他者を蛆螫するからである。)
「 論。謂追往惡至惱相用故」の解釈を『述記』(第六末・七十一左。大正43・458b)に、
 「述曰。此釋前業。縁過・現生。對法・顯揚第一・五蘊。皆言發兇險鄙惡麁弊之言者。以多發故。由惱起時亦發身業故。如忿亦發語但説執仗。囂謂諠囂。暴謂卒暴。兇謂兇儉・兇疎。鄙謂鄙惡。」(「述して曰く、これは前の業を釈す。過現に生ずるを縁ず。対法、顕揚の第一、五蘊(論)に、みな凶(あしく)険(あやしく)鄙(いやしく)悪、麁(あらく)弊の言を発すというは、多く撥するを以ての故なり。悩が起る時、また身業をも撥すに由るが故なり。忿はまた語を発するも、ただ執杖と説くが如し。囂(がく、さわがし)とは謂く誼囂なり。暴とは謂く卒暴なり。凶とは謂く凶険なり。凶疎なり。鄙とは謂く鄙悪なり。」)
 囂 ― 誼囂(けんきょう)。誼(けん)は喧噪というやかましく騒ぐという。
 暴 ― 卒暴(そつぼう)。乱暴であること。力ずくでという意味も込められています。
 凶 ― 凶険(きょうけん)凶疎(きょうそ)。乱暴なこと。
 鄙 ― 鄙悪(ひあく)。いやしくわるいこと。鄙はいやしい、悪はわるい。
 『対法論』・『顕揚論』の第一と『五蘊論』を教証として挙げています。
 『論』には語業をもって述べていますが、これは影略互顕(ようりゃくごけん)という、ある語句がその表現しようとする意味の一部を省略し、しかも、その影においてその意味を顕すように造られている語句構成の一つの様式をもって、身業・意業を省略して述べているのです。
 「暴」という左訓ですが、気づいておいでになる読者の方もおいでになるかと思いますが、前科段では「アシヒ」と訓づけられ、本科段では「アラク」と訓づけられています。前科段は暴熱という葦に火がついたような熱さという表現をし、本科段では卒暴という力づくで暴力を振るうという乱暴な在り方を表現しています。こういうところにも言葉の厳密性が表れていますが、親鸞聖人の字訓釈を思い出させる解釈が読み取れます。
 (これもまた瞋恚の一分をもって体とする心所である。何故なら、瞋に離れて、瞋と別個に働く体も作用もないからである。故に悩は仮法である。)
 小随煩悩の十の分位仮立法、まだ嫉・慳・誑・諂・害・憍の説明を述べていませんが、体と分と因と果を整理しますと
 覆
 慳
 誑   } 体は貪欲
 諂                        我癡(無明)を因として
 憍
 ・             }  我愛   〈   顚倒が起ります。
 忿
 恨                        我見という果が引き起こされてくるのです。
 悩   } 体は瞋恚
 嫉
 害 
 つまりですね、貪欲の具体性は体は貪で覆・慳・誑・諂・憍という随煩悩をその一部として生起してくるのですし、忿・恨・悩・嫉・害は瞋を体として生起してくる心所であるということになり、その背景に無明を因として我見という顚倒が、恰も正見であるがの如く大手を振ってまかり通してくるのが現状の有様ではないかと思われます。

第三能変 第四 随煩悩の心所について (16)  小随煩悩 覆 (2) 護法正義

2015-06-07 15:52:12 | 第二能変 所依門
  順正寺様、五月号寺報より
 護法の正義
 「有義は、この覆は貪と癡の一分に摂めらる、亦利誉を失わむかと恐れて自の罪を覆うが故に。」(『論』第六・二十四右)
 (護法正義は、この覆は貪と癡との一分であると主張する、何故なら、また利益と名誉を失うのではないかと恐れて、自らの罪を覆ってしまうからである。)
 「亦利誉を失わむかと恐れて自の罪を覆うが故に」という解釈が「論」の「自の作れる罪の利誉を失わんかと恐れて隠蔵するを以て」と対応して、覆は貪と癡の一分として仮立されたものであると主張します。
 『述記』には「諸の罪を覆う者は、亦財利名誉を失わんことを恐るること有るが故に、貪の分なり。」と釈しています。財産や利益や毎夜が失われるのではないかというのは、財産や利益や名誉に執着していることに他ならないからであって、それは貪著しているということになる、というのです。
 第一師の主張した「当来の苦を恐れることなく、自分の罪を覆うからである」という癡の一分を継承し、第一師には貪著している部分が欠けていると主張しているのですね。つまり、この二つの条件によって、覆は貪と癡の一分であると結論付けています。
 第一師の説を会通する。
 「論は麤顕(ソケン)なるに拠って唯癡が分のみと説けり、掉挙を是れ貪が分と説けるが如くなるが故に。」(『論』第六・二十四右)
 (論(『瑜加論』巻第五十五及び『対法論』巻第一)は、麤顕(はっきりと認識されること)によって、覆はただ癡の一分とのみ説いているのである。それは、(諸の論書に)掉挙を以て貪の一分と説いているようなものである。)
 諸論に説かれている覆は癡の一分であるというのは、覆は「名誉の為に罪を覆う者に拠って」その相は麤顕である。その為に癡の一分であるととかれているのであり、厳密には覆は癡の一分であるとともに、貪の一分でもあると説かれていると会通しています。
 癡は無明といわれていますね。無明は真実が明らかでないということですから、真実が明らかになっていないと、真実でないものを真実として執着します、それが利誉であるのですね。罪という問題は、本当の事が明らかでない(四諦の理に昏いことを押さえています。)何が現世の幸せかというと、利誉と健康であると執着するわけです。諸行無常・諸法無我の理に逆らっています。ここで、執着するということなのですが、執着は貪りですから、覆は貪の一分であるということが分かる訳です。
 そこで、護法は例をだして論証します。
 「掉挙を是れ貪が分と説けるが如くなるが故に」と。掉挙は固有の体を持つ実法なんですね。これは掉挙を説く段に於て説明されます。護法がいいたいのは、緒論に説かれている掉挙の説明は、掉挙は貪の一分であり仮法で有ると説かれているのと同じことだ、といっているのですね。
 「掉挙は是れ貪の分なるが故に世俗有なり」(『瑜伽論』巻第五十五)
 「掉挙等は皆貪の品類にして皆貪の等流なり。」(『瑜伽論』巻第五十八)
 「掉挙とは謂く貪欲の分なり。」(『対法論』巻第一)
 護法の問いは、掉挙が実法であるにもかかわらず、貪の一分であると説かれているのは何故かということです。『論』の記述に從いますと、「而も論に説いて世俗有と為るは、睡眠等の如し、他(貪)の相に随って説けり」という一文になります。睡眠等(睡眠と悪作)は実際は実法なんですが、世俗有という仮法の意味で説かれていることと同じであるということなんですね。つまり、掉挙が貪の一分であると見えるのは、掉挙が働く時には貪が増大し、その為に掉挙はあたかも貪の一部のようにみえるからであると説明されます。掉挙が世俗有(仮法)であると説かれているのは、掉挙はあたかも貪の一部のようにみえるからであるから世俗有と表現したもので、実際は掉挙は世俗有ではなく実法であるわけです。
 掉挙を例として、『論』は麤顕によって癡の分であると説いているのであって、そこには貪の分も含意されているのであるというのが護法の主張になります。
 次科段は第一師の説を論破します。

第二能変 所依門 (2) 「依」 について 第一義

2011-01-11 22:34:37 | 第二能変 所依門

Images  本願寺聖人伝絵 下末  熊野霊告

 「其の比、常陸国那荷西郡大部郷に、平太郎なにがしという庶民あり。聖人の御訓を信じて、専ら弐なかりき。しかるに、或時、件の平太郎、所務に駈られて熊野に詣すべしとて、事のよしをたずね申さんために、聖人へまいりたるに仰せられて云わく、「それ、聖教万差なり。いずれも機に相応すれば巨益あり。但、末法の今時、聖道の修行におきては成ずべからず。すなわち「我末法時中億々衆生起行修道未有一人得者」(安楽集)といい、「唯有浄土一門可通入路」(同)云々 此皆、経釈の明文、如来の金言なり。しかるに今、唯有浄土の真説に就きて、忝く彼の三国の祖師、各此の一宗を興行す。所以、愚禿勧るところ、更にわたくしなし。・・・」(真聖p735)

              ー    ・    ー

 第二能変 所依門 (2) 「依」 について

  「次は依の字を解するに其の二説有り。」(『述記』)

 第一義は、難陀・最勝子の説 ・ 第ニ義は正説、護法等の説。 初は第一の説を挙げる。

 「有義は、此の意は、彼の識の種を以て而も所依と為す、彼の現の識には非ず、此は間断すること無きを以て、現の識を仮って倶有依と為して、方に生ずることを得るものにはあらざるが故にという。」(『論』第四・十三右)

 難陀・最勝子は、皆、この説を述べる。此の師の説くところは、第七の現行識は、唯だ第八の種子識(第八識の中の第七を生ずる種子)のみに依り、第八の現行識には依らない、と説くのである。第七識は恒に間断がなく、現行識を仮て(借りて)倶有依とはしないのである。種子に依るということを以て、「依彼」というのである。

 難陀・最勝子は第七識に倶有依の存在を認めないのですね。第七識の所依は心を生じる根本原因である因縁(第八識の中に蔵されている種子)であるとする立場です。理由は第七識は無間断であるので、現行識を借りて倶有依とする必要がないからである、というのです。

 尚、彼の識(第八識)の中に蔵されている種子とは、第八識の中の第七を生ずる種子で、第七識の自種子(因縁依)であると解されています。

  次に正義が示されます。次回に述べます。        


第二能変 所依門 (1)

2011-01-10 18:46:26 | 第二能変 所依門

Dsc_0029                原田大助君の言葉

  標名門が説かれ、第二段・所依門に入ります。何故ですね,第七識を意と称し、末那識というのか、意識と名づけてもいいのではないか、という問いが提起されていました。意識という場合は、意に依る識である、と明言されているわけです。意識の所依は意根であると。第三能変に於て第六識は根本識に依止すといわれ、その釈が述べられていましたが、私たちが目覚めているときは何かを意識しているわけです。その意識は恒に第七識の影響を受けているのですね。意識は根本識である、第八識に依止するのですが、その媒体となるのが意といわれる第七識なのです。ですから、私たちにとって何が大切な言動であるとか、行動は、いかに第七識を見つめることが出来るかという一点にかかってくるのでしょう。自己を見る眼差しを研ぎ澄まして人生を考える必要があるのではないでしょうか。

          ー 第二能変 所依門 (1) ー

 八段十義の第二段、所依門が説明されます。思量能変の識(第七識)の所依、依り所です。『三十頌』では第五頌の「依彼転」が所依門にあたります。所依についての概略を示し、後に「彼」・「依」・「転」の三字を個別に説明されます。

 概略を示す。

  「依彼転とは、此れが所依を顕す。」(『論』第四・十二左)

  「略の中に二あり。初には総じて依彼転と云う言を解す。後には別して依彼転と云う三字を解す。此れは即ち初めなり。」(『述記』第四末・五十一右)

 所依ということについては、心・心所には必ず所依・所縁・行相とがある、その中の一つで、所依とは根拠、こころが生じるよりどころですね。『瑜伽論』巻第五十五に「諸の心・心所に皆、所依あり。然るに彼の所依に総じて因縁依(種子依)・増上縁依(倶有依)・等無間縁依(開導依)の三種あり。」と述べられています。この心・心所の所依の三種については後に詳細されます。

 三字を個別に説明する。

  「彼というは、謂く、即ち前の初の能変の識なり、聖いい、此の識は蔵識に依ると説きたまえるが故に」(『論』第四・十二左)

  「此れは彼第八識に依ると云うことを顕すなり。阿頼耶有るに由るが故に、末那有るを得と云えり、故に聖説と名づく。」(『述記』第四末・五十二左)

 聖説というのは、弥勒菩薩が説かれていることを指します。『瑜伽論』巻第五十一に「又、阿頼耶識あるに由るが故に末那識あることを得、此の末那識を依止と為るに由るが故に意識転ずることを得。・・・」

 (彼というのは、前の初能変の識である。聖(弥勒菩薩)は此の識は蔵識に依って存在すると説いておられるからである。ーその根拠が上記の『瑜伽論』巻第五十一の文ですね。「彼に依って」とは第八識の中の第七識を生起させる種子と現行の第八識に依って、という意味になります。