唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (84) 第七、三界分別門 (21)

2015-04-15 22:59:50 | 第三能変 諸門分別第七 三界分別門
 もうすぐ、藤 (葛井寺、昨年の境内より)
 
 前半は、上地の煩悩が下地を縁ずることを説いてきましたが、諸論には、上地の煩悩は下地を縁ずることは無いと説かれており、その違背を会通します。
 論書は、『瑜迦論』巻第五十八等を指します。『述記』に「五十八等に上は下を縁ぜずと云うは」と述べられています『瑜伽論』(大正30・622a)には「下地の煩悩は能く上地の煩悩及び事を縁ずるも、上地の惑能く下地の煩悩及び事を縁ずるに非ず。」と説かれていますが、それは「多分の余の一切の時一切の異生に依るが故に。別の行相を以て縁じ計して我と為ると、辺見と及び相ととに下を縁ぜざるに依るが故に」と釈しています。
 「而も上の惑は下を縁ぜずと説けるは、彼は多分に依ってという、或は別縁において説く。」(『論』第六・二十一右) 
 ① 多分に依る会通。
 ② 別縁に依る会通。
 ①が二つに分けられて説明されています。「余の一切時」と云われていますから、上地の煩悩が一切時に下地を縁じているわけではないという会通です。つまり、上地の煩悩が下地を縁じていない時を多分とするという説明です。これが人罪になり、二つ目は、「(余の)一切の異生に依る」ことから、一切の有情が下地を縁じているわけではなく、下地を縁じていない有情を多分とするという説明です。
 ②もまた、二つの説明がされます。一つ目は、別の行相によって下地を縁じて計度して我とするものではないという点から、上地の煩悩は下地を縁じないと、この点から『瑜伽論』は述べていると会通しています、二つ目は、我見を離れて辺見や貪が下地を縁じるのではないから、上地の煩悩は下地を縁じないと、この点から『瑜伽論』は述べていると会通しています。
 惣縁と別縁との関係ですね。別縁では上地の煩悩は下地を縁じることはないと言いえるが、惣縁ならば、上地の煩悩は下地を縁じると言いえるのであるというわけです。『述記』には「惣縁は得」と釈しています。
 以上で三界分別門は閉じられます。
 次科段からは、十煩悩の、三学分別門に入ります。
 
 

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (83) 第七、三界分別門 (20)

2015-04-14 22:36:14 | 第三能変 諸門分別第七 三界分別門
上地の疑と邪見と見取見と戒禁取見の三見が、下地を縁ずることを説明する。
 「疑と後の三見とは理の如く思うべし。」(『論』第六・二十一右)
 疑と後の三つの見(邪見と見取見と戒禁取見)とは、理の通り考えるべきである。
 ただ、癡が説かれていないのは、「癡は已に極成す、所以に説かず」と『述記』に釈されていますように、癡はすべての煩悩が生起する因ですから、上地の煩悩が下地を縁ずる時には、癡もまた必ず縁ずるのであることを明らかである為に、『論』には説かれていないのである。
 瞋は如何ということですが、瞋は欲界のみに存在する煩悩ですから、上地が下地を縁ずる一段には説かれないのです。本科段は「理の如く思うべし」と簡単に述べています。
 しかしながら、『述記』には三説が挙げられて、第一説が正義とされています。
 「此の中(1)有義は、亦下をも縁ずることを得。欲界の仏世尊を疑うが故に、或は復た邪執するを以て邪見あることを得、下地の苦集の理を撥し疑うが故に。上定を得し已って彼(色界)の二取を起こし、欲界の聞思せし昔起こす所の者を執して、勝因と為すが故に。(2)有義は得せずという。文証なきが故に。(3)又二見のみ得す。行相は前の如し。邪見と疑とを除く。
 第一説 ― 「下をも縁ずることを得」、上地の疑と邪見と見取見と戒禁取見の三見が、すべて下地を縁ずると主張する。
 第二説 ― 「得せずという」、第一説とは逆の立場です。下地を縁ずることはないと主張します。
 第三説 ― 「二見のみ得す」、上地の見取見と戒禁取見のみが下地を縁ずると主張します。
 第一説が正義とされるのは、三つの理由からですが、『述記』には、「欲界の仏世尊を疑うが故に」と。つまり上地の疑が欲界の仏世尊(仏弟子か)を疑うような場合であるという。私たちは欲界に在って聞法しているわけですが、上定し已ってなお、聞法に疑いをもっている時は、上地の疑は下地を縁ずるのであると云われているのでしょう。邪見は因果撥無の見といわれますから、上地の邪見が、下地の苦諦・集諦の理を撥無するところから起こってくるわけですね。もう一つの理由は、上地にいる人の二見(見取見と戒禁取見)が、かって昔、欲界にいた時に起した二見に執着し、二見が勝れていると思った場合には、上地の二見であっても、下地を縁ずるのであると云う。
 以上で、上地の煩悩が下地を縁ずると云う所論が述べ終えられたことになります。
 次科段は『論』と文献の会通になります。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (83) 第七、三界分別門 (20)

2015-04-10 20:51:36 | 第三能変 諸門分別第七 三界分別門
大阪造幣局の通り抜け、昨日から開催されています。
平成27年4月9日(木曜日)から4月15日(水曜日)までの7日間 
    
平日は午前10時から午後9時まで、
土曜日・日曜日は午前9時から午後9時まで、ですね。

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 上地の煩悩が下地を縁じることを個別に説明されます。
 最初は、慢について説明されました。そして、本科段の次に、「疑と後の三の見(邪見・見取見・戒禁取見)とは、」と説明されてきます。瞋は欲界にのみ存在しますから、上地の煩悩ではありませんので説かれません。また癡は、煩悩が生起する根本原因ですから、煩悩が生起する限り癡は下地を縁じることは明白なんですね。従って、本科段で問題にされるのは、貪と薩迦耶見と辺執見が下地を縁じることについて説明されることに成ります。
 「総じて諸の行を縁じて我我所なり断なり常なりと執し愛する者は、下を縁ずることを得るが故に。」(『論』第六・二十一右) ここは、先の下地の煩悩が上地を縁じることの説明に於いて「総縁諸行。執我我所断常慢者。得縁上故」云われてきたことですが、諸行とは、欲界の五蘊の依身、私の身体を指しています。この身は一切の種子を宿しているわけです。本科段は、上地にいる者が、欲界の五蘊の依身を縁じて起す所の、我我所であると執する薩迦耶見、断見・常見であると執する所の辺執見、それらを執着して愛するという貪であるという。
 本来なら、下地(欲界)から離れて、定に入り、色界初禅(入定)を得た者は、欲界の五蘊を縁ずるということはないはずなんですが、この身が存在しますから、仮和合であることが解らないわけです。そうしますと、やはり欲界に於ける執着と同じように、この身は存在すると錯誤を起こし執着するわけですね。我が居て、我が物である、我執・我所執ですね。所執の我は無いんですがね。そして生死を分けて、死んだら終わりという断見と、死んでも魂は生き続けるという常見に執着して、この身を貪るわけです。上地に在っても、上地の煩悩が下地を縁ずるということになるんでしょうね。

 「愛欲を以ての故に則ち欲界有り。禪定を攀厭するを以ての故に則ち色・无色界有り。此の三界は皆な是れ有漏なり、邪道の所生なり。」(『論註』)次の文章が大事ですね。
 (如来は)「是の故に大悲心を興したまふ。願は我れ成佛せむに、无上の正見道を以て淨の土を起して三界を出でむと」(『論註』)
 
 南無して心を至し帰命して西方の阿彌陀佛を禮したてまつる。
 我無始從り三界に循りて 虚妄輪の爲に廻轉せらる 一念一時に造る所の業 足六道に繋がれ三塗に滯まる 唯願はくは慈光我を護念して 我をして菩提心を失せざらしめたまへ 我佛惠功の音を讚ず 願はくは十方のの有縁に聞かしめて 安樂に往生を得んと欲はん者 普く皆意の如くにして障礙無からしめん 所有功若しは大少 一切に廻施して共に往生せしめん 不可思議光に南無し 一心に歸命し稽首して禮したてまつる
願はくは諸の衆生と共に安樂國に往生せん。(『讃阿弥陀仏偈』)
 
 我・我所執によって、存在の根底からの響きが聞こえなくなっている。しかし、身はちゃんと聞いている。有漏の穢身である、と。穢身にスポットライトを当てているのが大悲心ですね。大悲心は如来の分限ですから、凡夫の我々にはわかりませんんが、貪・瞋・癡・慢・疑・薩迦耶見・辺執見・邪見・見取見・戒禁取見を依り所にし、苦悩している現実に慚愧心をいただく所に感じてくるも
のではないでしょうか。煩悩は存在の根底からの呼び声を伝える役割をもっているのですね。呼び声が聞こえた時にアーラヤ識と意識との感応道交が、空しく過ぎることのない人生を開いてくるのでしょう。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (82) 第七、三界分別門 (19)

2015-04-07 21:49:21 | 第三能変 諸門分別第七 三界分別門
 明日は、花まつり

 第一は、「見道別縁の我見は、他地の現行を計して我と為すこと有ること無し」と解釈しています。つまり、分別起の別縁の薩迦耶見は他地の法を縁じて、縁じたものを我・我所とすることは無いのであると主張しているんですね。
 第二は、自分の我と他の我を区別をつけて論じています。第一の解釈は、「無い」とする立場ですが、第二の解釈は「他地の法を縁じて、我とすることを認める立場から、上地を縁じているのではないと論じてくるのです。「欲界所繋の自身の我は別縁他地の法を計して自の内我と為すと許さず。他の我と計するならば、理亦た遮せず。」 『樞要』(巻下末・四十右)には「界は分別の我見に他地を縁ずる者なし。梵王の常等は即ち定んで我見なるが故に。」と釈していますから、欲界にいる者が宿住随念智証通という通力を得て、この通力によって梵天を縁じて常住であると考えるわけです。常住であるとする我は、上地の他者の我であり、この我を縁じて我見を起こし、自の内我とするわけです。しかし、自の内我をもって上地を縁じているのかというと、そうではなく、我見は欲界に属するものであって、分別起の薩迦耶見は自分の我を上地に縁じることはないという意味において説かれている。
 「世間に他地の法を執じて我等と為るをば見ざるが故に、辺見は必ず身見に依って起こるが故に」 という『論』の説明をさらに会通しているわけです。
 次科段は、「上地の惑、下地を縁ずることを得」(上地の煩悩が下地を縁じることを説く)
 「上地の煩悩も亦た下地を縁ず、上に生れた者は、下の有情の於に己が勝徳を恃んで、而も彼を陵(オカ)すと説けるが故に。」(『論』第六・二十一右) 
 分別起・倶生起を問わずに、上地の煩悩は、下地を縁じるのである。その説明が「下の有情の於に己が勝徳を恃んで、而も彼を陵(オカ)す」と『瑜伽論』巻第五十九(大正30・629b)に説かれているからである。慢の煩悩から説明されています。他者に対して自分の方が勝れていると驕る心から起こってくるものであるというわけですね。一つが、自己の勝れた徳を恃み、それをもって下地の有情を軽蔑してくる慢心ですね。恃己の慢と陵他の慢から、上地の煩悩もまた下地を縁じると説かれているわけです。
 
 慢と云う煩悩は慢心のことで、他人に対して自分をおごりたかぶる心のことです。「己を恃(たの)んで他に於いて高擧(こうこ)するを以って性と為し。」といわれています。自分を頼りにして他人に対して高擧する、高慢です。思い上がってうぬぼれているわけです。この心ですね。常に慢心を抱いて他に接しているのです。善しにつけ、悪しきにつけですね。前者は増上慢ですし、後者は卑下慢です。へりくだった慢心ですね。「他の多勝に於いて己れ少劣と謂う」此れは世間に於いて自分と他者を比較することがよくあることですね。自分が明らかに劣っているとわかっていても認めません。自分もまんざら捨てたものではない、というわけです。子供と話をしていてもよく判るのですが、なかなか相手を認めません。「あいつは勉強できるかもしれないが、スポーツは俺の方がはるかに優れている」「あいつは数学が得意だけれど、俺は英語では負けない」とかですね、すべてに於いて自分が劣っているとわかっていても慢心が働いているのですね。また「我が身を下して(卑下して)高慢の人(思い上がって人をあなどること)を見ては不見の思いをなす」ともいわれています。このように見ていきますと、慢と云う心は自他差別の心だということがわかりますね。どこまでいっても自分優位であるということは動かせないのです。それが「能く不慢を障えて苦を生ずるを以って業と為す」と。自他差別の心が苦を生んでくるのですね。慢と云う煩悩は姿かたちを持ちませんから不気味ですね。見えないから本当に厄介な煩悩です。「邪見憍慢悪衆生」、邪な(わかっているつもりの)見解をもち、自らおもいあがって、他を見下して侮っている存在を悪衆生といっていますね。この悪衆生は「信楽受持すること、はなはだもって難し。難中の難、これに過ぎたるはなし」といわれ、慢と云う煩悩はいかに厄介な煩悩かがよく伺えるのです。そしてこの慢には七慢あるいは九慢という分類、非常にきめこまやかな分類がなされています。七慢とは、慢・過慢・慢過慢・卑慢・我慢(自らたのんで他に対して思い上がっていることー世間でいう辛抱とは違います)・増上慢(未だ取得していないけれど、既に取得していると嘘をつくことです。ー私もですね、このように唯識を読ませていただいているわけで。、いろんな書物を参考にしながら、わかったように書き込みをしていますが、本当の所は何もわかっていないのですね。嘘をついています。これが増上慢ですし、また卑下慢でもあるわけです。やっかいなのは増上慢・卑下慢ですといったとたんに慢心が働くと云うのですね。ですから何も判っていないと云うことなのでしょうね。書くと云うことはわかったつもりで書いていますかね。慢心です。)・邪慢(邪な慢心ですね。「己れ無きに己れ有と謂う」といわれ、増上慢と似通っていますが、自分には無いのに有ると謂う慢心です)

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (81) 第七、三界分別門 (18)

2015-04-05 21:07:24 | 第三能変 諸門分別第七 三界分別門
(Oiharaさんの投稿より拝借しました。4月8日は釈尊降誕会)

 前科段の「或は別縁に依る」の会通を、今一度詳細に説明します。
 「世間に他地の法を執じて我等と為るをば見ざるが故に、辺見は必ず身見に依って起こるが故に。」(『論』第六・二十一右)
 前科段に於ける『述記』の釈は、「或は、別に自身を縁じて我と為す我見等の分別は、上を縁ぜざるに依るが故に。或は、彼の対法の第六に、見が上を縁ずる中、ただ我見を除き、辺見を除かざるは略するなり。辺見は我見に随って後に生ず。身見は縁ぜず。辺見も爾るべきが故に。」 『対法論』の所説は、自身を縁じて我とするという意味で説かれているのであって、上地の存在を縁じて我とするわけではない、というわけですね。ここを受けてですね、世間に於いては、我見等の分別は自身を縁じて生起するのであって、上地を縁じているわけではない。他地(上地)の存在を執着して我等とすることを見ないからである。そして辺見は必ず身見に依って起こるからである、と説かれてきます。
 分別起の別縁の薩伽耶見は、他地の法を執して我・我所とすると説かれている文献を見ることはない、つまり、他地の法を執着して我・我所とすることはないのである。このことの意味が何を指しているのかですが、『述記』には四つの解釈を以て説明されています。長文ですが、原文をコピーしますと、
 「 論。不見世間至身見起故 述曰。一解云。無有見道別縁我見有計他地現行爲我。以別縁者見所斷故。邊見亦爾。依彼起故。今此所解一分常等。隨於色界繋我後而生。此極有理。然此正是得彼定者。依宿住通執爲彼常。故如所説。依尋・伺者未得上定。不起上我見。如何起常。故如先説。今此又解。應言但是欲界所繋自身之我。不許別縁計他地法爲自内我。計他之我理亦不遮。故於此後起常見等。是邊見攝。不爾此義道理難思。文中但擧修道總縁我見爲他界縁。理准亦有見道所斷別縁我見。計他地法爲他之我。文中但遮計爲自我故 又解別縁者是多分義。謂非總縁。及六十二見所依我見以外。無任運・分別二種我見。別縁他地爲我者故。其此總縁。六十二見時。理不應遮。縁者所以。依別所以説彼不縁 又解依小乘別縁者。不執他地法爲我等。大乘無遮。」(『述記』第六末・五十二左。大正43・454c)
 (「(第一解)一解に云く、見道別縁の我見が他地の現行を計し、我と為すこと有りということ有ること無し。別縁のものは見所断なるを以ての故に、辺見もまた爾なり。彼に依って起こるが故に。いま此に解するところの一分常等は、色界繋の我に随って後に生ずるなり。これも極めて理あり。
 然るに此は正しく是なるも、彼の定を得たるものは、宿住通に依って執して彼は常なりと為す。故に所説の如くなるべし。尋伺に依るものは、未だ上定を得ざれば、上の我見を起こさず。如何ぞ、(上の)定を起こさんや、故に前説の如くなるべし。
 今此に又解して言うべし。但だ是れ欲界所繋の自身の我は、別縁して他地の法を計し、自の内我と為すことを許さず。他の我を計するは理として亦遮せず。故にこの後に於いて常見等を起こすは、是れ辺見に摂す。爾らずんば、この義、道理は思い難し。文の中には、但だ修道、総縁の我見が他界縁と為るを挙げたり。理を以て准ずるに、また見道所断の別縁の我見も、他地の法を計し、他の我とすることあるべし。文の中には但だ計して自我と為すを遮せるが故に。
 又解す。別縁とは是れ多分の義なり。謂く総縁と及び六十二見所依の我見にあらざる以外に、任運と分別との二種の我見は他地を別縁して我とするものなきが故なり。其れこの総縁と六十二見との時には、理として遮すべからず。縁とは所以なり。別の所以に依って彼は縁ぜずと説くなり。
 又解す。小乗別縁の者は、他地の法を執して我等となさざるなり。大乗は遮することなし。」) 
 第一解は、「見道別縁の我見が他地の現行を計し、我と為すこと有りということ有ること無し」。分別起の別縁の我見(薩迦耶見)は他地の法を縁じてそれを我・我所とすることは無いというものです。
 第二解は、「欲界所繋の自身の我は、別縁して他地の法を計し、自の内我と為すことを許さず。他の我を計するは理として亦遮せず」。欲界の分別起の別縁の我見と辺見は他地の法を許す立場から論じられています。しかしそれは「自の内我となすことではない」自らの我を縁じているのではなく、あくまでも他者の我を縁じて我としているのであって、自分の我を他者の我を分別して論じられているのであって、つまり、上地を縁じて我とするものではないと説いているのですね。
 ストレートな解釈に終りますが、世間通途の義からいいますと、我・我所という認識は、色界を縁じて起こってくるものではなく、欲界を執着することに於いて起こってくるものであるということなんですね。難解ですね。詳細は保留しておきます。宿題です。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (80) 第七、三界分別門 (17)

2015-04-04 21:21:22 | 第三能変 諸門分別第七 三界分別門
 近畿地方では、この週末がピークですかね。人知を超えて見事に咲きました。自然の美、たおやかに、清々しく、優美に生き切った姿は本当に美しいですね。

 笹栗さんの仰っていただいている意味はよくわかるのですが、僕はちょっと引っかかるのでくどいんです。簡単に、浄土・顕浄土とはいえないんですね。浄土感なんですが、どうしても実体化を破りたい。浄土は実体的に存在するのではなく、今の言葉でいえば、意識と無意識の感応に於いて、意識が無意識を証明するという、無意識からのメッセージを聞き取ることが出来るのかが問われているのではないかと思うんです。無意識からのメッセージが無覆無記なんですね。種子生現行の現行即無覆無記なんです。いわば純粋性です。この純粋性を覆っているのが自我意識ですね。我執と云われているものです。我執は第六意識相応です、無意識からのメッセージを受け取らない意識ですね。意識と無意識の間に断絶があるんです。それが唯識瑜伽行派によって見出されてきた、第七識、マナーと呼ばれる意識です。願文でいえば、無意識の領域が第十八願、意識の領域が第二十願、マナーの領域が第十九願なのでしょう。マナーという領域には相当な無理が働いていると云わざるを得ないのですね。だから執着するんです。つまり浄土を覆い隠しているのがマナーと云う意識であり、マナーによって覆い隠されている世界が浄土なのでしょう。意識で云えば、チッタ(心)、この心が、私の迷いと行動を共にすることから、阿頼耶識といわれているわけでしょう。真如から云えば、アーダーナ(阿陀那)無垢識ですね。無垢識には具体的な働きは有りませんが、阿頼耶識として流転する所に働きが生れます。この働きが私を突き動かして、苦悩の現実を演出してくるのですね。苦悩の現実の声を聞くことが大事な生活行動になってきます。苦悩は現実に違背していることから生起してくることですが、違背の背景に、浄土と云う場が存在しているわけですね。場が在って、初めて苦悩することができるんです。それが無意識からのメッセージだといいたいんです。阿頼耶識だと。その働きが本願の名号であるわけでしょう。本願為宗・名号為体と表されているところではないでしょうか。 

 問い、貪・瞋・慢・我見とは上地を縁じないと説く文献、即ち『対法論』巻第六と『瑜伽論』巻第五十八を会通する。
 「而るに有る処に、貪・瞋・慢等は上地を縁ぜずと言えるは、麤相(ソソウ)に依って説けり、或は別縁に依ってという、」(『論』第六・二十一左) しかし有る処(『雑集論』巻第六・大正31.722a等)に貪・瞋・慢等は上地を縁じないと言えるのは、麤相に依って説けるのと、或は別縁に依って説かれたものでると云えるのである。
 「等」は等取です。薩伽耶見・辺執見をも含むということです。麤相の説は、小乗部派仏教の立場から説かれたものであるとうことですね。「麤顕(ソケン)の行相は巨細(コサイ)に非ず」と。巨細は、極めて細かいことを云いますから、麤相とはアライということを意味します。本科段で云われていることは、小乗部派仏教の説ば粗雑に説かれたものであると云っています。
 又、本科段で説かれていることは、前科段で説かれてきたことと矛盾をきたします。此れは何故か?ということになります。この問いに答える形で本科段の一節が説かれているのです。
 答え
 ① 麤相に依って説かれたものである。
 ② 別縁に依って説かれたものである。
 大乗仏教は麤相に依って説かれたものではなく、極めて細かく吟味されて説かれたものであることを表しています。又別縁から説かれたとするものです。上地を縁じて我とするわけで説かれたのではなく、自己自身を縁じて我と説かれた別縁であるとする立場から、『雑集論』等には、下地の煩悩
は、上地を縁じるものではないと説かれているのです。
 次科段はもう少し詳しく説明されます。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (79) 第七、三界分別門 (16)

2015-04-03 20:36:42 | 第三能変 諸門分別第七 三界分別門
仏教徒は、釈という一字をいただいています。姓名と法名をもっているんですね。釈迦の弟子になることは、僧伽の一員になることを意味します。「普共諸衆生 往生安楽国」(普く諸々の衆生と共に安楽国に往生せん)という願いに生きる存在になることですね。人間として、いのちの尊厳を知り得る存在として、畢竟成仏道路を教えて下さいました尊き存在、お釈迦様。今年で生誕何年になるのでしょうか。『教行信証』化身土・本から伺いますと、「三時教を案ずれば、如来般涅槃の時代を勘うるに、周の第五の主、穆王五十一年壬申に当れり。その壬申より我が元仁元年甲申に至るまで、二千一百八十三歳なり。また『賢劫経』・『仁王経』・『涅槃』等の説に依るに、已にもって末法に入りて六百八十三歳なり。 」と。
 「周の第五の主、穆王五十一年壬申」は紀元前949年(穆王 紀元前976年 - 紀元前922年 在位55年)にあたり、我が国の元仁元年は1224年、親鸞聖人52歳の時になります。お釈迦様が入滅され、今年で2974年になります。お釈迦様は80歳で涅槃に入られていますので、今年が3054歳ということになりましょうか。(但し、通説ではお釈迦様の誕生年は紀元前463年とされていますから、今年が2478歳として、今現在説法されていることになります。)。 
 この「三時教を案ずれば、如来般涅槃の時代を勘うるに、周の第五の主、穆王五十一年壬申に当れり。その壬申より我が元仁元年甲申に至るまで、二千一百八十三歳なり。また『賢劫経』・『仁王経』・『涅槃』等の説に依るに、已にもって末法に入りて六百八十三歳なり。」
 こういうふうに今の時代は末法の時代であるとはっきりと二千一百八十三年経ったと。これは親鸞聖人が五十二歳の時で、この年は親鸞聖人の先生である法然上人の十三回忌に当たる年です。この十三回忌に当たる年に親鸞聖人は今自分が救済されることがなかったならば、仏法は龍宮に入ってしまうと言いきっておられる文章ではないかと思います。そしてその次に最澄の『末法燈明記』、これはほとんど全文を引用されて、末法というものの時代相を明らかにされておるわけです。それでちょうど親鸞聖人五十二歳の時、法然上人が著されました『選択集』が改版されまして、批判の書が高弁という栂ノ尾の明恵上人が『摧邪輪』という書物を著されて法然上人の『選択集』を破斥・批判をされているわけです。二つの視点で批判をされているわけですが、菩提心撥無、法然の言っている菩提心はいらないということはどういうことなのか、仏教は菩提心が一番だろうと、菩提心が一番なのに法然は菩提心はいらないというのはどういうことなのかと。それと聖道門の仏教を別解別行と、群賊悪獣に喩えている。これは二河白道に出てきますけれど。聖道門は群賊悪獣呼ばわりするのはどういうことだと。それは間違っていると。これら二つの視点で『選択集』を批判してくるわけですけれども、この批判にこたえる形ではなかったかとも思いますけれども、ちょうど明恵が『摧邪輪』を著してすぐに反応するように、親鸞聖人52歳の御年に教行信証の制作をされた年ではないのかなと言われております。それで時期相応の教法を明らかにされたということが親鸞聖人のお仕事であったと思うのです。時と機を外してしまうと教も龍宮に入ってしまう。末法というと今の世代に生きておられるみんなは今の時代は末法、末法というよりも法滅の時代ですね。末法の時代は過ぎてしまい、法が龍宮に入ってしまったという法滅の時代だと自覚が持てない、そういう時代相ではないかなと思います。しかしそういう時代相というものをはっきりと自覚しなかったら、仏法というものを聞いてもただ単に学問として聞くとか、教養学として聞くとか、そういう聞き方になってしまうのではないかと思います。私は時と機が相応して初めて親鸞聖人は「浄土真宗は、在世・正法・像末・法滅、濁悪の群萠、斉しく悲引したまうをや。」(聖典p357)とこういうふうにおっしゃっておられるのです。
 私たちの学びというもの、『成唯識論』に入って逐一学んでいますけれども、この学びというのが、時と、時とは時代ですね、そして機と、機とは自分ですね、時機を外しては教法は生きて働かない、と言いたいわけです。
 唯識は、法相宗の学問なのですけれども、ただこれは学問と言いましても、唯識というのは瑜伽行唯識派という要するにヨーガ、yogacaraと言うのですけれども、そういう行ですね、行を通して自分の心の深層を見出してきたもの、ということでただ単に頭で考えたというわけではありませんから、非常に実践的なところから生まれてきたというように理解しています。それでですね、学問、問いを学ぶということですけれども、仏法を学ぶということ、道元禅師は「仏法を学ぶというは自己を学ぶ」こと。「自己を学ぶとは自己を忘るるなり」、「忘るるなり」と言うのは無我ということ言っているわけですけれども。自分ということを問うということが学問だと。清沢先生は「自己とは何ぞや、これ人生の根本問題なり」、と問題提起されておられますが、仏法を学ぶということは自分ということを明らかにするための学びである、ということですね。
 親鸞聖人の歴史の逆算から言いますと、親鸞聖人当時は2100年ですから、現在からいうと2850年、お釈迦さまが涅槃に入られて仏滅後2850年になっているわけです。お釈迦様は八十年の歳月を生きておられますから、大体生誕2930年、『教行信証』とは多少の差異はありますが、ほぼ同じですね。

 
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 「余の五は上を縁ずという其の理成せり。」(『論』第六・二十一右) 
 他の五(癡・疑・邪見・見取見・戒禁取見)も上地を縁ずるというその理は極成している。即ち下地の十煩悩はすべて上地を縁じるということを明らかにしてきたのです。
 また、総縁と別縁という観点からも説明されています。我見と辺執見と慢は総縁(対象を全体として認識する)であり、瞋恚は別縁(対象を別々に認識する)である。貪と癡は、総・別に通ずる。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (78) 第七、三界分別門 (15)

2015-04-02 21:25:05 | 第三能変 諸門分別第七 三界分別門
  ここ中浜下水道局では毎年桜の時節に合わせて一般公開されています。今夜も大勢の人でにぎわっていました。 桜の元でいただく日本酒は各別ですね。

 今日は、薩迦耶見と辺執見と慢が上地を縁じることについて説明されます。
 「総じて諸行を縁じて我我所と執じ断なり常なりとせし慢ある者は、上を縁ずることを得るが故に。」(『論』第六・二十一右)
  本科段は、『瑜伽論』巻第八十八及び五十八の所論をうけて説かれています。要点は『述記』に詳しく述べられています。
 薩伽耶見と辺執見は、欲界繋の苦集滅道の四諦の、苦諦に迷うと説かれます。「五取蘊を略して総じt名づけて苦と為す。愚夫は此の五取蘊の中に於いて、二十句(五蘊の一つ一つに、四句分別と云う、有・無・有亦無・非有非無
の見)の薩伽耶見を起こす、五句(色は常なり。受は常なり。想は常なり。行は常なり。識は常なり)は我を身、余は我所を見る、是を苦に迷う、薩伽耶見と名づく。即ち是の如き薩伽耶見を用いて以て依止と為し、五取蘊に於いて我の断常を見、故に辺執見も亦苦に迷う。」と。
 下地の薩伽耶見と辺執見と慢とが、総じて欲界の諸行を縁じて、我・我所であると執着し、断である(断見)、常である(常見)と見て、断なり常なりと慢ずるは、上を縁ずることを得ているのである。
 ここで云われている諸行は、諸行無常という有為転変するという広範囲での諸行を指すのではなく、この身と、この身に宿している種子(三界の種子)をも含めて諸行といっているのです。総じてと云われる場合は、『述記』に「和雑せるを計して我と為すとは、即ち上界の種子等の法なり」と説かれていますように、三界の種子を対象として縁じて、我我所であると執着を起こすことになるんですね。これは総縁の我見と云われ、第六意識相応の倶生の我見であり、唯修所断であることになります。この我見によって、断見・常見という辺執見を起こし、さらには、慢心である、恃己・稜他の慢が起ってくるのです。
 我見の実体はよくわかりませんが、我見が断見・常見をいう辺執見を引き起こしてくる、執着を生み出し、執着は慢心をひきおこすのですね。非常に具体化してきます。逆に、慢心の元は我見なんです。慢心によって我見が証明されてきます。慢と云う煩悩は慢心のことで、他人に対して自分をおごりたかぶる心のことです。「己を恃(たの)んで他に於いて高擧(こうこ)するを以って性と為し。」といわれています。自分を頼りにして他人に対して高擧する、高慢です。思い上がってうぬぼれているわけです。この心ですね。常に慢心を抱いて他に接しているのです。善しにつけ、悪しきにつけですね。前者は増上慢ですし、後者は卑下慢です。へりくだった慢心ですね。「他の多勝に於いて己れ少劣と謂う」此れは世間に於いて自分と他者を比較することがよくあることですね。自分が明らかに劣っているとわかっていても認めません。自分もまんざら捨てたものではない、というわけです。子供と話をしていてもよく判るのですが、なかなか相手を認めません。「あいつは勉強できるかもしれないが、スポーツは俺の方がはるかに優れている」「あいつは数学が得意だけれど、俺は英語では負けない」とかですね、すべてに於いて自分が劣っているとわかっていても慢心が働いているのですね。また「我が身を下して(卑下して)高慢の人(思い上がって人をあなどること)を見ては不見の思いをなす」ともいわれています。このように見ていきますと、慢と云う心は自他差別の心だということがわかりますね。どこまでいっても自分優位であるということは動かせないのです。それが「能く不慢を障えて苦を生ずるを以って業と為す」と。自他差別の心が苦を生んでくるのですね。慢と云う煩悩は姿かたちを持ちませんから不気味ですね。見えないから本当に厄介な煩悩です。「邪見�鉦慢悪衆生」、邪な(わかっているつもりの)見解をもち、自らおもいあがって、他を見下して侮っている存在を悪衆生といっていますね。この悪衆生は「信楽受持すること、はなはだもって難し。難中の難、これに過ぎたるはなし」とといわれ、慢と云う煩悩はいかに厄介な煩悩かがよく伺えるのです。そしてこの慢には七慢あるいは九慢という分類、非常にきめこまやかな分類がなされています。
 慢・過慢・慢過慢・卑慢・我慢(自らたのんで他に対して思い上がっていることー世間でいう辛抱とは違います)・増上慢(未だ取得していないけれど、既に取得していると嘘をつくことです。私もですね、このように唯識を読ませていただいているわけですが、いろんな書物を参考にしながら、わかったように書き込みをしています。本当の所は何もわかっていないのです。嘘をついています。これが増上慢ですし、また卑下慢でもあるわけです。やっかいなのは増上慢・卑下慢です、といったとたんに慢心が働くと云うのですね。ですから何も判っていないと云うことなのでしょうね。書くと云うことは、わかったつもりで書いていますかね。慢心です。)・邪慢(邪な慢心ですね。「己れ無きに己れ有と謂う」といわれ、増上慢と似通っていますが、自分には無いのに有ると謂う慢心です)
 つづく

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (77) 第七、三界分別門 (14)

2015-04-01 20:32:55 | 第三能変 諸門分別第七 三界分別門
 福島から来られた40人程の方々とバーベキューを楽しみました。想いの他、皆さん食欲旺盛で驚きました。素材が余る事もなく皆さん満足げでした。ただ、小雨と風と少し寒かったので心配しましたが、参加者全員無事に過ごせました。何よりの事でした。(松本曜一師の投稿より)
 今日は小雨降りしきる中、大阪教区ボランティアの方々のお力添えで、福島から見えられている人達とバーベキューを楽しまれたのですね。ご苦労様でした。


 前回は、下地の貪が上地を縁じることを説いていましたが、本科段では、下地の瞋が上地を縁じる場合について説明されます。
 「既に瞋恚は滅道を憎嫉(ゾウシツ)すと説けるを以て、亦離垢地(リヨクジ)をも憎嫉す応きが故に。」(『論』第六・二十左)
 すでに、瞋恚は滅道(滅諦と道諦)をにくみきらうと説かれている、このことからもわかるように、また、離欲地という、欲界の煩悩を離れた不還果の位(ここでは、欲界を離れたと云う意味で、上界を指します。)をもにくみきらうのである。つまり、深遠なる真理である滅諦や道諦を憎嫉するのであるから、それよりも浅い事柄である離欲地をも憎嫉するのは明らかである。
 『述記』の言葉は含蓄がありますね。「深き理尚然り。何に況や浅事をや」と。
 『瑜伽論』巻第五十八をみますと、「薩迦耶見・辺執見・邪見・見取見・戒禁取見・恚(瞋恚)・貪(貪欲)・慢・無明(癡)・疑・・・是の如く説く所の十種の煩悩は、亦事を縁じ転じて、亦煩悩を縁ず、謂く十煩悩は皆自地の一切の煩悩と展転して相縁じ、亦自地の諸の有漏の事を縁ず。下地の煩悩は能く上地の煩悩及び事を縁ずるも、上地の惑能く下地の煩悩及び事を縁ずるに非ず。是の如く煩悩展転して相縁じ、及び下地の惑は能く上地を縁ず。・・・」と説かれています。
 順序は相前後しますが、『論』は始めに、(1)貪、次いで(2)瞋・(3)薩迦耶見・辺執見・慢・(4)癡・疑と見取見・戒禁取見という順序で説明されてきます。
 貪については昨日考究していますが、『瑜伽論』巻第五十八の所論では「能く躭著(タンジャク・愛着・執着)する心所を性と為す。此れに四種有り。(1)諸見と、(2)欲と、(3)色と、(4)無色界に著ずるなり。」欲界という下地と上界に執着を持つのが貪の特徴なんですね。
 次に瞋恚についてですが、「(瞋)恚とは謂く能く損害する心所を性と為す。此れに復、四種有り、謂く(1)己を損する他の見と、(2)他の有情の所とに於ける、及び(3)愛するところを饒益(ニョウヤク・利益を与えること)せざる所に於ける、(4)愛せざる所に饒益を作す所に於ける所有の瞋恚なり。」
 滅諦・道諦に対して憎嫉の心を起こすことが説かれています。
 見道所断について説かれている所ですが、瞋恚は滅諦に迷うことから起こってくるんですね、起こってきた元から、滅諦を観察して断ずる所であると云われているわけです。
  「 謂於滅諦起怖畏心起損害心起恚惱心。如是瞋恚迷於滅諦。」(大正30・623b~c)(謂く滅諦に於いて畏怖のこころを起こし、損害の心を起こし、恚悩(イノウ・いかりやなやみ)の心を起こす、是の如き瞋恚は滅諦に迷うなり。」また、道諦に迷うことについては、「貪等の道に迷う煩悩は、滅諦に迷う道理の如く応に知るべし。」と。
 本科段で説かれている「瞋」は見道所断ですから、分別起の煩悩です。
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 (過去ログより)
 「善と悪、悪は不善のことですが、本来は善しかないんですね。不善は遍計所執性ですから、妄想なんです。善は、菩提・涅槃にかかわる心所なのですね。そうしましたら、菩提・涅槃を障へるのは何かといいますと煩悩なのです。煩悩が不善の心所なんです。煩悩障とか所知障といいますね。解脱をさえぎるものです。善悪という場合は相対的概念です。善悪は道徳規範になりますね。社会生活に於いては大切な規範でありますが、ここでいわれる煩悩は私自身が私に煩い悩むことなのです。自分で自分の心を乱すわけです。『述記』には「煩はこれ擾(にょう)の義。悩はこれ乱の義なり」と教えています。意味は心が騒がしく乱れるということです。煩も悩も自分の中で起こってくるといわれているのです。煩悩は何に由るのかというと、自分なのですね。自分に執われている心が起こすのです。また見たり・聞いたり・味わったりすることが私の心を煩わしく悩ませるということがあるのですがこれは対象が煩わしたり悩ませたりするわけではないのですね。そのような心を私が持っているということに起因するわけです。私たちは見える世界に執着していますから、見えない世界には眼を向けないのですね。そこが顛倒していると思うのです。「いまだうまれざる安養の浄土はこいしからずそうろうこと、まことに、よくよく煩悩の興盛にそうろうにこそ」(真聖P630)ですね。やっぱり私たちはこの世に執着していますから、それを成り立たせている煩悩に由って、私の生き方が決定されてくるのでしょうね。煩悩は人生の方向を障碍する働きをするのであるということを知っておく必要が有ると思うのです。それでは煩悩にはどのような種類が有るのか、これから伺って見たいと思います。
悪と煩悩ですが、煩悩は自分が問われているということに成るのだと思います。しかし悪と云う場合は「他」との関係に於いて善か悪かということになるのではないでしょうか。他との問題と云うのは、本来は自分の問題で有るにも拘らず、問題をすり替えて、他を攻撃する場合に「悪」といわれているのではないでしょうか。「自分のことを棚にあげてよくいうよ」というようにですね。三面記事を見て人事のように呟きますね。例えば、犯罪ですね。自分は犯罪を犯さない・法律を破らないという立場ですね。その立場に立って厳しく断罪していていますでしょう。独裁者と云う場合もですね、「けしからん」というわけです。しかし独裁者は誰のことでしょうか。「他」ではなく「自」なのですね。私です。私が独裁者なのですね。「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」という眼差しが求められるのではないでしょうか。『歎異抄』第十三条に「一人にてもかないぬべき業縁なきによりて、害さざるなり。わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし」という視線が煩悩を縁として開かれていくことを念ずるのです。

「煩悩の心所の其の相云何。頌に曰く。 (第十二頌)煩悩とは謂わく貪と瞋と癡と慢と疑と悪見となり。(論に曰く) 此の貪等の六は。性是れ根本煩悩に摂めらるるが故に。煩悩の名を得。云何なるを貪と為す。有と有具とに於いて、染著するを以って性と為し。能く無貪を障へて苦を生ずるを以って業と為す。謂く愛の力に由って取蘊生するか故に」

 最初の三つの煩悩が三毒の煩悩といわれ煩悩の主といわれているのです。『述記』では、貪・瞋をまとめ「貪愛」といっています。それと癡です。癡は無明といわれますから煩悩を貪愛と無明の二つにまとめています。「貪」は「有」-私と 「有具」ー器世間ですね、私と私の世界です。世界といいましても私が作り出した世界ですね。一人ひとりの世界です。生まれた環境や育てられた環境、その人のもっている才能や経験によって人それぞれの世界観は違ってきます。貪りは一人ひとりの世界で染著し、そして苦を招来するのです。善の無貪を障碍して苦を生ずるといわれています。「貪愛」ということですが、「愛の力によって」といわれていました。親鸞聖人も「貪愛・瞋憎の雲霧」と云われますね。愛を貪るということなのですが、何を愛し何を貪るのでしょうか。ここにいわれることは仏を愛し・仏道を愛し・涅槃の世界を愛することを貪る、貪愛するのであるというのですね。執着を起こすのです。ここは問題ですね。大事なことを教えられています。聞法に励む・仏道を歩むこと自体に貪りの心が働くのです。聞法が好きだ・仏法が好きだというのが一番危ないのですね。貪れば皆、染汚に収められるのですから。「万のものを貪る心なり」といわれているのです。そして「貪」の深層にあって「貪」を起こしてくる働きですね。それを根本無明と云うのですね。ものの道理が判らないということです。私でいうと業縁存在であるということが判らないというこちです。五蘊仮和合といわれても実感がありませんからね。仮和合が道理なのですが、私は私だと思っていますから。これが無明だと教えられるのですね。「諸の煩悩の生ずるは必ず癡に由るが故に」と。
愛の力によって貪る心が起きるといわれていました。愛するということは美しい心です。人を愛し、芸術を愛する事は感性豊かな心ですね。私も長年お茶をたしなんでいますが、その一時は日頃の喧騒を離れて静かに己を見つめる機会になります。しかしその全体が苦を生んで来るのだと、いわれているのです。『成唯識論』には有と有具とに於いて、これは有は異熟果・三有果であり有具は中有・煩悩・業・器世間であるといわれています。三有とは欲界・色界・無色界の三界に生存する存在をいいます。「三界は虚妄にして」といわれますように三界は迷いの境界です。何故かといいますと、煩悩と業です。「わたしはわたし自身の業が因となり苦悩する」といわれ、煩悩から業を生じ、その業に由って苦を生ずるのですね。いわゆる自縄自縛です。私が私に貪欲をおこすのだといわれているのです。愛ということはですね、ものを貪り執着することなのです。私から出てくる貪りはerosといわれ、性欲・生存欲・生存を否定する欲の三愛であるといわれています。これが業となり(欲を起こした行為と果としての苦です)行為と云う選択肢は多様ですけれども、いったん決定し行為・実行となるとですね、その結果は自己が責任を持って負わなければならないのです。貪る心を縁としますと、そこには必然として苦が生じてくるのですね。表層の意識で三毒の煩悩が起こってくるのですが、これはどこまでもどこまでも自己を愛してやまない深層に横たわっているマナス(末那識)という意識に染汚されているのですね。最初に愛は美しく、感性豊かであるといいましたが、その底に流れている自己愛にメスを入れ、自己愛を慈愛に転ずることができれば、美しくそして感性豊かな人生を送ることが出来るのではないでしょうか。仏教は三毒の煩悩を転じて、悔いのない、豊かな人生を送ることが出来るのであると教えているのです。
仏教で云う「愛」は説明しますと十二因縁の第八支に位置づけられ、迷いの根源として否定的に見られます。これを神学ではエロスといわれているのです。自己愛と定義されています。それに対するのが神の無限の愛でアガペーといわれるのですね。仏教では慈悲といわれるのが此れにあたりますでしょうか。洋の東西を問わずですね、自己愛と云う自己中心に判断を下すことは迷いや苦しみを生み出してくると教えているのです。面白いというと怒られますが、「可愛さあまって憎さ百倍」というでしょう。私に物差しが有るのですね。ここまでの範囲は許すが、ここからは踏み込むなと云うわけです。私の中に分岐点を持っているのでしょうね。人それぞれの容量は違うでしょうが、必然しているのですね。その全体が自己愛であり、渇愛(自分に対する激しい執着・貪るような執着です)といわれているのです。ですから容量を超えてしまいますと必然として怒りが湧いてくるのですね。そして沸騰しますと暴力を振るうということになるのです。怒りが出てくる背景に貪愛があるということです。貪愛があるというより、自分が見えないといったほうが適切ですね。意識せずにですね、何事も自分の都合に迎合させるわけです。しかし自分の都合通りにはいきませんから苦を生み出すのです。それさえ判りませんから怒り、腹立ちが頭をもたげてくるのです。何故そのようなことになるのかと云うと「衆縁仮和合」という道理に疎いことから起こるのですね。仏陀釈尊はこれを無明であると教え示されたのです。『成唯識論』では「内心を擾濁し、外の転識を恆に雑染ならしむ(煩)。有情は此れに由って、生死に輪廻して出離すること能わず(悩)、故に煩悩と名く」といわれています。
「貪」が何故苦を生ずるのかという問題を考えてみました。『成唯識論』には「愛の力に由って取蘊生ずるが故に」と述べられているということも考えてみました。ここでは「取蘊生ずる」ということはどのようなことなのか考えてみたいとおもいます。「愛」は自己愛・渇愛という十二縁起の愛ということであると教えられています。取は執着のことです。蘊は種類という意味です。五蘊という場合は「色・受・想・行・識/一切皆空」(『般若心経』)といわれますように、五蘊仮和合といい、本来は無我であり一切は皆空であることを言い表しているのです。しかし私は私として実体として存在し執着を起こすところから五取蘊といわれるのです。これは我執を伴っているような激しい執着だといわれているのです。私(我)と私の物(我所)として執着を起こすのですね。この様な心の状態を「貪」と言っているのではないかと思います。五蘊とはどのようなことなのでしょう。「色」は肉体を含む物質です。身体と言っていいのでしょう。「受」は感受作用で私の感覚ですね。「想」は表象作用で表現です。「行」は意思です。意識を生んでくる意思の働きです。「識」は色・受・想・行を統一する意識の働きですね。この五つは仮に和合して私というものを構成しているのです。しかし私はわたしだという思いがありますから「仮和合」とは思っていません。まして私に執着していますから、そこに苦を招来するのですね。

「瞋」について考えてみます。「苦と苦具とに於いて」瞋という煩悩が起きるのだと言われているのです。苦は四苦八苦といわれますように、今の自分が壊れるのではという不安からくる苦ですね。(壊苦)。それから近頃は寒い寒いといいますね。それが苦になるのです(苦苦)。それから行苦です。自分が常にあるという思いがありますが、本来は無常・無我ですね。そのギャップに苦しむのだと言われているのです。この三苦を苦といわれるのです。苦具は苦に備わったもの、苦を生んでくるすべてですね。それが心を激しく乱すわけです。怨みですとか、嫉妬ですね。これ等が激しく心を乱し怒りを生んでくるのです。「一切能生活者」といっていますね。性は「憎恚」するといわれます。憎み怒るということです。怒るということはもう鬼の形相ですね。相手を睨みつけて、威嚇していますね。怒ったときを想像してみますと、眼を見開いて睨みつけていますでしょう。この心を瞋というのです。そして根に持つということがありますね。いつまでもですね。これを恚というのです。『成唯識論』には「苦・苦具とに於いて、憎恚するを以って性と為し。能く無瞋を障へて、不安と悪業との所依たるを以って業と為す。謂く瞋は必ず身・心をして熱悩して諸の悪業を起さ令む。不善の性なるが故に」と教えています。
親鸞聖人は煩悩の身を生きる者を凡夫といわれていました。「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとえにあらわれたり。」(『一念多念文意』真聖p545)と凡夫の心の内実を自身の身の上に於いて明らかに指し示してくださいました。この心の状態は日常的に起こっているもので、私の心のあり方を言い当てられています。鋭く厳しい指摘は「ひまなくして」ということです。いつでもですね、真実を知ろうとする心を徹底的に妨げるのです。欲もおおく、貪欲です。怒り、腹立ち、そねみ、妬む心は瞋恚ですね。それが臨終の間際まで絶えず、きえずといわれていました。煩悩の天敵は求道心・菩提心なのです。真実を知られたくないのです。ですから徹頭徹尾真実をしろうとするこころを妨害します。そして真実でないものを真実と思い込ますのでね。私はそれを頼りに生きているのです。この間の事情は善導の二河白道の譬えが絶妙に語っています。「月日は百代の過客にして、いきかう年もまた旅人なり」といわれますように人生は当てのない放浪の旅のようです。その中から一筋の光を求めて自分探しをするのも人生の大切な事ではないかと思うのです。自分探しをする時「自己とは」という問いの前に道を塞ぐように貪・瞋の煩悩が行く手を遮るのです。私の人生の中で初めて具体的に煩悩が問題になるのですね。二河白道は貪・瞋の煩悩を水火の譬えで言い表しているのです。「一切往生人等に白さく」と。求道心を持って道を歩む人ですね。真実を求めて歩いた途端、自分の中から障碍する貪・瞋の煩悩が頭をもたげてくるのです。ですから私の中から「能生清浄願往生心」(能く清浄なる願往生の心を生ぜしむる)が起こって来るわけは無いのです。「生ず」とは云われていませんね。「生ぜしむ」と云われ、ここに法蔵願心を思わずにはおれません。「設我得仏・若不生者・不取正覚」という願心ですね。私が目覚めるまで、どこまでも、地獄のそこまでも、あなたと共に流転していきましょう、という願心に限りない慈愛を感じますし、限りない恩徳を感ぜずにはおれないのです。親鸞聖人はこの「心」を「無上の信心、金剛の真心を発起するなり。これは如来回向の信楽なり。」と如来回向の信を明らかに指し示してくださいました。「一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染(えあくおぜん)にして清浄の心なし。虚仮諂偽(こけてんぎ)にして真実の心なし」(真聖P225)は私のことを言い当てているのですね。この心に「今」決着をつける時なのではないかと思います。決着をつけた時、一つの白道が開かれてくるのではないでしょうか。この道を歩めというわけですね。なぜかといいますと、「我今回らばまた死せん、住まらばまた死せん、去かばまた死せん」と。いずれの道を選んでも「死」とまぬがれることは無いと云うことです。仏法不思議といいますが、聞法の縁ははかりしれないのです。縁無量ですね。よき人とのち値遇によって「我が身」が問われることになるのです。この時、死の問題が眼前に迫ってくるのです。死の問題はイコール生の問題であるわけです。生きることの意味が問われているのです。三定死の眼差しから歩むべき道が見いだされるのではないかと思います。それが「往生極楽の道」を問うということであり、「すでにこの道あり、必ず度すべし」ということに頷くことなのではないでしょうか。そして「我寧くこの道を尋ねて前に向うて去かん」という歩むべき道が定まるのです。「本願力にあいぬれば/むなしくすぐる ひとぞなき/功徳の宝海みちみちて/煩悩の濁水へだてなし」
二河白道の譬えから教えられますのは、貪・瞋の煩悩は非常に荒々しいと云うことです。身を焼き尽くすばかりの炎、波打ち際に打ちつけられそうな波浪に譬えられる水火の煩悩は一歩も前に踏み出せない荒々しさを持っています。静かに自分を観察していますと一日中水火の波が襲っていることがよくわかります。これは二元的にしか生きることが出来ない宿業なのでしょうか。少なくとも私は何時も責任を他に転嫁しつつ悩み苦しんでいますから、宿業と言われれば心を突き刺す衝撃を受けるのです。「久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく」といわれますように煩悩渦まく世界に執着し、「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもする」私なのです。そして善を成すのも悪事を働くのも業縁だよ、といわれているのですね。相対的に生きていることは善か悪か無記のいずれかなのです。それも自己中心的にですね、そこから抜け出せないのです。闇に閉ざされているのですね。これが無明煩悩といわれる愚痴なのです。貪欲・瞋恚の所依になります。 

 「云何なるをか癡と為す。諸の理と事とに於いて迷闇なるを以って性と為し。無癡を障えて一切雑染の所依たるを以って業と為す」               (『成唯識論』)

 道理と事実です。道理によって事実が成り立っているのですが、それがわからないということです。諸行無常・諸法無我は道理ですが、それが頷けないので道理でない我を立てて生きているわけです。それは闇であり迷いであると教えています。生きているのも道理ですが死もまた道理なのです。「生のみが我らにあらず。死もまた我らなり」と清沢先生はお教えくださいました。「なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきなばかの土へはまいるべきない」とは親鸞聖人のお言葉でした。前にも言いましたが命は与えられたものであって私有化できるものではないのです。「生かされてある命」なのですね。縁によって生かされているのです。そこにですね、命の大切さが教えられているのではないでしょうか。しかしながら私たちは道理と事実に背いているわけですね。それを迷闇となり雑染の所依となるのです。すべてが自己中心に考えていくということです。「私が・私が」と我執から出発するのですね。迷・闇によって経験のすべてが執着的経験となるのですね。その根拠になるのが癡という煩悩なのです。それが闇の中の出来事であると教えているのです。理と事に於いて無痴であるところから自己の内に貪りをおこし、外に対して自分が無視されたと、怒りをぶつけるのです。これが貪・瞋・癡の三毒の煩悩といわれているのです。」
 
 

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (76) 第七、三界分別門 (13)

2015-03-31 22:24:45 | 第三能変 諸門分別第七 三界分別門
 大川の桜も満開になりました。明日から天候が崩れるとの予報です。週末も雨の予報、なんとか持ってほしいですね。

 何気なく読んでいるのですが、グサッと突き刺さる文章が綴られています。私たちはと言ったら語弊があります、私です。長年欲にまみれて生活をしていますが、時として「安らぎ」が欲しいなと言う心が湧いてくることが有ります。僕はこの心は、僕の中にもこのような安らぎを求める心があるんだな、と思っておりました。
 それは、欲界という、欲に翻弄され、縛られて、繋がれては息苦しくて生活が出来ないことを教えているんですね。欲は二つの方向性を持っています。一つは貪欲、一つは清浄意欲、これは善を欲する欲(善法欲)です。清浄は善くて、貪という「むさぼり」は悪だと云うふうに思っておりました。ところが、貪が上地を求め、、上地の生を求める、と云われているのですね。貪は貪に安住することなく、貪が貪自ら「安らぎ」の世界を求めているということだったんです。
 普段は全く気づきもしませんが、右往左往してもがいているのは、求めているからなんでしょう。求めているから、右往左往するんですね。それが本願に触れた時に転ぜられる、と教えられています。「悪を転じ徳となす正智」です。その元は、貪にあったということなんです。いわば、貪は貪が一番欲しているのは、清浄であるということなんですね。散乱し麁動する心が求めているのは、寂静なんです。寂静を求めているのが、本来の欲なんでしょうね。
 ですから、別境の心所で説かれる「欲」は、善法を欲するこころと云われています。
 「云何なるをか欲と為す。所楽の境のうえに希望するを以て性となし、勤が依たるを以て業となす」心所である。
 「所楽(しょぎょう)の境に於いて希望(けもう)するを以って性と為し。勤の依たるを以って業と為す」といわれています。楽は願われるということです。願われる対象に対して希望を起こすということなのです。浄土を願うというのを本願では欲生というでしょう。浄土に生まれんと願いなさいという願いですね。願生心は願生に先立って願われているということを意味していますね。それが本願でしょう。希望することが努力(精進)の根拠となるのです。希望することが無かったら努力しませんね。性は本質、内面的な働きですし、業は外に働くものです。欲というと欲望と連想しますが、本来の欲は努力の依り処なのです。願われる対象に向かって努力を惜しまないということになります。「所楽と云うは欲観(よくかん)の境なり。一切の事に於いて観察(かんざつ)せんと欲する者は。希望すること有るが故に」といわれています。すべてのことに対して関心を持つことが欲ということである。それは願うこと、希望することがあるからである、ということですね。欲望・欲求と云うことも含まれるでしょうし、欲楽という、浄土を願い求めるということもあるわけですね。聞法も欲ですね。欲生心なんです。「欲生は即ち是、願楽覚知の心なり」(『教行信証』信巻)。ですから「欲」という別境は間口が広いのですね。欲によって迷うのですが、また欲によって目覚めることができるのですね。
>一つの視座をいただきました。 南無阿弥陀仏