![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/0f/9c/c967397e5e2d79028dd81a046e358cbc_s.jpg)
前半は、上地の煩悩が下地を縁ずることを説いてきましたが、諸論には、上地の煩悩は下地を縁ずることは無いと説かれており、その違背を会通します。
論書は、『瑜迦論』巻第五十八等を指します。『述記』に「五十八等に上は下を縁ぜずと云うは」と述べられています『瑜伽論』(大正30・622a)には「下地の煩悩は能く上地の煩悩及び事を縁ずるも、上地の惑能く下地の煩悩及び事を縁ずるに非ず。」と説かれていますが、それは「多分の余の一切の時一切の異生に依るが故に。別の行相を以て縁じ計して我と為ると、辺見と及び相ととに下を縁ぜざるに依るが故に」と釈しています。
「而も上の惑は下を縁ぜずと説けるは、彼は多分に依ってという、或は別縁において説く。」(『論』第六・二十一右)
① 多分に依る会通。
② 別縁に依る会通。
①が二つに分けられて説明されています。「余の一切時」と云われていますから、上地の煩悩が一切時に下地を縁じているわけではないという会通です。つまり、上地の煩悩が下地を縁じていない時を多分とするという説明です。これが人罪になり、二つ目は、「(余の)一切の異生に依る」ことから、一切の有情が下地を縁じているわけではなく、下地を縁じていない有情を多分とするという説明です。
②もまた、二つの説明がされます。一つ目は、別の行相によって下地を縁じて計度して我とするものではないという点から、上地の煩悩は下地を縁じないと、この点から『瑜伽論』は述べていると会通しています、二つ目は、我見を離れて辺見や貪が下地を縁じるのではないから、上地の煩悩は下地を縁じないと、この点から『瑜伽論』は述べていると会通しています。
惣縁と別縁との関係ですね。別縁では上地の煩悩は下地を縁じることはないと言いえるが、惣縁ならば、上地の煩悩は下地を縁じると言いえるのであるというわけです。『述記』には「惣縁は得」と釈しています。
以上で三界分別門は閉じられます。
次科段からは、十煩悩の、三学分別門に入ります。