唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (89)九難義 (29) 第六 現量為宗難 (1) 

2016-09-27 20:34:17 | 初能遍 第三 心所相応門


第六に現量為宗(ゲンリョウイシュウ)の難。(現量を宗と為すという難)
 いろいろな難題が提起されているのですが、提起されている問いは、私の立場が見えない私の立場からの問いかけなんですね。外界は有るのか、無いのか。外界が無であるならば、現量知で認識する必要があるのか、外界が存在するからいろんな問題が起こってくるのではないのか、という問いなんですね。
 前五識は現量です。前五識が捉えた対象は、直接に明瞭に誤謬することのない働きを持っている。
 問題は意識なんです。意識は現量(ゲンリョウ)・比量(ヒリョウ)・非量(ヒイリョウ)の三量に通じていますから、現象的存在(有為)と非現象的存在(無為)の一切法を所縁としているのです。
                 五同縁の意識
       五倶の意識 〈
                 不同縁の意識
  意識 〈
                 五後の意識
       不倶の意識 〈            定中の意識
                 独頭の意識 〈  独散の意識
                            夢中の意識

 上記のように意識は、五識と倶に働く意識と倶でない意識があるということになります。
 本科段の現量という場合は「現量に証する時には執して外とは為さず。後の意分別して妄て外想を生ず」るのです。前五識(眼・鼻・耳・舌・身)は分別を起さない、対象を対象のまま現量知で捉えるのですが、前五識は必ず意識に色づけされて認識を起します。
 前五識の対象は五境(色・声・香・味・触)ですが、前五識が五境を認識する時は「外境を分明(ブンミョウ・認識の対象がはっきりしていること。明了依)に五識は現証す。是れ現量得なり。」
 後に出てきますが、「五識倶現量意識同於五識。此二現量不分別執。」(五識と倶なる現量の意識は、五識の同なり。この二の現量は分別の執にあらず。)つまり執の問題なのです。
 ここで問いが出されるのです。「寧ぞ撥して無とするや。」(どうして対象を否定して無境と言うのか?)
 『唯識二十論』に「諸法は量に由って有無を刊定す。一切の量の中には現量を勝と為す。」と云われている。若し外境が実有でなければ現量に外境は無と覚知すべき筈ではないのか、現量知で認識する必要がどこにあろうか。
 「論。色等外境至寧撥爲無 述曰。此文第六現量爲宗難。外人問曰。色等五外境。分明五識現證。是現量得大・小極成。寧撥爲無。唯識二十云。諸法由量刊定有無。一切量中現量爲勝。若無外境寧有此覺。我今現證如是境耶。」(『述記』第七本三十一左。大正43.493a) 
 以上が外人からの批難になります。明日は論主答えを読みたいと思います。それぞれお考えください。
 実有存在論者は対象である境(一切法)は存在すると云います。境が存在するから認識が成り立つのであって、境が撥無されれば認識そのものが成り立たない、成り立たないのをどうして現量と云えるのか。前五識の認識のあり方が問われているのですね。
 例えば、眼は対象を捉えています。眼識が捉えた対象と対象そのものとは分別が無いのです。しかしこれは考えたことです。捉えた瞬間に意識が入り込んでいます。分別を起しています。私と、という関係になりますね。私と対象。私の分別が対象を色づけています。論主の言いたいことはこんなことではないかなと思います。また明日に。おやすみなさい。

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (85)九難義 (25) 唯識成空の難 (18)

2016-09-19 10:13:32 | 初能遍 第三 心所相応門


『倶舎論』破我品の研究については、『無我の論証』と題する武田宏道氏の論文を参考にしてください。龍谷大学学術機関リポジトリより出版されています。またネットでも公開されています。 『倶舎論』最後の科段を読んでみます。
 「何縁異熟果。不能招異熟如從種果有別果生。且非譬喩是法皆等。然從種果無別果生。若爾從何。生於後果從後熟變差別所生。謂於後時即前種果遇水土等諸熟變縁。便能引生熟變差別。正生芽位方得種名。未熟變時從當名説。或似種故世説爲種。此亦如是。即前異熟遇聞正邪等諸起善惡縁便能引生諸善有漏及諸不善有異熟心。從此引生相續轉變展轉能引轉變差別。從此差別後異熟生。非從餘生。故喩同法。或由別法類此可知。如拘櫞花塗紫礦汁。相續轉變差別爲因。後果生時瓤便色赤。從此赤色更不生餘。如是應知。從業異熟更不能引餘異熟生。前來且隨自覺慧境於諸業果略顯麁相。其間異類差別功能諸業所熏相續轉變至彼彼位彼彼果生。唯佛證知非餘境界。依如是義故。」

 勝論の問いに対して、論主世親は経量部の説をもって答えています。因果相続することは色法と心法が交互にその所依と為ることをもって答えているのです。
 
 勝論の問 何に縁りてか、異熟果は、異熟果を招くこと、種の果より、別の果生ずること有るが如くなること能はざるや。
 論主の答 且く、譬喩と是れ法と皆、等しきに非ず。然るに種の果より別の果生ずること無し。
 
 問 若し爾らば、何よりするか。
 答 後果を生ずるは、後の熟変の差別により生ずる所なり。謂く、後時に於いて、即ち前の種果、水土等の諸の熟変の縁に遇いて、便ち能く熟変の差別を引生ず、方に種の名を得。未だ熟変せざる時は、當の名に従いて説く。或は種に似たるが故に、世説いて種と為す。此れも亦、是の如し。即ち前の異熟、正邪を聞く等の諸の善悪を起こす縁に遇いて、便ち能く諸の善の有漏、及び諸の不善を引生して、異熟の心有り。此れより引生せる相続の転変展転して、能く転変の差別を引く。此の差別より後の異熟生ず。余より生ずるに非ず、故に喩、法に同ず。
 注
 「前の異熟」については、前の異熟の五蘊は、業の結果であり、この果を所依として、正邪の法を聞き、そこに善悪の縁に遇って善不善の有漏の異熟心を引き起こすというのです。そして異熟を感ずる心が熟変と説明されます。
 種子から現行を生ずるというのは大乗と同じことを述べているのですが、種子は色心に熏ずるというのです。色心に熏じられた種子が、異熟を感ずる心を縁として現在するんだと
主張します。
 或は、別法に由りて、此れに類して知るべし。謂く拘櫞花(クエンケ)に紫礦(シコウ)の汁(ジュウ)を塗(ネ)るが如し。
 注
 辞書からです。拘櫞花(クエンケ)とは、インド原産のミカン科の常緑木で、果実は酸味が強いらしいです。そして葉や果皮には特有の香りがあると云われています。
 紫礦汁(シコウジュウ)とは、赤色の染料。波羅奢樹の液汁より作られるそうです。赤い花を咲かせ、その赤い樹液は染料としてそれを使用し、波羅奢樹の山は紫だそうです。
 相続転変の差別を因と為して、後の果生ずる時、瓤(タネ)便ち色赤し、此の赤色より更に余を生ぜず。是の如く、応に知るべし。業の異熟より、更に余の異熟を引いて生ずること能はず。
 前来は且く自らの覚慧の境に随いて、諸の業と果とに於いて、略して麁相を顕す、其の間の異類の差別の功能、諸業の所熏の相続転変、彼彼の位に至りて、彼彼の果生ずることは、唯だ仏のみ證知して、余の境界に非ず。是の如きの義に依るが故に、」

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (81)九難義 (21) 唯識成空の難 (14)

2016-09-15 23:03:54 | 初能遍 第三 心所相応門


 9月6日からのつづきになります。『倶舎論』に於ける勝論と論主の対論。業と果との関係について論主の正義が示されます。
 勝論の難 「若し実に我無くんば、業已に滅壊(メツエ)す。云何ぞ、復た能く未来の果を生ぜん。」
 論主の反論 「設ひ実我有るとも、業已に滅壊す。復た云何ぞ、能く未来の果を生ずる。」
 勝論の答 「我に依止する、法非法(ホウヒホウ)より生ず。」
 論主の論破 「誰が誰に依るが如くなる。此れ前に已に破(ハ)しぬ。故に、法非法は応に我に依るべからず。然るに、聖教の中に、是の設を作さず、已壊(イエ)の業より、未来の果生ずと。」
 勝論の問 「若し爾らば、何れよりする。」
 論主の答 「業の相続と転変と差別とよりす。種の果を生ずるが如し。世間に果、種より生ずと説くが如し。然るに、果、已壊の種より起こらず、亦た種より無間に即ち生ずるに非ず。」
 勝論の問 「若し爾らば、何よりするか。」
 論主の答 「種とする所の相続と転変(テンペン)と差別(シャベツ)とより、果方に生ずることを得。謂く、次に芽茎葉(ガキョウヨウ)等を生じ、花(ケ)を最後と為して、方に果を引いて生ず。」
 勝論の問 「若し爾らば、何ぞ種より果を生ずと言う。」
 論主の答 「種展転して、花中の果を生ずる功能(クウノウ)を引起(インキ)するに由るが故に、是の説を作す。若し此の花の内の生果の功能、種を先と為して、引起する所に非ずんば、所生の果相は、種と別なるべし。是の如く、業より果を生ずと雖も、彼の已壊の業より生ずるに非ず、亦た業より無間に果を生ずるに非ず。但だ業の相続と転変と差別とより生ず。」
 勝論の問 「何をか、相続、転変、差別と名くる。」
 論主の答 「謂く、業を先と為して、後に色心起こる。中に、間断無きを名けて相続と為す。即ち此の相続の最後の刹那前後に異にして生ずるを、名けて転変と為す。即ち此の転変、最後の時に於いて、勝れたる功能有りて、無間に果を生じて、余の転変に勝れたり。故に差別と名く。」

 9月4日に原文で記しまし所の「業と果との関係」のについての所論を読み下しました。
 「若實無我業已滅壞。云何復能生未來果。設有實我業已滅壞。復云何能生未來果。從依止我法非法生。如誰依誰。此前已破。故法非法不應依我。然聖教中不作是説。從已壞業未來果生。若爾從何。從業相續轉變差別。如種生果。如世間説果從種生。然果不隨已壞種起。亦非從種無間即生。若爾從何。從種相續轉變差別果方得生。謂種次生芽莖葉等。花爲最後方引果生。若爾何言從種生果。由種展轉引起花中生果功能故作是説。若此花内生果功能非種爲先所引起者。所生果相應與種別。如是雖言從業生果。而非從彼已壞業生。亦非從業無間生果。但從業相續轉變差別生。何名相續轉變差別。謂業爲先後色心起中無間斷名爲相續。即此相續後後刹那異前前生名爲轉變。即此轉變於最後時有勝功能無間生果勝餘轉變故名差別。」
 一応最後まで読みくだしていこうと思います。遅々たる歩みです。
 

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か?  (13)

2016-05-08 09:48:00 | 初能遍 第三 心所相応門
 

 今日は、旭区千林の正厳寺様で『成唯識論』に学ぶを開講させていただきます。私の現実の心の動きはどのような構造になっているのかを尋ねています。今回は前回につづきまして三性分別門を読み解いていきたいと思っているわけですが、私の意識は何を依り所として動いているのかを明らかにしていけたらたと思っています。
 ブログは「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か?  を考えているのですが、根本識である阿頼耶識を依り所としている阿頼耶識の性格はどのようなものなのか?を尋ねる歩みは「一切法不離識」を明らかにすること上で重要な鍵を握っているところになります。
 何回も繰返しての学びになりますが、積み重ねの大切さも学ぶことになります。
 
 「阿頼耶識は何れの法に摂むるや。」
 「此の識は唯だ是れ無覆無記なり。異熟性なるが故に。」(『論』第三・五右)
 異熟といっています、つまり、過去を背負った自分であるけれども、その過去に左右されない自分を生かされているんだということなんですね。阿頼耶識は無記だということはそういう意味なんです。善でもなければ、悪でもない。無記としてのいのちを賜っている。それを私有化しますから苦悩が生じてくるのです。いのちは。苦でもなければ、楽でもなく、善でもなければ悪でもない、純粋無記の性格をもったものなんです。確かに、過去の行為を引きずって今の私が存在するわけですが、今の私が未来に引きずることは無いのです。現状の生活の営みは変わることは無いでしょうが、私でいえば、過去の悪行を清算してというわけにはいきません。悪業を引きずった私が存在しています。後悔もし、「なんであんなことをしでかしたのか」と悔やむわけですが、もとに戻ることはできません。為した行為は否応なしに引き受けているわけです。それが自分を縛っている(限定してる)ことに間違いは有りません。しかし、その悪行が悪行の価値観を変えることが出来ると教えているんです。それが無記性ということなんですね。「これでよかったんだ」と。ここに過去に対する慚愧心と、未来に対する方向性が定まるわけだと思います。
 
 このお心を親鸞聖人は、次のように了解されておられるのではないかと察するものです。二種廻向は有為有漏・有為無漏を包んだ無為無漏の法性であると思うわけです。
 (定善義)また云わく、西方寂静無為の楽には、畢竟逍遥して、有無を離れたり。大悲、心に薫じて法界に遊ぶ。分身して物を利すること、等しくして殊なることなし。あるいは神通を現じて法を説き、あるいは相好を 現じて無余に入る。変現の荘厳意に随いて出ず。群生見る者、罪みな除こる、と。また賛じて云わく、帰去来、魔郷に停まるべからず。曠劫よりこのかた六道に流転して、尽くみな径たり。いたるところに余の楽なし、ただ愁歎の声を聞く。この生平を畢えて後、かの涅槃の城に入らん、と。已上(『証文類』p284)
 また『安心決定鈔』(真聖p954)には
 「帰去来、魔境にとどまるべからず」(定善義)とも釈するなり。また『法事讃』に、「極楽無為涅槃界 随縁雑善恐難生 故使如来選要法 教念弥陀専復専」といえり。この文のこころは、極楽は無為無漏のさかいなれば、有為有漏の雑善にては、おそらくは、うまれがたし、無為無漏の念仏三昧に帰してぞ、無為常住の報土には生ずべき、というなり。
 
「いのちに触れよ」我執の底からの叫び声です。阿頼耶識はいつでも、いかなる時でも、命に帰れと叫んでいます。無覆無記、救済の原理を明らかにしているのでしょう。
 阿頼耶識の受は捨であると明らかにしていましたが、今度は善悪について述べています。阿頼耶識は無記だと明らかにしています。善悪いずれでもない無色透明は性質をもっているのが阿頼耶識だと。
 第八阿頼耶識・異熟識の場合は、有漏で無覆無記の性質を持ったものである、ということです。「此の識は」とありますから、第八阿頼耶識のことを問うているわけです。
 「因是善悪・果是無記」で、過去を背負って存在している自身は、異熟性であり、異熟の総報の果は無覆無記である。
 この理由が次で述べられます。(過去の業を背負うものが何故無記なのか?)この段は明日以降にしますが、私の意識の根柢でいのちを支えている阿頼耶識は無色透明であり、たとえ因が善であれ、悪であってもですね、果である自分自身の存在は無覆無記の存在であるということなのです。阿頼耶識には煩悩は相応しないのです。私たちは縁の催促によればいかなるようにも変化できることが可能であることを示しているわけです。「人間は楽を求めて、苦しんでいる存在である」とメッセージが届けられていましたが、無覆無記の存在に染汚生を植え付けて苦悩しているんですね。余計なことをしているんだな、と思います。
 「此の識は唯だ是れ無覆無記なり。異熟性なるが故に」。これは総答になりますが、別して無記の名を釈します。三つの理由を以て無覆無記であることの立証をしています。
 第一の因(理由)
 「異熟いい若し是れ善と染汚とならば、流転と還滅と成ずることを得ざるべし。」(『論』第三・五右)
 ここは異熟といいましても、阿頼耶識のことです。阿頼耶識が問われているところですので、有漏の場合は、ということになります。如来の第八識は無漏ですから唯だ善性になります。
 阿頼耶識が若し善であるか、染汚(不善・有覆無記)であるか、それがはっきりしていたらどうなるのか、という問いが先ず出されてきます。人間の本性が善か悪であるとしたらどうなるのかですね。
 答
 「流転と還滅と成ずることを得ざるべし。」(流転も還滅も成り立たなくなる。)
 もし善性か悪性ならば必ず異熟ではなくなる。何故ならば、
 「『摂論』第三巻の末に自ら解せり。(人・天の)善趣の(第八識)は既に善ならば、(不善の熏を受けざるが故に、發業潤生の)不善を生ぜざるべし。(唯善の熏のみを受けて)恒に善を生ずるが故に。即ち(苦・集の)流転なかるべし。(
 煩悩業の)集に由るが故に生死に流れ、苦に由るが故に生死に(輪)転ず。悪趣(の第八識)も翻じて亦然なり。(唯だ悪の熏のみを受くるが故に)既に恒に悪を生ぜば、(善の熏を受けざるが故に、善を生ぜざるが故に、滅・道の)還滅なかるべし。道(諦)に由るが故に還ず。滅に由るがゆえに(業煩悩を)滅す。」(『述起』第三末・三十一右)
 この『述起』の釈がすべてを物語っています。
 『成唯識論抄講』で太田師は(心に響くように)、
 「阿頼耶識が若し善と染汚とならば、善であるか染汚であるか、もしそれがはっきりしていたら、人間の本性は善である、或は悪であるとしたならどうなるか。「流転と還滅と成ずることを得ざるべし。」流転は迷いです。もし人間が、基本的に善であるならば迷いはあり得ない。もしも人間の本性が善でありますならば、現実的に生死流転、迷っていくということはなくなってもいいはずですね。もし人間が染汚、汚れておりましたら還滅がなくなるんです。還滅は滅に還る、滅は涅槃ですから、心の安らぎの世界、静かな悟りの世界に還ってくる、流転は生死に迷う。現実の私達は生死に流転して迷っているか、悟りの方向に向かっているか、そういう二つの動きをしていくわけですが、その時にもしも私共が善であれば生死に迷うことはない。悪であれば修行をして悟りをひらくことはありえない、こういうことになりますね。ですから阿頼耶識は善でも悪でもないというんです。我々は現実に生死流転することもあるではないか、現実に悟りに近ずいていく、仏様にお会いして教えを聞くことができる、そういうことがあるじゃないか。ですから人間は真っ白なんです。無記なんです。無記だからある時はさまようんです。無記だからある時は悟るんです。それが理由です。」と語ってくださいます。
 流転は惑・業・苦の流転輪廻で、流転の因は惑から始まります。惑とは、我を認め執すること、我執です。この我執から煩悩・随煩悩が流れ出します。ここに自尊損他という自他分別が起こってきます。自分にとって、という枠で物事を取り決めていきますから、自分にとって利益になることは楽、その反対は苦ですが、楽といえども、いつでも苦に変わる性質のものですから、自分という枠の中では、苦・楽・捨はすべて苦なのです。
 つまり、道理に反すれば苦が必然なんですね。必然が「何故」というといを生み出し、道を求めるエネルギーになるわけです。このエネルギーは如来から頂いたものなんです。私が生み出すものは苦しかないわけですが、苦を縁として浄を欣うのは如来の働きなんですね。
 いうなれば、如来と衆生の分限が違うのですが、如来と衆生が出会えるのは無覆無記性においてなんです。現実の私の姿を見透かして、如来に出会えと催促されているように思えました。
 第二の理由が述べられます。
 「又た此の識は是れ善と染との依なるが故に、若し善と染とならば互に相い違へるが故に、二が與に倶に所依と作らざる応し。」(『論』第三・五右) 
 「述して曰く、此の識は既に是れ果報の主として、善染法の所依止と為り、既に恒に是れ善ならば悪が依と為らざる応し。是れ悪ならば亦善が依と為らざるべし。互に相違せざるが故に。」(『論』第三・五右)
 第八阿頼耶識が無覆無記であるには三つの理由があることの第二の理由を示しています。此の識、第八阿頼耶識は七転識の所依である。第八阿頼耶識に依って前七識は善・悪・無記の所依止と為る。つめり、第八阿頼耶識を所依として善・悪・無記のいずれの心にも転じ得る。しかるに、若し所依の第八阿頼耶識が善または染であるならば、つまり、恒に善であるならば、悪の所依にはならないであろうし、もし悪ならば善の所依とはならないであろう。互いに相違し合って三性の識が生ずることができなくなる。
 私達のいのちの依り所は第八阿頼耶識なんですね。ここは非常にわかりにくいところだとはおもいますが、命の根底に在って命を支えているのが阿頼耶識なんです。ですから、阿頼耶識は能蔵・所蔵・執蔵という意義を持つものであると説かれているわけですね。そして三蔵を依り所をして現実の心は動いているわけです。迷うことも、菩提を求めることも、第八阿頼耶識が無覆無記であるから行い得ることができるわけです。もし、阿頼耶識が善なる性質であるならば、悪行をするはずはないのですね。深く言えば、業縁が成り立たないのです。悪を為すことはなく、迷うということもないわけです。
 面白ですね、私たちは苦悩のない世界を求めて彷徨っているわけです。苦悩があるから清らかなに禅定の世界を求めることが出来るのですね。
 阿頼耶識が善性でありましたら、迷うことがありませんから意味をなさないですね。その逆は、もし阿頼耶識が恒に不善であるとしまうすらば、菩提を求めるということが起こってこないのです。「人生楽あれば苦もあるさ」は無常を教えている。有為有漏の存在であるということを教えているわけです。私たちにとって無常は苦以外にないわけでしょう。その証拠に、いつでも若々しく、地位も財産も名誉も失うことなく、できれば死を迎えることなく生きていたいとの望んでいるのではないですか。ここが鍵になりますね。僕にとってはですよ。生きていることは、こうありたい、ああなりたいと思っているわけでしょう。これが菩提を求める印なんですね。いのちの根柢が無覆無記だから、迷うことも、目覚めることも出来るわけです。迷うことにおいて慚愧の心をいただき、目覚めることにおいても慚愧の心をいただくことができるのですね。
 反面、無覆無記だから、悪行に染まるということも起こってくるわけです。しかし、私たちのいのちの根源は無常であり、無我を生きているわけです。無常を知り、無我を生きよと教えているわけですね。二の重い障礙、菩提と涅槃を障えるのは煩悩障と所知障であると教えられていました。菩提と涅槃は善悪を超えた世界ですね。善悪はいつでも退転するかもしれない対立の世界の出来事です。
 なんかね、僕の立てる場所は、善悪を超えた彼岸の世界、そこが依り所だと。不可知の世界ではありますが、竊に推求すれば「ここに帰ってこい。ここが汝の居場所だ」と。浄土の世界からの呼び声が聞こえてくるように感ずるのです。
 善か悪か決定されていたら私の進むべき道は閉ざされてしまいますね。現実の諸問題から、第八阿頼耶識は無覆無記であると意味づけられているのでしょう。
 第三の理由が述べられます。(「第三因に云く」(『述記』)
 「又此の識は是れ所熏性なるが故に、若し善と染とならば、極めて香と臭との如く、熏を受けざるべし。」(『論』第三・五右) 
 「述して曰く、前に已に説けるが如し。唯だ、無記性なるは熏習を受くべし。薩多婆等若し復難じて言はん。熏習の識無しと云はば、亦た何の過か有る。」(『述記』第三末・三十一左)
 「前に已に説けるが如し」、熏習について、所熏の四義・能熏の四義が説かれていました。熏習論につきましては、2014年4月23日~26日、所熏の四義(経験の蓄積される場所を明らかにする)につきましては、2014年4月28日~5月02日の投稿を参照してください。
 第八阿頼耶識は所熏処であることが既に考究されていましたように、第八阿頼耶識は現行識の熏習を受ける所熏の識なんです。現行の識が能熏になります。阿頼耶識に経験の種子を植え付ける働きをもつものです。そして植え付けられる場所が所熏処である阿頼耶識なんですね。阿頼耶識が善もしくは染であるならば、熏習を受けることは出来ないと言っているのです。熏習を受ける性質をもっていることが所熏性ということになります。
 喩が出されています。
 「極めて香と臭との如く、熏を受けざるべし。」と。これは、阿頼耶識が善或は染という独自の性質を持ったものであれば熏習しないということを述べているわけですが、「極めて」とありますから、麝香とは沈香という、いいお香は心を浄化する働きをもっているわけです、そこに臭(悪臭)をもった臭いを染み込ませることは出来ないだろうと。つまり、心を浄化する働きを持っているお香に、心を散乱させる悪臭を熏ずる(染み込ませる)ことは出来ないんだと。また、悪臭に薫香することもできないであろうと、阿頼耶識が善という性質、或は、染(悪)という性質のものであれば、この喩と同様になり、熏習を受けることはない、と。阿頼耶識は善であれ、悪であれ、無記であれ、すべてを受け入れる所熏処でありますから、無記という性質を持ったものなんですね。
 私たちは、このような無記という性質の上に、善悪の種子を植え付けているのだと教えているわけです。
 「熏習無きが故に、染浄の因果倶に成立せず。」(『論』第三・五左)
 熏習することは無いと説いているわけですが、熏習がなかったなら因果は成立しないわけです。現行熏種子、現行が因、熏種子が果という因果関係が不成立になるわけです。私たちは無記性の上に善悪を植え付けていきますから、還滅が成り立っているのですね。菩提・涅槃と流転は果ですね。因である現行が問われてくるわけです。
 このような問いが出されてきた背景には、有部の教説があるのですね。有部は「所熏の識など無くてもいいではないか」という論難に対して、論主が答えるという形をもって対論されているのです。熏習がないと、染浄の因果が成立しなくなる。」と。
 「故に此は唯だ是れ無覆無記なり。」(『論』第三・五左)
 私達、人間の迷妄の事実から見つめられてきた問いだと思いますね。私は何故悩み苦しんでいるのか。悩みにも、苦しみにも意味があるということでしょう。大きな意味を持って生まれてきたということなのでは。苦から目覚めへ、、「しかれば、念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべきと」。阿頼耶識は無覆無記であるからこそ言えることではないでしょうか。 
 第八阿頼耶識は、無覆無記なりと結ばれましたが、では、無覆とは?無記とは?如何なることなのかという疑問が出てきます。この問いに答える形で、無覆無記の名義について説明されます。
 阿頼耶識は無記だというところに、僕は救われるのです。若し、阿頼耶識が善であるか、悪であるかが一方的に決定されていましたら、僕はここに生きる術を失ってしまいます。自分から言えることではないですが、過去の経験のすべてが許されてある、過去の経験を引きずって、背負って現在の姿があるわけですが、その全体が無記性ですよ、と。今あなたは何処に向かって歩を進めているのですか。過去の為した業は消え去るもではありませんし、悪業が許されるということはないでしょうが、菩提を求めることは許されてある。そこに僕は限りない恩徳を感じます。そして慚愧をいただきます。
 人倫の道にはずれるようなことを平気でしてきたわけですから、いつ闇に葬り去られても文句はいえないんですね。また過去を見つめます時に、胸が痛むわけです。「あんた勝手なことをしてきて、いまさら何をいってんねん」と言われるでしょうね。そんな僕でも、仏法を聞ける、聞くことを許されている。過去の悪業を許してもらう為に仏法を聞いているわけではなく、過去の悪業に向き合って、無記の貴方が、人間として菩提を求めよという声を聞けという催促に耳を傾けていくことが、生かされていることへの応答ではないのかなと思うのです。
 我執から云えば、逃げ出したくなるようなことですし、聴きたくも有りませんが、「逃げるな」と云う声が聞こえてくるのです。これは種子・現行の現行の一刹那に問いとして与えられた大きな課題だと思います。
 
 無覆無記の名義について。最初は覆について解釈されます。
 (1) 覆とは、覆障。
 (2) 覆障の体は、染法。
 (3) 何を覆障するのか、聖道を障へる。
 「覆と云うは、謂く染法ぞ。聖道を障へるが故に。(『論』第三・五左)
 「述して曰く、何をか無覆と名づけるとならば、覆と云うは覆障ぞ。体は即ち染法なり。覆の義は如何ぞ。聖道を障えるが故に。」(『述記』第三末・三十二右)
 覆というのは、覆障という意味であり、(煩悩等が)心を覆い隠してその心を不浄にしてしまう。だから覆は染法であり、染法は聖道を障礙することになりう。仏道の妨げになるということですね。
 「又能く心を蔽って不浄なら令むるが故に。」(論』第三・五左)
 覆とは、心を蔽いかくしてその心を不浄にしてしまうということ。それが覆の指し示している意味だと教えています。
 「又(マタ)能(ヨ)く心(シン)を蔽(オオ)って不浄(フジョウ)になら令(シ)むるが故に。」
 「述して曰く、合(ガッ)して二義(ニギ)を以て其の覆(フク)の字を解す。即ち覆とは覆蔽(フクヘイ)するなり。心を蔽って浄(Iジョウ)ならざら令むるが故に名づけて覆と為す。」(『述記』第三末・三十二右)
 また、慈恩大師窺基の著述であります『樞要(スウヨウ)』の釈は注意して読まなければと思っています。
 「蔽心(ヘイシン)とは二有り。一に法性心(ホッショウシン)、二に依他心(エタシン)なり。」(『樞要』巻下本・二右)
  『樞要』は正式には、『成唯識論掌中樞要』(ジョウユイシキロンショウチュウスウヨウ)といい、唐 · 慈恩大師窺基(ジオンダイシキキ) の作です。
 覆(フク)の解釈について二義挙げられていましたが、第一の覆障(フクショウ)につきましては昨日述べましたので、第二の意義について述べさせていただきます。第二の意義は「覆蔽(フクヘイ)」であると教えられています。
 染法(ゼンポウ)が心を蔽って不浄にする。染法は無覆無記(ムブクムキ)の心を蔽ってですね、心を汚くするという、具体的には煩悩・随煩悩です。煩悩・随煩悩は縁に触れて自らの中から出てきたものです。外から蔽ってきたのではないのですね。それが外から蔽ってきたと思っています。それが煩悩生起の因ですね。
『樞要』の注釈にですね、何を蔽うのかということに対して、
 一つは法性心、法性心は浄らかな心です。清浄心、清浄心を蔽い隠してしまう。
 もう一つは、依他心、依他は他に依る、縁に依って生じるもの、因縁所生の法です、縁起されたものです。
 この二つの意味から教えられることは、無覆無記である阿頼耶識を覆ってしまうことと、現実の動いている心を蔽ってしまう、つまり私の現実に動いている心を蔽って、本当でないものを本当にするという過ちを犯してくるのですね。それで二つの意味を以て「覆」というのだと。

 ここのところを現実の諸問題から窺えたらと思っています。よろしくお願いいたします。

第三能変 随煩悩 諸門分別 (2) 仮実分別 (1)

2016-01-11 21:05:54 | 初能遍 第三 心所相応門
  

 仮実分別門
 「是の如く二十の随煩悩の中に、小の十と大の三とは定んで是れ仮有なり、無慚と無愧と不信と懈怠とは定んで是れ実有なり、教と理とを以て成ずるが故に、掉挙と惛沈と散乱との三種をば、有義は是れ仮といい、有義は是れ実という、所引の理と教とは前の如く知る応し。
(『論』第六・三十二左)

 (このように、二十の随煩悩の中に説かれている、小随煩悩の十と、大随煩悩の三とは仮有である。無慚と無愧と不信と懈怠とは実有である。教と理をもって推測すれば、掉挙と惛沈と散乱の三種について、有義は仮有であるといい、有義は実有であるという。引用する理と教とは前の如く知るべきである。)
 ここでいわれています、「実」は実体という意味ではありませんので誤解のないようにしていただきたと思います。実際の働きのあるもの、実用(じつゆう)という意味をもつものです。仮有は、分位仮立法という意味になります。根本煩悩の上に仮に立てられたものです。

 諸門分別の第一門が、仮実分別門になります。
 随煩悩は二十数えられているわけですが、その中で何れの随煩悩が仮法であり、何れの随煩悩が実法であるのか論じられす。
 答えは、「小の十と大の三とは定んで是れ仮有なり」 ― 仮法
     「無慚と無愧と不信と懈怠とは定んで是れ実有なり」 ― 実法

 小の十とは、忿(ふん。いかる)・恨(こん。うらみ)・覆(ふく。罪をかくす)・悩(のう。相手にかみつく)・嫉(しつ。ねたみ)・慳(けん。おしむ)・誑(おう。たぶらかす)・諂(てん。だましへつらう)・害(がい。殺傷する心)・憍(きょう。おごりよいしれる)の十である。
 大の三とは、失念・放逸・不正知である。
 尚、掉挙と惛沈と散乱の三種について護法の正義は実法であるといいます。何故実法であると云い得るのあは、前の如く知れと。前とは掉挙と惛沈と散乱の心所を説き明かしてきた所に戻って知りなさいということです。