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第六に現量為宗(ゲンリョウイシュウ)の難。(現量を宗と為すという難)
いろいろな難題が提起されているのですが、提起されている問いは、私の立場が見えない私の立場からの問いかけなんですね。外界は有るのか、無いのか。外界が無であるならば、現量知で認識する必要があるのか、外界が存在するからいろんな問題が起こってくるのではないのか、という問いなんですね。
前五識は現量です。前五識が捉えた対象は、直接に明瞭に誤謬することのない働きを持っている。
問題は意識なんです。意識は現量(ゲンリョウ)・比量(ヒリョウ)・非量(ヒイリョウ)の三量に通じていますから、現象的存在(有為)と非現象的存在(無為)の一切法を所縁としているのです。
五同縁の意識
五倶の意識 〈
不同縁の意識
意識 〈
五後の意識
不倶の意識 〈 定中の意識
独頭の意識 〈 独散の意識
夢中の意識
上記のように意識は、五識と倶に働く意識と倶でない意識があるということになります。
本科段の現量という場合は「現量に証する時には執して外とは為さず。後の意分別して妄て外想を生ず」るのです。前五識(眼・鼻・耳・舌・身)は分別を起さない、対象を対象のまま現量知で捉えるのですが、前五識は必ず意識に色づけされて認識を起します。
前五識の対象は五境(色・声・香・味・触)ですが、前五識が五境を認識する時は「外境を分明(ブンミョウ・認識の対象がはっきりしていること。明了依)に五識は現証す。是れ現量得なり。」
後に出てきますが、「五識倶現量意識同於五識。此二現量不分別執。」(五識と倶なる現量の意識は、五識の同なり。この二の現量は分別の執にあらず。)つまり執の問題なのです。
ここで問いが出されるのです。「寧ぞ撥して無とするや。」(どうして対象を否定して無境と言うのか?)
『唯識二十論』に「諸法は量に由って有無を刊定す。一切の量の中には現量を勝と為す。」と云われている。若し外境が実有でなければ現量に外境は無と覚知すべき筈ではないのか、現量知で認識する必要がどこにあろうか。
「論。色等外境至寧撥爲無 述曰。此文第六現量爲宗難。外人問曰。色等五外境。分明五識現證。是現量得大・小極成。寧撥爲無。唯識二十云。諸法由量刊定有無。一切量中現量爲勝。若無外境寧有此覺。我今現證如是境耶。」(『述記』第七本三十一左。大正43.493a)
以上が外人からの批難になります。明日は論主答えを読みたいと思います。それぞれお考えください。
実有存在論者は対象である境(一切法)は存在すると云います。境が存在するから認識が成り立つのであって、境が撥無されれば認識そのものが成り立たない、成り立たないのをどうして現量と云えるのか。前五識の認識のあり方が問われているのですね。
例えば、眼は対象を捉えています。眼識が捉えた対象と対象そのものとは分別が無いのです。しかしこれは考えたことです。捉えた瞬間に意識が入り込んでいます。分別を起しています。私と、という関係になりますね。私と対象。私の分別が対象を色づけています。論主の言いたいことはこんなことではないかなと思います。また明日に。おやすみなさい。