唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

唯識入門(34)

2020-07-26 10:04:53 | 『成唯識論』に学ぶ
 おはようございます。今日も雨模様です。感染拡大も日に日に多くなっています。生活様式の変化が求められる中で、仏教徒は連綿として世間のありように左右されることなく、生きることの意味を尋ねてまいりました。
 これまでに種子生現行の種子について考え、認識はどのような過程を経て知りえることが出来るのかを見てきました。
 種子は本識(第八阿頼耶識)の三相の中の因相について考究されていますが、四分義の認識の在り方は第二の行相所縁で考究されているところです。(『選註』p39)
 第八阿頼耶識の行相と所縁について考えます。いのちはどのような対象を持ち、どのような動きをしているのかを明らかにしているところです。
 『成唯識論』では問いと答えそして解義が述べられています。
 「この識の行相と所縁は云何ぞ。」「謂く不可知の執受と処と了となり。」と。
  不可知は行相・所縁にかかります。その中で、執受・処は所縁門、了が行相門になります。
 行相とは、識の自体が所対の境を縁ずる能縁(認識するもの)の作用で、心の働きです。見分のことです。
 所縁は認識される対象。例えば、六根の所縁は六境である。対象、何を対象として働いているのかです。相分のことです。
 ここで、
 阿頼耶識は何を対象としているのかが説き明かされます。
 行相 = 見分 ・ 了別
 所縁 = 相分 ・ 器世間(有情の所依処)
      「執受に二有。」諸の種子と有根身(阿頼耶識が認識し続けている対象で、感覚器官を有する身体のことです、)
 初めに行相門が語られます。
 「了とは謂く了別なり、即ち是れ行相なり。識は了別を以て行相と為すが故に。」(『成唯識論』第二・二十五左)
 了別について四分が語られていました。阿頼耶の「了」は、四分説によることにおいて明瞭にされていたのですね。次に、
 所縁門
 「不可知の執受と処と」 - 阿頼耶識の所縁を表わしている。但し、「不可知」は次の「了」という行相門にもかかります。
 無意識の領域は、私たちには解らない。有るのか・無いのか、それが不可知という概念なのです。知ることが出来ない、知り様がないことであるけれども、他の識と同様に了別(ものごとを区別して理解すること)の働きをもって能縁・所縁があることが知りえることが出来るのではないかと。
 了別は行相。「識は了別を以て行相と為す。」了はは識の自体分であってですね、行相とはまた、見分である。識体は自体分ですね。自体分が転じて見・相二分に開かれるのですが、具体的は働きは見・相二分になるのです。
 能縁が了別です。これを行相という言葉で言い表しています。では所縁は何かといいますと、認識対象のことですが、「種・根・器」という。諸の種子と、有根身と器世間、これが所縁である、と。
 第八阿頼耶識は、内に種子と有根身(五色根と根依處)を変じ、外には器世間を変じます。器世間が有情の所依處になるわけですね。
 種子と有根身は「摂為自体同安危故」(摂して自体と為す。安と危とを同ずるが故に)と言われていますように、執受が有ります。「執受に二有り。謂く諸の種子と及び有根身なり」。器世間には執受はありません、外のものですから執受はなく、處といわれています。
 種子と有根身は、第八識の見分がこれを境と為すと共に、自己自身として執受しています。厳密には「阿頼耶識は種子を執持(種子を保持する働き)し、有根身を執受(維持されるもの)する」と説かれています。これが第八識の相分になります。あらゆる経験の価値観を色付けすることなく、ありのままを受け入れ、身体を維持し保持しているのが阿頼耶識なのです。
 それともう一つ、外側には器世間ですね。外界の一切、「是諸有情所依處故」(是れ諸の有情の所依處なるが故に)。これは所縁であり、識の相分であるということですね。
 大事なところは、識所変を以て、自の所縁と為すということになります。


唯識入門(33)

2020-07-12 10:25:58 | 『成唯識論』に学ぶ
 おはようございます。先週で簡単ではありますが、認識の在り方について四分義を考察いたしました。
 今回より、第八識阿頼耶識(心王)は、どのような心所(心所有法)と相応するのかを考えてみたいと思います。選註本の『成唯識論』ではP45から始まります。ここで巻第三にに入り、心所相応五遍行が説明されています。
 「此の識は幾ばくの心所と相応するや」と問いをたて、「常に触・作意・受・想・思と相応す。」と答えています。
 阿頼耶識は、始めなきいのちの始発から今日に至るまで、迷いの境涯は恒にこの五遍行と相応していると説かれています。
 『成唯識論』巻第三・本科段より、巻第三にはいります。『述記』では、第三末・初右。大正43・328a16~より説かれています。
 初めに科段が示され、全体的な釈文の傾向が明らかにされています。
 「此の識は幾ばくかの心所と相応する。」(『論』第三初右)  
 「此れは初に問うなり」(『述記』第三末・初右)と。
 語句の説明ですが、
 心所とは、正しくは心所有法(しんじょうほう・心が所有している法)。心の中心体である心王(八種類)に付属して働く細かい心作用のことなのです。『倶舎論』では、大地法・大善地法・大煩悩地法・大不善地法・小煩悩地法の五種類に分離されていますが、唯識は、さらに細かく、六位五十一の心所を挙げています。即ち、遍行・別境・善・煩悩・随煩悩・不定の六種に分類しています。
 初能変の識を、第八識
 第二能変の識を、第七末那識
 第三能変の識を、前六識
 これらの八識が心王です。この八つの識の具体相が心所になるわけです。心王はある意味抽象的です。理論的に捉えて、第八識は五遍行と相応す、というのは他の心所とは相応しないということが具体相なんですね。心が動いていく具体相が善であり、煩悩であり、随煩悩であるわけで、その心所に五十一数えられています。
 この心所は三能変に付属して存在しますが、どの識がどの心所と相応して働くのかは異なります。第八識の場合は、五遍行と相応するわけですが、ただし捨受のみである。(五遍行と相応して働くのですが、対象をそのまま受け止める、苦もなく、楽もなく、憂いもなく、喜びもない、あるがままをあるがままに受けとめているのが第八識の特徴です。)私たちの心の深層は純粋であると明らかにしているのです。純粋であるが故に傷つき傷つけることが起こってくるのですね。純粋は染められることはあっても、自らを染めることはありません。
 では他に依って染められるのかというと、そうではないのですね。自らが染められてきた歴史がですね、染汚の歴史が種子(有漏種子)となって、純粋である阿頼耶識を染汚してくるわけです。
 阿頼耶識の所縁(相分)は種子(有漏種子)と身体(根を有する身)と世界(大地)ですが、阿頼耶識は無分別に取捨選択することなく平等に受け入れているのです。それが現実の行動として表面化してくる時に我のフィルターを潜って自他の断絶を起こしてくるのです。
 唯識を学ぶのはこの一点に尽きるのですが、我の深さが見えてきませんので縷々説明がされているわけです。
 阿頼耶識は、
 「常に触(そく)・作意(さい)・受(じゅ)・想(そう)・思(し)と相応す。」(『論』第三・初右)と。この五つを遍行(へんぎょう)といいます。
 遍行とは、触(そく)・作意(さい)・受(じゅ)・想(そう)・思(し)の五つです。第八阿頼耶識が動くときには、必ずこの五つと倶に動いている。
 また、遍行とは、どのような認識にも働く基本的なもので五つあります。
 簡単に説明しますと、
 触とは-心を認識対象に触れしめる心作用で、「三和(根・境・識)して変異を分別(ぶんべつ)するぞ。心心所を境に触れしむるを以て性と為し、受・想・思の所依たるを業と為す」心所である。
 作意とは-心を始動せしめて対象に向けしめる心作用で、「能く心を警するを以て性と為し、所縁の境の於(うえ)に心を引くを以て業と為す」心所である。
 受とは-感受作用、「順と違と倶非との境の相を領納(りょうのう)するを以て性と為し、愛を起こすを以て業と為す」心所である。
 想とは-対象が何であるかと知る知覚する心作用で、「境のうえに像を取るを以て性と為し、種々の名言(みょうごん)を施設するを以て業と為す」心所である
 思とは-認識対象に具体的に働きかける意思決定の心作用で、「心を造作せしむるを以て性と為し、善品等のうえに心を役するを以て業と為す」心所である、と説明されています。
 (註)
 心王 ― 八識
 心所 ― 五十一の心所をいう。遍行(5)・別境(5)・善(11)・煩悩(6)・随煩悩(20)・不定(4)
 心心所相応 ― 各識に相応する心所 /前五識…34 ・第六識…51 ・第七末那識…18 ・第八阿頼耶識…5  
 また説明します。

唯識入門(32)

2020-07-05 11:08:30 | 『成唯識論』に学ぶ
 おはようございます。九州地方は大雨で大変な状況になっています。心配です。局地的豪雨は多大な災害をもたらしますし、防ぎようがありませんから当事者の方々のご心労はいかばかりかとお察しいたします。
 コロナ禍もじわりじわりと第二派に向かっているようで三蜜は避けなければいけませんね。
 四分についての説明です。
 私たちの認識活動は、「識体転じて二分に似(の)るなり。」と、自分の心が転変して、見るものと、見られるものとに似て現れる。見られるものという相分は、自分の心の表れである、見分も相分も自分の心の表れであって、「倶に自証に依って起こる」と云われているのですね。自証分を依り所として見分・相分が成り立っているという。
 識が縁ずる(対象とする)のは、識の中に表された対象を縁ずる、内識のみであって、無境ということ、唯識とは、唯量という意味を持ち、識が外境に似る、その構造が二分であって、唯二という。そして意識は、意識があって、様々なものを縁ずるのではない、一々の意識が二分をもっている、それで種々という。「唯量・唯二・種々」という意義を総合して唯識という。
 体が自証分で、用(ゆう・働き)が見分・相分の二分で三分が成り立つのです。
 難陀の二分説は「内識転じて外境に似る」、内識である見分が転じて外境の相分に似て現ずるという。
 三分は、見・相二分の根底に自証分を見てくるのです。自証とは自覚、自分の心に映じたものを自分が見ているという自覚自証ですね。見分も相分も自証分もすべて自分の心であると見ていくのですね。 
 「似る」ということについて、
 『論』に「変と云うは、謂く識体転じて二分に似る」と説明していますが、識体とは依他起性(えたきしょう・縁に依っておこってくるもの)であって、実体として有るものではなく、有に似ているのもとして存在している。心そのものが転変して、見分と相分という二つの働きに分かれると説かれています。ですから、見分・相分も実体として有るものではないということです。
 遍計所執(へんげしょしゅう)の二分の見・相に似て変化したものにすぎないということになりますね。
 「分別心に由って相の境生ずるが故に、境いい分別して心方に生ずることを得るには非ず。故に唯きょうに非ず。但だ唯識と言う。」
 分別心によって相境(そうきょう・対象)が生じるのであって、境の相が分別心を生ずるのではない、と解釈しています。
 つまり、対象物が存在して分別心が起こってくるのではなく、自分の心の中の分別心が相境を生み出しているというのです。私たちの認識とは全く逆をいっていますが、私たちの認識の顛倒が迷いを生起させてくるのであると教えています。
 鎌倉時代の法相宗の学僧である良遍は、
 「先一切ノ諸法ハ皆我心ニ不離。・・・・・心外ニ有リト思ハ迷乱也。此迷乱ニ依ル故ニ、無始ヨリ以来、生死ニ輪廻スル身トナレリ。」(『二巻鈔』。大正71-109a) と述べています。深い見識です。
 護法は三分共に依他起としています。即ち能変の識体だけが依他起ではなく、所変の見・相二分もまた依他起として有という立場になります。
 しかし、安慧は自体分のみが依他起であって、見・相の二分は遍計所執であるとています。遍計所執とは、心の外に実体として有ると執着されたものですから、本来的には無いものです。無いものを有ると執着したものですから、見・相の二分は本来的には存在しないもの、依他起ではない、依他起の自体分が遍計の二分に似る、有るのは自体分のみであるということで、安慧の主張は一分説といわれるのです。
 所変という意味は、識が変化して現れ出たもの、了別するのが識の働きですから、「識の所縁は唯識の所現なり」と云われるのです。そして、識は何を介在として現れるのかという問題があります。それは「マナス」という染汚性なる自己中心性なのです。自分にとって何が得で、何が損となるのかを瞬時に判断して行動を起こすのです。自分という実体が未来永劫壊れることなく存在すると思っている執着が恒に働いていると教えています。
 護法は自証分という、何かを見たという認識を自分が知っていることを、また自分は知っているいう証自証分を立てます。自覚が無限に続くという、肝胆相照らすという言葉がありますが、自証分と証自証分は互いに照らすのです。
 四分説の教えていることは、私たちの認識が如何に虚妄分別で成り立っているのかなのです。誰のことでもありません、私の心の在り方が指摘されています。
 すべては私の心が作り出したもの。私は私の心の影を見て日々の暮らしをしていることになります。あなたをご縁として、私は日々私と対面しているのです。
 ここで一応四分説の概略を終わらせていただきます。
 また来週です。