
仏性について その(3)
前回は『教行信証』より『涅槃経』引用の意味に就いて考えてみました。『涅槃経』のテーマは大きく三つのカテゴリーにわかれています。(1)如来法身常住 (2)一切衆生悉有仏性 (3)一闡堤回心皆往、ですが此れは一つ一つ別々のテーマを論じているのではなく、涅槃を得るということは如何にしたら可能かを三の視点から述べられたものだと了解しています。(2)と(3)の関係では一切衆生悉有仏性ではあっても、一闡堤は涅槃すなわち往生を獲得できないといわれているのです。この一闡堤(icchantika)は生死を欲して出離を求めない者、あるいは真理そのものの存在を否定する者という意味に解し、仏に成る可能性のない者という既存の概念はいかがなものであろうかと思うのです。欲界に執着して生死解脱を求めないものには、いくら仏性が有るといっても、それは空論になるわけです。しかし「斉しく苦脳の群萌を救済し」(総序)といわれますように法は一切を漏らさないのですね。「世雄の悲、正しく逆謗闡堤を恵まんと欲す」といわれるわけです。この「欲」は清浄意欲で、欲生の欲ですね。これが如来の願心でしょう。善導の『法事讃』に「仏願力をもって、五逆と十悪と、罪を滅し生を得しむ。謗法・闡堤回心すればみな往く」(信巻)といわれ、「惑染・逆悪斉しくみな生まれ、謗法・闡堤回すればみな往く」(『文類聚鈔』)と語られているわけです。このことが、衆生のために「如来は常住にして変易(へんやく)あることなし。・・・定んで言わく、如来は終に畢竟じて涅槃に入りたまわず」と。如来と衆生を結びつけるものが善知識の存在でしょうね。如来の法は離言ですからもう雲をつかむようなものです。その離言を言葉にして伝える役割を善知識はもっているのでしょう。「善知識教えて南無無量寿仏を称せしむるに遇わん」(信巻)。そうしますと、私たちの生活は何に依って成り立っているのかも善知識に教えられるわけです。在心・在縁・在決定という三在釈に依って「自らが虚妄顚倒の見に依止し・自らが妄想の心に依止し・有後心・無間心に依止して生ず」と見抜かれ、このことに由って三有生死を出ずることができないのだといわれるわけです。そして「もしは総相・もしは別相、所観の縁に随いて、心に他想なくして十念相続するを、名づけて「十念」とすと言うなり。名号を称することも、またかくのごとし」(信巻)。離言の言は衆生といわれる内実を抉りだし、それを増上縁とし、私をして信の世界に導く働きをするのでしょう。また仏性は衆生の心に総相とし認識されていることがあるわけです。それを「覆」ということで表現されています。
「貪愛瞋嫌之雲霧、常覆清浄信心天。譬猶如日月星宿、雖覆煙霞雲霧等、其雲霧下曜無闇信知超日月光益」。これは『浄土文類聚鈔』の「念仏正信偈」に讃嘆されているお言葉です。「必至無上浄信暁、三有生死之雲晴、清浄無碍光耀朗、一如法界真身顕」。
と信心仏性を明らかにされています。そして信心仏性こそが発菩提心であるということですね。
親鸞聖人は発菩提心を大切にされています。その菩提心が成就するということはどういうことなのかを、自らに尋ねておられますね。
自力聖道の菩提心 / こころもことばもおよばれず / 常没流転の凡愚は / いかでか発起せしむべき
三恒河沙の諸仏の / みもとにありしとき / 大菩提心おこせども / 自力かなわで流転せり
これは聖人が仏法に遇われた時の感涙でしょうか。わが身をたのみ、わが心をたのむ自力の在り方では菩提心を起すと雖も、自己関心でしかないという見極めではなかったかと思います。明恵上人は納得されるでしょうか。それでも反論なさるのでしょうか。親鸞聖人がここまで言い切られるという事には法に対する信知があるわけです。
浄土の大菩提心は / 願作仏心をすすめしむ / すなわち願作仏心を / 度衆生心と名づけたり
度衆生心ということは / 弥陀智願の回向なり / 回向の信楽うるひとは / 大般涅槃をさとるなり
如来の回向に帰入して / 願作仏心をうるひとは / 自力の回向をすてはてて / 利益有情はきわもなし
と『正像末和讃』に讃われています。
蓬茨祖運先生の『仏陀 釈尊伝』をすこしづつながら読ませていただいているのですが、このあとがきの中で先生は次のように述べられています。紹介をしてこの項を閉じさせていただきます。
「釈尊伝に関して、宗祖は「如来般涅槃の時代をかんがうるに、周の第五の主、穆王五十一年壬申(みずのえさる)にあたれり。その壬申より、わが元仁甲申(きのえさる)にいたるまで二千一百八十三歳なり」と、教行信証の化身土巻にのべられているばかりである。もとより、それは単に釈尊の入滅の時期を算定されたものではない。その前に道綽禅師の「当今末法にして、これ五濁悪世なり。ただ浄土の一門ありて通入すべきみちなり」の文につづいて「しかれば、穢悪濁世の群生、末代の旨際をしらず、僧尼の威儀をそしる。いまのときの道俗、おのが分を思量せよ」ということの背景としてであった。近代に入ってその記録そのものが、科学的考証の対象となって、教行信証の心は埋没していった。如来の涅槃は、釈尊の死期を考える以外の意味をもたなくなったのが、近代における釈尊伝である。
しかし、釈尊の涅槃は単なる人間の死ではない。人間のもっとも恐れる死、すなわち生活の崩壊を真実に越えた人の正しい覚(さとり)の異名というてよい。宗祖は「涅槃とまふすに、その名無量なり。・・・涅槃おば滅度といふ、・・・真如といふ、・・・一如といふ、仏性といふ、仏性すなわち如来なり」(唯心鈔文意)ともいわれている。この意味で、近代において釈尊伝が科学的にとらえられてきたことは、人間より離れていた仏を新しく人間に近づけたと思わせることになった。しかし、近づいたのは科学的思考であって、仏ではなかった。「信心すなわち仏性なり。仏性すなわち法性なり」(唯心鈔文意)という宗祖の言葉は、われわれ人間にほんとうに仏を近づける道はその教法しかないことをあらためて明示するものである。宗祖が真実の教は“大無量寿経”といわれた。その大経の序文には、その意味で釈尊の八相、すなわち釈尊伝が大経の聴衆の徳として語られている」
尚、八相成道についての『大経』の記述についてはHP親鸞に学ぶの八相成道の項を参考にしてください。 以上