唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変  第二・ 二教六理証 その(96)  第六・ 我執不成証 (31) 

2012-06-30 22:35:31 | 心の構造について

 有漏についての説をまとめますと、

 「現行」とは、種子ではないことを示し、これは経量部の種子説を否定します。

 「煩悩と」というのは、大衆部の説く随眠を否定するものです。

 「倶生倶滅」とは同時に活動するという意味になり、有部のいう三世実有法体恒有説を否定するものです。

 「互相増益」とは、互いに縁となり相い生じ増益することをいい、第七末那識が第六意識の雑染依となり、また第六意識が、第七末那識の所依となる阿頼耶識を生じさせることをいう。しかし無漏法は「互相増益」することが無いために除外されるという。

 『了義燈』の所論は、第六意識から第七末那識を増益することがあるのか、若しあるとしたならばどういうことなのか、という問いを出して、増長と不損の二面から説明しています。

 二は、有漏の熏習について、

 「此に由りて有漏法の種を熏成(くんじょう)す、後の時に現起して、有漏の義成ず。」(『論』第五・十五右)

 (これによって有漏法の種子を熏成(顕在的な行為で、現行・転識が潜在的な阿頼耶識のなかに種子を植えつけ生成すること)するのである。後の時に現行生起して、有漏となる。)

「論。由此熏成至有漏義成 述曰。有漏現行起故。熏成有漏種。後時善等起有漏義成。亦非無始無因故成有漏。亦非漏種逐故成有漏。」(『述記』第五末・四十三右。大正43・415a)

 「述して曰く。有漏の現行起こるが故に、有漏の種を熏成して、後の時に善等起こって有漏の義を成ず。亦無始より因無くして有漏を成ずるには非ず。亦漏の種逐(お)うが故に有漏と成るにも非ず。」

 前六識は第七末那識(四煩悩)と倶生倶滅する為に、すべての現行している法(前六識の三性心)は有漏となるのですね。現行している有漏の種子を熏成して、後に善や無覆無記が起こる時には、この熏成された有漏の種子より現行し、有漏となる、と述べています。

 末那識の染汚性によって一切の現行は有漏となり、有漏の種子が阿頼耶識に熏習されるのです。熏習された種子が現行する時には、善等は有漏の善等となると説明しているのです。

 末那識の染汚性によって、善・悪・無記というすべての現行法は有漏となるという教説は、私たちの日常の行為に於て大きな課題を示しているといえるのではないでしょうか。末那識の自覚がなかったならば、すべての行為は自己主張に陥るということです。矛盾しているのですが、末那識の自覚という、自己の中にある染汚性を自覚することに於て、自己主張という壁を乗り越えることができるのですね。頭が下がるということですね。いろんな運動がありますが、運動が運動にとどまるならば、そこにもたらされるのはストレスです。「私たちがこんなにも命をかけて戦っているのに」という自負心が逆にストレスをもたらしてくるのですね。この自負心を突破するというか、転換し、自己を明らかにしてくるというところに普遍性をもってくるのでしょう。その鍵を握っているのが末那識の教説です。

 

 


第二能変  第二・ 二教六理証 その(95)  第六・ 我執不成証 (30) 

2012-06-29 22:38:43 | 心の構造について

 (第四に) 漏の所随と云うは、謂く余地(他縁の惑)の法なり。互に相増せざるが故なり。

 (第五に) 漏随順とは順決択分なり。異地は増せず。同地は増することを得、漏と倶なる容きが故に。若しは無漏の者は随順に非ざるが故に。有漏の者ならば有を憎背(ぞうはい)すと雖も、然るに漏と倶なり。爾らずんば漏と倶なるは漏の目(因)に非ざるが故に。漏と倶なりと雖も而も増益(ぞうやく)せず。損力益能転(そんりきやくのうてん)と称するが故に。然るに有漏と成ること、増益と言う者は余の漏に拠って説けり。

 (第六に) 漏の種類と云うは無学の諸の蘊なり。前の生ぜる煩悩に起こされたるが故に。瑜伽の六十五に有漏の差別なることを説く。五の相に由るが故に。謂く、

  1.  事の故に、
  2.  随眠の故に、
  3.  相応の故に、
  4.  所縁の故に、
  5.  生起の故

 なり。

 事と云うは、謂わゆる清浄の諸色と三性の心・心所となり。此れは是れ能く諸漏を有する体事なり。其の所応に随って、余の四相に由って説いて有漏と名づく。謂く随眠の故に、相応の故に、所縁の故に、生起の故なり。即ち、前の諸法に於て煩悩未だ所有の種子を断ぜず。説いて隋眠と名づく。彼を此の種に由って説いて有漏と名づく。諸の染の心・心所は相応に由るがゆえに。若し諸の有事(五識)と現量の所行(五境)なると、若し有漏の所生の増上の所起(山河)と、是の如くの一切は漏の所縁なるが故に名づけて有漏と為す。現在を有事と名づけ、若しは清浄色(五根)に依る(五)識が所行(五境)を現量所行と名づく。此れは貪等が能く現量に彼の色等の境を縁ずるに拠って、漏の所縁と名づく。余は所縁に非ざるは、論に云く、但だ、自の分別に起す所の相に由って諸の煩悩を起こす。彼の諸法は此の分明(ぶんみょう)の所行の境と為るに非ざるが故にと云えり。故に前に会するが如し。

 生起に由るが故に有漏を成ずる者は、随眠を未だ断ぜざるをもって煩悩に順ぜる境現在前するが故にと云えり。此れは惑の引に拠って云う。又、云く、一切の不善の煩悩に従って、諸の異熟果と及び異熟果の増上に引かれる。外事(山河)の生起とは亦、生起の故に説いて有漏と名づくと云う。此れは有漏果を依と為して生ぜらるる亦、有漏と名づく。

 五聚の法は有漏の位の三性の中に於て、雑集の六と、瑜伽の五との義に依るに各々幾かの義を具せるを名づけて有漏と為せり。樞要の下巻に十二支の三断を解するが中に弁ずるが如し。此の二の文に准ぜば、唯漏と倶なるを名づけて有漏とは為さず。

 答。此れは正因に拠り、彼は別に拠る。故に相違に非ず。」


第二能変  第二・ 二教六理証 その(94)  第六・ 我執不成証 (29) 

2012-06-28 22:39:49 | 心の構造について

 今日は『了義燈』の文章を読んで見ます。

 「有漏の言は漏と倶と表すを以ての故に」と。有漏に三有り。一に体是れ漏にして有の為に有せられるを名づけて有漏と為す。即ち、三漏の中に有漏と言うは是れ有なりというは三有なり。此れは上界の内身を説きて有と為す。上二界は身を縁じて愛を起こすは外境の貪を離れたるを以ての故に。有か漏なれば有漏と名づく。即ち二界の煩悩を名けて有漏と為す。漏は是れ所有なり。二に他の漏を有するが故に名づけて有漏と為す。即ち能有を説くなり。三には漏性と合うが故に。名づけて有漏と為す。亦、煩悩の自体なり。此の漏に由って生死の中に在るが故に。即ち、体いい用を有するを名づけて有漏と為す。今、此の間に漏と倶なることを表すというは、能有の体を名づけて有漏と為することを取る。煩悩を取らざるが故に。前に偏に難じれ云う、又、善と無覆無記との心の時には、若し我執無くんば応に有漏に非ざるべし。瑜伽には但だ他の漏有るが故にと説く。雑集には通じて説けり。

 (異説の相違を挙げる・広く異説を出す)

 問、若し漏と倶なるを以て方に有漏と成ると言わば、即ち、雑集の第三と瑜伽の六十五と皆悉く相違しぬ。彼の二の論の文には唯、漏と倶なるを以て有漏とは名づけざるが故に。二論、云何となれば、且く対法(巻第三)に云く、(漏の六義を挙げる)

  1.  漏の自性なるが故に、
  2.  漏と相属せるが故に、
  3.  漏の縛せる所なるが故に、
  4.  漏の随せる所なるが故に、
  5.  漏に随順せるが故に、
  6.  漏の種類なるが故に、

 と云えり。

 (第一に) 初の漏の自性なるが故に。即ち、煩悩の体なり。漏の性と合するが故に名づけて有漏と為す。此の自体の漏に由って生死に在るが漏の性と合すと名け、余の五種は此の自性に由って名づけて有漏と為す。

 (第二に) 漏相属とは、漏と相応すると、及び漏の所依となり。即ち、染汚の心・心所を相応と名づく。遍行と別境と及び前七識との惑と倶なる者なり、眼等の五根を漏の所依と名づく。

 (第三に) 所縛とは謂く有漏の善法なり。漏勢力に由って後有を招くが故に。此の中に亦、六の外境と無記心とをも摂めたり。且つ善に拠って説けり。若し瑜伽(巻第五十五)に准ぜば過・未の有漏法と善と無記の心は皆、所縛に非ざると、及び現の外境の現量に縁ずるに非ざるとも、亦、所縛に非ざるというは、、彼は質に拠って説けり。過・未は無なるが故に。善・無記心は漏と相応するに非ず。漏心が縁ずる時は過・未に在るが故に。現の色の若し非現量の心いい縁ずるに、親しく質に杖(よ)らざるを以て所縁に非ずと説けり。対法論は親相分及び疎所縁に拠って説くを以て亦、所縁を成ずと云う、五十九に縁縛を断ずと説くと同なり。各々一の義に拠るが故に、相違せず。

                (第四)以降は明日読みます。


第二能変  第二・ 二教六理証 その(93)  第六・ 我執不成証 (28) 

2012-06-27 22:47:37 | 心の構造について

 有漏の義について、『樞要』及び『了義燈』の所論を記述します。

 『樞要』(巻下本・二十七右。大正43・640c)

 「下文雖由煩惱引施等業。而不倶起。非有漏正因。即顯縁縛等非有漏正體。六十五説。現量所行有所縁縛。其清淨色・不相應善・及一分無記心心所。非有所縁縛。但由隨眠名有漏。與煩惱種倶者。此依別義。亦不相違等廣説太精。應取彼會。即顯五境有所縁縛。餘根心等即無是義。但顯與此表有漏倶言相順。然與五十九斷二縛義相違。由此所縁縛有二。一親。唯現量所行。二疎。即淨色等。展轉心・境互相増故。言淨色・善心・一分無記等非有所縁 縛者。據親相分非。故此論下第八等。説二縛斷等者。依疎義説。不爾便與二論相違。更勘和會。既言雖由煩惱引施等業而非正因。我能行施。明但相縛。非有漏因。如斷縁縛。雖斷見道及修前八。以未全盡。不名爲斷。有漏應然。如縁一色。五識及意二所縁縛。並以第七識與漏倶。言要至金剛方可斷盡。此如修道初品所斷。雖亦爲後八品惑縛。然得名斷。以自力強故。有漏亦爾。縁縛・相應二力。増上故説。未斷第七亦名爲斷 若爾何故前二既勝。 何故不爲有漏正因而取漏倶。或復縛據二縛。有漏據漏倶。斷依二縛。故可説斷。不約漏倶説斷。亦不相違 無始法爾種子。不曾現起與第七倶。云何得成有漏。不要現行與第七惑倶方名有漏。若種・若現無始皆與第七惑倶。互相増益。相隨順故。並成有漏。非無漏種亦能相順。又言法爾不要七倶。非法爾者。必倶増益。然六十五等有漏・無漏義等。如下第八卷釋」

 『了義燈』(第五本・十五右~十七左。大正43・748c~749a)

 「以有漏言表漏倶故。有漏有三。一體是漏爲有所有名爲有漏。即三漏中言有漏。是有者三有。此説上界内身爲有。以上二界縁身起愛離外境貪故。有之漏名有漏。即二界煩惱名爲有漏。漏是所有。二有他漏故名爲有漏。即説能有。三者漏性合故名爲有漏。亦煩惱自體。由此漏在生死中故即體有用名爲有漏 今者此間表漏倶者。取能有體名爲有漏不取煩惱。故前偏難云。又善・無覆無記心時。若無我執應非有漏。瑜伽但説有他漏故。雜集通説 問若與 漏倶方成有漏。即與雜集第三・瑜伽六十五皆悉相違。彼二論文不唯漏倶名有漏故 二論云何 且對法云。漏自性故。漏相屬故。漏所縛故。漏所隨故。漏隨順故。漏種類故 初漏自性故即煩惱體。漏性合故名爲有漏。由此自體漏在生死名漏性合。餘之五種由此自性名爲有漏 漏相屬者。與漏相應及漏所依。即染汚心・心所名相應。遍行・別境及前七識與*或倶者眼等五根名漏所依 所縛者。謂有漏善法。由漏勢力招後有故。此中亦攝六外境・無記心。且據善説 若准瑜伽。過未有漏法善・無記心皆非所縛。及現外境非現量縁亦非所縛者。彼據質説。過・未無故。善・無記心非漏相應。漏心縁時在過・未故。現色若非現量心縁。不親杖質説非所縁 對法論據親相分及疎所縁説亦成所縁。同六十六。斷縁縛説。各據一義故不相違漏所隨者。謂餘地法。不互相増故。漏隨順者。順決擇分。異地不増。同地得増。容漏倶故。若無漏者非隨順故。有漏之者雖増背有。然與漏倶。不爾漏倶非漏目故 。或雖漏倶而不増益。稱損力益能轉故。然成有漏言増益者據餘漏説。漏種類者。無學諸蘊。前生煩惱之所起故。瑜伽六十五説有漏差別。由五相故。謂事故・隨眠故・相應故・所縁故・生起故。事謂清淨諸色三性心・心所。此是能有諸漏體事。隨其所應由餘四相説名有漏。謂隨眠故・相應故・所縁故・生起故。即前諸法煩惱未斷所有種子説名隨眠。彼由此種説名有漏。諸染心・心所由相應故説名有漏。若諸有事現量所行。若有漏所生増上所起。如是 一切漏所縁故名爲有漏。現在名有事。若依清淨色識所行名現量所行 此據貪等能現量縁彼色等境名漏所縁。餘非所縁。論云但由自分別所起相起諸煩惱。非彼諸法爲此分明所行境故。故如前會 由生起故成有漏者。隨眠未斷順煩惱境現在前故。此據惑引 又云。從一切不善煩惱。諸異熟果。及異熟果増上所引外事生起。亦生起故説名有漏。此有漏果爲依所生亦名有漏五聚之法於有漏位三性之中。依雜集六・瑜伽五義各具幾義名爲有漏。如樞要下卷 解十二支三斷中辨。准此二文。不唯漏倶名爲有漏 答此據正因。5被據別義。故不相違言互相増益者。問第七與六爲雜染依増益於六。六識如何増益第七 答有二義。一者増長。二者不損 若第六識發業感八爲彼依縁。得相續住故名増益 起有漏時。設雖不能増長第七。而不損害亦名増益。非如無漏起必損彼不名増長。亦如眠睡。雖於眼根不能増長。而不損害亦名長養。此亦應爾。」

 (『樞要』に云く。 「下の文に云く、煩悩に由って施等の業を引くと雖も而も倶起せざるを以て有漏の正因に非ず。即ち縁縛等は有漏の正体に非ず云うことを顕す。六十五の説に、現量の所行は所縁縛の其の清浄の色と不相応善と及び一分の無記心心所とには有り。所縁縛有るに非ず。但だ随眠に由って有漏と名づくると。煩悩種と倶なる者とは、此れ別義に依ると云う。亦相違せず等と云う。広く説いて太だ精し。彼を取って会す。即ち五境には所縁縛有り、余の根心等には即ち是の義無しと顕す。但だ此の有漏と倶と表す言と相順せりと云うことを顕す。然るに五十九に二縛を断ずと云う義と相違せり。此れに由って所縁縛に二有り。一には親の唯だ現量所行なり。二には疎の即ち浄色等なり。展転して心と境と互に相増たるが故に。浄色と善心と一分無記等には所縁縛有るに非ずと言わば、親相分に拠るに非ざるが故に。此の論のしたの第八等に二縛断等を説くは疎義に依って説けり。爾らずんば二の論と相違す。更に勘えて和会せり。既に煩悩に由って施等の業を引くと雖も正因に非ずと、我能く施を行ずと云う、明に但だ相縛なり。有漏の因に非ず。縁縛を断ずるに見道及び修の前八を断ずと雖も、未だ全く盡きざるを以て名づけて断となさざるが有漏も応に然るべし。一色を縁ずるときは、五識と及び意との二所縁縛並に第七識と漏と倶なるを以て要ず金剛に至り方に断盡すべしと言う。此れ修道の初品の所断の如し。亦後の八品の惑の為に縛せられたると雖も、然に断と名づくることを得。自力強なるを以ての故にという。有漏も亦爾なり。縁縛と相応との二の力は増上なるが故に、未だ第七を断ぜずとも亦名づけて断と為すと説く。若し爾らば何故ぞ、前の二は既に勝れたり。何故に有漏の正因となさずして、而も漏と倶なるを取る。或は復は縛は二縛に拠るに、有漏は漏と倶なるに拠ると云う。断ずることは二縛に依るが故に。断と説く可し。漏倶に約して断と説かず。亦相違にあらず。無始法爾に種子は曾より現起せずして第七と倶なり。云何ぞ有漏を成ることを得るが要ず現行して第七の惑と倶なるを方に有漏と名づけず、と。若しは種にも若しは現にも無始より皆第七の惑と倶にして互に相増益して相随順するが故に。並びに有漏と成る、無漏の種は亦能く相順っするに非ず。又言く、法爾は要ず七と倶にあらず、法爾に非ざるは必ず倶にして増益す。然るに六十五等の有漏無漏の義の等は下の第八巻に釈するが如し。」)       (つづく)


第二能変  第二・ 二教六理証 その(92)  第六・ 我執不成証 (27) 

2012-06-26 23:01:56 | 心の構造について

 『演秘』の釈。

 「疏(『述記』)に「対法等云漏所随逐等」とは、瑜伽論の文を等するなり。樞要に弁ずるが如し。対法の所説は義燈に解するが如し。故に此に言わず。」(第四末・三十七左)

 『述記』に述べられている、「漏に所随というは、謂く、他地を逐して但だ漏随のみを言って他地を縛すとは言わず、復相増益せざるが故に」という文は『瑜伽論』巻第六十五(大正40661c)に述べられているのと同じであるが、この意義は、『樞要』(巻下本・二十七右・大正43・640c)に詳しく述べられている。そして『対法論』の所説は『了義燈』(第五本・十五右。大正43・748b)に解釈されている通りである、よってここでは解かない、と。

 『樞要』に

 「煩悩に由って施等の業を引くと雖も、而も倶起せざるを以て有漏の正因に非ず。即ち縁縛等は有漏の正体に非ずと云うことを顕す。六十五の説に、現量の所行は所縁縛の其の清浄の色と不相応善と及び一分の無記心心所とには有り。但だ随眠に由って有漏と名づくると。・・・・・・」

 『了義燈』に第六十五に有漏の差別を説いて、『瑜伽論』の所説を引用し、有漏とは何かを説いています。今は『瑜伽論』から本文を抜粋します。

 「復次に、五相に由るが故に有漏の諸法の差別を建立す。何等をか五と為す、謂く (1) 事に由るが故に (2) 随眠の故に (3) 相応するが故に (4) 所縁の故に (5) 生起するが故なり。 

 云何が有漏法の事なる、謂く清浄なる内色(内の勝義の五根)及び彼の相依(扶塵の五根)・不相依の外色(五境)、若しくは諸の染汚の心・心所、若しくは善無記の心・心所等此れ有漏の事なり。其の所応に随って余の四相に由って説いて有漏と名づく。謂く随眠の故に、相応するが故に、所縁の故に、生起するが故なり。

 若し清浄なる諸色に於て及び前に説ける所の如き一切の心・心所の中に於て煩悩の種子をば未だ害せず、未だ断ぜざれば説いて随眠と名づけ、亦は麤重と名づけ、若し彼れ乃至未だ余す無く断ぜざれば、當に知るべし、一切随眠に由るが故に説いて有漏と名づけ、若しくは諸の染汚の心・心所は、相応するに由るが故に説いて有漏と名づくと。

 若しくは諸の有事、若しくは現量の所行、若しくは有漏より生ずる所、増上して起こす所、是の如き一切は漏の所縁なるが故に名づけて有漏と為す。此の中現在を名づけて有事と為し、過去・未来を非有事と名づけ、若しくは清浄色に依る識の所行を現量の所行と名づけ、若しくは余の所行は當に知るべし非現量の所行と名づくと。若しくは内の諸処増上して一切の外処を生起するを有漏より生ずる所増上して起こす所と名づけ、唯、彼の所縁のみ當に知るべし有漏なりと。

 所以は何ん、若し去・来を縁じて諸の煩悩を起こさば、過去・未来は有事に非ざるが故に所縁に由るを説いて有漏と名づけず。

 若し現在の事にして現量の所行に非ざれば、清浄色及び一切の染汚・善・無記の心・心所の如く、彼も亦煩悩の所縁なるが故に説いて有漏と名づくるには非ず。

 但、自ら分別して起こす所の相に由って諸の煩悩を起こす、彼の諸法を此れ分明の所行の境と為すに非ざるが故なり。

 生起に由るが故に有漏を成ずとは、謂く、諸の随眠未だ永えに断ぜざるが故に、煩悩に順じて境現在前するが故に、彼、現ずるに於て不如理なる作意を起こすが故なり。此の因縁に由って諸の所有る法の、正に生じ(現在法)、已に生じ(過去)或いは復、當に生ず(未来法)べき是の如き一切は生起に由るが故に説いて有漏と名づく。

 又一切の不善の煩悩より諸の異熟果及び異熟果の増上して引く所の外事生起す、是の如きの一切を亦生起するが故に説いて有漏と名づく。

 又無記なる色無色繋の一切の煩悩に由り彼に於て続生す、彼の続生する所をも亦生起するが故に有漏と名づく。

 是の如きを名づけて五相に由るが故に有漏の諸法の差別を建立すと為す。謂く事に由るが故に、随眠の故に、相応するが故に、所縁の故に、生起するが故なり。」と。

 この『瑜伽論』の所説の文を『了義燈』は解釈を施しています。  (つづく)


第二能変  第二・ 二教六理証 その(91)  第六・ 我執不成証 (26) 

2012-06-25 23:03:15 | 心の構造について

 無記業を以て破す。

 「又無記の業は煩悩に引かるるものには非ず、彼復如何ぞ有漏と成ることを得ん。」(『論』第五・十五右)

 (また、無記の業は、煩悩に引かれて起こるものではない。従って無記の業は、どうして有漏となることを得ようか、有漏とはならない。)

 無記の業は煩悩に引かれて起こるものではないから、無記の業は有漏とはならない、しかし、有漏の無記業(有覆無記)は存在します、であるならば、無記の業はどうして有漏となるのでしょうか。従って、煩悩が発生させていることから有漏となるというのは誤りであると論破します。

 「論。又無記業至得成有漏 述曰。若以漏發名爲有漏。如無記業如何有漏。彼非煩惱引故。如無漏善。若言由他縁縛。亦如前破」(『述記』第五末・四十一右。大正43・415a)

(「述して曰く。若し漏が発するを以て名づけて有漏とすと為せば、無記の業の如きは如何ぞ有漏ならん。彼は煩悩に非ざるが故に、無漏の善の如し。若し他の縁縛するに由ると言わば、亦前の如く破すべし。)

 第三は、有漏の義を述べ、正しく有漏について説明する。(法相唯識の説く有漏について)

 「然るに諸の有漏は自身の現行煩悩と倶生倶滅して互に相増益するに由りて、方に有漏と成る。」(『論』第五・十五右)

 (しかるに、諸々の有漏は、自身の現行の煩悩と倶生倶滅して、互に相増益することによって、まさに有漏となるのである、と。)

 「自身の現行の煩悩と倶生倶滅して」という、「自身」は、有部の説くところの「たとえ、自分の身に煩悩が無くなった無学位の聖者でも、他者からの縁縛によって有漏となる。」という主張に対して、他者の煩悩によって、自分の身が有漏となるようなことはないと述べ、

 「現行」は、経量部の種子説に対して、種子ではなく現行である、と。そして「煩悩」は、大衆部の随眠を簡んでいます。「倶生倶滅」は時間の前後に生起することではなく、同時に生じ、同時に滅する働きであることを指しています。「相増益」は、互いに縁となって相い生じることをいいます。これを以て有漏の意義を正して、無漏法を除外します。無漏法は、互いに縁となり増益することはない。

 『了義燈』(第五本・十七左。大正43・749b)

 「言互相増益者。問第七與六爲雜染依増益於六。六識如何増益第七 答有二義。一者増長。二者不損 若第六識發業感八爲彼依縁。得相續住故名増益 起有漏時。設雖不能増長第七。而不損害亦名増益。非如無漏起必損彼不名増長。亦如眠睡。雖於眼根不能増長。而不損害亦名長養。此亦應爾。」

 「「互に相増益す」と言うは、問う、第七は六と雑染の依と為るをもって六を増益すべし。六識は如何が第七を増益する。答え、二の義有り。一には増長す、二には損せざるなり。若し第六識いい業を発して八を感じ、彼(第七識)が依と縁と為して相続して住することを得。故に増益と名づく。(第六識)が有漏を起す時は設い第七を増長すること能わずと雖も、而も損害せず。亦、増益と名づく。無漏いい起ることは必ず彼を損ずるをもって増長と名づけざる如きには非ず。亦、睡眠の如きには眼根に於て増長すること能わずと雖も、而も損害せざるをもって亦、長養と名づく。此も亦、爾るべし。」

 第七末那識が第六識の雑染依となって第六識を増益し汚染するけれども、第六識はどのようにして第七末那識を増益することができるのか、という問いが出されます。この問いに対して、二義がある、と。増長と不損の二面から説明されます。増長の面からは、第六識が業を起こして第八阿頼耶識を生起させると、その時に、第七末那識は第八阿頼耶識を所依とも所縁ともして、相続して活動するという点から増益するという。不損の面からは、第六識が有漏を生起する時、たとえ第七末那識を増長することがなかったとしても、第六意識は第七末那識を妨害したり損なったりすることはない、と説明しています。例も同じ意味です。

 『述記』の釈を見てみますと、

論。然諸有漏至方成有漏 述曰。第三成有漏義。諸有漏法。由與自身現行煩惱倶生倶滅。互相増益方成有漏 自身者。簡他身。不縛己 現行。簡種子。唯種不縛。故對法等云漏所隨謂逐他地者。但言漏隨不言縛他地。復不相増益故 倶生倶滅。簡前後發 相増益者。1遞爲縁相生義。正解漏義簡無漏法」(『述記』第五末・四十一左。大正43・415a)

 (「述して曰く。第三に有漏の義を成ず。諸の有漏法は自身の現行の煩悩と倶生倶滅して互に相い増益するに由って、方に有漏と成る。自身と他身の己を縛せざるを簡ぶ。現行とは種子を簡ぶ。唯だ、種は縛せざるが故に。対法等に云く、漏に所随すと云うは、謂く、他地を逐して但だ漏随のみと言う、他地を縛すとは言わず。復相い増益せざるが故に。倶生倶滅と云うは、前後に発すを簡ぶ。相増益とは互に縁と為り相生ずる義なり。正しく漏の義を解して無漏の法を簡ぶ。」)

 この項、『演秘』及び『樞要』・『了義燈』に詳細が説明されていますので順次述べていきます。 

 


下総たより』 第三号 『再会』 追加(3) 安田理深述

2012-06-24 14:10:28 | 『下総たより』 第三号 『再会』 安田理

 「法然上人に遇うというようなことも、内には南無阿弥陀仏に遇うた、そこに法蔵の願心にふれたということが、神話でなしにそれを日常に於て経験した、法然上人に遇うたということは人間に遇うたということでない。本願に遇うた、迫害流罪という形で本願に生きた、そういうところから考えてゆくという、本願ということが本当の意味に於て成り立つ基礎が時間、本願の時間、本願の歴史というものが、本願の時間というものが成り立ってくる。我々が日常の時間を日常的に過ごしてしまうということがあるために、時間をあれだけ深く過ごすことが出来ないために、ただ神話を神話として過ごしてしまうことになる。神話が神話でなく実存的時間であり歴史的時間がある。実存の歴史というものがある。

 実存的時間というものは本願の現実である

 昔は今であり、今は昔である。こういうところに本当の歴史がある。実存というのは我の存在である。我というところに、神話的時間と日常的時間を綜合するものは我の時間である。我ありという時に本当の現実の時間がある。我を離れたら全部神話になるか、日常というものに流されてしまうか、神話の昔話にもなれず、現実の時間に流される訳にもいかん、現実の時間を超えて時間に生きる、こういうところに我の時間がある。今というのは我の時間である。

 我々が生れてきて始めて仏法に遇うのでない。仏法の中に始めからあるから仏法に遇えるのである。そうでないと仏法に感動する筈がない。我々は遇う以前に仏法の中に生まれておった、それで今あらためて遇うことによって自覚する、そういうことが出会い。深い意義がある。

 我というのが機である。機は時機、我の時を今というのである。時機に於て法がはたらく、機の時である。機を成り立たしめるのが時である。時という字は熟するという意味もある。時が機を熟する、機を摑むということが時の意味である。機を成就させるというのは機を摑む、それが時の意味である。それが出会い、我に出遇うのである。我を通して法に出会うのである。

 過去、現在、未来があるけれどもそれは現在をはなれてはない。現在の上に過去現在未来が二重に未来現在過去と逆に重なっているという意味がある。過去が現在を規定し現在が未来を規定している、そういう意味で過去現在未来という一つがある。もう一つは未来現在過去、未来が出発点となる。未来現在過去、こういう二重の因果があって、過去現在未来というのは異熟因果の業因縁というもの、異熟因果、異熟の因果は過去が現在を規定し、現在が未来を規定する、過去の原因が現在を規定する、其時に過去は尽きるけれども現在は未来を規定する、過去現在未来といっても切れている、過去が現在、現在が未来と切れている、我々が生れて死するというのは過去の自分に応えているのであるが、どうも変わらんものが我々にある。今から変えることの出来ないものが、或る意味で運命的なものがある。それを業道自然という、そして現在はどうかというと現在は未来を決定する、現在は未来を約束し未来の運命を造ってゆく、過去が現在、現在が未来と切れながらつづいてゆく、過去が現在を決定するというのは異熟、現在が未来を決定するというのは異熟、前の異熟が一生一生切れつつ連続する、それが此の生が尽きれば次の生と流転です、過去が現在を規定するといっても切れながら完結しつつ続いてゆく、現在の生死は過去の生死の因に応えている、知らない過去の原因に応えそれを果たす。宿業を果たすというのは自分の負目を果たす、同時にこの一生で我々の新しくやったことは未来の運命を規定する、これはまた別である。現在というところでそれが重なっている、過去の果である現在が同時に未来の因である。現在として重なっている。一面からいうと人間は変る、今の一生を生きたということはその結果を見ることは出来ん、我々が現にみているのは過去の結果である。過去の責任を果たしつつ未来の責任をもってくる。人間はどうにもならん意義と、どれだけ努力してもどうにもならん意義と、同時に無限に変ってゆくという意義の二つが重なってある。果である面はどうにもならん、因である面は変り得る、この二つが重なっている。そういうのが宿業の因果、それは異熟の因果、異熟因異熟果、つまり業の因果、業感縁起、縁起論としては業感縁起、そういうものを代表しているのが十二縁起、過去から現在、現在から未来へと過去が出発の規定になるのが業の因果、同時に未来から規定する因果が、それは存在の因果といってよい。未来から始まる、未来が現在となり、現在が過去となる。可能性が可能性であったものが現実となる。こういう因果であって、ものの生れてくる因果、つまり存在の生起、存在が生起する因果、これはものはものからものになってゆくのであって、別のものになるということでない。物質は何所までも物質から生れて物質、精神は何所までも精神から生れて精神となる、精神から物質になるのでない。          (つづく)

 


第二能変  第二・ 二教六理証 その(90)  第六・ 我執不成証 (25) 

2012-06-23 23:43:53 | 心の構造について

 『対法論』と『論』の会通

 「煩悩に由って施等の業を引くと雖も、而も倶起せざるが故に、有漏の正因に非ず、有漏の言は、漏と倶なりということを表するを以ての故に。」(『論』第五・十五右)

 (煩悩に由って、施等の業を引くといっても、煩悩と善業は倶起しないので、有漏の正因ではない。有漏という言葉は、漏と倶であるということを表すものだからである。)

 この科段は、有漏ということについて、『論』と他の文献では、解釈の相違があることから会通します。他の文献は、ここでは『対法論』を指しますが、これは『了義燈』に述べられているものです。『対法論』に述べられている、有漏の六義は昨日記述しましたので省略します。この六義は、漏(煩悩)と倶であることから有漏となるとは説かれているわけではありません。しかし、有漏は漏と倶であるということから『論』は述べられているわけですから、この相違はどこからくるのかという問題が生じます。答えは、『対法論』の記述は、正因から述べられたものではなく、傍因から述べられたものであると『述記』は語っています。そして、『論』は正因から述べているものであるから、煩悩と倶に働くから有漏となることを述べなければならないのです。

「論。雖由煩惱至表漏倶故 述曰。此即牒前漏所縛云。雖知如此。而第六識中漏。與施等不倶起。故非有漏正因。雖亦由之發。而傍因故成有漏。非是正因。正因之言要倶起故。即他縁縛亦傍因也。由此大乘不縁他境。各各別變故。若縁他縛他。便非各各變境。即應我作他受果失。此甚新義。以有漏言正表此法與漏倶故」 (『述記』第五末・四十一右。大正43・415a)

 (「述して曰く。此れ即ち前の漏の所縛を牒して云く。此の如く知ると雖も、而も第六識の漏は施等と倶起せざるが故に。有漏の正因に非ず。亦之に由って発すと雖も、而も傍因の故に有漏と成る。是れ正因には非ず。正因という言は要ず倶起すると云う。故に即ち他の縁縛するとも亦傍因なり。此れに由って大乗は他境を縁ぜず。各々別に変ずるが故にと云う。若し他を縁じて他を縛せば、便ち各々境を変ずるに非ず。即ち我作して他いい果を受くる失有るべし。此れ甚だ新義なり。有漏の言は正しく此の法と漏と倶なることを表するを以ての故に。」)


第二能変  第二・ 二教六理証 その(89)  第六・ 我執不成証 (24) 

2012-06-22 23:02:50 | 心の構造について

 (「述して曰く。彼れ若し救して先の時の善等の位に煩悩と倶に生ずること有ること無しと雖も、漏の種子、善等の種に随逐するに由るが故に。善等の種、有漏と成ると言わば、然らず。学の無漏心亦有漏と成ること勿れの故に。無漏の種子と倶には亦有漏の種も逐すとも、無漏の法は有漏とは成らず。有漏の善等の種如何ぞ有漏と成らん。

 我が大乗宗は無漏は現行の煩悩の我執と倶ならざるが故に。種いい逐すること有りと雖も、無漏の法は有漏とは成らず。有漏の善等此れと相違せり。故に有漏と成る。汝が宗に如何が善等有漏と成らん。

 問う、『対法』(第三巻)に云うが如し、漏に縛せらるるは有漏善法ぞ。漏に随わるとは即ち余地の法ぞ。漏に随順すとは決択分の善ぞ等と云えり。彼れ豈皆、漏と倶起するが故に有漏と名づけんや。此れ等の疑を答せんが為に。」)

 随逐は、煩悩の種子が、善等の種子にまとわりついて、という意味で、その為に、善等の種子が有漏となる、と経量部は主張しているのです。しかし煩悩と善とは相応しないのですから、この主張そのものに矛盾が生じています。そしてこの矛盾は、有漏の善の種子は、いつ有漏になったのか説明がつかないことになる、と護法は論破しています。

  有漏について、『対法論』の記述は、「且對法云。漏自性故。漏相屬故。漏所縛故。漏所隨故。漏隨順故。漏種類故。」(『了義燈』第五本・十五右。大正43・748c)

  • (1) 漏の自性であるから、
  • (2) 漏の相続であるから、
  • (3) 漏の縛する所であるから、
  • (4) 漏に随うものであるから、
  • (5) 漏に随順するものであるから、
  • (6) 漏の種類であるから、

 と説明されています。この六義には、漏と倶であるから有漏となるとは述べられているものではなく、しかし『論』では漏と倶であるから有漏となるといわれていました。この相違について、問いが立てられ、次の科段において説明されます。


第二能変  第二・ 二教六理証 その(88)  第六・ 我執不成証 (23) 

2012-06-21 23:04:03 | 心の構造について

 昨日の記述のつづきになります。少し不備がありましたので補足説明をします。経量部は、末那識や阿頼耶識の存在を解明されていないために、善の種子が、いつ有漏になったのかという説明がつかないのです。善と煩悩は和合することはなく、相応しないのです。善は善・煩悩は煩悩なおですから、善の種子が、煩悩の影響を受けて有漏になるということはあり得ないのです。従って、『論』には「彼の種は、先より因として有漏と成る可きこと無きが故に。」と論破しているのです。

 経量部の主張は『述記』に記載されています。

論。亦不可説至可成有漏故 述曰。第三經部師等言。如無學身諸有漏識法。雖不由他惑縁。及過去縁縛是煩惱引。然自身中有有漏種在生此有漏法故。此善等例亦然者。不然。論主難云。彼善等種成有漏者。先無因故可成有漏。謂此善種能熏熏時。無始已來先皆不與煩惱倶有。有何所以得成有漏。」(『述記』第五末・三十九左。大正43・414c)

(「述して曰く。第三は経部師等の無学の身の諸の有漏の識法の如き、他の惑に縁ぜられ、及び過去より縁縛せられ、是れ煩悩に引かれたるに由らずと雖も、、然も自身の中に有漏の種在ること有って此の有漏法を生ずるが故に。此の善等も例するに亦然なりと言わば、然らず。論主難じて云く、彼の善等の種の有漏と成ることは、先に因無き故に有漏と成る可し。謂く、此の善の種は能熏の熏ずる時にも、無始より已来た先に皆な煩悩と倶に有らず。何の所以有ってか有漏と成ることを得ん。」)

 経量部の主張は、自身の中に有漏の種子が有って、有漏の種子から有漏法が生じてくるのであると説いていることがわかります。善等も、有漏の善等の種子から、有漏の善等が生じるということになり、末那識を説かなくても、六識の善等が有漏となることは説明できるというものです。この主張に対して、『論』は「亦有漏種より彼の善等を生ずるが故に、有漏と成るとは説く可からず、」と述べています。善等の種子は「無始より已来た先に皆な煩悩と倶に有らず、と。善等の種子は、煩悩の影響を受けて有漏の熏習を受けることがないので、善等の種子は、有漏とはんらないはずである、と経量部の主張を破斥しているのです。

 「何の所以有ってか有漏と成ることを得ん」をうけて、次の科段で答えられています。

 「漏の種に由って彼いい有漏と成るものには非ず、勿(もつ)、学の無漏心いい亦有漏と成りなんが故に。」(『論』第五・十五右)

 (有漏の種子に由って彼(善等)が有漏となるわけではない。有学の無漏心は勿(禁止の意味をあらわす語)、決して有漏とはならないからである。)

 経量部の反論を予想しての『論』の論破の記述になります。反論の予想は『述記』に述べられています。

「論。非由漏種至亦成有漏故 述曰。彼若救言。雖無先時善等之位有煩惱倶生。由漏種子隨遂善等種故。善等種成有漏者不然。勿學無漏心亦成有漏故。無漏種子倶亦有漏種逐。無漏之法不成有漏。有漏善等種如何成有漏。我大乘宗。無漏不與現行煩惱我執倶故。雖有種逐。無漏之法不成有漏。有漏善等與此相違。故成有漏。汝宗如何善等成有漏 問如對法云。漏所縛者有漏善法。漏所隨者即餘地法。漏隨順者決擇分善等。彼豈皆與漏倶起故名有漏。」(『述記』第五末・四十右。大正43・414c~415a)

 『述記』の記述によれば、経量部は前科段の護法の論破に対して、「煩悩の種子が、善等の種子に随逐(ずいちく)して、その影響で、善等の種子が有漏となる」と反論を繰り広げているのです。これに対して、護法は反論を論破します。

 「煩悩の種子が、善等の種子に随逐(ずいちく)して、その影響で、善等の種子が有漏となる」というが、そうではないであろう。「有漏の種子によって、善等が有漏となるわけではない。有学の無漏心は決して、有漏とはならないからである」、と。 

 (『述記』の読みと、説明は明日記述します。)