唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

唯識入門(39)

2020-10-03 09:31:52 | 『成唯識論』に学ぶ
 おはようございます。いい天気ですね。ちょつとお出かけしたいと思います。
しばらく休憩をしていましたが、また再開させてもらいます。前回は因縁変・分別変について考えましたが、少し戻ってですね、阿頼耶識の所縁について考えてみたいと思います。
 その前に、四分義が終わりまして、「故に識の行相は即ち是れ了別なり。了別と云うは即ち是れ識の見分なり。」(『論』第二・(『選註本p42))
 ここが総結の文になります。ここをもって四分の説明はおわります。このように識の行相(働き)は了別(区別)して知ることである。そして区別するのは識の見分である、と。
 そして所縁が説かれてきます。
 認識の主体は常に自分なんですね。自分を離れて認識は成り立たないことを四分義は教えてくれました。
 眼は外に向いていますから、世界は自分を離れて存在すると思っていますが、自分が認識しないと世界の存在はあり得ないのですね。つまり、世界も自分の認識が作り上げたものということになります。
 その作り上げた世界が阿頼耶識の対象になって、自己が問われてきます。対象、つまり所縁の相分です。
 阿頼耶識は何を対象として捉えていくのが問われているわけです。それによって自己形成、自分が作り上げられてきます。これは休む間もありませんから、厳しい問いかけですね。
 そして阿頼耶識が所縁としているのは、結論からいえば、種子・有根身・器界の三つになります。種・根・器として表されます。
 外境としての器界と内境としての種子と有根身に分けられます。この種子と有根身は二に執受として表されます。
 『成唯識論』には、「言う所の処とは、謂く異熟識(いじゅくしき)の共相(ぐうそう)の種(しゅう)を成熟(じょうじゅく)せる力に由るが故に。変じて色等(しきとう)の器世間の相に似(の)る。即ち外に大種(だいしゅ)と及び所造(しょぞう)の色(しき)となり。」(『論』第二・p42)と説明しています。
処というのは、自らの種子を因縁として、阿頼耶識が器世間を変為(へんい)したものである。つまり、阿頼耶識が変化して内に種子と有根身とを、外に器世間を作りだす働きを変為といっているわけで、「阿頼耶識は因縁の力の故に自体生ずる時、内に種と及び有根身とを変為し、外に器を変為し、即ち所変と以て自の所縁と為す」と説かれているのです。
 阿頼耶識の対象として外に器世間を変為している、ここですね、非常に難解です。外に対象としての世間はあるではないか。世間が在って私が存在している、こう考えていますが、仏教はそうではないと否定します。すべての存在しているものは心を離れては存在しない、心が変化したものであると。徹底的にですね、すべては心に離れては存在しないと(一切不離識)と教えています。
 器世間は有情の所依処といわれています。私たちは器を所依処として存在している。その所依処は阿頼耶識が作りだしたもの、阿頼耶識が作りだしたものを所変として自らの所縁としているというわけです。その体は色・声・香・味・触の五塵でになります。
 例えばですね、眼識ですと、眼は視覚作用ですから、色境が対象となります。耳識ですと、声や音という声境が対象となります。
 ここを詳細しますと、第八異熟識は自体生ずる時、親因縁と及び業種子との力との力に依って、内に種子と有根身を、外に器世間を変為し、それらを自の所縁とするということになります。器世間が無いというわけではないのですね。ここがややこしいところで、器世間を縁として自らの中に器世間を写し出し、映し出されたものを見ているということなのです。自分が描いたように器世間が在るわけではないということです。
 ここは少し説明が要りますね。眼識の対象は色境であると述べましたが、それが阿頼耶識とどう関係しているのか。明日にでも投稿します。
 

最新の画像もっと見る

コメントを投稿