唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (109) 第十二 縁事境縁名境分別門 (3)

2015-05-21 22:14:03 | 第三能変 諸門分別 縁事境名境分別門
先日の講義の感想文をいただきました。
 「 昨日の講義から感じたことを綴ります。知り合いが病になったとします。病になった本人は当然落ち込むと思われます。病を縁とは受け取らず、悪と受け取る事が大半でしょう。病は悪であって、決して縁ではない。気持ちは塞ぎがちになると思われます。親しければ親しい間柄ほど心配すると思われます。親が病気をした時に心配するように。ここで思った事は、他人を見る際、結局は妄想、勝手な自分の思い込みがあるなと。普段元気な人が病気になれば驚きますが、病気がちの人が病気になってもあまり驚かない。ほんと勝手な話です。寿命なんて誰にも解らないのに。元気な人が若くして亡くなる事もあれば、病気がちの人が長生きする場合もあるのに。自我といったものが、勝手に妄想を作り上げているのでしょうか?
今の自分自身を作っているのは過去の自分。未来はまだ来ていない。一度経験したことは忘れておらず、自分自身では忘れていると思っていても心には溜め込まれている。思ったのですが、忘れていると思っていても経験したことは忘れていないのは、怖いですね。怖い思い出があり、恐怖心が残っているのが本人には解らず、無意識から急に意識的に自分自身を苦しめるのでしょうね。地震を体験した人が少しの揺れでも恐怖を感じるように。
しかし感想になってなくてすいません。言葉の意味がなかなか理解不能でして。唯識、心の構造でしたね。意識と無意識の層があり、阿頼耶識といった、全てを別け隔てなく受け取る層がある。自我といった無意識の層が勝手に自分の都合の良いように、ここでは目といった機能から取り入れた情報を写し出している。思ったのですが、いくら美しい夕日を見ても、自分自身の利益の為に動くようになっていれば、夕日の美しさも解らなくなるのかもしれません。
よく人は外に問題があり、内、つまり自分自身を問題にはしません。仕事、人間関係、全て外に問題があり、自分は悪くない。とするのが世間でしょう。夕日の美しさ、本当は自分自身の心の奥底にあるのかなと。
人間は弱いし、嘘も必要です。人間関係においては嘘だらけ、と感じる事もあります。しかし嘘の人間関係はいつか崩壊します。自分自身の利益の為に他人を利用しあい、最期には崩壊してしまう。 本当にしなければならないのは自身と向き合う事でしょう。諦めるな。とか言っているのではありません。諦めきれない自分自身がいる。と僕自身は気がつかなければならないでしょう。縁とは不思議なものだと思います。しかし縁とは何なのか?と考えた場合、自分自身が呼び込んでいるのでしょうか?それとも偶然なのでしょうか?良い縁は必然で、悪い縁は偶然と捉えているとおもいます。しかし良いと妄想しているだけ、悪い縁と妄想しているだけかもしれません。大金を手にしたばかりに破滅する人もいますし。会社が倒産して、新しい自分の才能に気づく人もいますし。
全ては自身の受け取り方、受け取り方の基準は今までの経験と言う物差し、自分自身にしかない物差しで量り、判断をする。他人と意見が合わないのは当然の事かもしれません。結果外に問題を転嫁する。依存してしまい、全てが上手くいかなくなる。そんな感じでしたね。僕自身。破滅までいかないのは過去の人々の縁、今の縁でしょうね。感謝しなければ。自分自身が呼んだ縁と思いたいです。嫌な人間、合わない人間はいます。何故嫌なのか、合わない人間なのか?そういった人間になりたくないからでしょう。ではどのような人間になりたいのか?解りません。それを探すために勉強しなければならないでしょう。まあもうちょい知らない人間、知らない場所に行かなければならないかも。全ては自分自身が作り出している世界。逃げる事は不可能。変える事は出来るかなと。自分自身が変われば、見えてくる世界は変わる。もっと自分自身を磨いて将来を変えよう。とか言っているのではありません。過去の自分自身と向き合わなければ、苦しい嫌な過去と向き合わなければ、いくら自分を磨いても仕方ない。過去の自分自身と向き合う為には、心の構造を知る必要があるのではないかと。というか過去の自分自身を見なければならない、と思ったから唯識に出逢ったのかもしれません。過去の自分自身なんて見たくもないですけどね。正直。笑顔を忘れた過去ですから。しかし過去の自分自身も自分自身が造った世界ですものね。今は言葉の意味より、自分自身と向き合わなければならないと思っています。
今日思ったのですが、意識しなくても歳は重ねていくんだなと。歳を重ねるぞ。と言う人はいませんか。なんか不思議でした。自分自身の姿はあまり観ず、他人ばかり見ているなと。40年間なんとか生きさせて頂いてますが、いつの間に40年経ったのだろうと。」

 河内 勉
 いつの間にか歳を取っていくもんですね。振り返ってみると、自分の思い通りに生きたいとあくせくしていたと思います。
 他人を利用しょうとかということでなしに、自分の思いを通したいところに、他人を利用していたと思います。
 しかし、利用した代償は、自分の身に降りかかってきます。それが今の自分の姿です。因果応報、理に叶っているんですね。振り返ってみるとですね、思い通りになったためしがありません。それほど、思いは通らないということなんですね。
 思いの中味は孤独ということだと思います。自分さえ良ければ、自分さえ裕福であれば、自分さえ幸せであればという思い込みが自分を支配していたと思います。
 人として生まれたのには意味がある。死することにも意味がある。何処に向かって歩いているのか、はっきりさせないと。貴方はまだまた若い。足元を見つめて、方向づけをしないとあきません。世間はそれの縁です。仕事も縁です。縁が尽きれば退職しなければなりません。しかし生きることをやめるわけにはいきません。
 生まれてきた意義は生死のとらわれから開放されることなんでしょう!
 いのちは公のもの。私物化できないものです。私物化しているいのちを公に開放することが、今の自分に課せられた宿題やと思っています。
 ほんまに、好き勝手に生きてきて、ええかっこ言うてもあきませんが、親鸞聖人に出会って、はっきりしたことです。無茶苦茶に生きてきて、ほんまに有り難い人生が与えられていたことに感謝しています。若し出遇っていなかったら、僕の人生は後悔ばかり、人を責めてばかりいたでしょう。「俺の人生無茶苦茶にしたのはあんたのせいや。なんでこんなに苦しい人生を送らなあかんのや」とね。紙一重とはこんなことを言うているのではないでしょうか。 (了)
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 「他地(上地)と及び無漏を縁ずるは、分別所起の名境を縁ずと名づく。影像と本質とは相似せず。滅道は深遠なり。他処は遠き故に。依も縁も増せず。ただかの名を尋ね、かの名のみ増すべし。故に分別所起の名境という。或は、また名とは、即ち心心所の相分の名なり。また能分別によって起されたるが故に。これは瑜伽の五十八・五十九、対法の第六・第七の抄に説けるが如し。別の所以あり。」(『述記』第六末・六十六左)
 後半部分の『述記』の所論になります。
 煩悩が、滅諦と道諦と及び上地を縁ずる場合にあ、影像相分(親所縁)が本質相分(疎所縁―影像相分から見て疎である)と相似しないので、分別より起こる名境を縁ずると名づけるのである、という解釈になります。
 何を意味しているのかと云いますと、滅諦や道諦は無漏なんですね。また他地は定の世界であり、少なくとも欲界ではないということになります。しかし能分別する認識主体である煩悩は有漏であり、自地(欲界)に存在するものである。そうであるならば、影像と本質は相似しないということになります。影像相分の上に、本質相分を重ねて、影像相分が現出したものを縁じているにすぎないわけですから、滅諦や道地や他地といっても、それは名のみを縁じているということになり、後半部分の解釈は、名という境を縁じているという、「分別所起の名境を縁ずと名づく」といわれているわけです。
 ただ、名境は、五法の中の名を指しますので、認識主体である能縁の見分が現出した名を相分とするという解釈が正義となります。
 名前だけを認識して解釈をしているに過ぎないということですから、無漏法という名を対象としているわけですから、有漏にすぎないというわけです。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (108) 第十二 縁事境縁名境分別門 (2)

2015-05-21 19:50:47 | 第三能変 諸門分別 縁事境名境分別門
  『アポロンの雄鳥』№2より
  今宵は、雑感になってしまいました。
 私たちの思考方法の暗さを癡(無明)と押さえられているのですが、具体的には、主観と客観が分離した思考方法なんですね。現象世界は実体的に有であり、そこに関わっている自己も有である。ブラフマン(法)とアートマン(我)は実体的に存在するという実体観から、自己の成り立ちが左右されてくるという、責任の所在が客観現象にゆだねられているわけです。私は悪くない、世の中が悪いんだ。私は悪くない、貴方が悪いんだ。ここには、私が見えないと云う問題が隠されています。無意識の中に真理を覆い隠している作用が働いているからなのです。「貴方の顔色をうかがっての生活は地獄の苦しみだ」ということも言えるわけですね。
 私が見ている世界ですから、私が体、体が見分、世界が対境でる相分になり、相分が見分に働きかけて、私を苦しめると云う構図です。この構図が世間一般の考え方になりますね。この考え方の根底にあるのが、「癡」であると釈尊は教えられたのです。理と事に迷う因は癡であるということですね。我癡ですが、我癡を開いてきますと、具体的な働きは、我愛と我見になります。自分が一番愛おしい、そして、自分の見解が一番正しい。ここからは善の心所で云われる慚・愧は生まれてきません。
 一歩譲ったとしても、「私にも非はあるとは思うけれども」という「ども」がつきます。これは私の対応の非は貴方が作ったんだということなんです。私は悪くないと云う論理です。この論理は非常にきついものがあります。私は悪くないと云うところから、どうして絶対自己否定の慚愧心が生れてくるのでしょう。
 私たちが聞法を通して簡単に慚愧心を頂くといいますが、そう簡単なものではないんでしょうね。
 阿闍世の言葉が響いてきます。
 「耆婆よ、私は今思い病にかかっている。正しく国を治めていた王を非道にも殺害してしまったのである。どのような名医も良薬も呪術も行き届いた看病も、この病を治すことは出来ない。何故なら、私の父は王として正しく国を治めており、全く罪はなかったのに、非道にも殺害してしまったからである。」
 善き人との出遇いが阿闍世の心を開いたのですね。
 阿闍世とは、広くすべての五逆罪を犯すものであり、あらゆる煩悩を具えたもののことであり、無上菩提心をおこさないすべてのもののことであり、仏性を生じないから煩悩の怨が生じ、煩悩の怨が生じるから仏性を知らないもののことであると喩られています。しかしまた、阿闍世とは不生怨とも訳されています。不生とは涅槃のことであり、世とは世間のことがらであり、怨みを生ぜずという、世間とは、自他分別の渦巻く世界ですが、その渦巻く世界の中に在って、如来は「阿闍世の為に涅槃に入らない」と。無住処涅槃は不生といわれ、仏はさまざまな世間のことがらに汚されることがないから、阿闍世の為に、はかりしれない長い間涅槃に入らない、という。月愛三昧ですね。衆生に善の心を起こさせるものであり、衆生が願い求めているものを衆生に先立って指示されているのでしょう。善き友を縁とし、釈尊の教説に後おしされ、如来の声を聞いていく歩みが、無明の闇を開いてくるのでしょう。
 意識は、何かについての意識であり、意識の現象が、主観的側面と、客観的側面をもっている。意識の客観的側面を認識して存在の根拠が証明されている。すべては自の内我の発露である。発露であったという頷きであろうと思います。
 「如来の言葉はどれも同じ真実の味わいであり、ちょうど大海の水のようである。これを第一義諦(絶対的真理)というのえある。だから如来の言葉には何一つ無意味なものがない。老若男女を問わず、如来が今お説きになったさまざまなはかり知れない法を聞きたいものは、みな同じく第一義諦を得るであろう。因もなければ果もなく、生もなければ滅もない。これを大涅槃というのである。このことを聞いたものは煩悩の束縛から離れる。如来はすべての人々のために、常に慈悲の父母となってくださる。よく知るがよい。あらゆる人々はみな如来の子なのである。」
 私たちは、自分というものを中心として、満足を得ようと努力しているわけですが、そのすべてが顚倒なのですね。外からのシグナルによって左右されているものと思っていたのですが、そうではなく内なるシグナルによって執われていたという気づきが、内なる自己とは何という問題になって、自己とはという問いが発起されてくるわけですね。諸法無我からの問いかけであったのです。唯識的にいうなら、体は有為有漏の心王・心所であり、自体分そのものが迷いの体になるわけですね。そして自体分が異熟と目覚めた時、覚りへの方向性が定まるわけでしょう。迷いは単に迷っているのではなく、異熟という無記性を孕んで迷い、苦しんでいると云うことになりましょうね。意味があるんですね。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (107) 第十二 縁事境縁名境分別門 (1)

2015-05-20 23:18:56 | 第三能変 諸門分別 縁事境名境分別門
 
 諸門分別 第十二の大門・縁事境縁名分別門を説く。
 事 ― 体事のこと。五法(相・名・分別・正智・真如)の中の相・名・分別の三つである。相とは現象(相分)、名とは名言、名前のこと。分別は一切の真・心所を指し、相・名・分別で有漏法を指す。事境とは、事としての境という意味で、事境、名境の一つで、名前が指し示す対象(所縁・相分)そのものをいう。名境は対象そのものを指し示す名前としての対象をいう。
 「自地(ジチ)を縁ずるは、相分いい質(ゼツ)に似(ノ)るを以て、分別所起(フンベツショキ)の事境(ジキョウ)を縁ずと名づく。滅道諦及び他地を縁ずるは、相分いい質と相似(ソウニ)せざるが故に、分別所起の名境を縁ずと名づく。」(『論』第六・二十二左
 煩悩が自地を縁ずる場合は、影像相分が本質相分に似るので、分別所起の事境を縁ずると名づくのである。煩悩が滅諦・道諦と及び他地を縁ずる場合は、影像相分が本質相分と相似しないので、分別所起の名境を縁ずると名づけるのである。
 「自地(欲界)を縁ずる煩悩は、依も縁も倶に増すを分別所起の事境を縁ずと名づく。此の境の本質も亦今時の分別に由って起こるが故に。事とは体なり。」(『述記』)
 分別所起は自体分を指します。自体分が相分に似た対象を縁ずる場合のことですね。つまり、有漏である煩悩が、欲界を縁ずる(認識する)場合は、煩悩も、その対象である相分もすべて有漏であり、本質相分に似て現ずる影像相分を煩悩が認識することを「煩悩が事境を縁じる」と名づけると云っているのですね。ここが前半部分です。後半部分は次回にします。