唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (95) 三断分別門 (9)

2015-04-30 21:58:28 | 第三能変 煩悩の心所 三断分別門
   もうすぐ子供の日ですね。日赤のロビーにて

 薩迦耶見と辺執見の二つは、ただ苦諦にのみ迷うことの理由が示されます。別の空・非我は苦諦固有の行相であり、苦諦のみに所属するからであるという。
 「諦を別縁する十六行のうち、空・非我の二はただ苦諦のみに属するが故に、三諦(集諦・滅諦・道諦)にこの二見有りと説かず。・・・十六行は総の行に非ざるが故に、別の空・非我という。属は属著をいう。或は摂属(ショウゾク)をいう。・・・」(『述記』第六末・五十九右)
 「身辺二見は唯果処のみに起こる、別の空と非我とは苦諦のみに属せるが故に。」(『論』第六・二十一左)
 身辺二見とは、薩迦耶見(身見)と辺執見(辺見)の二見ですが、この二見は、ただ果処(有漏の五蘊)のみに対して起こるものである、つまり身体を縁(縁籍ー原因となると云う意味の縁)じて起こす所の見解なんですね。身見は我見ですから、身(無我)を我として執着し、執着した我の上に辺執見を起して迷うのですが、この在り方を苦諦に迷うと述べているわけです。あくまでも、十六行相の上で、この二見は苦諦に迷うと説かれているわけです。総の空・非我で云う場合は、この二見は
集諦・滅諦・道諦にも迷うという所論になります。
 親迷と疎迷について
 親迷とは直接的な迷いであり、間接的な迷いを疎迷といっているわけですが、ここに問いが設けられまして、
 「この十が四諦に迷することは、皆是れ親しく迷すとせんや。亦疎く迷するものもありや。この問いに答え、及び別の行相を顕さんが為の故に、次の論文あり。」(『述記』)
 先ず、親迷について論じられます。簡単に言えば、薩迦耶見と辺執見の二見が苦諦に迷うのは、有漏の五蘊を直接的に縁じ、有漏の五蘊が実体的な我であると錯誤し、執着を起こして迷う直接的な迷いであるので、これを苦諦に親しく迷う、親迷と呼んでいるわけです。後の三の上に更に二見を起こすのは間接的な迷いになりますから疎迷と呼んでいます。本科段は更に詳しく説きます。
 「謂く、疑と三のとは親しく苦の理に迷う。」(『論』第六・二十二右)
 本科段より、「行相の別」の迷いについて説明されます。
                          
                                         親迷 ― 疑・薩迦耶見・辺執見・邪見
          苦諦に迷う十煩悩について説明されます。  {
   麤相門 {                               疎迷 ― 見取見・戒禁取見・貪・瞋・慢
          集諦・滅諦・道諦の三諦に迷う八煩悩について説明されます。

 
  苦諦に迷う十煩悩について説明されるわけですが、前科段でも述べられていましたように、薩迦耶見と辺執見は苦諦にのみ迷う煩悩であることが明らかにされていますが、残る八煩悩の所在を明らかにする必要がありますし、また八煩悩が三諦に迷うありかたも説明を要します。
 十の煩悩が苦諦の理に迷うことについて、親迷と疎迷と相応無明をもって説明されています。
 本科段は初の疑・薩迦耶見・辺執見・邪見についての所論です。
 つまり、疑・薩迦耶見・辺執見・邪見は、親しく苦諦の理に迷うのである。親しく迷う、直接的な迷いの在り方を親迷という。
 疑 ― 苦諦の有無を疑う迷い。
 薩迦耶見(身見・我見) ― 非我(無我)に迷って我と執着を起こす。
 辺執見 ― 身見で起こした我を常見、断見と執着して無常に迷う。
 邪見 ― 因果撥無の見ですから、邪見によって苦諦を撥無するわけです。
 これら四つの見は苦諦の理に直接的に迷う見ですので、親迷と云われます。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (94) 三断分別門 (8)

2015-04-30 00:32:58 | 第三能変 煩悩の心所 三断分別門
出掛ける前にブログ更新 

 分別起の根本煩悩の十(見所断の煩悩)、つまり、貪・瞋・癡・慢・疑・悪見(薩迦耶見・辺執見・邪見・見取見・戒禁取見)が、四諦(苦諦・集諦・滅諦・道諦)に迷うあり方について、総迷と別迷が有ることが明らかにされ、さらに、総迷に数の迷いと、行相の迷いがあり、別迷にも数の別と行相の別があることが明らかになりました。
 個別に説明される段において、総迷とは十の煩悩がともに皆、四諦に迷うこ、これが総迷ということであり、、苦諦と集諦という苦の原因(因と依処)と、滅諦と道諦という苦を滅する八正道は、分別起の十の煩悩を怖畏するものだからであると説かれて、分別起の十の煩悩は、苦諦と集諦の二つの諦に迷い、滅諦と道諦の二つの諦に迷うことが説かれいます。これは行相の総として説明されています。
 別迷についても、数の別と、行相の別が説かれています。数は四諦を表していますが、別は個別という意味であり、四諦の一つ一つの相に迷って煩悩が生起することを言っています。これは、四諦の一つ一つに固有の行相が有ることが示されています。それが四諦の四行相、つまり、四諦の十六行相なのですが、苦諦で明らかにされた、苦・空・無常・非我の四行相の中で、空・非我に総の空・非我と別の空・非我という区別があることが明らかにされています。総の空・非我は四諦に通じて、諸法無我・一切皆空として共通していますが、別の空・非我は苦諦固有のもので、「別とは、謂く、別に四諦の相に迷うて起こるなり、二(薩迦耶見・辺執見)は唯苦のみに迷い、八は通じて四に迷う」という一段が別の空・非我を表しています。
 数の別 ― 四諦の一つ一つの行に迷って煩悩が生起こすること。四諦固有の四行相を了解することなく、煩悩を起こすことであり、詳細すれば、薩迦耶見と辺執見は苦諦にのみ迷い(苦諦には十煩悩が倶起する。)、残る八煩悩は四諦すべてに迷うということになります。つまり、四諦に迷う煩悩の数が違うと云うことから、数の別、四諦四行相の諦固有の行相の相違により、苦諦には十煩悩が迷い、集諦・滅諦・道諦には八煩悩が迷うという、迷う煩悩の数が相違することから、別迷を数の別と云っています。
 また別迷の三諦に別の行相があるのは、癡は不共無明であり、不共無明の三諦に迷い、八つの煩悩が相応することが別迷であることが示されています。相応無明で説かれている場合は、四諦に迷うのは十煩悩になるからである、と明らかにしているのです。
 ここまでを簡単に整理してみました。 

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (93) 三断分別門 (7)

2015-04-28 20:27:57 | 第三能変 煩悩の心所 三断分別門
    

 四諦八正道について(東本願寺 『大乗の仏道』 より抜粋引用)
 「以上のごとく、釈尊の正覚の根本は縁起の理法であったが、その理法の意味するところを内観し覚知(自内証智)していくために説いた具体的な教えが四諦八正道として示されている。四諦とは苦・集・滅・道という師つの真理(諦)である。
 まず苦諦とは、人間の現存在が縁起であり、関係性においてのみおありうるにもかかわあず、そこに常・楽・我・浄の四顚倒(無常を常として執着することなど)を起こして、愛憎違順し苦悩している現実、すなわち、人間の現存在が苦として諦(まこと)であるということである。ちなみに、仏教において苦といわれるものは、四苦八苦で代表される、生・老・病・死の四苦と、それに愛別離苦(愛しいものとかれる苦)・怨憎会苦(憎いものにも会う苦)・求不得苦(求めて得られない苦)・五陰(五蘊)盛苦(心身にそなわっている苦)を加えた八苦である。また苦苦(それ自体が苦である飢えや病気など)、壊苦(楽が壊れて苦となること)、行苦(諸行無常であること)の三苦という分類もよく知られている。
 集諦とは、誤った執着によって苦が引き起こされてくるあり方、すなわち、執着によって苦が集起していることが諦であるということである。この集諦、すなわち、苦の原因といわれる誤った執着とは、まさしく先の演技摂の上であきらかにされたように、無明であり、渇愛である。これらは不可分の関係であり、輪廻流転の根本原因である。
 滅諦とは、縁起の理法によって人間の現存在が見直され、ありのままに知られるとき、誤った執着は止滅し、そこに苦悩の止めつが実現するということ、すなわち、苦悩の止滅したことで諦であるということである。したがって、滅諦とは解脱・涅槃のことである。
 道諦とは、その執着の止滅を証得するには、八正道を実践すべきであるということ、すなわち、歩むべき仏道が諦であるということである。
 その八正道は中道ともいわれる。中道とは、苦行主義と現世(快楽)主義との両極端(二辺)を離れることであり、それが解脱・涅槃への道であるとされている。この中道としての八正道とは、正見。正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。
 (1) 正見   正しい見解。正しい見方。縁起や四諦に関する正しい智慧。
 (2) 正思惟  正しい思惟。正しい思考。
 (3) 正語   正しいことば。悪口やうそなどをいわないこと。
 (4) 正業   正しい身体的な行為。殺生や盗みなどをしないこと。
 (5) 正命   規則正しい生活
 (6) 正精進  正しい努力。既得の善を増大させ、未得の善を得ること。既得の悪を減じ、未得の悪を起こさないこと。
 (7) 正念   正しい思いをつねに心にとどめて忘れないこと。
 (8) 正定   正しい禅定(禅定はインド一般の修行方法であって、心を静めて精神を集中することである。その時の認識はすぐれたものとされている)
 このように四諦八正道はまさしく実践の体系であるが、先ず第一に、解決されなければならない課題としての苦を如実に知り、そして第二に、その苦の原因が無明・渇愛であることを知り、これら二諦によって輪廻流転n迷いの生存の全体を正しく理解することである。その上で、第三に、その課題の目標としての苦の滅が輪廻流転からの解脱・涅槃であるkとを知り、第四には、その苦の滅にいたる道、つまり解脱・涅槃 に到達すべき道であう八正道を実践しなければならないのである。」(傍線は筆者)
 
 そこで、昨日の四諦の十六行相なのですが、一つ一つの諦固有の行相(四行相がある)をいっています。苦諦には苦諦固有の四つの行相があり、乃至道諦には道諦の四つの行相があるということです。昨日はそれを示しました。再録しますと、
  苦諦 ― 無常・苦・空・非我の四行相。
  集諦 ― 因・集・生・縁の四行相
  滅諦 ― 滅・静・妙・離の四行相
  道諦 ― 道・如・行・出の四行相
 ということになります。
 この中、苦諦を除く三諦のそれぞれの四行相は、他の諦とは共通しない固有の行相であるとされる。苦諦を除くというのは、苦諦の中の空・非我の総・別の理由が示されているからです。総じていうなら、大乗仏教の大前提は、空・無我ですから四諦に通じて云えることなのです。現存在(見分)は無我であり、その対象(相分)は空であるのです。しかし、空・非我はただ苦諦にのみに属するといわれていることは、十六行は総の行ではなく、別の空・非我に属(属著・摂属)するのであると云います。

 後半の部分は後日に譲ります。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (92) 三断分別門 (6)

2015-04-27 21:43:44 | 第三能変 煩悩の心所 三断分別門
 馬倉地蔵尊。右後方の細い道が中高野街道で、環濠に架かる馬場先橋を渡り、馬場先・馬場口を抜けて瓜破につづく 
 妄想を膨らまして、法然浄土教を「花も実もある浄土教」と曽我先生は教えてくださいました。その背景には平安時代の来迎思想が有ったように思われますが、平安時代の浄土教、全般的には仏教は貴族の専有物であったようですので、その中から凡夫の仏教が生れることは無いように思うのです。しかし、そのような風潮の中に、弘法大師空海の真言密教はひたすら庶民という凡夫の救済を目指した教えであったように思えてなりません。高野山が開創され、高野につづく道が、畿内の人々の生活の場であったようです。高野聖・念仏聖が行きかい、遊行僧が念仏を唱え門付けをする中から必然として生まれてきたのが浄土宗としての法然浄土教であったのではないのかと思うのです。今もなお、街角に佇む地蔵堂は信仰の原点を示しているように思われます

 今日からは、第二、別迷についての講究です。
 別迷については、数の別と、行相の別があることは簡単に説明しました。本科段は詳しく説明されます。初めは、数の別について、薩迦耶見と辺執見の二煩悩はただ苦諦のみに迷い、他の八煩悩は四諦に迷うことを説明します。後半には「薩迦耶見と辺執見の二煩悩はただ苦諦のみに迷う」ことの理由を説明します。今は、初についてです。
 「別と云うは、謂く別に四諦の相に迷うて起こるなり、二つは唯だ苦のみに迷して、八つは通じて四に迷う。身辺二見は唯だ果処のみに起こる。別して空と非我とは苦諦のみに属せるが故に。」(『論』第六・二十一左)
  数の別とは、つまり別に四諦の相に迷って煩悩が起こることである。二つ(薩迦耶見と辺執見の二煩悩)は、ただ苦諦のみに迷い、あとの八つは四諦ともに迷うのである。身見(薩迦耶見)と辺見(辺執見)の二見は、ただ果処(五取蘊)のみに対して起こるのである。何故ならば、別の空と非我とは苦諦にのみ属するからである。
 数の総 ― 苦諦に十煩悩が迷い、乃至道諦に十煩悩が迷うという、四諦の一つずつに十煩悩が迷うこと。
 数の別 ― 諦によって迷う煩悩の数が異なる。
 数の別は、十六行相を以て説明されます。四諦それぞれがもつ四つのありよう。
 苦諦 ― 無常・苦・空・非我の四行相。
 集諦 ― 因・集・生・縁の四行相
 滅諦 ― 滅・静・妙・離の四行相
 道諦 ― 道・如・行・出の四行相
 四諦の四行相については後ほど述べますが、『述記』によりますと、「集・滅・道の三諦に別の行相あり。不共無明(癡)の三諦に迷するものあり。故に八を成ずることを得。」身見と辺見の二見は苦諦にのみ迷い、残る八煩悩は四諦すべてに迷うということになると説明され、苦諦には十煩悩すべてが、迷い、後の三諦には身見と辺見を除いた八煩悩が迷ういうことになります。迷う煩悩の数に相違があるので、別迷を数の別というのである。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (91) 三断分別門 (5)

2015-04-25 22:13:29 | 第三能変 煩悩の心所 三断分別門
 喜連環濠集落を巡って   道標と案内板

 別迷について
 総迷の場合は、すべて揃って迷うというありかたでしたが、別迷は別別である迷い方ということになります。ここも、数の別と、行相の別があることが明らかにされますが、後に詳細されます。一時保留にします。
 「総と云うは、謂く十種ながら皆四諦に迷するを以て(数の総)」(『論』第六・二十一左)
   数の総とは、つまり十種の煩悩が倶に皆四諦に迷うことである。
 「苦と集とは是れ彼が因と依処となるが故に、滅と道とは是れ彼が怖畏(フイ)する処なるが故に(行相の総)。」(『論』第六・二十一左)
   十種の煩悩がすべて倶に四諦に迷うということは、苦諦と集諦とは分別起の十煩悩の因と依処となるからである。同じように、滅諦と道諦とは、分別起の十煩悩の怖れることであるから。二つに分けられて説明されます。科段が二つに区切られますね。
 (1)「苦と集とは是れ彼(分別起の十煩悩)が因と依処となるが故に」
 (2)「滅と道とは是れ彼(分別起の十煩悩)が怖畏(フイ)する処なるが故に
 (1)については、因とも依処ともなるという、煩悩が生起するのは、苦諦と集諦が因ともなり、依処ともなるという意味ですね。因が集諦になり、依処が苦諦になります。因は、十煩悩を増長させ、依処とは性がよく随順してこの十煩悩を生ずることを意味します。『対法論』の第七及び『瑜伽論』第八に説かれている所論と同じです。
種子のところで、種子は有漏の種子である。無始以来有漏の種子を熏習し縁を伴って現行してくるわけですが、その現行は有漏であって、この有漏の身が五取蘊であるということを云っています。そうしますと、有漏の五取蘊が(十)煩悩を
引き起こしてくる因となり、因がまた依処となるいう意味であろうと思います。この十煩悩が苦諦と集諦に迷ういうことなんですね。
 (2)については、滅諦と道諦は、分別起の十煩悩を怖畏(フイ=怖れ)するものと説明されます。理由は『述記』に述べられています。
 「滅・道はこれ彼が怖畏する処所とは、性は随順して十種を増長せず。ただ迷し撥し猶予する等の事を起こし、この二諦(滅・道)を縁じて十惑を起こすが故に。又外道はこの二諦をにおいて種々の分別を起こすが故に。みな滅道に迷すと云う。その煩悩の起ることは、みなこの二縁を具するなり。」(『述記』第六末・五十七右)
 つまり私たちは、有漏の五蘊を因として、有漏の五蘊を依処として迷いを起こしている。それはとりもなおさず、四諦の理に迷っていることに他ならないが、四諦の理の中で、滅諦・道鯛は迷いを怖畏するところであって、迷いの因や、依処となるものでなない。因と依処になるものは、苦諦に迷うのが依処であり、集諦に迷うのが因となるということなのですね。ここに、四諦の理に迷うという内容が明らかにされるのです。
 結論として、「行相の迷に総と別とあるが故に。(問)総とは謂く十種みな四諦に迷すとは(答)これ数の総なり。(問)因と依処等というは、(答)行相の総なり。(『述記』)
 次科段を起こしてくる前に『述記』は問答を置いています。明日考えます。
 
   

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (90) 三断分別門 (4)

2015-04-25 08:07:59 | 第三能変 煩悩の心所 三断分別門
      中高野街道喜連環濠集落地蔵尊 (京街道から放出剣街道を経て、平野郷・喜連郷へ、喜連地区は東西南北に濠がめぐらされ六体の地蔵尊がお祀りされています。) 

  別解 (四諦に迷う分別起を説明する) 総迷と別迷にわけて説明される。
 「第二に諦に迷う総・別なり。然るに見道の諦に迷う煩悩に於て総有り、別有り。」(『述記』)
 「然も諦相に迷うに総有り別有り。」(『論』第六・二十一左)
 しかも、分別起の十の煩悩が諦相に迷う迷い方に総迷という迷い方と、別迷という迷い方がある。
 「総と云うは謂く十種ながら皆四諦に迷するを以て、」(『論』第六・二十一左)
  総とは、つまり十種の煩悩が、十種ながら皆な(十種倶に)四諦に迷うことである。
 「即ち一々の煩悩がみな起こる時、四諦の理に迷するなり。又諸の煩悩には別の行相有り。」(『述記』)
 『述記』によりますと、総迷には、数の別と、行相の別があることが指摘されています。「今此の論の総に二種あり。一に数の総なり。・・・・・二に行相の別なり。」
 『論』には総・別ありとしか述べられていませんが、『述記』には総にも二種あることが明らかにされています。つまり分別起(見所断の煩悩)の十煩悩が四諦に迷う有り方に二種(数の総と、行相の総)あることを明らかにしたのです。総の概説は、一々の煩悩がすべて起こる時に四諦の理に迷うことが総迷なのです。その中で、すべて起こる時ですから、四諦の一々に十煩悩がすべて迷うのが数の総であり、諦ごとに各々十煩悩を具すことをいいます。次に行相の総とは細にわたって説明されていますが、十煩悩すべてに四諦に迷う功能があることであり、これは、一の諦下の別の行相であることをいい、四諦の中の複数の諦に十煩悩が等しく迷う行相をもっていることを、行相の総といっています。行相とは見分のことで、十煩悩が複数の諦に迷う働きをもっていることなのです。
 「二に行相の総なり。通じて四諦に迷するものあるが故に。此れに由ってニニに迷するに六有り。三々に迷するに四有り。総迷に一有り。」(『述記』)
 「ニニに迷するに六有り」とは、四諦の中の諦二つの諦の組み合わせに六通りあるということです。
  (1)苦諦・集諦 (2)集諦・滅諦 (3)滅諦・道諦 (4)道諦・苦諦 (5)苦諦・滅諦 (6)集諦・道諦 の六ケースがあるということになります。二つの諦に迷う有り方に六つのケースがあることですね。
 「三々に迷するに四有り」とは、四諦の中の三つの諦の組み合わせに四通りあるということです。
  (1)苦諦・集諦・滅諦 (2)集諦・滅諦・道諦 (3)滅諦・道諦・苦諦 (4)道諦・苦諦・集諦の四つのケースがあるということです。
 「総迷に一有り」とは、苦諦・集諦・滅諦・道諦の四つに対して総じて迷う有り方で、一つのケースしか無いのです。
 十煩悩が四諦に迷う有り方には、十一通りあるということになります。細部(三界)にわたるケースを考えますと、二二の場合は、欲界では6×十で60。色界・無色界では瞋は存在しませんから、6×9で54×2で108になり、二二に迷う有り方は、三界においては168通りあるということになります。三々に迷う場合ですが、4×10で40.4×9かける2で72+40で112通りあることになります。「総に迷う」が一ケースですので、欲界に十通り、色界・無色界に9通りかける2で18通り、18+10で28通りあるということになります。
 此れは何を表しているのかといいますと、因と依処の関係を指しているのですが、次科段で詳しく説明されることになります。「何を以て十種ながら、皆よく四諦に迷するや。苦集はこれ十の因と依処となるが故に。一にこれ因なり。二にこれ依処なり。・・・」(『述記』)
 う~んややこしいですね、頭が混乱をきたし、こんがらがってしまいますが、これほど根本煩悩の十が複雑に絡まり合って迷いを生起させているんですね。四諦の理に迷う在り方とはこのようなことだと教えられます。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (89) 三断分別門 (3)

2015-04-23 21:22:11 | 第三能変 煩悩の心所 三断分別門
 「春日野の藤は散りにて 何をかも御狩(みかり)の人の折りて挿頭(かざ)さむ」
  万葉集巻10-1974。


別して「断」を解す。
 ① 分別起の(煩悩の)断について説明する。
 ② 倶生起の(煩悩の)断について説明する。
 「下は別して断を解す。中に於て二有り。初に分別後に倶生なり。分別の中に初は総、後に別なり。此は初なり。此の中の十種皆倶に頓に断ず。真見道は総じて諦を縁ずるを以ての故に。・・・」(『述記』第六末・五十六左)
 「見所断の十をば、実に頓に断ず、真見道は総じて諦を縁ずるを以ての故に。」(『論』第六・二十一左)
  真見道 ― 見道において、正しく無分別智で以て真理を見る位をいう。
 見所断の十の煩悩は、実に頓(にわかに・突然に・急に・直ちに・瞬時に)に断じる。何故ならば、真見道では総じて四諦を縁じるからである。
 見道所断の枠は見惑といわれる分別起の煩悩ですが、この煩悩は見道で瞬時に断じられると云われているのです。何故ならば、真見道は総じて四諦の真如を縁ずるを以て、・・・」四諦の理を総じて縁ずるからである、と。四諦おり(真如)を縁ずることに於て、十の煩悩のすべてが一挙に断じられるということを説いているのです。
 文章そのものは堅いですが、言わんとすることは、私たちが迷っているのは、何に迷っているのか、そこがはっきりしないわけです。はっきりすれば方法もあるのでしょうが、暗中模索の状態では、深海に光を求めているようなことです。どこまでいっても見つけられません。大乗仏教は、はっきりと迷いは、四諦に迷っているんだと。分別起の煩悩は、すべてです。十の煩悩はすべて分別起なんですね、そうしますと、十の煩悩はすべて四諦に迷って起こってきている、ということになりますね。四諦の理が分からないことから起こってくる煩悩が分別起の煩悩なんです。
 真宗で考えて見ますと、真如は法ですから、本願念仏の法に迷っていることなのです。本願念仏の法が分からない所から迷いが生じていることなのですね。教えに迷っているのではなく、法に迷っているんです。法に迷っていることを聞いていく。教法といわれる所以です。本願念仏の法を聞いていくのが教えになりますね。
 生存の根拠が法なんです。私をして私を成り立たしめているものが法ですね。そこがはっきりしていないものですから、迷うのです。むやみやたらに迷っているのではないのですね。ちゃんとした理由があって迷っているんですね。本科段の裏をかえして伺ってみますとこういうことになろうかと思います。唯識は大上段から説いています。次科段からは細に入り説明してきます。
 余談ですが、初能変で、四分義を学びました。迷いの構造がはっきりすれば、阿頼耶識の自証分と証自性分の所量であり、能量であり、量果であるところの領域からのメッセージが第六意識の上に届いていることになります。このメッセージを受け取って、第三能変の諸門分別が展開しているわけです。
 もう一つ深いところからですと、阿頼耶識からのメッセージを受け取っているのか、どうかです。他人事ではないのですね。阿頼耶識ですから、自の内にあるものです。阿頼耶識と第六意識との対話が必要なんですね。阿頼耶識が阿頼耶識に留まることなく展開して働いているのが、とりもなおさず私のいのちなんです。いのちが識体、阿頼耶識でしょう。いのちが身と環境を現出し、身と環境を認識しているのが阿頼耶識の直接の働きなんです。深いこころの領域では、意識では捉えることのできない様々な動きがあって私を支えているんですね。こういうところを聞いていかなければならないでしょうね。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (88) 三断分別門 (2)

2015-04-21 22:06:21 | 第三能変 煩悩の心所 三断分別門
福島区のだふじ祭り!さんの投稿よりシエアしました。海西ひばり保育園分園、満開  

 今日は、「倶生は唯だ修断なり」を学びます。十煩悩を分けますと、五鈍使と五利使という分け方もあることを先に学びました。今、諸門分別という、いろんな角度からこの十の根本煩悩を分析をしています。少し前に戻りますと『論』の記述ですが、
 「是の如き総と別との十の煩悩に中に、六(貪・瞋・癡・慢・薩迦耶見・辺執見)は倶生と及び分別起とに通ず。任運にも思察(シサツ)するにも倶に生ずることを得るが故に。疑と後の三見(邪見・見取見・戒禁取見)とは唯分別起のみなり。要ず悪友(アクウ)と或は邪教の力と自ら審かに思察するとに由って方(マサ)に生ずることを得るが故に。」
 この一段に結論が出されています。倶生は「身與倶」(ミトクナリ)、身をいただくと同時にということですが、これはお母さんの胎内にいのちが宿った時に、倶生起の煩悩も倶(トモ)にということなのです。この倶生起の煩悩は、細にして審らかにして深いんですね。ですから修断と云われています。倶生起の煩悩は姿をなかなか現さないのです。それに対して、分別起の煩悩はいつも顔をだしている。非常にわかりやすいものですから見断と云われているんでしょうね。倶生起の煩悩は衆縁を待つんです。種子の六義で学びました。待衆縁です。種子生現行が現行するには縁を伴って現れてくる。同じ縁を待って現れてくる分別起の煩悩とはその荒々しさが違うんです。水面下の波、表面に現れている波との違い、或は、打ち寄せる波と、後続の波との違いでしょうか。分別起の煩悩は背後には、必ず倶生起の煩悩が動いているということになります。倶生起は任運である。分別起は、要ず悪友と或は邪教の力と自ら審かに思察するとに由って方に生ずる。倶生起の煩悩が動いているといいましたが、具体的に何が動いているのかと云いますと、「諸煩悩生必由癡故」(諸々の煩悩の生ずるは必ず癡に由るが故に)。「癡」)(無明)が動いている。いついかなる時にも、煩悩が起こる時には癡と倶である。無明です。無明は無があきらかでない、ということですから、二空(我空・法空)が見えないことが闇と表現されているのです。「無明の闇」です。この無明の闇を破ってくる働きが「法」ですね。本願念仏の法です。ですから、本願念仏の法は、無明の闇の真っただ中に働いているのですね、この道理を聞くのが聞法です。法を聞くわけです。それが教えとして開かれてきたのが「宗」ですね。
 思察はの思は思惟、察は観察(カンザツ)、思惟し観察することになります。倶生起の煩悩は任運にも、思察する時にも倶に生ずるからである、と。総・別についてはこの先の四諦に迷うの談で説明されます。
 整理をしますと、十の煩悩の中で、
 疑と邪見・見取見・戒禁取見は分別起のものしかありませんから見道所断である。
 貪・瞋・癡・慢・薩迦耶見・辺執見は分別起と倶生起に通じているために、見道では断じることは出来ず、修道所断であるということになります。

日曜雑感 「あなたは念仏しているのですか」

2015-04-19 10:22:31 | 雑感
  安城の御影イラスト  

  「貴方は念仏しているのですか」
 日常の生活を振り返ってみますと、家庭のことから政治のこと、世界情勢まで幅広く、なんとなく考えています。もう評論家以上のコメントも飛び出してきます。そして一番の関心事は自分の考えが一番だということです。自分の考えているようになったらすべてがうまくいくと思っているわけです。平和の問題を考えてみましても平和を望まない人はいません。みんな平和を望んでいますでしょう。極論になるかもしれませんがイスラム国も平和を望んでいるのではないでしょうか。
 身近かな家庭の事にしましても、夫婦円満に親子関係も適度の緊張をもって仲良くしたいと思っていませんか。善(よし)と思われる事は進んで行い、悪(あしき)と思われる行為はしないと思っているのではないですか。命の大切さ、生かされている命の尊さも知っているわけです。にもかかわらず命の軽視は日常茶飯事に起こっていますでしょう。平和の問題にしても国家間の都合によって左右されます。戦争のない世界を構築することが人類の永遠の課題でしょうし、身近な家庭のことも円満にということが永遠の課題ではないでしょうか。永遠の課題だという問題提起は有史以来の課題だからです。では皆んなが望んでいることが「何故」実現できないのでしょう。
 意識のレベルでは幸せを望まない人は一人もいらっしゃらない。ここに意識の罠が潜んでいると思うんですね。何故望んでいることが実現できないのか考えてみてください。
意識の罠という問題は、意識の上で善をなし、悪を排除するということが如何にあやふやなものであるのかということなのです。「すえとうらない」という問題を抱えているわけですね。イデオロギーの違いによって、同じ平和を考えても武力衝突することもあるわけです。平和という言葉に隠された差別が潜んでいることを見逃しては成らないと思うのです。そこに核が平和への抑止力をもつという誤った考え方が横行するわけでしょう。平和を願いつつ平和への実現に向かっての歩みが始まらない背景には仏教で言う法執があるわけです。根本我執といわれますが、自分が一番というところに問題の根っ子があるように思われます。意識の上ではみんな仲良くといっている直後に喧嘩を始めていますからね。自分のことになると前が見えなくなるのですね。平和・平和といって排除し、差別を生んでくる背景にはセクト優位の論理が働きます。
 個人的に考えますと、親切心というところに潜んでいます。ずいぶん前になりますが、叔父が亡くなり、病弱であった奥さんの介護に家内が一生懸命に尽くしていました。はじめは非常にありがたく思われていたようですが、時間が立つにつれ介護が当たり前になってきたり、家内のほうもだんだん最初の意気込みから疲れが見えはじめて愚痴が出始めてきたのです。親切心にもこんな問題が隠されているのです。介護するのが当たり前。この当たり前が怖いですね。介護する方も、何故私ばかりがという愚痴ですね
 差別と平等も同様な問題を抱えます。「差別をしてはいけません」といいつつ自他の差別はなくなりません。平等といいつつ無条件平等というわけにはいかないようです。無条件ではないということは、排除をする、差別を図るという構図が潜んでいます。意識と紙一重に意識に反する罠が潜んでいるのです。
 親鸞聖人が「御同朋・御同行」と示してくださいました無条件平等はどこから生み出されてきたのでしょうか。私たちは謙虚に親鸞聖人のお言葉に耳を傾けるべきではないでしょうか。「同一に念仏して別の道なきが故に。遠く通ずるに、それ四海の内みな兄弟とするなり。眷族無量なり。」(真聖p282)そして私の心根は「わがみをたのみ、わがこころをたのむ、わがちからをはげみ、わがさまざまの善根をたのむ」以外なにものもないのです。
差別と平等・平和と戦争など意識の上では差別を悪・平等を善とし、平和を善・戦争を悪として理性的に判断を下していくことができますが、いったん自分の身の上の話になりますと、この善悪の判断が曖昧になってきます。それほど意識することは自分で判断を下してくることに無力なのです。私の意識は私の思うようにはコントロールできないのです。何故なのでしょうか。自分の損得に関わらないところでは平等論、平和論を戦わすことについてやぶさかではありません。このやぶさかではないというところにも自己にこだわる心が働いているのです。自己にこだわる心は自分のことであるにも拘わらず、自分には全く関知できない心の領域なのです。
 「恒審思量」といわれ、恒に審らかに我を思い量る心なのです。意識の意は思量、思い量るということなのです。そして思量は自分のことだけを間断なく考え続けるのです。私たちがよく「自己中」と言いますが、そんな生半可な自己中心的なものではないのです。この生半可なというところで誤魔化されるのです。自分の都合のよいところで誤魔化してきますから自分で自分が騙されてしまって、自己にこだわる心の正体を見破ることができなくなっているのです。私には見破ることができない心の領域が私の中で深く渦巻いているのです。しかしこの心の領域を知るということが本当の平等性を生み出す原点になるのです。
 平和の問題も、核廃絶の問題も、CO2削減の問題も原発の問題も、広く環境問題ですね。この心を知ることなくして論じ得るものではないのです。我執といいますと、自己中心で、利己的で暗いイメージしか抱くことはできませんが、そうではないのですね。平等の大地に立つ大きなステップになる心の領域なのですね。そのように思いますと限りなく素晴らしい心の領域にもなるのではないでしょうか。自己にこだわる心の自覚は、共存・共命の心へと転換していく明鏡になると思います。
 親鸞聖人は自己のこだわる心の自覚には徹底したものがあります。
   「悪性さらにやめがたし/こころは蛇蠍のごとくなり/修善も雑毒なるゆえに/虚仮の行とぞなづけたる」
 といわれ、善を修することにも自分の利己性が混じり、損得勘定が入り混じっているから、善の行とは言えないのだ、と述懐されているのです。そして次の和讃が大事ですね。
 「無慚無愧のこの身にて/まことのこころはなけれども/弥陀の回向の御名なれば/功徳は十方にみちたまう」と。
 「弥陀の回向の御名なれば」というところにおおきな転回がみうけられます。これは「法」に依るということでしょう。法に依るあるがままの人生が開かれるということなのですね。我が計らいではないのです。「わがはからいにて行ずるにあらざれば、非行という。わがはからいにてつくる善にもあらざれば、非善という。」ことであり、「念仏には無義をもって義とす」といわれる所以なのです。計らいのないことを計らいとするのです。これがあるがままの人生ということになりましょうか。ですから自信をもって「さるべき業縁のもよおせばいかなるふるまいもすべし」と言えるのではないでしょうか。すべてを引き受けることのできる人生がここに開かれることになるのです。
私たちが普通、平和・平等を考えるときは相対的平和・相対的平等なのです。対比する考え方で、絶対的とはいえないのではないかと思うのです。それは自分にとっての平和であり、自分にとっての平等であるということになるのではないかと思います。自分にとってと云うことで、他を切り捨てるという行為が為されるのではないでしょうか。私はここに差別の構造が隠されているのだと思うのです。差別は差別をされる側に問題が有るのではなく、差別する側に問題が有るのではないですか。要するに私の中に差別を生んでくる質が隠されているということなのではないでしょうか。その質を白日の下にさらさなければ親鸞聖人が開かれた御同朋・御同行の地平に立つことができないのではないかと思うのです。蓮如上人は御文において「故聖人のおおせには、「親鸞は弟子一人ももたず」とこそ、おおせられ候いつれ。「そのゆえは、如来の教法を、十方衆生にとききかしむるときは、ただ如来の御代官をもうしつるばかりなり。さらに親鸞めずらしき法をもひろめず、如来の教法をわれも信じ、ひとにもおしえきかしむるばかりなり。そのほかは、なにをおしえて弟子といわんぞ」とおおせられつるなり。されば、とも同行なるべきものなり。これによりて、聖人は御同朋・御同行とこそかしずきておおせられけり」(『御文』第一帖 真聖p760)と教えてくださいました。「かしずきておおせられけり」というところに命有るものの尊厳を見つめておられたのではないでしょうか。私は本当に命の地平に立って命の尊厳を見つめているのか、私の中に差別を生んでくる質はないのか、問われて見れば、私の中に命の地平を見つめる眼差しはないという他なく、常に差別を生み出してくる自尊損他の姿をしか見出せないでいるのです。広大無辺の世界にいながら世界を狭小し、閉鎖された自分の世界を住処としているのです。浄土は「三界の道に勝過せり。究竟して虚空のごとく、広大にして辺際為し』(『浄土論』)といわれていますが、三界は迷いの世界ですね、迷いの転じた世界が浄土ですから、遠くにある実体的な世界ではないということは明らかです。自分の中に問われた問題から閉鎖された世界からは差別しか出てきません。そして開かれた世界から御同朋・御同行の平等の大地がしっかりと根付いているのではないでしょうか。そして「行捨」なのですが「心を平等に正直に無功用(むくゆう)に住せしむるをもって性となす」といわれているのです。無功用は意図的な心の働きがない状態ですから、行捨は心があるがままに、意図的に働かないということなのです。大田久紀師は「極めて平凡な日常生活の中に真理がある。そこに人生の極致がある。毎日毎日をいい日であったといって過ごせるような生き方、それを唯識では平等・正直・無功用というのです」と述べられています。(『成唯識論要講』巻二p346)
仏教は何を私たちに伝えているのでしょうか。「観経」第七華座観に「仏、当に汝がために、苦悩を除く法を分別し解脱したまうべし。」と。このお心を「安心決定鈔」に「如来浄華衆 正覚花化生」を釈して「法蔵菩薩の・・・心蓮華を、正覚華とはいうなり。これを「第七の観には、除苦悩法ととき、・・・凡夫の煩悩の泥濁にそまざるさとりなるゆえなり。・・・」(真聖P952)また、「斎しく苦悩の群萌を救済し」(総序)といわれています。善導大師は「但以れば娑婆は苦界なり。雑悪同じく居して、八苦相焼く。」(『観経疏』真聖全P514)といわれています。
 何故、娑婆は苦界といわれているのでしょう。善導大師に先立って曇鸞和尚は『浄土論註』に於いて述べておいでになります。
 「蚕繭(蚕と繭の譬)の自縛するが如し」(真聖全P285)自分で自分を縛ってやがて死に至るということですね。曇鸞和尚の機の深信といわれています。苦界を造作しているのは自分であったということですね。そのことを知らしめるのが法の働きなのでしょう。法が働いているからこそ、苦悩することが出来るんだと思います。苦悩を知ることに於いて転悪成徳する縁をいただくのです。それが智慧ですね。
 仏法は苦悩を除く法と明確に答えられています。苦悩は何故起こるのか、それは反逆ですね。道理に反逆している見返りに苦悩がもたらされているのであると。道理に背いているわけですから。唯識論ですと、末那識の問題ですね。
 問、「それから未那識は恒審思量というけれど無我を思うということになれば、末那識はあっても我執の働きがなくなるんじゃないですか?その時は阿頼耶識が純粋な我となるから末那識は一瞬働かないんじゃないですか?
 答、末那識が無我を思量するとどうなるのでしょうね。前七識は阿頼耶識を所依として、境を縁として起こるわけですね。そうしますと、末那識だけが転依して平等性智に成るというわけにはいかないでしょうし、無我を思量すると、もう末那識という名はなくなりますね。末那識というからには、ひたすら有我を思量するわけです。「如来、我となりて」というのは、私流に解釈しますと、私は目的も行き先もわからず彷徨っているわけです。ふらふらしているのですが、ふらふらしていることさえしらないのです。それで、如来は私のふらふらにつきあってくださるのです。しかし、如来は行き先も、目的もしっておいでになり、ふらふらしていても目覚めておいでになるわけですね。これは天と地程の違いがあります。私が私のふらふらに目覚めることを信心というのでしょう。その信心は親鸞聖人は「便同弥勒」と褒め讃えられるわけですね。「念仏の人をば、『大経』には、「次如弥勒」とときたまえり。・・・他力信楽のひとは、このよのうちにて、不退のくらいにのぼりて、かならず大般涅槃のさとりをひらかんこと、弥勒のごとしとなり。・・・念仏の人は無上涅槃にいたること、弥勒におなじきひとともうすなり。」(『一念多念文意』真聖P536~537)というわけです。
 問、自ら永遠に流転していくという自覚が還滅の方向になる時ですよね。ということは自分は救われる資格がない、永遠に救われないという方向(流転)が救われていく方向だということ?
 答、流転と還滅は説明すると、救われない自覚が救いだということになるのでしょうね。救われたいのに救われない自覚が救いだということはどのようなことなのでしょう。救われないとなると、あるのは絶望しかありません。そうしたら絶望の自覚が救いということになるのでしょうが、絶望の先は自死しかないのです。最後の我執です。私は、救いというのは、救われないという自覚の前に、救われる必要のない自己に出遇うことが出来る世界が開かれていることだと思うのです。苦悩する必要を要しない世界に身をおいていることに目覚めるわけです。「ただ念仏」は流転の中において流転しないのでしょう。流転する必要がない世界、それを現生不退ということに於いて教えられているようです。私の生活は浄土往生人として、浄土の一分をいただいて生涯を尽くしていける、所依が転換した生き方ですね。
所依が自に有る場合ですが、苦しみ悩むことは他から生まれてくると思っています。ですから、「他」を変えることに奔走しているわけです。私を取り巻く環境ですね。それが私を束縛して私の自由を奪っているのだと思って、苦しみ悩んでいるわけです。自分自身に罪が有るとは誰も思ってはいません。ですから自分が苦悩しているとは思わないのです。苦悩は有るんですけれども、自分が作り出しているとは思わないのですね。いつも、誰かの仕業であり、物が悪いのです。物には感情は無いのですが、物に当たります。感情が昂ぶりますと八つ当たりしますからね。このようなことで、私たちは「他」を自分の都合のよい方に変えることに依って満足をしようと思っているのです。歴史はそれを物語っていますね。いまだかって満足をしたことがありませんからね。でもね、時に「これでいいのか」という疑問が沸いてくることがあります。これが縁になり教法を聞く、聴聞することが起こってまいります。
 『観経』に即していいますと韋提希の愚痴です。「世尊、我宿何の罪ありてか此の悪子を生める。世尊、復何等の因縁有りてか提婆達多と共に眷属為る」と。世尊に向かって愚痴をこぼしているのですね。「仏の為に礼を作して」といわれていますから、韋提希は仏をもとめたのです。苦を厭う為にですね。にも拘らずですね、自分自身の問題とは見ていないのです。「何の罪があって苦しむのか」というわけです。ここに、我執の深いことをしらないという問題が浮き彫りにされています。ここに、教法に遇うということの大切さが知られるのですね。仏法に遇うことに於いて、愚痴が・苦悩が苦を厭う縁になるのです。この縁が、人間を根源から解放する、天命に安んじることができる道へのプロローグになるのですね。仏法に遇うということは、反面苦悩の深さを知ることになり、いよいよ苦悩にさいなまれることにもなるのではないかと思います。本当に苦悩することになり「苦の娑婆を厭い、楽の無為を欣う」ことにつながってくるのです。仏法は「苦悩を除く」ものではなく「苦悩を除く法」なのですね。苦悩の解決は苦悩がなくなることではないのです。「苦悩を除く」ということであれば、それはエゴでしょう。我が身勝手というものです。苦悩が邪魔にならないということが「除く法」ということでしょう。苦悩を引き受けて生涯を尽くしていけるという、「信心」を得るということになるのではないでしょうか。逆に言うとですね。信心を得ることに於いて初めて苦悩することが出来るのではないでしょうか。
 親鸞聖人の師である法然上人の菩提心は、1141年(永治二年)所領の争いで夜襲をうけ亡くなっていく父時国の遺言でした。「汝さらに会稽(かいけいー敗北の恥を晴らすこと。)耻をおもひ、敵人(あたびと)をうらむ事なかれ。これ偏に先世の宿業なり。もし遺恨をむすばゞ、そのあだ世々につきがたかるべし。しかじはやく俗をのがれ、いゑを出で、我菩提をとぶらひ、みづからが解脱を求には。といひて端坐して西にむかひ、合掌して仏を念じ眠がごとくして息絶にけり。」この出来事が上人の生涯を貫いての課題となり「ただ念仏」の道を歩まれることになるのです。法然上人は「偏依善導」といわれますように善導の『観経疏』に耳を傾けられたのですが、その中に「門八万四千に余れり。・・・縁に随う者は則ち解脱を蒙る。」(真聖p340-玄義分・序題門)ここに問題が一つありますね。どの道でもよいのかと云うことです。どの道を歩んでも解脱を蒙ることであるならば、何故に浄土の教えなのかということです。善導は「然るに衆生障り重くして、悟りを取るの者明らめ難し。」といわれ、また『観経』に苦悩は「無量億劫の極重の悪業」(真聖p100)であり、その為に苦悩を除くのではなく、苦悩を除く法を説くので有るといわれているのです。根源的な無始無終の罪といっていいのでしょうか。あくまでも自覚の話ですが。この罪業も如来に言い当てられて初めて自覚できるのですね。如来も衆生も一如来生なのですね。自覚は表は罪業の自覚であり、裏は救済の事実なのです。親鸞聖人はこの問題について善導の教えを身に受け「しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆえに。散心行じがたし、廃悪修善のゆえに。」といわれました。「たとい千年の寿を尽くすとも法眼未だかって開けず」というわけです。「余」はすなわち本願一乗海なり。」(真聖P341-化身土・本)と教えてくださいました。本願一乗海のみが「在世・正法・像末・法滅、濁悪の群萌、斉しく悲引したまうをや。」なのですね。悲引というところに「本願の嘉号をもって己が善根とするがうゆえに、信を生ずることあたわず・・・」という自己への眼差しがあるのではないでしょうか。その眼差しが悲引を引き出してくるのだと思います。唯識で言われる倶生我執の自覚です。「救われる縁もゆかりもない身」の自覚が、無根の信をいただくことになるのでしょう。
 私たちは外界に実体として何かが存在していると思っているのですが、実はそうではないのですね。あるのは自分の心に映し出したものを対象としてみているのです。自分で自分の心を見ているのですね。ですから私の捉えられる範囲でしか見られないのですね。私の捉えられない世界はわからないのです。根源的に自己中心です。他にいう言葉ではないのです。自己中心は自分のことであったということです。自性唯心ですね。自分の学んだこと、経験したこと以外はわからないのです。聞法も同じですよ。聞いたことを手柄として、わかったような顔をしていますわ。自性唯心に沈むんですね。そこでね。沈んでいる自覚が大事なのです。「自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す、定散の自心に迷いて金剛の真信に昏し。」(信巻・序)という自覚ですね。論に「是の識転変して、分別たり、所分別たり。此れに由って彼は皆無し、故に一切唯識のみなり」(『三十頌』第十七頌)と。我が心が見る働きと見られる働きに変化するのです。仮に有るということですね。例えば夜空に煌々と輝く月ですね。私たちは月という概念を見ていますね。実体としての月はどこにも無いのです。自分の心に映じた月という概念ですね。仮に有るということなのです。ですから諸行無常・諸法無我の理に由って実体としてのものは無いということになるのです。あるがままに見るということは出来ないのですね。自分の都合に合わせてみているのです。その自分も実体として有るわけではないのですね。仮に存在しているということ、無我の我を生きているということでしょう。「識所変に離れては皆定めて有るに非ず」私の心を離れて実体として実在するのではない。私の心で見ているに過ぎないのですね。それを仮というわけです。仮ということに於いて執着から離れることが出来ますね。実という固執ですね。そこでは執着が離れません。聞法は自分を問うことですね。そうしましたらどれだけ自分を問うことが出来るかです。問いの深さに比例して仏法が聞こえてくるのではありませんでしょうか。打てば響いてくるのですね。打たなかったら何も響いてはきません。打つのはあなただと催促されていますね。「能く掌の中において一切世界を持せり。」(『大経』)掌、手のひらですね。手のひらの中に一切の世界が納められているといわれているのです。手のひらの中にということは、仏の教えを受け止める姿だそうです。掌で仏法を受け止めるのですね。私たちはどれだけ大きな掌を持ち合わせているのかが問われているようです。
 法に依って明らかになった自を依り処にせよ
 仏陀釈尊の遺言です。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (87) 三断分別門 (1)

2015-04-19 09:21:14 | 第三能変 煩悩の心所 三断分別門
   親鸞聖人熊皮の御影
 昨日難波別院の日曜講座を聴聞しようと思っていたのですが、あいにくの雨でしたので、復次にしようとあきらめました。しかし昼前から晴れだしまして、散歩にでかけたんです。勝手なもんですね。横堤から野田までチャリでふじの花をみにいきました。    下福島公園
 それでね、帰り道天満別院によったんです。いろんなパンフレットがおいてありました。その中に暁天講座の講録を手に取りまして読まさせていただきました。そうしましたら、いきなり頭から冷水をかぶせられた衝撃が走りました。『願に生きる人』という講題なのですが、自分の身勝手さを否応なく知らされました。蓮如さんの歌初めて知りました。「火の中を、分けても法は聞くべきに、雨風雪はもののかずかは」。身勝手さといいますが、どうにかできるのでしょうか。どうにもできないのではないですか。身勝手さでしかか生きながらえることは出来ないですね。そこに慚愧をいただく。そうしますと、蓮如さんの歌が身に染みてまいりました。もう一つ教えられました。いかに思い込みがはげしいか、です。確信犯ですね、見たものは正しいという見方です。いやぁ肝に命じておかなければいけませんね。  

 「此の十煩悩は何(イズレ)の所断ぞや」(『論』第六・二十一左)
 「述して曰く、此は問いなり。第九に三断門」(『述記』第六末・五十六右)
 問いから始まります。 第九・三断分別門
 三断とは、見所断と修所断と非所断をいいます。この十の煩悩は、そのいずれの所断なのかを問うています。
 見所断 ― 見道所断のこと。見道で断じられる煩悩を見惑といいますが、この見惑(分別起の煩悩)が断じられる法が見道所断といいます。
 修所断 ― 修道所断のこと。修道で断じられる煩悩を修惑といいますが、この修惑(倶生起の煩悩)が断じられる法が修道所断といいます。
 非所断 ― 見道でも、修道でも断じられるものではない法をいい、具体的には無漏法を指します。煩悩は有漏法ですから、非所断のものはありません。「述して曰く、此は即ち総答なり。諸染は皆断なり。然るに見・修に通ずるが故に、非所断に非ず。非所断の法は是れ染に非ざるが故に。」(『述記』第六末・五十六右)
 本科段の三断門は煩悩の心所に限らず、後に述べます随煩悩の心所でも考究されてきます。また善の心所に於いても、離縛断(縁縛断)という断が考究されていました。有漏の善の有漏を断つことに於いて、善の心所を善たらしめることができるという方面から考究されています。
 見・修所断は、それぞれ、分別起の煩悩や倶生起の煩悩を断ずることに於いて、煩悩・随煩悩そのものを断ずるという方面から考究されています。
 「非所断には非ず。彼こには染に非ざるが故に。」(『論』第六・二十一左)
 「分別起のは唯だ見所断のみなり。麤にして断じ易きが故に。若し倶生のは唯だ修所断のみなり。細にして断じ難きが故に。」(『論』第六・二十一左) 
 まず、分別起の煩悩は唯だ見所断であることが説かれます。分別起の煩悩といいますが、十の煩悩すべてが分別起なんです。即ち後天的に身についてくる煩悩ですね。「分別起の煩悩は悪友と邪教と邪思惟に由る」と云われていますように、後天的に身についた煩悩は断じ易いと説かれていますから、見道所断なんですね。ただね、正見を身に付けるということが大事です。正見によって分別起の煩悩は破られてきます。若し、破られてこなかったら私たちは間違ったことを正当化して生きざるを得ないのです。ここに一つも問題が生じてきます。躾とか教育のことです。赤ちゃんを育てていく中で、煩悩を押しつけていることに成ります。私たちは後輩に対しても、自分の意見を押しつけています。「こんな時はこのようにしたらいい」というようなことを平然と言っています。そういう意味では、煩悩を見つめる眼差しを持つ必要がありますね。私がしている躾や教育は本当に正しいのか(?)です。非常に怖いことですよ。知らず知らずの中に煩悩を蒔き散らかしているんですからね。だから、仏法を聞かなければならんのです。
 次に倶生起は修所断である理由が説かれます。 明日にします。