もうすぐ子供の日ですね。日赤のロビーにて
薩迦耶見と辺執見の二つは、ただ苦諦にのみ迷うことの理由が示されます。別の空・非我は苦諦固有の行相であり、苦諦のみに所属するからであるという。
「諦を別縁する十六行のうち、空・非我の二はただ苦諦のみに属するが故に、三諦(集諦・滅諦・道諦)にこの二見有りと説かず。・・・十六行は総の行に非ざるが故に、別の空・非我という。属は属著をいう。或は摂属(ショウゾク)をいう。・・・」(『述記』第六末・五十九右)
「身辺二見は唯果処のみに起こる、別の空と非我とは苦諦のみに属せるが故に。」(『論』第六・二十一左)
身辺二見とは、薩迦耶見(身見)と辺執見(辺見)の二見ですが、この二見は、ただ果処(有漏の五蘊)のみに対して起こるものである、つまり身体を縁(縁籍ー原因となると云う意味の縁)じて起こす所の見解なんですね。身見は我見ですから、身(無我)を我として執着し、執着した我の上に辺執見を起して迷うのですが、この在り方を苦諦に迷うと述べているわけです。あくまでも、十六行相の上で、この二見は苦諦に迷うと説かれているわけです。総の空・非我で云う場合は、この二見は
集諦・滅諦・道諦にも迷うという所論になります。
親迷と疎迷について
親迷とは直接的な迷いであり、間接的な迷いを疎迷といっているわけですが、ここに問いが設けられまして、
「この十が四諦に迷することは、皆是れ親しく迷すとせんや。亦疎く迷するものもありや。この問いに答え、及び別の行相を顕さんが為の故に、次の論文あり。」(『述記』)
先ず、親迷について論じられます。簡単に言えば、薩迦耶見と辺執見の二見が苦諦に迷うのは、有漏の五蘊を直接的に縁じ、有漏の五蘊が実体的な我であると錯誤し、執着を起こして迷う直接的な迷いであるので、これを苦諦に親しく迷う、親迷と呼んでいるわけです。後の三の上に更に二見を起こすのは間接的な迷いになりますから疎迷と呼んでいます。本科段は更に詳しく説きます。
「謂く、疑と三のとは親しく苦の理に迷う。」(『論』第六・二十二右)
本科段より、「行相の別」の迷いについて説明されます。
親迷 ― 疑・薩迦耶見・辺執見・邪見
苦諦に迷う十煩悩について説明されます。 {
麤相門 { 疎迷 ― 見取見・戒禁取見・貪・瞋・慢
集諦・滅諦・道諦の三諦に迷う八煩悩について説明されます。
苦諦に迷う十煩悩について説明されるわけですが、前科段でも述べられていましたように、薩迦耶見と辺執見は苦諦にのみ迷う煩悩であることが明らかにされていますが、残る八煩悩の所在を明らかにする必要がありますし、また八煩悩が三諦に迷うありかたも説明を要します。
十の煩悩が苦諦の理に迷うことについて、親迷と疎迷と相応無明をもって説明されています。
本科段は初の疑・薩迦耶見・辺執見・邪見についての所論です。
つまり、疑・薩迦耶見・辺執見・邪見は、親しく苦諦の理に迷うのである。親しく迷う、直接的な迷いの在り方を親迷という。
疑 ― 苦諦の有無を疑う迷い。
薩迦耶見(身見・我見) ― 非我(無我)に迷って我と執着を起こす。
辺執見 ― 身見で起こした我を常見、断見と執着して無常に迷う。
邪見 ― 因果撥無の見ですから、邪見によって苦諦を撥無するわけです。
これら四つの見は苦諦の理に直接的に迷う見ですので、親迷と云われます。
薩迦耶見と辺執見の二つは、ただ苦諦にのみ迷うことの理由が示されます。別の空・非我は苦諦固有の行相であり、苦諦のみに所属するからであるという。
「諦を別縁する十六行のうち、空・非我の二はただ苦諦のみに属するが故に、三諦(集諦・滅諦・道諦)にこの二見有りと説かず。・・・十六行は総の行に非ざるが故に、別の空・非我という。属は属著をいう。或は摂属(ショウゾク)をいう。・・・」(『述記』第六末・五十九右)
「身辺二見は唯果処のみに起こる、別の空と非我とは苦諦のみに属せるが故に。」(『論』第六・二十一左)
身辺二見とは、薩迦耶見(身見)と辺執見(辺見)の二見ですが、この二見は、ただ果処(有漏の五蘊)のみに対して起こるものである、つまり身体を縁(縁籍ー原因となると云う意味の縁)じて起こす所の見解なんですね。身見は我見ですから、身(無我)を我として執着し、執着した我の上に辺執見を起して迷うのですが、この在り方を苦諦に迷うと述べているわけです。あくまでも、十六行相の上で、この二見は苦諦に迷うと説かれているわけです。総の空・非我で云う場合は、この二見は
集諦・滅諦・道諦にも迷うという所論になります。
親迷と疎迷について
親迷とは直接的な迷いであり、間接的な迷いを疎迷といっているわけですが、ここに問いが設けられまして、
「この十が四諦に迷することは、皆是れ親しく迷すとせんや。亦疎く迷するものもありや。この問いに答え、及び別の行相を顕さんが為の故に、次の論文あり。」(『述記』)
先ず、親迷について論じられます。簡単に言えば、薩迦耶見と辺執見の二見が苦諦に迷うのは、有漏の五蘊を直接的に縁じ、有漏の五蘊が実体的な我であると錯誤し、執着を起こして迷う直接的な迷いであるので、これを苦諦に親しく迷う、親迷と呼んでいるわけです。後の三の上に更に二見を起こすのは間接的な迷いになりますから疎迷と呼んでいます。本科段は更に詳しく説きます。
「謂く、疑と三のとは親しく苦の理に迷う。」(『論』第六・二十二右)
本科段より、「行相の別」の迷いについて説明されます。
親迷 ― 疑・薩迦耶見・辺執見・邪見
苦諦に迷う十煩悩について説明されます。 {
麤相門 { 疎迷 ― 見取見・戒禁取見・貪・瞋・慢
集諦・滅諦・道諦の三諦に迷う八煩悩について説明されます。
苦諦に迷う十煩悩について説明されるわけですが、前科段でも述べられていましたように、薩迦耶見と辺執見は苦諦にのみ迷う煩悩であることが明らかにされていますが、残る八煩悩の所在を明らかにする必要がありますし、また八煩悩が三諦に迷うありかたも説明を要します。
十の煩悩が苦諦の理に迷うことについて、親迷と疎迷と相応無明をもって説明されています。
本科段は初の疑・薩迦耶見・辺執見・邪見についての所論です。
つまり、疑・薩迦耶見・辺執見・邪見は、親しく苦諦の理に迷うのである。親しく迷う、直接的な迷いの在り方を親迷という。
疑 ― 苦諦の有無を疑う迷い。
薩迦耶見(身見・我見) ― 非我(無我)に迷って我と執着を起こす。
辺執見 ― 身見で起こした我を常見、断見と執着して無常に迷う。
邪見 ― 因果撥無の見ですから、邪見によって苦諦を撥無するわけです。
これら四つの見は苦諦の理に直接的に迷う見ですので、親迷と云われます。