第二能変 所依門 (41) ・ 倶有依 (17)
ー 安慧等の説 (8) 十難の義を以て難陀等の説を論破す -
五根が無記というのは『対法論』(『雑集論』)第四等に説かれている。「八界八処の全と余の一分(色・声)とは是れ無記なりと云へり。八界処というは、謂く五色根と香と味と触の界処なり。余(色・声)は善・悪に通ずるが故に一分と言う。五識の種をば現に随って摂むるが故に。五識は善・悪に通ずるとは、此れは是れ大・小乗の共許なり。」
五根が無記であるという証は『雑集論』巻第四等に説かれている。内的な五色根(眼根・耳根・鼻根・舌根・身根)と外的な香・味・触との八を加えて、無記を五種に分類する。色・声は善にも悪にも通じるので余の一分という。そして五識は善・悪にも通ずるのであり、これは大乗・小乗共に認めているところである、と言われています。五根が無記であるということは、五根は境に対してはたらく識の依であって浄色であるといわれています、『二巻抄』にも「五根ト申スハ色法ノ上ノ眼・耳・鼻・舌・身也。眼識乃至身識ノ所依ノ根也。所依ノ根ト云ウハ心ノ物ヲ知ル時是レヲ力トシテ能ク知ル也。喩ヘバ光アル玉ヲ以テ物ヲ照シテ是レヲ見ルガ如シ。五根ハ玉ノ如シ、心ノ物ヲ知ルハ能ク見ルガ如シ。」と。『二巻抄』では色法を述べる所で五根・五境・法処所摂色の十一ですね。色という存在に十一種あることを指摘し説いています。尚、仏教では根というのは現代でいう感覚器官を意味するということではないのですね。現代で云う感覚器官は扶根(ぶこん)と呼ばれています。真実の根を扶ける第二次的な器官にすぎないと考えて扶根と呼び、扶根を構成する色乃至触を扶塵と呼んでいるのですね。そして真実の根は正根と呼ばれ「実ノ眼耳等ハ、アラハニ見ユル眼耳等ノ底ニ。清浄精妙ナル物ノ玉ノ様ナルガ有ナリ。是ヲ正根トナヅク。今ノ五根是ナリ。」と。この五色根は無記であるということなのですね。ですから、難陀等が五根は五識の種子であると主張していることは五根は三性に通ずることになる、ということになりますから、これは聖教に違することになり、難陀等の説は誤りである、と安慧等は主張します。
ー 第六の難 ・ 根に執受なしという難 ー
「又五識の種をば無執受に摂む。五根も亦有執受に非ざるべし。」(『論』第四・十六右)
(また五識の種子は無執受である。五識の種子は無執受であるということは、難陀等の説によれば五根もまた無執受ということになる。しかし五根は本来有執受である。)
執受 - 心・心所によって有機的・生理的に維持されること、あるいは維持されるもので、五色根、あるいはそれら五つの感官から成り立つ身体(有根身)をいう。有根身に加えて潜在的な根本心(阿頼耶識)の中の種子をも執受とし、この場合、執を二つに分け、執持と執受とし、阿頼耶識は種子を執持し有根身を執受するととらえる。 無執受(非執受)は心識を有しない無機的な存在(器世間)の総称をいう。この解釈は安危共同から述べられているもので、この安危共同からは種子と有根身を有執受であり、器世間が非執受になる。もう一つの解釈は能生覚受であり、この文脈は能生覚受から述べられています。有根身が有執受であり、種子と器世間が非執受ということになります。
「述して曰く、執して自体として能く覚受を生(能生覚受)ずるを名づけて執受と為す。種子は即非なり、爾らずば便ち種を執と名づくるに違しなむ。五識の種は無執受なるをもって五根も応に有執受に摂むるに非ざるべし、根即種なるが故に。『瑜伽論』五十六に幾ばくか執受非執受なりや、答ふ、五根は是れ執受なり、五種の一分(五境は執受・非執受に通ず)は非執受なりと説くが故に、此れと相違すべし。」(『述記』第四末・七十三右)
覚受 - 感覚。身体が苦楽などを感じること。無生物(川や山など)には覚受がないという。
ここでいわれる執受は能生覚受から述べられているとされます。有根身が有執受であり、種子と器世間が非執受(無執受)になります。意味としては五根は有執受であり、五識の種子は非執受である。この理を以てしても難陀等の説は誤りであることがわかるのである。上来述べられている通り、難陀等は五識の種子が五根であると主張しているのですから、それならば、五根は本来有執受であるにもかかわらず非執受になってしまうというという誤りをおこすのである。論証として『。『瑜伽論』巻第五十六にも「五根は是れ執受なり」と説かれている。