唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変 所依門 (41) ・ 倶有依 (17) 安慧等の説 (8)

2011-02-28 22:45:17 | 増上縁依(倶有依)

   第二能変 所依門 (41) ・ 倶有依 (17)

 ー 安慧等の説 (8) 十難の義を以て難陀等の説を論破す -

 五根が無記というのは『対法論』(『雑集論』)第四等に説かれている。「八界八処の全と余の一分(色・声)とは是れ無記なりと云へり。八界処というは、謂く五色根と香と味と触の界処なり。余(色・声)は善・悪に通ずるが故に一分と言う。五識の種をば現に随って摂むるが故に。五識は善・悪に通ずるとは、此れは是れ大・小乗の共許なり。」

 五根が無記であるという証は『雑集論』巻第四等に説かれている。内的な五色根(眼根・耳根・鼻根・舌根・身根)と外的な香・味・触との八を加えて、無記を五種に分類する。色・声は善にも悪にも通じるので余の一分という。そして五識は善・悪にも通ずるのであり、これは大乗・小乗共に認めているところである、と言われています。五根が無記であるということは、五根は境に対してはたらく識の依であって浄色であるといわれています、『二巻抄』にも「五根ト申スハ色法ノ上ノ眼・耳・鼻・舌・身也。眼識乃至身識ノ所依ノ根也。所依ノ根ト云ウハ心ノ物ヲ知ル時是レヲ力トシテ能ク知ル也。喩ヘバ光アル玉ヲ以テ物ヲ照シテ是レヲ見ルガ如シ。五根ハ玉ノ如シ、心ノ物ヲ知ルハ能ク見ルガ如シ。」と。『二巻抄』では色法を述べる所で五根・五境・法処所摂色の十一ですね。色という存在に十一種あることを指摘し説いています。尚、仏教では根というのは現代でいう感覚器官を意味するということではないのですね。現代で云う感覚器官は扶根(ぶこん)と呼ばれています。真実の根を扶ける第二次的な器官にすぎないと考えて扶根と呼び、扶根を構成する色乃至触を扶塵と呼んでいるのですね。そして真実の根は正根と呼ばれ「実ノ眼耳等ハ、アラハニ見ユル眼耳等ノ底ニ。清浄精妙ナル物ノ玉ノ様ナルガ有ナリ。是ヲ正根トナヅク。今ノ五根是ナリ。」と。この五色根は無記であるということなのですね。ですから、難陀等が五根は五識の種子であると主張していることは五根は三性に通ずることになる、ということになりますから、これは聖教に違することになり、難陀等の説は誤りである、と安慧等は主張します。

   ー  第六の難 ・ 根に執受なしという難  ー

 「又五識の種をば無執受に摂む。五根も亦有執受に非ざるべし。」(『論』第四・十六右)

 (また五識の種子は無執受である。五識の種子は無執受であるということは、難陀等の説によれば五根もまた無執受ということになる。しかし五根は本来有執受である。)

 執受 - 心・心所によって有機的・生理的に維持されること、あるいは維持されるもので、五色根、あるいはそれら五つの感官から成り立つ身体(有根身)をいう。有根身に加えて潜在的な根本心(阿頼耶識)の中の種子をも執受とし、この場合、執を二つに分け、執持と執受とし、阿頼耶識は種子を執持し有根身を執受するととらえる。 無執受(非執受)は心識を有しない無機的な存在(器世間)の総称をいう。この解釈は安危共同から述べられているもので、この安危共同からは種子と有根身を有執受であり、器世間が非執受になる。もう一つの解釈は能生覚受であり、この文脈は能生覚受から述べられています。有根身が有執受であり、種子と器世間が非執受ということになります。

 「述して曰く、執して自体として能く覚受を生(能生覚受)ずるを名づけて執受と為す。種子は即非なり、爾らずば便ち種を執と名づくるに違しなむ。五識の種は無執受なるをもって五根も応に有執受に摂むるに非ざるべし、根即種なるが故に。『瑜伽論』五十六に幾ばくか執受非執受なりや、答ふ、五根は是れ執受なり、五種の一分(五境は執受・非執受に通ず)は非執受なりと説くが故に、此れと相違すべし。」(『述記』第四末・七十三右)

 覚受 - 感覚。身体が苦楽などを感じること。無生物(川や山など)には覚受がないという。

 ここでいわれる執受は能生覚受から述べられているとされます。有根身が有執受であり、種子と器世間が非執受(無執受)になります。意味としては五根は有執受であり、五識の種子は非執受である。この理を以てしても難陀等の説は誤りであることがわかるのである。上来述べられている通り、難陀等は五識の種子が五根であると主張しているのですから、それならば、五根は本来有執受であるにもかかわらず非執受になってしまうというという誤りをおこすのである。論証として『。『瑜伽論』巻第五十六にも「五根は是れ執受なり」と説かれている。

 


『唯信鈔文意』に聞く (22) 自然(じねん)ということ

2011-02-27 18:19:06 | 信心について

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                 大阪城公園西の丸梅林の梅花も随分咲き誇っていました。来週あたり寒の戻りがあるとはいえ、今日は気温もどんどん上昇して一気に開花しそうです。暖かい日差しの中、家族連れやおじいちゃん・おばあちゃん、近くで野点や茶会が催れているのでしょうか、着物姿のお嬢さん達が梅林の中を散策しておられました。左下の写真の背景は大阪ビジネスパークになります。

               ー     ・     ー

            『唯信鈔文意』に聞く (22

                            蓬茨祖運述 『唯信鈔文意講義』より

 自然ということ

   「また『自』は、おのずからという。おのずからというは、自然という。自然というは、しからしむという。しからしむというは、行者の、はじめて、ともかくもはからわざるに、過去・今生・未来の一切のつみを転ず。転ずというは、善とかえなすをいうなり」(真聖p548)

 ここから宗祖独自のお言葉が出てまいります。それまでは文にしたがってあらわされてきたのですが、「また」と。またという言葉で、宗祖独自の解釈ですね。その意味が、この偈文の文字からは出ないわけです。文字からは出ませんけれども、偈文のもとであるところの本願ですね。誓願というものから出てくるというわけであります。「また」は、そういう意味で区別がしてあります。

 「自」はおのずからという、おのずからというは、自然という」。「みずから」ということで、来迎ということはまもるということで会えつめ異されましたが、こんどは「おのずから」という意味から見てゆくわけですね。「おのずから」というのは自然という意味であると。自はあのずからという意味があって、おのずからというのは自然という意味だということです。「自然というはしからしむという」。しからしめるという。しからしめるということは、これは自然の然という言葉です。自然の「然」という言葉から出てくるわけでありますが、おのずからということから、自然ということになり、「然」というところから、しからしむるという意味が取り出され、それからしからしむるという意味は、「行者の。はじめて、ともかくもはからわざるに」と。しからしむるというのは、ともかくもはからわない、と。人工でない。おのずからしからしむるというのは、人間の方で手を加えないという、天然・自然という意味ですね。手をくわえないんだということになりますが、そういう意味では、法則ということになりますから、法性法身ということと同じことになります。

 ただ、ここで、「行者の、はじめて」とあちますね。「はじめて」というところがちょっと違ってまいりますですね。「はじめて」というのは、それまで、はからっておる、それまではからっておったのだ。「しからしむる」ということは、普通我々の外界ですね。自然界のありさまは、これはしからしむるということでありますが、その中でそれをまた、そのままになっておれないところに人間というものが存在しておるわけですから、自然と申しましても、やはり人間の苦しみの対象でございますね。五欲の対象になるから、したがって苦しみの対象にもなるわけです。ですから、自然というても、しからしむるというても、人間の方では、しからしむるものに対して、はからってきたということですね。それが、いつからということが分からないのは、やはりしからしむるということも、いつからということがないわけですね。はじめがないのでございますね。自然にはじめがない。いつからはじまったという、はじめてというものを立てられない。はじめを立てれば、またそのはじめということがなくてはならんのですからですね。はじめが立てられない。はじめがないわけです。はじめがないのもに、人間はいろいろとはじめを立てて、そして苦しんできたわけでございますね。ところが、今、「はじめて」と。「行者の、はじめて、ともかくもはからわざるに」というところの、「はじめて」というのは、どういう「はじめて」であるかと申しますと、これは信心ということになるわけですね。

 「行者」とありますのは、念仏する人でございます。念仏する人が「はじめて、ともかくもはからわざるに」ということは、この「はじめて」は、真実信心を自覚したという意味になりますね。「はじめて」というのは一念、念仏する人がはじめて信じたという、信の一念をおこしたということでよいかと存じます。一念に弥陀如来を頼んだということをいわれておるのである、というてよいと存じます。普通は、「行者の」とただ読んでおりますけれども、念仏する、称名する人でございますね。ただ称名する人のみ往生をうるという、そういう自覚。往生をうるという自覚を得たと、そのはじめをさすのでございます。

 そのときには、「ともかくもはからわざるに」、「ともかくも」と申しますのは、いわゆるあれこれというはからい。助かるか助からぬかということのはからいですね。「ともかくも」と、「と」は兎、「かく」は角ですから、それが兎の角ですから、それが兎の耳であるか、あるいは角をもった動物であろうかという、そういう意味のうたがいをいうのでございますね。ですから、「ともかくmぽはからわざるに」ということは、あれこれということのはからいということでございます。「行者の方で、はからわないのに」ということでございますね。助かるか助からぬかということをはからわない。はからわないのに、「過去・今生・未来の一切のつみを善に転じ、かえすなりというなり」と。過去・今生・未来ですから三世にわたるところのすべての罪悪、あるいは罪業を善にかえる。転ずるは、ものを変えるのではないわけですね。ものはそのままにして変えることでございます。つまり、罪を消してしまって、そして罪の反対の善根をあたえるということではなくして、罪というものの、ものがらはそのままで、善に変えるということであります。ですから次に、罪を消しうしなわずして善になすのであると、罪を消して善になすのではない、ということですね。

  「『転ず』というは、つみを、けしうしなわずして、善になすなり。よろずのみず大海にいりぬれば、すなわちうしおとなるがごとし。」

 普通の川水が海に入るなり、しおみずとなってしまうということですね。それと同じようなものだと。  (つづく)

 


第二能変 所依門 (40) ・ 倶有依 (16) 安慧等の説 (7)

2011-02-26 23:00:00 | 増上縁依(倶有依)

      第二能変 所依門 (40) ・ 倶有依 (16)

 ― 安慧等の説 (7) 十難の義を以て難陀等の説を論破す ―

 その五の難 ・ 根は三性に通ずる難(五根は無記性であるが、難陀等の説では五根は三性のいずれにもなりえることになるという難。)

 「又五識の種は既に善悪にも通ず、五色根は唯無記のみには非ざるべし。」(『論』第四・十六右)

 (また五識の種子は善にも悪にも通ずるものである。また五色根は無記性のものである。しかし難陀等の説であるならば五色根は無記のみではなく善にも悪にも通ずるということになる。)

 「述して曰く、因の種は現に随って既に善・悪に通ずるをもって、眼等も亦まさに唯無記には非ざるべし。種若し唯無記なりといはば即ち五識の体は果を感ずること能はざるべし。」(『述記』第四末・七十二左)

 (五識の種子はその種子より現行した五識の三性によって判別される。例えば現行した眼識が善であるならば、その種子は善である。そして五識は第六識の影響を受け第六識の三性と同じになる。即ち第六識が三性に通ずるので、五識もまた三性に通ずるのである。随って五根が五識の種子であると主張する説は誤りであることがわかる。五根は無記性のものだからである。その説を敷衍すれば五識の種子(五根とする難陀等の説では)が若し無記性のものであるならば五識は現行することが不可能となる。現行の五識は三性に通ずるものであるが、五識を根とするならば、五識は無記性のものになり、因である種子とその果である現行している識の三性とが異なるというあり得ない結果になる。)

 「五識の体は果を感ずること能はざるべし」とは、難陀等の論旨は因の種子を根とするのであるから、根は無記に限定されるので、その無記の因から善・悪の識が生じるということはないという意味になります。この難陀等の論旨を仏教の通軌から難とするのです。


第二能変 所依門 (39) ・ 倶有依 (15) 安慧等の説 (6)

2011-02-25 23:15:48 | 増上縁依(倶有依)

 一昨日と昨日の記事に訂正と追補の更新をしました。十八界の説明に不備がありましたのでお詫びいたします。申し訳ありませんが、もう一度お読みくださいますようお願いいたします。

      第二能変 所依門 (39) ・ 倶有依 (15)

  ー 安慧等の説 ・ 十難の義を以て難陀等の説を論破す ー

 第四・根識繋界の難、その二、眼根と眼識・耳根と耳識・身根と身識間に於ける界繋の問題を論難する。

 「眼・耳・身根は、即ち三の識の種なりということを以て、二の地と五の地とに於いて難とせんことも亦然なり。」(『論』第四・十六右)

 (難陀等の説を挙げてその難を述べる。即ち眼根と耳根と身根とは三の識(眼識・耳識・身識)の種子であるという主張をすれば、二地(欲界と色界初禅)と五地(欲界と色界四禅)に於いての界繋に問題が生じる、これも亦前の科段と同様である。)

 「二の地と五の地とに於いて」ということは、眼識・耳識・身識は欲界と色界初禅の二地に存在し、五色根は欲界と色界四禅の五地に存在するといわれていますが、難陀等の主張では根は識の種子であるとするので、二地と五地の界繋に問題が生じ、本来の界繋と矛盾するという難が生じる。この矛盾を以て難陀等の説は誤りであることが指摘されるわけです。

 二地五地についての『新導本』巻第四p17の裏書に「若し眼・耳・身識の種子、即ち是れ眼・耳・身根なりと云うは、識を以て根に従うて二禅以上にも亦眼・耳・身の識にあるべし。種子あるが故に。又眼を以て識に従うて唯欲界と初禅のみに眼・耳・身根あるべし。彼の識あるが故に。   

 五識界繋の頌に曰く。 鼻・舌の両識は、一界一地なり。  眼・耳・身識は、二界二地なり。  二禅以上は、五識は皆無し。」と。

 根を以て識に従えての所論と識を以て根に従えての所論から難陀等の説の矛盾点を指摘し、界繋に問題が生じることを明らかにしています。


第二能変 所依門 (38) ・ 倶有依 (14) 安慧等の説 (5)

2011-02-24 22:58:08 | 増上縁依(倶有依)

 根・識の繋異の難を述べていました。初は鼻・舌両根を難ずることを述べています。欲界繫に属するものとして、六根と六識が存在し、根は欲界・色界に通じるが、鼻識及び舌識は欲界のみに存在し、色界には存在しないといわれていますね。このことが難陀等の説の矛盾点なのです。五根が五識の種子であると主張しているわけですが、それならば、鼻識・舌識も色界に存在しなければならないのです。また鼻根・舌根は欲界・色界に存在するわけですから両方に矛盾が生じます。聖教に説かれている界繋と矛盾を起こし、難陀等の説は間違いであることを示しています。

 「『対法』第四に云く、謂く四の界と二(香・味)の処との全と及び余(十四界と十処)の一分とは是れ欲界繋なり。四界とは謂く香・味・鼻・舌識なり。色界繋の中には前の四の界を除いて余(十四界)の一分は色界繋なりといへり。五十六に云く、四は唯欲界繋なり。十一(五根・眼・耳・身・色・声・触)は唯欲・色二界繋なりといへり。故に知んぬ鼻・舌根は色界にも亦有り。若し識種即ち根なりといはば、根はまさに唯欲界繋なるべし。或いはまさに二識色界繋に通ずべし、識種は即ち根なりといはば、彼に根有るが故に明けし現の識も有るべし。翻返するに二許さば倶に教と違しぬ。」(『述記』第四末・七十二左)

 但し、意界・法界・意識界は三界すべてに通じる、即ち三界のいずれにも存在し得るのです。十八界とは、一人の人間を構成する十八の要素ですね。人間存在は五蘊・十二処・十八界を以て成り立っているのですね。十八の要素とは、眼界・耳界・鼻界・舌界・身界・意界・色界・声界・香界・味界・触界・法界・眼識界・耳識界・鼻識界・舌識界・身識界・意識界の十八です。

 根・境・識を以て十八界をあらわしていますね。十二処は六根(六内処)・六境(六外処)をまとめて十二処といい、一人の人間を構成する十二の要素・領域を示しています。

 聖教には、十八界のうち五根と眼識・耳識・身識・色境・声境・触境は欲界と色界に存在するが、鼻識・舌識・香境・味境はただ欲界にのみ存在する、と説かれている。これが第四の根識繋異難になります。

 亦、『演秘』には具体的に述べられています。『瑜伽論』五十六の意を挙げ、十八界の界繋を明らかにする中、欲界繋・色界繋の十一を挙げて説明しています。

 「疏(四末・72右)に唯欲色二界繋なりとは、謂く、五色根と色と声と触との三と、眼と耳と身識となり。舌と鼻と香と味とは色界に有るにあらず。意(根)と意識界と及び法界との三は三界に通ずるが故に、斯れに由りて欲・色には唯十一のみ有り」(『演秘』第四末・三十一右)

 整理をしますと、欲界と色界の界繋には五色根(眼根・耳根・鼻根・舌根・身根)と色境・声境・触境と眼識・耳識・身識の十八界中の十一界が欲色二界繋であり。鼻識・舌識・香境・味境の四は唯、欲界繋である。意根界と意識界と法境は三界すべてに通ずると述べられます。


第二能変 所依門 (37) ・ 倶有依 (13) 安慧等の説 (4)

2011-02-23 23:00:30 | 増上縁依(倶有依)

      第二能変 所依門 (37) ・倶有依 (13)

― 安慧等の説 ・ 難陀等の説を論破、十難の義の第四の難 ―

 根識繋異の難(根と識との界繋に問題が生じるという難)

 界繋 (かいけ) - 三界のいずれかの界につなぎとめられて関係していること。欲界繋・色界繋・無色界繋をいい、欲界に存在するものを欲界繋の存在という。

 この難が二つに分けられて述べられています。その一は、鼻根と鼻識・舌根と舌識についての難陀等の主張に問題が生じるという界繋の難を論破する。その二は眼根と眼識・耳根と耳識・身根と身識についての難陀等の主張に問題が生じるという難を論破する。

 その一

 「又鼻・舌根は即ち二の識の種ぞといわば、則ち鼻・舌は唯欲界繋のみなるべし。或いは二の識は色界繋にも通じぬべし。許さば便ち、倶に聖教と相違しぬ。」(『論』第四・十六右)

 (また鼻根や舌根はすなわち二つの識(鼻識・舌識)の種子というのであれば、鼻根や舌根はただ欲界繋のみの存在ということになる。或いは鼻根や舌根が色界にも存在するということになれば、二の識は色界繋にも通じることになる。この論説を承認しても、倶に聖教に相違することになる。)

 欲界繋(よくかいけ) - 欲界に属するもの。香界・味界・鼻識界・舌識界の四界の全部と、香処・味処の二処の全部と、それ以外の蘊・処・界の一部(色界繋と無色界繋と無漏法とを除く)とをいう。(『雑集論』巻第四・大正31・710a~b)

 欲界繫に属するものとして、六根と六識が存在し、根は欲界・色界に通じるが、鼻識及び舌識は欲界のみに存在し、色界には存在しないのですね。ここに難陀等の説の矛盾点があるのです。識の種子が根というのであれば、根は三界に通じ、鼻識・舌識も三界に通じることになり、聖教に相違することになるという、界繫の齟齬を突く論難です。 (明日またつづきを述べます。)


第二能変 所依門 (36) ・ 倶有依 (12) 安慧等の説 (3)

2011-02-22 22:48:09 | 増上縁依(倶有依)

       第二能変 所依門 (36) ・ 倶有依 (12)

 昨日の記述の中で「聖教」とは『瑜伽論』巻五十四・五十五・五十七を指し、この証文によって難陀等の説は聖教の所論と相違し成り立たないことが論証されていました。『瑜伽論』巻五十四に、「色蘊に幾ばくの蘊・幾ばくの界・幾ばくの處・幾ばくの支・幾ばくの處非處・幾ばくの根を攝するや、」という問いが出されています。即ち、いくつの五蘊・いくつの十八界・いくつの十二處・いくつの十二縁起支を含めるのかを問い、いくつの理非理の万法を含めるのか問い、いくつの二十二根を含めるのかが問われています。又色蘊と同様に識蘊はどうであるのか、と。(「色蘊の如く是の如く乃至識蘊は如何。」)「謂わく色蘊に一蘊(即ち色蘊)の全と、十界(即ち五根界五境界)、十處(即ち五根處五境處)の全と、一界(即ち法境界)一處(即ち法境處)の少分(一界一處は共に法境であって、その一分である法處所攝色を色蘊に含める。)と、六有支(即ち行・名色・六處・有・生・老死)の少分と、處非處の少分(色のみを色蘊に含める)と、七根(即ち五色根及び男女根)の全とを攝す。」と説かれ、色蘊に五色根が含まれていることを明らかに説かれています。またこの後に識蘊には何が含まれるのかが説かれます。識蘊の全と六識界及び意根界の全と・・・と、色蘊と識蘊の相の差別が明確に説かれており、難陀等の説が錯誤であることが明らかにされています。尚、『演秘』にはこの文を以て「此れに准ずるが故に見の種は根と為すには非ず。」と、見分の種子を根と為すものではない、と言っています。

    ー 安慧等の説 ・ 難陀等の説を論破す、その(3) ー

        十難の義 ・ その(3) 四縁相違の難

 「又若し五根は即ち五識の種ぞと云わば、五根は是れ五識の因縁なるべし、説いて増上縁に攝むとは為すべからず」(『論』第四・十六右))

 (また若し五根は即ち五識の種子というのであれば、五根は五識の因縁になる。即ち五根が五識の因縁になるわけであるから、増上縁に攝めるわけにはいかないのである。)

 親因縁・増上縁の概念と相違することを述べ、四縁の概念に相違するという難ですね。識の種子を以て現行識に対するならば因縁性であり、種子を根というのであれば、根を識に対するとき増上縁ではないということになってしまう。『瑜伽論』巻第三と第五十四及び『雑集論』第五に詳しく説かれていると『述記』は述べています。

 


第二能変 所依門 (35) ・ 倶有依 (11) 安慧等の説 (3)

2011-02-21 21:26:53 | 増上縁依(倶有依)

      第二能変 所依門 (35) ・倶有依 (11)

  ー 難陀等の説を論破する。十難の義・第二の難 ー

 第一の難が難陀等の説では十八界が混乱するという諸界雑乱の難が述べられました。

 第二の難は二種倶非の難(二の種子を倶に非すという難)

              ー 問い ー

 「又五識の種は各能く相・見分を生ずること異なること有り。為し何等を執してか眼等の根と名づくる」(『論』第四・十五左)

 (また五識の種子には五識各々の相分を生ずる種子と見分を生ずる種子の別が有る。難陀等は五識各々の相分を生ずる種子と見分を生ずる種子のいずれの種子を執して眼等の根と名づけるのか。) 

  この一段は問いになります。難陀等が主張する説(五根は五識の種子であるとする)に対して、その種子は相分の種子か見分の種子かと問うことを通して、理と教に相違することを明らかにして、難陀等の説が成立しないことを述べています。難陀等は見・相二分同一種子説を採用しているというのが法相唯識の見方ですが、同一種子であるならば、諸界が混乱すると第一の難で論破され、別の種子であるならば、見・相二分の種子を倶に非す難に於いて論破されます。

 「若し見分の種ぞといはば識蘊に攝むべし。若し相分も種ぞといはば外処に攝むべし。」(『論』第四・十五左)

 難陀等の主張に対して安慧が理を以て、「見分の種ぞといはば識蘊に攝むべし」・「相分も種ぞといはば外処に攝むべし」と、難陀等の説の非を明らかにしています。

 若し五識の種子とは五識の見分の種子であると云うのであれば、見分は識そのものであるから、五根は識蘊(しきうん・識の集まり)に摂めるべきであり、若し五識の種子とは五識の相分の種子であると云うのであれば、相分は外処であるから、五根をば外処(げしょ・所縁となるもの、感覚の対象となる色・声・香・味・触の五つをいう。)に摂めるべきである。『述記』には教証として『瑜伽論』五十七・五十四・五十五・五十六の記述を挙げています。

 「即ち、五十七の二十二根の中と及び五十四とに、色蘊には十界・處の全を攝するが故に等と云へり。相分の種なりといはば外處に攝むべしといはば、五十五等の如きに心・心所の所依を解すが中に、五根は内處に攝するが故に。此れは即ち設(せつ)として識と色と異種なりと許(こ)して而も此の難を為す。故に前の一種子という難には同じからず。又五十六の界の四句の中に云く、眼にして界に非ず等というが如し。是くの如く一切内界ならば亦爾なり等といへり。」(『述記』第四末・七十一右)

 語句説明 

 「此れは即ち設として」 ー 言葉をもうけて言うならば。

 四句(しく) - 物事のありように関する二つの概念による四つの判断。AとBの二つの概念の四句は (1) ただAでありBではない。 (2) ただBでありAではない。 (3) AでありかつBである。 (4) AでもBでもない。四句分別では有(第一句)か無(第二句)か有亦無(倶句)か非有非無(倶非句)という。

           ー      ・      ー 

 聖教(上記の『瑜伽論』を以て教証とし、難陀等の説は)に相違することを示し論破します。

 「便ち聖教に、眼等の五根は、皆な是れ色蘊と内處とに攝めらるというに違しぬ。」(『論』第四・七十一左)

 (もし見分の種子というのであれば五根は識蘊におさめられるべきである。もし相分の種子であるというのであれば五根は外処におさめられるべきである。もしそうであるならば、聖教に眼等の五根はすべて色蘊と内處とにおさめられると説かれていることに相違する。)

 『瑜伽論』巻第五十四に「色蘊には十界(五根界・五境界)及び十処(五根処・五境処)が含まれると説かれている。即ち色蘊に五根が含まれていることが明確に説かれている。又巻第五十五には五根は内処であると説かれており、難陀等が五根は識蘊に摂められ、五根は外処であるとする主張は成り立たないということが明白になり、この聖教を以て難陀等の説を論破するのです。見・相二分同一種子説は聖教の所論と相違し成り立たないことになります。


『唯信鈔文意』に聞く (21)

2011-02-20 19:43:19 | 信心について

Dsc_0044  今日は叔父が亡くなられて一年、その法要を鶴見の願生寺様でお勤めをさせていただきました。     
     
南無阿弥陀仏をとなうれば
          観音勢至はもろともに
          恒沙塵数の菩薩と
          かげのごとくに身にそえり」(『浄土和讃』真聖p488)

 今日では仏法に遇うという機会は数少ないですね。縁有る者が一堂に会して手を合わせるという、人として大切な意義を身を以て教えて下さった叔父に感謝します。今年は宗祖親鸞聖人の七百五十回忌の法要が御本山で勤まりますが、その五十年に一度の法要に出遇いませんかと住職様にさそわれました。どうしようかなと思っていた矢先、はからずも叔父・叔母から連れて行ってといわれ、私には予期せぬ言葉だったのですね。法要とはこういうことが起こり得るんだと思い、仏法に遇う縁を大切にいていきたいと、改めて思うことでありました。 

         『唯信鈔文意』に聞く (21)

                         蓬茨祖運述 『唯信鈔文意講義』より

 「生死の長夜をてらして、智慧をひらかしむるなり」と。この「生死の長夜をてらして、智慧をひらかしむる」という、「智慧をひらかしむる」とあります。智慧をひらいたならば、暗い世界のままが明るいのだ、と。暗いものをとりのぞいて明るくなるということならば、明るくなったときには暗いものは存在しない。暗いものが存在しなくなった明るさというものは、真の明るさでないわけですね。かたよった明るさ。つまり暗黒に対立した明るさですね。せまい。そうなりますと、明るさの少しもない暗闇というものに対して追いつ追われつになるわけでしょう。それは、まあ太陽のようなもので、夜と昼とが追いつ追われつの状態になります。月は太陽より小さいようですけれども、夜を照らす。夜を破壊せずして明るくする。そういう意味で小さいようですけれども智慧ですね。智慧をひらかせる。智慧をひらかせるということによって、つまり宝ですね、与えられた宝というものが何であるかということが明瞭になるわけでございます。これは仏教で申しますと無分別智にあたる。それから、観音菩薩は、いわゆる差別の智慧ですね。両方あって、それをかねそなえて仏の智慧ということになるわけですけれども、根本智と後得智とでもいえましょうかね。根本智があって、そのはたらきとしての後得智、観音がそういう意味になりますですね。

 そういう意味におきまして、この観音音菩薩・勢至菩薩という二菩薩が日と月にたとえられて、この「御みなをとなうる人のみ」をおのずから来迎せられる。来迎とは、「かげのかたちにそえるがごとく」にまもられるということであると、こういうふうにいわれているのであります。

 - 無数の化仏、真実信心をえたるひとにそいたまう -

  「『自来迎』というは、『自』は、みずからという。弥陀無数の化仏、無数の化観音、化大勢至等の、無量無数の聖衆、みずからつねに、ときをきらわず、ところをへだてず、真実信心をえたるひとにそいたまいて、まもりたまうゆえに、みずからともうすなり。」

 この一段は、観音・勢至とありますけれども、いずれも、「無数の化仏」ですね。弥陀には無数の化仏、観世音には無数の化観世音、大勢至にはまた無数の化大勢至ですね。

 つまり、大勢至・観世音・弥陀と申しましても、そういう三つのものではないわけでありまして、衆生を教化利益するための無数の仏菩薩がそなわっておるという意味でございます。弥陀と、弥陀一仏と申しましても、弥陀一仏は無数の衆生を教化利益するための仏ですね。この中には諸仏もおさまります。諸仏と申しましても、弥陀如来の衆生を教化利益するための諸仏である。それから菩薩というものにも、やはり無量無数の衆生を化益するための菩薩ですね。菩薩には、またその菩薩につきしたがう聖衆にはやはり二乗の人もおるでしょう。かたちが二乗、声聞・縁覚と申しましても、お坊さんですね。観世音・大勢至の頭に宝冠をいただいておられるすがたが、必ずしもお坊さんのかたちではないわけですが、つきしたがっておる菩薩の中には、お坊さんの菩薩もおられるわけです。かたちから申しましたら比丘ですね。これはみな弥陀如来の本願海という意味におきまして、一切の諸仏・菩薩・声聞・縁覚のたぐいまで、また天人のたぐいまで、みな衆生を教化利益するためにもうけられたものであると、こういう意味があるわけであります。それが、我々の頭には、絵のようなものしか浮かんできませんけれども、いろいろなことがらについて、みなその教化をいただく。我々が見た立場からしか見えないわけですから、それに対して教化ですね。その立場のみで見ておることが、せまい見方であるということに対して教化を受けるという意味が現実にあるといえるのであります。

 そうすると、見ておったことについて、そのことが間違いではなくして、狭いわけですね。正しいんだというておるけれども、狭いんです。広く見ますというと、広いことに対して、狭いということは、間違いやすいわけです。広い中において、自分の見たことが、その広いものに矛盾しないというふうに、教化がうけられるという意味があるということになるかと存じますね。

 そうした意味が、「みずからつねに、ときをきらわず、ところをへだてず、真実信心をえたるひとにそいたまいて、まもりたまうゆえに、みずからともうすなり。」と。「みずから」と申しますのは、この「真実信心をえたるひと」に対して、その得たる人が求めることによって来るわけでないのでありまして、求めたから来たのでないという意味におこまして、「そいたまいて」とあるのですね。はなれない。ついてはなれない。つきそうてはなれないという意味で「みずから」と。それでまもりたまう。来迎をそういう意味で「まもりたまう」というふうに解釈せられるわけであります。

 そういう意味で「みずから」ですね。普通、来迎という意味だけならば「まもりたまう」というわけにはいかんですね。来たり迎えるのですから、来たり迎えるということになれば、離れておったから来るのであって、そして離れておればこそ迎える、迎えにゆくということですね。しかし、「まもる」という時には、「そいたまいて」来られる。自分の方から求めないのだけれども、求めないのに仏の方からそいたまう。かたちにかげがはなれないようにしてそいたまうておられる。だから、来迎というのは、まもるという意味があるということになります。 (つづく)

 来迎というと向こうから迎えにこられると解釈していましたが、そうではなかったのですね。「そいたまいて」という、仏の方から求めないのに、仏の方から「そいたまう」という意味があったのですね。それから明るさと暗さという問題ですが、「智慧をひらいたならば、暗い世界のままが明るいのだ、と。暗いものをとりのぞいて明るくなるということならば、明るくなったときには暗いものは存在しない。暗いものが存在しなくなった明るさというものは、真の明るさでないわけですね。」と教えてくださっています。私たちの日常の解釈では明るさと暗さは対立しています。共存できませんね。しかし真実信心の智慧には共存できる世界なのですね。

 「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず』(『一念多念文意』真聖p545)

 臨終の一念にいたるまで、無明煩悩が消えないということは、非常に暗い世界ですね。しかし、その暗さが邪魔にならない。暗いけれども明るいんだということですね。いいですね、こういう世界があるということを教えていただいているわけです。信心の智慧に賜った明るさですね。「そいたまいて・まもる」という意味が有るんですね。   


第二能変 所依門 (34) ・ 倶有依 (10) 安慧等の説 (2)

2011-02-19 23:57:37 | 増上縁依(倶有依)

     第二能変 所依門 (34) ・ 倶有依 (10)

  ー 安慧等の説 (2) 難陀等の主張を論破 ・ 十難の義 ー

 「初の十難の中に第一には諸界雑乱という難なり。『瑜伽』五十一には悪叉聚(あくしゃじゅ)を云うて十八界の種を喩せり。又五十六に云く、云何が種種界なりや。謂く十八界展転して異の相性なり。云何が非一界なりや等、乃至広説せり。(『瑜伽』第九十六巻)攝事分の中には十八界の種子各別なりと言へり。『対法』第一には、種は現に随って即ち彼の界に攝したりと説けり。故に種雑乱に成りぬ失あり。又色の種は識の種に非ざるが故に雑乱を成んぬ。」(『述記』第四末・七十右)

 語句説明 

 悪叉聚(あくしゃじゅ、または、あくじゃじゅう) ー 悪又の集まり。おなじところに多くの種類が存在していることの喩えに用いられる。悪又はどんぐりに似た果実の名で、地面に落ちると一箇所に集まる習生がある。「経に悪叉聚の喩を説くが如し。阿頼耶識の中に於て多界あるが故に」(『瑜伽論』巻第五十一)

         ー      ・      ー

 「若五色根即五識種。十八界種応成雑乱」(若し五色根が五識の種子であるというのであれば、十八界の種子は雑乱してしまうであろう。) この文は難陀等の説を批判しているのですが、ここに経文等から証拠を引いて十の難を以て難陀等の説を論破します。

 その第一が 諸界雑乱の難 で、十八界が雑乱するという失がある。『瑜伽論』・『雑集論』を引用して難陀等の説を論破します。

 「然も十八界は、各別に種有りと、諸の聖教の中に処々に説けるが故に。」(『論』第四・十五左)

 (しかも、十八界には、各々別々に種子があると諸々の聖教の中に説かれているのである。)

 難陀等の主張では根境識という十八界の因果が雑乱する。諸法は各自の種子から生じるのである、各自の種子から生じるので界といわれるのである、と安慧等は批判しているのですね。識は識の種子から生じるということですね。諸々の聖教に説かれている通りだと。

 「諸の聖教」とは『述記』によれば、『瑜伽論』巻第五十一・五十六・九十六と『雑集論』巻第一に説かれていると述べています。

 『瑜伽論』巻第五十一の記述(大正30・581b)

  「復次に此の一切の種子阿頼耶識に依るが故に薄伽梵(ばぎゃぼん)説きたまわく、「眼(根)界・色界・眼識界あり、乃至意(根)界・法界・意識界あり、阿頼耶識の中に於いて、種々なる界(種子のこと)あるに由るが故なり。」又経に悪叉聚の喩を説くが如し、阿頼耶識の中に、多界(多くの種子)あるに由るが故なり。」

 『瑜伽論』巻第五十六・第八門、界の差別を明かす文の記述(大正30・609c)

  「云何んが種々界なるや。謂く即ち十八界展転する異相の性なり。云何んが非一界なるや。謂く即ち彼の諸界の無量なる有情の種々差別して依住する所の性なり。云何んが無量界なるや。謂く彼の二(種々界と非一界)を総じて無量界と名づく。仏世尊、悪叉聚の喩の中に於いて、「我れ諸界に於いて終(つい)に界に辺際ありと宣説せず」と説きたまへるが如し。

 『瑜伽論』巻第九十六・自性に住する界(十八界の無記法の種子)の記述(大正30・846c)

  「自性に住する界とは、謂く十八界自相続に堕し、各々決定する差別の種子なり。 (十八界の善悪の種子・自類の別が述べられ) 譬へば世間の大悪叉聚の如し、この聚の中に於いて多くの品類あり、種類一なるが故に説いて一なりと為すと雖も而も無量あり。是の如く其の一々の界の中に於いて各々無量なる品類差別あり、種類一なるが故に各々一なりと説くと雖も而も実には無量なり。」

 と、聖教には十八界の一々にそれぞれの種子から生じると説かれている根拠を示して、難陀等が主張する五根から五識が生じるということはなく、難陀等の説は聖教の記述にも相違していることを明らかにしています。

 『雑集論』巻第一の記述

  「問う、眼界何れの相なるや。答う、謂く眼、曾(過去)と現(現在)とに色を見る。及び此の種子の異熟阿頼耶識の中に積集するは是れ眼界の相なり。・・・及び此の種子の積集する異熟阿頼耶識とは、謂く眼の種子なり、或いは唯だ積集し、当来の眼根を引くと為すが故に。・・・眼界の相の如く、耳・鼻・舌・身・意界の相も亦爾なり。」