三は理を立てる。邪欲と邪勝解が遍染の随煩悩であることを説明する。
「若し、邪欲と邪勝解無き時には、心いい必ず諸の煩悩を起こすこと能はず。」(『論』第四・三十四左)
(もし、邪欲と邪勝解が存在しない時には、心は必ず諸々の煩悩を起こすことはできないであろう。)
「此れは即ち総じて染心ありと言うなり。」(『述記』第五本・五十八右)
五遍染師及び六遍染師が染心に遍在しないとする邪欲と邪勝解が染心に遍在する遍染の随煩悩であることの説明がされます。邪欲と邪勝解が存在しないのであれば諸々の煩悩を起こすことはできない、と。諸々の煩悩が生起しているということは、とりもなおさず邪欲と邪勝解が存在するということの証明になる、と主張します。第七識は「恒に四煩悩と倶である」ということは、第七識には邪欲と邪勝解が恒に存在しているということです。
「何の所以か有る。」(邪欲と邪勝解が存在しなければ煩悩が起こらない理由を問う。)
「所受の境の於に要ず合離せんと楽い、事相を印持して方に貪等の諸の煩悩をば起こすが故に。」(『論』第四・三十四左)
- 所受の境 - 認識対象のこと。
- 事相 - 存在のありよう。
- 印持 - 決定的に理解すること。印可任持のこと。
(所受の境に対し必ず合しよう離れようと欲し、事相を印持して、まさに貪などの諸々の煩悩を起こすからである。)
問に対する答えが示されます。諸々の煩悩が生起することは、所受の境が有為にせよ無為にせよ自分にとって都合のいいもの、都合の悪いものという自己中心という有り様が秤となって生起するものである。都合のいいものに対しては合しようと欲し、都合の悪いものに対しては離れようと欲するために必ず邪欲は存在し、事相を印持しなければならないために邪勝解も存在しなければならないと主張します。
「述して曰く、何れの世(過去・現在・未来)ぞ有為か無為かということを問はず。法、己に順ぜる者、要ず合せんと楽うが故に、法が己に違せる者、要ず離れんと楽う。故に先には或いは貪を起こし後には或いは恚を起こす。」(有何所以論。於所受境至諸煩惱故 述曰。不問何世有爲無爲。法順己者要樂合故。法違己者要樂離故。先或起貪。後或起恚)
「若し是れ不愛不憎の境には処中の欲有り。即ち是れ不合・不離の欲なり。(自分に都合のいいことも、よくないこともない、いずれでもない対象に起こす欲も邪欲である、と) 此れが中に摂せらる。・・・・・・若し境界の於に合・離せんと楽はず及び印持せざるときは即ち煩悩なし。煩悩なき時には邪欲と及び邪勝解となかるべし。此の二種は遍行に非ざるに由るが故に、故に染汚心には要ず定んで欲有って所受の境に於てす。・・・・・・既に要ず欲楽し及び印持するが故に方に貪等を起こす。是の故に此の二は染心に無きに非ず。即ち十有りと証す。・・・・・」(『述記』第五本・五十八左)