唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

唯識入門(25)

2020-04-26 11:24:00 | 『成唯識論』に学ぶ
 今日は。今日も世間の風に左右されることなく、後生の一大事について学んでいきたいと思います。
 後生とは、死んでからのことを言っているのではありません。私にとって一番大切なこと。生まれてきた意味を問い、死することの意味を問う、そんなチャンスが今与えられてることに感謝の意を表し、学びを進めていくことを表しています。
 父が死の間際にふと漏らした一言が耳の底にとどまって離れません。「俺の人生一体何だったんだ。」と。父の問いかけに応えていかなければなりません。
 今日から、能熏(のうくん)の四義に入ります。
 前回までに述べてきました所熏については、『摂大乗論』にも同じ定義が述べられていますが、能熏につきましては、護法菩薩独自の見解になります。能ですから、熏習する方の働きの定義になります。
 所熏は受け入れる方、能熏は能動的に種子を受け入れさせる方になります。しかし、この法則は同時同処で和合しているのですから不即不離と云う関係になります。
 簡単に説明しますと、有為法(変化するもの)は常住ではありませんから作用があります。作用がありますから能く種子を熏習することが出来るのです。これらは勝れた作用を持っています。尚且つ、能く種子を熏習するものは勝れた作用があって、その上に増減するべき性質のものでなければならないのです。そして、所熏と和合して転ず。所熏と能熏は不即不離の関係でなければ種子を熏習することは出来ないと説明しています。
 結論は、能熏となり得るものは七転識であると明らかにしたのです。七転識の心王と心所有法には能熏の勢力(セイリキ)がある、ということになります。
 これは、因位の第八識(所熏処)と果位の諸識及び因位業果の前六識は能熏の働きを備えていないので能熏とはならないと結審しています。
 私が、今、現に、此処に命を頂いているのは、無始以来からの諸条件に依っているんですね。種子生現行という有為法の中で、「なに一つ無駄ではなかった」訳なのですが、そう言い切れませんね。しかし、そう云い切れる自分に出遇っていくことが大事なことなんでしょう。
 生まれてきたことは、「遇」、たまたま、ということだと思います。生まれたということは、自分に出会ったということでしょう。その出会いは、出遇ったということが、たまたまの出来事であったと思います。
 その背景に不生不滅の無為法に触れた感動が躍動していますね。ですから、出遇ってみれば必然であった、自分自身に出遇うことがなかったならば、流転していることさえわからないまま、因果を分断し、他因自果として迷妄の渦の中に自己を埋没させていかざるを得ないわけです。
 それほど深く、私は私自身に出遇っていないわけでしょうね。私がという時点で妄想なんですよね。
 もう一つに、現行熏種子の条件を述べています。この場合の「熏」は習気を指しますが、阿頼耶識の中に種子を熏習させるのは、勝用(勝れた作用)が有って、勝用の上に増すべく、減ずべき性質のものでなければならないと規定しています。
 増減の有るものが能熏の条件であって、増減のあるものが種子を熏習するのである。増減があるというのは、能動的であるということ、動いている。何が動いているのかと云うと、聞熏習によって、無漏種子が増長され、有漏種子が減ずるということなのですね。
 私たちが生きていることは、能動的です。能動的側面が相続して、すべての行為が選択されることなく阿頼耶識の中に蓄積されます。阿頼耶識の所蔵面です。七転識が能縁・阿頼耶識が所縁になります。
 生きていくことの厳しさが教えられています。何一つリセットできないのですね。すべて阿頼耶識は引き受けて、次の生を産み出してきます。否応なくです。「疲れたな、嫌やな」と思ったことが即時に熏習されるんです。仏法に遇う、聞法という機縁がなければ、永遠に迷いの淵を彷徨うことになります。
 世間では、高学歴、一流企業、地位、等々、自分にレッテルを貼って生きていかざるを得ないかもしれませんが、定年退職をすると、肩書が無くなり、今迄の自分の居場所が突然なくなるわけです。ただの人になると、途端に生きていることの意味がわからなくなり、現役生活とのギャップに悩まされている方々を多く見受けられます。まだ地域の役員とか、各種団体の名誉職につかれている方は一面いいように思われますが、これも先延ばしですね。本当のことに触れ得ないチャンスを逸しているように思われます。これらの全体が善行であったとしても有漏だと教えているのです。有漏を積み重ねても迷いを転ずることはできないんだ、と。これが後生の一大事なんです。
 能熏が教えていることは、私は、今、何を、なすべきかと鋭く厳しく問い続けているのだと思います。そのことが問いとなって、「依」の問題が提示されるのではないでしょうか。またにします。

唯識入門(24)

2020-04-19 18:29:53 | 『成唯識論』は何を教えているのか。
 今日は。昨夜来より爆睡しました。ちょっと疲れがたまっていて、やっぱり歳ですね。身体は正直です。ちょっとすっきりしました。
 唯識は難解ですか。私は何処に向かって歩いているのか。どうなりたいのかを思索する学問になると思うんですよ。いわば、無条件の救いを実現する学問です。では何故無条件の救いが完成しなのでしょう。何が邪魔をしてるのか。この状況を唯識は詳しく説き明かしています。一言でいえば、唯識無境です。境は対象ですね。識は私の心の構造になります。私の心の構造のみが存在して、対象である境は無いといっています。この「無い」は実体的に固定的に存在するものではないということなのです。実は、私も実体的に固定的に存在するものではないんですね。
 それは縁に由って変化する存在であるわけです。ここで、我と法が語られます。唯識は我を明らかにし、無境は法を明らかにします。問題は我に囚われ、法に囚われている自己自身が問題であると指摘しているのです。
 現在の社会問題、これからも波状的に襲ってくるだろうと想像されるウイルスですね。核に代わって、人類が取り組まなければならない問題です。これが縁なのです。
 私個人が何ができるのか。無常である世界、無我である自己を明らかにすることが、最大限必要な課題であると思いますが、皆さんはどのように考えておられるのでしょうか。
 『大経』に「然るに世人、薄俗にして共に不急の事を諍う」と現在の状況を予言していますが、これは、いかにして生き延びていけるのかが、不急の事を諍うことに発展してくると指摘しているのですね。
 熏習に関しては、
 「唯だ識のみあって境はなし」(識の所現は識の所変なり)を言葉を変えて教えています。他人の行為は熏習しませんが、他人の行為にたいして思うことは熏習します。これ能なるが故です。そして即時ですから、時の前後は熏習しないということです。ただしですね、昨日のことであっても、「今」考えたり、それに左右されることは今の出来事ですから熏習されます。厳密ですね。未来のことは熏習されませんが、未来のことを今思うことは熏習されます。すべては「今」(刹那生滅)今といっても動いていますからね、意識されたときは過去の出来事になりますね。ですからね、熏習というのは思量を超えている。私の思いからは計らうことはできないのです。こういうのを自然(ジネン)と言い表されているんだと思います。
 私の判断というか、思いですね。思いから云うとですね、人生無駄だらけ、こんなはずではなかった、と。
 僕なんかは特にそうですね。過去に想いを馳せるのは悪くはありませんが、後悔ばかりが先行します。「何故・何故、ばかり」。しかし、はからずもです、仏法に出遇わしていただくことによって、今ある自分に気づかせていただきますと、すべては御縁の世界であったと頷きを得ますね。一つでも条件が欠けていたなら、今はありません。命は大事だといいますが、その命の大事さに遇うこともないでしょう。裏を返せば、自分の思いで生きてきましたね。自分の思いで生きてきたことが、どれだけ世間様に無理強いをしてきたのかに深々と頭が下がっていくのではありませんか。頭が下がった時に「すべては無駄ではなかった」といえるのではないのかな。種子が熏習し現行を生起する、という構造を阿頼耶識縁起として唯識は教えているのでしょう。
 「定散自力の称名は/果逐のちかいに帰してこそ/おしえざれども自然に/真如の門に転入する」 (『浄土和讃』)
自然(ジネン)は私の思い、計らいを超えている。超えているのは、私の思量の及ぶ範囲ではないということ。思いに先立って如来の用(ユウ)、働きが行きわたっているということなのでしょうか。そこを唯識は阿頼耶識の果相である異熟識(善悪業果位)であると明らかにしたのですね。因は善業か悪業(不善業)であるけれども、異熟識は無覆無記性であるという。転入ということが成り立つのは無覆無記に於いてですね。果は無記である、という所に聞法の大切さが伺えますが、如何なものでしょうか。


唯識入門(23)

2020-04-12 10:05:17 | 唯識入門
 おはようございます。あいにくの雨ですね。お昼以降春一番が吹き荒れるかもしれません。
 コロナの勢いは収まりをみせません。政府が七割から八割の外出を控えるようにというのであれば、あらゆる業種に御願いして、一週間から二週間、休業補償などを含めてロックダウンをするのが賢明であると思いますが、一部が動いて、お昼の営業は可能で、夜は駄目というのはどうなんでしょう。また、法規制外の営業を認めるというのであれば、水をすくって駄々洩れ状態ではありませんかね。
 家の近くの大型パチンコ店は来月六日まで営業を自粛されていますが、付近の個人店は営業されています。またここに依存症の人たちが集まるのですね。クラスターが発生する可能性大です。足並みが揃っていないことが要請の欠陥ではないでしょうか。
 それはともかく、今日は、所熏(経験の蓄積される場所を明らかにする。)について学びます。
 先ず、「若し法の始終一類に相続して能く習気(じっけ)を持す。」と定義されます。 
 法の始終一類とは、無始より仏位に至るまで、一類相続にして能く種子を保持することを述べています。これが所熏の一つの意義である、と。
 一類相続は、変化しない、同じ性質が同じ状態で保持されていく。そのような場所が阿頼耶識であり、熏習される所として所熏という意味になります。
 一類相続だから習気を持することができるのですが、反対に一類に相続しないもの、断絶のあるものは経験の蓄積される場所ではないことになります。
 それが、転易(てんにゃく)のあるものですね。時と場合によって変化するもの、すなわち七転識になります。
 そして、純粋に分け隔てをせず、すべてを平等に引き受けているところでなければならないということになります。それが無記性(むきしょう)といわれるところです。
 大事なことは、所熏処である阿頼耶識に何を熏習するのかですね。そこで、「聞」が大切な要素、栄養源になります。新鮮なものをいただきますと、栄養素になりますが、腐ったものを口に含みますと下痢を起こします。理ですね。
 仏法を聞く、所謂四諦の理を聞くということなんですね。聞くということがキーワードになります。四諦の理というのは、「『経』に「聞」と言うは、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。これを「聞」と曰うなり。」(『信巻』)と教えてくださっています。
 私たちは、知る知らないにかかわらずですね、真理の中に生きているわけです。例えば法則ですね、宇宙の法則といってもいいかもしれませんが、知らなくても生きていくうえで何不自由はありません。これを仏教は法執と教えてきました。法執から我執が生まれてきます。心の閉塞性が我執です。我執が真理(空)を覆ってしまうのです。
 我執は有為有漏として熏習されますが、真理そのものは熏習されません。所熏処となり得るものは熏習され得るものであるということ、ここが大事なところです。私たちは、業縁存在であるとか、遇縁存在であるといわれますが、因縁ですね。縁起性でしょう。縁起という真理の中で生かされているのです。それを恰も自分一人で生きているかのように錯覚をしているのが私の姿です。このような執着が熏習されてきます。
 執着は苦悩を運んできます。孤独という苦悩です。考えさせられますね。また。

唯識入門(22)

2020-04-05 12:05:47 | 唯識入門
 
 今回は熏習とは何かについて学びます。
 どのような理由から熏習という名を立てるのか。それは所熏(熏じられるもの=阿頼耶識))と能熏(熏ずるもの=七転識)に各々四義を備えて種子を生(新熏種子)・長(本有種子)するが故に熏習と名づけるのであると説明されます。
 種子論では、色は色という自己の種子を熏し、生じるときも同じ自己の色の種子から生じ、心は心の自己の種子を熏じ、生じるときも同じ自己の心の種子から生じる。けっして色から心が生じたり、心から色が生じるということはない。よって因果の道理に錯乱はないことを明かに説いていました。
 これを受けて、熏習に所熏の四つの性質と、能熏の四つの性質を明らかにしたのです。ようするに、熏習されるもの(所熏)と熏習するもの(能熏)とに分けて説明し、所熏になりえるものと、能熏になりえるものの特質を述べているのです。
 所熏の四義は『摂大乗論』にも説かれているのですが、能熏の四義は『成唯識論』独自の解釈になり、『摂論』を受けて『成論』が成立し、『成論』の背景に『摂論』があることがわかります。所熏の四義を備えたものが阿頼耶識なのです。 阿頼耶識を立てて初めて人間存在が立てられるのですが、これは唯識以前の仏教が六識で考えられていたと云う背景があります。
 つまり、意識の根拠、即ち意根の存在証明が不十分であるということなのです。眼識は眼根を所依とし、乃至身識は身根を所依とするわけですが、第六意識の所依は意根である。その意根は前滅の識を所依として成り立つと説明されるのですが、経験の積み重ね(種子)はどこに収まるのかの説明がつかないのです。
 無始以来の一切の経験が蓄積されている場所の説明ですね、表層の意識の奥深い所、深層に人間の非常に深い心があるのではないのかという眼差しが阿頼耶識を見出してきたのでしょう。そして阿頼耶識が阿頼耶識と名づけられるのは一切種においてであり、阿頼耶識はまた一切種識と呼ばれる所以なのです。
 無始以来(曠劫以来といってもいいでしょう)の一切の経験の蓄積されている場所はどこにあるのか。これが所熏の四義になります。六識が六識が成り立っているのではなく、六識の行為を残し、蓄積していく場所があって、はじめて六識が生きて働いているのであることを明らかにしてきたのが大乗仏教であり、とりわけ唯識仏教であるわけです。
 心の構造の重層性を明らかにしたのです。
 熏の説明ですが、
 熏と云うのは、発(ほつ)、或は由致(ゆち)であり、習と云うのは、生であり、近(ごん)でり、数(しゅ)である。つまり種子の果を本識の中に発し致して、本識中に種子をして生じ近ならしめ生・長せしめるからである。
 説明しますと、
 發とは一般的には、起こすこと、生じることを意味しますが、熏習論についての発には二つの意味があり、一つは開發(かいほつ)、(新熏種子を)初めて開きはっきりとさせることを熏といい、もう一つは繫發(けほつ)、繋は、つなぎとめること。本有種子であれば熏というという意味を持ち、本有種子をつなぎとめ生じることを熏という。
 無始以来、本有種子を心の中につなぎとめ相続し現行を生じて熏習していることが繫發という意味になり、現行から新たに生じてくる新熏種子を開發という言語でいい表しているのだと思います。
 「由」とは、所由(しょゆう))の義であって、いわれ、理由です。「因と言うは即ち所由なる故に種子を謂う。」ということですが、ここは、能熏の七転識は種子を第八識に熏習し、種子は、種子生現行として、現行を生ずる本となることをいっています。
 「致」とは「いたす」ということ、ある状態に至ることを意味します。能熏の種子を第八識に植え付け熏習させる働きを「致」と表現し、「近」は刹那滅のことを、近く現行の果を生ずる表現として用いられ、「數」は「しばしば」といわれていますように、數數熏習してという意味になります。
 今回は言葉の説明になりました。でも言葉を理解しておかないと、先に進むことが出来ませんので煩雑ではありますが、復習をお願いいたします。
 また、