今日は。今日も世間の風に左右されることなく、後生の一大事について学んでいきたいと思います。
後生とは、死んでからのことを言っているのではありません。私にとって一番大切なこと。生まれてきた意味を問い、死することの意味を問う、そんなチャンスが今与えられてることに感謝の意を表し、学びを進めていくことを表しています。
父が死の間際にふと漏らした一言が耳の底にとどまって離れません。「俺の人生一体何だったんだ。」と。父の問いかけに応えていかなければなりません。
今日から、能熏(のうくん)の四義に入ります。
前回までに述べてきました所熏については、『摂大乗論』にも同じ定義が述べられていますが、能熏につきましては、護法菩薩独自の見解になります。能ですから、熏習する方の働きの定義になります。
所熏は受け入れる方、能熏は能動的に種子を受け入れさせる方になります。しかし、この法則は同時同処で和合しているのですから不即不離と云う関係になります。
簡単に説明しますと、有為法(変化するもの)は常住ではありませんから作用があります。作用がありますから能く種子を熏習することが出来るのです。これらは勝れた作用を持っています。尚且つ、能く種子を熏習するものは勝れた作用があって、その上に増減するべき性質のものでなければならないのです。そして、所熏と和合して転ず。所熏と能熏は不即不離の関係でなければ種子を熏習することは出来ないと説明しています。
結論は、能熏となり得るものは七転識であると明らかにしたのです。七転識の心王と心所有法には能熏の勢力(セイリキ)がある、ということになります。
これは、因位の第八識(所熏処)と果位の諸識及び因位業果の前六識は能熏の働きを備えていないので能熏とはならないと結審しています。
私が、今、現に、此処に命を頂いているのは、無始以来からの諸条件に依っているんですね。種子生現行という有為法の中で、「なに一つ無駄ではなかった」訳なのですが、そう言い切れませんね。しかし、そう云い切れる自分に出遇っていくことが大事なことなんでしょう。
生まれてきたことは、「遇」、たまたま、ということだと思います。生まれたということは、自分に出会ったということでしょう。その出会いは、出遇ったということが、たまたまの出来事であったと思います。
その背景に不生不滅の無為法に触れた感動が躍動していますね。ですから、出遇ってみれば必然であった、自分自身に出遇うことがなかったならば、流転していることさえわからないまま、因果を分断し、他因自果として迷妄の渦の中に自己を埋没させていかざるを得ないわけです。
それほど深く、私は私自身に出遇っていないわけでしょうね。私がという時点で妄想なんですよね。
もう一つに、現行熏種子の条件を述べています。この場合の「熏」は習気を指しますが、阿頼耶識の中に種子を熏習させるのは、勝用(勝れた作用)が有って、勝用の上に増すべく、減ずべき性質のものでなければならないと規定しています。
増減の有るものが能熏の条件であって、増減のあるものが種子を熏習するのである。増減があるというのは、能動的であるということ、動いている。何が動いているのかと云うと、聞熏習によって、無漏種子が増長され、有漏種子が減ずるということなのですね。
私たちが生きていることは、能動的です。能動的側面が相続して、すべての行為が選択されることなく阿頼耶識の中に蓄積されます。阿頼耶識の所蔵面です。七転識が能縁・阿頼耶識が所縁になります。
生きていくことの厳しさが教えられています。何一つリセットできないのですね。すべて阿頼耶識は引き受けて、次の生を産み出してきます。否応なくです。「疲れたな、嫌やな」と思ったことが即時に熏習されるんです。仏法に遇う、聞法という機縁がなければ、永遠に迷いの淵を彷徨うことになります。
世間では、高学歴、一流企業、地位、等々、自分にレッテルを貼って生きていかざるを得ないかもしれませんが、定年退職をすると、肩書が無くなり、今迄の自分の居場所が突然なくなるわけです。ただの人になると、途端に生きていることの意味がわからなくなり、現役生活とのギャップに悩まされている方々を多く見受けられます。まだ地域の役員とか、各種団体の名誉職につかれている方は一面いいように思われますが、これも先延ばしですね。本当のことに触れ得ないチャンスを逸しているように思われます。これらの全体が善行であったとしても有漏だと教えているのです。有漏を積み重ねても迷いを転ずることはできないんだ、と。これが後生の一大事なんです。
能熏が教えていることは、私は、今、何を、なすべきかと鋭く厳しく問い続けているのだと思います。そのことが問いとなって、「依」の問題が提示されるのではないでしょうか。またにします。
後生とは、死んでからのことを言っているのではありません。私にとって一番大切なこと。生まれてきた意味を問い、死することの意味を問う、そんなチャンスが今与えられてることに感謝の意を表し、学びを進めていくことを表しています。
父が死の間際にふと漏らした一言が耳の底にとどまって離れません。「俺の人生一体何だったんだ。」と。父の問いかけに応えていかなければなりません。
今日から、能熏(のうくん)の四義に入ります。
前回までに述べてきました所熏については、『摂大乗論』にも同じ定義が述べられていますが、能熏につきましては、護法菩薩独自の見解になります。能ですから、熏習する方の働きの定義になります。
所熏は受け入れる方、能熏は能動的に種子を受け入れさせる方になります。しかし、この法則は同時同処で和合しているのですから不即不離と云う関係になります。
簡単に説明しますと、有為法(変化するもの)は常住ではありませんから作用があります。作用がありますから能く種子を熏習することが出来るのです。これらは勝れた作用を持っています。尚且つ、能く種子を熏習するものは勝れた作用があって、その上に増減するべき性質のものでなければならないのです。そして、所熏と和合して転ず。所熏と能熏は不即不離の関係でなければ種子を熏習することは出来ないと説明しています。
結論は、能熏となり得るものは七転識であると明らかにしたのです。七転識の心王と心所有法には能熏の勢力(セイリキ)がある、ということになります。
これは、因位の第八識(所熏処)と果位の諸識及び因位業果の前六識は能熏の働きを備えていないので能熏とはならないと結審しています。
私が、今、現に、此処に命を頂いているのは、無始以来からの諸条件に依っているんですね。種子生現行という有為法の中で、「なに一つ無駄ではなかった」訳なのですが、そう言い切れませんね。しかし、そう云い切れる自分に出遇っていくことが大事なことなんでしょう。
生まれてきたことは、「遇」、たまたま、ということだと思います。生まれたということは、自分に出会ったということでしょう。その出会いは、出遇ったということが、たまたまの出来事であったと思います。
その背景に不生不滅の無為法に触れた感動が躍動していますね。ですから、出遇ってみれば必然であった、自分自身に出遇うことがなかったならば、流転していることさえわからないまま、因果を分断し、他因自果として迷妄の渦の中に自己を埋没させていかざるを得ないわけです。
それほど深く、私は私自身に出遇っていないわけでしょうね。私がという時点で妄想なんですよね。
もう一つに、現行熏種子の条件を述べています。この場合の「熏」は習気を指しますが、阿頼耶識の中に種子を熏習させるのは、勝用(勝れた作用)が有って、勝用の上に増すべく、減ずべき性質のものでなければならないと規定しています。
増減の有るものが能熏の条件であって、増減のあるものが種子を熏習するのである。増減があるというのは、能動的であるということ、動いている。何が動いているのかと云うと、聞熏習によって、無漏種子が増長され、有漏種子が減ずるということなのですね。
私たちが生きていることは、能動的です。能動的側面が相続して、すべての行為が選択されることなく阿頼耶識の中に蓄積されます。阿頼耶識の所蔵面です。七転識が能縁・阿頼耶識が所縁になります。
生きていくことの厳しさが教えられています。何一つリセットできないのですね。すべて阿頼耶識は引き受けて、次の生を産み出してきます。否応なくです。「疲れたな、嫌やな」と思ったことが即時に熏習されるんです。仏法に遇う、聞法という機縁がなければ、永遠に迷いの淵を彷徨うことになります。
世間では、高学歴、一流企業、地位、等々、自分にレッテルを貼って生きていかざるを得ないかもしれませんが、定年退職をすると、肩書が無くなり、今迄の自分の居場所が突然なくなるわけです。ただの人になると、途端に生きていることの意味がわからなくなり、現役生活とのギャップに悩まされている方々を多く見受けられます。まだ地域の役員とか、各種団体の名誉職につかれている方は一面いいように思われますが、これも先延ばしですね。本当のことに触れ得ないチャンスを逸しているように思われます。これらの全体が善行であったとしても有漏だと教えているのです。有漏を積み重ねても迷いを転ずることはできないんだ、と。これが後生の一大事なんです。
能熏が教えていることは、私は、今、何を、なすべきかと鋭く厳しく問い続けているのだと思います。そのことが問いとなって、「依」の問題が提示されるのではないでしょうか。またにします。