本年最後の配信となりました。ようこそブログにお越しくださいまして有難うございました。年が明けましても本年以上のお付き合いよろしくお願い申し上げます。
第二の答え
「又、解は理いい通ぜるを以て、多くの同体なるを説くなり、迷の情は事局(ジクツ)するを以て、相に随って多に分てり、故に染と浄とを斉しく責む応からず。」(『論』第六・九左)
「浄法は是れ解にして正理を順ず」と。第二の答えは、浄法は悟解(ゴゲ)であって正理に順ずるのである。即ち解は理に通じるということですね。「解は染に不慢等の多くの名あるに翻じて総て即ち此の十一と同体なり」。悟解は染法である煩悩の慢に翻じて不慢が立てられる等、十一の善の心所以外にも多くの善の心所が立てられるが、多くの善の心所である浄法はすべて十一の善の心所と同体であると説かれているのである。
何故ならば、「解は理に通じ相は通融するを以ての故に」と。善の心所は正理に順じた悟解であるから、悟解は正理に通じ、その為に相も通じていると云い得る。よって「少に多くの法の同体を摂むべしなり」という。煩悩・随煩悩の染法を翻じた善の心所は多くあるが、解と理は相通じ、多くの善の心所は、十一の善の心所と同体のものとして、十一の善の心所に含まれるのであると解しています。
さらに
「迷情は物の理を隔てて事体は既に局するを以て、染の増する相に随っての故に多種に分かつ。故に染を淨に望めて斉しからしむべからず。」、即ち煩悩・随煩悩の心所は物の道理を乖離し、現象を分別し区別する働きであり、その働きに随って煩悩・随煩悩もまた多くの種類に分けられるのである。それとは反対に、淨は物の理に順ずる働きである。従って、染法と淨法とは対局にあるといえるので同じ次元に於いて論じることはできないのである。
「論。又解理通至不應齊責 述曰。此第二解。淨法是解順於正理。故雖翻染有不慢等多名。總即與此十一同體。以解理通。相通融故。可少攝多法同體也。迷情隔於物理事體既局。隨染増相故分多種。故染望淨不應令齊。又染順情。令知厭惡故須廣説。善法多説。恐起難修之心。故略不説何故染法六十四・及攝事分八十九中有衆多法。何故此中但言二十 答以用増勝遍染故。説但有二十。謂忿等十法。及無慚・無愧。増勝猛利故説之也。下之八法。或復十法。遍染心故所以説之。餘法或非増猛。或不遍染。故此不説。此如下隨煩惱中説問何故所治唯在欲。能治通上界。如瞋・忿等。或所治通三界。能治唯上二。如輕安治惛沈。何故所治染法唯在意識。能治善法即通六識。如害翻爲不害是。或有所治通六。能治唯在意。如惛沈翻作輕安 答性相相當辨能・所治。不以通識及通界故。説能・所治。」(『述記』第六本下・三十六右。大正43・441a~b)
『述記』によりますと、あと二つの理由が述べられています。論外の別義といわれています。『論』の解釈ではなく『述記』独自の解釈です。
一つは、染の心所が多数説かれているのは、染の心所は情に順ずるものであるが、厭悪するものであることを衆生に知らせんが為である(「又染順情。令知厭惡故須廣説」)。
もう一つは、善法を多く説いたならば、衆生が修し難き心を起こすことを恐れて略して説かないんだと解しています(「善法多説。恐起難修之心。故略不説」)。
次科段は、第四・仮実分別門です。配信は1月4日からの予定にしています。