唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 善の心所  第三の三、徴責多少門 (3) 第二答

2013-12-31 15:21:16 | 心の構造について

 本年最後の配信となりました。ようこそブログにお越しくださいまして有難うございました。年が明けましても本年以上のお付き合いよろしくお願い申し上げます。

 第二の答え

 「又、解は理いい通ぜるを以て、多くの同体なるを説くなり、迷の情は事局(ジクツ)するを以て、相に随って多に分てり、故に染と浄とを斉しく責む応からず。」(『論』第六・九左)

 「浄法は是れ解にして正理を順ず」と。第二の答えは、浄法は悟解(ゴゲ)であって正理に順ずるのである。即ち解は理に通じるということですね。「解は染に不慢等の多くの名あるに翻じて総て即ち此の十一と同体なり」。悟解は染法である煩悩の慢に翻じて不慢が立てられる等、十一の善の心所以外にも多くの善の心所が立てられるが、多くの善の心所である浄法はすべて十一の善の心所と同体であると説かれているのである。
 何故ならば、「解は理に通じ相は通融するを以ての故に」と。善の心所は正理に順じた悟解であるから、悟解は正理に通じ、その為に相も通じていると云い得る。よって「少に多くの法の同体を摂むべしなり」という。煩悩・随煩悩の染法を翻じた善の心所は多くあるが、解と理は相通じ、多くの善の心所は、十一の善の心所と同体のものとして、十一の善の心所に含まれるのであると解しています。

さらに

 「迷情は物の理を隔てて事体は既に局するを以て、染の増する相に随っての故に多種に分かつ。故に染を淨に望めて斉しからしむべからず。」、即ち煩悩・随煩悩の心所は物の道理を乖離し、現象を分別し区別する働きであり、その働きに随って煩悩・随煩悩もまた多くの種類に分けられるのである。それとは反対に、淨は物の理に順ずる働きである。従って、染法と淨法とは対局にあるといえるので同じ次元に於いて論じることはできないのである。

 「論。又解理通至不應齊責 述曰。此第二解。淨法是解順於正理。故雖翻染有不慢等多名。總即與此十一同體。以解理通。相通融故。可少攝多法同體也。迷情隔於物理事體既局。隨染増相故分多種。故染望淨不應令齊。又染順情。令知厭惡故須廣説。善法多説。恐起難修之心。故略不説何故染法六十四・及攝事分八十九中有衆多法。何故此中但言二十 答以用増勝遍染故。説但有二十。謂忿等十法。及無慚・無愧。増勝猛利故説之也。下之八法。或復十法。遍染心故所以説之。餘法或非増猛。或不遍染。故此不説。此如下隨煩惱中説問何故所治唯在欲。能治通上界。如瞋・忿等。或所治通三界。能治唯上二。如輕安治惛沈。何故所治染法唯在意識。能治善法即通六識。如害翻爲不害是。或有所治通六。能治唯在意。如惛沈翻作輕安 答性相相當辨能・所治。不以通識及通界故。説能・所治。」(『述記』第六本下・三十六右。大正43・441a~b)

 『述記』によりますと、あと二つの理由が述べられています。論外の別義といわれています。『論』の解釈ではなく『述記』独自の解釈です。

 一つは、染の心所が多数説かれているのは、染の心所は情に順ずるものであるが、厭悪するものであることを衆生に知らせんが為である(「又染順情。令知厭惡故須廣説」)。

 もう一つは、善法を多く説いたならば、衆生が修し難き心を起こすことを恐れて略して説かないんだと解しています(「善法多説。恐起難修之心。故略不説」)。

 次科段は、第四・仮実分別門です。配信は1月4日からの予定にしています。

 

 


第三能変 善の心所  第三の三、徴責多少門 (2) 答

2013-12-30 14:48:14 | 心の構造について

 論主の答。第一の答え。

 「浄は勝れて染は劣れり、少なきは多きに敵(ジャク)たるが故なり。」(『論』第六・九左)

 浄は(染)よりも勝れ、染は(淨)よりも劣ったものである。勝れたものは少ない数で劣の多きに敵することができる。

 論主である護法の第一答ですが、善の心所は勝れているので、煩悩・随煩悩の数が多くても対抗できるので問題はないと答えています。数の問題で答えられていますが、染は浄に触れた時に始めて染の本質を露わにするのでしょう。染が露呈していることは、浄に触れていることを現しているのではないでしょうか。

 善の心所を思い起こしていただければと思いますが、善の心所が働いていく所は浄心ですね。仏法聴聞の時はですね、十一の善の心所はすべて働いているんだと教えていました。聞法は染の心所を対治するという働きをもっているんですね。浄と染が相応し、往生浄土の道を歩ませてくれるんですね、任運法爾です。

 『述記』には、染と浄との相翻は体相は同じであるけれども、所為の相違によって、先ずこの答えが述べられていると釈しています。

 本願成就の身だからこそ、迷っていけるのですね。迷いに困るのか、安心して迷っていけるのかの明暗が聞法の課題になると思います。

 「論。淨勝染劣少敵多故 述曰。論主答曰。淨體勝法。染體劣法。勝少敵劣多。故染多而淨少。其實體相相翻頭數亦等。而此所違多少不同故有此答問 此義雖爾。何故不立善多染少也。」(『述記』第六本下・三十五左。大正43・441a)

 (「述して曰く。論主答えて曰く、浄の体は勝法にして染の体は劣法なり。勝の少は劣の多に敵するが故に。染は多くして浄は少なし。其の実は体相は相翻ず頭数亦等なるべし。而も此の所違の多少同じからざる故に此の答え有り。
 問。此の義は爾なりと雖も、何が故に善多染少と立てざるや。」)

 第二答を引き出すために『述記』には問いが立てられています。

 「此の義は爾なりと雖も、何が故に善多染少と立てざるや。」

 (此の義(第一の答え)はその通りであろうが、それでは何故善の心所を多く立て、染の心所は少なく立てることはしないのか?)

 次科段では護法の第二答が述べられます。

 

 


第三能変 善の心所  第三の三、徴責多少門 (1) 問

2013-12-29 21:09:15 | 心の構造について

 第三能変・善の心所・第三諸門分別の三・徴責多少門に入ります。

 その前に、諸門分別・論主の答えの最後、別境の善のものに摂められるものは十一の善の心所には入れられないことを説く。失念と散乱と不正知になりますが、2013年9月7日の項に失念・散乱・不正知の行相について述べています。尚、本科段は12月3日の項に書き込んでいますが、転載してもう一度学びたいと思います。

 失念と散乱と不正知を翻じた不失念と不散乱と正知が十一の善の心所に入れない理由を述べる。

 

 「失念と散乱と不正知とをば、翻じて別境に入れたるを以て、善の中には説かず。」(『論』第六・九左)

 失念・散乱・不正知は六識にわたって存在する心所であり、当然、善の心所に入れられるべきであるが、別境の善の中に摂められる理由を述べています。失念は、癡の分、及び別境の念の一分。失念の体は念と癡であり、善の心所である正念を妨げ、心を散乱せしめる働きがある。これは、念が癡の影響を受け、染汚されて失念となっているということになります。癡が翻じて無癡になれば、失念は翻じて不失念となる。念は別境の心所であり、別境は三性にわたるので、失念を翻じた不失念は、善の心所に入れず、別境の善のものに含められるのである、と。

 不正知は、別境の慧と癡の一分を体とする。不正知を翻じた正知の体は正慧である。散乱も同様である。

 「論。失念散亂至善中不説 述曰。失念・散亂・不正知等。雖有癡分及別境分性相相翻。翻入別境善少分故。善中不説。餘慢等七・忿等九如前。」(『述記』第六本下・三十五左。大正43・441a)

 「述して曰く。失念と散亂と不正知との等は、癡の分及び別境の分有りと雖も、性相相い翻じ別境の善の少分に入る、故に善の中に説かず。余の慢等の七、忿等の九とは前の如し。」

 以上のように、失念と散乱と不正知を翻じて立てられた不失念・不散乱・正知は善の心所ではあるが、これらは別境の中の善のものであるとし、十一の善の心所の中には摂めないという。

 諸門分別その三、徴責多少門。前半は問い。

 「染と浄と相翻(アイホン)するに、浄は寧んぞ染より少なきや。」(『論』第六・九左)

 初めに問いが立てられています。染の心所と浄の心所とは相翻するはずなのに、どうして浄の心所は染の心所より少ないのか、という。

 染の心所とは、煩悩と随煩悩のことを指しています。翻じてというのは善の心所のことですが、煩悩と随煩悩を翻じたものは、善の心所と相い翻する存在であるわけです。しかし、煩悩と随煩悩の数は二十六であり、善の心所は十一しかありません。これは矛盾をきたすのではないかという問いになります。

 「論。染淨相翻淨寧少染 述曰。第三徴責多少。問從染翻淨。從淨翻染。何爲染多淨少。對治不同。」(『述記』第六本下・三十五左。大正43・441a)

 (「述して曰く。第三に多少を徴責(チョウセキ)す。問、染に従って浄を翻じ、浄に従って染を翻ず。何すれぞ染は多にして浄は少なりや。対治すること不同なりや。」)

 徴責 - 反論して責めること。


第三能変 善の心所  第三・諸門分別 (32) 科文

2013-12-29 11:45:45 | 心の構造について

 タイトルに不備がありました。もう少し厳密に精査しなければ、『成唯識論』の意図が伝わらないと思いますので、『論』第六巻の大科とその詳細を「善の心所」及び「義別諸門分別」に限って記します。次科段の、六煩悩以下につきましては、その都度科文を記していきます。

 今、述べています所は、善の心所の義別・諸門分別になります。

 善の心所 
 二、善位を弁ず。
   一・前を結んで後を問う。
   二・頌を挙げて答える。
   三・長行釈
     一・名を釈して異執を破す。
     二・頌に依って体を出す。
        信・慚・愧・三善根・勤・軽安・不放逸・行捨・不害
 三、諸門分別
   一・別釈
     義、所余を摂す。
        欣・不忿・厭・不慳等・不覆等・不慢・不疑・不散
        乱等・四不定。
   

   二・問答廃立
     一・外人の問い。
     二・論主の答え。
   三・多・少を徴責す。
     一・問。
     二・答。
   四・仮・実を分別す。
   五・分別を倶起す。
      一・四遍善義。
      二・十遍善義。
      三・正を顕わす。
      四・証を引く。
      五・異説の疑を解す。
   六・八識分別。
   七・五受倶を云う。
   八・別境相応。
   九・三性分別。
   十・三界分別。
   十一・三学門。
   十二・三断門。

 今日は、論主の答えの最後になりますが、別境の善のものに含められるものは善の十一の心所に入れられないことを説明します。そして、三の「徴責多少門」に入ります。夕刻に配信します。
       


第三能変 善の心所  第三・諸門分別 (31) 不害の場合

2013-12-29 00:22:31 | 心の構造について

 害を翻じた不害が善の心所に入られる理由、。

 「害も亦然なりと雖も、而も数々現起し、他を損悩するが故に、無上乗の勝因たる悲を障うるが故に、彼が増上の過失を了知せしめむが故に、翻じて不害と立てたり。」(『論』第六・九左)

 随煩悩の害もただ第六意識のみに存在するといっても、しかし、しばしば現起して、他を損悩する為に、また無上乗の勝因である悲を障碍する故に、害の増上の過失を知らせんが為に、害を翻じた不害として立てたのである。

 害について

 「云何なるをか害と為す。」 害という煩悩はどのようなものであるのかという問いです。害は「そこなう」という意味で、傷つける、妨げるということです。他を傷つける、殺傷するということになりますね。それが害と云う煩悩の性質であるといっているのです。これは自分に不都合なことが起こると他を傷つける行為に及ぶ。これは日常茶飯事に起こっています。自分と云う他に変えられることのできない命を与えられていることへの目覚めがないのですね。それによって他を害することに於いて自分を守ろうとするわけです。これもまた顛倒ですね。『論』には
 「諸々の有情に於いて心に悲愍(ひみんー慈悲の心・愍はあわれむという意)することなくして損悩(そんのうー傷つける事)するを以って性と為し。能く不害を障えて逼悩ーおしせまる意)しるが故に。謂わく害有る者は。他を逼悩するが故に。此れも亦瞋恚の一分を体と為す。」
 と言われています。害というのは慈悲がないということ、ものをあわれみはぐくむことがなく相手を傷つけることを性とするのです。それによって慈悲する心を障へて相手に逼るのが働きとなるのです。自分の心に害心をもっているのですね。それが外に働くときに相手を傷つける行為に走らせるのでしょう。害は瞋恚の一分になります。瞋恚は、ものの命を断ずることなのですが ーニ河白道の火の河ですね。焼き尽くしてしまいます。- 害は相手を傷つけるということになりますから瞋の一分である。

 私たちは知らず知らずの内に相対世界・善か悪に染まっていて自己中心的にしか生きれなくなっているのですね。この善か悪と云う概念は時と場所によって変化するのですね。極端な例を挙げますと「殺」という問題です。仏陀は五戒の中で一番最初に「殺すことなかれ」という不殺生戒をいわれました。これは命の尊厳という眼差しから生み出されてくるものですが、私たちの常識から言えば「人の命は大切・しかし敵は殺してもよい。テロリストは排除すべきである。そして私に害を与えるものは排除する。」という発想が有るように思えてなりません。何故命は大切であり・尊厳なのかを根源から問う姿勢が求められているのでしょう。「私に害を与えるものは排除してしまう」という心の深層にメスを入れ「害」が本能であるという目覚めが不害へと転じていく機縁となるのではないでしょうか。
害は所対治されるもので、能対治は不害になります。

害もまた六識中第六意識にのみ存在する随煩悩の心所であるから、害を翻じた不害は善の十一の心所の中には入れられないはずである。にもかかわらず、何故害を翻じた不害は善の心所に入れられているのか、というのが設問であり、問いに対する答えが本科段になりますね。 

 答えは、害は「數々現起し、他を損悩するが故に、無上乗の勝因たる悲を障うるが故に」という、害は悲を障礙する働き顕著である為に、というのがその理由である、と述べています。

 『述記』には、三つの理由を挙げています。 

 ① 「しばしば現起する」。害はしばしば現起する心所であり、他の煩悩・随煩悩に勝れている。
 ② 「他を損悩する」。嫉・慳には他を損悩する働きは無い。
 ③ 「無上乗の勝因である悲を障うるが故に」。害は、大乗仏教の勝因である悲を障礙する。

 前に戻ります。何故、無瞋とは別に不害の心所を立てられなければならないのか、 
 「慈と悲の二の相、別(コトナル)ことを顕さんが為の故なり」
 
無瞋は慈の働き(与楽)、不害は悲の働き(抜苦)を明らかにし、「有情を利楽することに於て、この二の働きは勝れたものだからである」、と、理論上から、そして実際的な視点から説明されています。

 如来の願心は大悲心であるということが思いだされます。南無阿弥陀仏は法であると聞いて、理解していたんですね。感覚的にですが。しかし、はっきりと法であるということがどうも解らなかったんです。法というと無為法ですね。無為法というと真如。真如というと、虚空の如く、幻事のごとく、有にも非ず、無にも非ずということで、働きが見えてこなかったんです。はっと思いましたね、ああこれだ、と。迷いが大悲なんだと。苦しいことが大悲に預かっているんだと。教法を聞いていますと、教えの外に苦悩の原因を求めているような、教えを阻害している自分が有る、と。しかしそんな存在はないんですね。いうなれば法に迷っている、苦しんでいるということになりましょうかね。この苦悩が法の働きなんですね。法の中で苦悩しているんだな、と。疑惑とは胎宮というのは法を実体化している罪なんですね。法を実体化している罪を遍計所執性と表わしているんですね。気づきは、依他起性なんでしょう。それを包んで、まろやかな光の形をもったものが円成実性、南無阿弥陀仏なんですね。それが大悲として表現されているんではないかと思いました。大悲と倶にあるものが我が身、「大悲無倦常照我身」、大悲の働きに於て我が身が照らされている、「すでにして道有り」と。(過去ログより)

 

 

 


第三能変 善の心所  第三・諸門分別 (30)

2013-12-27 23:42:34 | 心の構造について

 (1410回目の投稿になります。)

 ただ第六意識にのみに起る煩悩と随煩悩は、多くの識(五識)に影響を及ぼさない、その功能は勝れたものではない。よってこれ等を翻じたものは十一の善の心所には入れないことを説明される。

 「慢等と忿等とは、唯だ意識のみと倶なるをもってなり。」(『論』第六・九左)

 慢等とは、(煩悩の)慢・疑・悪見(五見)の七つを指す。
 忿等とは、(小随煩悩の)忿・恨・覆・悩・嫉・慳・誑・諂・憍の九つを指す。

    (能対治)      (所対治)
      不慢   →     慢
      不疑   →     疑
      正見   →     悪見

 また、六識中第六意識にのみ存在する小随煩悩を翻じた善の心所は、不忿・不恨・不覆・不悩・不嫉・不慳・不誑・不諂・不憍ですが、これらの善の心所は六識中第六意識にのみに存在し、多識に影響を及ぼさないから十一の善の心所には入れない、と云います。

 「論。慢等忿等唯意識倶 述曰。根本中慢等七。隨惑之中忿等九法。唯意識起流滿識少。所以不翻別立善法。不約一一功能増勝。不嫉即是喜無量故。亦應別翻。但以流滿識非多故。無此妨也。然不障餘翻爲善法問若爾者害唯在意。應不翻之。」(『述記』第六本下・三十四左)

 (「述して曰く。根本の中の慢等の七と、随惑の中の忿等の九法とは、唯だ意識のみに起り、識に流満すること少なし。所以は翻じて別に善法を立てず。一々の功能 増勝なるに約せられず。不嫉は即ち是れ喜無量なるが故に、亦た別に翻ずべけれども、但だ流満の識、多にあらざるを以ての故に。此の妨げなきなり。然るに余も翻じて善法と為ることを障えず。
 問。若し爾らば、害は唯だ意のみに在り、之に翻ぜざるべし。」)

 問いが出されています。次科段において答えられますが、問いは、害もまた第六意識にのみ存在する心所であるから、これを翻じたものは十一の善の心所には入れられないのではないのか、というものですが、害を翻じた不害は十一の善の心所に入れられているのですね、その説明を次科段でされます。


第三能変 善の心所  第三・諸門分別 (29)

2013-12-26 20:28:16 | 心の構造について

 「光陰矢のごとし」といいますが、早いもので今年も大晦日までカウントダウンに入りました。私事ながら、明日が仕事納め、土曜日はゆっくりと忘年会で鋭気を養いたいと思います。

 ブログの方もアチラコチラとなかなかまとまりがつきませんが、正月休みの間は、習気・現行・種子・熏習の同時因果から、本願の三心と異熟の関係について考究したいと思っています。無為自然の現行が、有為転変の世界に法として回向されていることの意味も併せて考えたいと思います。

 まだ少し日にちはありますが、本年もブログをお読みいただきましてありがとうございました。ブログを書き始めてからのアクセス数も3万回を超えました。素人の戯言にお付き合いくださいましてありがとうございます。重ねてお礼申し上げます。

 年が明けましても、お付き合いの程よろしくお願いいたします。

               ー       ・       ―

 問いに対する論主の答え

 「又諸の染法の、六識に遍せる者は勝れたるが故に、之に翻じて別に善法と立てたり。」(『論』第六・九左)

 また諸々の染法(煩悩・随煩悩を合わせた二十六法)の中で、六識に遍在するものは勝れたものであるので、これに翻じたものを別個に善法として立てたのである。

 「論。又諸染法至別立善法 述曰。論主答曰。此諸染法遍六識者。勝故翻之。以能染體遍多識故。過失流滿多識中故。」(『述記』第六本下・三十四右。大正43・440c)

 (「述して曰く。論主答えて曰く、此の諸の染法(ゼンポウ)の六識に遍ぜるは、勝れたるが故に之を翻ず。能染の體が多の識に遍ぜるが故に、過失が多の識の中(ウチ)に流満せるを以ての故に。」)

 六識の範囲において、六識中に遍在する煩悩・随煩悩は、六識という多くの識に遍在する。このことは、煩悩・随煩悩という心を煩わす心所が六識という広範囲に影響を及ぼすこと多大であるということを意味しています。これを「勝れている」と表しているのですね。

 第六意識と六識の関係からも、六識全体に影響を与える煩悩・随煩悩が勝れていることは容易にわかります。このことは、第六意識にのみ存在する煩悩・随煩悩は勝れたものではないということになります。

 六識中に遍在する煩悩・随煩悩とは、

 煩悩 - 貪・瞋・癡
 随煩悩 - 無慚・無愧(以上中随煩悩)、掉挙・惛沈・不信・懈怠・散乱・放逸・失念・不正知(以上大随煩悩)

 小随煩悩の慢・疑・悪見はただ第六意識のみに存在するので除かれます。)

 以上の煩悩・随煩悩を翻じたものが十一の善の心所として立てられています。 

 問題としては、六識中に遍在する煩悩・随煩悩の数は合計十三になります。このことは善の心所は十一立てられていますので矛盾をきたすことになります。法相唯識はこの矛盾点を以下のように会通しています。

 もう一つの問題は、害の心所です。善の心所には不害という、害を翻じたものが立てられていますが、害の心所も、六識中に遍在する心所として立てるならば、十四の善の心所が立てられなくてはなりません。この矛盾点も会通されています。

 

 「害」については「害も亦然なりと雖も、・・・」として後に説明されています。、また「失念と散乱と不正知とをば、翻じて別境に入れたるを以て、善の中には説かず」と、この三つを翻じた善の心所は、別境の善のものとして立てられているので除外すると説明しています。後に詳しく説明されます。

  


第三能変 善の心所  第三・諸門分別 (28) 問答

2013-12-24 22:55:25 | 心の構造について

 外人の問い(他学派からの問い)

 どのような理由から、諸々の染法に翻じたものを、十一の善の心所の中に立て、或は別に立て、あるものは、そいうではないとするのか。

 「何に縁ってか、諸染の翻ぜる所を、善の中に、有るは別に建立し有るは爾らざりぬる。」(『論』第六・九右)

 諸染とは、不善と有覆無期を含めたものの総体で、煩悩と随煩悩を指します。根本煩悩の六と随煩悩の二十の合計二十六です。問は、

 「根本と随煩悩の二十六とを合して、中に十一のみ別に翻じて善と為す。余とは此の中及び諸論の中に別に之を翻ぜず、何の所以か有る。」(『述記』)と。

 余とは、根本煩悩の、慢・疑・悪見と随煩悩の忿・恨・覆・悩・嫉・慳・誑・諂・憍・失念・散乱・不正知の翻じたもので、これらの心所は何故十一の善の心所に入れられないのか、という問いになります。

 論主の答え。

 「相用別なる者のみを便ち別に之を立てたり、余の善は然らず、故に責む応からず。」(『論』第六・九、右)

 相と用とは、体相と作用ですが、この相と用に固有で個別のものがあるものを十一の善の心所として立てたのである。他の善はそうではない(相と用に固有の個別のものが有るものではないもの)。故に、この問題はこれ以上つきつめない。

 「第二問答廢立 論。何縁諸染至有不爾者 述曰。外人問曰。何縁前説除別境等體外。合根本二十六隨煩惱中。十一別翻爲善。餘者此中及諸論中不別翻之。有何所以 論。相用別者至故不應責 述曰。論主答曰。相用別者別立爲善。餘所翻善相用不別。故不立之。汝何須責 問若爾此何別。自餘何無用。」(『述記』第六本下・三十四右)

 第二問答廃立。論に何縁諸染至有不爾とは、述して曰く。外人は問うて曰く、何に縁ってか前に説けるや。別境等の体を除き、外に根本と随煩悩とを合する二十六のうち十一のみ別に翻じて善と為す。余のものは此(論)のうち、及び諸論のうちに、別に之に翻ぜず。何の所以あるや。
 論主答して曰く、相用別なる者のみを別に立てて、善と為す。余の所翻の善は相用別ならず、故に之を立てず。汝は何ぞ責むることを須うるや。問、若し爾らば、此に何の別用ありや。余は何ぞ無用なるや。

 これまで、分位仮立法として立ててきた心所である不忿・不恨・不悩・不嫉は無瞋の一分として立てられたものですから、体は無瞋で、それ自体には体はもちません、また、不慳・不憍は貪の一分である。従って独自の体は持ちません。これらは善の十一の心所からは除くというのですね。

 そして、別境等の体を除き、といわれています。正見と正知は別境の慧の中で善である正慧を体としている、また、不失は正念を体としているので、これも善の十一の心所からは除き立てないという。

 但し、行捨・不害・不放逸の心所は善の心所として立てられているのは何故かという疑問が起こります。これらの三つの心所も分位仮立法なのですが、十一の善の心所に入れられているのですね。

 説明としては、確かにこれ等三つの心所は′分位仮立されたもので、固有の体はもたないが、その用はとくに勝れているので、善の十一の心所に入れられているのであるといわれています。

 


第三能変 善の心所  第三・諸門分別 (27)

2013-12-23 22:02:32 | 心の構造について

 不定の心所の場合について

 「悔と眠と尋と伺とは染・不染に通ず、触・欲等の如し、別に翻対すること無し。」(『論』第六・九右)

 

 悔と眠と尋と伺とは染・不染に通じる。それは触・欲等のようなものである。これらは、別に(煩悩や随煩悩の心所を)翻対し仮立したものではない。

 不定の四定(悔と眠と尋と伺)は染と不染との三種の性に通じる。

 染 - 不善と有覆無記を
 不染 - 善と無覆無記を指す。

 染と不染で三性(善・悪・無記)全体に通ずることになります。遍行の触等は、遍行の他の四法(作意・受・想・思)を等取し、別境の欲等は、別境の他の四法(勝解・念・定・慧)を等取している。即ち、触・欲等は三性に通じているのと同様に、不定の心所も三性に通じている。三性に通じている心所は、別に翻対して善の心所として立てないと説かれています。

 そうしてですね、ただ悪にして三性に通じないものは、悪を翻対したものを善の心所とするのである、と。例えば、貪を翻対した無貪等のようなものであり、前に説いてきた通りである。

 まとめますと、能対治と所対治ともって、煩悩と随煩悩のすべてが翻対され、善の心所として立てられています。

 

 善の心所は、本頌では十一頌で述べられています。十一の善の心所です。この十一の心所以外は善の心所としては立てられないのですが、この問題につきましては、次科段より論じられます。


等流習気と異熟習気 (4)

2013-12-22 22:13:04 | 心の構造について

 異熟から生じるものを異熟生といいますが、種子を増上縁として第八識の現行が生じ、恒に相続する、果報としてですね。それを総報とあらわして、異熟といわれています。そして、総報の果から種々の果報が生じてきますが、それを満業に酬いて六識で受ける果報として、それを異熟生と名づけられています。間断することがあるので、異熟とは名づけられないといわれます。

 「前の六識をも感ず。満業に酬いたるは異熟従り起るを以て異熟生と名づく。異熟とは名づけず。間断すること有るが故に。」(『論』第二・十一左)

 「第八識真異熟従り起るを以て異熟生と名づく。」(『述記』)

 真異熟(異熟果)の三義 - (1) 業果 (2) 不断 (3) 三界に遍ず。

 第七識は、不断であり、三界に遍ずるが、業果ではないから真異熟とは名づけられない。第六識の報心は業果であり、三界に遍ずるが間断があり、非報心は三界に遍ずるが業果ではなく間断がある。前五識の報心は業果ではあるが、間断があり、三界に遍ずるものではない。非報心は三義倶になし、と。故にただ第八識が真異熟と名づけられるのである。(『樞要』)

 真異熟を異熟識といい、初能変として別開されます。

 善悪の業果によって生じた阿頼耶識を異熟果とし、真異熟といい、果としての阿頼耶識から生じた六識の果を異熟生といわれているわけです。

 「即ち前の異熟と及び異熟生とを異熟果と名づく。果いい因に異なるが故に。」

 異熟は因は善・悪、果は無記である。真異熟と異熟生はどちらも異熟果と名づけられている、善・悪業の種子は、この異熟果を招く習気ですから、異熟習気と名づけられています。異類にして熟す、というのが正義になります。

 異熟の三義

 (1) 変異にして而も熟す。
 (2) 異時にして而も熟す。
 (3) 異類にして而も熟す。

 「此の中には且く我愛に執蔵せられ雑染の種を持する能変の果識を説いて名づけて異熟と為す。一切を謂はんとには非ず。」(『論』第二・十二右)

 異熟とは真異熟をいい、第八識のみを異熟と為し、初能変が展開される能変の果識であることを説いています。

 (1) 我愛に執蔵せられ、第八識は第七識の我執によって執蔵されて阿頼耶識と名づけられる。我愛執蔵現行を以て阿頼耶識と名づけられる。
 (2) 一切種子識である。
 (3) 能変の果識である。

 以上で、簡単ですが、最初の一頌半である、「略して難を釈し宗を標す」一段を終わります。次科段より広説が述べられます。

 明日より、また第三能変に戻り、折をみて初能変を考究したいと思います。