唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

『阿毘達磨倶舎論』に学ぶ。 本頌 (7)  第一章第二節

2012-09-30 21:49:43 | 『阿毘達磨倶舎論』

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 第十一偈

 「乱心と無心等とにおいて、随流(ずいる)して淨と不淨となり、大種所造の性なり、此に由て無表と説く。」

 無表色(無表業)の説明になります。無表色とは、表層の行為に由って、深層に種子として蓄積されることで、表層には認識されず、表れないものをいう。『倶舎論』には「無表は色業を以て性と為すと雖も、有表業の如く表示して他をして了知せしむるに比ず。故に無表と名づく。」と説明しています。

  • 乱心 - 乱す心で、反対の心をいう。例えば、業を起こしたときの心が善心ならば、その反対の心、不善や無記の心を乱心といい、業を起こした時の心が不善心ならば、その反対の善、無記の心を乱心という。善・悪の二心は不乱心のときもあるが、無記心は絶対に乱心であり、これは無記の無表はないことをあらわす。
  •  淨は善、不淨は悪のこと。
  • 無心 - 無想定・滅尽定の二無心定をいう。
  • 随流 - 無表色が永く続くという、法が連続し生起して絶えない流れを為すことをいう。
  • 大種 - 四大種
 無表色の体は淨(善)又は不善(悪)に限り、無記の無表色はない。無表色は力の強いものであるから、善か、悪に限るという。そして、無表色は四大種所造で、その体は色法であるという。有部は何故色法と考えたのかというと、表業は、身と口の二業であって、有部は、身表業の体は形色、口表業の体は声で、何れも色法である。この表業の後に起こる無表業であるから、色法という、と説明しています。しかし、第四句の「由此説無表」という結語の「説」に対して、世親は無表色の説明に不信を表したものであるといわれています。従って、無表色は法処・法界に属しながら色法であるとされる。五根の対象にならず、ただ意根の対象であるとされます。
 五根・五境・無表色については、『存在の分析』第一部 無常の弁証p80~84を参考にして下さい。

 

 

 

 
 


第三能変  三性門 その(24) 三性について、三性の同異

2012-09-29 23:51:53 | 心の構造について

「西明釋云。若依正本。非即彼定相應意識能取此聲。由此釋家二釋不同 今謂不爾。違論文故。所引釋家非經論故不可爲證釋後難者。論言五識由意識引成善染者。據初起説。非約相續善染之時恒由意引。故下論云。諸處但言五倶意識亦縁五境。不説同性 西明云。唯率爾・染淨・等流三心與五識倶。尋求・決定唯縁過去比量之心。不與五倶。問如前第四云遇非勝境。可許率爾心後五識間斷。遇勝境位率爾心後五不間斷。豈不中間起尋求已。方起決定 ・染淨・等流。若有尋決。云何不與五識倶耶。解云遇勝境位雖多刹那。率爾不斷。而無餘心。若爾率爾唯是無記。如忿恚天既是勝境。可唯無記。不見憤恚成無記故。解云許此初起率爾無記。從此心後起於染淨・等流二心。以不善故。若爾五識成善・染者必意引生。若不尋求云何起憤恚。若起尋求云何非五倶。解云三藏一解云。許五倶意通有比量。而集量説五倶現量。不説唯言。如縁教等有比量故。又解不許。 若爾前難猶未能通。解云五倶率爾。雖同無記不起尋求。由前勢分力。意成善・染引五成善・染 此亦不然。若由前力。何不初遇由前力故。即成善・染。解云可爾。此亦不然。許率爾心唯無記故云何善・染。若云除初念比量相違。又若前心已逢不善。可由前力。前惑無記。強力忽至起於憤恚。豈前有恚耶 今者解云。率爾・尋求亦許五倶。言縁過去約間斷説。今言倶者據相續説。故無縁過去。現・比同時失。」(『了義燈』第五本・二十右。大正43・750b) 

 もう少し『了義燈』を読みます。

 (「西明釈して云く。若し正本(『瑜伽論』)に依らば即ち彼の定と相応する意識、能く此の声を取るには非ずと云えり。此に由って釈家、二の釈不同なり。今謂く爾らず。論の文に違うが故に。引く所の釈家は経論に非ず。故に証と為す可からず。後の難を釈せば、論(『瑜伽論』巻第三)に五識は意識の引くに由って善染と成ると言えるは(染淨心の)初起に拠って説く。相続する善染の時に約して恒に意の引に由るというには非ず。故に下の論に云く、諸の処に但、五倶の意識も亦、五境を縁ずとのみ言うて、同性なりとは説かず。
 西明云く、唯だ卒爾と染淨と等流との三心は五識と倶なり。尋求と決定とは唯だ過去を縁じて比量の心なり。五と倶なるには非ず。
 問。前の第四に云うが如き、非勝の境に遇うならば卒爾心の後に五識間断すと許す可けれども、勝境に遇う位は卒爾心の後の五、間断せず。豈、中間に尋求を起こし已って、方に決定と染淨と等流とを起こすにあらず。若し尋と決と有らば云何ぞ五識と倶ならざるや。
 解して云く、勝境に遇う位多刹那なりと雖も、卒爾断ずるにあらざるなり。而も余の心はなし。若し爾らば卒爾には唯是れ無記のみなりと。忿恚天の如き既に是れ勝境なり。唯無記なるべし。憤恚の無記を成ずをば見ざるが故に。(西明)解して云く、此の初に起こる卒爾は無記なりと許す。此の心従り後には染淨と等流との二心を起こす、不善なるを以ての故に。若し爾らば五識が善染と成ることは必ず意に引生せり。(第六)若し尋求せずば云何が憤恚を起さんや。若し尋求を起こさば云何が五と倶に非ざるや。
 解して云く、三蔵の一の解は云く、五と倶の意も通じて比量有りと許す。而も集量には五と倶なる現量なりと説いて唯と云う言を説かず。教等の縁ずる比量有るが故に。
 又、解す、許さず。若し爾らば前の難猶未だ通ずること能はざるべし。
 解して云く、五と倶なる卒爾も同じく無記なり。尋求を起こさずと雖も、前の勢分力に由って意は善・染と成って五を引て善・染と成る。此れ亦、然らず。若し前の力に由るといはば、何ぞ初に遇うときに前の力に由るが故に即ち善・染を成ぜざらん。
 解して云く、爾る可し。此れ亦、然らず、卒爾心は唯無記なりと許せり。故に云何ぞ善・染なあん。若し初念(卒爾)を除くと云うといはば、比量と相違しぬ。又、若し前の心、已に不善に逢うならば前の力に由る可し。前に或は無記なるも強力忽に至るときは憤恚を起こす。豈、前に恚有らんや。
 (『了義燈』)に今、解して云く、卒爾、尋求も亦、五と倶なりと許す。過去を縁ずると言うは間断するに約して説くなり。今倶なりと言うは相続に拠って説く。故に過去を縁ずるに於て現と比と同時なる失無し。」)



第三能変  三性門 その(23) 三性について、三性の同異

2012-09-27 23:09:17 | 心の構造について

 昨日の続きになります。

 「若し已に分(初地以上)に転依を得たる者と自在(八地以上)を得たる者と、五心は倶なる者とは、三性に通ずべし。爾らずんば如何ぞ、『論』に声を取る(卒爾)の時に即便ち出定に非ず。声を領受し已って(第六)若し希望(尋求)有って、後の時に方に出づと言うや。此れ希望を言うは即ち、尋求心なり。説いて希望せんと欲する時に、即便ち定を出づるとは言うことを得ず。『論』に若し希望有って後に方に出づと云うが故に。亦、定前の加行に期願を立て云く、若し異の声を聞かば即便ち定を出て境事を尋求せん、故に希望と言う。定の中にして尋求を作すとには非ずと言うことを得じ。何とならば声を希望する時は定の内に在りと為んや。已に定を出づと為んや。若し定の内に在りといわば、希望するの心は即ち、是れ尋求なり。尋求の心は欲と倶なるが故に。若し此の希望は尋求に非ずんば是れ何の心にか摂するや。若し希望する時即ち已に定を出づと云はば論文と違しぬ。論に云く、若し希望有って後時に方に出づと云う故にと云えり。」

 五心の説明

 ある一つの認識が成立するために順次に起こる卒爾・尋求・決定・染淨・等流の五つの心。

  •  卒爾心 - 対象に対して突如として起こる心。一つの認識が成立する過程の最初の心。卒爾堕心ともいう。
  •  尋求心 - 対象が何かと追及する心。
  •  決定心 - 対象が何であるかはっきりと知覚する心。
  •  染淨心 - 知覚された対象に対して思いを付与して対象を善(淨)か悪(染)に色づけする心。
  •  等流心 - 善か悪かに色づけした心が持続すること。

 尚、五識が染・淨となるのは必ず意識の引導に依るわけですから、意識の染淨心は一刹那であるけれども、五識の染淨心は多刹那であるというわけです。この説明は、次の『了義燈』に述べられています。  明日は、河内聞法会の為、ブログは休ませていただきます。


第三能変  三性門 その(22) 三性について、三性の同異

2012-09-26 23:13:20 | 心の構造について


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図解は、深浦正文著 『唯識学研究』下巻p316より転載しました。

 「この異性倶起の場合、能引の意識は境の強烈なるに偏注することによってその性が定まる。すなわち、今の図にていえば、初め眼識同時の意識は不善性であったが、次に耳識の境強く来って耳識を惹起せば、同時の意識はそれに偏注して善性となり、また更に鼻識の境強く来って鼻識を惹起せば、同時の意識はそれに偏注して無記となるがようである。これ五識の善・染となる初起は必ず意識に引導されるが、等流相続までも意識に引導されるのでないから、その場合意識は、強烈なる対境によって惹起された別の識の性を決定して、それに随うのである。
 かく五識は相続して五心を具し、以て倶生するから、三性並存することを得る。よって『瑜伽』巻六十三に、
 
若遇聲縁従定起者、與定相応意識倶転、余耳識生、
というている。」(『唯識学研究』p316より)

 「若遇聲縁従定起者、與定相応意識倶転、余耳識生、」は、証拠を引く段に詳細が述べられます。(「若し声の縁に遇うて定より起こるは、定相応の意識と倶転して余の耳識生ず、)

 『了義燈』には

問五識三性許得容倶者。且善眼識至等流已。不善耳識所縁。縁至起率爾心。爾時意識亦同聞聲。爲是率爾。爲等流心。若等流心當與眼識同是善性。率爾無記。未轉依位前三無記。不可二性一心並起。若是無記。眼識爾時如何成善。無善意識爲能引故 答且通初難。五心義説。善等流意與耳同縁。雖是善性。亦名率爾。以其聲境創墮心故。不可説是等流之心。前未聞聲故。不得唯率爾。亦與眼識仍同縁故。故因通二。然是善性。言前三心未轉依位 唯無記者。或據全未轉依。不得自在別別五心。多分而説。若已分得轉依之者。得自在者。五心倶者。可通三性。不爾如何論云非取聲時即便出定。領受聲已若有希望後時方出。此言希望即尋求心。不得説言欲希望時即便出定。論云若有希望後方出定故。亦不得言定前加行立期願云。若聞異聲即便出定尋求境事故言希望。非於定中作尋求。何者希望聲時。爲在定内。爲已出定。若在定内。希望之心即是尋求。尋求之心與欲倶故。若此希望非尋求者。是何心攝。若云希望即已出定。與論文違。論云若有希望後時方出故」(『了義燈』第五本・二十右。大正43・750a)

 (「問う。「五識は三性に倶にある容きことを得と許す」は、(総じて難ず)且く、善の眼識は等流に至り已ぬるとき、不善の耳識か所縁の縁、至を以て、卒爾心を起す。爾の時の意識亦同じく声をも聞く、是れ卒爾と為んや。等流心と為んや。(別して難ず)若し等流心と云わば、當に眼識と同じく是れ善性なるべし。卒爾と云わば無記なるべし。未転依の位には前の三は無記と云うを以て、(結して難ず)二の性一心に並べて起こるべからず。若し是れ無記ならば眼等爾の時に如何ぞ善と成らん。善の意識として能引くと成ること無きが故に。」

 こういう問いを立てています。そして次に、

 「答。且く初難を通せば、五心に於て義を以て説くならば、善の等流の意が耳と同縁するも是れ善性なりと雖も、亦、卒爾と名づく。其の声の境に創めて堕する心なるを以ての故なり。是れ等流の心とは説く可からず。前に未だ声を聞かざるが故に。唯の卒爾のみをば得ず。亦眼識と仍ほ同じく縁ずるが故に。故に、二(卒爾と等流)に、通ず可し。然るに是れ(第六識)善性なり。前三の心は未転依の位には唯無記なりと言うは、或は全に未だ転依せず、自在を得ざると、別別の五心とに拠って、多分を以て説けり。」 (すみません、今日はここまでにしておきます。)

 


第三能変  三性門 その(21) 三性について、三性の同異

2012-09-25 21:41:37 | 心の構造について

護法の説(正義を示す)

 有義は、六識は三性倶にもある容し。』(『論』第五・十八左)

 ここは正しい意義を述べます。先の難陀等の説とは異なり六識には三性が並び立つこともある、と正義を示します。

 「卒爾(そつに)と等流との眼等の五識は、或いは多にも或いは少にも倶起すべきが故に。」(『論』第五・十八左)

 『述記』は本文を五段階にわけて説明しています。

 1. 護法の説を述べる。
 2. 護法の説の根拠を述べる。
 3. 護法の説の問題点を考える。
 4. 証拠を引く。
 5. 他の文献との相違を会通する。

  「三性倶にもある容し」というは、一切の時に皆必定して倶なるに非ず。倶なる時も有るが故に論に(容し)と言うなり。」

 「卒爾(そつに)と等流との」ということは、五心の中の二つです。五心とは外界の対象を知覚するとき、順次に起こる卒爾心・尋求心・決定心・染浄心・等流心の五つをいいます。護法の説は(眼等の)五識は難陀等が説明するように、一刹那に滅してしまうのではなく、「多にも、或いは少にも」と、多刹那にわたっても存在すると主張しているのです。五心の中の二つをもっていわれることは、心が外界の対象を知覚(認識)するとき、初めて対象に向かいはじめた心(卒爾心)から五段階の最後の染浄心が相続した状態の心(等流心)をもって多念に相続することが三性が並起するのであると説いています。
 (「述して曰く。此の師は正義なり。中に於いて五有り。一に宗を標し、ニに理を立て、三に難を釈し。四に証を引き、五に違いを解す。此れはそのニなり。 (三性倶にもある容し)と言うは、一切の時に皆必定して倶なるに非ず。倶なる時も有るが故に論に(容し)と言うなり。已下は理を為して言く。率爾と等流との眼等の五識は或いは多、或いは少も倶起す容きが故に。此に五識相続すという文(『瑜伽論』巻第一)を引くことは、前の等無間依の中に説きしが如し。既に(五識の)等流心を多念と許すが故に、五識と(三性)倶なるべし。

 (問う)此れ(別して釈す)何等(念の多少に約する義)の如きなり。(答う)眼識善の色を縁じて等流心に至って多念の已るときに、後(復)に不善の声の境現前すること有るが如き、意は(不善)の耳と同じく(声)を縁ず。亦(意と眼識と同じく)色境をも縁ずと雖も、而も声の境勝れたるをもって乃至(意の力)不善の耳識を起して、彼の不善の耳識をして生ぜしむをもって、前の眼識の善と耳の不善とは未だ滅せず。是くの如く等流多念に生じ已って、乃至余の無記の香等の至る時に、乃至意は同じく縁ずと雖も、境の強く引くに随って無記の鼻識を起して生ぜしむ。即ち等流は多くして卒爾は少なし。或いは前の一の眼識は久しく已に断ぜずして、已に尋求を起こすと雖も、尋求未だ了らず眼更に重ねて観ず。意もまた尋求す。尋求未だ已らざるをもって決定を起さず。是くの如く或いは多の卒爾あり。後の時に耳等の識一の卒爾を生じ已る。(尋求・決定・染浄)乃至即ち等流の耳識有って次いで而も起こるが故に。是れ卒爾は多念にして等流は少なし。五識倶行すること有りと許す容きが故に、三性並ぶことを得。 

 又解す(識の多少に約するの義)、卒爾と等流とのニ心の時に眼等の五が中に、或いは三・四等多く一・ニ等少なく倶起す容きが故に、五(識)は一念なりと雖も三性倶なることを得。

 若し(対し評ず)一向に同境なる時は、即ち不善の意、眼識に随って並に行じ已る。設い耳の縁至るとも亦声を縁ぜず。爾らずは即ち眼識断滅して意方に声を縁ずるを須ゆべし。此れは前師の意なり。今の説は一の意識と五と同縁す。而も性は定まらず。」)

 具体的に喩を出しています。その内容は、「先ず眼識が善の色境を縁じ、五心を経て、至ってなお、多念の間、眼識は善の等流心として相続する。しかし俄に不善の声が聞こえたとする。すると不善の声境が現前して耳識が起こり、同時に意識は不善の耳と同じく声を聞く。そこで不善の意識が起こり不善の耳識を起こす。(声の境勝れたるをもって)認識作用は後に起こった方が強いので(牽引力)善の色境があるのだけれども、今の耳の不善と並び立つことになる。そこに無記の香境が現前し鼻識が起これば、意識はこれを認識して無記の意識となり、善・不善・無記の三性が並び立つことになる。善か、不善か、無記の初めて対象に向かいはじめた心を卒爾心と呼び、五識のはたらきになる。次の刹那、即ち尋求心(これは何故かと尋ね求める、探求する心)から、染浄心は、第六意識の範囲となる。尋求心から決定心(けつじょうしんー尋ね求めようとした事柄が明らかになった心。決定し得た心)を経て染浄心になるわけです。染浄心は決定し得た心が染なのか、浄なのかを起こす段階の心だといわれます。ここで善・不善・無記の心が起こるのです。例えば初めの眼識は善の等流、次の耳識は不善の等流、後の無記の鼻識が起こってくると卒爾は多くあるけれども、現前の意識は牽引力に依り無記の鼻識を認識しているのですが、前・次の等流心が無くなったのではなく隠されているのです。五識がいろいろな形で現行してくるわけですが、そこに第六意識が認識し倶起するのです。これにより三性が並び立つこともあり得るというわけです。
 (問い)五識が三性並び立つというのであれば、それを認識する第六意識が一時に三性並ぶという誤った理に陥ることは無いのか。
 (答え)「一の意識と五と同縁す」意識は前五識とは同時に起こるものではあるけれども、その性までもが同じというわけではない、と。

 善・不善・無記の境を認識した最初の卒爾心はいったん起してしまったならば一刹那の問題ではなく、起した結果は無くならないという事です。意識の上には上ってこないと思っていても意識に引導された五識が生起して等流心として存在する場合に、別々の三性である五識が並び立つことがあるというと、護法は説明しています。

 
 
 

『阿毘達磨倶舎論』に学ぶ。 本頌 (6)  第一章第二節

2012-09-23 19:59:12 | 『阿毘達磨倶舎論』

001 図解は、桜部 建著 『倶舎論』より引用。(五蘊・十二処・十八界の説明)

   ー    ・    ―
 二に、聲境

  「聲は唯八種有り」と。耳根によって(聞)かれる境界が八種あるという。耳(聴覚器官)の対象としての声や音で、大別すると三種に分けられます。

  1. 有執受と無執受(感覚あるものと、感覚なきもの)、有情の発する声は有執受(因執受大種声)、自然界(風林等)が発する声は無執受(因不執受大種声)という。
  2. 有情名と非有情名(意味の分かる音と、自然界の無詮表の音)の別。
  3. 可意と不可意(ここちよい音と、ここちわるい音)の別。可意と不可意は主観の立場にたった分類といえる。

 この三種を開くと八種になるといいます。

  1. 有執受の大種を因とする有情名の可意声。大種は四大種所生、大種を因とする意味を伝える快ちよい声(明了声)。
  2. 有執受の大種を因とする有情名の不可意声。不快な声(不明了声)。
  3. 有執受の大種を因とする非有情名の可意声。拍手等のここちよい音。
  4. 有執受の大種を因とする非有情名の不可意声。失敗しているのに拍手をされるようなもの。
  5. 無執受の大種を因とする有情名の可意声。
  6. 無執受の大種を因とする有情名の不可意声。
  7. 無執受の大種を因とする非有情名の可意声。自然界から発せられるここちよい音。せせらぎの音等。
  8. 無執受の大種を因とする非有情名の不可意声。自然界から発せられるここちの悪い音。暴風等の音。

 生きもの(有執受)と事物(無執受)の共同によって発する声は因執受不執受大種声という。(人間が打つ太鼓の音等)

 三に、香境

 鼻根に依って嗅がれる境界(嗅覚器官の対象としてのにおいや香り。)

 「香は四種なり。」

  1. 好香(好ましい香)
  2. 悪香(好ましくない不快な香)
  3. 等香(適度な香り)
  4. 不等香(不適度な香り)

 好香と悪香を合して平等香とし、等香を好香、不等香を悪香とする三分類も説かれています(『品類足論』)。

 四に、味境

 舌根に依って味わわれる境界(味覚器官の対象としての味)

 「味は六」(味境は六種に分かれる。)

  1. 甘いー甘さ
  2. 醋(す)ー酸っぱさ
  3. 醎(かん)-しおからさ
  4. 辛ー香辛のからさ
  5. 苦(にがい)-にがさ
  6. 淡(たん)-淡い。水のような味をいう。

 五に、触境

 身根に依って触れられる境界(触覚器官の対象としての感触)

 「触は十一を性と為す」

  1. 風の四大種と(四大種は能造、その他は所造)
  2. 滑-なめらかさ
  3. 渋-粗さ
  4. 重-重さ
  5. 軽-軽さ
  6. 冷-冷たさで、暖欲の因となるもの)
  7. 饑(き)-うえるという意味。食欲の因となるもの。
  8. 渇ーかわき。飲欲の因となるもの。

 説明だけに終始していますが、部派仏教のアビダルマの論者はヨーガを通して心の中で起こってくる世界観を、五蘊・十二処・十八界と見定めてきたのでしょう。

 


第三能変  三性門 その(20) 三性について、三性の同異

2012-09-22 19:50:27 | 心の構造について

 「瑜伽等に蔵識は一時に転識相応の三性と倶起すと説けるは、彼れには多念に依りて云う。一心と説けども一の生滅に非ずと云うが如し。相違の過無きなり。」(『論』第五・十八左)

 (『瑜伽論』(巻第五十一)等に「阿頼耶識は、一時に転識と相応する三性と倶に起こる」と説かれているのは、それは多念によって説かれているのであり、それは一心と説かれていても、一刹那の生滅ではないというようなものであり、難陀等の説が『瑜伽論』等の説に相違しているという過失はない。)

『瑜伽論』巻第五十一の記述

 「復次に阿頼耶識は或は一時に於て転識と相応する善・不善・無記の諸の心法と倶時にして転ず。」(大正30・580c)

と、説かれているのは、『述記』によれば、

 「論。瑜伽等説至無相違過 述曰。下釋難也。等取顯揚等。依多念説名倶。喩云如瑜伽第三・及五十六説有一心。非是一生滅刹那。故言倶也。彼第三云。如經言起一心多心。云何一心。謂世俗言説。一心刹那非生起刹那。謂一處爲依止。於一境界事。有爾所了別生。總爾所時名一心刹那。又相似相續亦説名一。與第二念極相似故等。明第八識與五識等三性不倶。善眼染七自無記故。雖有三性。倶遮餘轉識三倶生故。」(『述記』第五末・六十一左。大正43・907c)

(「述して曰く。下は難を釈するなり。顕揚等を等取す。多念に依って説いて倶と名づく。喩て云く、瑜伽の第三及び五十六に一心有りと説くとも、是れ一の生滅の刹那に非ずと云うが故に倶と言うなり。彼の第三に云く、経に言うが如し。一心・多心を起こすと云う、云何ぞ一心と云うや。謂く世俗の言説の一心の刹那なり。生起刹那に非ず。謂く一処を依止と為して、一の境界の事に於て爾所の了別生ずること有り。総じて爾所の時を一心の刹那と名づく。又相似相続するを亦説いて一と名づけ、第二念と極めて相似するが故に等と云えり。明けし第八識は五識等の三性と倶ならずと云うことを。善の眼と染の七と、自の無記との故に。三性有りと雖も、倶に余の転識の三倶生するを遮するが故に。」)

 上記の『述記』の説明によれば、『瑜伽論』等に「阿頼耶識は、一時に転識と相応する三性と倶に起こる」と説かれているのは、同時にという意味ではなく、多念にわたって転識と相応するのであると説かれているものである、と。喩が出されます。「喩ていうならば、一心と述べているが、一刹那で生滅する心を指すのではないというようなものである」と。 

 


第三能変  三性門 その(19) 三性について、三性の同異

2012-09-21 22:32:54 | 心の構造について

 『述記』に、

 

 「若し導き生ずと雖も、五(識)は三性並ぶと云えば、即ち(能引の)意識も一念の中に三性に通ずる義を許すべし。所引の五識既に一念の中、三性に通ずと許さば、能引の意も性必ず同なるべし。」

 

 五識に三性が並び立つのであれば、その五識は、第六意識が引生させたものであるから、第六意識の一念の中に、三性が並び立つことになってしまう、これは正理に違することになる、と説明しています。

 

 そして『述記』は『顕揚論』を引用してその論拠を述べています。

 

「若し三性倶ならずんば、何が故か『瑜伽』第五十一と『顕揚』第一と及び十七とに皆本識は一時に三性倶転すと云うや。此の文を会して云く。」 (難を釈す - もし、三性が並び立つことはないというのであれば、どうして論書に本識(阿頼耶識)は、一時に六転識の三性と倶に転ずと云うのであろうか、これはつまり同時に並び立っていることではないのか、という疑問に会通するのがこの科段になります。)

 

 「『瑜伽』等に、蔵識は、一時に転識相応の三性と倶起すと説けるは、彼は多念に依っていう。一心と説けといえども一の生滅に非ずというが如し。(『瑜伽』等に)相違の過無きなり。」    (『瑜伽』等に第八阿頼耶識は、「一時に転識相応の三性と倶起す」と説かれていることは、それは多念(長時間にわたる心作用)に依って説かれているのである。一心と説かれてはいるが一刹那の生滅というのではない。それによって、この有義は『瑜伽』等に相違している過ちは無いのである。)

 

 ここは難陀等の立場から説明されています。「若し三性倶ならずば、何が故に瑜伽の第五十一、顕揚の第一及び十七に、皆本識は一時に三性と倶に転ずと云う」(『述記』)という問いです。三性が並び立たないとするならば、阿頼耶識は同時に六転識の三性と並び立つというのか。六転識の三性が同時に並び立つことがなかったなら、瑜伽の第五十一、顕揚の第一及び十七に三性倶転とは説かれないのではないか。という問いですね。これに対して難陀等の立場から上記に述べました答えが説かれているのです。難陀等の解釈は「一時与転識相応三性倶起」というのは、多念にわたって、転識と相応する三性と倶転するという義であって、同時に倶転するという義ではないのであるという訳です。

 

 次に護法の正義(三性倶起説)が述べられます。


第三能変  三性門 その(18) 三性について、三性の同異

2012-09-20 23:00:23 | 心の構造について

 『述記』に「顕揚第十九に説くが如く、設い定中に聲を聞くは二因に由って説く。謂く定の所縁の境と及び種々の所縁の境とを了別する意識に由るが故に。二に此れ倶生する耳識に由るが故にと云えり」の文を『演秘』が解釈しています。

 「 疏。顯揚論十九至倶生耳者 了別定所縁等。是第一因 由此倶生耳識。是第二因。顯定意識能縁定境及非定境。故説種種所縁境言。定境法處。種種境者。通五塵等。(『演秘』(第四末・四十九右。大正43-908a)

  •  第一因 - 「定の所縁の境と及び種々の所縁の境とを了別する意識に由る」
  •  第二因 - 「此れ倶生する耳識に由る」

 定の意識は能く定の境と及び非定の境とを縁ずと云うことを顕す。種々所縁の境の言を説く。定の境と云うは法処なり。種々の境と云うは五塵等に通ず。」

 尚、法処、五塵等に通ずということについて『了義燈』には、

 「問佛五識縁五塵之境爲定生不。若定所生應法處攝。五根亦爾 答有二解。准下第十。一云法處。唯有三界成無漏故。一云夫定所變。未必定在法處所收。若無色界定力所起即法處收。以無所依根・境別故。若在色界定通力生。通自處攝。如天眼・耳非在法處 或託質變五境所收。若獨影起即法處攝。或在佛位法爾無漏五塵境收。新所熏者即法處攝。以其法爾不由定通。若新熏者由定通起故。」(『了義燈』第五本・十九左。大正43・749c~750a)

 (問。仏の五識の縁ずる五塵の境は、定より生ずると為んや不や。若し定に生ぜらるといわば、法処に摂むべし。五根も亦爾るべし。

 答。二の解有り。下の第十に准ぜば、一に云く法処なり。唯、三の界(意界・法界・意識界)のみ有って無漏を成ずるが故に。一に云く、夫れ定所変は未だ必ず定んで法処に在って収めらるるに非ず。(色・無色相対)若し無色界の定力に起されたるは、即ち法処に収む。所依の根と境と別なること無きを以ての故に。若し色界に在って定通力を以て生ずるならば、自処に通じて摂まらる。天眼・耳の法処に在るに非ざる如く、或いは(本質有・無相対)質に託して変ぜるならば五境に収めらる。若し独影にして起こるならば、即ち法処に摂む。或いは(本有新熏相対)仏位に在って法爾無漏の五塵の境に収む。新所熏の者ならば即ち、法処に摂む。其の法爾のは定通に由らず、若し新熏の者は定通に由って起こるを以ての故に。」


第三能変  三性門 その(17) 三性について、三性の同異

2012-09-19 23:17:58 | 心の構造について

 次は、第六意識に三性が並生することがないという根拠を述べる。

 「若し五識いい三性に倶に行ずと許さば、意識も爾の時に三性に通ず応し、便ち正理に違しぬ故に定んで倶にあらず。」(『論』第五・十八左)

 (もし、五識に三性が倶に活動することを許してしまえば、五識を導き生じさせた意識の中にも、その時に三性が共に引き起こされていることになる。しかし、それは正理に反しているので、従がって三性と共ではない。第六意識中に三性が並び立つことはないのである。)

「論。若許五識至故定不倶 述曰。若雖導生五三性並。即許意識一念之中通三性義。所引五識既一念中許通三性。能引之意性必須同。如次所引。如顯揚第十九説。設定中聞聲。由二因取。謂由了別定所縁境。及種種所縁境意識故。二由此倶生耳識故。故雖在定亦是同縁。故定不倶。如不善眼識與意倶行。設聲縁至亦不能了。要眼識滅耳識方生。故定不倶。無意引故。此師意説。五識不相續故。五識不並生。亦非五識次第生。故三性不並。上説五識唯一念解 又解設率爾唯一念。等流通多念。亦不許三性並生。能引之意非三性故。此同性・同縁之理如下當解 若三性不倶何故瑜伽第五十一・顯揚第一・及十七皆云本識一時三性倶轉。」(『述記』第五末・六十左。大正43・419b)

 「若し導き生ずと雖も、五(識)は三性並ぶと云えば、即ち(能引の)意識も一念の中に三性に通ずる義を許すべし。所引の五識既に一念の中、三性に通ずと許さば、能引の意も性必ず同なるべし。次に引く所の如し。顯揚第十九に説くが如し。設い定中に聲を聞くは二因に由って取る。謂く定の所縁の境と、及び種々の所縁の境とを了別する意識に由るが故に。二に此れと倶生する耳識に由るが故にと云えり。故に定に在って亦是れ同縁と雖も、故(かれ)定んで倶ならず。不善の眼識の如き意と倶行するとき、設い聲の縁至るも亦了すること能わず。要ず眼識滅して耳識方に生ず。故に定んで倶ならず。意の引くこと無きが故に。此の師の意の説く、五識は相続せざるが故に、五識は並生せず。亦五識次第に生ずるものにも非ず。故に三性並べず。上に五識は唯一念なりと説きて解す。又解す。設い卒爾は唯だ一念にして等流は多念に通ずとも、亦三性並生すと許さず。能引の意は三性に非ざるが故に。此れ同性同縁の理は下に當に解するが如し。若し三性倶ならずんば、何が故に『瑜伽』の第五十一と『顕揚』の第一及び十七に皆本識は一時に三性倶転すと云う。」)

 『瑜伽論』巻第五十一に「蔵識は一時に転識相応の三性と倶起す」と説かれているのは、相続の多念に依って云うのである、と難陀等は説明します。即ち、阿頼耶識が、多刹那にわたって、転識と相応する三性と倶転するという意味であって、同時に倶転するということではないというのです。従って、『瑜伽論』の記述の「一時」とは同時という意味ではなく、多刹那のことを述べているのであって、多刹那の内に三性の別がある六識と倶転するということであって、難陀等が主張する三性不倶起説と矛盾するものではないという。

 『演秘』の釈に戻ります。

 「又第二の難(護法が難陀の義を難ずる文)に、卒爾と等流の眼等の五識は、或いは多にも、或いは少にも倶起すべしと言う。初めの師、若し其の倶と許さざれば、何が故に第二に是の如く難を立つるや。詳にして曰く、既に明らかなる教え無けれども別に理の通ぜるを釈す。而して教を援けて疏を斥くこといまだ其の可なることを見ず。然る所以は、瑜伽釈家の三義は許すや否や。許さずんば何んぞ引くや。許さば即ち何故にか疏の言を非するや、第一に順ずるが故に。又此の論に、瑜伽等に転識相応の三性と倶起すと説くは多念(多刹那にわたること)に依りていう等と云えり。」   (つづく)