護法の説(正義を示す)
「有義は、六識は三性倶にもある容し。』(『論』第五・十八左)
ここは正しい意義を述べます。先の難陀等の説とは異なり六識には三性が並び立つこともある、と正義を示します。
「卒爾(そつに)と等流との眼等の五識は、或いは多にも或いは少にも倶起すべきが故に。」(『論』第五・十八左)
『述記』は本文を五段階にわけて説明しています。
1. 護法の説を述べる。
2. 護法の説の根拠を述べる。
3. 護法の説の問題点を考える。
4. 証拠を引く。
5. 他の文献との相違を会通する。
「三性倶にもある容し」というは、一切の時に皆必定して倶なるに非ず。倶なる時も有るが故に論に(容し)と言うなり。」
「卒爾(そつに)と等流との」ということは、五心の中の二つです。五心とは外界の対象を知覚するとき、順次に起こる卒爾心・尋求心・決定心・染浄心・等流心の五つをいいます。護法の説は(眼等の)五識は難陀等が説明するように、一刹那に滅してしまうのではなく、「多にも、或いは少にも」と、多刹那にわたっても存在すると主張しているのです。五心の中の二つをもっていわれることは、心が外界の対象を知覚(認識)するとき、初めて対象に向かいはじめた心(卒爾心)から五段階の最後の染浄心が相続した状態の心(等流心)をもって多念に相続することが三性が並起するのであると説いています。
(「述して曰く。此の師は正義なり。中に於いて五有り。一に宗を標し、ニに理を立て、三に難を釈し。四に証を引き、五に違いを解す。此れはそのニなり。 (三性倶にもある容し)と言うは、一切の時に皆必定して倶なるに非ず。倶なる時も有るが故に論に(容し)と言うなり。已下は理を為して言く。率爾と等流との眼等の五識は或いは多、或いは少も倶起す容きが故に。此に五識相続すという文(『瑜伽論』巻第一)を引くことは、前の等無間依の中に説きしが如し。既に(五識の)等流心を多念と許すが故に、五識と(三性)倶なるべし。
(問う)此れ(別して釈す)何等(念の多少に約する義)の如きなり。(答う)眼識善の色を縁じて等流心に至って多念の已るときに、後(復)に不善の声の境現前すること有るが如き、意は(不善)の耳と同じく(声)を縁ず。亦(意と眼識と同じく)色境をも縁ずと雖も、而も声の境勝れたるをもって乃至(意の力)不善の耳識を起して、彼の不善の耳識をして生ぜしむをもって、前の眼識の善と耳の不善とは未だ滅せず。是くの如く等流多念に生じ已って、乃至余の無記の香等の至る時に、乃至意は同じく縁ずと雖も、境の強く引くに随って無記の鼻識を起して生ぜしむ。即ち等流は多くして卒爾は少なし。或いは前の一の眼識は久しく已に断ぜずして、已に尋求を起こすと雖も、尋求未だ了らず眼更に重ねて観ず。意もまた尋求す。尋求未だ已らざるをもって決定を起さず。是くの如く或いは多の卒爾あり。後の時に耳等の識一の卒爾を生じ已る。(尋求・決定・染浄)乃至即ち等流の耳識有って次いで而も起こるが故に。是れ卒爾は多念にして等流は少なし。五識倶行すること有りと許す容きが故に、三性並ぶことを得。
又解す(識の多少に約するの義)、卒爾と等流とのニ心の時に眼等の五が中に、或いは三・四等多く一・ニ等少なく倶起す容きが故に、五(識)は一念なりと雖も三性倶なることを得。
若し(対し評ず)一向に同境なる時は、即ち不善の意、眼識に随って並に行じ已る。設い耳の縁至るとも亦声を縁ぜず。爾らずは即ち眼識断滅して意方に声を縁ずるを須ゆべし。此れは前師の意なり。今の説は一の意識と五と同縁す。而も性は定まらず。」)
具体的に喩を出しています。その内容は、「先ず眼識が善の色境を縁じ、五心を経て、至ってなお、多念の間、眼識は善の等流心として相続する。しかし俄に不善の声が聞こえたとする。すると不善の声境が現前して耳識が起こり、同時に意識は不善の耳と同じく声を聞く。そこで不善の意識が起こり不善の耳識を起こす。(声の境勝れたるをもって)認識作用は後に起こった方が強いので(牽引力)善の色境があるのだけれども、今の耳の不善と並び立つことになる。そこに無記の香境が現前し鼻識が起これば、意識はこれを認識して無記の意識となり、善・不善・無記の三性が並び立つことになる。善か、不善か、無記の初めて対象に向かいはじめた心を卒爾心と呼び、五識のはたらきになる。次の刹那、即ち尋求心(これは何故かと尋ね求める、探求する心)から、染浄心は、第六意識の範囲となる。尋求心から決定心(けつじょうしんー尋ね求めようとした事柄が明らかになった心。決定し得た心)を経て染浄心になるわけです。染浄心は決定し得た心が染なのか、浄なのかを起こす段階の心だといわれます。ここで善・不善・無記の心が起こるのです。例えば初めの眼識は善の等流、次の耳識は不善の等流、後の無記の鼻識が起こってくると卒爾は多くあるけれども、現前の意識は牽引力に依り無記の鼻識を認識しているのですが、前・次の等流心が無くなったのではなく隠されているのです。五識がいろいろな形で現行してくるわけですが、そこに第六意識が認識し倶起するのです。これにより三性が並び立つこともあり得るというわけです。
(問い)五識が三性並び立つというのであれば、それを認識する第六意識が一時に三性並ぶという誤った理に陥ることは無いのか。
(答え)「一の意識と五と同縁す」意識は前五識とは同時に起こるものではあるけれども、その性までもが同じというわけではない、と。
善・不善・無記の境を認識した最初の卒爾心はいったん起してしまったならば一刹那の問題ではなく、起した結果は無くならないという事です。意識の上には上ってこないと思っていても意識に引導された五識が生起して等流心として存在する場合に、別々の三性である五識が並び立つことがあるというと、護法は説明しています。