先々月来から、種子の六義について考究させていただいていますが、今回は残りの、性決定・待衆縁・引自果から学びを得て、所熏の四義及び能熏の四義について学びたいと思います。
尚、所熏の四義につきましては、2014年4月24日から5月2日に書き込みをしております。また、能熏の四義につきましては、5月3日から12日において書き込みをしておりますので参考にしてください。
今回は少し重複いたしますが、総結について簡単に説明させていただきます。
本文
「然種子義略有六種。一刹那滅。謂體纔生無間必滅有勝功力方成種子。此遮常法常無轉變不可説有能生用故。二果倶有。謂與所生現行果法倶現和合方成種子。此遮前後及定相離現種異類互不相違。一身倶時有能生用。非如種子自類相生前後相違必不倶有。雖因與果有倶不倶。而現在時可有因用。未生已滅無自體故。依生現果立種子名不依引生自類名種。故但應説與果。倶有。三恒隨轉。謂要長時一類相續至究竟位方成種子。此遮轉識。轉易間斷與種子法不相應故。此顯種子自類相生。四性決定。謂隨因力生善惡等功能決定方成種子。此遮餘部執異性因生異性果有因縁義。五待衆縁。謂此要待自衆縁合功能殊勝方成種子。此遮外道執自然因不待衆縁恒頓生果。或遮餘部縁恒非無。顯所待縁非恒有性。故種於果非恒頓生。六引自果。謂於別別色心等果各各引生方成種子。此遮外道執唯一因生一切果。 或遮餘部執色心等互爲因縁。唯本識中功能差別具斯六義成種非餘。外穀麥等識所變故。假立種名非實種子。此種勢力生近正果名曰生因引遠殘果令不頓絶即名引因内種必由熏習生長親能生果是因縁性。外種熏習或有或無。爲増上縁辦所生果。必以内種爲彼因縁。是共相種所生果故。依何等義立熏習名。所熏能熏各具四義令種生長。故名熏習。何等名爲所熏四義。一堅住性。若法始終一類相續能持習氣。乃是所熏。此遮轉識及聲風等性不堅住故非所熏。二無記性。若法平等無所違逆。能容習氣乃是所熏。此遮善染勢力強盛無所容納故非所熏。由此如來第八淨識。唯帶舊種非新受熏。三可熏性。若法自在性非堅密能受習氣乃是所熏。此遮心所及無爲法依他堅密故非所熏。四與能熏共和合性。若與能熏同時同處不即不離。乃是所熏。此遮他身刹那前後無和合義故非所熏。唯異熟識具此四義可是所熏。非心所等。何等名爲能熏四義。一有生滅。若法非常能有作用生長習氣。乃是能熏。此遮無爲前後不變無生長用故非能熏。二有勝用。若有生滅勢力増盛能引習氣。乃是能熏。此遮異熟心心所等勢力羸劣故非能熏。三有増減。若有勝用可増可減攝植習氣。乃是能熏。此遮佛果圓滿善法無増無減故非能熏。彼若能熏便非圓滿。前後佛果應有勝劣。四與所熏和合而轉。若與所熏同時同處不即不離。乃是能熏。此遮他身刹那前後無和合義故非能熏。唯七轉識及彼心所有勝勢用。 而増減者具此四義可是能熏。如是能熏與所熏識倶生倶滅熏習義成。令所熏中種子生長如熏苣?故名熏習。能熏識等從種生時。即能爲因復熏成種。三法展轉因果同時。如炷生焔焔生焦炷。亦如蘆束更互相依。因果倶時理不傾動。能熏生種種起現行如倶有因得士用果。種子前後自類相生如同類因引等流果。此二於果是因縁性。除此餘法皆非因縁。設名因縁應知假説是謂略説一切種相。」(『成唯識論』巻第二。大正31・09b08~31・10a11)
今回は、終りから七行目の後半の「唯、七転識と及び彼の心・心所といい」より「略して一切種の相を説く」までを述べていきます。
現代語訳
「そうしますと、どういうものが熏習することができるのかということになります。ただ七転識と七転識の心・心所です。七転識の心王・心所有法ですね。眼・鼻・耳・舌・身・意と第七末那識(我執の心)という、私たちの具体的な心の働きです。第八識を除いて七転識、而も仏ではないもの。「仏果の円満の善法は増もなく減も無きが故に能熏に非ず」と説かれていました。勝れた勢用(セイユウ)があって、そして増減するもののみ、そういうものが七転識であって、これが能熏である。このような(能熏の)四義を具えているもの。以上が能熏の四義である。
次は、種子と熏習する意義を釈す。このように能熏(七転識)の四義を具え、所熏(第八識)の四義を具えていることにおいて、この二つの識が倶に(いっしょに)生じ、倶に滅する。他身と刹那前後では駄目なんです。「倶生・倶滅して熏習の義を成ずる」ものでなければならないのです。所熏の種子を生長(ショウチョウ)せしめるということは、恰も苣勝(コショウ)に熏ずるようなものである。胡麻の油に花の香りを染み込ませる。その油をクリームとして体に塗るわけです。古代インドの人は肌ケア―として、そういうものを作っていたんでしょう。胡麻の油に花の香りを染み込ませるようなものを熏習というんだと。香りが胡麻の油に熏習するわけですね。それと同じように、七転識が起ると第八識の中に熏習が生起する。同一刹那に種子と現行を生ずる。種子生現行です。時間的なずれがない、「今」の一刹那に種子から現行している。今の時をおいてないわけです。熏習する時も現行が生じている。その時にですね、その時をおいてほかに熏習する時はない。因と果は同時である。これを三法展転因果同時(サンポウチンデンドウジインガ)という。(仏教の時間論)
喩が二つ出されます。一つは「如炷生焔焔生焦炷」(炷の焔を生じ焔生じて炷を焦するが如し」。炷(シュ)は芯。焔(エン)は炎のことですが、芯を燃やしますと炎が出ます。炎が出ますと熱が出ますから、両方相まって燃え続けることができるわけです。この様な関係を喩として出しています。もう一つは、蘆束の喩ですね。葦の束をあわせますと、互いに因となって立つことが出来る。二つの木をもたれかせますと、立つことが出来る。こういう関係が同時因果である。この道理というものは、すこしも傾かないものである。
次に部派の倶有因と士用果をもって説明します。倶有因というのは互いに因となるということです。因の方面から倶有因といい、果の方面から士用果(ジユウカ)といっています。部派では六因・四縁・五果を立てますが、その六因の中の倶有因と相応因によってもたらされる果を士用果といっています。
倶有因、お互いが因となって、倶にあることにおいてお互いが因果になっている。自分の中に蓄積されたものが今の私の生き方に現れている。これが種子が現行している姿です。この方面が種子生現行。表に現れた現行は即座に種子と為って蓄積されますから、これを現行熏種子といいます。種子(本種)・現行・種子(新種)これが三法、三法はお互いに関わりあって因果同時であるということです。因が果となり、果が因となって相続していく、こういう構造です。大乗仏教では、同時因果関係のみが因縁である。四縁(因縁・等無間縁・所縁縁・増上縁)の中の因縁のみが阿頼耶識の中の種子であると唯識はいいます。
「種子の前後して自類相生することは、同類因を以て等流果を引くと云うが如し」。
先程までは、種子(因)生現行(果)・現行(因)熏種子(果)。これは同時因果であることを述べていましたが、今度はですね、種子はそれだけではないということを説明します。種子のもう一つの要素は、種子は前後相続して続いていきますから、それによって種子生種子という形で前後相続していくわけです。種子の自類相生です。善の因は善の種として、悪の因は悪の種としてつづいていくわけです。これは永遠につづいていくわけです。これが業ですね。しかし、業は果たせば消える。犯罪を犯したとすれば、罪を償うことにおいて犯した事実は消えないが、償うことに於いて業を果たしたということになるんですね。
これは今生きているという事実を考えるとよくわかります。今私たちは過去の業を果たしているんですね。ですから現行されたものは無記なんです。その無記の現行に、善悪という新しい業を造っていくんですね。
過去における善悪業ですが、「今」という時に、過去の業を受けながら、過去の業を果たしつつ生きている。私たちは「今」という時を得ているわけですね。どれほど大切な時を得ているか、考えたことも有りませんから、これを罪というんでしょうね。「謗法罪・五逆罪」という時の罪ですね。この罪が「唯除」だと。唯除を生きている、生きていると云う傲慢さが唯除されるんでしょう。
種子が前後し、自類相生して永遠に残っていく、それが「同類因を以て等流果を引くと云うが如し」と、部派の言葉を以て喩えていますから「如し」(そのようなものだ)ということになります。
「此の二は」、種子生現行と現行熏種子の同時因果と、もう一つの種子生種子、この二つのが果において因縁性である。どちらが欠けても種子にはならない。唯識は、種子生現行・現行熏種子・種子生種子だけを因縁といいます。この余の法はすべて因縁ではないのです。部派の説く六因五果は仮に説いているだけである、と。
以上で三相門のすべてが説き終えられたことになります。