唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

唯識入門(37)

2020-08-22 19:49:57 | 『成唯識論』に学ぶ
 
 今晩は。いろいろな繋がりがあって、本当に有難いです。僕は思うのですが、人間は本来純粋なんだとね。しかし、生まれもって自分という、他者より選ばれた存在という意識が働いて、自分がすべてという妄想の中で日暮をしているわけでしょう。
 しかし、本来の純粋性に還ることができると教えているのが仏教なんでしょう。浄土教の純粋性は、曇鸞大師が八番問答で、自利利他の問いを立てられ、人間からは利他は成り立たないと喝破されたことが、他の大乗教と異にする所だと思います。他に利せられることはあってもですね。他を利する力はないんだと。この曇鸞大師の受け止め方は、限りなく人間の傲慢性を破っていく原動力になりますね。
 私たちは、皆さんはどうかしれませんが、僕はですよ、やっぱりどこまでいっても自分が正しい、間違っていないと思って生活をしています。この姿勢が打ち砕かれます。自分の思いが打ち砕かれるのですね、そして本来の人間の姿に戻ることが出来る、ここに人間回復の道がすでに開かれていたことに感謝です。
 さて、本論に戻ります。
 第八阿頼耶識は、心・心所等を変似して所縁とすることがないのであろうか、という問いが出されます。
 所縁は、識体が転じて見・相の二分に似るところの相分ですね。能所の二重構造で語られますが、識体そのものは能変です。ですから、「此の能変は唯し三つのみなり」、開けば八識それぞれが別体なのですが、深層の意識を初能変・第二能変とし、表層の意識(前六識)を第三能変とし、三分科をもって迷いの構造を明らかにしているのです。
 識体が転じられたものは、識体の具体相になるわけです。それが見分に似る相と、相分に似る相とに分かれて所変とされます。見るという主体的側面と、見られるという客体的側面で、紙の裏表という関係です。そして見るという、認識する側面を能縁、見られると云う、認識される側を所縁として認識構造が明らかにされています。
 ここに問題が生じたのです。それがこの問いになるわけです。見・相二分は識体が転じた、識そのものが変化し現われたにすぎないのですが、見・相二分を実体化する心の働きがあるのではないのかという問いなんです。私たちは、こんな心では駄目だ、心も持ちようで変えることができるんだ、また自分を見つめて、自分を反省するということもあるわけです。阿頼耶識が心を対象として、所縁である種子・五根・器界だけではなく、心及び心に付随した心所をも所縁として、認識対象としてもいいのではないかということなんです。
 結論からいえばですね、対象化された心は、対象化する働きの上に成り立ったものなんです。つまり、対象化された心は、心の影ということになります。こんな心では駄目だと思っている心が存在する、その心を識体であり、外に投げ出された心は影像になります。
 略識唯識で次のような言葉がありました。
 内識が転じて外境に似る。我法と分別する熏習力の故に、諸識が生ずる時、我法に変似す。此の我法の相は内識に在ると雖も、分別に由って外境に似て現ず。諸の有情類は無始の時よりこのかた、此れを縁じて執して実我実法と為す。」
 「外境に似て現ず」が能変・所変の関係ですが、それを実体的にとらえ執着するところに我々の解決のつかない迷いがあるわけですね。迷いにも二つの相があってですね、解決のつかない迷いと、解決のつく迷いがあるということなんだと思いますね。
  私たちは無始以来ですね、有漏(迷い)の種子を引き継いでいるわけです。種子生現行・現行熏種子として展転同時因果として変現しているのです。これが因縁変になりますが、迷いは迷いの道理によって迷っていることなんです。これは解決のつく問題なんですね。 しかし、私たちは、分別によって自分に執着をしていますから、執着をした自分を立てますから、立てた自分が迷うわけです。この迷いは自分が問題になっておりませんから、解決のつかない迷いということになると思います。 
 私たちの意識構造はどのように成り立っているのでしょう。たとえば五識は五根が依り所と成りますが、意識は何を依り所として意識されるのでしょうか。
 意識されるのは意識される根拠があるわけです。意根ですが、一切法を根拠とするということです。これは何を意味するのか、私には全くわかりませんでした。こういうことなんだなと教えられたのは、友のメールでした。
 それは、私たちが意識することは、突然起こることではないということです。過去の一切の経験、一切の情報伝達のメカニズムが因となって今在る自分を限定していることなんでしょう。
 私が生きている、今ここにということは、過去の生い立ちそのものが、そのものとして現在しているということなんだと思いますね。
 つまり、過去の経験というか。過去の情報が無意識の領域に蓄えられて、様々な条件を伴って今の私を形成している。その過去の無意識の領域は純粋意識だと教えられています。即ち、私たちは常日頃純粋経験をしているんですね。にもかかわらず純粋経験が染汚されるのでしょう。私の心の深いところでは、私が知りえないことが起こっている。純粋経験は直接、アーラヤといわれている心の深いところにインプットされます。善は善として、悪は悪として一類相続されます。しかし表面に現れる時には、瞬時ですが、ありのままの、分別を加えない状態で私そのものとして現れてくるのです。本当はこの状態が私の本来性として私が願っている世界なのでしょうが、ここに分別心が働くのですね。これが厄介なのですが、この厄介さ、自己執着心が、自己執着心を超えた世界を求める原動力、エネルギーになることを忘れてはならないと思います。
 いうなれば、私たちは、自分が自分を投げ出した影をみて生活をしているのでしょう。影はどこまでいっても本体ではありません。影には働きがないからですね。
 私たちは、無意識の領域にインプットされた情報を依り所をして生活をしていますが、その生活が自己執着心を経由し、色付けされているということなのですね。でも大事なことは、いかに色付けされていても、元は純粋意識かでた染汚性ということなのです。ここに苦悩の発生する要因があります。自分が自分の思いによって、自分が苦悩している現実を生みだしているということですね。苦悩している現実は、自分が自分の思いによって作り出した状況に翻弄されているということなのです。普通は他に転嫁して溜飲を下げようとするわけですが、それは道理に反したことになりますから、永遠に満足するというか、頷きをえることはありません。
 紙一重といわれることは、深層意識から発信されている、このままでいいんだよ、貴方は、貴方、貴方以外の貴方になる必要が合りません、というメッセージを聞き得るかどうかですね。深層意識から発信されてく声を、意識がどのように受け止めるのか、意識の在り方が問われてきます。
 貴方は。今ある状況に安んずることができますか?私はどう答えるのでしょうか。
 外界は衆縁です。内因外縁という言葉が響きます。様々な縁によって私が試されているんですね。幸せを求めながら幸せになれない自分のどこに原因があるのか、と。
 友のメールは
 「小学校からの友人が大学生やフリーターでしたので、社会人だった僕よりは時間が自由でした。この時期は特によく遊びました。20過ぎの頃です。社会人、フリーター、大学生、置かれている環境、選んだ道は違えど今まで共有してきたものがありました。しかし環境が違ってくれば考え方も変化します。当時は気がつかなかったのですが、僕の立場からは、時間があり、羨ましいと思っていました。友人からすれば僕はどのように見えていたのでしょうか?当時は僕は完全に自分自身を見失っていたのでしょう。嫌な職業に就いていたから全てが嫌になっていました。嫌な職業なら辞めておけば良かったと、今でも思っています。まあ年齢的には簡単な事ではないでしょうが。もしかするともう嫌な職業という感情すら無くなってしまったのかもしれません。フリーターの友人にもフリーターをしなければならない理由もあり、大学生の友人にも行きたかった大学に行けなかったのですから。希望通りにいっていなかったのに他人は楽をしている。と思っていました。今でもそうですが。妬み僻みは生きている以上無くならないでしょう。 僕が今話した事は誰にでもあると思います。若い時は仲が良かったが、次第に疎遠になる。何故なのか? 同じ場所、同じ時間を共有することが無くなってきたから。と言うのもあると思われます。しかし一番考えられるのは自分自身という存在を時が経つにつれ意識するからではないかと。自分自身という存在を意識すればするほど他者との分別をする。分別は自分自身を中心において考える。このことにより、他者に対して妬み僻みといった感情が産まれるのではないかと。また自分自身の置かれている環境が影響力を持つと考えられるのではないでしょうか?善悪の判断、今僕の置かれている環境は平和な国です。これが平和でない環境、戦時下であれば敵を殺す事は善となってしまいます。確かに人は自分自身が一番可愛い、守ろうとする。戦時下の話をしましたが、人はいつでも他者を自分自身にとって味方なのか?敵なのか?の分別をしているのではないかと。会社の話になりますが、会社の人間を見ていていつも敵か味方か?の判断ばかりしている人間が多く感じられます。僕の妄想かもしれませんが。全体的な利益を考えず、自分自身の利益ばかりに執着していると感じます。僕はまあ多少の出世は欲しいですが、そこまでして、敵か味方の判断ばかりして働けません。それが出来るのは会社という存在があるからでしょう。会社や組織といったものからいずれは離れなければなりません。離れた時、独りになった時、どうすればよいのか?暗闇で迷子になってしまっては何故生きてきたのだろう?と思ってしまうでしょうね。僕は今が暗闇で死の間際少しでも光を見たいと思います。働かなければ生きていけませんし、全てを捨てて生きる気力なんて到底ありません。これからどのように生きていけばよいのか?自分自身の妬み僻みによって友人を無くした事は反省しなければと。勝手に友人を作り出していたのでしょう。自分自身の都合の良いように。」
 彼の苦悩が伝わってきます。できればですね。責任を転嫁しないで、素直に受けてめてほしいと思います。闇の中で一筋の光を問いとして見出したのですから、その問いは何処から来たのか、そのことを問うことに於いて閉鎖されている心が解放されることだろうと思います。しかし闇は深いですね。共に学び、共に歩みましょう。

雑考

2017-11-09 21:44:56 | 『成唯識論』に学ぶ

朋との会話の中で、自分という存在が如何に自分に固執し、固執していることさえ分からずに、自分が被害者意識を持つことの闇の深さを教えられています。
 唯識は三法展転因果同時を教えていますが、因の種子と現行の果の同時は無覆無記だと。因は衆縁を待って現行するわけですが、現行は唯識性(般若思想では空)なんです。ここは三分説で学んでいたわけですが、つまり、識体転じて二分に似る。客観的には相分です。第八識によって捉えられたもの。それが認識されるには、認識する働きを持つ見分が必要なんです。見分は能動的役割を担っています。見分において相分は意味あるものとなる指向されるものなんですね。見分は本来自然法爾です。色付けをしない純粋性を持ったものなのですが、私という存在は、認識を起こす時に、私というフィルターを見分に重ねるのですね。それが我執を引き起こしてくるのです。つまり末那識です。我の本来性は常一だからですね、一類にして恒に相続するのは我にとって非常に都合のいいものなんです。壊れないということが前提としてあるのです。だから間違いを起こすのですが、間違いは間違いとして本来性に帰ろうとする動きをします。具体的には煩悩です。煩悩は本来性に逆らったことから出てくる濾水ですね。濾水は本来性に帰れというシグナルなんです。
 このことを『成唯識爛」は細にいって論証を進めています。
 復習ですが、初心に帰りましょう。
 「三分を解す」一段を読みます。
 三分は、二分説の上に自証分を立て、自証分が識体であって、識体が転じて相分・見分になると説いてきます。
 そして先ず、説一切有分の教説と比較しながら、相分・見分・自証分の在り方を説明します。
 説一切有部の教説は、私たちの考え方と非常に近いですので、しっかり学んででいく必要があると思います。
 先ず最初に、大乗及び正量部以外は、心識に離れて別に心外の法が有ると執していることを述べます。
 「識に離れたる所縁の境有りと執する者、彼が説く外境は是れ所縁なり。相分を行相と名づく。見分は事と名づく。是れ心心所の自体の相なるが故に。」(『論』第二・二十七右)
 「心外の境は是れ所縁なり。心の上に所縁に似る相有るを行相と名づく。体は即ち見分に摂するが故に。大乗の相見分を以て彼の宗に即して名を立つるのみ。」(『述記』第三本・四十四右)
 客観的に事物が存在すると説く有り方と、唯識が説く説き方とを比較して相分・見分・自証分を明らかにしてきます。
 本科段は、唯識に達していない人たちの解釈を挙げます。代表者として説一切有部の教説が挙げられてきます。
      外境 ― 所縁(認識対象)
      所縁に似る相 ― 行相(能縁心の上に所縁に似た相を行相と名づける)― 能縁の行相を相分と名づける。
      能縁 ― 見分(能縁を事と名づく)
      よって、見分の外に別に自体分を立てない。
      所縁  ―  外境
             行相 (相分)     〉 説一切有部の主張
      能縁 〈 
             事  (見分)
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

      所縁  ―  相分
             行相  ―  見分
      能縁 〈               〉 唯識 (大乗の立場)
             事   ―  自証分
 説一切有部の教学の特徴ですが、三世実有法体恒有ということですね。法は有るという主張です。大乗は諸法無我ですから、実体としての外境は存在しないと主張しています。存在そのものは縁起として有るということになりますね。ここで云われているのは、外境は存在し、外境を所縁とし心外に法あると執しているということです。能縁はなにかと云いますと、所縁に似た相を行相として、見分が働いているという構図になりますね。見分が自体分で事と名づけるのである、と。見分が外境に働いて、外境に似た相を行相として認識しているということになり、この行相は影像相分ということになりますね。このところを『述記』は昨日も述べましたが、「心外の境は所縁なり。心の上に所縁に似る相あるを、即ち行相、謂く相に行ずるを。見分の能縁をば説いて名づけて事と為す。」と説明しています。
 小乗の事は自体相をいい、大乗の事は自証分をいう。大乗は相分が所縁として、能縁の行相は「了」・自証分が事であると説きます。
 「識に離れたる所縁の境有りと執する者」、対象の事物は有であるとする者は、ということですが、花を見ている、黒板を見ている、月を見ている。皆んなが同じ花を見、同じ黒板を見、同じ月を見ている、こう考えているのですね。。この花・黒板・月等が外境です。外境を有としながら、私は、外境の上に影を作りあげていく、影像です。これが相分で、これが行相というんです。例えば、花としますと、花そのものを見ているのではなく、花を見ながら、その上に花の影を作り上げていく。その作りあげていく対象が外に有ると主張しています。それを見ている。見ているのは見分ですから、見分を事と表しています。此の主張はよく理解できますね。普通の考え方はほぼこの通りであろうと思われます。
 職場に通う道があるから職場に通うことが出来る、昨日も今日も明日も道は存在するんやというのが対象世界が有るとする見方ですね。本当にそうだろうかという問いを出してきたのが唯識なのですが、ここは?をつけておきます。
 「執有離識所縁境者」は相分を行相とし、見分を事とする。見分が自体分ですから、心王は一つ。心は一つだというわけです。心王が事、事が六つの働きをする。心所も同じだと。こういうことが『倶舎論』に説かれている。相分・見分という言葉はありませんが、唯識の言葉をかりて説明しているのですね。以下、詳細が説かれてきます。
 「心と心所とは、所依縁は同なり、行相は相似せり。」(『論』第二・二十七右) 心と心所は、所依と所縁は同じである、と。そして行相は相似している。
 所依・所縁が同じである、と云うのは、一根に依って一境を縁ずるからである。しかし行相は相似している。その理由は、青などを見ていても、行相は各別であるから。行相は心王が見ている青と、心所が見ている青では、同じ青を見ているのだけれども、心王は了別をしている。受の心所はそれを受け取っている。「受は領納するを以て相と為す」。想の心所はその形を捉えている。「想は像を取るを以て相と為る」。思の心所は、それをどうするのかといろいろ思いめぐらしている。しかれども、行相は似ているが同じではないと、働きが違うというわけですね。
 心心所はその所依も所縁も同じであるところから、一々の心心所の行相は相似して現れるのであると説いてきます。
「事は数等しと雖も、而も相は各々異なり。識と誦と想との等きいい相各別なるが故に」(『論』第二・二十七右) 
識と受と想と思等の体は各々一つである。しかし相状は別別である。。色受想行識と相は異なっている。それぞれがそれぞれの働きをもっているんだ、と。こういうようにに説いてくるんですね。これがですね、説一切有部等の主張になります。「執有離識所縁境者」の説です。
 それに対しまして、大乗の説き方はですね、
 「識に離れたる所縁の境無しと達せる者。則ち説く、相分は是れ所縁なり。見分をば行相と名づく」(『論』第二・二十七右)
 見ているのは心の影だと。影像でうね。自分の心が外境に似て現じて、それを心が捉えて、捉えたものをを見ているという、身ている通りのものが存在するわけではないと達観している者がいる、それが「達無離識所縁境者」といいますが、ここでですね。最初に述べてきました説一切有部等の説は間違いであり、これが正義であると明らかにしたのです。
 もう一度整理をしまうと、
       外境は有ると主張している人たち ― 外境は所縁である。相分を行相といい、見分を事という。
       外境は無いと主張している人たち ― 相分は所縁である。見分を行相といい、相と見との所依の自体を事という。即ち自証分である。
 見ているのは自分の心の影であって、対象としての事物そのものではないといいます。これは何を意味するのかですね。これはですね、私たちは、ものそのものを直接見ることは出来ないことを言い当てているのではないかと思いますね。見るというのは、私の経験や、趣味によっても異なってきますね。経験や趣味等を通して見ている、色付けをしているということになるのでしょう。
 本科段から正義が示されます。
 「識に離れたる所縁の境無しと達せる者、則ち説く、相分は是れ所縁なり。見分をば行相と名づけ、相と見との所依の自体をば事と名づく。即ち自証分なり。此れ若し無くば、自ら心・心所法を憶せ不る応し。會って更不りし境をば必ず憶すること能は不るが如きが故に。」(『論』第二・二十七右)     
     相分 ― 所縁
     見分 ― 行相
     自証分 ― 事
 相分が所縁であるということは、見ているのは自分のこころの影であって、見られているものが実体としてあるわけではなく、見られているものが所縁としてあるのではない、このような見方は、「識に離れたる所縁の境有りと執すす者」の見方ですね。対象世界が有って、それを所縁といて認識を起こすという捉え方は非常に解り易いのですが、唯識はそうではないんだと教えています。すべては自分の心が捉えたものである、と。自分が見ているのは心の影像であり、影像でしか見ることはできないんだと。
 二分説を浚い掘り下げて、相・見二分があるわけではなく、相・見二分は識体が変現したもの、識所変である。識体が現行してくる時には、相・見二分に似て現ずるのですね。「ただ識のみ有り」とは、こういう意味なのですね。
 私たちが外界といっているのは、私たちの心が作り上げてきたものであるといえるのでないですか。「こんな世の中」という世界は無いんです。責任転嫁をする所に問題が起きると教えているのですね
               ・・・
 三分義までをまとめてみます。
 仏教とは何を教えているのでしょうか。仏法は何を意味しているのでしょうか。私とどんな関わりが有るのでしょうか。関わりなくして私は生きていくことができるのでしょうか。
 「問いを持つことの大切さ」
 私は仏教と出会ってから答えばかりを探していました。「なぜ」という素朴な問いがでてこなかったのですが、ある日家族と、命の大切さについて話をしているとき、「問いを持つ」ことができたのが仏教と出会った証であると教えられたのです。そういえば『大経』に大切なことが教えられてありました。親鸞は『教行信証』教巻において「出世の大事」について『大経』を引用しておられます。(真聖ー152~153)『ここに世尊、阿難に告げて日わく、「諸天の汝を教えて来して仏に問わしめるか、自ら慧見をもって威顔を問えるか」と。阿難、仏に白さく、「・・・・・自ら所見をもって、この義を問いたてまつるならくのみ」と。仏の言わく、「善いかな阿難、問えるところ甚だ快し。深き智慧、真妙の弁才を発して、衆生を愍念せんとして、この慧義を問えり。・・・」と、この後世尊の出世の大事が語られていくわけですが、問いと答えには物の違いがあるのです。格が違うというか、分限が違うというのか「問い」は衆生の分限「答え」は仏の世界、そして仏によって見出されたのが衆生という存在なのです。「問い」も仏によって引き出されたといってよいのだと思います。「何故私たちは苦しみ悩むのか」「何故命は大切なのか」「自己中心でしか物事を考えられないのか」等、「なぜ」という問いを頂いたことの大切さを大事にして唯識の世界を歩み続けたいと思います。 
 ー八識三能変ー
八識とは表層から深層にむかって八つの重層的構造を持つとする捉えかたで、三能変とはこころが三層をなして深層から表層に向かって能動的に対象に働きかける面を言います。
 八識ー眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識
 三能変ー異熟識(阿頼耶識)・思量識(末那識)・了別境識(前六識)
「唯識三十頌」第二頌~第十六頌において転変する識を明らかにしています。
 「経」は仏説ですから「如是我聞」「我聞如是」ではじまります。「かくのごとき、我聞きたまえき」「我聞きたまえき、かくのごとき」。このように私は仏陀より聞きましたというスタイルではじまります。「論」は「経」を聞いて私はどう頷いたのかを表白するものですから最初に仏陀への帰依を表します。ここでは満清浄者=仏陀 分清浄者=菩薩に帰依の気持ちを表しています。最初に唯識性ですが『成唯識論述記』(以後『述記』)に唯識性を釈すとして「唯識性というは略して二種あり。一つには虚妄、即ち偏計所執なり。二つには真実、即ち円成実なり。・・・又二種あり。一つには世俗、即ち依他起なり。二つには勝義、即ち円成実なり。」唯識性というのはただ真実・勝義をあらわすのではないのですね。仏法は今、即ち迷いの只中に真実を明らかにしていくのです。迷いの外に真実があるわけではないのです。迷いによって真実が覆われているといってよいのかもしれません。迷いの只中に真実を明らかにしていくのが仏法なのです。迷い(虚妄)をあきらかにし、世俗を離れて勝義はないと明らかにした者に稽首、即ち帰依するのです。ここでは本当に大切なことを教えていただいています。私たちは日常生活において迷迷悶々としています、自分の思うようにならない、何とかしたいという思いから外を変えていこうと悪戦苦闘を繰り返しています。しかし今思い悩んでいる他に真実はないのだと教えているのです。虚妄=偏計所執はなぜ起こるのでしょう。実体のない存在に実体があるとする心と、その心の対象となって執着された存在と、その心と対象とによって実在すると誤って執着された存在の姿によって起こってくるのです。迷っているということはすばらしいことなのですね。迷っていることが即ち真実に触れていることなのですから。そして迷っている場所を世俗というのでしょう。迷っているということを本当は自覚されていないのでしょう。実は迷っていることを真実であると誤解をしているのではないでしょうか。無意識の領域で妄想を真実として行動を起こしているのではないかと思います。私たちの無意識の領域では刹那刹那に自分の思いに色づけされた考えを正しいとする力が備わっているといわれています。(ユング派における無意識の神話賛成機能 mythopoetic function of the unconscious) 何が正しく、何が妄想なのかを如実に見極められなければなりません。仏道を歩む・仏法を学ぶということにはどんな意味があるのでしょう。わたしにはこの「問い」がいつも心の奥底に潜んでいます。仏法を学ぶということに於いて「世間での成功を夢見ているのではないか」、「サクセスストーリーを歩むことができるのではないか」という期待感があるように思えてなりません。それに対し仏法は「勝過三界道」(三界の道に勝過せり)であると教えられています。私の思いは伊蘭子(どこまでも迷いの境界)です。伊蘭樹を生むことしかできないのです。これでよかったんだと思ったとたん迷いが生まれてくるのです。迷いが隠れているのですね。ですから永遠に理想を追いかけていかなくてならないような仕組みになっているのです。仏法(因縁所生の法)に出遇うことによって本当の自分に遇うことができるのです。迷いの境界にあっては千載一遇の出来事なのです。
 四分義略説
 「識所変」といわれますね。「唯識無境」と。本来は識のみあって境はない、と。その時の識とはなにかという問題ですが、識は了別である。了別は区別のことです。ものを区別して知るという意味になりますね。八識を区別して知るわけです。この識の中には心所も摂める。識と心所は相応するからである。「心所をも摂む」と。識と心所は一緒に働くのですね。八識五十一の心所です。次に「変」ですが、一つは、「変と云うは謂く識体転じて二分に似るなり」ということですね。動くときには、二つに分かれる。もう一つは、「内識転じて外境に似る」。認識活動はこのようにして成り立っているのです。「識体転じて二分に似るなり。相と見とは倶に自証に依って起こるが故に。この二分に依って我・法を施設す。」
 私たちの認識活動は外と内を分けています。主・客二元論です。自分の見ているものは外にあると思っていますが、唯識はそれを否定し、外にあると思っているのは間違いだと。実は自分の心の現れたものであるというのです。主・客ともに自分の心に依るというのですね。自証に依って相分・見分が起こる。識体は自証です。識体が転じて相・見二分という働きになる。外にものが有って認識するのではなく、自分の心の中に現れたものを自分が認識していく、自分の心でみ見ていくというのが、私たちの認識構造なのです。ここが大事なところです。迷いは如何にして成り立っているのかをはっきりさせる為にですね。
 外に有ると思っていたものは、実は自分の心の中に映じたものであった。それが相分である。相分を変革する為には、自分の心を変えなくてはならないということになります。これが一つの解釈ですね。もう一つは、「内識転じて外境に似る」内に有るこころの状態が外のものの如くに現れてくる。
 ものを知るという認識構造は如何にして成り立っているのかですね。先ほど「識は了別」と述べましたが、「此の了別の用は見分に摂めらる」、そして「所縁に似る相を説て相分と名づけ、能縁に似る相を説て見分と名づく」、これが二分義です。難陀の解釈になりますが、認識は一応このような構造をもっているということになります。
 ただ、有漏の時ですね。未転依のときにはどうなるのかということですが、「有漏の識の自体生ずる時に、皆所縁・能縁に似る相現ず」。「自体が生じるとき」という。三分義で、自体分と。執着という問題です。二つでてきます。一つは、「識に離れたる所縁の境有りと執する者」、もう一つは、「識に離れたる所縁の境無しと達せる者」という人間の種類がだされています。境が有ると執着するもの、が一つ。外境は実有であると見る見方。この時は相分を行相と名づけ、見分を事と名づく。是れ心・心所の自の体相なるが故に」と述べられています。しかし、もうひとつの人間像ですが、「識に離れたる所縁の境無しと達せる者」。ここでは相分は所縁であり、行相は見分である、と。「相と見との所依」を自体分という。自体は自証分である、ということです。
 迷いの構造を明らかにする時には、すべては有であるところからはじまるのです。有るのは、自体分だけ(一分義)、或いは有るのは、見分だけ(二分義)、或いは三分義・四分義はすべて有るというところから始まります。相分も有る、見分も有る、自証分も有る、証自証分もあるというのが迷いの構造である、ここから出発するのです。執着心はある、これが迷いを生んでくる元だと。
 四分義は何を現わそうとしているのか、私たちの認識の構造は、心の奥深くに横たわっている自己中心的な思いによって成り立っているという問題を抉り出しています。
 第八識の行相と所縁、働きと、対象は何かという問題ですね、心は必ず何かを対象として認識をしているのです。「謂く、云く」と答えています。不可知というのは、阿頼耶識の認識と認識の対象とのありようをを表す概念で、阿頼耶識の行相(認識作用)は微細であり、阿頼耶識の所縁(認識対象)、阿頼耶識は何を対象としているのかというと、執受と処と了である。執受とは種子と有根身、これは微細に働く、処は有情の所依処で器世間のことだと云われています。了というのは、「了と云うは謂く了別」、これは行相であり、識は了別するということが行相になると云われているのです。
 『三十頌』では「謂く不可知の執受と処と了となり」と述べられていますが、注釈は「了」から解釈されています。
 先ず、「種子と有根身」ですが、種子は、「謂く諸の相と名と分別との習気なり」と、私たちの経験のすべてが種子として蓄積されているということ、これが習気といわれるものです。それと、有根身、「諸の色根と及び根の依処となり」と。
 所依処は識の相分であり、外境、外の世界であるということです。
 執というのは、「摂の義持の義」、受は、「領の義・覚の義」である、「摂して自体と為し、持って壊せざらしむ、安危共同にして而も之を領受す、能く覚受を生ずれば名づけて執受と為す。」と云われ、種子と有根身と阿頼耶識は、安らかな時にも、危険な時にも、一体となって働くいく、これが識の根底に於て「暴流の如く」動いていると教えています。 
 
 覚受 - 感覚。身体が苦・楽などを感じること。生きているということは、覚受が働いていることになります。
阿頼耶識には、二つの側面があることを述べましたが、『論』には「阿頼耶識は、因と縁の力の故に自体生ずる時、内に種と及び有根身とを変為し、外に器を変為す。即ち、所変を以て自らの所縁と為し、行相は之に杖して起こることを得るが故に。」と説かれています。
 阿頼耶識の所変を阿頼耶識は自らの所縁としている、と説かれています。阿頼耶識から変化したものを、自らの認識対象としているということです。そして、阿頼耶識の所縁を大きく分けて、執受と処になります。昨日述べた通りです。ただ、内的なもの(執受)に、種子と有根身が有ると述べられているわけですが、種子は有漏の種子ですね。煩悩に染汚された行為の結果しか阿頼耶識の中に植え付けることはないのです。「諸の種子とは、諸の相と名と分別との習気なり。」と云われる所以です。これは、すべての有漏の善等の諸法の種子であり、無漏の種子は植え付けられないのです。それ故、『瑜伽論』等には、「遍計所執の妄執の習気なり」と述べているのです。
 有根身は、根(感覚器官)を有する身体ですね。五色根と根依処とに分けられます。根は、又、勝義根と扶塵根とに分けられますが、勝義根は真実の根、淨色所造と云われています。これは何を意味するのでしょうか。五色根といわれる根そのものは宝石のような光り輝くものであることを、ヨーガ行者は発見したのでしょうね。そして、根を助けるものを根依処と云われ、扶塵根とも云われています。これら執受と処は、微細には働き、広大であるところから、認識されることはない所から不可知と云われるのです。
 このことを前提として、「了」について考えてみます。「了とは、謂く、了別、即ち是れ行相なり。識は了別を以て行相と為すが故に。」と。了別とは、ものごとを認識する働きの総称で、識の働きのことですが、これが「識の自体分が了別するを以て行相と為るが故に。行相と云うは見分なり。」と云われます。ものごとを区別して知る働きは見分に摂められるのである、と。     
 「此の中に了とは、謂く異熟識いい自の所縁に於て了別の用有るなり。此の了別の用は見分に摂めらる。然も有漏の識が自体の生ずる時に皆な所縁能縁に似る相現ず。」 
 私たちがものごとを認識する時には所縁・能縁という形をとるわけです。そして、所縁に似る相を相分といい、能縁に似る相を見分というのだと。所縁と能縁は別別に起こることはないのです。同時であって異時ではないわけです。それがですね。自体が生ずる時に、所縁・能縁という形を取ると云われているわけですね。「識は外境に似て現ずる」、外境に似て現れるものは相分ですね、そこに見分が働いている、と云われているのですが、こういう所に問題が生じているわけでしょう。
「了」についての所論です。「了」とは、異熟識が、自分の所縁に於て、了別の用(働き)をもつことであって、四分の中では、見分に摂められる、と説かれているわけです。
 そして、「然も有漏の識の自体生ずる時に、皆所縁・能縁に似る相現ず。」(有漏の認識作用は、自体が生ずる時に、皆な必ず所縁・能縁と云う対立した相を現わす。)
 この「自体生じる時」という自体は、自体分(自証分)といいますが、これが私たちが認識するときの軸になるわけですね。自体を中心に、外の境が実在すると思う対象の相を「相分」と名づけられているのです、そして実に外に認識する対象が実在すると思う働き、能縁の側面を「見分」と名づけられているのですね。自体を軸として、相分・見分が、外境は実在すると認識するのです。これが迷いの根本構造になります。二分の相は体に対して云われるわけです。体もまた実体化されているわけです。その体の上に現れる二分の相とは、私たちの、外境は存在すると妄執している相なのですね。妄執している相が相分・見分として現行しているのです。これが三分説になるわけですが、二分説は、識の体は、能縁の見分が自体であり、相分が相であるわけです。二分説は、難陀の説になりますが、見分を相とはみないわけで、体であると。対象化しない、実体ではなく、作用であるとみているわけです。私たちに認識の底には、このように、二分に見ていくという構造があって、ものを知るということが成立しているのです。これを、
 「識に離れた所縁の境有りと執する者、彼説く、外境は是れ所縁なり。」
 私とは無関係に外の世界は存在する、私の主観を抜いて外境は有ると執着する見方です。しかし実際は主観の相違によってものの見方が違ってくるのですね。私の見ている世界と、他の人が見ている世界は違うのです、千差万別です。ですから、「識に離れた所縁の境有りと執する」ということは間違いだといえるわけです。
 これに対してですね、相分は所縁であり、見分は行相である、と見ていく有り方ですね。「識に離れたる所縁の境無しと達せる者」は、「相と見との所依の自体をば事と名づく、即ち自証分なり」と。
 自証分は自覚作用であるということです。見分・相分は自内証であって、外的関係ではないと明らかにしているわけです。そうしますとね、私たちの認識はどのように成り立っているのでしょうか。私が見ているという認識はありますが、それは外に実在としての環境世界が有るという関係に於いて認識が成り立っています。外境を所縁とし、相分を行相・見分を事とみている有り方なんです。このものの見方が間違っていると指摘しているのが三分説になるのです。
 二分を以て、安慧正量部の説を論破するのです。理証・教証をあげて論証しています。
 「若し心・心所、所縁の相無くば、自の所縁の境を縁ずること能わず。或は、一々能く一切を縁ず。自境も余の如く、余も自の如くなるが故に。」
 (もし、心・心所法に所縁の相が無いならば、自己が縁ずる所の境をもつことはないであろう。識と境が混乱するならば、識は一切を縁じてよいことになる。)
 識と境とは必然関係なのですが、識と境が偶然の関係であるなら、何を縁じてもいよいことになってしまいますから、「自境も余の如く、余も自の如くなるが故に」(自境も縁ぜない余の如く、縁ぜない余も自境の如しである。)
 『述記』には「青を縁ずる時の如き、若し心・心所の上に所縁の相貌無きは、正しく起こる時にあたりて、自心所縁の境を縁ずること能わざるべし。」と、因明を以て説明しています。これが宗になり、「所縁の相無しと許すが故に」が因になり、「余の縁ぜざる所の境の如し」が喩になりますね。能縁についても同じことがいえます。能縁と所縁との二つに似て現行するのですね。意識は、見・相二分に似て意識されるということ。
 所縁(対象)は相分・行相(作用)は見分という見方は、
 「識に離れたる所縁の境無しと達せる者の、則ち説く、相分は是れ所縁なり。見分とは行相と名づく。相と見との所依の自体をば事と名づく。即ち自証分なり。」
 私たちが見ているものは、相分という心の影像、主観によって捉えらえたものを見ていることになります。自分が心の中に捉えた映像を、自分が認識して知るという構造です。これが識の本質になるわけです。この本質を自体分といいます。この自体分が無かったなら、見・相二分は外界の存在になり、外界は実在と見るという錯誤を生じるわけです。自体によって二分が成り立つのですね。自分が自分を知っている、他人は騙せても自分は騙せない、騙したことを自分は知っている、自分は自分から逃れる術はないというのが自体になるわけですね。道理です。自証をもって自体とする、これが道理である。見・相二分の所依が自体である。二分では判然としなかった識の構造が、体は識、用は二分ということで諸法唯識が成り立つのです。
 三分義をまとめましたが、自証分が若し無かったならばどうなるのでしょうか?それに応えて
 「此れ若し無くば、自ら心・心所法を憶せ不る応し。會って更不りし境をば必ず憶すること能は不るが如きが故に。」(『論』第二・二十七右)
 能縁を見分・所縁を相分といいますが、相・見二分は自証分を所依、依止として起こってくるわけです。いわば、自証分の主体的側面を見分といい、客体的側面を相分といいます。ですから、相を離れて見は無く、見を離れて相は無い、互いに所依として二法は成り立っているわけですね。この二法の所依が自証分で、相・見が自体を事といわれているのです。これが自証分なのです。
 ですから自証分が無かったならば、相・見の二法は成立しないことになります。
        「謂く自体分無きは自ら心・心所法を憶せざるべし。所以はいかん。會って更ざらし境を必ず憶すこと能はざるが故に。」(『述記』)
  私たちは過去に経験したことを記憶しています。その記憶する働きが自証分であり、自証分が無かったなら、記憶することが成り立たないのです。見分が相分を見たということを見ている、認識したことを認識する働きが自証分である、と。経験のすべてがですね、無意識裡に記憶しているわけです。自証分が無かったなら記憶は成り立たないと云っているのですね。
 私たちは、過去の経験を思いだすことがあります、「私の経験から言えば」とか、「あの時そうであったな」という記憶があるのは自証分の働きなのですね。私の中で、所縁(相分)を認識(見分)したことを認識(自証分)している、自証分が見分を自証しているのです。
 自証分があるから、過去のことを思いだす事が出来ると、思い出せることが出来るのは自証分があるからである、と。
 阿頼耶識の三相で能蔵の義が述べられています、過去の経験を蓄えるところ、所蔵が蓄えられるところという貯蔵庫ですね、ですから種子論におきましても、「種子とは、本識の中に親しく自果を生ずる功能差別なり」と定義されていましたように、種子生現行の種子は自証分としてあるということに成るのではないかなと思います。阿頼耶識が心のどこかに有るという話ではなく、種子生現行として働いている所に具体相があるのですね。三法展転同時因果を成り立たしめている主体が自証分といえるのではないかと思います。
 護法はこの三分義をふまえて四分義を立てます。(つづく)
 

『成唯識論』に学ぶ。 雑感 (2)

2016-02-21 23:44:09 | 『成唯識論』に学ぶ
今日が七十歳の誕生日。皆様方から暖かいお言葉をたまわりました。本当にありがとうございます。しっかりと胸に刻んで一歩一歩確かな歩みをつづけていけるよう精進いたします。

 昨日は触れませんでしたが、宗前敬叙分、帰敬頌、帰敬序には「唯識の性において満に分に清浄なる者に稽首す」そして発起序には「我れ今彼の説を釈して諸の有情を利楽せん。」と表白されています。『浄土論』の帰敬序にも「世尊、我一心に尽十方無碍光如来に帰命して、安楽国に生まれんと願ず」と。「偈の中に分って五念門と為す。」(『論註』)「礼拝門・讃嘆門・作願門を開かれ、発起序の「我」において国土荘厳十七種・仏荘厳八種・菩薩荘厳四種の三種二十九種荘厳が願心を以て荘厳されて云うことが明らかにされました。そして流通門、ここが廻向門として開かれてきます。「末後の一行は是れ廻向門なり。」ここにも「我」の一字がおかれています。「我」が三か所に配置されているわけですが、曇鸞大師はこの「我」を問題にされました。「我」は邪見語でもなれば、自らを大きく見せる自大語でもなく、如来より明らかにされた「我」、無我なる我であって、ここにですね、いかなる我であれ、浄土の入り口であるこの世の意義を自覚することの大切さを教えておられると思うんです。やっぱり、背景は無境なんでしょうね。本願は対象ではないということですね。本願は自体分が転じた本質相分であって、ここに影像相分として捉えていく我見が働いて流転していくのでしょう。むやみやたらに流転しているということではない、意味があると教えているのでしょう。
 
 「天親菩薩の一心は本願の三心の成就であって、即ち『無量寿経』下巻願成就の経文の意を天親菩薩自らが述べたものである。本願から見ると「我」は客であるが、客になることを通して本願の主となる客でる。『願生偈』は我の背景として本願を語ったのである。」と先達は教えてくださっています。「汝」と呼ばれた「我」ですね。
 よく紙一重のところが分からん、と聞きますが、紙一重のところで我を持ち替えてしまうのでしょうね。自己肯定の根の深さが知らされます。『十住毘婆沙論』序品の中で、この現生というものが六道輪廻の場所であると押さえられています。求道心の根っこに自己肯定の意識が働いている、そこが六道輪廻の存在としての人間存在であるということでしょうか。しかし、この六道輪廻は人間存在の命の私有化からもたらされるものであるという頷きなのでしょう。いうなれば、六道輪廻をする主体であるという自覚が回心と一つの出来事であると言えないでしょうか。
 
 『十住毘婆沙論』の序品の問いが、十地の意義を何故説くのかというものなのです。その答えとして次のように語られます。
 「地獄餓鬼畜生人天阿修羅の六趣は険難・恐怖・大畏あり。是の衆生は生死の大海に旋流澓(せんるかいふく)して、業に随って往来す。是は其の濤波(とうは)なり。・・・愛に随う凡夫は、無始より已来(このかた)常に其の中に行じて是の如く生死の大海に往来し、未だかって彼岸に到ることを得ること有らず。或は到る者有らば兼ねて能く無量の衆生を済度す、是の因縁を以て菩薩十地の義を説くなり。」
 そして輪廻を流転と押さえられています。
 「世間は愍傷すべし。常に皆自利に於いて、一心に富楽を求め 邪見の網に堕し、常に死の畏を懐きて、六道の中に流転す。」(『序品』第一)

 流転してきた自覚が六道を輪廻し、やっと人間としての生を受けた感動だと思うんです。僕は、六道輪廻の果として人間としての生を受けたという所に大きな意味があると思うんですね。善悪業果位として異熟識として、生存の根拠が語られているわけです。作意の心所の中で「謂く、此れが起こすべき心の種を警覚し、境に趣かしむる故に作意と名く」つまり、阿頼耶識の中の種子を目覚めさせ、心を起こし、心を対象に趣かしめる用きをもつものが作意というのだということですね。「彼(作意)縁に逢わざれば定んで生ぜざるが故に」(『述記』)と。いかなる縁に遇うのかが問われているわけです。我愛が現行している縁に会えば受は愛を引き、愛は取を招くわけです。

 随分横道にずれてしまいましたが、宗前敬叙分には、「正解を生ぜしめん」「唯識の理に於いて実の如く知ら令めんが故なり」「唯識の深妙の理の中に於いて実の如くを得せしめんが故に」。この理(ことわり)を理解するところから唯識の学びが始まるんですね。そしてまたこの理と解を正す為に『成唯識論』が作られた理由として語られます。

 「分からなくなったらはじめにかえる」、安田先生の言葉ですが、大乗の仏教が輪廻を語る時は、流転は生死流転を語り、輪廻は善悪業の果が六つの生存の在り方を自覚内容とするものではないでしょうか。夜分の投稿、ちょっとまた考えます。

 『成唯識論』に学ぶ。 雑感 (1)

2016-02-21 00:30:04 | 『成唯識論』に学ぶ
   『正信偈』

 護法菩薩は「唯識の理に迷謬せる者あり。」(唯識の真理を理解しない者(迷)や謬って理解する者(謬)がある。)
 迷謬せる者を四種類あげておられます。「迷」は無明、「謬」は謗法・仏智疑惑になります。
 (1)「外境は識の如く無に非ずと執し、」
 これが一番目です。境は対象ですから、対象は私と関係なく実在していると執着していること。外界実在論です。見渡せばあらゆるもの(一切諸法)は存在するではないか、どうして存在しないというのか。
 (2)「内識は境の如く有に非ずと執し、」
 二番目は、一切諸法が無であるように内識(心)も無であると執着する者がいる。心も無である、と。
 (3)「諸の識は用は別に体は同なりと執し、」
 三番目は、諸々の識(八識)という心のはたrきは(用)は別々、体は一つであると執着する者がいる。
 (4)「心に離れて別の心所は無しと執す。」
 これが四番目。心を離れて別に心所(心所有法・心の作用)は無いと執着している者がいる。

 これらの四種類を異執として挙げておらえます。このようなさまざまの異執を遮す為に、この『論』を造るのでると、論を造る意趣を述べておられます。
 唯識は説きます。1・2番目に対しては、唯識無境(唯だ識のみ有って境は無し)であり、境無識有(境は無なれども識は有である)である、と。3番目に対しては、体は八つある。八識別体である。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識の八つの体は別々である、と。そして4番目に対しては、心と倶に用く心所は五十一あるといいます。
 これらの異執は遠い昔の話ではなく、現在の私たちの思考方法と同じですね。
 このような有り方が批判され、四有という考え方が生まれてきた背景にあるように思います。
 四有とは、四つの生存のありかたで、中有・生有・本有・死有を繰り返しながら生死輪廻するといわれています。
 八識別体ではありますが、本識は阿頼耶識として末那識及び六識は転識といわれています。本識である阿頼耶識は自相・果相・因相という三つの相を持つといわれ、果相は異熟識とおさえられています。善悪の業の結果として人として生を受け、一類相続して変化しないものである。過去の業を背負った身であり、過去のすべてを分別することなく引き受けた身でもあるのです。
 一類相続して変化しない身は常であると錯覚され、我は変化しないものとして執されてくるのです。これが我執の成り立ちです。この我執が生死輪廻することになります。
 やがて生死輪廻思想が厭世観とも結びつき厭離穢土・欣求浄土の国土の実体思想を生み出してきました。これが中有から生有の問題です。どこに生まれるのか、浄土に生まれるのか、再び四有を繰返して輪廻するのかということから、臨終来迎思想が生まれました。初期の観経理解ですね。

 「あるいは衆生ありて、不善業たる五逆・十悪を作る。もろもろの不善を具せるかくのごときの愚人、悪業をもってのゆえに悪道に堕すべし。多劫を経歴して、苦を受くること窮まりなからん。かくのごときの愚人、命終の時に臨みて、善知識の、種種に安慰して、ために妙法を説き、教えて念仏せしむるに遇わん。この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友告げて言わく、「汝もし念ずるに能わずは、無量寿仏と称すべし」と。(『仏説観無量寿経』)

 いのちの営みは刹那なんです。一瞬のうちに消え去っていくいのちを相続しているのがいのちの実相です。阿頼耶識は「恒に転ずること暴流の如し」、私たちの執着は、諸行は無常であることは承知なんですね。私は老いる者であることは知っているが、無常の中でも変わらない自分はいると思っているのですね。それこそ、一類に相続して変わらない自分(アートマン)が存在しているという思いがあるわけです。これが迷いの根っこに根を張っていることいなり、それに気づきを得ない自分がいる、ここに迷いの主体である阿頼耶識と、目覚めを待つ阿頼耶識の二面性がうかがえるわけです。無住処涅槃の広大なる世界が今、現に、此処に広がっている、水に漂う浮き草のような自己ですが、自己の存在する世界は広大無辺なのですね。 雑感です、もう少しつづきます。
 

『唯識』入門 七月度テキスト (於 聞成坊)

2015-07-26 20:17:01 | 『成唯識論』に学ぶ
  

 「有根身とは、謂く異熟識のが不共相の種を成熟せる力の故に色根と及び根依処とを変似す。即ち内の大種と及び所造の色となり。共相の種を成熟する力有るが故に。他身の処に於ても亦彼を変似す。爾らざれば他を受用する義無かる応し。」 色根 ― 機能。物を見るという働き。勝義根。不共中の不共。
 根依処 ― その働きが依り処とするところ。扶塵根。不共中の共。

 四大種 ― 地(堅い性質)・水(湿りけを持った性質)・火(暖かな性質)・風(動く性質)。堅湿暖動(けんじゅうなんどう)と云う。

阿頼耶識の対象(所縁)
 処
  器界は外の世界
 執受
  種子は経験 
  有根身は、阿頼耶識は深い私たちの心の底で、自分の身体を対象としている。対象と関わりながら生きている。
  
 「此の中に有義(安慧菩薩等の説)は、亦根をも変似す。弁中辺に自他身の五根に似て現ずと説くが故に。
  有義(護法菩薩等の正義)は、唯能く依処のみを変似す。他根は己に於て用る所に非ざるが故にと云う。自他身の五根に似て現ずと云はば、自他の識各自ら変ずる義を説くなり。故に他地に生るも或は般涅槃するも、彼の余れる尸骸猶見に相続せり。」
 
  尸(し)― しかばね
 
 身体を対象としているといいまうが、どこまでの範囲を対象とするのか?
 安慧菩薩等はすべて(根をも変似す)
 護法菩薩等は依処のみ

 ここまでは、業力所変の三つについて説かれてきましたが、、次に定力所変という問題がでてきます。

 「前来は且らく業力所変の外器と内身との界地の差別を説けり。若し定等の力による所変の器と身とは、界地自他に於て則ち決定せず。所変の身・器は多く恒に想像句せり。変ぜらるる声・光等は多分暫時なり。現遠の撃発するに随って起こるが故に。」

  業力 ― 善悪業としての果を対象としている。

 もう一つ、定力所変。定は專注不散(心一境性)
 教えに依って、己自身が未来に向かって切り拓いていく世界です。
 「ひとえに往生極楽の道を問う」というのが心一境性になりましょうね。

 定等についての慈恩大師の「等」の注釈
 借識・願力・通力・善威力を以て私たちの世界を変えていく。

 業力所変は決定
 定力所変は未決定

 「略して此の識所変の境を説かば、謂く有漏の種と十の有色処と及び堕法処所現の実色となり。」

  有色処 ― 五根(眼・耳・鼻・舌・身)と五境(色・声・香・味・触)
  堕法処所現の実色 ― 法処所摂色、或は堕法処所摂色のこと。是に五つ有る。極略色・極迥色・受所引色・定所生色・遍計所起色。

 「何が故に此の識は心と心所等とを変似して所縁と為ること能わ不るや。有漏の識の変に略して二種有り。一つには因縁の勢力に随って故に変ず。二つに分別の勢力に随って故に変ず。初めのは必ず用有り。後のは但し境のみと為る。異熟識の変ずるは但し因縁のみに随うものなれば所変の色等は必ず実用有り。若し心等を変ぜば便ち実用無くなんぬ。相分心等は能縁に不らるが故に。須らく彼は実用あるを以て別に此従り生ずべし。無為等を変ずるも亦実用無くなんぬ。故に異熟識は心等を縁ぜず。無漏位に至るときは勝慧と相応す。分別無しと雖も而も澄淨なるが故に。設ひ実用無とも亦彼の影を現ず。爾ら不れば諸仏は遍智に非ざるべし。故に有漏位の此の異熟識は、但し器と身と及び有漏種とのみを縁ず。」
 
  第八阿頼耶識は心王・心所を自分の対象としないのか?
  阿頼耶識の所縁、対象は三つ、種・根・器ですから、何故心を対象としないのかという問いです。
  心は何故見えないのかという問いでもあります。
 達磨さんと慧可の公案
  「達磨面壁す、二祖雪に立ち、臂を断つて云く、弟子、心未だ安んぜず、乞う師安心せしめたまえ。
磨云く、心を将(も)ち来たれ、汝が為に安ぜん。
祖云く。心をもとむるに了(つ)いに不可得なり。
磨云く、汝が為に安心せしめ。竟(おわ)んぬ。」
 安田先生と兵頭さんの対話を思い出されます。「こうですか」・「違う」。「こうですか」と掴んだら、掴んだこころが隠されている。掴んだ心は生きた心ではない・「心をもって心を求るに不可得」
 迷いの心に二種有りと説いてきます。
 「有漏の識の変に二種有り」
  因縁変 ― 種子現行という任運の義
  分別変 ― 境となる。境となるが、用は無い。
        「強籌度の心」、策略、思い量ること。第六識と第七末那識に於いて、自分の都合のいい生き方を選択していく有り方。

 若し阿頼耶識が心を対象とするなら、本当の働きは無くなってしまう。阿頼耶識が対象として捉えているのは、所縁(相分)である種・根・器。阿頼耶識は因縁変のもの種子生現行という、種子を対象として捉えていくからである。
 心を対象化するわけにはいかない。対象化した心は影、影の心であり、この心は能縁の心ではなくなる。

「彼は実用あるを以て」彼は八識以外の心。七識は阿頼耶識より生ず。阿頼耶識を支えてして七転識は動いている。

 無為法は真理の世界。永遠不滅
 有為法は生住異滅の世界(現象的存在が生じること、存続すること、変化して異なること、滅してなくなること。)
 
 無為
  識変の無為 ― 心で捉えた真理・こころで捉えた真理は影になる。
  法性の無為

 ここまでが有漏位(迷える私)
 「無漏位に至ると」
  勝慧(大円鏡智)と相応す。有漏の識が智慧に転依する。無分別智に変わるわけです。「無は是れ無なるを知るが故に」(無なるものは無なるものだと判る。影が影だと判る)
 
 「欲・色界に在って三の所縁を具す。無色界の中にをば有漏種のみを縁ず。色を厭離したる故に業果の色は無し。定果の色ありと云はば、理に於て違すること無し。彼の識は亦此の色を縁じて境と為す。」

唯識講義 五月分 (2)

2015-05-09 17:17:12 | 『成唯識論』に学ぶ
 
 私たちは過去に経験したことを記憶しています。その記憶する働きが自証分であり、自証分が無かったなら、記憶することが成り立たないのです。見分が相分を見たということを見ている、認識したことを認識する働きが自証分である、と。経験のすべてがですね、無意識裡に記憶しているわけです。自証分が無かったなら記憶は成り立たないと云っているのですね。
 私たちは、過去の経験を思いだすことがあります、「私の経験から言えば」とか、「あの時そうであったな」という記憶があるのは自証分の働きなのですね。私の中で、所縁(相分)を認識(見分)したことを認識(自証分)している、自証分が見分を自証しているのです。
 自証分があるから、過去のことを思いだす事が出来ると、思い出せることが出来るのは自証分があるからである、と。
 阿頼耶識の三相で能蔵の義が述べられています、過去の経験を蓄えるところ、所蔵が蓄えられるところという貯蔵庫ですね、ですから種子論におきましても、「種子とは、本識の中に親しく自果を生ずる功能差別なり」と定義されていましたように、種子生現行の種子は自証分としてあるということに成るのではないかなと思います。阿頼耶識が心のどこかに有るという話ではなく、種子生現行として働いている所に具体相があるのですね。三法展転同時因果を成り立たしめている主体が自証分といえるのではないかと思います。
 『泉鈔』には「自証分と見分との慮知は内外にかはり、麤細に不同である。自証分これを縁ぜしことならば、至極自証が憶する因とこそなるべけれ、見分は會ってこれを縁ぜず、何ぞ見分が能憶の因となるや。答ふ、自証分と見と一体なるが故に見分が憶の因と成るなり」と説明されています。
「彼の論を按ずるに、『集量論』を引いて云く、『集量論』に説く、諸の心心法は皆な自体を証するを以て名づけて現量と為す。若し爾らば曾って見ざりしが如き憶念すべからず。」(『演秘』)
 「識体転じて二分に似る」という三分論は陳那論師の説になりますが、陳那論師は更に自証分として見分を縁ずる作用が必要であると説かれています。即ち、能縁・所縁の作用が完成するには、所量・能量・量果の三者を具さなければならないといわれています。所量(認識されるもの)とは相分であり、能量(認識するもの)とは見分であり、量果とは認識の結果を確認する心の働きで、自証分になりますが、自証分は更に量果として見分を縁ずる作用を行います。その時自証分は能量として、見分は認識対象として所量になります。認識したものを確認(量知)することができなければ、所縁を確認することが出来ないのですね。見分と自証分の二重の関係があって初めて相分を了別することができるのです。
       「境に似たる相は所量なり、能く相を取る、自証とは即ち能量と及び果となり。此三は体別無し。」(『集量論」) この三分は功能差別ですから三つに分けられて説明されますが、体は一つ、一識なのです。
           所量
              〉 因  果 ― 量果

           能量          ↓
                       因の意義を持つ。 量果が能量所量を完成させ、完成されたものが、新たな因という意義を持つ。
 量とは物差しのことですが、ここでは判断・認識の根拠になります。古来からの喩では、所量は反物、能量は尺(ものさし)、尺と反物だけでは量ることはできません。尺を反物に当てて量る人がいなければ、量るということが完成しないのですね。量る智がないと、所量・能量の意味がないことになります。その量る智を自証分というのですね。よってですね、見分・相分は必ず自体がなければ成り立たないのです。自証分が自覚作用になりますね。自覚作用がなければ、認識は成り立ちません。認識が成り立つためには、自覚作用が不可欠であって、その役割が自証分なのです。ここにおいて憶することができるのですね。記憶が成り立ちます。 この次に証自証分の必要性が説かれてきます。以上が三分説の概略になります。
 三量について、
 八識それぞれに自証分があり、その自証分は現量(証自証分も現量)。自体分が転じた見分が前五識・第六意識・第七末那識・第八阿頼耶識に分けられますが、前五識と第八識は現量です。第七末那識は染汚識ですから唯だ非量です。第六意識は現量(ゲンリョウ)・比量(ヒリョウ)・非量(ヒイリョウ)の三量に通じます。
  「心と心所と所依の根は同なり。所縁相似せり。行相は各別なり。了別し納領するが等き作用各々異なるが故に。事は数等しきと雖も、而も相は各々異なり。識と受との等き体差別有るが故に」(『論』第二・二十七右)
 心と心所とは所依の根を同じくする。心・心所は一の根に依り、一の境を縁ずるからである。前にですね、「心と心所とは所依・縁同なり。行相は相似せり」と説かれていましたが、ここは、「所縁相似せり」と。心と心所との関係は、所依の根は同じである、八識は八識それぞれの同じ根を所依としている。眼識は眼根を所依とし、乃至第八識の根は第七識。第七識の根は第八識と、所依の根は同じくしているが、所縁の相はどうであるのかですね。所縁の相は相似しているんだと。相似とは、心の中の影像が知るべき本来の対象と似ていることなんですね。眼識は眼根に依って見るという働きをしますが、その対象となる境ですが、対象が有ってそれを見ているのかと云う問題です。所縁となる相分は心が外に現れたものであって、境に似て現じているというわけです。ですから所縁相似せり、と。
 「心と心所とは所依の根を同じくす。その所縁の相は各々変ずること別なり。故に同一と言わず、但だ相似と云う。青の相分を縁ずる時は皆青を変ずるが故に。」(『述記』)
 本質からいえばこの通りなんですが、私たちは本質を直接見るということはできません、見分を通して見ているわけですから、「倶に是れ青なりと雖も、影像を取ること各異なり、故に不同行相と名づく。」(『述記』)
 本質は疎所縁縁であり、影像は親所縁縁であって、私たちの認識構造は、識それぞれの見分が捉えた相分を見ているわけです。それを影像相分として認識しているのですね。
 「了別すると領納すると各々同じからざるに拠る、故に相分は同じからざると雖も、然るに極めて相似す。青を境と為すが如き、諸の相倶に青にして相似するを同と名づく。見分は各々異なり。倶に是れ青なりと雖も、像を取ること各々異なるが故に、不同行相と名づく。」(『述記』)
 見分が了別の働きを持っている。所縁の相分の上に了別の作用があるわけです。これが行相、それぞれの識に了別の働きが有る、しかし領納という、心の受け止めかたという、感覚や知覚あるいは経験は各々異なっている。作用各別といいます。同じものを所縁としていても、それぞれの識の働きによって、像を取ることは異なってくるんだと。
 「事は数等しきと雖も」、事は自証分、事の自証分は一つずつ、数は等しいけれども、相は別である。識と受等の体は別であると説き明かしています。此のところはよく理解できませんが、後に三量という問題が提起され、そこで「みえないものでもあるんだよ」ということがはっきりとしてきますので、後にまた触れてみることにします。
 「然も心と心所とは一一いい生ずる時に理を以て推徴するに各々三の分有り。」(『論』第二・二十七左)
 本科段は、因明の論師であり、三分説を説かれました陳那菩薩が経に依って道理を立てられたことを推徴することになります。
 心王は八識・心所は五十一数えられるわけですが、それぞれ一つ一つに三分があるということを道理をもって推し測っていく。推徴すると各々に三分があるということが解ると述べ、その理由が次の科段で示されてきます。
 「所量と能量と量果と別なるが故に。相と見とは必ず所依の体有るが故に。」(『論』第二・二十七左)
 所量・能量・量果です。量られるもの、量るもの。量られるものを認識するという役割をもっているのが量果ですね。要になる役割を担っている。それがないと、所量・能量は、バラバラで何一つ役割を果たすことが出来ません。そこで、この三つは別であって、三つがないといけないものである。そして相分と見分とは所依の体がないといけないんだと。所依の体が有って初めて相・見の二分が成り立つのである。前回に喩を出していますが、反物と物差しと、反物を物差しを持って量る者、この三分が無いといけないと陳那菩薩は説かれているんです。どこに説かれているのかといいますと『集量論』(ジュウリョウロン)の伽他の中で説かれているんだと。
 伽他とはガ-タの音写で、偈・頌・偈頌という韻文で説かれたものですが、『集量論』には翻訳されたものはないとされています。玄奘さんがこの『成唯識論』の中で、この部分だけを翻訳されたんでしょうかね。
 「集量論の伽他の中に説くが如し。
   似境相所量 能取相自証 即能量及果 此三体無別。」(境に似る相は所量なり。能く相を取ると自証とは、即ち能量と果となり。此の三は体別なること無し。)
 相分 ― 所量
 見分 ― 能量
 自証分 ― 量果
 であって、この三は識に離れてあるものではないと説かれてきます。不離識ではあるが功能は各別である。
 此の後、細かく分別すればとして、正義である護法菩薩の四分説が説かれます。ここまでは四分説のプロローグですね。
 重ねての説明になりましたが、相分・見分・自証分が説かれなければならない背景と、外界は実に存在するものではなく、外界に似て取らえている識の働きがあることを明らかにしておきたかったのです。
「又心心所を、若し細かく分別するに応に四分有るべし。三分は前(サキ)の如し。復第四の証自証分有り。」(『論』第二・二十七左) 心・心所を細かく整理し分類すれば、四分があることがわかる。三分は既に説いたが、その奥に証自証分が有るのである。
 次にその理由が述べられます。
 「此れ若し無くば、誰か第三を証せん。心分をば既に同なるを以て皆証すべきが故に」(『論』第二・二十八右) 若し証自証分が無かったならば、誰が第三目の自証分を自覚するのか。自証の証は証明する、自覚するという意味です。心分は、心の一部分という意味で、相分も心の一部分ですし、見分も心の一部分になります。見るのが見分の働きですが、見分をもって認識が成り立つのですね。見分が相分をみているという構造です。そうしますと、この見分を自覚する働きはどこにあるのかというと、相・見の要である自証分になるのです。識体です。八識でいえば、八つの心王が自証分なのです。そして自証分を見ている働きが証自証分になります。自証分が見ていることを、さらに証明する働きです。これをの能証といっています。三量でいえば、自証分・証自証分は現量になります。
 ここからですね、前回までに少し述べました、所量・能量・量果の三量と、新たに説かれてきます、現量・比量・非量の三量(現比非(ゲンピヒ)の三量といわれています。)
 自証分と証自証分の関係は、因果更互関係ですね。自証分は相・見に対して量果ですが、証自証分に対しては因である能量になり、証自証分が量果になります。しかし、量果である証自証分が因(能量)となり、自証分が所量・量果という関係です。この更互関係があって、第五の証自証分が必要ではないと結論づけています。自証分が能量である場合は、証自証分は所量であり、量果として自証分を変現する。この自証分・証自証分は現量であるので、こういう関係が成り立つのです。
 次の科段より、三量分別が示されます。
 繰り返しになりますが、大事な所ですので、本文に従って進みたいと思います。
 見分と自証分との関係
 「又自証分は果有ること無かる応し。諸の能量は必ず果有るが故に。」(『論』第二・二十八右)
 「述して曰く。見分を以て能量と為することは、第三を以て量果と為す。若し細さんを能量とせば、誰を量果と為せん。量を為することは前の如し。彼若し救して第二の見分を以て第三の果と為すと云はば、(『述記』第三本・四十九左)

      相分  ―  所量
      見分  ―  能量
      自証分 ―  量果
 「量果」(認識の結果を確認するこころの働き)。量はものを認識する。能は知る働き、認識するもので、所は知られるもの、認識されるもので、その結果を確認する働きが量果といいます。本文に沿いますと、「諸の能量は必ず果有るが故に。」能量は自証分、自証分には必ず果がある、認識がそこで完成するということなのです。それが証自証分であるといいます。ですから証自証分がなかったなら、自証分の果が無いということになってしまいます。量果が要になりますね。纏め役です。
 そこで、相分・見分ですが、相分は所縁の影像であって認識する作用はないwけです。見分はただ相分を縁ずる外縁の作用飲みでありますから、自証分を証知することは出来ません。従って能量には必ず量果がなければならないのですね。そしt大事なことは、自証分の量果です。それが証自証分を立てる理由になります。
 自証分と証自証分の関係ですが、
      相分   ―  所量
                ↑
      見分   ―  能量     所量
                ↑     ↑
      自証分  ―  量果  ―  能量  ― 所量・量果 ― 能量
                       ↑           ↑ ↓    ↓ ↑       
      証自証分 ―――――    量果  ― 能量      所量・量果
 自証分は証自証分の所縁であり、かつ能縁であり、自称分と証自証分とは互いに能所縁となる。互に所量となり量果となりますから、ここで四分は完成されます。
 但し、問題はここで提起されます。
 若し、自証分と証自証分に互に能所縁の作用があるとするならば、見分と相分との能所縁の関係を認めて第四の証自証分は要らないのではないというものです。ここで三量をもって説明されます。証自証分が無くても、見分が自証分を縁じて完結すればいいのではないかというものです。
 「見分は第三の果には応ぜず。」(『論』第二・二十八右) 
 見分は或る時には非量(ヒイリョウ)に通じる。即ち、第八識の見分はただ現量であるが、第六識の見分は現量・比量・非量の三量に通じ、自証分の諸の識は現量である。当然、証自証分の諸八識も現量です。前五識も現量です。
 「見分は或る時には非量にも摂むるが故に。此に由って見分は第三を証せず。」(『論』第二・二十八右) 現量とは、対象を直接知覚する認識のことで、言葉を用いずに知覚しますから、自正明了であり迷乱することがなく捉える働きをいいます。ありのままの直覚的認識です。
 比量は、推量のことですね。推理・思考という推し量ることをいいます。言葉を用いた論理的思考をいい「遠くに焔を見て彼に火ありと知るが如く、現量を先と為して比量す。」と喩えられます。教えは現量です。ですから教えを聞いて、現量を推し量るわけです。仏法とは何か。真如とは何か。教えを通してしか知り得ないのですが、直接知ることはできません。聞法の大切さが知り得るわけです。聞法を通して思考し、推理して知っていく、ですから比較する、減量と比較して知っていくので比量といいます。
 非量は量ですね。現量と比量のことですが非ずと、似現量・似比量です。間違った認識の在り方です。この二つを纏めて非量といいます。
自証分と証自証分の相互互換性を明らかにする中で、見分と自証分が相互互換性が無いのはどうしてか、という問いが出されて、そこに三量分別に由って見分は「是れ第三の果には応ぜず」と答えられています。自証分は現量であるが、見分は非量にも摂められるからである、と。
 「此に由って見分は第三を証せず。自体を証するは必ず現量なるが故に。」(『論』第二・二十八右)
 見分は現量・比量・非量の三量に通じている。正しくものを見ることも出来るが、時には間違ってものを考えることがある。ほとんど、間違ってますね、自分を柱にしていますから、その柱を軸に見解が生まれてきます。我見と云われるものですが、公平性がないですね。それを依り処にしている限り、正しくものを見、判断することはありません。それを非量と現しています。ですから、見分が自証分を証明することは有り得ないのです。
 「識体転じて」と云われていましたが、識体が転じて相分・見分という相を取るということでした。識体が二分を証明しているということになりますね。
 自覚という言葉があります。真宗で大事にされている言葉です。深信も自覚だといわれます。自覚とは自らが自らに覚めるということなのですが、それは現量でなければならないということなのです。ここに自覚の厳密さが示されます。そこに私的な欲がはいると、自覚にはならないで、功利心となってしまうのですね。「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき」(『歎異抄』)は「報土の真因決定する時剋の極促を光闡せるなり」(『行巻」)と教えて下さっていますが、そこには一点の染汚性はありませんね。「「即」の言は、願力を聞くに由って」と、即得往生=摂取不捨は、信心決定という如来の大悲を一身にうけた「時」に開示されることですが、唯識は現量と押さえています。
 自体を証するとは、自分で自分を証明するということなのですが、証明するには必ず現量でなければならないと云っています。そこに非量が入っては駄目だといっているんですね。これは第七末那識とも関係することですが、自分で自分を正しく見ることはできますかね。末那識も自覚の深さなんですね。見れない、というところに仏法を聞くということがあるんでしょう。「聞」がなかったなら、「自分の事は自分が一番よく知っている」ということになるんでしょう。そこには必ず己を立てることが起こってきます。己を立てるにはどうしたらいいのかしか考えていません。これが非量だといっているんです。
 「此の四分の中に、前の二は外なり。後の二は内なり。」(『論』第二・二十八右) 四分を分別してですね、前の二は、相分と見分である。相分・見分共に、「識体転じて、二分に似る」という、識体が外に投げ出されたもので、相分という相に似、見分という相に似て現じているのです。「見分は外に似て外を縁ずるに由るが故にンづけて外と為す。」(『述記』)そして識体という自証分と証自証憤の二つは内であるという、「後の二を内と名づけることは、体は是れ内にして内を縁ずるが故に。」と『述記』は釈しています。
 「初のは唯だ所縁なり。後の三は二に通す」(『論』第二・二十八右)
 初は相分のことで、相分は唯所縁である、縁となるものであって、見るとか、聞くとかという働きはしませんよ、ということです。見分によって所縁となるもの、見分によって見られたり、聞かれたりするものという意味になります。
 後の三(見分・自証分・証自証分)は見たり、見られたり、聞いたり、聞かれたりするという二つの働きを持つものです。
 相分とは、「縦い心を縁ずとも心を以て相と為すときは亦唯所縁なり。相分の心は能く縁ずるに不ざるが故に。」(『述記』)
 見分等は、「見分等の心は故(コト)に能く縁慮(エンリョ)す、相の心は然らず。」(『述記』) 見分等の心には縁慮という心の認識作用があるんだと説明しています。所縁を認識する心作用で、心の特質を表しています。
「謂く、第二の分は但だ第一のみを縁ず。或は量にも非量にも或は現にも或は比にもあり。」(『論』第二・二十八右) つまり、第二の見分はただ第一の相分のみを認識する。そして、現量にも非量にも比量にも通じてある。
 見分は相分のみを認識するといっています。見分は、「量にも非量にも」正しい認識と間違った認識にもあり(量・非量対)、或は「現にも比にもあり」現量にも比量にもある(現・比対)。量のすべてを見分は持っている。正しい認識や、推量する働きや、我と執着を起こした遍計所執性である非量にもあって、すべての認識をする働きをもっている。「量不定なり」(『述記』)と。
 「第三は能く第二と第四とを縁じ、証自証分は唯だ第三のみを縁ず。第二に非ざることは無用「(ムユウ)なるを以ての故に。」(『論』第二・二十八右)
 第三の自証分は第二の見分と第四の証自証分を縁じ、証自証分はただ第三の自証分のみを縁ずる。証自証分が第二の見分を縁ずるのかというと、そういうことはなく、見分を縁ずるのは自証分の働きであって、証自証分からすると必要のないこと、無用である。
 自証分は見分をも認識し、同時にまた証自証分をも認識する、証自証分はただ自証分のみを認識する、と説かれています。
 見分は第六識に於いて三量に通じるわけですが、その三量分別は第六意識において現・比・非の三量に通ず、といわれています。
 「或は量にも非量にもと云うは、第六識は一刹那に頓に十八界を縁ずるの時、三類境(性境・独影境・帯質境)一時に並起す。故に現・比・非の三量も亦一念に倶起す。」と釈されます。
 三類境は、種子に関係する事なのですが、見分と相分ですね、今迄は相分は認識されるもの、見分は認識するものとして学んできました。ここで一つ問題が起ったのです。それはこの見分と相分とが阿頼耶識のなかの別々の種子から生じるのか、同一の種子から生じるのかということなのです。ここで別々の種子から生じるのと、同一の種子から生じるのとでは、認識される対象の相分に違いがあると、それを三種類にわけて説明しているのが三類境になります。
四分義にはいっています。今日の所は『成唯識論』(巻第二・二十八左)からです。
 「第三第四をば皆現量に摂む。故に心心所は四分合して成ず。所能縁を具す。無窮の過無し。非即非離(即しても非ず・離しても非ず)唯識の理成ず。」
 自証分と証自証分の間に働くのは、現量だけである。証明するだけであって、相分をいろいろ分析して分別するということは無い。私達の心は四分によって働いている。相分は所量・はかられるもので唯だ所縁である。見分・自証分・証自証分はどうであるのか、といいますと、見分は唯だ相分を認識するだけである。認識する働きである見分は正しい判断や間違った判断を併せ持っている、このような働きをするのは第六意識なんですね。前五識は現量・第七末那識は非量・第八阿頼耶識は現量である。自証分は見分を相分として認識し、また証自証分を相分として認識を起こします。そして証自証分は唯だ自証分はを相分として認識を起こし、自証分と証自証分が互いに縁となって、所縁と為り、能縁となって互に証明し合う関係なのです。ですから第五分・第六分を必要としないわけです。
 四分の功能の別によって非即であり、四分の体は一つです。自体分が外に展開したのが相分・見分であり、内に開いたのが証自証分です。体は一つですがその用、働きは異なっている。それを非離と名づけられている。
 大体ここまでが前回までに学んできたところです。
 太田久紀師が奈良薬師寺で講義なさいましたのが唯識学寮から出版されています。この中で師は
 「四分は私全体像のことをいうんではありません。見という心の働きとか、聞くという心の動きとかというような細かい具体的な働きの中に四分はあるのです。ですけれど、そのことだけで見ていきますと、解り難いですから、自分が自分を見る、自分が自分を掘り下げていくという次元に置き換えてお話していますも
 内の交渉、外向きではありません。宗教は心を内に頂かなくてはいけない。その構造が四分というような認識構造の分析の中にも護法菩薩は出したかった。四分にされることによって、この認識構造が哲学の構造でも、思想の問題でもなくて、宗教の問題、仏様との問題、そういう問題に深まっていったと思います。三分で十分だとう学説に対して四分がいる。もう一ついる、これは護法さんがどうしてもおっしゃりたかったことだと。それは護法さんの宗教的な体験の深さといいますか、そういうものが、こいう論理的な認識構造の分析のなかにも滲み出ていると思います。四分があることによって、はじめて私共は心の中で、私と語ることが出来る。そいうことを四分で護法さんは組織化された。他の学者は誰も云ってないのに厳然として主張された。知的な興味とか論理的要請というこtだけでなく、私は護法さんの宗教体験に基づいていると思います。
 そういう意味で、四分というきょうも難しいところでした。お話しているほうもくたびれてしまうんです。皆様もたいへんであったと思います。判らなければ判らないで結構です。ただ心というものを四つに分けて細かく見た。ただ目でものを見るという時にも、五十一ある心所の三十四が目と一緒に動く可能性があるんです。善なる目として動く時もありますし、悪なる眼として動く時もあります。その時に眼に貪瞋痴が働くというんです。煩悩が目に働くというのはどういうことかと思うんですが、いやらしい目というようなのがありますか、あれかなと思うんです。ものを見るという一つの動きの中に、多い時は二十も三十もの心が動く、その一つ一つに四分があるんです。そんな複雑な仕組みで私たちは生きている。けっして単純明快なものではない。その根元にあるのが阿頼耶識、自分が何を蓄積しているか。それがこういう複雑な構造をおりなしながら、私共の見えている世界を造り上げている。自分の心が掘り下げられなければ、いつまでも表面しか見えないような人生になってしまう。そういうことを四分義というのは語るのだろうと思います。」
 このように教えて下さっています。
 少し戻りますが、四分義の初めに所量・能了・量果という判断の構造から識の三分が明らかにされました。これは三分説を主張されました因明学の祖である陣那論師の『集量論』の伽他の中にでてくる判断論なのですが、唯識が唯識である為の証明の論書なのです。古来より六経十一論で言い伝えられている、その中の一つに『集量論』があります。
 六経とは (1)『大方廣佛華厳経』、その根拠は 「三界唯一心心外無別法」の文を引用するのに由る。
      (2)『解深密経』、法相宗正所依の経典。
      (3)『如来出現功徳荘厳経』 (4)『阿毘達磨経』 (5)『厚厳経』、『成唯識論』に引用されている。伝訳はありません。
      (6)『楞伽経』
 十一論とは 
      (1)『瑜伽師地論』 (2)『顯揚聖教論』 (3)『大乗荘厳経論』 (4)『集量論』 (5)『摂大乗論』 (6)『十地経論』 (7)『分別瑜伽論』 (8)『観所縁縁論』 (9)『唯識二十論』
      (10)『辨中辺論』 (11)『大乗阿毘達磨集論』(対法論の名で親しまれている)
 次回は「唯識理成」の教証をあげて説明します。
相分といいますと、翻訳すると「対象」ですから、対象物は外にあるものという理解が生れます。また対象は「境」という言葉で表現されます。環境といってもいいのでしょう。それですから、外に有る対象という意味が相分ということになりますからどうしても誤解を生じます。私が存在して、私を取り巻く環境が有る。一般的な考え方ですね。唯識はそれが間違いだと教えているのです。何故かといいますと、私が存在することに由って、私に執着が生じますし、対象物が有るということにおいて対象物に執着が生れます。その執着は私が起こしたものですね。対象物からは執着は生まれません。対象物はあるがままなんです。自然です。そこに執着をするのは、私が描いた対象物であるからですね。自分の心が対象物を縁として色づけしているんです。そして色付けしたものを、恰も対象物であるかのように錯覚を起こしているのです。あるがままのものを本質として、本質を色付けをしたもの、それを影像といっていますが、私は私の影を見て私であると云っているようなものですね。影は影をいうでしょう。影を見て私であるとはいいませんね。それと同じように、対象と云うのは影なんです。影は本体がないと映りません。本体が有って初めて影が映るのですね。その本体を識体といいます。現象の世界は識体が対象に似たものを映じ、それを認識する働きを持って成り立っているのです。その影を相分といい、見る(認識する)働きを見分といっています。本体は八識です。眼識・鼻識・耳識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識の八識です。そして八識それぞれに独自の働きである用があります。私は相分・見分は、心の本体が外に投げ出されたものと理解しています。
 六識の相分は眼識から意識までが、色境・声境・香境・味境・触境・法境である。これ等の境は影像です。本質は第八阿頼耶識の相分になります。そしてこのような認識を起こしてくる本体が自証分といいます。六識相応の心所も同じような働きをします。
 六識の構造は今述べましたが、八識の中の第七末那識と第八阿頼耶識の相分は何かという問題が残ります。
 第七末那識は前六識と潜在識である第八阿頼耶識の中間にあって阿頼耶識を経由して前六識に影響を与えてくる識なのです。manasの音写で、意と訳されています。「末那は阿頼耶の見分に向かいて、是を我と思う、此の外に物を知ることなし」(『二巻鈔』)と説かれていますように、「ただ阿頼耶識の見分を縁じて我と為す」識で、ただただ我とのみ考える識ですから染汚性を帯びているわけです。そこから染汚意(ゼンマイ)とも呼ばれています。それは四の煩悩(我痴・我見・我慢・我愛)と恒に相応して働く所から付けられているのです。厳密には「末那識の倶なる薩迦耶見(有身見)は任運に一類であり恒に相続して生ず」と云われ、「我」と思うのは、末那識そのものではな、末那識と相応して働く我見によると云われています。理由は我見は任運であり、一類であり、恒相続して我執を起こすからである。
 阿頼耶識の見分は、常一・主宰というアートマンに似ていことから、固定化された我として末那識が執着を起こす対象となったんですね。末那識は八識の本体である阿頼耶識を対象として我と決めつけて働きますから、阿頼耶識が転じた表層の六識に、我執を帯びたものとしての影響力を与えているのです。飛躍した言いかたをしますと、末那識の自覚が我執を紐解く鍵になりますね。
 そして阿頼耶識の対象は何かということでうが、これが先日来より述べている「処と執受」になります。
 今日は昨日の問題提起ですね、「唯識の理成じぬ」の証明です。『厚厳経』の頌を引用して証明しています。
 「契経の伽他の中に説かく
   衆生の心(有漏心)は二性なり。 内(自証分・証自証分)と外(相分と見分)との一切の分は 所取(相縛)・能取(麤重縛)の纏(テン)なり。 見(見分)は種々に差別(シャベツ)なりと云えり。」
 衆生の心は二性である。即ち内と外という性質をもって心の全体像を捉えることが出来る。相分と見分を今度は所取・能取と言い換えて、取は執着をするといういみですから、所取・能取で執着されるものと、執着するものなのですが、所取・能取の関係はまといつくということ、縛られてしまう。何に依るのかとい云いますと、自分の描いた対象だからです。阿頼耶識の見分をひたすら我と執着する末那識の働きによって、その自我執着心が所取・能取の境を作り上げるのですね。
 相縛は相分が見分を縛ること。麤重縛は阿頼耶識が煩悩の種子に束縛された有り様をいいますが、相縛は衆生を縛るといわれ、麤重縛にも由るといわれています。自分の描いた対象に翻弄され、自分がそれを見ながら翻弄され、そして苦しんでいる、それを纏縛と教えています。
 『述記』には「教を引いて成ず」と教証は「『佛地論』にも有り。即ち『厚厳経』なり。謂く即ち内と外との二性なり。此の内・外の一切の分は皆な所取と能取との纏繞(テンニョウ)すること有り。故に四分を有り。」と説明しています。四分が何故説かれるのか。衆生の心はすべて自分が引き起こした煩悩によって纏わりつかれ真実を覆っている、その構造が四分であり、四分を知る、自覚することに於いて、自分が何どういう構造で苦悩しているのかを知る、知ることに於いて転ずる世界が有る。転じた世界を四智で表している。
 潜在識からの表現ですと、苦悩の現実を直視し、何故苦悩するのかを問いなさい。問が鍵となって苦悩の扉が開かれますよと、智慧の光が私に届いている。
纏縛について『述記』には 「相縛」と「麤重縛」の二つに分けて説明されていました。所取が相縛、相分に縛られる。能取を「麤重縛」。自分の心が自分を縛っていく。種子生現行の、現行は種子を因として生起してきますが、この因は有漏種ですから、種子生種子という一類相続の種子によって、種子を受け入れる場所(所熏)は第八阿頼耶識、種子を植え付ける働きをもったもの(能熏)は七転識であると所熏・能熏の四義で学びました。七転識は有漏心ですから、その有漏心(煩悩の種子)によって阿頼耶識が束縛されている。束縛するものは自分の行為であるのですね。外界が私を縛ってくることはないのです。例えば地球です。地球は私たちを束縛するものではありません。逆に私たちの行為を純粋に受け入れています。そうしますと私たちはどうでしょうか。環境問題を考えて見ますと、環境破壊によって苦しんでいるのは、地球が因でしょうか。違いますね、人類が人類の未来に明るい灯をともそうとして環境破壊をして苦しんでいるのでしょう。この様なあり方を麤重縛というのでしょう。自縄自縛です。でも、このような大局的な見方も私が作りだしたということなんです。何故か、相分の中に、相分を開いて器世間ですね。識体が転じて相分の中に器世間を作りだしているからです。自分が作りだしたものに縛られ苦しんでいる。
 自分が描いたものしか見えていないのですね。ですから正しいものが見えていない。間違ってものをみているのを恰も正しいと思って執着をして生きている。このような有り方を纏縛というのでしょう。
 「見は種々に或は量にも非量にも、或は現にも或は比にも多分差別なること有り。此れが中に見とは是れ見分なるが故に。」(『論』第二・二十八右)
 見は見分です。此の見分はさまざまな動きをする。量は認識の根拠、正しい認識です。非量は間違った認識、或は現量、対象を直接に明瞭に誤謬することなく捉える働きで、直覚的にものを知る働きです。或は比量、推理をしてものを知る働き。このような現量・非量・比量というさまざまな動きをして私たちの見分は働いている。私が描いた対象にむかって様々な心の動きをし、それに縛られて生きているのが私の姿であるとお教えているのですね。
 この辺の事情を『述記』は
 「此の四分の中に相と見とを外と名づく。見は外を縁ずる故に。三と四とを内と名づく。自体を証するが故に、唯だ見分のみ種々の差別あり。或は量・非量既に見分は或は非比と言うが故に。別に第四を立つ。此れは唯だ衆生の四分なり。故に纏縛と言う。相と及び麤重との二縛具するが故に。無漏心の等きは、四分有りと雖も而も纏縛に非ず。」
                                                                                                                                               
            自証分
        内 〈      〉互に能縁・所縁の関係
            証自証分
  二性〈
            相分 = 所取 - 所縁 - 相縛
        外 〈
            見分 = 能取 - 能縁 - 麤重縛 - 現量・非量・比量
見るもの、聞くものに目が奪われて欲いなという欲望が渦巻いてきます。能縁が所縁に縛られる(見るものが見たものに縛られるということ)ことを纏縛といっているのです。 それが私の心の働きである、自分が描いた対象に自分の心が執われていく、ここをしっかりと見据えていく必要が有るのでしょう。        
「是の如く、四分を或は摂して三と為す。第四をば自証分に摂入するが故に。」(『論』第二・二十九右) このように四分を説いてきたが、相分・見分・自証分の三つで人間の認識を分けるという見方もある。自証分の後にある証自性分を第三の自証分に摂めて、人間の認識を考えることも出来る。何故このようにいえるのかという問いですが、『述記』には「果体一なるが故に」と説明しています。自証分と証自証分は互いに因と成り果となる相互後因果関係ですから、体一に摂して自証分に摂め、「四分を摂して三と為す」と結論しているのでしょう。
 「或は摂して二と為す。後の三は倶に是れ能縁の性なるが故に皆見分に摂む。此に見と言うは是れ能縁の義なり。」(『論』第二・二十九右) 
 今度は四分二と分ける分け方がある。後の三を纏めて見分の中に摂めてしまう。何故ならば、後の三は能縁であり、能縁は見分の働きであるからである。つまり、認識は相分と見分、所縁と能縁の関係で成立しているから二つにまとめることができるという。
 「或は摂して一と為す。体別なること無きが故に。」(『論』第二・二十九右) 
 或は、四分を纏めて一つとする。体ことなることがないからである。体は一つ、開いて四分になるということですね。心は一つであるという見方です。心はさまざまに動いている、その構造をみると四分という働きがあるけれども、本体は一つであるということですね。自体分です。すべての認識の根本は自体分に依る、それ以外の認識の在り方は虚像という遍計所執になりますね。
 「入楞伽の伽他の中に説くが如し。
   自心の執着するに由って 心いい外境に似て転ず 彼の所見非有なり 是の故に唯心と説くと云えり。」(『論』第二・二十九右)

 私たちの心の動きは何が有で、何が無なのか、それを一分説・二分説・三分説・四分説で見てきました。一分は自体分だけ。自体分が有、それ以外は無、遍計所執と捉えています。妄想だと。幻想、私たちは日頃、妄想を見て暮らしていると云う見方です。安慧菩薩は三分で心の構造を捉えられましたが、依他起は自体分のみで、自体分が転じた相・見の二分は遍計所執で幻のようなものであると主張されました。何もないのではなく、心は有るが、計度されたもの、自分の思いで捉えたものは、自分の思いに執着する形で認識されたものであるから真実性はないといいます。つまり、有るのは心だけで、心が二分に分かれた時、自分の思いが染みつき染汚性をもってしまう、染汚性は依他起性ではありませんから無だといいます。
 難陀さんの二分説は「内識転じて外境に似る」。見分のみが有る。認識する心はあるけれども、認識された如く外境は無いという見方です。相分は無であると。見ている対象は同じであっても、私の思いで捉えた対象はそれぞれ違いますね。それでしたら、何を見ているのかということですが、私の心の影、影像を見ているのです。二分説では相分は真実とはいえないと云うことになります。
 陳那さんの三分説になりますと、三分共に有、有ると考えます。自体分・相・見の三分は依他起性である、と。自体分が転じた相分・見分も縁起されたものと見るのですね。自体分は今でいう「あるがままの」でしょうが、転じた相・見の二分も染汚されているとはいえ、染汚という形で有る、それが心の構造ではないのか、というわけですね。縄をみて蛇だと錯覚をしてもですね、私は蛇が苦手ですから、勘違いして震え上がることが多々あります。時と共に有りますから無とはいえないですね。たとえ虚像であったとしてもですね。それが私の心の動きであるからですね。影像をみて迷っている心の構造を三分として見ているわけです。
 護法菩薩は、三分説をうけて、自体分を証明する形で証自証分を立て、四分共に有であると考えられました。迷いだから捨てるというわけにはいかない。捨てられん心が働いている。そういうものを背負っていま生きている、この事実を否定することは出来ないですね。迷いだから、虚像を見ているだけだから捨てなさいといわれて、はいと捨てられるのでしたら簡単です。悩みを解決するのはそんなに大変なことではないでしょうが、そうはいかないのですね。ここに唯識の難しさがあります。スカットしないんです。でもね、迷っている自分が存在していることは確かですね。
 外境は無い、これは確かなことなんですが、外境は有るとして、責任転嫁をして外を責めて苦しんでいる事実は有ります。此処が大事なところなんですね。私は思うんですが、私は苦悩する存在であるとは思っていないのではないですか。苦悩させるものが悪いと。しかし苦悩させるものを悪として苦悩している自分がいることも事実ですね。
 そういうことが、『入楞伽経』の伽他に説かれている、自分の心に執着を起こすことに由って、心は外境に似て、恰も外に本当のものが有るかのように動いていくんだ、と。しかし外境に似て動いていくものは本当のものではない、本当のものは唯だ心だけであると説かれているんです。
 虚像とか妄念とか虚妄という動き方は、必ず執着を起こすのです。自分の心に執りつく、縛りつく、それを性としています。執着を起こしていることが心のSOSですね、助けてという危険信号を発していると思います。

 「述して曰く。第十巻の『楞伽経』に説くが如し。此の頌の意の言く、外境無きが故に唯一心のみ有。執着するに由るが故に外境に似て.ず。定んで外境無し。自心のみ有と許す。心に離れざるが故に総じて一識と名づく。・・・」と釈しています。
「是の如く處處に唯一心のみと説けり。」(『論』第二・二十九右)
 このように私たちが認識を起こすのは、あらゆる経論には、ただ一心のみであると説かれている。
 「述して曰く。此れは指例なり。諸師此れに因って諸々の有情は唯一識のみ有りと執す。此の義非なり。下(『述記』七末)に至って當に知るべし。今此れは即ち是れ十地等の一心と云う文に例す。三界は唯爾(ソコバク)の心なり。一心に離れたる外には別の法無きが故に。」(『述記』第三本・五十五右)
 「是の故に唯心と説くと」の文をうけて例を指しながら証明をしている科段になります。
 私たちの認識のありかたは、第六意識を以て深層の心の動きに左右されながら見たり聞いたりしているわけですから、人生そのものは唯だ自分の心によって作りだしている、それ以外なにもない。自分の作りだした世界に一喜一憂しているだけであることに先ず気づきを得るべきであろう、と思うことであります。経にも論にもあらゆるところに「唯一心」と説かれている。そして「唯一心」は心所をも含めるのである、と。
 「此の一心と云う言には亦心所をも摂めたり。」(『論』第二・二十九右)
 心王と心王に付随する心所有法(心に所有された法・心所)をも含めるのである。「王と言うときは亦臣を摂するが故に」(『述記』)と。

 「故に識の行相は即ち是れ了別なり。了別と云うは即ち是れ識の見分なり。」(『論』第二・二十九右)

 総結の文になります。ここをもって四分の説明はおわります。このように識の行相(働き)は了別(区別)して知ることである。そして区別するのは識の見分である、と。
 「述して曰く。自下は行相を弁ずるなり中に。大文第三に総じて結す。「故に識の行相は即ち是れ了別なり。」と云うは、却って頌の中の了の一字を結すなり。「此の了別の体は即ち是れ第八識の見分なり。」と云うは、本の明す所に帰す。」(『述記』第三本・五十五左)
   
 「却って頌の中の了の一字を結すなり」と、本頌の「不可知執受 処了常与触」の「了」の説明が終わったことを示しています。即ち「了」の説明を四分義で見てきたのですね。総結として「了というは識の見分である」と。
          行相 (見分)    了
 阿頼耶識 〈              処
          所縁 (相分)  〈         有根身
                      執受  〈
                              種子
 
 行相は能縁である見分・所縁は相分。見分の中に四分が含まれている。開けば四分、摂めれば見分。相・見は、二にし一であり、相分があって見分が働くのではなく、見分の内容が相分なのですね。見分は意識の中にある内容であって、内容の中身が相分。架空のものでも見分の内容になるわけです。影が相分ですね。それが意識の内容ですから、相・見共に依他起になるわけです。この依他起について諸論師の主張が説かれたわけです。護法菩薩はすべて依他起であると論破されてます。

 「然るに安慧は唯一分と立て、難陀は二分と立て、陳那は三分と立て、護法は四分と立つ。今此の論文は護法菩薩四の教理に依って四の差別を説く。倶に依他起性なり。安慧等の諸師の知見に非ず。
 此れ四分相望めて所縁と為し、各々自証及び行相と為すは、所縁は知るべし。難を逐って説かば、(証自証分が自証分を縁ずるの時)第四を行相と名づくる時は、第三をば所縁とも名づく、亦自体とも名づく。能く(所縁の)自体(第四分)を縁ずるが故に。見分を以て自体と為すべからず。(見分は)第四を縁ぜざるが故に。(第三の自証分が見分を縁ずるの時)第三を行相と為すが如きは、第二をば所縁と名づけ、第四をば自体と名づく。能く第三を縁ずるを以て能縁の法を以て自体と為すが故に。又第三分を行相と為して、第四を縁ずる時には、第四を所縁と為す。所縁即ち自体なり。四が第三を縁ずる如き返覆するに理斉しきが故に。(見分が相分を縁ずる時)第三を自体と為し、見分を行相と為し、相分を所縁とすることは、前に已に弁ずるが如し。」(『述記』第三本・五十五左)
   第四・証自証分  能縁 ―――― 所縁 第三・自証分
                           ↓
                          自体分 能縁 ―――― 所縁(第四・証自証分)                                   相分(所縁)
                           ↓     
                                 自証分(行相)――――(自体分)〈
                          行相 ―――― 第二・見分は所縁・自体は第四・証自証分 〈                          見分(行相)
                           |                                       見分(所縁)
   第四・証自証分  所縁 ――――  能縁

唯識講義 五月分 (1)

2015-05-09 16:55:59 | 『成唯識論』に学ぶ
 『成唯識論』講義も、初能変の中枢である四分義にはいってきました。四分義は古来、三類境と共に、「四分・三類唯識半学」と云われていますように、非常に大事な箇所であります。ここが理解できたら、唯識は半分学んだということになります。心して学びたいものです。
先月は、最後随分走りましたので、十分説明することができなかったように思います。事前にレジメを作成しておいた方が、講義もスムーズに運ぶかもしれませんので、FBでも、ブログでもアクセスできるようにしました。
 「器世間は所縁の外側のことを示し、外境として実体的に存在するものでは無く、どこまでも自の内識が転変したものであることを明確にしています。このことを『述記』は「本識の行相は必ず境(所縁)に杖して生ず。此は唯だ所変なり。心外の法に非ず。本識は必ず実法を縁じて生ずるが故に。若し相分無くんば見分生ぜず。即ち本頌に境を先にし、行を後にするの所以を解すなり。杖と云うは謂く杖託なり。此の意総じて見は相に託して生ずることを顕す。」と釈しています。
 自体が転じたものを縁とし、そこに行相が働きかけて、執受と器世間そして行相の三が織りなす世界を縁として、私は私の世界を構築していることを教えられます。
「此の中に了とは、謂く異熟識いい自の所縁に於て、了別の用有るなり。」(『論』第二・二十六右)
 「此」は第八識の行相を解釈すると云う意味になります。次に「異熟識いい自の所縁に於て」というのは、所変の影像であり、親所縁の相分である。疎所縁である本質を指しているのではないということです。見分に対して相分は親所縁であり、本質は疎所縁ということになります。見分は相分の於(うえ)に了別の働きが有ることを明らかにしました。
 本科段より、心の構造ですが、心はどのような構造をもって働いていくのかが四分義をもって検討されます。初めに相分・見分の関係が述べられています。「識体転じて二分に似(の)る」というところです。識体が能変、転じられたものは所変。転じられた所変の中の相分が所縁として能縁である見分が認識を起こすという構造ですね。「諸識の所縁は、唯だ識の所現のみ」であり、すべては依他起性の世界である。迷い(虚妄分別)も目覚めも依他起性である。縁起によって迷いも成り立ち、目覚めも成り立つとうことでしょう。
 能縁という能動的な働きが見分、それが了別という、ものを区別して知っていく働きを見分というんだと。(ノエシス)
 本質と影像は以前にも述べていますが、復習として今一度整理をしますと、簡単にいいますと、第八識の所変を本質といい、諸識の所変を影像というんですね。影像は諸識の直接の所縁ですから親所縁といい、第八識の所変は本質ですから、間接的な所縁であることから疎所縁といわれます。
 例えば、第八識と第七識との関係ですが、第七識は、第八識の見分を所縁として(本質)、自識の相分上に影像を変現し、それを親所縁として「我」と執するのですね。第七識が末那識といわれる所以です。
 「此の了別の用は見分に摂せらる。」(『論』第二・二十六右)
 ものを区別して知っていく働きの面を見分というのだ、と。
「然も有漏の識が自体の生ずる時に、皆な所縁能縁に似る相現ず。」(『論』第二・二十六右)
 そしてですね、有漏の識、迷いの心が起ると、所縁能縁に似て現われてくる。私が捉えたものは影像である、こころが捉えた影ですね。心の影を見ている。自分の影を見て、影が自分だと錯覚を起こしているのですね。(ノエマ)
 「似」というのは、恰も外界に存在するかのように見えていますから、そうではなく、自分の心が捉えたもの、外界に存在するかのように心が捉えている状態を「似」と表現したのですね。ですから、能縁(認識するもの)・所縁(認識されるもの)は自体(自分の心が)転じたもの、変化したものである。認識されるものは実体としてあるわけではないが、実体に似て現われる、それが識の働きである、といっています。
 自分の心は解らないといいますが、いつもいつでも自分の心を見ているわけです。心が投影したものを見ていますから、何を見て、何を感じて、何を思っているのかはすべて心の影なんですね。
 所縁に似る相 - 相分
 能縁に似る相 - 見分
 有漏とありますが、虚妄分別の識です。無漏は仏果ですから、仏果以外はすべて有漏ということになりますから「皆」ですね。虚妄分別が自体であって相・見二分に似て現ずる、識転変です。転変されたものは現行識で、現行は種子生現行で、果能変、種子は因能変。
 体に対して相を立てるのが二分説になります。二分説は難陀の説で、「内識転じて外境に似る」と説かれています。見・相二分でもって唯識を説いています。見分が体・相分が相という見方です。しかし、ここでいう二分は護法の立場からですね、「自体転じて二分に似る」、三分説から二分を説明しています。
 三分説ですが、ここに解釈の相違がでてくるのですね。二分説は難陀の説。三分説が一分説と三分説に分かれます。三分説は陳那の説なのですが、これを解釈して安慧は自体分は依他起性であるが見・相二分は遍計性執であるとして一分説を主張しています。護法は三分共に依他起であるとし、三分説を立てますが、自体分を証明する形で証自証分を立て四分説を完成させます。
「彼の相応法も応に知るべし亦爾なり。」(『論』第二・二十六左)
 「彼の相応法」とは心所のことですね。識には必ず心所が相応していますから、心所法も同じように、能縁・所縁という形を以て現ずる。心には必ず心所法が相応すると説いてきます。
 心王 ― 八識
 心所 ― 五十一の心所をいう。遍行(5)・別境(5)・善(11)・煩悩(6)・随煩悩(20)・不定(4)
 心心所相応 ― 各識に相応する心所 /前五識…34 ・第六識…51 ・第七末那識…18 ・第八阿頼耶識…5
前五識は34の心所と相応する。遍行の5と別境の5と善の11と貪・瞋・癡の3と随煩悩の無慚・無愧・不信・懈怠・放逸・惛沈・掉挙・失念・不正知と散乱
第六意識は51の心所すべてと相応する。
第七末那識は18の心所と相応する。遍行の5と別境の慧と四煩悩と随煩悩の不信・懈怠・放逸・惛沈・掉挙・失念・不正知と散乱。 
第八識は5遍行と相応す。
「所縁に似る相をば説いて相分と名づく。能縁に似る相をば説きて見分と名づく。」(『論』第二・二十六左)
 「此は能似をば見相に摂すると云うことを説く」(『述記』第三本・四十一右)
 繰り返しになりますが、大事な所ですから、ここを間違えますと混乱を起こしますので外境は無いんだと(心外の法は無し)繰り返し説いています。
 所縁に似る相 ― 相分
 能縁に似る相 ― 見分
 私たちは何を見ているのか。対象が有って対象を見ているのかが問われているのですね。そうではなく、心は対象に似て、あたかも対象が有るかのように、心を外に投げ出して、心の中を見ているというのが見・相の二分であるということですね。そうすれば、心の中の深さですね、迷いの深さです。見・相二分は染汚性ですから、迷いの深さを知れば知るほど人間の深さを知ることになります。外境有りとしますと、心は深まりませんね。すべて責任を外境に転嫁しますから、自分の中に問題が有ったと。気づきを得ることはありませんからね。自分の心の広さを見・相二分で現しているのです。心の豊かさは、迷いの深さに気づかせていただくところから、豊かさ、広さをいただくんでしょう。
 二分義は見・相二分を以て私たちの心の構造を説き明かしたのです。非常に素朴な解りやすい説明です。見分と相分は一体であるが、見分が相分を認識するという形で説明してきますのが二分説なのです。しかし相分も識が変化・変現したものですから、認識対象として識が外に投げ出されたと云う姿を取るのですね。
二分説の理頌と教証
「若し心・心所にして、所縁の相無きは、自の所縁の境を縁ずること能は不る応し。或は一一いい能く一切を縁ず応し。自境も余のごとく、余も自の如くなるが故に。」(『論』第二・二十六左) 
 この一段は、所縁というものが無ければならないという理証を挙げています。
 もし、心・心所に所縁の相が無かったならば、自の所縁の境を認識することはできないであろう。
 心・心所法は有所縁の法であり、
 所縁は境である。
 識が働く為には所縁は不可欠である。
 所縁の相が無かったなら、識は所縁の相を認識することが出来ない。認識が成り立たないのですね。
 しかしです、若し、所縁の相が無くても認識することができるのであれば、一つのものが一切のものを現ずることができることになってしまう。これでは六識と六境の関係が混乱をしますよ、といっているんですね。眼識は色境を乃至意識は法境を認識するわけです。識は見分であり、境は相分です。この関係が破壊されます。眼識が一切の境を認識することになるからですね。必然の関係から、偶然の関係になります。眼識は色境を認識するのは必然の関係ですが、一切を認識してもいいというのであれば、偶々の関係になります。
「自境も余の如く、余も自の如くあるべきが故に」、自境が他を縁じ、他境を自が縁ずるという過失を犯すことになる。自他の区別がなくなり、一切を縁ずることになってしまう、と。
 これは安慧の一分説(所縁の相は所執であるから無法であるという主張)と部派の正量部の執心(外境は有であるとする説)を破斥しているのです。
 能縁はどうかということですが、
 「若し心心所能縁の相無くば能縁に不る応し。虚空等の如し。或は虚空等も亦是れ能縁なるべし。」(『論』第二・二十六左) 
 心・心所には能縁の相が有ることを明らかにしています。もし、心心所に能縁の相がないならば、能縁の法ではないであろう、と。そうでないならば、心・心所は能縁ではないことになる。意識は何かについての意識であり、「なにか」について能縁があるわけです
能縁の方をみてまいります。
「若し心・心所に能縁の相無くば、能縁に不る応し。虚空等の如し。或は虚空等も亦是れ能縁なるべし。」(『論』第二・二十六左) 若し、心・心所に能縁の働きがなかったならば、それは能縁とはいえないであろう。虚空のようなものである。虚空には認識する作用はなく、能縁の作用がなくても認識できると云うのであれば、虚空もまた能縁であるということがいえるのではないのか。
 「心・心所には能縁の相有るべし。爾らずんば心等は応に能縁に非ざるべし、能縁の相無しと云うが故に、虚空等の如くと。・・・汝が虚空等は応に是れ能縁なるべし、能縁の相無きが故に、心・心所の如く、と。」(『述記』第三本・四十二左)
「故に心・心所は必ず二の相有り。」(『論』第二・二十六左) 
 およそ心心所法は、みな見分相分という二分を持つものである。
 「識体転じて二分に似る」というのは護法の立場から説明しているものであり、難陀の二分説は「内識転じて外境に似る」見分が識体という点から説明されたもので、認識する構造が混乱をすると護法から指摘されることになるのです。能縁・所縁という関係、見分以外に自証分を認めないと主張します。即ち、相分は見分によって変現されたものということになります。しかし、これでは万法唯識、一切不離識という構図は崩れます。三分説は能変と所変、所変に能縁と所縁の用があるという関係です。色法は心が変現したもの、相分なのです。唯識は相分であると主張します。「色法は心心所が所変として心に離れず」。外境といえでも識の内容である。識別する作用をもっているものです。此の辺はもう少し熟考する必要が有りそうです。見・相二分で説明されますと、心の正体がわからなくなるのでしょうね。
二分説の証明が出されます。教証ですね。『厚厳経』が引用されます。
 『契経に説くが如し。
   一切は唯だ有覚のみ、所覚の義は皆無し。能覚と所覚との分いい、各自然にして而も転ずと云う。」(『論』第二・二十九左)
 『厚厳経』に説かれている。一切は唯識である、と。所覚(所縁=相分)の相は識がつくりだしているものであるから、所覚の義は無いものである。しかし、認識が成り立つのは、能縁と所縁、即ち見分と相分があって、各々自然にして転じているのである」、と。
 『述記』は「一切唯有覚 所覚義皆無」というのは、内心は有であり、外境は無いもである、と説き、「能覚所覚憤 各自然而転」は、自の内心の見・相二分有ることを明らかにしている。」と説明しています。相は、相似ですね。能縁・所縁に似た相が現れている。亦相は相応ですね、和合している。能縁と所縁が相応して認識が成り立っていることを先ず明らかにしているのです。つまり二分が有ることをですね、先ず証明しているのです。そして二分の背景には自証分が有るという三分が説かれます。
 相似ということが大事なポイントですね。識が外境に変化するのではなく、外境に似て現ずる、変現する、体は内にある。変現しますから、間違いを起こすのですね。恰も外境が実在するかのようにですね。しかし、そうではないのですね。認識しているような外境は存在しないのですね。各々の心が作りだした虚像なわけです。その証拠に、各々の認識というか、同じ対象見ていてもですね、受け取り方は千差万別でしょう。そこで「似」という言葉が使われるわけです。
 「内識転じて外境に似る」
 これが難陀が主張した二分説になるのですね。素朴な認識論です。難陀の説では、内識が見分、これが能転変、所転変は外境で相分。外境に似て現じたものは識の相分である。所転変ですね。即ち、一切は識転変、唯識であるという。すべては識が変化したものにすぎないと云う。相分は識の所縁ですが、所縁は識の所変であるのですね。
    種子生現行。種子は因、現行は果、生現行、ここに「似」がいわれます。生現行は、外境に似て現ずる、識転変ですね。此の上に我・法が仮立されているのです。
 「由仮説我法 有種種相転 彼依識所変 此能変唯三」
と、初めにでてきました。「仮に由って」と所由を示していますね。問答形式ですが、我法と説かれているのは仮説である、と。実体として我法有りと説かれているのではないということです。
 「内識所変の似我似法は、実の我法の証に有りと雖も、然も彼に似て現ずるが故に、説いて仮と為す」、と。体は識。所変の我法は依他起、縁に依って起ったものではあるが実の我、実の法ではない、似て現じたものである。似我似法の所依は、識所変であると答えられてあるのですね。我法とは、我法の依って立つところでが明らかにされているのです。「彼」という一字で答えられています。
 私たちが、私といっているのは、私という実体があるのではなく、仮にですね、「私」と云っているに過ぎなく、私は、識が変化したもの、識所変であるということなのですね。「私」は依他起の存在であるということなのです。それをですね、「私」という実体が有るかのように錯誤をおかしているのですね。
 本識である阿頼耶識は無覆無記ですから、執着をする対象ではないのですね。依他起として見相二分を変現し、見相二分も依他起であるということになります。これが事実ということなのですね。すべてはただ識のみあり。事実を言い当てた言葉です。
三分を解す。
 三分は、これまでに見て来ました二分説ですね。その二分説の上に自証分を立て、自証分が識体であって、識体が転じて相分・見分になると説いてきます。
 そして先ず、説一切有分の教説と比較しながら、相分・見分・自証分の在り方を説明します。
 大乗及び正量部以外は、心識に離れて別に心外の法が有ると執していることを述べます。
 「識に離れたる所縁の境有りと執する者、彼が説く外境は是れ所縁なり。相分を行相と名づく。見分は事と名づく。是れ心心所の自体の相なるが故に。」(『論』第二・二十七右)
 「心外の境は是れ所縁なり。心の上に所縁に似る相有るを行相と名づく。体は即ち見分に摂するが故に。大乗の相見分を以て彼の宗に即して名を立つるのみ。」(『述記』第三本・四十四右)
 客観的に事物が存在すると説く有り方と、唯識が説く説き方とを比較して相分・見分・自証分を明らかにしてきます。
 本科段は、唯識に達していない人たちの解釈を挙げます。代表者として説一切有部の教説が挙げられてきます。
説一切有部の教学の特徴ですが、三世実有法体恒有ということですね。法は有るという主張です。大乗は諸法無我ですから、実体としての外境は存在しないと主張しています。存在そのものは縁起として有るということになりますね。ここで云われているのは、外境は存在し、外境を所縁とし心外に法あると執しているということです。能縁はなにかと云いますと、所縁に似た相を行相として、見分が働いているという構図になりますね。見分が自体分で事と名づけるのである、と。見分が外境に働いて、外境に似た相を行相として認識しているということになり、この行相は影像相分ということになりますね。このところを『述記』は昨日も述べましたが、「心外の境は所縁なり。心の上に所縁に似る相あるを、即ち行相、謂く相に行ずるを。見分の能縁をば説いて名づけて事と為す。」と説明しています。
 小乗の事は自体相をいい、大乗の事は自証分をいう。大乗は相分が所縁として、能縁の行相は「了」・自証分が事であると説きます。
 「識に離れたる所縁の境有りと執する者」、対象の事物は有であるとする者は、ということですが、花を見ている、黒板を見ている、月を見ている。皆んなが同じ花を見、同じ黒板を見、同じ月を見ている、こう考えているのですね。。この花・黒板・月等が外境です。外境を有としながら、私は、外境の上に影を作りあげていく、影像です。これが相分で、これが行相というんです。例えば、花としますと、花そのものを見ているのではなく、花を見ながら、その上に花の影を作り上げていく。その作りあげていく対象が外に有ると主張しています。それを見ている。見ているのは見分ですから、見分を事と表しています。此の主張はよく理解できますね。普通の考え方はほぼこの通りであろうと思われます。
 職場に通う道があるから職場に通うことが出来る、昨日も今日も明日も道は存在するんやというのが対象世界が有るとする見方ですね。本当にそうだろうかという問いを出してきたのが唯識なのですが、ここは?をつけておきます。
 「執有離識所縁境者」は相分を行相とし、見分を事とする。見分が自体分ですから、心王は一つ。心は一つだというわけです。心王が事、事が六つの働きをする。心所も同じだと。こういうことが『倶舎論』に説かれている。相分・見分という言葉はありませんが、唯識の言葉をかりて説明しているのですね。以下、詳細が説かれてきます。
「心と心所とは、所依縁は同なり、行相は相似せり。」(『論』第二・二十七右) 心と心所は、所依と所縁は同じである、と。そして行相は相似している。
 所依・所縁が同じである、と云うのは、一根に依って一境を縁ずるからである。しかし行相は相似している。その理由は、青などを見ていても、行相は各別であるから。行相は心王が見ている青と、心所が見ている青では、同じ青を見ているのだけれども、心王は了別をしている。受の心所はそれを受け取っている。「受は領納するを以て相と為す」。想の心所はその形を捉えている。「想は像を取るを以て相と為る」。思の心所は、それをどうするのかといろいろ思いめぐらしている。しかれども、行相は似ているが同じではないと、働きが違うというわけですね。
 心心所はその所依も所縁も同じであるところから、一々の心心所の行相は相似して現れるのであると説いてきます。
「事は数等しと雖も、而も相は各々異なり。識と誦と想との等きいい相各別なるが故に」(『論』第二・二十七右) 
識と受と想と思等の体は各々一つである。しかし相状は別別である。。色受想行識と相は異なっている。それぞれがそれぞれの働きをもっているんだ、と。こういうようにに説いてくるんですね。これがですね、説一切有部等の主張になります。「執有離識所縁境者」の説です。
 それに対しまして、大乗の説き方はですね、
 「識に離れたる所縁の境無しと達せる者。則ち説く、相分は是れ所縁なり。見分をば行相と名づく」(『論』第二・二十七右)
 見ているのは心の影だと。影像ですね。自分の心が外境に似て現じて、それを心が捉えて、捉えたものをを見ているという、身ている通りのものが存在するわけではないと達観している者がいる、それが「達無離識所縁境者」といいますが、ここでですね。最初に述べてきました説一切有部等の説は間違いであり、これが正義であると明らかにしたのです。
 外境は有ると主張している人たち ― 外境は所縁である。相分を行相といい、見分を事という。
 外境は無いと主張している人たち ― 相分は所縁である。見分を行相といい、相と見との所依の自体を事という。即ち自証分である。
 見ているのは自分の心の影であって、対象としての事物そのものではないといいます。これは何を意味するのかですね。これはですね、私たちは、ものそのものを直接見ることは出来ないことを言い当てているのではないかと思いますね。見るというのは、私の経験や、趣味によっても異なってきますね。経験や趣味等を通して見ている、色付けをしているということになるのでしょう。
 本科段から正義が示されます。
「識に離れたる所縁の境無しと達せる者、則ち説く、相分は是れ所縁なり。見分をば行相と名づけ、相と見との所依の自体をば事と名づく。即ち自証分なり。此れ若し無くば、自ら心・心所法を憶せ不る応し。會って更不りし境をば必ず憶すること能は不るが如きが故に。」(『論』第二・二十七右)     
     相分 ― 所縁
     見分 ― 行相
     自証分 ― 事
 相分が所縁であるということは、見ているのは自分のこころの影であって、見られているものが実体としてあるわけではなく、見られているものが所縁としてあるのではない、このような見方は、「識に離れたる所縁の境有りと執すす者」の見方ですね。対象世界が有って、それを所縁といて認識を起こすという捉え方は非常に解り易いのですが、唯識はそうではないんだと教えています。すべては自分の心が捉えたものである、と。自分が見ているのは心の影像であり、影像でしか見ることはできないんだと。
 二分説を浚い掘り下げて、相・見二分があるわけではなく、相・見二分は識体が変現したもの、識所変である。識体が現行してくる時には、相・見二分に似て現ずる。「ただ識のみ有り」とは、こういう意味なのですね。
 私たちが外界といっているのは、私たちの心が作り上げてきたものであるといえるのでないですか。「こんな世の中」という世界は無いんです。責任転嫁をする所に問題が起きると教えているのですね。
四分義略説
 「識所変」といわれますね。「唯識無境」と。本来は識のみあって境はない、と。その時の識とはなにかという問題ですが、識は了別である。了別は区別のことです。ものを区別して知るという意味になりますね。八識を区別して知るわけです。この識の中には心所も摂める。識と心所は相応するからである。「心所をも摂む」と。識と心所は一緒に働くのですね。八識五十一の心所です。次に「変」ですが、一つは、「変と云うは謂く識体転じて二分に似るなり」ということですね。動くときには、二つに分かれる。もう一つは、「内識転じて外境に似る」。認識活動はこのようにして成り立っているのです。「識体転じて二分に似るなり。相と見とは倶に自証に依って起こるが故に。この二分に依って我・法を施設す。」
 私たちの認識活動は外と内を分けています。主・客二元論です。自分の見ているものは外にあると思っていますが、唯識はそれを否定し、外にあると思っているのは間違いだと。実は自分の心の現れたものであるというのです。主・客ともに自分の心に依るというのですね。自証に依って相分・見分が起こる。識体は自証です。識体が転じて相・見二分という働きになる。外にものが有って認識するのではなく、自分の心の中に現れたものを自分が認識していく、自分の心でみ見ていくというのが、私たちの認識構造なのです。ここが大事なところです。迷いは如何にして成り立っているのかをはっきりさせる為にですね。
 外に有ると思っていたものは、実は自分の心の中に映じたものであった。それが相分である。相分を変革する為には、自分の心を変えなくてはならないということになります。これが一つの解釈ですね。もう一つは、「内識転じて外境に似る」内に有るこころの状態が外のものの如くに現れてくる。
 ものを知るという認識構造は如何にして成り立っているのかですね。先ほど「識は了別」と述べましたが、「此の了別の用は見分に摂めらる」、そして「所縁に似る相を説て相分と名づけ、能縁に似る相を説て見分と名づく」、これが二分義です。難陀の解釈になりますが、認識は一応このような構造をもっているということになります。
 ただ、有漏の時ですね。未転依のときにはどうなるのかということですが、「有漏の識の自体生ずる時に、皆所縁・能縁に似る相現ず」。「自体が生じるとき」という。三分義で、自体分と。執着という問題です。二つでてきます。一つは、「識に離れたる所縁の境有りと執する者」、もう一つは、「識に離れたる所縁の境無しと達せる者」という人間の種類がだされています。境が有ると執着するもの、が一つ。外境は実有であると見る見方。この時は相分を行相と名づけ、見分を事と名づく。是れ心・心所の自の体相なるが故に」と述べられています。しかし、もうひとつの人間像ですが、「識に離れたる所縁の境無しと達せる者」。ここでは相分は所縁であり、行相は見分である、と。「相と見との所依」を自体分という。自体は自証分である、ということです。
 迷いの構造を明らかにする時には、すべては有であるところからはじまるのです。有るのは、自体分だけ(一分義)、或いは有るのは、見分だけ(二分義)、或いは三分義・四分義はすべて有るというところから始まります。相分も有る、見分も有る、自証分も有る、証自証分もあるというのが迷いの構造である、ここから出発するのです。執着心はある、これが迷いを生んでくる元だと。
 四分義は何を現わそうとしているのか、私たちの認識の構造は、心の奥深くに横たわっている自己中心的な思いによって成り立っているという問題を抉り出しています。
 第八識の行相と所縁、働きと、対象は何かという問題ですね、心は必ず何かを対象として認識をしているのです。「謂く、云く」と答えています。不可知というのは、阿頼耶識の認識と認識の対象とのありようをを表す概念で、阿頼耶識の行相(認識作用)は微細であり、阿頼耶識の所縁(認識対象)、阿頼耶識は何を対象としているのかというと、執受と処と了である。執受とは種子と有根身、これは微細に働く、処は有情の所依処で器世間のことだと云われています。了というのは、「了と云うは謂く了別」、これは行相であり、識は了別するということが行相になると云われているのです。
 『三十頌』では「謂く不可知の執受と処と了となり」と述べられていますが、注釈は「了」から解釈されています。
 先ず、「種子と有根身」ですが、種子は、「謂く諸の相と名と分別との習気なり」と、私たちの経験のすべてが種子として蓄積されているということ、これが習気といわれるものです。それと、有根身、「諸の色根と及び根の依処となり」と。
 所依処は識の相分であり、外境、外の世界であるということです。
 執というのは、「摂の義持の義」、受は、「領の義・覚の義」である、「摂して自体と為し、持って壊せざらしむ、安危共同にして而も之を領受す、能く覚受を生ずれば名づけて執受と為す。」と云われ、種子と有根身と阿頼耶識は、安らかな時にも、危険な時にも、一体となって働くいく、これが識の根底に於て「暴流の如く」動いていると教えています。 
覚受 - 感覚。身体が苦・楽などを感じること。生きているということは、覚受が働いていることになります。
阿頼耶識には、二つの側面があることを述べましたが、『論』には「阿頼耶識は、因と縁の力の故に自体生ずる時、内に種と及び有根身とを変為し、外に器を変為す。即ち、所変を以て自らの所縁と為し、行相は之に杖して起こることを得るが故に。」と説かれています。
 阿頼耶識の所変を阿頼耶識は自らの所縁としている、と説かれています。阿頼耶識から変化したものを、自らの認識対象としているということです。そして、阿頼耶識の所縁を大きく分けて、執受と処になります。昨日述べた通りです。ただ、内的なもの(執受)に、種子と有根身が有ると述べられているわけですが、種子は有漏の種子ですね。煩悩に染汚された行為の結果しか阿頼耶識の中に植え付けることはないのです。「諸の種子とは、諸の相と名と分別との習気なり。」と云われる所以です。これは、すべての有漏の善等の諸法の種子であり、無漏の種子は植え付けられないのです。それ故、『瑜伽論』等には、「遍計所執の妄執の習気なり」と述べているのです。
 有根身は、根(感覚器官)を有する身体ですね。五色根と根依処とに分けられます。根は、又、勝義根と扶塵根とに分けられますが、勝義根は真実の根、淨色所造と云われています。これは何を意味するのでしょうか。五色根といわれる根そのものは宝石のような光り輝くものであることを、ヨーガ行者は発見したのでしょうね。そして、根を助けるものを根依処と云われ、扶塵根とも云われています。これら執受と処は、微細には働き、広大であるところから、認識されることはない所から不可知と云われるのです。
 このことを前提として、「了」について考えてみます。「了とは、謂く、了別、即ち是れ行相なり。識は了別を以て行相と為すが故に。」と。了別とは、ものごとを認識する働きの総称で、識の働きのことですが、これが「識の自体分が了別するを以て行相と為るが故に。行相と云うは見分なり。」と云われます。ものごとを区別して知る働きは見分に摂められるのである、と。     
「此の中に了とは、謂く異熟識いい自の所縁に於て了別の用有るなり。此の了別の用は見分に摂めらる。然も有漏の識が自体の生ずる時に皆な所縁能縁に似る相現ず。」 
 私たちがものごとを認識する時には所縁・能縁という形をとるわけです。そして、所縁に似る相を相分といい、能縁に似る相を見分というのだと。所縁と能縁は別別に起こることはないのです。同時であって異時ではないわけです。それがですね。自体が生ずる時に、所縁・能縁という形を取ると云われているわけですね。「識は外境に似て現ずる」、外境に似て現れるものは相分ですね、そこに見分が働いている、と云われているのですが、こういう所に問題が生じているわけでしょう。
 「了」についての所論です。「了」とは、異熟識が、自分の所縁に於て、了別の用(働き)をもつことであって、四分の中では、見分に摂められる、と説かれているわけです。
 そして、「然も有漏の識の自体生ずる時に、皆所縁・能縁に似る相現ず。」(有漏の認識作用は、自体が生ずる時に、皆な必ず所縁・能縁と云う対立した相を現わす。)
 この「自体生じる時」という自体は、自体分(自証分)といいますが、これが私たちが認識するときの軸になるわけですね。自体を中心に、外の境が実在すると思う対象の相を「相分」と名づけられているのです、そして実に外に認識する対象が実在すると思う働き、能縁の側面を「見分」と名づけられているのですね。自体を軸として、相分・見分が、外境は実在すると認識するのです。これが迷いの根本構造になります。二分の相は体に対して云われるわけです。体もまた実体化されているわけです。その体の上に現れる二分の相とは、私たちの、外境は存在すると妄執している相なのですね。妄執している相が相分・見分として現行しているのです。これが三分説になるわけですが、二分説は、識の体は、能縁の見分が自体であり、相分が相であるわけです。二分説は、難陀の説になりますが、見分を相とはみないわけで、体であると。対象化しない、実体ではなく、作用であるとみているわけです。私たちに認識の底には、このように、二分に見ていくという構造があって、ものを知るということが成立しているのです。これを、
 「識に離れた所縁の境有りと執する者、彼説く、外境は是れ所縁なり。」
 私とは無関係に外の世界は存在する、私の主観を抜いて外境は有ると執着する見方です。しかし実際は主観の相違によってものの見方が違ってくるのですね。私の見ている世界と、他の人が見ている世界は違うのです、千差万別です。ですから、「識に離れた所縁の境有りと執する」ということは間違いだといえるわけです。
 これに対してですね、相分は所縁であり、見分は行相である、と見ていく有り方ですね。「識に離れたる所縁の境無しと達せる者」は、「相と見との所依の自体をば事と名づく、即ち自証分なり」と。
 自証分は自覚作用であるということです。見分・相分は自内証であって、外的関係ではないと明らかにしているわけです。そうしますとね、私たちの認識はどのように成り立っているのでしょうか。私が見ているという認識はありますが、それは外に実在としての環境世界が有るという関係に於いて認識が成り立っています。外境を所縁とし、相分を行相・見分を事とみている有り方なんです。このものの見方が間違っていると指摘しているのが三分説になるのです。
 二分を以て、安慧正量部の説を論破するのです。理証・教証をあげて論証しています。
 「若し心・心所、所縁の相無くば、自の所縁の境を縁ずること能わず。或は、一々能く一切を縁ず。自境も余の如く、余も自の如くなるが故に。」
 (もし、心・心所法に所縁の相が無いならば、自己が縁ずる所の境をもつことはないであろう。識と境が混乱するならば、識は一切を縁じてよいことになる。)
 識と境とは必然関係なのですが、識と境が偶然の関係であるなら、何を縁じてもいよいことになってしまいますから、「自境も余の如く、余も自の如くなるが故に」(自境も縁ぜない余の如く、縁ぜない余も自境の如しである。)
 『述記』には「青を縁ずる時の如き、若し心・心所の上に所縁の相貌無きは、正しく起こる時にあたりて、自心所縁の境を縁ずること能わざるべし。」と、因明を以て説明しています。これが宗になり、「所縁の相無しと許すが故に」が因になり、「余の縁ぜざる所の境の如し」が喩になりますね。能縁についても同じことがいえます。能縁と所縁との二つに似て現行するのですね。意識は、見・相二分に似て意識されるということ。
 二分を以て、安慧正量部の説を論破するのです。理証・教証をあげて論証しています。
 「若し心・心所、所縁の相無くば、自の所縁の境を縁ずること能わず。或は、一々能く一切を縁ず。自境も余の如く、余も自の如くなるが故に。」
 (もし、心・心所法に所縁の相が無いならば、自己が縁ずる所の境をもつことはないであろう。識と境が混乱するならば、識は一切を縁じてよいことになる。)
 識と境とは必然関係なのですが、識と境が偶然の関係であるなら、何を縁じてもいよいことになってしまいますから、「自境も余の如く、余も自の如くなるが故に」(自境も縁ぜない余の如く、縁ぜない余も自境の如しである。)
 『述記』には「青を縁ずる時の如き、若し心・心所の上に所縁の相貌無きは、正しく起こる時にあたりて、自心所縁の境を縁ずること能わざるべし。」と、因明を以て説明しています。これが宗になり、「所縁の相無しと許すが故に」が因になり、「余の縁ぜざる所の境の如し」が喩になりますね。能縁についても同じことがいえます。能縁と所縁との二つに似て現行するのですね。意識は、見・相二分に似て意識されるということ。
 所縁(対象)は相分・行相(作用)は見分という見方は、
 「識に離れたる所縁の境無しと達せる者の、則ち説く、相分は是れ所縁なり。見分とは行相と名づく。相と見との所依の自体をば事と名づく。即ち自証分なり。」
 私たちが見ているものは、相分という心の影像、主観によって捉えらえたものを見ていることになります。自分が心の中に捉えた映像を、自分が認識して知るという構造です。これが識の本質になるわけです。この本質を自体分といいます。この自体分が無かったなら、見・相二分は外界の存在になり、外界は実在と見るという錯誤を生じるわけです。自体によって二分が成り立つのですね。自分が自分を知っている、他人は騙せても自分は騙せない、騙したことを自分は知っている、自分は自分から逃れる術はないというのが自体になるわけですね。道理です。自証をもって自体とする、これが道理である。見・相二分の所依が自体である。二分では判然としなかった識の構造が、体は識、用は二分ということで諸法唯識が成り立つのです。
三分義をまとめましたが、自証分が若し無かったならばどうなるのでしょうか?それに応えて
 「此れ若し無くば、自ら心・心所法を憶せ不る応し。會って更不りし境をば必ず憶すること能は不るが如きが故に。」(『論』第二・二十七右)
 能縁を見分・所縁を相分といいますが、相・見二分は自証分を所依、依止として起こってくるわけです。いわば、自証分の主体的側面を見分といい、客体的側面を相分といいます。ですから、相を離れて見は無く、見を離れて相は無い、互いに所依として二法は成り立っているわけですね。この二法の所依が自証分で、相・見が自体を事といわれているのです。これが自証分なのです。ですから自証分が無かったならば、相・見の二法は成立しないことになります。
 「謂く自体分無きは自ら心・心所法を憶せざるべし。所以はいかん。會って更ざらし境を必ず憶すこと能はざるが故に。」(『述記』)




本年度初講 阿頼耶識の所縁と行相について

2015-01-18 10:42:13 | 『成唯識論』に学ぶ
 1月19日 八尾市本町 聞成坊様に於ける『成唯識論』講義、本年度初講の概略を公開します。又此のコピーをテキストとして使用します。
 「今日の問題は、私たちのものを見る見方、ものを考える考え方、そういうものは一つではないということを明らかにしてきます。一人一人が全く別々のものを見、全く別々のことを考え、全く別々の行動を起こしている。共相・不共相という所が今日の課題になります。先ず、概略を示します。
従来、種子の六義と、所熏・能熏の四義の講究がおわりました。次に阿頼耶識の所縁と行相についての講究がなされます。
 八段十義でいいますと、八段の第二・所縁行相門となり、十義でいいますと、第四と第五の所縁門・行相門になります。
 行相 - 識の自体が所対の境を縁ずる能縁(認識するもの)の作用を云う。心の働きです。
 所縁 - 対象、何を対象として働いているのかです。阿頼耶識は何を対象としているのかが説き明かされます。
 (所縁門)
 「不可知の執受と処と」 - 阿頼耶識の所縁を表わしている。但し、「不可知」は次の「了」という行相門にもかかる。
 (行相門)
 「了とは謂く了別なり、即ち是れ行相なり。識は了別を以て行相と為すが故に。」(『成唯識論』第二・二十五左)
 了別について四分が語られる。阿頼耶の「了」は、四分説によることにおいて明瞭にされます。
行相・所縁を解す。(一) 略解
「此識行相所縁云何。謂不可知執受處了。了謂了別。即是行相。識以了別爲行相故處謂處所。即器世間。是諸有情所依處故。執受有二。謂諸種子及有根身。諸種子者謂諸相名分別習氣。有根身者謂諸色根及根依處。此二皆是識所執受。攝爲自體同安危故。執受及處倶是所縁。阿頼耶識因縁力故自體生時。内變爲種及有根身。外變爲器。即以所變爲自所縁。行相仗之而得起故。」(『成唯識論』巻第二・二十五左。大正31・10a11~a20)
(「この識の行相と所縁云何。謂く不可知の執受と處と了となり。了と云うは了別。即ち是れ行相なり。識は了別を以て行相と為すが故に。處と云うは謂く處所。即ち器世間なり。是れ諸の有情の根依處なるが故に。執受に二有り。謂く諸の種子と及び有根身となり。諸の種子とは、謂く諸の相と名と分別の習気なり。有根身とは、謂く諸の色根と及び根依處となり。此の二は皆是れ識に執受せられ摂して自体と為して安・危を同ずるが故に。執受と及び處とは倶に是れ所縁なり。阿頼耶識は、因と縁との力の故に自体の生ずる時に、内に種と及び有根身とを変為し外に器を変為す。即ち所変を以て自の所縁と為す。行相は之に杖て起こることを得るが故に。」)
 この識の行相と所縁はどのようなものか?深い人間の深層心理的一部の働きと、この識が何を対象にして動いているのかという所縁です。それはどういうものか、という問いが出されているのです。
 十門分別の中、第四・第五の行相・所縁分別である。「不可知」は、 所縁に約し、行相に約して、不可知を明らかにし、「不可知」は本頌を挙げて答える。「不可知執受處了」(不可知の執受と了となり)という形です。
 無意識の領域は、私たちには解らないものである。有るのか・無いのか、それが不可知という概念である。知ることが出来ない、知り様がないことであるが、他の識と同様に了別(ものごとを区別して理解すること)の働きをもって能縁・所縁がある。了別は行相である。「識は了別を以て行相と為す。」 これは識の自体分である。行相とはまた、見分である。「識体転じて二分に似る」という形で働いている。識体は自体分ですね。自体分が転じて見・相二分に開かれるのですが、具体的は働きは見・相二分になるのです。
 能縁が了別です。これを行相という言葉で言い表しています。では所縁は何かといいますと、認識対象のことですが、「種・根・器」という。諸の種子と、有根身と器世間、これが所縁である、と。
 第八識は、内に種子と有根身(五色根と根依處)を変じ、外には器世間を変じます。器世間が有情の所依處になるわけですね。
 種子と有根身は「摂為自体同安危故」(摂して自体と為す。安と危とを同ずるが故に)と言われていますように、執受が有ります。「執受に二有り。謂く諸の種子と及び有根身なり」。器世間には執受はありません、外のものですから執受はなく、處といわれています。
 種子と有根身は、第八識の見分がこれを境と為すと共に、自己自身として執受しています。厳密には「阿頼耶識は種子を執持(種子を保持する働き)し、有根身を執受(維持されるもの)する」と説かれています。これが第八識の相分になります。私のものであるというふうに、第八識自身が、つまり阿頼耶識の中に、ものを執着していく、或は保持する働きをもって命を維持している。それによっていろんな経験をしていくのですね。有根身は合聚の義と言われていますように、いろんなものが合わさって体が出来ています。それによって痛かったり、痒かったりですね、そういうことが起ってくる。これが内側の問題ですね。
 それともう一つ、外側には器世間ですね。外界の一切、「是諸有情所依處故」(是れ諸の有情の所依處なるが故に)。これは所縁であり、識の相分であるということですね。
 「内変」・「外変」の「変」ですが、識所変の変ですね。自体分から二分が出てくる。この二分に依って、我・法を施設する。「由仮説我法」(仮に由って我法と説く)の我・法です。此れに離れて相分・見分はないわけです。ここが自体分・相分・見分の三分説になります。もう少しいきますと四分説が説かれます。そこと関係があるのですね。識所変を以て、自の所縁と為すということになります。相分も見分も識が変じたもの、識体が能変、二分が所変という構図です。所変の見分が能縁になり、相分が所縁になるわけですね。
 「変」につきましては、もう一つ「内識転じて外境に似る」という二分説があります。識体が見分であり、能変ですね、境が所変になります。見分が能縁・相分が所縁になります。これが二分説です。二分説・三分説、それに護法菩薩は証自証分を加えて四分説を立てました。この四分説が大事な教説になってくるわけですが、この後にでてまいります。
 「一切の諸法に心有り、境有り。行相は是れ識の見分なるが故に、先ず行相を明かす。心に由って境を変ずるを以て、次に所縁を説く。」(『述記』)
 本頌は、所縁から述べられていますが、釈する時は、認識の主体から明らかにする、これが本意であるというわけです。
 (行相)
 「了と謂うは了別、即ち是れ行相なり。識は了別を以て行相と為すが故に。」(『論』第二・二十五左)
 了 - 知ること。理解すること。認識すること。了別の略称。了、詳しくいうと了別。これが阿頼耶識の働きであると云っています。これが行相である。「識の自体分が了別するを以て行相と為すが故に。行相と云うは見分なり。・・・(第一解)相と云うは体なり。謂く境の相を謂う。境の相を行ずるを以て行相と為す。」(『述記』第三本・三十右)
 どうでしょうか。私たちは即座に認識を起こします。どうして即座に認識を起こすことができるのでしょうか。考えたこともありませんが、考えると不思議なことではありませんか。これは、阿頼耶識が働いているからなのですね。そして不思議なことは山は山。河は河。花は花と人類共通の認識が起るのですね。これを共相(グウソウ)といっていますが、これも不思議なことであります。この共相の中で、様々な認識が起ってきます。これが人人唯識なのです。私は私の阿頼耶識で物事を認識し、区別しているのですね。
 阿頼耶識が外に投げ出された見分が、了別をする働きを持つわけですが、境相を行ずることが必然となるわけです。山とか河は所縁の相になるわけです。しかし、若し、所縁の相がなかったなら、能縁の見分は自の所縁の境を縁ずることができないであろうと。自体分は見・相二分を外界に投げ出しているのですね。見分だけでなく、相分も投げ出しているのです。見・相二分の所依が自体分(自証分)であるのですね。そしてですね、自体分(自証分)を証明するのが証自証分なのです。後に詳しく説かれます。
 私たちの日常の認識では、外界に物が有って、認識を起こすと云う、外界と私という分別をベースとして認識し判断を下しているのですが、唯識は「ちょっと待って、本当にそうですか」と疑問を呈しているのです。それはですね、私達には自証分が不明瞭なんですね。不明瞭である為に、見るもの(能縁)も体であり、見られるもの(所縁)も体であるという実体化が起るのです。唯識は、能縁・所縁は所変であり、能変は自体分であると明らかにしたのです。能変が変異したもの、それが見・相二分である。自証分が体であり、見・相二分は相であるというのが、護法の見解になります。
 阿頼耶識が、見られるものを縁じ、見るものを縁ずるという働きをもって、私たちの認識、いろんな区別が起っていると云うことなのですね。
『論』には、ここで処について論究されますが、「執受と及び処とは倶に所縁なり」と、執受というは、「諸の種子と有根身と処」は所縁であるという一段が後に設けられていますので、ここでは執受について考えたいと思います。
 「執受に二有り。謂く諸の種子と及び有根身なり。」(『論』第二・二十五左)
 執受というのに二つある。つまり、一つには種子である。もう一つは有根身である。
 執受とは、五官と身体に依って維持されるものを執受する働きと、阿頼耶識の中の種子(現行を生ずる可能性)をも執受する働きがあるとされます。この場合の執受は執着をするという意味になります。執摂受といい、執着をし感覚が生ずるという。
 「執と云うは、是れ摂の義(執摂)、持の義(執持)なり。受と云うは、是れ領の義、覚の義なり。摂して自体と為し、持て壊せざら令む。安危共同にして而も之を領受し、能く覚受を生ずれば名づけて執受と為す。領して境と為すなり。」(『述記』第二・二十五左)
 (第八識は種子と有根身とを執摂して自体とし、執持して壊わさない、これを受領して境とする。そして、根をして能く識の覚受を生ぜしめるのである。)
• 摂 - 収めること。 
• 領 - 受け止めること。
• 覚 - 知覚すること。認識すること。 
• 領受 - 受けとめること。
• 覚受 - 身体が苦楽などを感じること。  
 すべてを受けとめて安危共同(アンギキグウドウ)である。覚受がないと死に体ということになり、覚受が有ることが、生きているという働きの一面になりますね。 阿頼耶識は、いつでも、いかなる時でも、どんな境遇であっても私と共に生きつづけている。「摂自体」これが自分であると摂して、安危を共同している種子と有根身と阿頼耶識が一体となって、私という、一人の人間が動いていく、どんな時でも一緒やで、というのが阿頼耶識なんですね。
 楽な時、順境の時は問題なく過ごせるわけですが、苦悩という逆境の時は、意識は逃げたい逃げたいと思うわけです。しかし、阿頼耶識はすべてを引き受けているんですね。身はすべてを受け入れているということになりましょうか。為したことは種子として阿頼耶識は受け入れ、受け入れられ種子は現行として身は引き受けている。内に種子と有根身(有情世間)、外に器界(器世間)を変現して阿頼耶識は働いている。
 内外といいますが、処と執受は所縁である。阿頼耶識は処と執受が所縁、即ち相分になりますね。
 「種子は第八識の体に依ると雖も、而も此れ識の相分なり、」
 「見分いい恒に此を取て境と為すが故に。」
 これは十門分別の中の第五・四分分別門の中の言葉ですが、種子と有根身は、第八識の見分が(種子と有根身)を境とすると共に、種子と有根身は自己自身として執受しているのです。
 種と有根身は「摂して自体と為して安と危とを同ずるが故に」と言われていますように、執受がありますが、処は外のものですか執受はありません。阿頼耶識の相分の中の内外の区別をいっているのです。
諸の種子とは何を指すのか。
「諸の種子とは、謂く諸の相と名と分別との習気なり。」(『論』第二・二十五左)
 相・名・分別の習気、これが種子の内容であると説明しています。相は姿です、名は名前、つまり、相に名前がつけられる。それによって区別をしていく。その総体が種子であるということになります。
 先ず、種子は有漏であるということです。
「即ち是れ一切の有漏の善等の諸法の種子なり。下に五法を解すが中に、此の三(相・名・分別)は唯だ有漏なり。」(『述記』)
 種子生現行の種子の内容ですね。この種子は執受ですから有漏であるということです。無漏ば執受ではないわけです。有漏は有為法でる。刹那滅であるということですね。無漏は無為法ですから常法である。転変しないもの。転変しないものは種子とはならない。
 この後、四分義が説かれてきます。そして、有根身と種子を執受するといわれて、処と区別されるのは内外の区別なんですね。阿頼耶識の所縁を内外に分けて説かれてまいります。所縁を外境と内境に区別する中で、種子を「諸の種子とは、謂く異熟識所持の一切有漏法の種なり。此の識の性に摂めらるるが故に是て所縁なり。」(『選註』p43)
 私たちは、相ですから対象化したものと、対象化したものの名と、そこに自分の分別が一つとなって、阿頼耶識の中に蓄積していく、それが諸の種子であるという。
 今までは、種子の定義と、種子になり得る要素として六義が説かれていましたが、さらに踏み込んだ形で、種子の内容について論じられているのです。阿頼耶識は所縁を対象として了別していく働きを持つと言われています。
「無始の時より来た虚妄熏習の内因力の故に」、因は善悪。すべての有漏の善悪を種子として、果である現行を引き出してくるのです。この時の果は無記であるとされます。そして、種子は「本識の中にして親しく自果を生ずる功能差別なり」と定義されていました。
 種子として現行を引き出してくる、というのが大事な所です。種子生現行、種子が現行を生ずる(七転識)刹那に現行熏種子、現行が種子として熏習される。転識は種子として所縁となるということです。即ち、阿頼耶識の相分(所縁)は阿頼耶識の所変である。識の所変を所縁としている。先ほど、所縁を外境と内境に区別すると述べましたが、外といいましても、識の所変であって外境ではありません。従って、諸々の相(姿)と名(名前)と分別(区別)が種子の内容となるのです。問題は分別ですね。何に依って分別を起こすのか。ここが虚妄と云われている所でしょう。分別の習気ということで「遍計所執自性妄執習気」と、種子はこれを所依としている。それを阿頼耶識の中に蓄積していく働きを持つものが種子である、と。相・名は私たちの生きる環境によって違ってくるものでしょうが、そこを基点として分別心を起こします。貴方と私の世界観が違うというようにですね。私は私の目線で物を見る、相手は相手の目線で物を見る、そこには当然意識の相違が起ってきます。それを妄執と押さえたのでしょう。迷いの構造がどうして成り立ってくるのかということを種子に見たのですね。
「有根身とは、謂く諸の色根と及び根依処となり。」(『論』第二・二十六右)
 有根身とは、簡単にいいますと、身体のことです。感覚器官を有する身体ということになります。この身体は、色根と根依処から成り立つのであると説かれ、有根身は阿頼耶識から作り出され、阿頼耶識が認識しつづけている対象(所縁)の一つであると説いています。
 何度も繰り返しますが、阿頼耶識の対象(所縁)は処と執受である。種子と有根身とをまとめて執受というわけです。
 色根は、身体を構成する五つの感覚器官(眼根・耳根・鼻根・舌根・身根)で、色とは物質、根は依処で、感官のことです。根を有する身というので、有根身と呼ばれているのですね。

         色根(勝義根)
 有根身 〈            〉 肉体とその機能との関係
         根依処(肉体)

 例えば、ものを見ると云う時には、何が依処になっているのかということです。依り処が有って初めて見るという機能が備わっているのです。その依り処を根の依処、眼根の依処は眼球ですね。眼球自体が根依処である。ですから、色根を勝義根としますと、根依処は扶塵根(ブジンコン)、即ち、扶ける塵としての根。

        勝義根
  根  〈                      
        扶塵根(勝義根を支えるもの)

有根身とは阿頼耶識から作り出され、阿頼耶識によって維持され、生き続ける限りこの肉体は腐敗することなく存続されるのであると見出してきたのです。この身体と阿頼耶識の関係を安危共同(アンギグウドウ)と呼ばれています。種子と阿頼耶識の関係も同じですね。種子・有根身と阿頼耶識が一体となって。私と云う、一人の人間が動いていく。いつでも、どんなときでも、阿頼耶識は包み込んでいるということなのですね。
 私たちは、自分の都合のいい時は「ありがとう」。都合の悪い時は「こん畜生」と、敵に早変わりですね。供養でもですね、自分がうまく行っている時は「ご先祖様のお蔭です」といえますが、うまくいかなくなった時には「祟りや」といって罵ります。だからですね、先祖供養といっても、自分の都合だけしか考えていないんです。「供養するからおとなしくしておいて」と。御先祖さまはどうでもいいんです、自分の都合だけです。こんな自分の在り方なんですが、阿頼耶識はすべて包み込んで、いいとか、悪いとかという区別はしないのですね。
 私たちの考えの及ばないところですが、深い意識の領域では、すべてを受け入れている働きが働いているのですね。ありのままの自分が阿頼耶識として見出されてきたのでしょう。私たちの眼差しは、阿頼耶識に光を当てなければならないと思います。そうしないと、私の都合で相手をぶった切っていきますね。それも自己正当性をもってですね。
 先日もお話を伺う中で、いじめの問題を話されました。親は「何故自殺をしたのか。何故悩みをうち明けてくれなかったんだ」と、そして矛先は「お前は何故いじめたんだ、いじめたおまえが悪い」と。ここからこころの変遷を経て、「心の悩みを打ち明けることの出来ない環境を私が作っていた、それがいじめられるという方向になってしまった。もしかすると、いじめた子も私が作りだしたのかもしれない。被害者も加害者も作りだしたのは私の傲慢が原因だった。」 いじめた加害者も本当は被害者であったと慚愧心をいただかれて心が解放されたと、お話し下さいましたが、自己正当性の持つ闇は深いですね。その深い闇の底で阿頼耶識がすべてを受け入れている、自他分別することなくですね。今、このお父さんは加害者であった子と共に、いじめをなくそうという学習会を立ち上げて、共にいじめと向き合って、いじめから子供を救うという運動をされているとお聞きしました。
 「即ち本識(阿頼耶識)は彼の五根と扶塵根との色根を縁じつくすことを顕している。身とは、身の中に根を持っているので有根身と名づけられている。根は五根に通じ、これは自身の者であって他身の五境を縁するものではない。依処とは諸々の扶塵根である。しかし五の処があると説かれてはいるが、聲をもってするのではない。『対法』の第五に「(聲は)執受に非ず」と説かれているからである。扶塵根は色・香・味・触の四つの塵(視覚・嗅覚・味覚・触覚)から構成されるのである。」(『述記』取意)
 前後しますが、識と根の関係ですが、識は心であり、根は色(物質)ですから、根は物質から構成されるのです。
 「眼根乃至身根を五根と名づく。眼識乃至身識の所依の根なり」(『二巻鈔』)
 ( 執受の意味を釈す。)
 「此の二は皆な是れ識に執受せらる。摂して自体と為す。安危を同うするが故に。」(『論』第二・二十六右)
 「執受の義とは、安危を同ずる等なり。」(『述記』第三本・三十七右)
 此の二(種子・有根身)は阿頼耶識に維持され、「摂して自体と為し」これを自体として、阿頼耶識と安危を同じくする。種子・有根身と阿頼耶識が一体となって、一人の人間が動いていく、それは安心である時も、安心でない時も、どんな時でも一緒に動いていく。私の思いを超えて、私と共に歩んでいく働きを安危共同といわれているのですが、これは如来の働きですね。私の根底にあって、私を支え、私と運命共同体として共に動いて下さっている南無阿弥陀仏の働きでしょうね。我執の嵐が吹きすさぶ殺伐とした状態であっても、南無阿弥陀仏として私を見捨てない、どこまでもどこまでも、私を信じ、私の目覚めを待つ働きがお念仏、南無阿弥陀仏なのでしょう。私が右往左往している時にも念仏は生きている、ということではないでしょうか。そんなことが「摂して自体と為して、安危共同」というお言葉のなかから伺うことができるようです。
 そうするとですね、私の立場からですと、いつでも、いかなる時でも、念仏に逆らって生きている、傲慢ですね。生きていけると思いあがっている。この「安危共同」は、私の立場を教えてくれているようです。私の立場からですと、安という、幸せは好き、危という不幸せは嫌いやと分け隔てしています。これが分別の妄想なんでしょうね。
 阿頼耶識は私と共に、不幸な時も、幸福な時も分け隔てなく、種子と有根身、あらゆる経験と身体をもって一つとなって働いていく。現行とはこういう意味をもっているののですね。過去から今までのすべての経験と身体を包み込んで阿頼耶識は働いていく、これを執受という言葉で表しているのです。
 「執受と及び処とは是れ所縁なり」
 執受と及び処が所縁になります。処がまた出てきましたが、以前に処とは「処所、即ち器世間。是れ諸の有情の所依処なるが故に」と説明されていました。処は器世間である、ものの世界ですね。これが諸の有情の所依処である。処は外側の世界ですが、処という場所が私の所依処であるわけですね。依って立って生き得る場所であって、外界に存在するものというわけにはいかないように思いますね。所依処と共に生きている。そういう場所ですね、仏教では依報といいます。一人の有情は正報でといいます。ここが、「自体転じて二分に似る」というところの、自体分が転じて見分・相分に似て現ずるところの相分である、と。私の心が転じて国土を作りだしている。世界が有って私が存在するのではなく、一人一人の世界を作りださして生きている、一人一人別の世界を持っているとことになりましょう。これが器世間です。依報といわれています。器世間は外側の対象であり、執受は内側の対象であるのです。執受と処は阿頼耶識の所縁であることを明らかにしたのです。そして、
「阿頼耶識は因と縁との力の故に、自体の生ずる時に内には種と及び有根身とを変為し、外には器を変為す。」(『論』第二・二十六左) 阿頼耶識の所縁について詳しく述べられています。自体分が転じて見分と相分に似て生ずるという中の相分ですね。相分が内と外に変為して現ずることを明らかにしているのです。内は種子と有根身であり、外は器世間である、種子と有根身及び器世間を変為している。ここで「変為」ということなのですが、
変は変化するということですね。何が変化するのかといいますと、阿頼耶識ですね。種子という分別の習気から、現行識としての阿頼耶識と七転識が生ずるという構図です。これは因能変になります。そしてですね。生じた八識にはそれぞれ見分と相分とに変化し、見分が相分を認識する、即ち縁ずる。阿頼耶識の所縁についていえば、識体が変じた見分が相分であるところの種子と有根身そして器世間を認識するわけです。第七末那識は第八識を縁じ、六識はそれぞれ、眼耳鼻舌身意は色声香味触法を認識することをいっているわけですが、これを果能変として言い表されています。
 「変に二あり。一には生変。即ち転変の義なり。・・・変というは謂く因と果と名言親しく生じ業種異に熟する差別なり。等流と異熟との二因の習気を因能変と名づく。所生の八識が種々の相を現ずるのは是れ果能変なり。・・・二には縁ずるを変と名づく。即ち変現の義なり。是れ果能変なり。且く第八識が唯だ種子と及び有根身の塔を変じ、眼等の転識が色等を変ずる是れなり。・・・」(『述記』第三本・三十七左)
すべては、識転変である。阿頼耶識が生ずということは、因と縁の力が相互に働いて能蔵された種子が現行するという、これは待衆縁で学びましたが、直接の因と、間接的な助縁との間に因と縁が結びついた時に現行として生起してくるわけですね。それ以外の種子生種子として阿頼耶識の中に所蔵されます。善因善果とし、悪因悪果として一類相続していくわけです。直接の因、これは自分ですね。阿頼耶識です。これが因であり、助縁という間接的な力のよって現れてくる。さまざまな縁ですね。それがないとあらわれることが出来ません。現に行じられていることは衆縁が働いている証しでもあるわけですね。ですから、現行するということが変為ということになります。種子生現行ですね。いつも言うことですが、私は私の心を見て生活をしている、自分のこころが外に投げ出されたものを所縁として自分が見ているのですね。識所変を以て識所縁としている。非常に大事なところだと思います。この辺は非常に厳密ですね。迂闊に社会問題に顔を突っ込むわけにはまいりませんね。外界にそんな問題はないといっているのですからね。識の所現は識の所変である、と。いたたまれない現実に遭遇することは、自分の心の深さを見つめているのだと思います。「はずべし、いたむべし」ここでいいますと、「所変を以て所縁と為す」ということになりますね。
「即ち所変を以て自の所縁と為す。行相は之を杖して而も起ることを得るが故に。」(『論』第二・二十六右)
ここまでが大体の概略が述べられていまして、次科段から詳しく述べられます。器世間は所縁の外側のことを示し、外境として実体的に存在するものでは無く、どこまでも自の内識が転変したものであることを明確にしています。このことを『述記』は「本識の行相は必ず境(所縁)に杖して生ず。此は唯だ所変なり。心外の法に非ず。本識は必ず実法を縁じて生ずるが故に。若し相分無くんば見分生ぜず。即ち本頌に境を先にし、行を後にするの所以を解すなり。杖と云うは謂く杖託なり。此の意総じて見は相に託して生ずることを顕す。」と釈しています。
自体が転じたものを縁とし、そこに行相が働きかけて、執受と器世間そして行相の三つがものが混在して、私は私の世界を構築していることを教えられます。
 次科段より広説が述べられます。初めに行相を解釈し、後に所縁が解釈されます。そして初めの行相について、三つに分けて説明されます。一には、護法菩薩が行相である「了」を釈してこれが正義であることを述べ、二に、四分を明らかにし、後に総結が述べられます

十月度 『成唯識論』講義概要

2014-10-13 19:16:36 | 『成唯識論』に学ぶ

 先々月来から、種子の六義について考究させていただいていますが、今回は残りの、性決定・待衆縁・引自果から学びを得て、所熏の四義及び能熏の四義について学びたいと思います。

 尚、所熏の四義につきましては、2014年4月24日から5月2日に書き込みをしております。また、能熏の四義につきましては、5月3日から12日において書き込みをしておりますので参考にしてください。

 今回は少し重複いたしますが、総結について簡単に説明させていただきます。

 本文

 「然種子義略有六種。一刹那滅。謂體纔生無間必滅有勝功力方成種子。此遮常法常無轉變不可説有能生用故。二果倶有。謂與所生現行果法倶現和合方成種子。此遮前後及定相離現種異類互不相違。一身倶時有能生用。非如種子自類相生前後相違必不倶有。雖因與果有倶不倶。而現在時可有因用。未生已滅無自體故。依生現果立種子名不依引生自類名種。故但應説與果。倶有。三恒隨轉。謂要長時一類相續至究竟位方成種子。此遮轉識。轉易間斷與種子法不相應故。此顯種子自類相生。四性決定。謂隨因力生善惡等功能決定方成種子。此遮餘部執異性因生異性果有因縁義。五待衆縁。謂此要待自衆縁合功能殊勝方成種子。此遮外道執自然因不待衆縁恒頓生果。或遮餘部縁恒非無。顯所待縁非恒有性。故種於果非恒頓生。六引自果。謂於別別色心等果各各引生方成種子。此遮外道執唯一因生一切果。 或遮餘部執色心等互爲因縁。唯本識中功能差別具斯六義成種非餘。外穀麥等識所變故。假立種名非實種子。此種勢力生近正果名曰生因引遠殘果令不頓絶即名引因内種必由熏習生長親能生果是因縁性。外種熏習或有或無。爲増上縁辦所生果。必以内種爲彼因縁。是共相種所生果故。依何等義立熏習名。所熏能熏各具四義令種生長。故名熏習。何等名爲所熏四義。一堅住性。若法始終一類相續能持習氣。乃是所熏。此遮轉識及聲風等性不堅住故非所熏。二無記性。若法平等無所違逆。能容習氣乃是所熏。此遮善染勢力強盛無所容納故非所熏。由此如來第八淨識。唯帶舊種非新受熏。三可熏性。若法自在性非堅密能受習氣乃是所熏。此遮心所及無爲法依他堅密故非所熏。四與能熏共和合性。若與能熏同時同處不即不離。乃是所熏。此遮他身刹那前後無和合義故非所熏。唯異熟識具此四義可是所熏。非心所等。何等名爲能熏四義。一有生滅。若法非常能有作用生長習氣。乃是能熏。此遮無爲前後不變無生長用故非能熏。二有勝用。若有生滅勢力増盛能引習氣。乃是能熏。此遮異熟心心所等勢力羸劣故非能熏。三有増減。若有勝用可増可減攝植習氣。乃是能熏。此遮佛果圓滿善法無増無減故非能熏。彼若能熏便非圓滿。前後佛果應有勝劣。四與所熏和合而轉。若與所熏同時同處不即不離。乃是能熏。此遮他身刹那前後無和合義故非能熏。唯七轉識及彼心所有勝勢用。 而増減者具此四義可是能熏。如是能熏與所熏識倶生倶滅熏習義成。令所熏中種子生長如熏苣?故名熏習。能熏識等從種生時。即能爲因復熏成種。三法展轉因果同時。如炷生焔焔生焦炷。亦如蘆束更互相依。因果倶時理不傾動。能熏生種種起現行如倶有因得士用果。種子前後自類相生如同類因引等流果。此二於果是因縁性。除此餘法皆非因縁。設名因縁應知假説是謂略説一切種相。」(『成唯識論』巻第二。大正31・09b08~31・10a11)

 今回は、終りから七行目の後半の「唯、七転識と及び彼の心・心所といい」より「略して一切種の相を説く」までを述べていきます。

 現代語訳

 「そうしますと、どういうものが熏習することができるのかということになります。ただ七転識と七転識の心・心所です。七転識の心王・心所有法ですね。眼・鼻・耳・舌・身・意と第七末那識(我執の心)という、私たちの具体的な心の働きです。第八識を除いて七転識、而も仏ではないもの。「仏果の円満の善法は増もなく減も無きが故に能熏に非ず」と説かれていました。勝れた勢用(セイユウ)があって、そして増減するもののみ、そういうものが七転識であって、これが能熏である。このような(能熏の)四義を具えているもの。以上が能熏の四義である。

 次は、種子と熏習する意義を釈す。このように能熏(七転識)の四義を具え、所熏(第八識)の四義を具えていることにおいて、この二つの識が倶に(いっしょに)生じ、倶に滅する。他身と刹那前後では駄目なんです。「倶生・倶滅して熏習の義を成ずる」ものでなければならないのです。所熏の種子を生長(ショウチョウ)せしめるということは、恰も苣勝(コショウ)に熏ずるようなものである。胡麻の油に花の香りを染み込ませる。その油をクリームとして体に塗るわけです。古代インドの人は肌ケア―として、そういうものを作っていたんでしょう。胡麻の油に花の香りを染み込ませるようなものを熏習というんだと。香りが胡麻の油に熏習するわけですね。それと同じように、七転識が起ると第八識の中に熏習が生起する。同一刹那に種子と現行を生ずる。種子生現行です。時間的なずれがない、「今」の一刹那に種子から現行している。今の時をおいてないわけです。熏習する時も現行が生じている。その時にですね、その時をおいてほかに熏習する時はない。因と果は同時である。これを三法展転因果同時(サンポウチンデンドウジインガ)という。(仏教の時間論)

 喩が二つ出されます。一つは「如炷生焔焔生焦炷」(炷の焔を生じ焔生じて炷を焦するが如し」。炷(シュ)は芯。焔(エン)は炎のことですが、芯を燃やしますと炎が出ます。炎が出ますと熱が出ますから、両方相まって燃え続けることができるわけです。この様な関係を喩として出しています。もう一つは、蘆束の喩ですね。葦の束をあわせますと、互いに因となって立つことが出来る。二つの木をもたれかせますと、立つことが出来る。こういう関係が同時因果である。この道理というものは、すこしも傾かないものである。

 次に部派の倶有因と士用果をもって説明します。倶有因というのは互いに因となるということです。因の方面から倶有因といい、果の方面から士用果(ジユウカ)といっています。部派では六因・四縁・五果を立てますが、その六因の中の倶有因と相応因によってもたらされる果を士用果といっています。

 倶有因、お互いが因となって、倶にあることにおいてお互いが因果になっている。自分の中に蓄積されたものが今の私の生き方に現れている。これが種子が現行している姿です。この方面が種子生現行。表に現れた現行は即座に種子と為って蓄積されますから、これを現行熏種子といいます。種子(本種)・現行・種子(新種)これが三法、三法はお互いに関わりあって因果同時であるということです。因が果となり、果が因となって相続していく、こういう構造です。大乗仏教では、同時因果関係のみが因縁である。四縁(因縁・等無間縁・所縁縁・増上縁)の中の因縁のみが阿頼耶識の中の種子であると唯識はいいます。

 「種子の前後して自類相生することは、同類因を以て等流果を引くと云うが如し」。

 先程までは、種子(因)生現行(果)・現行(因)熏種子(果)。これは同時因果であることを述べていましたが、今度はですね、種子はそれだけではないということを説明します。種子のもう一つの要素は、種子は前後相続して続いていきますから、それによって種子生種子という形で前後相続していくわけです。種子の自類相生です。善の因は善の種として、悪の因は悪の種としてつづいていくわけです。これは永遠につづいていくわけです。これが業ですね。しかし、業は果たせば消える。犯罪を犯したとすれば、罪を償うことにおいて犯した事実は消えないが、償うことに於いて業を果たしたということになるんですね。

 これは今生きているという事実を考えるとよくわかります。今私たちは過去の業を果たしているんですね。ですから現行されたものは無記なんです。その無記の現行に、善悪という新しい業を造っていくんですね。

 過去における善悪業ですが、「今」という時に、過去の業を受けながら、過去の業を果たしつつ生きている。私たちは「今」という時を得ているわけですね。どれほど大切な時を得ているか、考えたことも有りませんから、これを罪というんでしょうね。「謗法罪・五逆罪」という時の罪ですね。この罪が「唯除」だと。唯除を生きている、生きていると云う傲慢さが唯除されるんでしょう。

 種子が前後し、自類相生して永遠に残っていく、それが「同類因を以て等流果を引くと云うが如し」と、部派の言葉を以て喩えていますから「如し」(そのようなものだ)ということになります。

 「此の二は」、種子生現行と現行熏種子の同時因果と、もう一つの種子生種子、この二つのが果において因縁性である。どちらが欠けても種子にはならない。唯識は、種子生現行・現行熏種子・種子生種子だけを因縁といいます。この余の法はすべて因縁ではないのです。部派の説く六因五果は仮に説いているだけである、と。

 以上で三相門のすべてが説き終えられたことになります。