唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (27) 自類相応門 (13) 

2014-07-31 21:45:05 | 心の構造について

 本科段は、瞋と邪見と倶起する場合と、しない場合の根拠について述べられます。

 「邪見の、悪事と好事とを誹撥(ヒホツ)するときには、次での如く、瞋或は無し或は有りと説けり。」(『論』第六・十七右)

 誹撥(ヒホツ) - 否定する。否認する。認めないこと。

 邪見が、悪事と好事とを認めない時(無いと考えた時)には、次のように瞋が無い時と有る時とが有ると説かれている。

 悪事とは悪行です。好事とは自分にとって都合の好いことを指しています。邪見とは、因果の理を否定する考え方ですが、悪い果報も善い果報も無いと考える見解になり、「因果撥無の邪見」といわれています。このような邪見が瞋と相応する場合と、相応しない場合があると本科段では説かれているのですね。

 『述記』は詳細を説明しています。

 「論。邪見誹撥至或無或有 述曰。惡事・好事邪見撥者。如次説瞋或無或有。謂撥惡事無。便不與瞋倶。喜苦無故。撥樂蘊無。便與瞋倶。憎樂無故。對法依三見一分二取全。説不與瞋倶。瑜伽約三見少分。説瞋相應。見爲一門明故。」(『述記』第六末・三十六右。大正43・450c)

 (「述して曰く。悪事好事を邪見の撥するは、次の如く瞋或は無、或は有と説けり。謂く悪事は無と撥する時には便ち瞋と倶にあらず。苦の無を喜ぶが故に。楽蘊無と撥する時には便ち瞋と倶なり。楽の無きを憎するが故に。対法は三見の一分と二取の全とに依って瞋と倶にあらずと説く。瑜伽は三見の少分に約して瞋と相応と説けり、見を一門と為して明かすが故に。」)

 瞋と邪見の関係ですが、邪見だけを取り上げて撥無であるとしますと、あ、そうかというもんですが、瞋との関係に於て、喜・憎という心理作用が働いてくるのですね。細やかな心理作用かもしれませんが大事なことを教えています。

 「悪事は無と撥する時」ですが、悪事を成しても果として苦は無いと撥するわけですから、自分にとって非常に好都合なわけですから怒りを起こすということはないのです。ですから瞋とは倶起しないと説かれています。造悪無碍という悪を造っても障りなしという邪見になります。

 逆にですね、善いことをして、受けるべき楽が無いとしますとムラットとするわけです。善行の側面ですね。「私はこんなにいいことをしているのに、なんの恩恵もないのか」というイラダチというか、怒りが生じてくるのですね。

どちらも、自分の目線で物事を考えている証拠になるわけですが、瞋と相応する場合と相応しない場合について、ただ邪見というわけにはいかないと教えています。悪果はいらないけれども、善果は要ると要求しているのです。悪果撥無は好都合であり、善果撥無には瞋が生起してくるといわれているのです。

 証文が引かれています。『雑集論』巻第六(大正31・723a)と『瑜伽論』巻第五十五(大正30・603a)です。

 『述記』は『雑集論』の所論は「三見の一分と二取の全とに依って瞋と倶にあらずと説く」と説明しています。つまり、楽がある五蘊を縁じる常見と、苦のある五蘊を縁じる断見と、悪事は無いと撥無する邪見の三見と、戒禁取見と見取見の二取を見として、この見と瞋とは相応しないと説いていると説明しています。瞋を起こす必然性は無いということです。

 『瑜伽論』の所論は、「瑜伽は三見の少分に約して瞋と相応と説けり」と説明していますが、『雑集論』とは逆のことを云っているのですね。常見・断見・邪見の説明が、苦がある五蘊を縁じる常見であり、楽のある五蘊を縁じる断見であり、好事は無いと撥無する邪見を見として、この見と瞋とは相応すると説かれていると説明しているのです。瞋を起こす必然性が有るということになりますね。

 

 


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (26) 自類相応門 (12) 

2014-07-30 23:39:54 | 心の構造について

 上来、瞋と薩迦耶見と辺執見の内の常見についての場合の倶起について説明してきましたが、本科段に於ては、辺執見の内の断見の場合について説明がされます。

 「断見は之に翻じて瞋の有無を説けり。」(『論』第六・十七右)

 断見については、前科段の常見に翻対(正反対)して瞋と薩迦耶見と断見との倶起の有無を説くのである。

 本科段は前科段の常見の正反対について述べられます。何故ならば、常と断とは正反対であるからです。

 常見 - 楽 = 憎悪を生じない(瞋を起こさない)。 ー 瞋と薩迦耶見と常見は相応しない。
 断見 ー 楽 = 憎悪を生じる(瞋を起こす)。 - 瞋と薩迦耶見と断見は相応する。

 常見 - 苦 = 憎悪を生じる。
 断見 - 苦 = 憎悪を生じない。

 以上、常見と断見を合わせてみますと、瞋と薩迦耶見と辺執見は倶起する場合もあるが、倶起しない場合もあることが明らかになってきます。

 僕の過去を振り返りますと、もうこの先何の夢も希望も無い、このまま眠りにつけば楽になるだろうな、と思ったことがありますが、このような考え方は断見に基ずいているわけですね。苦の有る五蘊に対して薩迦耶見と断見を起こしているわけです。苦を逃れる為に死を選ぶという行為は、死が同時に苦の断滅であるとする考え方になりますね。種子生現行・現行熏種子という三法展転同時因果を無視した独断、死んでも解決しないということですね。

 今日坊主バーのHPでしたかね、妙ちゃんが『論註』の言葉を引用して感想を述べておられましたが、「惠蛄春秋を識らず、伊虫あに朱陽の節を知らんや」ということですね。自分に出遇うことがなかったならば、穢土も浄土も知ることが無いということですね。にもかかわらずですね、自分の依り所は自分なんですね、矛盾しましょう。こういうところが辺見なのでしょうね。自分に執着しますからね、辺執見と。楽は、未来永劫続けばいいと思いますし、苦は死をもってしても断ずるということなんでしょう。すべてですね、自分が量りになっているのですね。量りになっている、その自分が解らないというところに問題があるようです。


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (25) 自類相応門 (11) 

2014-07-29 22:39:13 | 心の構造について

 『述記』の所論をみますと、「此は倶生分別に通ず」と述べられていますが、『演秘』を紐解きますと、倶生起と分別起の薩迦耶見と常見がすべて瞋と倶起すると説かれているのではないと述べています。

 瞋はただ不善であるが、薩迦耶見と辺執見の二見は、ただ有覆無記であることは後述されます(『論』第六・二十右)。欲界に於ては、薩迦耶見と辺執見の二見はの不善はただ分別起のみであり、倶生起は有覆無記なのです。なお、色界及び無色界に於ては、ただ有覆無記である。このことから推し量りますと、楽がある五蘊を縁じる場合は、瞋と倶起しませんから倶生分別に通じるといえますが、苦がある五蘊を縁じる場合には、瞋と倶起しますから、ただ分別起のものであるといえるようです。

 「論。此與三見或得相應等者。有義分別身・邊二見而與嗔倶。由倶生者唯無記性嗔唯不善故非彼倶。論云苦蘊但於善趣有苦受倶名有苦蘊。疏説苦處又通二見。此定不然 詳曰。乍觀疏文誠如所存。細尋其理理即無違 無違理何 答有苦之處即名苦處。誰云要在三塗苦處 又下二見五受倶門。初師三塗有分別惑。今依彼説亦不相違 此通下言顯此論中明極苦處通有分別・倶生二惑故指如下。非説倶生・分別二見皆與嗔倶。由此苦處分別二見嗔倶無妨。若不爾者。更有何義云如下耶。」(『演秘』第五末・八右。大正43・922a)

 (「論に、此と三の見とは或は相応することを得べし等とは、有る義は分別の身辺二見は瞋と倶なり。倶生の者は唯無記性なり、瞋は唯不善なるに由るが故に彼と倶なるに非ず。
 論に苦蘊と云うは但善趣の苦受と倶なること有るに於て苦有る蘊と名づく。
 疏に苦処と説き又二見に通ずと云う、此れ定んで然らず。詳らかにして曰く、乍ち疏の文を観れば誠に所存の如し、細かに其の理を尋ぬるに理即ち違うこと無し。理に違うこと無きは何んぞ。
 答う(初釈)、有苦の処を即ち苦処と名づく。誰か要ず三途苦処に在るを云わん。
 又(第二釈)、下の二見の五受倶門に、初師は三途に分別の惑有りと云う、今彼の説に依るに亦相違せず。此れは下の言に通ず、この論の中には極苦処に通じて分別倶生の二惑有りと明かすを顕す。故に指して下の如しという。倶生分別の二見皆瞋と倶なりと説くには非ず。此れに由りて苦処の分別の二見瞋と倶なるというに妨げ無し。若し爾らずんば更に何の義有りて如下と云うや。」)

 下に至って、煩悩の三性の問題が考究されますので、本科段の解釈は、瞋と薩迦耶見と辺執見(常見)が倶起するのはただ分別起のみであり、倶生起については瞋と相応するものでは無いと云うことになるようです。
 


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (24) 自類相応門 (10) 

2014-07-28 23:27:32 | 心の構造について

 第二は、瞋は三の見と倶起する場合と倶起しない場合があることを説く。

 「此は三の見とは、或は相応することを得。楽有る蘊の於に身と常との見を起こすときには、憎することを生ぜざるが故に、相応せずと説けり。苦有る蘊の於に身と常との見を起こすときには、憎恚することを生ずるが故に倶起することを得と説けり。」(『論』第六・十七右)

 此(瞋)は、三の見(薩迦耶見・辺執見・邪見)とは、或は相応することがある。(或は相応しない場合もある。)

 楽有る蘊という、人天の果報は楽果であると云われていますが、そこに生れた(五蘊を持った)有情が薩迦耶見と辺執見の中の常見を起こすときには、憎恚が生じないために、瞋と薩迦耶見と常見とは相応しないと説かれているのである。

 苦有る五蘊に対し薩迦耶見と常見を起こすときには、憎恚が生じるために、瞋と薩迦耶見と常見とは相応すると説かれているのである。

 本科段においては、辺執見の中の断見と常見の二つの内、常見が取り上げられて説明されています。次科段に於て断見が取り上げられます。

 人天の楽果と云われていますが、五悪趣の中の楽果ですから、身を享けたと云いましても、執着された者ということになります。法体恒有としての五蘊ですね。五蘊に執着している。ここで云われています五蘊は、常一主宰の義である誤った認識としての我を指します。本来は五蘊仮和合です。誤った認識としての五蘊が永遠不滅のものであるとする楽有る五蘊は自分の意に順ずるという意味から憎恚を生ずることはない、即ち常に楽有る環境の中に身をおくことになりますから、瞋と薩迦耶見と常見とは相応しない、ということになります。楽有る環境では、憎恚を生ずる必然性はないのですね。逆にですね、、苦有る環境ですと、未来永劫苦の世界が続くわけですから、そこに憎恚を生ずることは必然なのでしょう。従って、瞋と薩迦耶見と常見とは相応すると説かれてきます。

 固定化の問題が提起されています。善因善果・悪因悪果の方程式では、楽の世界は貪りでしょうし、苦の世界は怒りに満ち満ちた処となるんでしょうね。悪見に執着すると必ず固定化(自分が一番や)と云う問題が生ずるということを指摘しているように思われます。常一主宰の我が存在して己に順ずるような楽と倶行する場合には怒りは生じないという、当たり前と云ってしまえば当たり前なのですが、人をして傲慢にしますね。

 

 「論。此與三見至説得倶起 述曰。瞋與三見或得倶起。且身・邊見。謂縁樂倶行蘊爲我及常。見不生瞋故以順於己。對法約前二取及此。故説瞋非見倶。若於苦處縁苦倶行蘊。爲我及常見。便生憎恚。云我何用此身。生憎恚故。瑜伽二文。依此一分説得倶起。此通倶生・分別。如下無妨。」(『述記』第六末・三十五右。大正43・450c)

 

 (「述して曰く。瞋は三の見と或るときは倶起することを得。且く身辺見ならば、謂く楽と倶行する蘊を縁じて我なり及び常なりと為するときの見は瞋を生ぜざるが故に。己に順ぜるを以てなり。
 対法(巻第六)、には前の二取と及び此に約する故に、瞋は見と倶に非ずと説く。
 若し苦処に於て、苦と倶行する蘊を縁じて、我なり及び常なりと為するの見は便ち憎恚を生ず。我は何ぞこの身を用いんうやと云う。憎恚を生ずるが故に。
瑜伽(巻第五十五・五十九)の二文は、この一分に依って倶起することを得と説く。此(人天のうち苦蘊を縁ずる身辺二見)は、倶生と分別とに通ず。下の如く妨なし。」)

 

 今日はここまでにしておきます。倶生起と分別起の問題と、『演秘』の所論については明日に述べます。


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (23) 自類相応門 (9) 

2014-07-27 18:20:42 | 心の構造について

 本科段は、瞋と(五)見との相応について説明されます。

 「瞋は二取とは必ず相応せず、執じて勝なり道なりと為すときには、彼を憎せざるが故に。」(『論』第六・十七右)

 瞋は二取(見取見・戒禁取見)とは必ず相応しないのである。何故なら、見取見は執して勝とし、戒禁取見は執して道となして、ともによく清浄を得る見解である。それは己に順ずる境であるとされますので、これに対して憎むということは起こらない。従って、瞋と見取見、瞋と戒禁取見とは相応しないのである。

 見取見は、「諸見と及び所依の(五)蘊とに於て、執して最勝と為し、能く清浄を得すと云う。」

 戒禁取見は、「諸見に随順する戒禁と及び所依の(五)蘊とに於て、執して最勝なりと為し、能く清浄を得すと云う。」

 ともにですね、もろもろの見解と、その身体に於て「最勝と為す」。執着して一番勝れたるものであるとし、そして清浄であるところの涅槃に入ることが出来ると執着してしまうという誤った見解なのです。

 見取見は、「闘諍の所依」であり、戒禁取見は、「無利の勤苦の所依」であるとされます。「無利の勤苦」とは、何の利益もない徒労にすぎない、という意味になります。誤った見解、ものの見方ですが、この考え方が最勝であると執着をしますと、なにが起ってくるのかと言いますと、争いが起こるといわれ、また何の利益もないことに奔走して徒労に終わってしまう、このような生活を私たちはしているのではないのかと指摘しているのでしょうね。本当に大事なことを差し置いてですね、浮世にうつつを抜かして幸せを感じようとする姿勢です。

 本科段の意味するところとは違いますが、このような見解は瞋とは相応するものでは無い、自分に順じた考え方になりますから、対象に対して怒りを発する瞋は生起しないと説明されています。

「論。瞋與二取至不憎彼故 述曰。此必不倶。見取執爲勝。戒取執爲道。倶能得淨。順己之境不憎彼故。故不相應。諸論六煩惱明之。故無二取不倶起失 。」(『述記』第六末・三十五右。大正43・450c)

 (「述して曰く。此は必ず倶ならず、見取は執して勝と無し、戒取は執して道と為り、倶に能く淨を得。己に順ずる境なるを以て、彼を憎まざるが故に。故に相応せず。諸論には六煩悩において、これを明かす。故に二取倶起せざる失無し。」)

 正見ではない、悪見のもっている業は、「己に順ずる」という我執の赴くままに涅槃を得るという錯誤なんでしょうね。「俺のいう通りにしておれば間違いないんや」という見解ですね。何が間違いで、何が間違いではないのでしょうか。その決定的判断が悪見なんですね。ですから、「疑」という心所は「猶予する」と云われていましたが、正見に対して猶予するということと、悪見に対して猶予するということがあるように思います。

 余談ですが、居場所という問題です。居場所を求めて右往左往しているんですね。右往左往していること自体が、閉鎖された世界の中の出来事として、身を通して心の有り様が外に投げ出されたものであるのではないかと思いますね。「己に順じた」生き方が心地よいと錯覚を起こしているのでしょう。錯覚はねじれ現象ですから、もとにかえろうとする回帰現象ですね、ねじれ解消の現象が起こってくるわけです。しかし、そこに素直になれない自分がいます。覆い隠すようにして自分の立脚地を忘れますね。忘れさそうとするこころの働きがあるということを思うんですが。

 何か、瞋と見取、瞋と戒禁取は相応しない、という本科段を読ませていただくと、知らず知らずの中に自己中心的な発想、見解が正しいと思い込ませてしまう心的要素が潜んでいるように思いますが、皆さんはどうのように思われますか。

 


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (22) 自類相応門 (8) 

2014-07-23 23:07:32 | 心の構造について

 次は、順と違から説き明かされる。

 「順と違との事を疑うも応に随って亦爾なり。」(『論』第六・十七右)

 順と違との事を疑う場合も同様である。つまりですね、瞋は疑と相応する場合と、相応しない場合があることを順と違から説き明かされます。

 順とは、順境でしょうし、違とは、逆境のことでしょう。自分にとって都合のいいこと、或は都合の悪いことですが、この事態を疑う場合も、相応する場合と、相応しない場合があるということなのですが、どういうことを言っているのかですね。こいうところは『論』だけではやっかいですね。意味するところがはっきりしません。はっきりしないのは、こちらの力量によるのでしょうが、でもなんとか知りたいと思います。そこで論書が大切な役目をもってくるのだと思います。ここは『述記』に伺ってみたいと思います。

  •  順の場合 - 瞋を起こさないから瞋と疑とは相応しない。
  •  違の場合 - 瞋を起こすので、瞋と疑とば相応する。

 「論。疑順違事隨應亦爾 述曰。又順・違事解。若疑順己之事或不起瞋。謂疑苦・集諦。若疑違己之事。便瞋於彼説得相應。謂疑滅・道諦。又若現行善疑未來無。便與瞋倶。善法順已。行因無果故。若現行惡疑未來無。便瞋不倶。惡法損己故。於順・違二事各有倶・不倶。故言隨應亦爾。」(『述記』第六末・三十四左。大正43・450b~c)

 (「述して曰く。又順と違との事において解す。若し己に順ぜる事を疑うならば、或は瞋を起こさず。 謂く苦集諦を疑うなり。若し己に違する事を疑うならば、便ち彼を瞋す。相応することを得と説けり。謂く滅道諦を疑うなり。又若し現に善を行じ、未来は無なりと疑うならば、便ち瞋と倶なり。善法は己に順じ因を行ずるも果なき故に。若し現に悪を行じ、未来は無なりと疑うならば、便ち瞋は倶ならず。悪法は己を損するが故に。順違の二事に於て各々倶不倶有るが故に。応に随って亦爾なりと言う。」)

 順の事を疑う場合

 苦諦と集諦を疑うことである。具体的には五蘊のことを云っています。五蘊が有るのかと疑うことです。この時には瞋は生じないといわれているのです。少しわかりにくいですね、というより僕にはわかりませんが、ヒソカニ考えて見ればですね、五蘊は仮和合なんだけれども、有情は五蘊は実体的に有として執着をしております。この実体化に執着しているのが有情の意に順じるものである、といわれているのですね。その時には、有情の意に順じるものである為に瞋は生じないというわけでしょうかね。

 即ち、順の事に於ては瞋と疑は相応しないといわれているわけです。

 違の事を疑う場合

 滅諦と道諦を疑う場合と云われています。つまり、滅・道諦ですから、「五蘊が無い」場合ですね。この時は瞋は生じると云われるのです。「無い」ということはどういうことなのでしょうかね。私は特にそうかもしれませんが、五蘊が無いのかと疑うことに怯えを懐いていると思います。此の時は外に対して攻撃的になるんですね。内なる怯えが外に向かいます。自分を隠すためにですね。「無いのか」と疑うことは、「無くては困る」という疑いでしょうかね。この場合は瞋と疑は相応するといいます。

 この逆もあるわけですが、要するに、「有」に重点を置いたときは瞋と疑は相応し、「無」に重点を置いたときは瞋と疑は相応しないといわれているんでしょうね。

 ここは根源的な迷いの質が問われている所になるのでしょうか。私たちは有的存在なのでしょうね。生きていることに執着をし、執着あるが故に生の謳歌といいましょうか、悩んだり、苦しんだりしながら生の実感を感じているんでしょう。その中に溺れていると「時の過ぎ行くままに」という一過性のなかで、瞋と疑は相応しない場合があるということになるのではないでしょうか。

 しかし、やがて死の影が忍び寄る時になりますと、取り乱しますね。「死にたくない」。もう亡くなりましたが、父のことをいうとですね。老いからくる衰えですが、寝たきりになりますと、自分の思うようにならないというイライラが募るのですね。そうしますとね、「死にたい」というんです。正直ではないですよね。生きたい為に死にたいというているんです。つまりですね、四諦の理を疑っているんです、そして怒りを爆発させていくんですね。そうしますと、瞋と疑とは相応する場合もあるということになります。まあこんなことを思うんですが、どうでしょうか。御意見お聞かせください。

 


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (21) 自類相応門 (7) 

2014-07-21 17:12:31 | 心の構造について

 瞋と慢が相応する場合について

 所蔑の境(他を蔑視し見下す煩悩)と、所憎の境(他を憎む煩悩)とは同一であるから相応すると説かれます。

 『瑜伽論』巻第五十五の所論は、「何れの煩悩と何れの煩悩と相応するや」と問を設け、答えとして「無明(癡)は一切と與(トモ)なり、疑は都(スベ)所有無(アルコトナ)く、貪・瞋は互に相い無く、此れ或は慢・見と與なり、謂く染愛(ゼンアイ)する時、或は高挙(コウコ)し、或は推求(スイグ)す、染愛の如く憎恚(ゾウイ)も亦爾なり。慢と見とは或は更に相応す、謂く高挙する時復邪に推搆(スイコウ)するなり。」

  •  推搆 ーおしはかること。

 無明は一切と相応することが明らかにされ、貪・瞋・疑は相応することなく、貪と瞋は相応することなく、貪は慢と見と相応することがあり、瞋もまた慢と見と相応することがある旨が示されています。つまりですね、染愛という貪りの心はですね、染愛する心に於て他を見下し、自分が勝れていると誇るわけです。「慢とは、己を恃って他に於て高挙するを性と為す」といわれています。高挙の慢は卑下慢の対です。染愛のように、瞋の対象は、所憎の境とは同じことであるとし、怒り憎しむ対象と、己を恃んで他を蔑視し見下す対象は同じ対象であるから、瞋と慢とは相応することが有ると述べられています。

 後半になります。

 瞋は疑と相応する場合と、相応しない場合について説明されます。

 「初に猶予する時には未だ彼を憎ぜざるが故に、倶起せずと説けり、久しく思えども決せざるときには、便ち憤発(フンポツ)するが故に、相応することを得と説けり。」(『論』第六・十七右)

 初めに、猶予(疑の心所の定義)している時には未だかれを憎んでいないから、瞋と疑とは相応しないと説かれ、彼を久しく思っていても、猶予の働きによって、決定していない時には憤発するので、瞋と疑とは相応すると説かれている。

 初に猶予している時 - 「又初疑時心尚軽未憎彼故。瑜伽五十五五十八倶説不相応。」(又初に疑する時に、心は尚軽なり。未だ彼を憎せざるが故に。瑜伽の五十五・五十八に倶に相応せずと説けり。」)認識対象が決定していない時は、瞋の対象でる憎悪が生起していないので瞋と疑とは相応しない。

 久しく思って決せざる時 - 「心遂重故、便瞋於彼。対法第五説得瞋疑相応」(久しく思えども決せざれば、心は遂に重なる故に、便ち彼を瞋す。対法の第五に、瞋と疑と相応することを得と説けり。」)対象を久しく思っていても決定しない場合には、久しく思っている時間の長さによって、対象を縁じる心(能縁の心)が重くなり、どんどん陰鬱になって怒りを発する(憤発)ことがある、このような場合には瞋と疑とは相応するのである、と。

 「生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情を以て所止とす。」(『正信偈』)

 迷いを重ねるということは、能縁の心が重くなる、陰鬱になるということでしょう。迷いを重ねているとは思っていなくてもですね、「決以疑情為所止」なのでしょう。迷いを重ねることは、四諦の理に昏いということですね。本願念仏の法を疑い猶予している時には、怒りが憤発することがある、と。

 瞋と疑とは何の関係もないと思うのですが、そうではないと教えています。本願念仏の法を疑うという背景をもって、長年迷いを重ねてくると怒りが生起してくるというのです。つまり、怒りの背景にあるのは疑であるということになりますね。


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (20) 自類相応門 (6) 

2014-07-20 18:33:27 | 心の構造について

 貪と他の煩悩との相応についての説明が終わり、次に瞋との煩悩との相応について説明がされます。

 瞋は、慢と及び疑とは或は相応する。(或は)相応しない場合もあることを含んでいます。理由は、境相必ずしも相合しないからであると説かれます。つまり、境相が同一の場合も有れば、同一でない場合もある。見については、瞋は見取見・戒禁取見とは相応することなく、他の三見とは境相同一の場合は相応し、同一でない場合は相応しない。

 「瞋は慢と疑とは、或は倶に起ることを得。」(『論』第六・十六左)

 「所瞋(ショシン)と所恃(ショジ)との境一に非ざるが故に、相応せずと説けり。所蔑(ショメツ)と所憎(ショゾウ)とは境同なる可きが故に、倶起することを得と説けり。」(『論』第六・十六左)

  •   恃 - たのむこと、或はおごること。
  •  所瞋の境 - 瞋の対象であり、怒りの対象である。
  •  所恃の境 - 慢の二種の中の恃己の慢の対象のこと。自分自身を縁じる場合の対象のこと。
  •  所蔑の境 - 慢の二種の中の陵他の慢の対象のこと。陵他とは、他を蔑視し見下す煩悩のことであり、その対象が所蔑の境である。
  •  所憎の境 - 瞋の対象。憎む対象。

 「論。瞋與慢疑至説得倶起 述曰。第二瞋爲首。瞋・慢・疑有時或得倶起。如何不得。謂若内境慢所恃已。非瞋所憎。境不同故。對法第六・五十八。説瞋不與慢相應。若外境之上慢所陵蔑瞋之所憎境可同故。五十五説瞋與慢得相應。又必不於自起瞋。後瞋他復慢彼故。」(『述記』第六末・三十四右。大正43・450b)

 (「述して曰く。第二に瞋を首と為して、瞋とは慢と疑と有る時には或は倶起することを得。如何ぞ得ざるや。謂く若し内境が慢の所恃となり已れば、瞋が憎する所に非ず、境は不同なる故に。對法第六、(瑜伽)五十八に説く、瞋は慢と相応せず。若し外境の上に慢の陵蔑する所と、瞋の憎する所と境同なるべきが故に、五十五に、瞋は慢と相応することを得と。又必ず自に於て瞋を起こすにはあらず、後に他を瞋するときには、復彼を慢するが故に。」)

我」という我執は他を排斥することを唯一の働きとしていますから、自を排斥することはありません。

 瞋の対象は怒りですが、自に怒るということはないのですね。つまりですね、瞋の対象が自分自身では有りえないとのです。しかし慢の対象は自分自身を対象としていますから、瞋と慢とは境は同一ではないということになり、相応しないということなのです。

 すみません、ちょっと出掛けますので、この続きは明日にします。 


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (19) 自類相応門 (5) 

2014-07-17 22:09:05 | 心の構造について

 いやぁ、暑いですね。今日は久々に車両の手すり(600番仕上げ鏡面)を汗だくで仕上げました。バテバテですが、こういう時はビールが旨いですね。ヒョットシテアルチュウ、ヒョットセンデモ。でもMobにいく元気がなかった。明日は坊主バー、大丈夫ナンカナ。 トイウコトデブログ更新です。

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 貪は見と相応する場合の根拠を示されます。但し、相応しない場合もあるということです。

 「五見の境に於ては皆、可愛(カアイ)なるが故に、貪と五見と相応すというに失(トガ)無し。」(『論』第六・十六左)

 五見の対象は、すべて可愛(好ましい。愛すべき)である。従って貪と五見とは相応するということに過失はないのである。

 

 貪の対象 - 染著
               }  同

 

           
 見の対象 - 可愛

 

 相応しない場合ですが、法相唯識では、五見中の邪見は因果撥無であって、邪見は貪と相応しないという見解をとっています。

 

 「論。於五見境至相應無失 述曰。愛・見二種有時可同。皆可愛故。相應無失。諸論共同。無相違處。此中論言説者有二義。一約此論。自道理可得説與彼相應義。二解説者謂餘瑜伽等約此理故説與倶起。又此言得相應。非謂一切恒相應。有時倶起故。然此中一行法。以第一問已以第二問餘。捨第一不問。如是展轉已下可知。」(『述記』第六末・三十三左。大正43・450b)

 

 (「述して曰く。愛と見との二種は有る時に同なるべし。皆、愛すべきが故に相応に失無し。諸論共に同じ、相違する処無し。此の中の論に説と言うは二義有り。
 一に此の論に約して、自の道理として彼と相応する義を説くことを得べし。
 二に解す、説とは、謂く余の
瑜伽等に此の理に約するが故に與に倶起すと
説くを以ての故に。
 又、此に相応を得ると言うは、一切恒に相応すと謂うには非ず、有る時に倶起するが故に、然るに此の中に一行の法は、第一を以て問に已しぬる。第二を以て余を問うは第一を捨て問わず。是の如く展転して已下に知るべし。」)

 

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 皆さんにお聞きしたいと思います。感想をお寄せください。ある人との対話です。まだまだ続くと思います。

 

 「応答、「ややこしいことを言うと、問題は自分にあったということなんですよ。自分の心が外に投げ出されたことが、実は、自分が造り出していたということ。それを受けとることができないという目覚めが、道を歩ませる原動力になるんだと思っています。自己との葛藤がエネルギーとなって阿呆やれるんですわ。なんやかんやといっても歴史の一コマで阿呆できる時間は貴重ですよ。まあ、社会からは、社会人失格の烙印を押されますが、臨終の一念に「俺の人生は何だったのか」という嘆きを持つよりも、阿呆であるのがいいとは思いませんか。
 此れに対しての感想なんだけど、正直びっくりしました。よく考えていただいたな、というのが本音です。
 最初の文章からいいますと、「心は見えない、体は見える、実在する」このことは、普通の生活の中ではごく当たり前の話ですね。しかし、本当に実在していると見ている体を、実際に見ているんでしょうか。仏教の問いは、こんな身近な疑問から発せられているんです。
 次にいい言葉が書かれていました。「何故見えない心が行動規範を決定できるのであろうか」です。
 体とは、身体ですね、身と押さえられています。即ち身と心の問題です。身はまた色(物質)とも押さえられ、色心不二(シキシンフニ)である、身は心に離れず、心は身に離れず、しかもお互いの分限を侵さず、身は身として、心は心として独立しているのであると、はっきり身と心は別体(ベッタイ)であると規定しています。
 そして、この身なんですが、身は五つの感覚器官によって構成され、五つの感覚器官が仮に助け合いながら身は保たれているということなんですね。実に実体としての身は存在しないのです。仮に存在しているとは言えます。「仮」であって「実」ではないということになりますね。
 実際に証明されることは、一つの感覚器官が損傷しますと、身は機能しなくなります。仏教はこれを五蘊(ゴウン)と呼び、蘊とは、集合体と云う意味で、五つの構成要素の集合体が身であるということになります。表面に現れているのが身体であり、その中身は精神作用なんですね。中身が壊れると、身体は崩壊します。だからですね、「心病むと身病む」といわれるんですが、この時の心は身を構成している他の四つの作用なんです。心はもっと深い処から身を限定してきます。
 このようなわけで、私たちは身そのものも見えていないということになりましょうね。でもね、見えていると思っていることが大きな鍵を握っているんですね。
 仏教は「身」を大切なキーワードとしています。唯一物質をもったものが身だからです。身は世界の中で唯一占有している場にもなります。この占有している場は何人も犯すことのできない場なんですね。ですから、場が違えば見える風景も自ずと違ってきます。このようなところから自分と他人という発想が生まれてきたんではないかと思います。自他分別と云っていますけれども。「分」の先っぽは離れていますでしょう。刃で切ったんですね。刃は殺傷能力をもったもの、そして威嚇するもの、或は威嚇し他を従わせるものですね。他を隷属するものとして自他が別れたんです。
 これをキリスト教でいえは、禁断の木の実を食べたと所に原罪があるとされています。それに対し贖罪をするのですね。それほど身のもっている問題は深いといえますし、それほど自分とは尊く深い存在であるということんですね。
 アダムとエバ(イブ)の問題は、過去の話ではないということです。仏教では(過去世の)業を引くと云われています。この身は過去のすべてを引き受けている、今だけの話ではないというわけです。過去を背負ってきた歴史を背景として身は在るということになりましょうね。自分一人の問題ではないわけです。「自分の人生どういきようと俺の勝手だ」というわけにはいかないんです。
 仏教では因果というでしょう。業を引くことも同じ意味になりますが、悟りの道理には安楽(浄土真宗では極楽といいます)が与えられるんですが、「俺の勝手だ」という道理には、地獄の苦しみが与えられます。ともに道理に叶ったことなんです。
 問題は、最初に戻りますが、身は在ると、見えるとする発想ですね。金子みすずさんは「みえないものでもあるんだよ」と詩っておられますでしょう。あの発想が大事ですね。見えないとされる心なんですね。心が見える身を規定してくるんです。
 ぶっちゃけいってしまえば、身はほっておいていいんですよ。まぁ、問いを貰ったことは、これは君が生れてくる背景に及ぶ迷いの歴史を背負っているということが問題になったということなんです。そして、何故苦悩するのかが、自分の人生の中で問いとして浮かびあがってきた。
 それまでは、自他分別は当たり前のことだったと思います。自分にとって都合のいいものは取り込み、都合の悪いものは切り捨ててきたんではないですか。それを我執と押さえているんですね。君だけの問題ではありません。人類共通の問題です。人間と環境の問題も基本は自他分別です。環境破壊が問題となり、いかにして環境を守るのかが議論されますが、議論を尽くしても根っこに自他分別がある限り問題の解決は有りません。
 自他分別を問うことが、自分の中から起こったということは、一歩世間の道理から外に出たことを意味しますね。ここが阿呆の第一歩なんです。阿呆とは、自他分別を超えたことを意味します。
 鏡が無かったら自分を写すことは出来ませんが、自分を写す鏡があったとしても、判断を下す自分が問題とならなければ鏡は無いのと同じですね。
 教えは無味乾燥なものです。真理とか、真如とか、無分別とかいろんな表現で教えが語られますが、門を叩く自分がいなければ、教えは何一つ応答してくれません。
 そういう意味では仏教は非常に厳しいものです。
 内と外ということも云われますが、外は内の表現なんですね。外が実体としてあるわけではないんです。内が内の限定表現として外を写し出しているんでしょうね。
 まあそこがですね、外ばっかしを追い続けてきたことに疑問符が付いたというところにですね、人間としての深さに気づいたということになるんだと思います。自覚には程遠いかもしれませんが、自分の生き方が大きく方向転換したということに変わりはないと思います。
 方向が転換したら阿呆できるんですよ。阿波踊りではないですが、「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃそんそん」とね。阿呆も独りよがりでできるもんではないんですよ。ともに生かされている大地を踏みしめて、人生を遊ぶが如く生きていければ、それが「遊煩悩林現神通」でしょう。我執からは絶対生まれてこない世界ですね。
 あまり深く考えないで.僕のコメントですが、僕自身が頷けるまで30年という歳月を要しました。
 宿題を与えられたと思って気長につきあってください。
問い(彼)今回は身と心の問題について述べたいと思います。身は物質であり、心は身と独立したもの。互いに分限を侵す事は無いと述べられていました。僕自身の考えとしては、心と呼ばれているものを実在するものとして人は他人と接しているのではないでしょうか。表情を見れば、何を考えているのか理解出来る。と言われる事があります。表情とは顔という身の一部を使った自らは表現力を持たない心の表現方法なのではないでしょうか。喜怒哀楽といった感情と呼ばれているもの心の変化を示したものではないか。しかし心自体では表現力はなく身といわれる物質を反応させることにより表現力を得ているのではないか。僕自身の話になりますが、よく笑わないと言われています。何故だか解りません。もしかすると人と言うのは、身という自分と心と言う自分がいて、対話しているのかと考えたりもしました。
 応答、いい問いをもたれました。僕も考えて見ます。身と心、ここは深いですね。身心一如といわれています。離れてはいないが分限を持っている、身は身として、心は心としてですね。では身は実体として有るのかといいますと、仮に有る、五官が互いによりそって身体を構成して、身体が身体として存在するものではない、ということなんです。これを仏教では、空と云う言いかたをします。或は縁起である、と。
問い(彼)縁と言うの不思議なものですね。人との縁は切って生きてきた人間です。僕は。生きてるか?死んでるかは本人次第ですね。
応答、自分の思い(自分が存在するという執着)からは、人を切っていきますね。しかしね、縁を切るのも縁なんですね。ここが深いんですよ。切っても切っても、切る底に流れているのが縁なんです。「生きてきた人間」ではなく「つもり」でしょう。つもりは北海道に投げましょう。つもりはどこにもありませんよ。生きてるんです、そして生きようとしているんです。つもりが問題やね。問題ばかり与えて申し訳ないんですが、大事な問題だからあえて言わせていただきました。
問い(彼)誰でも自分自身が一番の存在と思っていると考えます。ここでは自分自身と言う言葉を僕なりに分解しました。自分とは自らと分かれているもの、自身とはたったひとりと考えてみました。自らと分かれているもの。他人のこととなります。自分自身が存在するには他人が存在しなければなりません。他人の存在が自身の存在を証明するのではないでしょうか。他人と自身を繋ぐもの。縁と呼ばれるものでしょう。切る事もあれば、必死に切れないようにする事もあります。切るにしろ、繋ぐにしろ全ては自らの意識でしょう。ここでの意識とは、人間関係における利害関係としています。利益があるから彼らと縁を繋ぎ、利益がなければ縁を切るといった行動にでます。しかし人間は利益がなくとも人と付き合う事があります。理由は解りません。ただ人間には利害関係だけでなく、心の奥底にまだ知らない無意識ではない意識と言う物質がいるのではないかと思います。最後に諦めるのはよくないと言われていますが、完全に諦める行為は難しい行為ではないでしょうか?人を切る行為で切れ味鋭い刀であれば真っ二つに切れるかもしれませんが、錆びた刀であれば中途半端になってしまいます。中途半端に切れなかったというのは、後悔という感情ではないでしょうか。
応答、人として生まれてきた限り、「自分」という存在を頼りに生きているのは確かなことでしょう。僕も生まれてこの方自分を頼りに生きてきましたし、これからも自分を頼りに生きていきます。これは断言できます。こうして君のメールに返信しているのも自己中です。それ以外なにもありません。仏教が教えているのは、何も難しい教理をいうのではなく、現実に自分の存在は、自分で決めた存在であると云う認識だと思います。ですから、いつでも、どこでも、自分と云う存在において他者を裁いていくのでしょう。そのことを知っているのか、知らないのかという違いだと思います。錆びた刀は無いんですね。いつでも銘刀正宗ですよ。我はね。
 「あ」という気づきですが、そこが無意識の領域になるのでしょう。「貴方は自分を中心に動いていますね」と教えてくれたのが他者の存在ですね。その気づきが無意識の働きなんでしょうかね。利害関係といいますが、利害関係。利害が不一致する関係が現実の問題なのですね。現実を離れたらそれは空想の世界の出来事なんでしょう。そこからは教えは生まれてきません。際どいところでいうとですね、自分の天敵が、自分の殻を破ってくれる善き人なんですね。これは云うが易くです。「そんなことできん」ということを知らしめられることが大切なことなんです。僕のことをいくとですね、「出来ません」。君は出来ますか。出来んということにおいて自分を引き受けているんですね。もっというならば「出来ん」という歴史を引き受けて今の自分の存在があるのでしょう。切ったり、寄り添ったりしたけれどもそのすべてが今の自分を成り立たせているのですね。過去を背負った自分が今の自分なんです。ここが出発点でしょう。
 今ですよ。君が今どうなりたいのかです。それさえはっきりすれば道はみえてきます。今の自分以外に自分はいませんから、今、悔いのない人生を送っているのかどうかでしょうね。世間は、いうならば「悔いのない人生」を送るための素材でしょう。いつでも世間から、人間関係から、宿題をいただいて、自分が問われているのではないかと思います。
 そうでなかったら、仏教はセクトになります。「一切衆生」という発想は、人間を信頼している言葉ですね。一切、すべてです。セクトは切ります。主張の違うものは断固として抹殺しますね。これが分別の怖さでしょうね。
 最後に、「諦める行為は難しい」ということなんですが、その通りです。諦めきれんことを知るのが大切なんでしょう。そしたら、知ったらどうなるのかですが、そこが、おまかせ、なんです。いうならば以後の世界は越権行為になります。知ったら自然に、道すでに有り。開放されたと云うか、開かれた世界が現実に見えてくるのだと思います。
 諦めんことに諦めて諦める世界が開けて諦める。「どうなろうとこうなろうとこの道一つ」。こういうことだと思いますが。」

           よろしくお願いします。 河内 勉拝             

 


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (18) 自類相応門 (4) 

2014-07-15 22:47:38 | 第三能変 諸門分別 自類相応門

 前科段に於いて、貪は慢と見と相応する場合と、相応しない場合があると説かれていた根拠を本科段で説かれます。

 貪は慢と相応する場合と、相応しない場合について

 「所愛(ショアイ)と所陵(ショリョウ)との境一に非ざるが故に、倶起せずと説けり。所染(ショゼン)と所恃(ショジ)とは境同なる可きが故に、相応することを得と説けり。」(『論』第六・十六左)

  •  所愛 - 「愛される」。「親愛な」。「好ましい」。「喜ばしい」等を意味する形容句。貪の対象。
  •  所陵 - 陵他の慢。他者を見下す慢のこと。他者を陵すること。
  •  所染 - 染著する対象。
  •  所恃 - 自己を恃すこと。自分をたよりにすること。

 語句説明でも解りますように。所愛と所陵とは境が違います。所染と所恃とは境が同じですね。

          陵他の慢         所陵の境
    慢  く          境  く
          恃己の慢         所
恃の境

 「愛所陵至説得相應 述曰。此解彼云。謂若於他起愛染者。必不陵彼。以境非同行相亦別。故不倶起。然縁己身起愛名所染。與所恃之我慢等境可一故。對法等説得相應。前約行相麁者。此約行相細者。如前第四卷第七識中已多門解。」(『述記』第六末・三十三右。大正43・450b)

 (「述して曰く。此こに彼(所愛)を解して云く、謂く若し他のうえに愛染を起こすと云うは、必ず彼を陵せず。境に同に非ず、行相も亦別なるを以ての故に倶起せず。
 然るに己身を縁じて愛を起こすを所染と名くるときは、
恃の我慢等と境一なるべきが故に。対法等には相応することを得と。前は行相麤なる者のみに約し、此は行相細なる者に約す。前の第四巻の第七識の中に已に多門を以て解するが如し。」)

 二段階で説明されています。初は、慢は陵他の慢であり、対象は所陵の境であるとされます。 これは対象を見下す煩悩ですね。しかし、所愛は、自分の愛著する対象に対して見下すことはないのです。要するに、見下す対象に対しては愛著を起こすことはないんです。従って貪と慢とは相応することがないとされます。

 しかし、所染の境(自身)と、所恃の境(自分を恃む慢)は同じものであることから、相応すると説かれているのです。

 教証として、『雑集論』(巻第六。大正31・723a)を引用しています、前半部分の教証は『瑜伽論』(巻第五十八。大正30・623a)が引用されます。