唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

『下総たより』 第三号 『再会』  追加 Ⅲ

2012-08-15 12:38:43 | 『下総たより』 第三号 『再会』 安田理

 安田理深先生の 『再会』 追加 三 を記述します。

 「ものが起こってくるというのが未来から起こってくる、可能的なものが現実的になる。過去の方はもののあり方を過去がきめる、もののあり方は運命、それをきめるのが業、現在に重なりあっている。未来の方は、可能性としてあるものが現在となるためには業というものが媒介となる、宿業を縁としてものは現象してくる。自分の存在を考えても、私の存在が私という形をとっているのも業縁によるのである。併し私の存在に於ける存在そのものは無限である。私は無限の可能性をもっている。

 私が今経験するのは一つの経験であるが、他の経験もできるという可能性がある訳です。現実には一つだけが出来て他は永遠に可能性に止まって、われわれが一切を経験しているのでなくして、一切を経験できる可能性をもっているのであるが何かに限定されている。その限定しているものは業、その中にあってある可能性を経験している、われわれは一切のことが出来るのであるが、併しその中に一つだけ出来て他は可能性に止まっている。限定されなかったことは無くなったのでなくして可能性としてある。ものの起こる時間は可能性が現実性となる時間、それが未来から現在となる、ものの起こるのは可能性が現実性になる時間で業の逆である、業の方は過去から現在、現在から未来、可能性を現実性たらしめるものは過去の業縁、未来から現在へという未来は、過去から未来へというような現在に重なってある、現在の業が未だ現れない未来を約束してしまう。業の方は存在するものを存在せしめる条件である、存在の条件を縁というのである。

 それは業の果を受ければ果は消える、支払いを終わる訳である。支払いを終わる中にまた新しく業が作られている、支払いと約束手形の発行が同じ、われわれが生まれて生きることは過去の業に対する支払いである。無限に業の因果が繰り返し反復する、無限に反復する、それを流転というのである。業の因果が無限に繰り返される、われわれの在り方は業縁によってきめられるけれども、あり方によってあらしめられる可能性は現実性と同じものである。たとえば音の可能性が音になって音を聞く現実性になるのだから、可能性も現実性も変わりはない、けれども音のある境遇が変わってくる、m人間とか一々変わる、境遇に於て経験するものはどんな境遇のものも共通、音を経験しても音はなくならん、業は支払えばなくなるけれども、存在は経験すれば経験するほど可能性と現実性が交互的になる、可能性と現実性は円環的になる、存在の存在性は無限のものであるが、無限の存在を業縁によって有限に限定する。併し存在は無限のものである、存在の中にあって存在の運命を決定するものが業縁、業というものが非常に大きい位置をもっている、業の存在の中にある存在の運命を決定するものが業の因縁である。」  (完)

 昭和48年5月1日より文明堂より発刊されました「下総たより 3号」より転載しました。


『下総たより』 第三号 『再会』  追加 Ⅱ (その3)

2012-08-05 18:19:51 | 『下総たより』 第三号 『再会』 安田理

 「凡て存在というものは存在の仕方が時間、願という時間に於て人間は実存となる。願生者、人間は人間をこえて無限になってゆく、無限になってゆくものに満足する、不満だから求めるのでない。不満でもとめるのは理想です。純粋未来は純粋未来の方が現前している。純粋未来を根にもったあらんとするところのある。それが実存というもの、あらんとするところにある願生の時間、願の時間というもの、人間がそこで人間に安んずる。それが安心、未来に理想を追うのでなくして、現在無限にあらんとするところに満足する。満足するような願をもったこと、こういうのが根元的時間、未だかってない時間、過去は宿業の時間、純粋未来の時間はそれが現在の根元、つまり純粋未来にふれて始めて現在に満足できる。願のままが成就、永遠に成就せね願がそこに成就する。それが現生、そういうところに永遠の今、純粋の未来は永遠の今にある。生産する時間、生産的時間、それは願、願という形で存在しているものが人間、願という存在の仕方をもって存在するのが人間実存、実存があるような時間、人間が人間になるような時間、人間というものはあるものでない。あるものを超えてあるものになろうとするのが、あるものに帰ろうとする。なるは帰る所以、往生というのはゆくこと、ゆくのが帰る所以、ゆかずに帰るというのが支弁、娑婆即寂光浄土、ゆかずに帰るというのが支弁でないか、娑婆即寂光浄土というのは無時間、そうかといって限定された描かれた時間でない。ゆくということは帰る所以、根元に帰るという形が未来という形をとる、純粋未来というものを現在の根底にもつ、それによって人間は人間となる。

 そういう時間から歴史をみれば仏教史観、仏教史観の他に史観をもってきてはいかん、正像末の史観というものも本願の史観にかえる契機である。理想主義的時間というのが過去現在未来、古代中世現代、正法像法末法、これは過去を基底にした時間で、未来のものに近づいてゆくのが理想主義的時間である。いつでも時間を破って時間を生産するような時間、過去的時間でも正像末の時間でもない、進化発展の時間でもないし、滅亡する時間でもない。滅亡することを転機として見出す時間。

 いつでも正法末法を通して、かえって正像末を統一するような、いつでも本願の展開、そいう原理が、あらゆる人間社会の曲折もあれば失敗も成功もあるが、堕落するのを喜ぶわけでないが恐れぬ。仏法が滅亡するということは悲しみであるがそれによって絶望せぬ。そういう本願の逆の時間がない限り人間はいつでも夢を追いかける、あきらめては又描く、それが失敗して現実に悲哀する、そいう求めて得られん、得られんけれども求めずにおられんという流転の時間、そこに終止符を打つのが正像末の時間。如何なる絶望にも立ち上がってくるのが本願の時間、永遠にあらんとする、あらんとするという時間は理想主義の時間でもないし、無時間でもない。

 仏法も時間を否定するような観念論に転落すると、今が永遠の中に消えてしまう。無限の今、永遠の今が今になってゆく、今が今から今へ、そういうところへ帰る、帰ることが出る所以、無時間では方向がない。帰るのは出る所以で往相還相の方向がある。過去から未来へではない、往還、ゆくことはかえること、根元にかえる意味もあるし、また現実にかえるのが往相、時間の根元にかえるのを法性のみやこにかえる、法性に都にかえるというのは、往相また還相という意味からもかえるのが二重の意味がある。往相というのはゆくとという形になっている、ゆくというと無時間無時間を包んで時間、無時間も時間の否定にならん。時間の否定にならんというところに時間の根元がある。そいうことは願というよりない。

 根元的時間は願、願に生きるということは、そういう無限にあらんという形で生きる。人間が自己の根元を自覚して生きる、それがあらんという時間、理想は化土、描かれるものは化土である。だから描けない未来に生きる、満足すればするほど願う、描けない未来に生きるが未来にも腰を落付けん、いつでも立上がってゆく、そういうものを根底に見出してこそ生きることに絶望せぬ。人類の社会に絶望せぬ、あらゆる史観は正像末の史観は、転換して本願史観にかえる。       (「追加 二」 完了)


『下総たより』 第三号 『再会』  追加 Ⅱ (その2)

2012-07-29 19:27:31 | 『下総たより』 第三号 『再会』 安田理

 阿頼耶識というものを考えてみると、種子ということがある。凡ての存在は種子から生れてくる。種子は可能性、可能性が現実性となる、阿頼耶識は一切のものを可能性としてもっている、現実性としてもっているのでない。現実性としてみえるものは既にあるものである。無限に現実というものを可能としてもっている、阿頼耶識は可能として世界をもっている。阿頼耶識を自己、自己は世界を未来としてもっている、私の上にどれだけの未来が生れてくるかわからない。未来は不安であるが不安はわからんから、わかったことは過去、無限に形をとってゆく、そういう意味で世界は未来から、過去から生れてくるものでない、未来から生れてくる。そういう未来を過去の根底にもっている。そういうことは過去と矛盾せぬ、過去の中にあっても然も過去を超えている。そういう時間の根元、あらんとするというところに、既にあったのでない。無限にあらんとするという、そういう純粋時間、当来ということもあるがそれは描かれる未来でない。期待として描かれる未来というものは理想である。理として想される、描かれるけれども行けない。純粋というものは描けんでもゆける、此方から描けんけれども併しゆける、理想というものは化土で、化土的世界が理想としての世界である。純粋の世界は真実報土、それは形がない。無限に形を生産する、われわれは未来の時に未来があるのでなくして、いつでも未来を現在の根元にもっている、寧ろ未来というものが現在というものの源泉である。        (つづく)                 


『下総たより』 第三号 『再会』  追加 Ⅱ (その1)

2012-07-15 23:46:41 | 『下総たより』 第三号 『再会』 安田理

 時というものは、存在が存在する形が時、存在が時というかたちで存在する。時が加わってくるのでなくて時というかたちであるものになる。なかったものがあるようになるとか、あったものがなくなる、こういう動き、そういうところに時というものを考えるのであるが、願生という願は菩提の願でなく願生の願、如来の本願は願生を完成するために出てきた、我々の願というものが感得したものが如来の願である。如来の本願には、時間がないかも知れん、我々の願は、生れようという願はあるようになりたい、あらん、あったのでない、ないものでもない、あらんです。生(あ)れんと願う、存在への願いである。願というものはいろいろあるのでないのであって、我々の存在への願というのがそれが衆生の本願、根元的には存在への願、存在への願及び存在の意味を求める願、あらんとするのであるから未来を求めるというかたちになるが、併しあらんというのは未来の生であるが、それは理想主義的な願望というものでない。憬れというものでもないのであって、我々があらんと願うことは、われであるこのわれが今生きているということがあるが、今現にあるのは既にある。これが過去、それが本当にあるのだからあるものを求める必要はないが、過去が既にあるが、それで満足出来んからそれを否定して、否定するという意味はどういうことかというと、今あることの意味を求める、あるものは本当にそれでは満足出来ないということがあるから否定することになる。死して生きる、死してあらん、今あることに死して、否定して、あらんというものを通して更にならん、こういう意味でそこに未来ということが、過去の否定として出てくる。既にあるものを否定してあろうという意味は、人間存在というものは既にあるものでもないし、また否定してあることを求める、未だ無いものを求めるということになると理想ということになる。そうなると理想を実現しようということになる。理想としてあるものになる、既にあったもののあるでなくして、理想として要求せられるということであれば、それではあることが落付かん。現実を否定するという、理想としてあるものに満足するかというと、理想としてあるものだけれども理想としてある限り落付かん。如何に美しいものであっても理としてあるものはあるべきものであって、あるべきものでは要求が満足せぬ。観念的では満足せぬ、過去でも未来でもないもっと根元のものを暗示している。未来を求めてゆくことは根元にかえる、過去や未来のもっと元、本当に求めてゆくものは過去の過去にある。過去の根元、それが未来の帰すところ、時間が時間の根元にかえる、過去や現在や未来というものが時間の根元にかえる、かえらずんば私が安んじない。わたしは根元から出てきた、それで根元にかえるまでは安んずることが出来ない。あらんというのは帰る、そういうことを時間で現せば根元にかえる時間、根元に帰ろうとするわれわれからいえば願、人間のもっと深い根元、私が起したものならば理想であるが、根元が寧ろ既にあるものを捨てさせる、未来を過去の過去に見出してくる、未来というものの本当の意味は帰ってゆく、そこから理想としての未来でなくて純粋未来というもの、純粋未来というものの自覚が願というものでないか、描かれた未来でない。純粋未来、純粋未来は理想として描くことが出来ないから純粋未来であるが、形がないけれども如何なる形もそこから出てくるような、あることの根元はかえって未来をも超えたような未来、寧ろわれわれはそこから生れてくる。未来というものはわれわれが追っかけるのでなくものがそこから生れてくるもの。                (つづく)


『下総たより』 第三号 『再会』 追加(3) 安田理深述

2012-07-08 21:57:04 | 『下総たより』 第三号 『再会』 安田理

 「業だけが縁であるという訳でないけれども縁を代表するもの、最も強力なる縁となるものが業である。現在の果というものは存在の因果であるけれども、業の因果からは異熟果、異熟果として等流果になった、そこに現在の方向である二重因果の方向、そういう意味で現在に於ての時間が成り立つ、業にしても法にしても存在の時間と異熟の時間と二つ重なって、人間存在というものが成り立つ、時間といっても人間が生きている時間である。人間が生きている人間が生きる時間、そこに時間が立てられている。人間の生きる形が時間、何所までも人間的時間、あらゆる存在が直接にあるということは意識である。意識というところから時間をみると、今現在一刹那というものよりない。過去も未来も現在を出ない、存在は存在自身存在性をもっている、それ等流、変りはせん。その存在を現実存在として、そういう存在は境遇をもって存在している、その運命を変えてゆくものが業である。私も身体と精神をもって存在している、だからして彼の身体性精神性と私の身体性精神性、それは存在するものの存在性として平等である。その同じ存在が彼の状況に於てある場合と、私の状況に於てある場合と、存在の運命が異っている。その異っているものが業縁、状態を規定するものが業縁である。そういう区別で重なり合っている、業縁の異熟因果は非常に厳粛である。私がこうして生きているということは責任がある。業は責任観、責任的厳粛性、厳粛ということが業である。

 等流の方の因果は明るい。自由で明るい、自は自によって存在しておって他に依って存在しておらん。そういう意味の自然、自由という意味の自然、存在の因果ということは、存在が自由であるということ、明るい、透明である。明るい因果、存在はどんな状態でも業のなるままになっている。そういて業を超えて明るい、人間が生きているということは明るさをもっているということ、そういうところに生きていることをいとおしむ、如何に現在の生は瞬間に生じ瞬間に滅してゆく、そういうものであればこそいとおしむ、生きているということは貴重であるということが存在の意義、生きていることが厳粛であるということが業の意味、厳粛性が生きる印であるという、生きていることはかたじけなさ、生きていることはかたじけないものである。同時に責任をもって生きている、明るい。存在を厳粛に生きているという、そういう時間である。

 煩悩でも存在の因果としてみれば、煩悩も存在、無明も愛欲も存在である。仏教でいえば存在、物質ばかりが存在でない。寧ろ物質よりも意識の世界の方が広い、仏教の存在論に於てはそれの方がもっと広い部分を占めている。たとい煩悩であっても煩悩の存在は別に暗いことはない。煩悩の反対の信ずるということも法である、煩悩は染法、染法の法であるとするならば、信は清浄の法、そういう性格の異いはあるけれども、価値的性格の異いはあるけれども法としては平等、平等の存在性、信も愛欲も平等に、諸法平等である。染法も清浄性も染浄平等である。染浄という区別をくずさずして平等、平等法界、だからして清浄も透明であり染法も透明である。染法も染法として透明である、そういう具合にみれば染法といえどもいとおしむべきもの、貴重なものである。つまり我々の煩悩というものも我々の存在をゆたかにしている、人間存在というものが人間らしくしている。煩悩を経験するということが生きていることの証拠である。煩悩もないということは死んだも同じ、煩悩も起こし得ることで生存の貴重なことを現している。そういう意味で我々の生きているということの中には、諸法の因果という中にはそういう生存のかたじけなさという意味がある。たとえ瞬間に消えてゆくもののその瞬間は貴重な意味がある、そういうことを忘れている。やけくそ起こしたり邪見によって絶望するということは貴重な存在を失うことである。煩悩をおこしうるから生きている、煩悩も菩薩と同じ意味をもっている。人生に悲しみがあり怒りがあるという、そこに詩が生れてくる根拠がある。こういう世界に我々を呼び戻すのが内観の仏道である、それが聞法生活というものになるのである。生きていることが如何に現sh区で如何にすばらしいか、生の自覚である。そういう生死愛欲の存在というものを離れて浄土荘厳はない。生のかたじけなさ厳粛さ、すばらしさということが浄土荘厳、荘厳ということは厳粛さと共にすばらしさというものがある、浄土は何所か知らん世界に消えてゆくということではない。

 原始信仰の畏れというもの、これに宗教が曲められている。それから人間を解放することでなければならん、恐怖心によって宗教心が迷信を克服せずに迷信に毒されている。生の悲しみは純粋であるが、怖れは濁っている。本当の悲しみとか悩みは生の深さを現しているが、怖れに恐迫されるというのは魔力に支配された生、この魔力から解放するのが仏道である。魔力にしばられているものから解放するのが宗教心であるが、信仰が魔力的なものとか功利的なものに利用された、恐怖心に毒され、未来往生に毒され現世利益の功利心に毒される。こういうことを自覚することが大切である。」

                                   (追加 Ⅰ 完)


『下総たより』 第三号 『再会』 追加(3) 安田理深述

2012-07-01 13:59:04 | 『下総たより』 第三号 『再会』 安田理

 色は何所までも色、音は何所までも音、色から音を出すのは不可能、それは存在の秩序を破る。それ故に等流という、ひとしい流れ、藍は藍より出でて藍より青しというのが等流、これは存在の因果、その場合因果を立てるならば存在の因果、存在の生起、十二縁起の無明とか行とか識とかいわれるが行が識の縁となる、無明が行の縁となるというが、無明は何所までも無明、行はどこまでも行、無明が行に変化するということはない。無明も諸法の一つ、行も諸法の一つ、無明が行に変化「するのでない。無明によって行の縁となっても無明から行を生み出すのでない。無明は何所までも無明から生まれる。そこに考えられる因果は可能的であったものが現実的となる。だから因となるものは果となるものも同じ、同一のものの因果、因果同一である。これは等流因果、等流因果は可能的であったものが現実的となってくるのであるが、可能的ということを時間で現すならば未来、可能性の時間は未来、現実性の時間が現在、可能性をまたないものである。過去はなくなったもの、未だないものが未来、既になくなったものが過去、未だないものから既になくなったものに移ってゆく、これはものが同じもの、何所でも自己同一を保っている。異熟というのは変わってゆく、変化、状態の変化、存在のあり方を規定するものは異熟、異熟は存在をうむものでない。存在のあり方を規定するものである。如何にあるかを規定する、何であるかを決定するものでない。こういうように因果というものが業の因果、状態を変えてゆくという因果と、存在が存在になってゆくということと、無限に存在は未来から生れて過去へ去ってゆく。無から生れて無へ去ってゆく、そういう存在が生起するという意味と、存在の状態を変えてゆくということと重なってある。未来が現在となる可能的存在が現実的になったという意味では現在は等流果である。併しその存在は私なら私という状態に於ける存在、境遇の異なる、同じ存在でも無限の境遇に於ける存在になっている、等流の因果はザインの因果、存在の因果は存在を興えるザインの因果と同時に、それは異熟の因果である。その重なりかたは存在は同じであるけれどもザインの状態を決定するのはダァザインの因果、ザインをダァとする因果が異熟、つまり存在は存在自身Aの存在はA自身からAになるが、存在を引出すものをまたなければならん。そこに因というものは果になるものを因というが、果というものと因というものと二つあるのでない。因は因自身の力で果という状態になることは出来ん、因は何所までも縁をまたなければならん、縁をまって因が果となる。因自身の力で果になることは出来ない。因の他に果になるものはないけれども因自身で果になることは出来ない。縁というものが果にならしめる、因果といっても縁起ということに包まれている。だからして存在の因果を決定するところの縁が異熟の因果である。存在を引き出すものは業である。如何なる存在も業によって引出され果の状態にうつされるものである。                 (つづく)


下総たより』 第三号 『再会』 追加(3) 安田理深述

2012-06-24 14:10:28 | 『下総たより』 第三号 『再会』 安田理

 「法然上人に遇うというようなことも、内には南無阿弥陀仏に遇うた、そこに法蔵の願心にふれたということが、神話でなしにそれを日常に於て経験した、法然上人に遇うたということは人間に遇うたということでない。本願に遇うた、迫害流罪という形で本願に生きた、そういうところから考えてゆくという、本願ということが本当の意味に於て成り立つ基礎が時間、本願の時間、本願の歴史というものが、本願の時間というものが成り立ってくる。我々が日常の時間を日常的に過ごしてしまうということがあるために、時間をあれだけ深く過ごすことが出来ないために、ただ神話を神話として過ごしてしまうことになる。神話が神話でなく実存的時間であり歴史的時間がある。実存の歴史というものがある。

 実存的時間というものは本願の現実である

 昔は今であり、今は昔である。こういうところに本当の歴史がある。実存というのは我の存在である。我というところに、神話的時間と日常的時間を綜合するものは我の時間である。我ありという時に本当の現実の時間がある。我を離れたら全部神話になるか、日常というものに流されてしまうか、神話の昔話にもなれず、現実の時間に流される訳にもいかん、現実の時間を超えて時間に生きる、こういうところに我の時間がある。今というのは我の時間である。

 我々が生れてきて始めて仏法に遇うのでない。仏法の中に始めからあるから仏法に遇えるのである。そうでないと仏法に感動する筈がない。我々は遇う以前に仏法の中に生まれておった、それで今あらためて遇うことによって自覚する、そういうことが出会い。深い意義がある。

 我というのが機である。機は時機、我の時を今というのである。時機に於て法がはたらく、機の時である。機を成り立たしめるのが時である。時という字は熟するという意味もある。時が機を熟する、機を摑むということが時の意味である。機を成就させるというのは機を摑む、それが時の意味である。それが出会い、我に出遇うのである。我を通して法に出会うのである。

 過去、現在、未来があるけれどもそれは現在をはなれてはない。現在の上に過去現在未来が二重に未来現在過去と逆に重なっているという意味がある。過去が現在を規定し現在が未来を規定している、そういう意味で過去現在未来という一つがある。もう一つは未来現在過去、未来が出発点となる。未来現在過去、こういう二重の因果があって、過去現在未来というのは異熟因果の業因縁というもの、異熟因果、異熟の因果は過去が現在を規定し、現在が未来を規定する、過去の原因が現在を規定する、其時に過去は尽きるけれども現在は未来を規定する、過去現在未来といっても切れている、過去が現在、現在が未来と切れている、我々が生れて死するというのは過去の自分に応えているのであるが、どうも変わらんものが我々にある。今から変えることの出来ないものが、或る意味で運命的なものがある。それを業道自然という、そして現在はどうかというと現在は未来を決定する、現在は未来を約束し未来の運命を造ってゆく、過去が現在、現在が未来と切れながらつづいてゆく、過去が現在を決定するというのは異熟、現在が未来を決定するというのは異熟、前の異熟が一生一生切れつつ連続する、それが此の生が尽きれば次の生と流転です、過去が現在を規定するといっても切れながら完結しつつ続いてゆく、現在の生死は過去の生死の因に応えている、知らない過去の原因に応えそれを果たす。宿業を果たすというのは自分の負目を果たす、同時にこの一生で我々の新しくやったことは未来の運命を規定する、これはまた別である。現在というところでそれが重なっている、過去の果である現在が同時に未来の因である。現在として重なっている。一面からいうと人間は変る、今の一生を生きたということはその結果を見ることは出来ん、我々が現にみているのは過去の結果である。過去の責任を果たしつつ未来の責任をもってくる。人間はどうにもならん意義と、どれだけ努力してもどうにもならん意義と、同時に無限に変ってゆくという意義の二つが重なってある。果である面はどうにもならん、因である面は変り得る、この二つが重なっている。そういうのが宿業の因果、それは異熟の因果、異熟因異熟果、つまり業の因果、業感縁起、縁起論としては業感縁起、そういうものを代表しているのが十二縁起、過去から現在、現在から未来へと過去が出発の規定になるのが業の因果、同時に未来から規定する因果が、それは存在の因果といってよい。未来から始まる、未来が現在となり、現在が過去となる。可能性が可能性であったものが現実となる。こういう因果であって、ものの生れてくる因果、つまり存在の生起、存在が生起する因果、これはものはものからものになってゆくのであって、別のものになるということでない。物質は何所までも物質から生れて物質、精神は何所までも精神から生れて精神となる、精神から物質になるのでない。          (つづく)

 


『下総たより』 第三号 『再会』 追加(2) 安田理深述

2012-06-17 09:41:58 | 『下総たより』 第三号 『再会』 安田理

 「その二つの時間ということについて、人間というものが如何に不確かかということが現されている、こういうのは日常的時間の意味である。我々は両方もたずに生きている、何月何日の日常に流されている、親鸞は日常を超えて生きた、日常の時間の記録ということがそういうことを象徴している。何月何日は日常的時間でありまた記録的時間である。曠劫多少、更に刹那、劫と刹那、長いのは劫、短いのは刹那、そういうのは神話的時間、法蔵菩薩の歴史というようなものは神話的時間で現されている。五劫の思惟、永劫の修行、乃至一念一刹那も清浄ならざることなく、真実ならざることなし乃至一念一刹那、そういうふうにいわれている、その成就としては十劫正覚、法蔵菩薩には五劫、本願成就のところになると十劫、正覚にしても因位の修行にしても劫とか一念一刹那、刹那と劫という形で時が語られている。これは神話的時間、そういうときというものが一方では、日常性を全くこえた日常性の背景である劫というものが、二つが記録的というところに歴史の具体性というものがある。何月何日は日常であるがその意味は日常を超えている。だからして注意してみれば我々は日常的時間を単に日常的に過ごしている、だから何月何日ということもすぐに忘れてしまう、親鸞が記録したのはその時点ということを、時間ということを非常に真面目に生きたということ、日常的時間を日常的に過ごさなかった、何時であったかというようなことはない。其時現実の問題を如何に責任をもって生きたかということがわかる。つまり日常の時間を実存的に生きた、それ故にその日常の時間が神話的に現わされなければならんような深い意味をもっている。日常的を神話的に生きた、それが実存的時間というものである。」 (つづく)

            ―         ・       ―

 今日の命に関わる諸問題に対して、安田先生は示唆に富んだ講義をなされていました。原発にしても、私たちが生み出したものであり、また私たちが再稼動を促したという責任があります。若し原発事故が起こらなかったなら、原発の安全性を強調し、原発に対して何等の問題意識ももたずに過ごしてきたのではないでしょうか。少なくとも私は原発に対して何等の反対の意見を言ったことはありません。以前にチェリノブイリ原発事故があったにもかかわらずです。対岸の火事として、自分とは無関係であるという視点からです。この視点の問題が「生活の為に」という大義名分で原発行政を推進してきたのではなかったのでしょうか。そして今、その渦中にいる一人として、現実の問題に如何に責任をもって生きるかということが問われているのだと思います。「原発を生み出した私とはいったい何者だ」ということを問う一日としたいのです。今から聞思洞研修会(池田市住吉・順正寺)に出かけます。 (河内 勉)


『下総たより』 第三号 『再会』 追加(1) 安田理深述

2012-06-10 20:33:22 | 『下総たより』 第三号 『再会』 安田理

 『再会』 追加 (1) その①

 「種子現行の関係は因果同時、同時ということが過去も過去という現在、未来も未来という現在、本来的時間性、この現行は一瞬、現在といえば一刹那、現行一刹那ということは世界は一刹那よりない、我々の存在はひといきにあって、息を吸う息の中に人生がある。種子というところに異時、いつでも一年、それが異時、連続一念を引延ばすのが多念でない。いつでも一念ということが多念、種子と現行は論理的意味でない。存在の因果であるが、併しそれはただ異時でない、ただ同時でない、時間というものは存在の時間、時間的在り方をして存在しているものは種子現行。種子は本願、現行は大行、本願の現行を通して本願にかえる、現行を通して本願に目ざめる。

 後序では時間というものが何月何日という暦の形であらわされている。前序の方では時というものが劫というようなものを単位にしている時間で現されている。億劫、多生曠劫、一方は日常時間、一方は神話的時間、これによって日常的時間というものが単に日常的でない。神話的時間という意味をもっているとともに、神話的時間はまた日常的時間として具体化されている。こういうように意味と意味の充足、そういう関係で両者がつながっている。こういう意味で時間、時というものの意識というものが現されている。つまり本願の時間というものが、こういう形で日常的であるとともに神話的であるという形で、本願の時間というものが現されているところに意義をもっている。

                                    (つづく)


『下総たより』 第三号 『再会』 その(4) 安田理深述

2012-06-04 21:34:53 | 『下総たより』 第三号 『再会』 安田理

 「そういう意味で非常に信仰は受動、他力にせしめられるとかさせられるとか受動性が好きで、信ずといわん、信ぜしめられると女性的表現ばかり、そうでない。信というものは極めて能動的、その能動は受動を通した能動、受動を通して最も積極的能動になる。能動というものは本願の教を信受すればそれによって本願にかえる、能動、つまり本願をうばってくる。本願に助けられて助けられた本願を助ける、それが能動、本願に動かされて本願を動かす、功徳大宝海、それを信がうばってくる。南無阿弥陀仏の大行によって南無阿弥陀仏の主となる、主体性を現わす。その主体性をあらわす場合を欲生という、受動をあらわす場合は至心、信仰の中に至心信楽欲生、至心は受動、それは真実信心、それをやめて欲生でない。それを通して欲生、つまり本願を向こうにおいているのが受動、本願になる訳です。そういうところに真に積極性、絶対自由、信ずるということは絶対自由性ということが大切、『歎異抄』に「念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなり。」 お前等の勝手にせよという意味でない、信ずるだけは強制することは出来ん、非常に大切な点です。真宗以外は強制である、絶対自由それをあらわすのは宿業、絶対受動を通して、つまり取捨選択、選択本願の絶対自由を自己自身の中にあらわしてくるのが信心、至心の方は疑いようのないというのが至心、現実です。行には疑いがない、現行しているのだから、疑いようのない真実、そこに絶対自由というものを自覚してくる。主体を自覚してくる。本願に遇うたら本願に立つ、そこに疑いも自由である。後悔せんとか唯除五逆も覚悟の前だということも出てくる。

 我々が心ずることが出来るのは強制でない、それを疑ってみることも出来る、だから信ずることも出来る。受動を転じて能動に立つという、その媒介になるものが行です。行によって受動をやめて能動になるのでない、行によってたまわった信なるが故にまた行を動かす、絶対自由は自覚である。行の方は歴史、我々が信ずるということの中には歴史がある。歴史というものの中から自覚が生まれる、行は歴史的自覚というものである。」   (『再会』第一講完了) 次回日曜日から「追記」を配信します。