安田理深先生の 『再会』 追加 三 を記述します。
「ものが起こってくるというのが未来から起こってくる、可能的なものが現実的になる。過去の方はもののあり方を過去がきめる、もののあり方は運命、それをきめるのが業、現在に重なりあっている。未来の方は、可能性としてあるものが現在となるためには業というものが媒介となる、宿業を縁としてものは現象してくる。自分の存在を考えても、私の存在が私という形をとっているのも業縁によるのである。併し私の存在に於ける存在そのものは無限である。私は無限の可能性をもっている。
私が今経験するのは一つの経験であるが、他の経験もできるという可能性がある訳です。現実には一つだけが出来て他は永遠に可能性に止まって、われわれが一切を経験しているのでなくして、一切を経験できる可能性をもっているのであるが何かに限定されている。その限定しているものは業、その中にあってある可能性を経験している、われわれは一切のことが出来るのであるが、併しその中に一つだけ出来て他は可能性に止まっている。限定されなかったことは無くなったのでなくして可能性としてある。ものの起こる時間は可能性が現実性となる時間、それが未来から現在となる、ものの起こるのは可能性が現実性になる時間で業の逆である、業の方は過去から現在、現在から未来、可能性を現実性たらしめるものは過去の業縁、未来から現在へという未来は、過去から未来へというような現在に重なってある、現在の業が未だ現れない未来を約束してしまう。業の方は存在するものを存在せしめる条件である、存在の条件を縁というのである。
それは業の果を受ければ果は消える、支払いを終わる訳である。支払いを終わる中にまた新しく業が作られている、支払いと約束手形の発行が同じ、われわれが生まれて生きることは過去の業に対する支払いである。無限に業の因果が繰り返し反復する、無限に反復する、それを流転というのである。業の因果が無限に繰り返される、われわれの在り方は業縁によってきめられるけれども、あり方によってあらしめられる可能性は現実性と同じものである。たとえば音の可能性が音になって音を聞く現実性になるのだから、可能性も現実性も変わりはない、けれども音のある境遇が変わってくる、m人間とか一々変わる、境遇に於て経験するものはどんな境遇のものも共通、音を経験しても音はなくならん、業は支払えばなくなるけれども、存在は経験すれば経験するほど可能性と現実性が交互的になる、可能性と現実性は円環的になる、存在の存在性は無限のものであるが、無限の存在を業縁によって有限に限定する。併し存在は無限のものである、存在の中にあって存在の運命を決定するものが業縁、業というものが非常に大きい位置をもっている、業の存在の中にある存在の運命を決定するものが業の因縁である。」 (完)
昭和48年5月1日より文明堂より発刊されました「下総たより 3号」より転載しました。