ちょっと間があきました。『成唯識論』を初めから少しづつ読み直しているのですが、、先ず初めに気づかされたことが有ります。それは「我」についてなのです。私たち真宗門徒にとって天親菩薩の『浄土論』は大切な聖教として経に匹敵する重さをもったものとして敬っています。その帰敬序に「世尊我一心」と表白されていますが、曇鸞大師『浄土論註』で「仏法の中には我は無し、此の中に何を以てか我と称するや」と問いを立てられました。そして「答えて曰く」なんですが、これは僕の思い過ごしだと思いますが、『成唯識論』に「諸所執我略有三種」(諸々の所執の我に三種有り)と、我の三種を挙げて、これもまた『倶舎論』破我品を受けて「我の三種は理に非ず」と破斥しているわけです。
曇鸞大師は我の三種を「邪見語・自大語」にまとめて、破我を「流布語」として無我、自己とは縁起によって仮に存在する者と明らかにされたのではないのかなと思ったことです。
ボチボチ読んでいく中で気づきがあれば書き込みます。それは違うと教えていただければ嬉しいです。
今日は第三の応非有情難についてです。
滅尽定で識が滅してしまったならば有情ではないであろうという点からの論破になります。識は身を離れずですね。
「又此の位の中には、若し全に識無しといはば、瓦礫の如く、有情数に非ざるべし、豈説いて滅定に住せる者と為ることを得んや。」(『論』第四・四左)
またこの位(滅尽定中)の有情は、ものまったく識が滅してしまって無いというのであれば、それは瓦礫のように有情とはいえないであろう。このように(瓦礫のような存在であると)説いて、どうして滅定に住む者といえるのか、いえないであろう。何故なら、識の無い瓦礫のような非生物は命ある有情ではないからである。)
本科段は滅尽定中であっても有漏の有情は識が有るということなんですね。有部の主張は識も滅すると説いているわけですから唯識から見れば瓦礫のような存在になるということになります。修行を積んで滅尽定まで来たら有情ではなくなるということになります。それでは仏果を得ることが出来なくなりますね。
大切なことを教えてくれています。