唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 滅尽証(14)応非有情難

2018-01-10 20:43:11 | 阿頼耶識の存在論証
 
 ちょっと間があきました。『成唯識論』を初めから少しづつ読み直しているのですが、、先ず初めに気づかされたことが有ります。それは「我」についてなのです。私たち真宗門徒にとって天親菩薩の『浄土論』は大切な聖教として経に匹敵する重さをもったものとして敬っています。その帰敬序に「世尊我一心」と表白されていますが、曇鸞大師『浄土論註』で「仏法の中には我は無し、此の中に何を以てか我と称するや」と問いを立てられました。そして「答えて曰く」なんですが、これは僕の思い過ごしだと思いますが、『成唯識論』に「諸所執我略有三種」(諸々の所執の我に三種有り)と、我の三種を挙げて、これもまた『倶舎論』破我品を受けて「我の三種は理に非ず」と破斥しているわけです。
 曇鸞大師は我の三種を「邪見語・自大語」にまとめて、破我を「流布語」として無我、自己とは縁起によって仮に存在する者と明らかにされたのではないのかなと思ったことです。
 ボチボチ読んでいく中で気づきがあれば書き込みます。それは違うと教えていただければ嬉しいです。
 今日は第三の応非有情難についてです。
 滅尽定で識が滅してしまったならば有情ではないであろうという点からの論破になります。識は身を離れずですね。
 「又此の位の中には、若し全に識無しといはば、瓦礫の如く、有情数に非ざるべし、豈説いて滅定に住せる者と為ることを得んや。」(『論』第四・四左)
 またこの位(滅尽定中)の有情は、ものまったく識が滅してしまって無いというのであれば、それは瓦礫のように有情とはいえないであろう。このように(瓦礫のような存在であると)説いて、どうして滅定に住む者といえるのか、いえないであろう。何故なら、識の無い瓦礫のような非生物は命ある有情ではないからである。)
 本科段は滅尽定中であっても有漏の有情は識が有るということなんですね。有部の主張は識も滅すると説いているわけですから唯識から見れば瓦礫のような存在になるということになります。修行を積んで滅尽定まで来たら有情ではなくなるということになります。それでは仏果を得ることが出来なくなりますね。
 大切なことを教えてくれています。

雑感

2018-01-07 17:58:02 | 雑感

 友に、唯識の誤解を解くために敢てメッセージを送ります。
 最近彼を通して自分は本当に正しい道を歩んでいるのだろうかと教えられています。教義依存症という目的喪失症に陥っていないのか。自分は正しいという自己埋没の闇の中を彷徨っているのではないのかという声が聞こえてきます。
 それは存在と実体についてですが、唯識無境という命題に対して、唯識を読み解いていないという問題と、無境という無に囚われて、存在が何も無いという虚無の思いに陥っているのではないのかという問題です。
 唯識は非常に際どいところを誤解を恐れずに「ただ識のみ有って、境(対象)は無い」と教えています。
 実体としての対象は何もなく、それは我が心が捉えた映像に過ぎないと教えているわけですね。
 存在そのもが無いとは云っていないのです。存在は有る、しかし存在そのものを認識はしていない。認識は心の映像にしか過ぎないのです。
 他者との関係においても、自分が認識している他者は何処にも存在しない、存在していると思っているのは、自分の思いを映像化した実体に過ぎない。この実体化が迷いなのだと教えているわけです。
 あいつは駄目だ、あいつはあかんという存在は何処にもいない。存在そのものは無記なる者、有漏にする主体の染汚性が他者を抹殺する原動力になっているのですね。
 何を思ってもいいですが、その思いは自分の心の影だと頷けるのかということなんでしょう。
 過去の集大成としての現在。現在を出発点としての未来。誤魔化さない生き方が未来への展望を開かせてくれるのですね。
 誤魔化すな。すり替えるな。どんなに他を恨んでも、それはまやかしだと。南無