- 釈尊伝 -
(70) 現代の問題
結局、合理主義というものは、そういうふうにいかにも人間を解放するがごときたてまえをもって進んでくるわけですけれども、かえってそのために今までもっていたところの自由までもなくするという結果が、今日における人間の問題となってでてきているということです。こういうことを普通どう考えるか。とにかくそれを解決しようと、その矛盾をなくしようとしての闘いということが各地に起こっているわけでしょう。しかし、その闘いの方法は、依然として合理主義です。合理主義に反対するのは、不合理主義しかない。ところが不合理は主義というわけにはいかんのです。不合理主義などという主義は、これは主義にならないのです。自分は不合理主義だということはデタラメということであって、デタラメなどできるものじゃないのです。それは頭の中で考えるだけで、今までは足で歩いたけれども、これから手で歩くといったところで、そんなことができるわけがありません。手で歩くと思うだけ思いましても、そういうことはできるわけがない。ですから依然として、合理主義に対して行うのは、合理主義をもってするということしかない。しかし、それは名前は合理主義だけれども、やることはデタラメよりほかにやりようがないということです。つまりそこにいろいろの展望というものが成りたたないということが、現実社会の問題であります。
こういう問題を、そこに問題として取りあげたのが釈尊の問題です。つまり釈尊が問題としたところでありまして、そこからみませんと、仏教でどうにかできるように思い、仏教ではそれに対してどうか、などと考えだすのです。それはもう時代遅れです。もうすでに対象化されてしまっていて、せいぜいキリスト教は不合理だから、また仏教は合理だからと西洋人がいう。科学者も仏教の方がキリスト教よりは合理的なものだということを頼りにして、仏教は科学と矛盾しないのだといっている。そういう仏教というものは、対象的な、客体的な動かない仏教であります。庭に置いてある石灯籠のようなものです。石灯籠は合理的です。動かないのですから・・・・・・・・。
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第三能変 受倶門 護法正義その理由を述べる
「偏注(へんじゅ)の境の於には一の受を起すが故に、偏注無きときには、便ち捨を起すが故に。斯に由って六識には、三の受倶にある容し」(『論』)
偏注 - (六識三性容倶の項で説明されていますので参照してください) 五識の認識の強力なことを偏注という。
(意訳) 偏注の境に対しては一つの受を起すからである。偏注がないときには、捨を起すからである。以上に由って、六識には、三の受が倶にあることが分かる。但し、注意が必要なのは一識に三受が並存するということではない、ということです。
果位の受倶(仏位における受倶について)
「自在を得つる位には、唯楽と喜と捨とのみあり、諸仏は已に憂苦の事を断じたまへるが故に」(『論』)
「(正しく文を釈す)此れが中に果位をいう、謂く仏に成る時、或いは転じて無漏を得るときに、初地にして即ち得る。唯楽と喜と捨となり。・・・」(『述記』)
(意訳) 得自在位とは、仏位のことで、この位には、ただ楽受と喜受と捨受のみがある。なぜならば、諸仏は、すでに憂受や苦受の事を断じているからである。
「前(さき)に略して標する所の六位の心所において、今広く彼の差別の相を顕す応し」(『論』)
(意訳) 前に略して説明をしてきた六位の心所について、今まさに詳しく個別の相を明らかにする。前所略標は三段九義中・心所相応門の略標六位にあたります。