「彼れに十種有り、此れには何ぞ唯四のみある。」(『論』第四)
(彼(根本煩悩)には十種ある。此れ(第七末那識)にはどうしてただ四つの煩悩のみがあるのか?)
「我見有るが故に余の見生ぜず、一心の中には二の慧有ること無きが故に。」(『論』第四)
(我見があるために、他の見は生じないのである。一心の中、即ち一つの識の中に二つの慧が生起することはないからである。)
「如何ぞ此の識に要ず我見しも有る。」(『論』第四)
(どうしてこの識にはかならず我見が存在するのか。)
「二取と邪見とは但分別生なり、唯見所断なり。此れと倶なる煩悩は唯是れ倶生なり、修所断なるが故に。」(『論』第四)
(二取(見取見・戒禁取見)と邪見とはただ分別生、分別起の煩悩であり、ただ見所断の煩悩である。しかし第七末那識と倶である煩悩はただ倶生起のものである。何故ならば第七末那識と相応する煩悩は修所断の煩悩であるからである。だから見取見・戒禁取見・邪見は第七末那識と相応する煩悩ではない。)
注
見所断 - 見道所断ともいい、見道において断じられるものをいう。分別起の煩悩は真理を見ることに於て断じられるものである。見取見と戒禁取見と邪見とは見所断の煩悩である。
修所断(しゅしょだん) - 修道所断ともいい、修道に於て断じられるものをいう。倶生起の煩悩は修道で断じられる。第七末那識と相応する煩悩は修所断の煩悩である。「金剛喩定に方に能く断ずといえるが故に」と。第七末那識相応の煩悩は「無始より未転依に至るまで此の意は任運に恒に蔵識と縁じて四つの根本煩悩と相応する」と述べられていますように、未転依である間は金剛喩定までは四煩悩と相応している。
「我所と辺見とは我見に依って生ず。此れと相応する見は彼に依って起こらず、恒に内に我有りと執す。故に要ず我見あり。」(『論』第四)
(我所(見)と辺見とは我見に依って生じる。しかし第七末那識と相応する見は我見に依って起こるものではない。何故ならば第七末那識と相応する見は恒に内に我が有ると執着するからである。その為に第七末那識にはかならず我見が有る。)
「見いい審に決するに由って疑起る容きこと無し。愛いい我に著するが故に瞋生ずることを得ず。故に此の識と倶なる煩悩は唯四のみなり。」(『論』第四)
(我見は認識対象が何であるのかを審らかに決するものであるから、我見と倶に疑は起こることはない。疑の行は猶予(因果の理の存在を疑い猶予する心をいう。決断できずあれこれとまようこと)であるから相応しないのである。愛(貪)は我に執着するものであるから愛(貪)と倶に瞋は生じることは出来ない。この故に第七末那識と倶である煩悩はただ四のみである。)
「見と慢と愛との三いい如何ぞ倶起する。」(『論』第四)
(見と慢と愛(我見と我慢と我愛)との三つはどうして相応することができるのか。)
「行相違すること無し、倶起すというに何の失かあらむ。」(『論』第四)
(見と慢と愛の行相が相違しないからである。従って、見と慢と愛が倶起するということに、何の過失があるのであろうか、ないはずである。)
「瑜伽論に説かく、貪は心をして下なら令め、慢は心をして挙なら令むという、寧ぞ相違せざるや。」(『論』第四)
(『瑜伽論』に説かれているのは、「貪は心をして下ならしめ、慢は心をして挙ならしめる」という。にもかかわらず、どうして貪と慢の行相は相違していないというのであろうか、相違しているではないのか。)
「分別・倶生と外境・内境と所陵(しょりょう)・所恃(しょじ)と、麤・細と、殊なること有るをもっての故に、彼此の文いい義、乖返(かいへん)すること無し。」(『論』第四)
語句説明
•所陵(しょりょう)の境 - 陵はあなどること。見下しあなどる対象。
•所恃(しょじ)の境 - 恃はおごること。恃む認識対象。
•陵恃(りょうじ) - 他人を見下し、自己をおごり、たよりとすること。
•乖返(かいへん) - 論理的に矛盾していること。
((1)分別と倶生との別。 (2)外境と内境との義の別 (3)所陵と所恃との境の別 (4)麤と細との行相の別という四義の別によって貪と慢は相応する場合と、相応しない場合とがある。彼と此れとの文は意味が論理的に矛盾しているわけではない、相違はしていないのである。)
四義の説明
煩悩の相応・不相応を述べる四つの義は、
1.分別と倶生の別 - 分別起のものか倶生起のものかで相応・不相応の別が生じるということ。 「一には分別と倶生との二種別なるが故に。謂く五十五(五十八の誤り)には分別を説けり。五十八(五十五の誤り)には倶生を説けり。分別の者は唯見断なり。又分別は未だ必ずしも唯見断にはあらず。即ち修道の中にも強く分別して生じ、相続せざる者ならば亦是れ類なるが故に、分別して起こるが故に、煩悩増猛なるは貪は下にして慢は挙す。故に二つ相違せり。倶生起の者は微細にして相続す。故に相応することを得。」(『述記』)と述べられ、分別起の煩悩は増猛であるから互いに相違し相応することはないということであり、倶生起の煩悩は微細であり任運に相続するために、互いに相違しないで相応するのである。尚、貪と慢は分別起のものと倶生起のものとの両方がある煩悩である。その他、貪・慢と瞋・癡・身見・辺見とがある。ただ分別起の煩悩としては疑・邪見・見取見・戒禁取見が数えられる。 また分別起の煩悩は見断であるが、必ずしも見断のみではなく、修道の中にも強く分別して生じるものは修道において断じるのである、と。
2.外境と内境の別 - 外境を認識する時は、貪染して愛を生ずるときには必ず心を下す、しかし慢を生ずる時は卑下することはない。たとえ卑慢であっても貪と相応するすることはないのである。また第八阿頼耶識の見分(内境)を縁じるならば、自らを愛することによって心は卑下せず、第八阿頼耶識を縁じて慢を起こす時には自ら高ぶるのでこの両者は相応するのである、という。 「外境と内境との二義別なるが故に。若し外境を縁ずるは多分見断なり。または修断にも通ず。貪染して愛を生ずるときには心必ず之に下す。此れは見・修に通ず。若し彼(外境)が於に慢ずるときは即ち卑下せざるが故に。設い卑慢なれども亦貪と相応すとは許さざるが故に。若し内身(第八阿頼耶識の見分)を縁じて境とするは、自を愛するを以ての故に心卑下せず。之を縁じて慢を起こすときは自ら高ぶるを以ての故に、二相応することを得。五十五(五十八の誤り)は外に約すといい、五十八(五十五の誤り)等は内に約していう。(『述記』)
3.所陵と所恃との二境の別 - 「若し彼を陵いで慢を起こすの時は必ずしも愛を起こさず。故に二相違せり。若し自ら恃んで愛を起こすときは心必ず高挙す。或は他をも陵ぐが故に、故に貪・慢相応することを得。並に見・修断に通ず。」(『述記』)他を見下して慢を起こす時には、同一の対象に対して愛は起こさないが、自らをおごって愛を起こす時は必ず自らを高挙する、或いは他をも見下すから「所恃の境」に対しては貪と慢は相応する。
4.麤と細との行相の別 - 煩悩の行相の麤と細によって相応する・相応しないことが生じる。「麤にして猛利なる者は相応せずと説く。二の麤は行相相違返せるが故に。若し細ならば相応す可し。此の二が行相は相違せざる故に見・修断に通ず。」(『述記』 行相が麤であり猛利(みょうり-はなはだしいこと)な煩悩同士は行相が相違するので相応しない。しかし行相が細である煩悩は行相が相違しないので相応するという。そしてこの貪と慢の行相が麤であるときは相応しないが、細であるときには相応すると述べられている。
以上を以て護法は、第七末那識と相応する煩悩は我癡・我見・我慢・我愛の四つのみであり、他の煩悩は第七末那識と相応しないこと、そして四煩悩同士は相応することを述べてきました。
(彼(根本煩悩)には十種ある。此れ(第七末那識)にはどうしてただ四つの煩悩のみがあるのか?)
「我見有るが故に余の見生ぜず、一心の中には二の慧有ること無きが故に。」(『論』第四)
(我見があるために、他の見は生じないのである。一心の中、即ち一つの識の中に二つの慧が生起することはないからである。)
「如何ぞ此の識に要ず我見しも有る。」(『論』第四)
(どうしてこの識にはかならず我見が存在するのか。)
「二取と邪見とは但分別生なり、唯見所断なり。此れと倶なる煩悩は唯是れ倶生なり、修所断なるが故に。」(『論』第四)
(二取(見取見・戒禁取見)と邪見とはただ分別生、分別起の煩悩であり、ただ見所断の煩悩である。しかし第七末那識と倶である煩悩はただ倶生起のものである。何故ならば第七末那識と相応する煩悩は修所断の煩悩であるからである。だから見取見・戒禁取見・邪見は第七末那識と相応する煩悩ではない。)
注
見所断 - 見道所断ともいい、見道において断じられるものをいう。分別起の煩悩は真理を見ることに於て断じられるものである。見取見と戒禁取見と邪見とは見所断の煩悩である。
修所断(しゅしょだん) - 修道所断ともいい、修道に於て断じられるものをいう。倶生起の煩悩は修道で断じられる。第七末那識と相応する煩悩は修所断の煩悩である。「金剛喩定に方に能く断ずといえるが故に」と。第七末那識相応の煩悩は「無始より未転依に至るまで此の意は任運に恒に蔵識と縁じて四つの根本煩悩と相応する」と述べられていますように、未転依である間は金剛喩定までは四煩悩と相応している。
「我所と辺見とは我見に依って生ず。此れと相応する見は彼に依って起こらず、恒に内に我有りと執す。故に要ず我見あり。」(『論』第四)
(我所(見)と辺見とは我見に依って生じる。しかし第七末那識と相応する見は我見に依って起こるものではない。何故ならば第七末那識と相応する見は恒に内に我が有ると執着するからである。その為に第七末那識にはかならず我見が有る。)
「見いい審に決するに由って疑起る容きこと無し。愛いい我に著するが故に瞋生ずることを得ず。故に此の識と倶なる煩悩は唯四のみなり。」(『論』第四)
(我見は認識対象が何であるのかを審らかに決するものであるから、我見と倶に疑は起こることはない。疑の行は猶予(因果の理の存在を疑い猶予する心をいう。決断できずあれこれとまようこと)であるから相応しないのである。愛(貪)は我に執着するものであるから愛(貪)と倶に瞋は生じることは出来ない。この故に第七末那識と倶である煩悩はただ四のみである。)
「見と慢と愛との三いい如何ぞ倶起する。」(『論』第四)
(見と慢と愛(我見と我慢と我愛)との三つはどうして相応することができるのか。)
「行相違すること無し、倶起すというに何の失かあらむ。」(『論』第四)
(見と慢と愛の行相が相違しないからである。従って、見と慢と愛が倶起するということに、何の過失があるのであろうか、ないはずである。)
「瑜伽論に説かく、貪は心をして下なら令め、慢は心をして挙なら令むという、寧ぞ相違せざるや。」(『論』第四)
(『瑜伽論』に説かれているのは、「貪は心をして下ならしめ、慢は心をして挙ならしめる」という。にもかかわらず、どうして貪と慢の行相は相違していないというのであろうか、相違しているではないのか。)
「分別・倶生と外境・内境と所陵(しょりょう)・所恃(しょじ)と、麤・細と、殊なること有るをもっての故に、彼此の文いい義、乖返(かいへん)すること無し。」(『論』第四)
語句説明
•所陵(しょりょう)の境 - 陵はあなどること。見下しあなどる対象。
•所恃(しょじ)の境 - 恃はおごること。恃む認識対象。
•陵恃(りょうじ) - 他人を見下し、自己をおごり、たよりとすること。
•乖返(かいへん) - 論理的に矛盾していること。
((1)分別と倶生との別。 (2)外境と内境との義の別 (3)所陵と所恃との境の別 (4)麤と細との行相の別という四義の別によって貪と慢は相応する場合と、相応しない場合とがある。彼と此れとの文は意味が論理的に矛盾しているわけではない、相違はしていないのである。)
四義の説明
煩悩の相応・不相応を述べる四つの義は、
1.分別と倶生の別 - 分別起のものか倶生起のものかで相応・不相応の別が生じるということ。 「一には分別と倶生との二種別なるが故に。謂く五十五(五十八の誤り)には分別を説けり。五十八(五十五の誤り)には倶生を説けり。分別の者は唯見断なり。又分別は未だ必ずしも唯見断にはあらず。即ち修道の中にも強く分別して生じ、相続せざる者ならば亦是れ類なるが故に、分別して起こるが故に、煩悩増猛なるは貪は下にして慢は挙す。故に二つ相違せり。倶生起の者は微細にして相続す。故に相応することを得。」(『述記』)と述べられ、分別起の煩悩は増猛であるから互いに相違し相応することはないということであり、倶生起の煩悩は微細であり任運に相続するために、互いに相違しないで相応するのである。尚、貪と慢は分別起のものと倶生起のものとの両方がある煩悩である。その他、貪・慢と瞋・癡・身見・辺見とがある。ただ分別起の煩悩としては疑・邪見・見取見・戒禁取見が数えられる。 また分別起の煩悩は見断であるが、必ずしも見断のみではなく、修道の中にも強く分別して生じるものは修道において断じるのである、と。
2.外境と内境の別 - 外境を認識する時は、貪染して愛を生ずるときには必ず心を下す、しかし慢を生ずる時は卑下することはない。たとえ卑慢であっても貪と相応するすることはないのである。また第八阿頼耶識の見分(内境)を縁じるならば、自らを愛することによって心は卑下せず、第八阿頼耶識を縁じて慢を起こす時には自ら高ぶるのでこの両者は相応するのである、という。 「外境と内境との二義別なるが故に。若し外境を縁ずるは多分見断なり。または修断にも通ず。貪染して愛を生ずるときには心必ず之に下す。此れは見・修に通ず。若し彼(外境)が於に慢ずるときは即ち卑下せざるが故に。設い卑慢なれども亦貪と相応すとは許さざるが故に。若し内身(第八阿頼耶識の見分)を縁じて境とするは、自を愛するを以ての故に心卑下せず。之を縁じて慢を起こすときは自ら高ぶるを以ての故に、二相応することを得。五十五(五十八の誤り)は外に約すといい、五十八(五十五の誤り)等は内に約していう。(『述記』)
3.所陵と所恃との二境の別 - 「若し彼を陵いで慢を起こすの時は必ずしも愛を起こさず。故に二相違せり。若し自ら恃んで愛を起こすときは心必ず高挙す。或は他をも陵ぐが故に、故に貪・慢相応することを得。並に見・修断に通ず。」(『述記』)他を見下して慢を起こす時には、同一の対象に対して愛は起こさないが、自らをおごって愛を起こす時は必ず自らを高挙する、或いは他をも見下すから「所恃の境」に対しては貪と慢は相応する。
4.麤と細との行相の別 - 煩悩の行相の麤と細によって相応する・相応しないことが生じる。「麤にして猛利なる者は相応せずと説く。二の麤は行相相違返せるが故に。若し細ならば相応す可し。此の二が行相は相違せざる故に見・修断に通ず。」(『述記』 行相が麤であり猛利(みょうり-はなはだしいこと)な煩悩同士は行相が相違するので相応しない。しかし行相が細である煩悩は行相が相違しないので相応するという。そしてこの貪と慢の行相が麤であるときは相応しないが、細であるときには相応すると述べられている。
以上を以て護法は、第七末那識と相応する煩悩は我癡・我見・我慢・我愛の四つのみであり、他の煩悩は第七末那識と相応しないこと、そして四煩悩同士は相応することを述べてきました。