唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (24)九難義 (4) 唯識所因 (3)

2016-05-30 21:46:08 | 『成唯識論』に学ぶ


  愛結(アイケツ)とは、有情を繋縛して三界において生死流転せしめる五結・九結の一つで、貪結とも云う。結は煩悩の異名でもあります。「繋縛の義、合苦の義、雑毒の義、是れ結の義なり」と。(『婆沙論』大正27・258a)
 尚、『瑜伽論』巻第八十四の第六門に煩悩を釈す一段があり、そこで五種の結について詳細されています。(参考、大正30・769c~)
 煩悩は心を束縛し、苦と結合し、心を毒することから結といわれています。自らが自らを縛ってくるのが煩悩です。煩悩は外からやってくるものではありません。外縁なんですね。もっと言えば、外縁も自らが招来したものなんです。外縁に触れて、自らが、自らの欲求に応じてさまざまな煩悩を引き起こしてくるのです。これが凡夫の性なんです。
 自分の思いに執われて苦悩しているわけですから、自分の思いを捨てなさい、そうしたら楽になれますよ、と云われてもですね、自分の思いに執われているのを本性としているのですから、捨てられん自分に出遇うしかないんでしょうね。なんでもかんでも人ごとにしている自分に遇うということですね。
 では何故捨てられんのかですね。捨てられん理由を徹底的に明らかにし、すべては我が心の影像であると明らかにしているのが唯識なんです。そして捨てられんという、捨てられんそのまま救済される法を明らかにされたのが親鸞聖人なんですね。「無慚無愧の我が身にて」という自分中心でしか生きていくことが出来ないと云う悲心が、時空を超え「勿体(もったい)なや祖師は紙衣(かみこ)の九十年」(句仏上人)という法義相続を生み出してきたのが浄土真宗なんでしょう。

 「唯心」と云うは、心と識と、是れ一なり。唯の言は所執の境の義を遣(ヤ)らんが為なり。彼(所執の境)無きによるが故に、能取もまた無し。心所を遮せず。相離せざるが故に。若し心所無ければ、心は未だ會て転ぜざるが故に。三界唯心の言は即ち三界唯識ということを顕す。即ち欲等、愛結と相応し、三界に随在すといえり。即ち三界の貪等の結に属するなり。」(『述記』)
 
 「又説かく、所縁は唯識の所現のみなりと」とは、解深密経(第三)の文なり。即ち七十七の説もこの意に同なり。汝が識の外の所縁というを、我は即ちこれ内識が上の所現なり、実の外法は無しと説くなり。」
 『解深密経』(ゲジンミッキョウ)はう唯識の根本経典になります。その中に「所縁は唯識の所現のみなりと」と説かれているのです。所縁は対象、対象は対象として実体的にあるのではなく、ただ心の現われにしかすぎない、心が対象を見ているのだということ。私は、外界を見ているようですが、私の心のフイルムを外界というスクリーンに映しだして、自分で自分の心を見ているのです。

 「世親は説いて云く、『摂論第四』に、謂く識が所縁は唯識の所現なり。別の境の義は無し。また識をあげることは、我が所説の定めて識所行は唯識の所現のみなし。別に体有ること無しということを顕す。」(以上『述記』より抜粋)
 
 参考文献として『述記』本文を記します。
 「論。如契經説至唯識所現 述曰。四論主釋。初答教。後顯理。教中初列六文。後方總指 三界唯心。即十地經第八卷第六地文1花嚴所説。世親攝論第四無解。無性第四廣解十地經名・體。言唯心者。心・識是一。唯言爲遣所取境義。由彼無故能取亦無。不遮心所。不相離故。如説若無心所心未曾轉。三界唯心之言。即顯三界唯識。即與欲等愛結相應墮在三界。即屬三界貪等結。此唯識言無有横計所縁。不遣眞如所縁。依他所縁。謂道諦攝根本・後得二智所縁。不爲愛所執故。非所治故。非迷亂故。非三界攝。亦不離識故不待説。非無無漏。及無爲法 若爾欲・色二界可説唯心。是則言二界唯心。何故復言無色唯心。以小乘等多計彼唯識故。有立已成 此不然也。非但色無。亦無貪等能取之心。故亦無餘虚空等識所取義。又經部執無色心等是無色無體。無實所取境義顯現所依。恐彼執爲非心等故説三界唯心。此即唯心義意如是又前二師有二翻解。此擧能起執虚妄心故但言三界。不爾無漏應非唯識 又説所縁唯識所現者。解深密經文。即七十六説同此意。汝謂識外所縁。我説即是内識上所現無實外法。世親説云。謂識所縁唯識所現無別境義。復擧識者顯我所4現定識所行。唯識所現無別有體。乃至佛告慈氏。無有少法能取少法。無作用故。但法生時縁起力大。即一體上有二影生。更互相望不即不離。諸心・心所由縁起力其性法爾如是而生。如質爲縁等。此中略擧 (『述記』大正43・488b)

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (23)九難義 (3) 唯識所因 (2)

2016-05-29 11:01:36 | 『成唯識論』に学ぶ
  

 三界唯心
 「三界唯心と云うは、即ち十地経の第八巻第六地の文、華厳の所説なり。世親の摂論の第四に解すること無し。無性の第四に広く十地経の名と体とを解せり。唯心と言うは、心と識と是れ一なり。」(『述記』第七末・八右)
 私たちの住んでいる世界は欲望に満ち溢れた処ですが、いいように解釈しますと、色界や無色界にも居場所があると思っています。しかし、三界は心が作り出したもので、それ以外に三界を構成する要素はないと説いているのです。
 教証が示されます。
 『十地経』の第八巻第六地の文。これは『華厳経』の所説である。『十地経』の名体については無性摂論の第四に広く解釈がある。

 『無性摂論釈』第四の冒頭に、三種の相が説かれてきます。
 『論』 「已に所知の依を説けり。所知の相は復云何が応に見るべきや。此れに略して三種有り、一に依他起相、二には遍計所執相、三には円成実相なり。・・・」
 『釈』 「一切の法は、要ず応に知るべき所と、応に断ずべき所と、応に証すべき所との差別有るが故なり。
    「依他起相」とは、謂く、業と煩悩と所取と能取と遍計の随念との他に依りて起ることを得るが故なり。・・・」
 『論』 「此の中何者が依他起相なりや。謂く阿頼耶識を種子と為す虚妄の分別に摂する所の諸識なり。・・・此の諸識に由りて一切の界趣の雑染に摂せらるる依他起相の虚妄の     分別は皆顕現することを得。此の如く諸識は皆是れ虚妄なる分別の摂する所にして、唯識の身を性と為す。是れ所有無く真実に非ざる義の顕現する所依なり。是の如きを     名けて依他起相と為す。・・・」
 『釈』 「(自他差別識は)、染汚の意の我見熏習を因と為して変現すればなり。・・・諸識は所取能取の虚妄の分別にて安立するを性と為す。・・・邪分別に由りて二分顕現す     れば、亦、唯是れ識のみなり。・・・此の二(所取能取)は皆是れ遍計所執にして、並びに名けて義と為す。虚妄の分別に摂せらるる諸識は、是れ此の二種の顕現する因     縁なるが故に「所依」と名く。・・・阿頼耶識を種子と為す等の如きを、皆説いて名けて依他起相と為す。・・・」

 これ等の三種の相二ついて釈しおわって、「教及び理に由って応に比知す可し」という『論』の課題を承け釈文として「『十地経』の中に於て菩薩の十種の地の義を宣説せり。」と広く説かれてきます。
 その中に三界についての記述があります。
 「「三界」と言うは、欲等の愛結(アイケツ)と相応して三界に随在するを謂う。此の「唯識」の言は、唯諸の心心法のみ有りて、三界なる横計(オウケ)の所縁有ること無きを成立(ジョウリュウ)す。・・・故に三界は皆唯心のみ有りと説く。・・・」

 この『釈』が『述記』に「唯心」とは以下引用されています。私たちの住んでいるこの世界は唯心のみであると宣説しているのです。心以外なにもない、と。(つづく)

 聖人のつねのおおせ(『歎異抄』後序より)
 「聖人のつねのおおせには、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と御述懐そうらいしことを、いままた案ずるに、善導の、「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、つねにしずみ、つねに流転して、出離の縁あることなき身としれ」(散善義)という金言に、すこしもたがわせおわしまさず。されば、かたじけなく、わが御身にひきかけて、われらが、身の罪悪のふかきほどをもしらず、如来の御恩のたかきことをもしらずしてまよえるを、おもいしらせんがためにてそうらいけり。まことに如来の御恩ということをばさたなくして、われもひとも、よしあしということをのみもうしあえり。聖人のおおせには、「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。そのゆえは、如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ、如来のあしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもってそらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」とこそおおせはそうらいしか。まことに、われもひともそらごとをのみもうしあいそうろうなかに、ひとついたましきことのそうろうなり。そのゆえは、念仏もうすについて、信心のおもむきをも、たがいに問答し、ひとにもいいきかするとき、ひとのくちをふさぎ、相論をたたかいかたんがために、まったくおおせにてなきことをも、おおせとのみもうすこと、あさましく、なげき存じそうろうなり。このむねを、よくよくおもいとき、こころえらるべきことにそうろうなり。これさらにわたくしのことばにあらずといえども、経釈のゆくじもしらず、法文の浅深をこころえわけたることもそうらわねば、さだめておかしきことにてこそそうらわめども、古親鸞のおおせごとそうらいしおもむき、百分が一、かたはしばかりをも、おもいいでまいらせて、かきつけそうろうなり。かなしきかなや、さいわいに念仏しながら、直に報土にうまれずして、辺地
にやどをとらんこと。一室の行者のなかに、信心ことなることなからんために、なくなくふでをそめてこれをしるす。なづけて『歎異抄』というべし。外見あるべからず。」
 

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (22)九難義 (2) 唯識所因 (1)

2016-05-25 23:27:19 | 『成唯識論』に学ぶ


 「何の教理(キョウリ)に由(ヨツ)てか唯識(ユイシキ)の義(ギ)成(ジョウ)ずるや。豈(アニ)已(スデ)に説(ト)かざるや。説(ト)きしと雖(イエド)も未(マ)だ了(リョウ)せず。他(タ)の義(ギ)を破(ハ)するを以(モッ)て己(オノレ)の義(ギ)便(スナワ)ち成(ジョウ)ずるものには非(アラ)ず。更(サラ)に礭(マコト)に此(コレ)を成(ジョウ)ずる教(キョウ)・理(リ)を陳(ノ)ぶ。契經(カイキョウ)に説(ト)けるが如(ゴト)し。
 三界(サンガイ)は唯心(ユイシン)のみと。」(『論』第七・二十右)
 
 初に唯識所因を難ず。
 問
 「由何教理唯識義成」。
 論主の答
 「豈不已説」。(つまり、第一巻より第二巻に至るまでは理を説き、第二巻の中に、すでに『厚厳経』の二頌を引いて証明しているので、「已説」というのである。)
 問
 「雖説未了~成此教理」。(前に已に略して説いているとはいえ、はっきりとは説かれていない。前に私の主張が論破されているといっても、他の主張を論破することに由って、論破に主眼が置かれていて、己の主張が述べられているとはいえない。更に礭に唯識を成ずる教と理を陳べなければならない。)
 礭(マコト)とは、至実、真実という意味を表します。「此」は唯識を指します。
 先ず、唯識を完成させる教えと真理・道理を陳べる。(初より「故我説一切唯有識無余」に至るまでは、教えに基づいて唯識のまとめをする科段になります。)それより後は理に基づいて唯識のまとめをする科段になります。
 
 論主の釈を述べます。
 「三界唯心」について釈されます。「唯」重い言葉です。 また次回に。

 

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (21)九難義 (1)

2016-05-24 23:41:26 | 『成唯識論』に学ぶ
  

 今日から九難義(くなんぎ)に入ります。

 九難義は、一切不離識に対する疑問、質問が問いとして出され、それに答える科段です。特に第一番目の「唯識所因」は重要な意義を持っています。
初めにテキストを挙げておきます。
 大正蔵経 瑜伽部 31・39a4〜39b08より引用
 「由何教理唯識義成。豈不已説。雖説未了。非破他義己義便成。應更礭陳成此教理。如契經説三界唯心。又説所縁唯識所現。又説諸法皆不離心。又説有情隨心垢淨。又説成就四智菩薩能隨悟入唯識無境。一相違識相智。謂於一處鬼人天等隨業差別所見各異。境若實有此云何成。二無所縁識智。謂縁過未夢境像等非實有境。識現可得彼境既無。餘亦應爾。三自應無倒智。謂愚夫智若得實境。彼應自然成無顛倒。不由功用應得解脱。四隨三智轉智。一 隨自在者智轉智。謂已證得心自在者隨欲轉變地等皆成。境若實有如何可變。二隨觀察者智轉智。謂得勝定修法觀者隨觀一境衆相現前。境若是實寧隨心轉。三隨無分別智轉智。謂起證實無分別智一切境相皆不現前。境若是實何容不現。菩薩成就四智者。於唯識理決定悟入。又伽他説 心意識所縁 皆非離自性 故我説一切 唯有識無餘此等聖教誠證非一。極成眼等識五隨一故如餘不親縁離自色等。餘識識故如眼識等亦不親縁離自諸法。此親所縁定非離此。二隨一故如彼能縁。所縁法故如相應法。決定不離心及心所。此等正理誠證非一。故於唯識應深信受。我法非有空識非無。離有離無故契中道。慈尊依此説二頌言 虚妄分別有 於此二都無 此中唯有空 於彼亦有此 故説一切法 非空非不空 有無及有故 是則契中道此頌且依染依他説。理實亦有淨分依他。」

 (何の教理(キョウリ)に由(ヨツ)てか唯識(ユイシキ)の義(ギ)成(ジョウ)ずるや。豈(アニ)已(スデ)に説(ト)かざるや。説(ト)きしと雖(イエド)も未(マ)だ了(リョウ)せず。他(タ)の義(ギ)を破(ハ)するを以(モッ)て己(オノレ)の義(ギ)便(スナワ)ち成(ジョウ)ずるものには非(アラ)ず。更(サラ)に礭(マコト)に此(コレ)を成(ジョウ)ずる教(キョウ)・理(リ)を陳(ノ)ぶ。契經(カイキョウ)に説(ト)けるが如(ゴト)し。
 三界(サンガイ)は唯心(ユイシン)のみと。
 又(、マタ)説(ト)かく、所縁(ショエン)は唯識(タダシキ)の所現(ショゲン)のみと。
 又(、マタ)説(ト)かく、諸法(ショホウ)は皆(ミナ)心(シン)に離(ハナレ)ずと。
 又(、マタ)説(ト)かく、有情(ウジョウ)は心(シン)に随(シタガッ)て垢(ク)・淨(ジョウ)なりと。
 又(、マタ)説(ト)かく、四智(シチ)を成就(ジョウジュ)せる菩薩(ボサツ)は、能(ヨ)く随(シタガッ)て唯識無境(ユイシキムキョウ)に悟入(ゴニュウ)す。
  一(ヒトツ)には相違識(ソウイシキ)の相(ソウ)をする智(チ)。謂(イワ)く一処(イッショ)に於(オイ)て鬼(キ)と人(ニン)と天(テン)等(トウ)との業(ゴウ)の差別(シャベツ)に随(シタガッ)て所見(ショケン)各(オノオノ)異(イ)なり。境(キョウ)若(モ)し実有(ジツウ)ならば此(コレ)は如何(いかん)ぞ成(ジョウ)ぜん。
  二(フタツ)には無(ム)を所縁(ショエン)とする識(シキ)をする智(チ)。謂(イワ)く過(カ)・未(ミ)と夢境(ムキョウ)と像(ゾウ)等(トウ)との実有(ジツウ)に非(アラ)ざる境(キョウ)   を縁(エン)ずるときに。識(シキ)は現(ゲン)に可得(カトク)なり。彼(カ)の境(キョウ)は既(スデ)に無(ム)なり。余(ヨ)も亦(マタ)爾(シカ)るべし。
  三(ミツ)に自(ミ)ずから無倒(ムトウ)になるべきやとする智(チ)。謂(イワ)く愚夫(グフ)の智(チ)若(モ)し実境(ジッキョウ)を得(ウ)るものならば、彼(カレ)は自然(ジネン)   に無顛倒(ムテンドウ)に成(ナ)るべし。功用(クウユウ)に由(ヨ)らずして解脱(ゲダツを)得(ウ)べし。
  四(ヨツ)には三(サン)の智(チ)に随(シタガッ)て転(テン)ずる智(チ)。
   一(ヒトツ)には自在者(ジザイシャ)の智(チ)に随(シタガッ)て転(テン)ぜるをする智(チ)。謂(イワ)く已(スデ)に心(シン)の自在(ジザイ)を証得(ショウトク)せる者(モノ)は、    欲に随(シタガッ)て地(ジ)等(トウ)を転変(テンペン)して皆(ミナ)成(ジョウ)ず。境(lキョウ)若(モ)し実有(ジツウ)ならば如何(イカン)ぞ変(ヘン)ずべき。
   二(フタツ)には観察者(カンザツシャ)の智(チ)に随(シタガッ)て転(テン)ぜるをする智(チ)。謂(イワ)く勝定(ショウジョウ)を得(エ)て法観(ホウカン)を修(シュ)する者(モノ)は、随    (シタガッ)て一境(イッキョウ)を観(カン)ずるときに衆(シュウ)の相(ソウ)現前(ゲンゼン)す。境(キョウ)若(モ)し是(コ)れ真(シン)ならば寧(ナン)ぞ心(シン)に随(シタガッ)て転   (テン)ぜん。
   三(ミツ)には無分別智(ムフンベツチ)に随(シタガッ)て転(テン)ぜるをする智(チ)。謂(イワ)く実(ジツ)を証(ショウ)する無分別智(ムフンベツチ)を起(オコ)すときには、一切(イッ    サイ)の境相皆現前(キョウソウミナゲンゼン)せず。境(キョウ)若(モ)し是(コ)れ実(ジツ)ならば何(ナン)ぞ現(ゲン)ぜざる容(ベ)き。菩薩(ボサツ)の此(コ)の四智(シチ)を成    就(ジョウジュ)せる者(ヒト)は、唯識(ユイシキ)の理(リ)に於(オイ)て決定(ケツジョウ)して悟入(ゴニュウ)す。
 又(マタ)伽他(カタ)に説(ト)かく、
  心(シン)と意(イ)と識(シキ)との所縁(ショエン)は、皆自性(ミナジショウ)に離(ハナ)るるに非(アラ)ず。故(ユエ)に我一切唯識(ワレイッサイタダシキ)のみ有(ア)りて余(ヨ)は無(ナ)し と説(ト)く。
 此等(コレラ)の聖教(ショウキョウ)の誠証(ジョウショウ)非一(ヒイツ)なり。極成(ゴクジョウ)の眼等(ゲントウ)の識(シキ)は、五(ゴ)の随一(ズイイツ)なるが故(ユエ)に。余(ヨ)の如(ゴト)く、親(シタ)しく自(ジ)に離(ハナ)れたる色等(シキトウ)を縁(エン)ぜず。余識(ヨシキ)も識(シキ)なるが故(ユエ)に眼識等(ゲンシキトウ)の如(ゴト)く、亦(マタ)親(シタ)しく自(ジ)に離(ハナ)れたる諸法(ショホウ)を縁(エン)ぜざるべし。此(コ)の親所縁(シンショエン)は定(サダ)めて此(コレ)に離(ハナ)るるに非(アラ8)ず。二(ニ)の随一(ズイイツ)なるが故(ユエ)に。彼(カ)の能縁(ノウエン)の如(ゴト)し。所縁(ショエン)の法(ホウ)なるが故(ユエ)に。相応法(ソウオウホウ)の如(ゴト)く、決定(ケツジョウ)して心(シン)と及(オヨ)び心所(シンショ)とに離(ハナ)れざるべし。此等(コレラ)の正理誠証非一(ショウリショウジョウヒイツ)なり。故(ユエ)に唯識(ユイシキ)に於(オイ)て応(マサ)に深(フカ)く信受(シンジュ)すべし。
 我(ガ)と法(ホウ)とは有(ウ)に非(アラ)ず。空(クウ)と識(シキ)とは無(ム)に非(アラ)ず。有を(ウ)離(ハナ)れ無(ム)を離(ハナ)れたるが故(ユエ)に中道(チュウドウ)に契(カナ)えり。
 慈尊(ジソン)此(コレ)に依(ヨッ)て二頌(ニジュ)Iを説(ト)いて言(ノタマワ)く。
  虚妄分別(コモウフンベツ)は有(ア)り。 此(コレ)に於(オイ)て二(ニ)は都(スベ)て無(ナ)し。 此(コ)の中(ナカ)には唯(タダ)空(クウ)のみ有(ア)り。 彼(カレ)に於(オイ)ても亦(マタ)此(コレ)有(ア)り。 故(ユエ)に一切(イッサイ)の法(Iホウ)は、 非空非不空(クウニモアラズフクウニモアラズ)と説(ト)く。 有(ウ)と無(ム)と及(オヨ)び有(ウ)との故(ユエ)に、 是(コ)れ則(スナワ)ち中道(チュウドウ)に契(カナエ)りと。
 此(コ)の頌(ジュ)は且(シバラ)く染(ゼン)の依他(エタ)に依(ヨッ)て説(ト)けり。理實(リジツ)を以(モッ)て云(イ)わば亦(マタ)淨分(ジョウブン)の依他(エタ)も有(ア)り。」)

 今日はテキストのみとします。おやすみなさい。

 
 

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か?  (20)

2016-05-23 21:21:10 | 『成唯識論』に学ぶ


 一切唯識が中道にかなうという意義があることを論証します。
 「斯に由りて増と減との二の辺を遠離して唯識の義成じて中道に契會(かいえ)せり。」(『論』第七・二十右)
 (「斯に由りて)外境は無いが故に、中道に合致する。増減の二辺を離れて「唯識のみ有り」という義は中道にかなうのである。)
 増減の二辺の増とは、本当は無いのにもかかわらず有るものを立てる。減はその反対で、有るにもかかわらず無いとするわけです。唯識は、無外境ですから増益を離れています。
 
 慈恩大師はスカッと解釈されています。
 「二の辺を遠離す。心外の法無きが故に、増益の辺を除く。虚妄の心等有るが故に、損減の辺を離る。損減の辺を離れたるが故に、撥無すること空華の如しという清弁等の説を除く。増益の辺を離れたるが故に、心外に法有りという諸の小乗の執を除く。
 唯識の義は成じ、中道に契會せり。遍執無きが故に。中道と言うは正智なり。理が正智に順ぜるを以て中道に契會せりと名く。」(『述記』第七末・七左)と。

 「心外の法無きが故に」、実体的な外界、認識対象は無いと否定しますから、増益を離れます。虚妄分別の識のみが有るということから損減を離れています。つまり、識を離れたら一切は無いということなのです。
 有無でいいますと、有の故に損減を離れ、無の故に増益を離れているので、能取・所取の二は識に離れて存在するものではないという。
 有無は識有境無いっているわけですが、識有に於いて依他起であり、境無に於いて遍計所執を離れる、そして一切は理にかなうことに於いて円成実であることを、「由此彼皆無」と理を挙げ、「故一切唯識」と結んでいるわけです。
 次科段の九難義の一の唯識所因難において詳細されます。

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か?  (19)

2016-05-22 10:38:18 | 『成唯識論』に学ぶ
  

 一切不離識。すべては我が心の表現である。では心は有るのか、すべては無といいながら心が有るとするならば矛盾するのではということが考えられますが、心の表現は用きなんです。意識が意識として動いていうのではありませんね。意識は常に何かの意識なんです。(何かとは)が我が心の在り方なんです。いつでも、(自分にとって)好ましいとか好ましくないとかという価値判断の元に取捨選択をしてるのが私の実相です。いつでも、自分の都合に於いて無数の選択肢の中から一つを選び取っているのですが、選んだ以上責任はついて回ります。ついて回りますが責任を回避して責任を転嫁して己の保身に走っているのが私の姿です。
 『三十頌』を解釈するのに十大論師の説が挙げられますが、十大論師の一貫した主張は一切不離識なんです。一切不離識を現わして諸法実相を語っているのです。
 『論』(第七・二十右)に、
 「唯既に識に離れざりぬ法をば遮せず。故に真空の等きも亦是れ性有り。」と。

 すみません、其の前に『摂論』に説かれています「唯識 唯二 種種」について言及しておきます。
 見分・相分・自体分(自証分)を立てる根拠があります。
 「所知相分第三の一」に「復次に云何が是の如き諸識を安立して唯識性を成ずるや。」ぽ問いを立て、「略して三相に由る。」三相ということで転変を語っているのですが、そこに出てくる教説なんです。
 「一には唯識に由る、義有ること無きが故に。(唯識無境を語ります。境有識有、境無識無という考え方から区別しています。)
  二には二性に由る、有相(所縁の対境)、有見(能縁の識作用)の二の識は別なるが故に。」(識とは境に対して云う概念。無境であって外境ではない。識が転変して境として現われていることを唯二で表しています。) 
  三には種種に由る。種々なる行相にして生起するが故なり。」
 無性の釈論によりますと、
 「此の中の長行及び頌は三種の相に由って唯識を成立することを顕示す。」と、三種の相を明らかにすることで転変を語るわけです。
 「唯識に由る」とは、唯識のみ有るが故に、一切の諸識も皆唯識のみ有り。所識の義には所有無きに由るが故なり。
 「二性に由る」とは、一の識に於いて相と見とを安立するに由る。即ち此の一識の一分は相と成り、第二は見と成る。
 「眼等の諸識は即ち二性に於いて種種を安立す。」
釈論に由りますと、難陀の二分説は『摂論』の傍線の部分ですが、これが根拠となって、「内識転じて外境に似る」と云う「識転変」という教説が生み出されてきたのですね。この教説は非常に素朴な二分説になります。「種々」は唯二をさらに詳説しています。

 「識が識でないものに似て現ずる。しかし、押さえれば識のみである。『摂大乗論』が唯二ということで示したものを、こういう形で示したのである。相分を転じて外境として分別する。実は外境が有るのではなく、相分が外境として分別されたのである。識の内容たる相分が、識を超えた外境のごとく分別された。それが「似外境」ということである。」(『安田理深選集』巻第四p84より)

 諸識が諸識が転じたところの相分を外境として分別しているのです。諸識が転じた認識の主体である見分を能分別、相分が所分別となります。認識されるものも、認識するものも、識の具体的な作用であって、識以外に認識作用は無いと云っているのですね。従ってすべての事柄は「唯、識のみ」として有る。分別が虚妄の因、現行が虚妄の果ということになるのですね。

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か?  (18)

2016-05-19 22:53:30 | 『成唯識論』に学ぶ
   浄土真宗本願寺派久宝寺御坊 顕証寺
 本願寺第8世蓮如が布教活動拠点として、1470年(文明2年) 廃寺になっていた聖徳太子の創建になる「久宝寺跡」に「西證寺」として建立した歴史を持つ。 
 顕証寺のある久宝寺寺内町は中世末、浄土真宗本願寺派などの寺院の境内に発達した町で、門徒の団結を図る為、この御坊を中心に周囲に二重の堀と土塀を廻らし、街路は碁盤の目のようになっていた。 この町では御坊が一切の支配権をもち、久宝寺城主安井氏がこの権利を委されていたという。
 現在も寺内町は整備され、その町並みは往時を偲ばせるものがあります。
 本堂は大阪府下で最大の規模を誇る建物で、江戸中期の1716年(正徳6年)に御堂再興、上棟の記録があり、約290年の歴史を持つものです。


 
 難陀論師の釈がつづきます。
 難陀等の説は「内識転じて外境に似る」、これが識転変ですね。この識転変を十七頌に至って解釈をしています。
 「転変とは謂く諸の内識転じて我法の外境の相に似て現ず。」つまり、識が境に似て現れている。内識ですから、内なる識が外なる境に似て現じている。現じてるのは識そのものであって識以外のものではないというわけです。
 慈恩大師は、難陀等の主張する転変について、
 「転変というのは、即ち前の三能変の内の見分の識なり。能く依他の相分を転じて外境の相に似て現ずるなり。唯見と相との内識のみあって、都て所変の外境は無し。外境には通じて能取所取あり。これは摂論等に唯二と説く義に依る。自証分を説かざる師の義なり。前師と別なり。即ち能遍計(見分)と及び所遍計(相分)との法なり。其の能取と所取とは、皆是れ心(見分)の所変相分の上に別に有りと妄執す。設い見分を執して我と為し法と為るも亦心(見分)が所変(相分)の上に於て執せるが故に、所縁に非ずと云うこと無き故に、是の諸識は転じて外境に似るの功(功能)有るを以て名けて転変と為す。即ち第一句を解し訖る。」(『述記』第七末・五右)
 と解釈されています。
 つまり二分を押さえれば内識のみである。内識が転じて、外境の相に似て現れた相分なのですが、所執の境として、虚妄の相に変易して外境という姿を取るわけです。「妄執せらるる所の実の我法の性である」、それを所分別と云っているのです。それを分別するのが、三能変の諸識の分別に依る。「此の能転変を即ち分別と名く」、自性は虚妄分別であり、三界の心と心所がそれであると云う。虚妄分別の識に依って分別されたのが所分別、外境なんですね。ですから、外境は所遍計の相分、妄執された境(対象)であり、能遍計(見分)に依って執されたものであると主張しているのです。
 ですから、難陀等の釈は、執されたものは対象になりますから、たとえ見分であっても、見分として執されると相分になりますので、見分はどこまでも識自体分のことで、対象化されたものは、相分であると見ているのです。
 相分は内識が転じて現れたものですから、一切唯識なんです。「是故一切皆唯有識」(すべて識を離れたものは存在しない)と結ばれてきます。
 『摂大乗論』に説かれています「唯識唯二種種」については次回にゆずります。

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か?  (16)

2016-05-16 23:31:08 | 『成唯識論』に学ぶ
    

 「識の対象となるものは、外なるものではなくして、識が識の対象として意識しているものは、識自身なのでる。識自身が外境として分別されているのである。」(安田理深師)

 僕はこの教えをなかなか頷くことが出来ませんでしたが、目から鱗ですね。
 私たちが本当に求めているのは、自己自身に遇うこと、どんなに策略を巡らせても、それは空過なんですね。根っこに自己自身に遇うことが求められているんだと思いますね。
 阿頼耶識は無覆無記と教えられています。すべての経験は無覆無記として阿頼耶識は受け入れています。そして、無覆無記に還れとい促しも持っているのですね。いのちは、身はすべてを受け入れている、無覆無記としてですね。しかし受け入れられん心(マナス)が働いている。ここが厄介なところで、無自覚なんです。こうなれば幸せになれるという錯覚を抱いておりますから、私たちは外界の変革を求めて奔走するのですね。
 しかし、このことはまだ知れております。
 もっと深い問題は、自分の犯した事において後悔をすることでしょうね。大乗仏教は過未無体と教えました。あるのは「現在」のみであると。何を伝えているのでしょうか。確かに、過去の行為が現在を既定していることは事実ですが、そのことが現在を束縛しているのでしょうか。違うと思いますね。既定されている現在において落在することが求められている、そこに阿頼耶識の意味があるように思います。経験の上に現在があることは確かなんです。世の中の為、人の為に尽力された方は、それなりに尊敬も受けられるでしょう。反面、逆にですね、犯罪を犯した者は塀の中で暮らさなければなりません。
 僕は思うのですが、客観的にみてどちら正しいかというと前者ですね。しかし、そこに止まることあ歩みがない、固定化されるわけです。止まるとどうなるのか、既存という形を持った保守化が始まります。だんだん朽ちていくわけです。
 犯罪者も同じです。過ちを再び繰り返します。確実にですね。迷いの構造がそのようになっているからです。
 「識体転じて二分に似る」 
 迷いの識が迷いの認識構造をもっているからです。
 仏教は、「迷いの識を転じよ」と教え伝えてきたのですね。そこが阿頼耶識の表現なんです。阿頼耶識の根底にはアーダーナという無為無漏の法性があります。これは有為転変しませんから、常・一・主・宰です。ここを第七末那識は執着して自己は在ると妄執して働いているのです。 
 法性から生み出されてきたのが阿頼耶識、仲人というか、橋渡しの役割を背負って、私の目覚めを待っているのですね。
 仏法聴聞は、ひとえに自身を聞く歩みであると思いますね。それが「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし。」といわれている意義になるのではないでしょうか。
 迷っている、さすらいの放浪人は、自らが自らを作り出した作品である。そして、また、迷いの業を作り、放浪の旅に出る無宿人となる。そこには永遠に居場所はない。
 時は今、
 機は熟している。
 阿頼耶識は貴方に対話を求めている。汝自身に帰れ、と。居場所は与えらえている、拒否し、阻害している自己自身に目覚めよと。無始無終の阿頼耶識の働きは、死後の世界が有るのか無いのかという有無の見を砕破しているのでしょうね。


 明後日、18日の水曜日午後二時より、八尾市本町の聞成坊様で『成唯識論』の講究会が開かれます。参加自由です。会費は一律千円です。阿頼耶識は私に何をいいたいのか、聞いてみませんか。お待ちしております。

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か?  (15)

2016-05-15 20:53:15 | 『成唯識論』に学ぶ


 少し横道に外れますが、先日高柳先生の『往生礼讃』の講義に遇うことができました。師の深い眼差しと聖教に向き合われる姿勢に多くの学びを得ることができました。
 今回の講義の文献は聖教全書p662の一節でした。
 
 「西方極楽世界の阿弥陀仏に南無したてまつる 願はくは衆生と共に咸く帰命せん 故に我頂礼して彼の国に生ぜん。
 問て曰く。何が故ぞ阿弥陀と号する。
 答て曰く。『弥陀経』及び『観経』に云く。彼の仏の光明は無量にして、十方国を照らすに障礙する所無し。唯念仏の衆生を観はして、摂取して捨てざるが故に阿弥陀と名く。彼の仏の寿命、及び其の人民も無量無辺阿僧祇劫なり。故に阿弥陀と名く。又釈迦仏及び十方の仏弥陀の光明に十二種の名有ることを讃歎し、普く衆生を勧む。称名し礼拝し相続して断えざれば、現世に無量の功徳を得、命終の後定んで往生を得ん。『無量寿経』(巻上意)に説きて云ふが如し。「其れ衆生有りて斯の光に遇ふ者は、三垢消滅し身意柔輭なり。歓喜踊躍し善心生ず。 若し三塗勤苦の処に在りて、此の光明を見れば復苦悩無けん。寿終へて後、皆解脱を蒙る。 傍線筆者

 以下は僕の了解です。

 善導大師が帰命と往生について、帰命という中に往生という事実があると指摘しておられるのですね。
 六字釈において善導は「しかれば、「南無」の言は帰命なり。「帰」の言は、至なり、また帰説[よりたのむなり]なり。説の字、悦の音、また帰説[よりかかるなり]なり、説の字は、税の音、悦税二つの音は告ぐるなり、述なり、人の意を宣述るなり。「命」の言は、業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり。ここをもって、「帰命」は本願招喚の勅命なり。」と釈してくださいました。
 帰命においてのみ未来が開けるんだ、と。
 『礼讃』の中で『阿弥陀経』と『観無量寿経』、そして『無量寿経』の中で、何を衆生に伝えているのかを善導は明らかにしている。また「斯」と「此」の意味ですね。「斯」(まさに)この光に遇ふものは、」摂取不捨の利益に遇うことが出来る事実があるということなんでしょうね。

 唯識で学びを進めています第十七頌の「分別と所分別」は「識体が転じた似我似法」であるという事実ですね。事実の上に虚妄分別している自分がいるという自覚においてのみ、「摂取して捨てたまはず」という「得現世無量功徳」にあずかることができる。その根っこに「不捨」という事実があるんでしょうね。
 私が聴いているというのは分別ですね。分別に死すということが、とりもなおさず「命終」ということで、そこから往生と云う生活が定まるという事実の中に衆生がいる、その衆生が「念仏の衆生」なんでしょう。
 聴いていることは、聞こえて来る声を聴いている。聞こえてくる声は無分別で、自然法爾ですね。そお上に聞こえて来る声を、自分の思いで聴くと云う分別心が働いている、これが私の在り方、虚妄分別の実体なんでしょう。このように聞こえてきました。
 真実の上に(真実を依り所にして)、方便が働いている、このように善導は六字釈の中で明らかにされたのでしょう、このように受け止めています。
 あらゆる経験は種子として宿されますが、現行する時、経験に執着することが起ってくる、こんなところに深い闇が潜んでいるように感じます。
 あらゆる経験は虚妄分別の種子として、種子生種子で相続されるのですが、受け入れる受熏処は選ばない。無記性として受け入れているわけです。現行する時も無記性として現行してくる。しかし、現行は色づけされたものとしてあるということが、分別(能遍計)・所分別(所遍計)とに分けられて述べられてることではないでしょうか。迷いの識が作り出したスクリーンといってもいいのではと思います。
 次科段はここの所を明らかにしてきます。

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か?  (14)

2016-05-11 22:49:24 | 『成唯識論』に学ぶ
  

 転変の解釈について、
  「転変とは、謂く諸の内識転じて我法の外境の相に似て現ず。」(『論』第七・十九)
 (転変というのは、つまり、自体分である諸識が転じて外境の相に似て現れたものをいう。識が境に似て現れることである。)

 「内識転じて」ですから、内なる識が外なる境に似て現じている。外なる境は対象ですね、対象を認識するのが見分ですから、「転じて」という場合は必ず二分という形を以て現行するわけです。そして外境に似て現れたものは分別されたもの、つまり虚妄分別によって作り出されたものなんです。実体として存在するものではないけれども、内なる識が転じた所の相を外境として認識をしている。境は分別されたものですから所分別、分別するものは識で能分別。
 諸識が転変して見るもの(見分=分別)と見られるもの(相分=所分別)に分かれ、それによって認識が成り立っているのですね。これが迷妄の根っこにあるわけす。
 ものそのものを見ていない、捉えていないというのがいいのかも知れません。捉えているのは影像、自分の心が作り出した影を実体として有ると執しているのが、私たちの認識の構造なんです。
 認識は、識転変による見・相二分によって成り立っているのです。外界に認識される対象が存在して、認識する私がいて認識が成り立っているのではないと、繰り返し否定します。
 虚妄は分別を起こす私が作り出したもの、分別を起こす私が作り出したものを所分別として遍計所執されるのですね。

             相分 (所分別)
  識 (転変)〈
             見分 (分別)
  (種子)  (生) (現行)

 難陀等の解釈は、転ぜられたもの、識が転じたところの見・相二分は識の対象と見て、対象化されたものは相分であると釈します。識自体分が見分という見方になります。

  識(自体分)を見分として、対象化されたものは相分という関係です。いずれにしても認識は識転変によって起こっているのです。

 「識が現行した場合、いつでも二分となって現行している。識が現行の背後にあってではなく、識はいつも、何かの識としてそこに起こっている。外境の相に似て現じた相分だが、虚妄の相に変易して外境となった。それを所分別という。だから、外境は諸識の分別によって分別されたものである。つまり、それが三能変の諸識の分別による。」(『安田理深選集』第四巻p74より引用抜粋しました。)