愛結(アイケツ)とは、有情を繋縛して三界において生死流転せしめる五結・九結の一つで、貪結とも云う。結は煩悩の異名でもあります。「繋縛の義、合苦の義、雑毒の義、是れ結の義なり」と。(『婆沙論』大正27・258a)
尚、『瑜伽論』巻第八十四の第六門に煩悩を釈す一段があり、そこで五種の結について詳細されています。(参考、大正30・769c~)
煩悩は心を束縛し、苦と結合し、心を毒することから結といわれています。自らが自らを縛ってくるのが煩悩です。煩悩は外からやってくるものではありません。外縁なんですね。もっと言えば、外縁も自らが招来したものなんです。外縁に触れて、自らが、自らの欲求に応じてさまざまな煩悩を引き起こしてくるのです。これが凡夫の性なんです。
自分の思いに執われて苦悩しているわけですから、自分の思いを捨てなさい、そうしたら楽になれますよ、と云われてもですね、自分の思いに執われているのを本性としているのですから、捨てられん自分に出遇うしかないんでしょうね。なんでもかんでも人ごとにしている自分に遇うということですね。
では何故捨てられんのかですね。捨てられん理由を徹底的に明らかにし、すべては我が心の影像であると明らかにしているのが唯識なんです。そして捨てられんという、捨てられんそのまま救済される法を明らかにされたのが親鸞聖人なんですね。「無慚無愧の我が身にて」という自分中心でしか生きていくことが出来ないと云う悲心が、時空を超え「勿体(もったい)なや祖師は紙衣(かみこ)の九十年」(句仏上人)という法義相続を生み出してきたのが浄土真宗なんでしょう。
「唯心」と云うは、心と識と、是れ一なり。唯の言は所執の境の義を遣(ヤ)らんが為なり。彼(所執の境)無きによるが故に、能取もまた無し。心所を遮せず。相離せざるが故に。若し心所無ければ、心は未だ會て転ぜざるが故に。三界唯心の言は即ち三界唯識ということを顕す。即ち欲等、愛結と相応し、三界に随在すといえり。即ち三界の貪等の結に属するなり。」(『述記』)
「又説かく、所縁は唯識の所現のみなりと」とは、解深密経(第三)の文なり。即ち七十七の説もこの意に同なり。汝が識の外の所縁というを、我は即ちこれ内識が上の所現なり、実の外法は無しと説くなり。」
『解深密経』(ゲジンミッキョウ)はう唯識の根本経典になります。その中に「所縁は唯識の所現のみなりと」と説かれているのです。所縁は対象、対象は対象として実体的にあるのではなく、ただ心の現われにしかすぎない、心が対象を見ているのだということ。私は、外界を見ているようですが、私の心のフイルムを外界というスクリーンに映しだして、自分で自分の心を見ているのです。
「世親は説いて云く、『摂論第四』に、謂く識が所縁は唯識の所現なり。別の境の義は無し。また識をあげることは、我が所説の定めて識所行は唯識の所現のみなし。別に体有ること無しということを顕す。」(以上『述記』より抜粋)
参考文献として『述記』本文を記します。
「論。如契經説至唯識所現 述曰。四論主釋。初答教。後顯理。教中初列六文。後方總指 三界唯心。即十地經第八卷第六地文1花嚴所説。世親攝論第四無解。無性第四廣解十地經名・體。言唯心者。心・識是一。唯言爲遣所取境義。由彼無故能取亦無。不遮心所。不相離故。如説若無心所心未曾轉。三界唯心之言。即顯三界唯識。即與欲等愛結相應墮在三界。即屬三界貪等結。此唯識言無有横計所縁。不遣眞如所縁。依他所縁。謂道諦攝根本・後得二智所縁。不爲愛所執故。非所治故。非迷亂故。非三界攝。亦不離識故不待説。非無無漏。及無爲法 若爾欲・色二界可説唯心。是則言二界唯心。何故復言無色唯心。以小乘等多計彼唯識故。有立已成 此不然也。非但色無。亦無貪等能取之心。故亦無餘虚空等識所取義。又經部執無色心等是無色無體。無實所取境義顯現所依。恐彼執爲非心等故説三界唯心。此即唯心義意如是又前二師有二翻解。此擧能起執虚妄心故但言三界。不爾無漏應非唯識 又説所縁唯識所現者。解深密經文。即七十六説同此意。汝謂識外所縁。我説即是内識上所現無實外法。世親説云。謂識所縁唯識所現無別境義。復擧識者顯我所4現定識所行。唯識所現無別有體。乃至佛告慈氏。無有少法能取少法。無作用故。但法生時縁起力大。即一體上有二影生。更互相望不即不離。諸心・心所由縁起力其性法爾如是而生。如質爲縁等。此中略擧 (『述記』大正43・488b)