ー 因縁依(種子依)のまとめ ー
因縁依は種子生現行・現行薫種子・種子生種子の各種相望の因縁に通じるのですが、種子依という場合、現行薫種子には通じないのです。今は三類の因縁に通じるので因縁依と云うのですね。
そして種子生現行を生ずる因果について因果異時・同時の両説があるといわれていました。難陀・最勝子の因果異時の説を挙げて護法が論破しています。因果異時とは、種子が滅して始めて現果を生ずるのであるとする説で、難陀等が教証・理証を以て主張しています。教証として、『雑集論』に説かれている「種なくして已に生ず」という言を挙げています。最後蘊をもって種子生現行の異時であることの教証としているのですね。二乗無学の最後の五蘊は前刹那の種子から生じ、その種子はすでに滅して、現在の五蘊のみが已に生ずることを顕す、というわけです。理証として種と芽の喩えを以て因としての種と果としての芽は同時ではなく、種が滅して後、その芽が生ずるのであると主張しています。この教証と理証を以て種子生現行の因果もまた異時であるというのです。それに対して、護法は、そうではないのだ、因果には同時と異時の二種がある、因果異時というのは、種子の自類が相続する時のみに云われることである、種子生種子という、前念の種が滅して後念の種が生ずるということのみである、ということであって、種子生現行の因果は必ず同時因果である、と云います。例として、焔と炷とのように互いに因となることを挙げ、また青蓮根等のように種と芽が同時に存在する植物もあることを以て、難陀等の説は能立法不成の過失・所立法不成の過失・不定の過失を以て、理に合わないと論破しているのですね。
『唯信鈔文意』に聞く (18)
蓬茨祖運述 『唯信鈔文意講義』より
「観音・勢至は、かならずかげのかたちにそえるがごとくなり。」
観音・勢至と申しましても、いずれも一方は差別の智恵、観音は差別の世界を照らす智恵であり、勢至は平等の世界を照らす智恵です。差別の世界を照らすという意味で慈悲という意味になるでしょうね。
差別ですから、貧乏なものもあれば金持ちもある。健康なものもおれば病にかかったものもおる。そうすると、貧乏なものは苦しみ、病のものは悩んでおるわけですね。その悩んでおるということは、本当に悩んでおるかと申しますと、差別で悩んでおるですね。金持ちのものをみて悩むいうのが、貧乏人の悩みでございます。金持ちがおらなければ、貧乏人もまたないわけなんですね。金持ちが世の中におりますから、それをみて貧乏人というて見下げもしましゅし、また見下げられて、自分と自分を見下げて、また悩むということでしょうね。病人は病人で健康なものをみて悩む。外に健康な人がおらなければ、なにも悩むということはないですね。けれども、外に健康に人がおるから悩むのであります。でも一人だって、腹がいたかったり、頭がいたかったりすれば悩むにちがいないといいますけれど、それはもう健康なものと比較しての話であって、腹がいたくなってきたということだけであれば、なにも驚かんですよ。痛いのは、じっと我慢するよりしかたないものですから、我慢するのは荷物かついでいるようなものです。荷物かついだら重いですからね。かついだ荷物の重さを我慢するよりほかありません。汽車に乗って立っているのと同じことです。立っているのはいらいですけれど、腰かけがあるからえらいのであって、腰かけもなければ立っておることはあたりまえ、我慢するのはあたりまえのことです。それこそ生きている証拠といってもいいのです。
ですから、その点を見てみるというと、動物たちは病気になって苦しまんですよ。だまって静かにしております。まあうめきますけれど、あれは歌みたいなものです。人間は七転八倒する。虚空をつかんで苦しむという。なぜかというと、「たすけてくれ」というわけなんですね。やはり、それで悩むのです。あるいは死にはせぬかと思ったりします。動物は死にはせぬかという思いもおこらんです。だから、じっとしておる。それで人間より早く治ってしまう。死ぬときも苦しまないで早く死んでしまう。人間は死ぬのにしても長くかかって死ぬ。ゆっくり苦しんで、注射じゃ、切開じゃと、体をおもちゃにされて、そのあげく、さらに強心剤うたれて、最後に「どうも」と医者から頭を下げられておしまいですわね。まったく、人とくらべての悩みです。その差別を照らす智慧ですね。
観音さまというのは、平生、そういう医者をたのんだり、金をたのんだり、薬をたのみにしたり、そういうようなことがつまり観音さまの御利益だというふうになっていったのですね。ところが、観音さま自身が差別を照らす智慧であって、我々の悩みというものがただ単に病なら病、食物の不足とか、寒さとか住まいのこととかで悩むのではない。差別の念によって悩む、差別のおもいによって悩んでおるのだということを知らせるのが、観音の慈悲なんですね。
それが常識的に観音さまの御利益は病気を治す、災難を救うて下さるというようなことになって、それで『壷坂霊験記』などができるわけですね。盲目の人の目があいた、観音さまのご利益だというのですね。そうすると、みんながありがたいというておるんですがね、おかしなもんです。それよりか、自分の目の開いていることを喜ぶかというと、ちっとも喜ばん。当たり前にしています。目のわるい人に対して気の毒だと思うだけのことです。しかし、気の毒だと見ておる方も気の毒な存在でありまして、その目で何が見えておるかといったら、まともなものは何一つ見えない。そういうようなことがあるんですね。
観音は差別、勢至は平等、これは裏表なんです。平等を照らす智慧ということは、つまりすべてのものは、みなあるがままにして空であるという、あるがままが空であるということです。空のままが諸法として存在するのだ。存在する面からいえば観音ですね。存在するままが空だという面からいえば、これが勢至なんです。仏教のいわゆる智慧の両面でございますね。したがって、
「不可思議の智慧光仏の御なを信受して、憶念すれば、観音・勢至は、かならずかげのかたちにそえるがごとくなり」ということもまた当然のことでございます。不可思議の智慧ですから、不可思議の智慧が憶念せられるときには、観音・勢至がかげのかたちにそえるがごとくであるということです。これは、きわめてそうなくてはならん。こういう意味になります。 (つづく)
ー 雑感 ー
息子のそれからのことですが、何かいってくるかなと思いつつ見守っていました。昨日のことですが、「お父さん、アルバイト復帰する」といってきました。「どうかしたのか」と問うてみましたら「みんなのお陰かな」というのです。日ごろからアルバイト止めたのは僕の我が儘だといっていましたが、僕の我が儘では済まされない問題に気づかされたみたいです。友達とか、アルバイト先の従業員の方々の支えがあって今の自分が生かされているんだ、ということを身で感じたみたいです。特に我が儘の要因であった店長が影からアルバイト復帰に向けて会社に働きかけをしていてくれたことをしって、自分の怠かさを痛感したのでしょう。またしばらくしたら問題を起こすでしょうが、見守っていこうと思います。
一週間、唯識と蓬茨先生の講義を書き込ませていただいていますが、唯識を背景に蓬茨先生のお言葉が身に響いてきます。また蓬茨先生のお言葉から唯識を学ぶという循環がたいへん大切なことではないかと思っています。