因明について (第三能変の因明についても参照のこと)
正しい自己の主張を決定する論式を、能立(のうりゅう)という。陳那は古来、他宗や古因明が使っていた五支作法を採用せず、「宗」「因」「喩」の三支作法のみで論式を立てる。
- 宗 ー 意識は必ず眼と等しく増上であり、不共であり、倶有である所依があるであろう。
- 因 ー すでに、これは六識の中に摂められるものなので、
- 同喩ー 前五識のように
この時、「宗」は、主張をいい顕し、因と喩で決定される命題である。宗は二部でできており、上の論式でいえば
- 意識は―――自性――有法――所別――前陳
- 必ず眼と等しく増上であり、不共であり、倶有である所依があるであろう。 ――差別――法―――能別――後陳
となる。
因とは、この論式の根拠である。この根拠の正当性を表すのが同喩と(異喩の)二つの喩であり、因と喩の関係性を顕したものが因の三相である。したがって、この因の三相によって、三支作法としたものである。
さらに、因が宗同品と宗異品とに関する関係に九つあり、それぞれ正・不正を判断したものが「九句因」である。
つづいて、陳那は人間の知識には、自相と共相の二つしかないから、その知識の確実性の論究には二つの量しかないことを宣言して、分別の交わらない知識を現量と言い、推理論証するものを比量という。比量智は現量智以外のものをいい、上記のように能立される因から生ずるものであるとする。
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第二に上座部の説を論破する。
「色を彼が所依と為すとは説くべからず、意は色に非ざるが故に、意識は随念(ずいねん)と計度(けたく)との二の分別無くなんぬ応きが故に。」(『論』第五・十二右)
(色を第六意識の所依としてはならない。何故ならば、意根は色ではないからである。また意識に随念と計度との二つの分別がなくなってしまうからである。)
- 随念 - 記憶すること。(過去に自分が経験した内容を追憶したり認識したりすること)
- 計度 - 分別すること。(過去・現在・未来に経験したことが無い内容を推量、思惟、認識すること)
色法が、第六意識の所依となるのではないかという問いに答えたものです。上座部は『述記』によれば、「胸中の色物を其の意根となす」と主張しています。また『演秘』には「肉摶(にくだん)の心臓の四塵の色法を意識の依と為す」と述べています。身体を所依として第六意識は成り立つというのです。この主張を論破するのがこの科段になります。
第一に - 「意は色に非ざるが故に」(意根は色法ではないから)、理由は、「七心界は皆是れ心なりと説くを以ての故に」、十二処の中の意処は、十八界の中では意界と意識界の七心界であるが、この七心界は色法ではなく心法である、と説かれている。
分別は妄分別、あるいは虚妄分別ともいう。三種の分別があり、自性分別・計度分別・随念分別である。「諸の尋・伺は必ず是れ分別なり」といわれているように、計度分別・随念分別は尋・伺の心所を体とし、尋と伺は思(意志)と慧(知恵)との両方から構成され思の働きは徐(おもむろ)で細(深い)く、慧の働きは急にして粗いことから、徐緩(おもむろにゆるやか)で深く細やかに働く意志が安住をもたらし、性急にして粗く浅く働く知恵は不安住を引き起こすと考えられました。「思うこと深ければ慧発して安心なり。正しく慧を用いれば徐なり」「思が慧に随うときは不安なり」と説かれました。また尋が麤と云われるのは欲界のみに働き、伺は初禅に通じるといわれるところから分けられているともいわれます。(詳細については2010年3月30日~4月1日の項を参照のこと)
第二に - 「意識は二の分別無くなんぬべきが故に」(意識には二の分別がなくなってしまう)、色法を所依として、第六意識が生起するのであれば、第六意識に備わっている随念分別と計度分別という二つの分別が備わっていないことになる。五識は色法を所依とするので自性分別の働きしか持たないからである。
これらの理由により、色法を第六意識の所依とする上座部の説は誤りであると論破しています。従って、第六意識の所依である心法は、末那識の存在がなくては説明がつかず、末那識の存在によって第六意識が存在するのであると説明しているのです。
なお、認識の種類にはこの三つの分別の他に、三量という認識のありかたがありますが後述します。また『述記』・『了義燈』・『演秘』の記述は明日述べます。