唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変  第二・ 二教六理証 その(38) 第二、六二縁証 (⑦)

2012-04-17 22:28:38 | 因明

 因明について (第三能変の因明についても参照のこと)

 正しい自己の主張を決定する論式を、能立(のうりゅう)という。陳那は古来、他宗や古因明が使っていた五支作法を採用せず、「宗」「因」「喩」の三支作法のみで論式を立てる。

宗 ー 意識は必ず眼と等しく増上であり、不共であり、倶有である所依があるであろう。
因 ー すでに、これは六識の中に摂められるものなので、
同喩ー 前五識のように

 この時、「宗」は、主張をいい顕し、因と喩で決定される命題である。宗は二部でできており、上の論式でいえば

意識は―――自性――有法――所別――前陳
必ず眼と等しく増上であり、不共であり、倶有である所依があるであろう。 ――差別――法―――能別――後陳

となる。

 因とは、この論式の根拠である。この根拠の正当性を表すのが同喩と(異喩の)二つの喩であり、因と喩の関係性を顕したものが因の三相である。したがって、この因の三相によって、三支作法としたものである。

さらに、因が宗同品と宗異品とに関する関係に九つあり、それぞれ正・不正を判断したものが「九句因」である。

 つづいて、陳那は人間の知識には、自相と共相の二つしかないから、その知識の確実性の論究には二つの量しかないことを宣言して、分別の交わらない知識を現量と言い、推理論証するものを比量という。比量智は現量智以外のものをいい、上記のように能立される因から生ずるものであるとする。

         ―      ・      ―

 第二に上座部の説を論破する。

 「色を彼が所依と為すとは説くべからず、意は色に非ざるが故に、意識は随念(ずいねん)と計度(けたく)との二の分別無くなんぬ応きが故に。」(『論』第五・十二右)

 (色を第六意識の所依としてはならない。何故ならば、意根は色ではないからである。また意識に随念と計度との二つの分別がなくなってしまうからである。)

  • 随念 - 記憶すること。(過去に自分が経験した内容を追憶したり認識したりすること)
  • 計度 - 分別すること。(過去・現在・未来に経験したことが無い内容を推量、思惟、認識すること)

 色法が、第六意識の所依となるのではないかという問いに答えたものです。上座部は『述記』によれば、「胸中の色物を其の意根となす」と主張しています。また『演秘』には「肉摶(にくだん)の心臓の四塵の色法を意識の依と為す」と述べています。身体を所依として第六意識は成り立つというのです。この主張を論破するのがこの科段になります。

 第一に - 「意は色に非ざるが故に」(意根は色法ではないから)、理由は、「七心界は皆是れ心なりと説くを以ての故に」、十二処の中の意処は、十八界の中では意界と意識界の七心界であるが、この七心界は色法ではなく心法である、と説かれている。

 分別は妄分別、あるいは虚妄分別ともいう。三種の分別があり、自性分別・計度分別・随念分別である。「諸の尋・伺は必ず是れ分別なり」といわれているように、計度分別・随念分別は尋・伺の心所を体とし、尋と伺は思(意志)と慧(知恵)との両方から構成され思の働きは徐(おもむろ)で細(深い)く、慧の働きは急にして粗いことから、徐緩(おもむろにゆるやか)で深く細やかに働く意志が安住をもたらし、性急にして粗く浅く働く知恵は不安住を引き起こすと考えられました。「思うこと深ければ慧発して安心なり。正しく慧を用いれば徐なり」「思が慧に随うときは不安なり」と説かれました。また尋が麤と云われるのは欲界のみに働き、伺は初禅に通じるといわれるところから分けられているともいわれます。(詳細については2010年3月30日~4月1日の項を参照のこと)

 第二に - 「意識は二の分別無くなんぬべきが故に」(意識には二の分別がなくなってしまう)、色法を所依として、第六意識が生起するのであれば、第六意識に備わっている随念分別と計度分別という二つの分別が備わっていないことになる。五識は色法を所依とするので自性分別の働きしか持たないからである。

 これらの理由により、色法を第六意識の所依とする上座部の説は誤りであると論破しています。従って、第六意識の所依である心法は、末那識の存在がなくては説明がつかず、末那識の存在によって第六意識が存在するのであると説明しているのです。

 なお、認識の種類にはこの三つの分別の他に、三量という認識のありかたがありますが後述します。また『述記』・『了義燈』・『演秘』の記述は明日述べます。


第三能変 別境 ・ 定について、その(8) ・ 因明

2010-09-13 23:48:01 | 因明

      第三能変 別境 ・ 定について

  因・宗・喩(因明の量ー正しい認識方法)を以て、経量部の説を論破

 因明とは古代インドの論理学で、五明(ごみょう)の一つ。物事の正邪・真偽を論証する法で、宗(命題)・因(立論の根拠)・喩(例証)の三段からなる論式(三支作法)をいう。この中で因が最も重要であるから因明と称す。2世紀にニヤーヤ学派(バラモンの正統諸学派の一つ)によって成立(古因明)、その後仏教に受容され、5~6世紀にディグナーガ(陳那)が出て確立(新因明)、さらにダルマキールティ(法称)がディグナーガのあとを受けて、インド論理学を大成、思想界に多くの影響を与えた。尚、古因明は五支(五つの命題)をもって立論した。宗・因・喩・合・結の五支をいう。例として仏教語大辞典に「かの山に火あるべし」(宗)、「煙あるがゆえに」(因)、竈のごとし、竈において火と煙とを見よ」(喩)、「かくのごとくかの山に煙あり(合)、「このゆえにかの山に火あり」(結)というようなものである、と記されていました。現代語訳しますと、「あの山は火を有するものである」(主張=宗)、「何故なら、煙を有するものだから」(理由=因)、「なんであれ、煙を有するものは火を有するものである。例えば竈のようなものである」(実例=喩)、「煙を有するものである竈のように、あの山もまた同様である」(適用=合)、「よって、あの山は火を有するものである」(結論=結)。これは名辞関係ではなく、具象的事物関係である。形式論理学における名辞の周延関係(主辞と賓辞という名辞関係)だけで論理を把握する名辞論理とは異なってくる。五支作用に従って対論・論議する。理由を根拠にし、それが実際に妥当か否かを検討し、妥当すると確定した場合に、ある事柄の真実が知られたと決定できるのである。これが古因明といわれるもので、ディグナーガ以降は五支作法の推論式を批判的に検討し、この論式による限り、形式論理学の三段論法の媒体概念に相当する理由が、一度も周延されていないことから、この論式を論理的に確実にするために、媒体概念として具備すべき条件を吟味する必要があった。五支作法に代わって宗・因・喩の三支作法が提唱され、「因の三相」・「九句因」の吟味が補足導入されて、論証方式が推理として正しく整備されることになった。「九句因」とは、三支の第二である因の正・不正を判ずるための九句で、因が同喩・異喩に対して有する九種の関係をいう。

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 「根と力と覚支と道支との等きを摂むるを以て、念慧等の如し、即ち心に非ざるべきが故に」(『論』)

 (意訳) (因) 五根と五力と七覚支と八正道支などにも、定が摂められている。

      (同喩) 念や慧等と同じである。

      (宗) 従って、定は心ではない。

 「述して曰く、五根、五力、七覚、八道支の中に別に説くは故に(因)、定は即ち心に非ざるべし(宗)、念慧等の如し(喩)。念慧等の法は、かの体はこれ思なり。然も即ち心に非ざるが故に、もって喩となす。」(『述記』)

 三支作法の順序の従って入れ替えますと、

 (宗) 定は心と同一の体ではない。

 (因) 五根には、、定根が、五力には、定力が、七覚支には、定覚支が、八正道支には正定が摂められているように、定は、心(心王)と別の体をもつものとして説かれているからである。

 (喩) 念や慧等が説かれているのと同じである。五根、五力、七覚、八道支において、念や慧等が説かれて、心(心王)と別の存在として説かれているのと同じである。

 これのよって経量部の説は誤りであると、護法は論破します。