唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

唯識入門(23)

2020-04-12 10:05:17 | 唯識入門
 おはようございます。あいにくの雨ですね。お昼以降春一番が吹き荒れるかもしれません。
 コロナの勢いは収まりをみせません。政府が七割から八割の外出を控えるようにというのであれば、あらゆる業種に御願いして、一週間から二週間、休業補償などを含めてロックダウンをするのが賢明であると思いますが、一部が動いて、お昼の営業は可能で、夜は駄目というのはどうなんでしょう。また、法規制外の営業を認めるというのであれば、水をすくって駄々洩れ状態ではありませんかね。
 家の近くの大型パチンコ店は来月六日まで営業を自粛されていますが、付近の個人店は営業されています。またここに依存症の人たちが集まるのですね。クラスターが発生する可能性大です。足並みが揃っていないことが要請の欠陥ではないでしょうか。
 それはともかく、今日は、所熏(経験の蓄積される場所を明らかにする。)について学びます。
 先ず、「若し法の始終一類に相続して能く習気(じっけ)を持す。」と定義されます。 
 法の始終一類とは、無始より仏位に至るまで、一類相続にして能く種子を保持することを述べています。これが所熏の一つの意義である、と。
 一類相続は、変化しない、同じ性質が同じ状態で保持されていく。そのような場所が阿頼耶識であり、熏習される所として所熏という意味になります。
 一類相続だから習気を持することができるのですが、反対に一類に相続しないもの、断絶のあるものは経験の蓄積される場所ではないことになります。
 それが、転易(てんにゃく)のあるものですね。時と場合によって変化するもの、すなわち七転識になります。
 そして、純粋に分け隔てをせず、すべてを平等に引き受けているところでなければならないということになります。それが無記性(むきしょう)といわれるところです。
 大事なことは、所熏処である阿頼耶識に何を熏習するのかですね。そこで、「聞」が大切な要素、栄養源になります。新鮮なものをいただきますと、栄養素になりますが、腐ったものを口に含みますと下痢を起こします。理ですね。
 仏法を聞く、所謂四諦の理を聞くということなんですね。聞くということがキーワードになります。四諦の理というのは、「『経』に「聞」と言うは、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。これを「聞」と曰うなり。」(『信巻』)と教えてくださっています。
 私たちは、知る知らないにかかわらずですね、真理の中に生きているわけです。例えば法則ですね、宇宙の法則といってもいいかもしれませんが、知らなくても生きていくうえで何不自由はありません。これを仏教は法執と教えてきました。法執から我執が生まれてきます。心の閉塞性が我執です。我執が真理(空)を覆ってしまうのです。
 我執は有為有漏として熏習されますが、真理そのものは熏習されません。所熏処となり得るものは熏習され得るものであるということ、ここが大事なところです。私たちは、業縁存在であるとか、遇縁存在であるといわれますが、因縁ですね。縁起性でしょう。縁起という真理の中で生かされているのです。それを恰も自分一人で生きているかのように錯覚をしているのが私の姿です。このような執着が熏習されてきます。
 執着は苦悩を運んできます。孤独という苦悩です。考えさせられますね。また。

唯識入門(22)

2020-04-05 12:05:47 | 唯識入門
 
 今回は熏習とは何かについて学びます。
 どのような理由から熏習という名を立てるのか。それは所熏(熏じられるもの=阿頼耶識))と能熏(熏ずるもの=七転識)に各々四義を備えて種子を生(新熏種子)・長(本有種子)するが故に熏習と名づけるのであると説明されます。
 種子論では、色は色という自己の種子を熏し、生じるときも同じ自己の色の種子から生じ、心は心の自己の種子を熏じ、生じるときも同じ自己の心の種子から生じる。けっして色から心が生じたり、心から色が生じるということはない。よって因果の道理に錯乱はないことを明かに説いていました。
 これを受けて、熏習に所熏の四つの性質と、能熏の四つの性質を明らかにしたのです。ようするに、熏習されるもの(所熏)と熏習するもの(能熏)とに分けて説明し、所熏になりえるものと、能熏になりえるものの特質を述べているのです。
 所熏の四義は『摂大乗論』にも説かれているのですが、能熏の四義は『成唯識論』独自の解釈になり、『摂論』を受けて『成論』が成立し、『成論』の背景に『摂論』があることがわかります。所熏の四義を備えたものが阿頼耶識なのです。 阿頼耶識を立てて初めて人間存在が立てられるのですが、これは唯識以前の仏教が六識で考えられていたと云う背景があります。
 つまり、意識の根拠、即ち意根の存在証明が不十分であるということなのです。眼識は眼根を所依とし、乃至身識は身根を所依とするわけですが、第六意識の所依は意根である。その意根は前滅の識を所依として成り立つと説明されるのですが、経験の積み重ね(種子)はどこに収まるのかの説明がつかないのです。
 無始以来の一切の経験が蓄積されている場所の説明ですね、表層の意識の奥深い所、深層に人間の非常に深い心があるのではないのかという眼差しが阿頼耶識を見出してきたのでしょう。そして阿頼耶識が阿頼耶識と名づけられるのは一切種においてであり、阿頼耶識はまた一切種識と呼ばれる所以なのです。
 無始以来(曠劫以来といってもいいでしょう)の一切の経験の蓄積されている場所はどこにあるのか。これが所熏の四義になります。六識が六識が成り立っているのではなく、六識の行為を残し、蓄積していく場所があって、はじめて六識が生きて働いているのであることを明らかにしてきたのが大乗仏教であり、とりわけ唯識仏教であるわけです。
 心の構造の重層性を明らかにしたのです。
 熏の説明ですが、
 熏と云うのは、発(ほつ)、或は由致(ゆち)であり、習と云うのは、生であり、近(ごん)でり、数(しゅ)である。つまり種子の果を本識の中に発し致して、本識中に種子をして生じ近ならしめ生・長せしめるからである。
 説明しますと、
 發とは一般的には、起こすこと、生じることを意味しますが、熏習論についての発には二つの意味があり、一つは開發(かいほつ)、(新熏種子を)初めて開きはっきりとさせることを熏といい、もう一つは繫發(けほつ)、繋は、つなぎとめること。本有種子であれば熏というという意味を持ち、本有種子をつなぎとめ生じることを熏という。
 無始以来、本有種子を心の中につなぎとめ相続し現行を生じて熏習していることが繫發という意味になり、現行から新たに生じてくる新熏種子を開發という言語でいい表しているのだと思います。
 「由」とは、所由(しょゆう))の義であって、いわれ、理由です。「因と言うは即ち所由なる故に種子を謂う。」ということですが、ここは、能熏の七転識は種子を第八識に熏習し、種子は、種子生現行として、現行を生ずる本となることをいっています。
 「致」とは「いたす」ということ、ある状態に至ることを意味します。能熏の種子を第八識に植え付け熏習させる働きを「致」と表現し、「近」は刹那滅のことを、近く現行の果を生ずる表現として用いられ、「數」は「しばしば」といわれていますように、數數熏習してという意味になります。
 今回は言葉の説明になりました。でも言葉を理解しておかないと、先に進むことが出来ませんので煩雑ではありますが、復習をお願いいたします。
 また、

唯識入門(21)

2020-03-29 09:40:01 | 唯識入門
 おはようございます。二週間ぶりの更新になります。ちょっと体調を崩しておりまして一週間飛びました。お許しください。
 今日は昨夜来からの雨で寒いですね。関東甲信越では平地でも雪模様になっています。お気をつけてください。
 そして新型コロナウイルスの猛威は止まりません。本音は、買い物以外の一週間程度の徹底した外出禁止と操業停止が必要なのかもしれません。そうなると、パニックが起こるでしょうね。そこまでしなくてもという批判も起こるでしょう。
 身近な接触、特に濃厚接触は避けたいですね。
 自分は大丈夫という妄想は通じませんよ。
 こんな時だからこそ、ゆっくりと自分を見つめなおす機会が与えられている未曽有の時が熟しているのですね。普段は、いそがしい、忙しいと自分を忘れて動き回っていますが、それが一つのウイルスで木っ端微塵に飛び去ってしますような、そんなちっぽけな自分を頼りにしていていいんですかね。
 四苦八苦という言葉を耳にしますが、この四苦八苦を頼りにして生きている存在が私なんです。それが迷いなんですね。
 いのちは、あなたと共に生き続けている。
 私のいのちは私が自由にできるものではない。
 あなたのお蔭で、私のいのちが保たれ、育まれ、そして輝くことが出来る。
 そんな関係性に生かされている私が、私を軸に生きることが迷いなんだと。
 大乗仏教は、空・無我と教えました。
 人間存在は、空・無我に迷っているのですね。護法菩薩は、「二空に迷・謬すること有る者に正解を生ぜしめん。」そして、「諸の有情を利楽せん。」という願いに立たれたのです。
 欲に生きるんでなしに、願いに生き得る存在になりたいですね。
 前置きが長くなりました。
   「超世の悲願きゝしより
     われらは生死の凡夫かは
     有漏(うろ)の穢身(えしん)はかはらねど
     こゝろは浄土にあそぶなり」(帖外和讃)
 横道にそれますが、新興宗教の折伏を考えて見たらよくわかります。先ず、病気治癒と貧苦からの解放が謳い文句です。外の世界を変えることによって、心が豊かになり、幸せになるという説得の仕方です。病気とか貧苦を冬に喩え、唱題を縁として「冬はやがて春になる」、春は幸福ということでしょう。この説得力にみんな参ってしまうのですね。病気が治癒し、貧苦から解放されたら幸せになりますよ。共に題目を唱えて病気と戦い、貧苦と戦いましょう、そして勝利しませんか、ということです。
 このような考え方を、慈恩大師は、「善の色を以て四蘊に望めて因と為し、四を色蘊に望めて亦因と為すことを得と云う」(『述記』)
 と、顛倒の考え方であると指摘されています。そして、
 「此れ即ち然らず、唯自果を引いて因果随順せり」何故ならば、「功能同じなるが故に、名づけて因縁と為す。」
 と。
 「唯自果を引いて因果随順せり。」なんですね。
 阿頼耶識の中の功能差別(「諸々の種子(人格形成の因)は阿頼耶識の中においてですね、親しく(直接に)自果(現在の結果をもたらす)を生ずる功能差別なり。」)がですね、これが種子であるということになります。ここは、阿頼耶識があって、阿頼耶識の中に種子が詰まっているということではなく、功能(能力)差別(さまざまな種子の区別)が阿頼耶識を形成していることになろうかと思います。
 またにします。
 

唯識入門(20)

2020-03-15 09:51:51 | 唯識入門
 おはようございます。新型コロナウイルスの影響で、講座や法要が相次いで中止、延期になっています。異常事態です。アメリカの研究チームは空気感染もあり得るという見解を示しました。どこにいても感染のリスクを負っていることになるのでしょうね。できるだけの予防をして感染しないように努めなければなりません。
 そして、産業界では七月以降の受注が激減すると予想を立てています。つまり、今は受注残をこなしているだけなのです。経済が逼塞状態にあるということです。倒産件数も増えるのでしょうね。それに伴い、失業者も増えます。お金が回らないというのは、息ができない状態です。
 私たちに突き付けられた問題、問いかけは非常に深いものがあります。
 今日も、ネット学習は粛々として進めてまいりたいと思います。
 前回よりのつづきになります。今回は因縁果の、「縁」について考えます。縁とは条件です。条件が整って果が生じてきます。自らの因と、自らが引き寄せてきた条件が和合(わごう)して、現在が結果として動いているのです。
 ここをしっかり問い詰めておかないと、自己を問うということが成り立ちません。自己に遇うことが永遠に不可能になってしまいます。現在はここを問いかけているのですね。
 さまざまな縁が合することを待って現行する。因が果に成るためには縁を待つわけです。縁生です。縁によって生じてきます。縁は一つではありませんから、衆縁(しゅえん)を待つ、と云われています。衆縁を待って現行し、現行したものは種子として蓄積されていくわけです。種子が現行する為には、衆縁を待たなければならないのですが、現行しているということは種子が縁に触れて顕れているのでしょう、それが待衆縁(たいしゅえん)であり、種子である、ということなのですね。
 慈恩大師の釈はすばらしいです。
 「謂く、自らの種子なれども要(かな)ず衆縁和合(しゅえんわごう)せるを待って、種子転変(しゅうじてんへん)して現行等の諸果を起取(きしゅ)す。作用功能殊勝(さゆうくうのうしゅしょう)なるが方(まさ)に種子を成ず、故に種の自類の因縁合するに非ざるをば種子と名づけず。」(『述記』)
 他から持ってきたものは種子とはならないと。自らの目を開きなさいということを教えられたのですね。
 一つは、衆縁を待たないで、自然に生じてくるという、因縁生を否定した論理です。
 もう一つは、衆縁を待たないで、自然に生じてくるという、因縁生を否定した論理です。
 宮城先生は、
 「一切は 縁において生まれ 縁においてあり 縁において去っていく」(宮城 顗)
 と、教えられました。
 種子は衆縁を待って現行し、衆縁において熏習される、種子生現行・現行熏種子が成立つのは、待衆縁に依る。非常に大事なことを教えています。これが聞熏習につながってくるのですね。聞が縁となる、ということです。教法が生きて働いてくる時に縁となるのが聞なのですね。聞なくしては、教法は現実には働いてこないのです。
 今日はここまでにしておきます。

唯識入門(19)

2020-03-08 10:27:57 | 唯識入門
 
 おはようございます。あいにくのお天気ですね。前回よりのつづきになります。 
 直接的な原因と間接的な原因によって現在の自分が存在しているのですが、因の力とは、自分が溜めた力をいいます。因の力に随って善悪等を生ずると説明されます。生ずることが決定されているんだ、と。善の因は善として、悪の因は悪として、阿頼耶識の中に種子として溜められる。此の方程式が恒相続されていくのです。これが因縁なのですね。「親しく自果を生ずる功能差別」と云われている所以です。
 これは、前に熏習した時の現行の因の力に随って、善悪等を生起するは決定していることを表しています。因と果は雑乱しないということですね。果は異熟果(いじゅくか)として、時熟(じじゅく)、時が熟して現在しているわけです。ですから、現在の果は善悪というレッテルを貼り付けないのです。
 異熟果は、因善悪果是無記(因は善か悪であるけれども、結果としての現在は無記である。)と押さえられています。果は増上縁だと。果無記ですから、因縁ではないのです。善悪業の果は無記であるというのは増上縁であるということなんです。しかし、果無記の上に瞬時に善悪業が色づけされていくのですね。でも果は無記である、と。
 これはね、いつでも自身に出会っている自分が問われ続けられていることなんでしょう。
 自分の業果が今の自分を造り出してきたというのは疑いのない所でありますが、この果はどのような方向にも向いているのですね。善業は善業として相続し、悪業は悪業として相続していくのですが、果は無記である。純粋経験として、ここに転依(てんね・依り処が変わる)という世界が開かれてくる。
 狭い世界から、広い世界へ。転依すれば、広い世界から呼び続けられていた自己発見があるわけでしょうね。
 具体的には、家庭の問題を考えて見ますと、どうしても愚痴が出ますね。自分は一生懸命にやっているが認めてもらえない。どうにも面白くない、ということが日常茶飯事に起こってきます。
 時には、自分の行為を棚上げにして、あんたが悪い、こうなったのは自分の責任かもしれんが、そこをきっちりとホロ-をしてくれるのがあんたの役目だろう、それを放棄してしまったら、瓦礫が崩れるように倒壊してしまう。あんたよう考えや、と。本末転倒やけどね。
 このような行為が自分を作りだしているのですね。
 ここに二つの方向性が見いだせます。一つは愚痴をいって他を責めつづけるのか、もう一つは愚痴を縁として、今の環境を作りだしてきたのは自分であるということ。逆境を縁として自己を問うこと。増上縁としてですね。
 私をないがしろにしているのは私である。そんな貴方に出遇ってくださいと、
 すべては私が私自身に会う為の計らいであった。自尊心を傷つけられて怒りが立つのは当然のことなんですが、そこには深い意味があるんですね。
 頑なな心が崩壊する音を聞くんですね。どこまでも、どこまでも手を合わせられない自分に出遇っていくことが大切なことだと思います。
 私はね、手を合わせられないけれど、私に手を合わせてくれている働きのあることを、それをご縁というのでしょうね。合掌

唯識入門(17)

2020-02-23 11:36:56 | 唯識入門
 おはようございます。前回では、何を以て種子とするかについて大切なところを述べました。
 種子について、護法菩薩は、人間は本来的に持つ一面(本性住種・ほんしょうじゅうしゅ)と、生活を通して吸収し取得していく一面(習所成種・じゅうしょじょうしゅ)とがあって、二面が備わったのが現実の生きざまであるという人間観を確立されたのです。
 『大乗阿毘達磨経』には、因果の性質を、「更互(こうご)に果性(かしょう)と為(な)り、亦常(またつね)に因性(いんしょう)と為(な)ると。」
 と、説かれています。同時因果の教証になります。また、「有情(うじょう)は無始(むし)の時より来(このかた)種々の界(かい)有り。」とも説かれ、「界と云うは、是れ因の義。即ち種子識にして、」
 種子とは因性なんですね。この因相を、本頌では「一切種」といっています。『成唯識論』では「此れ(阿頼耶識)は能く諸法の種子を執持(しゅうじ)して失せざらしむるが故に一切種と名づく」と釈されています。定義としては、執持は摂するということ、「摂して自体と為して、持して、不壊(ふえ)ならしむ」という説明がされています。
 阿頼耶識の中に蓄えられた種子は、一切種という。すべてですから、無始以来の過去を背負っている。命は過去を背負って現行し、熏習される。熏習は種子となり現行しますから、熏習の面からは、永遠の未来をはらんでいるといえましょう。
 ですから、
 「種子より生じて種子を熏(くん)ず。」(存在するものは、阿頼耶識の中の種子より生じ、生じたものは、また阿頼耶識の中に種子を熏習する。)ということになります。次回は熏習について考えてみたいと思います。
 『二巻抄』で、良遍和上は、
 「熏ずと申は己が気分を留めて置なり。」(熏習とは、自己の気分を留め置くことである。)
 と、教えてくださっています。
 熏習とは、表層的な七転識が阿頼耶識に種子を植え付けること(阿頼耶識から言えば、受熏)で、新熏種子といい、熏習されるもの(所熏・しょくん)、熏習するもの(能熏・のうくん)といいます。
 また次回に。

唯識入門(16)

2020-02-16 10:46:24 | 唯識入門
 おはようございます。あいにくの空模様です。午後から荒れ模様だそうです。お出かけされる方は気を付けてくださいね。
 今回は前回に述べました第一番目の刹那滅と第三番目の恒随転を結ぶような形の第二番目の果倶有(かくう)について考えます。
 言葉の難しさを感じます。どうしても、種子・現行・熏種子(くんじゅうし)と並びますと、それぞれが別に動いていると思ってしまいます。しかし、そうではなくて、現行の一つの側面を言い表しているのですね。
 現行は種子から引き出され、引き出された現行は、そのまま阿頼耶識(あらやしき)に熏習(くんじゅう)されているということです。
 深層の阿頼耶識の循環によって、私の生活は成り立っていることを教えています。
 縁に伴ってということがありますが、厳密には、その縁も自らが引いてきたことなんでしょうね。
 種子を因として、縁を伴って現行が果になります。これを異熟(いじゅく)と押さえています。過去の行為の結果が現在現行していることになりますね。これは元には戻せません。やり直しがきかないんです。
 しかし、現行に流されることなく、今を受け止める力を身につけることが求められますね。それこそですね、今がご縁なんです。昨日はお釈迦様が涅槃に入られた日、涅槃会も厳修されました。つまり、今をご縁として涅槃を求めることが大切な営みになるようです。
 そうしますと、今がとてつもなく有難いご縁になるんですね。
 こういうところが阿頼耶識の純粋性になると思います。私のいのちの根源は純粋なんです。純粋だからこそ、人生を見直すことができるんですね。僕みたいな不順な人間であってもですよ。見捨てられていないんです。
 果倶有の定義としては、種子は「現行(げんぎょう)と恒(つね)に倶(く)にあるもの」であることを明らかにしています。
 「二(ふたつ)には果倶有。謂く所生(しょしょう)の現行の果法と倶に現に和合するが方(まさ)に種子と成る。」と。
 種子は、所生の現行の果と倶に和合する。種子が表に現れたものを現行といいますが、この現行を果法といっています。現行の果法と種子は倶である、果と共にあるもの、異時ではなく同時存在なのです。因と果が時間的経過を経ているということではなく、同時同処をあらわしているのですね。種子生現行というでしょう。現行する為には縁があって現行するわけですが、縁のない時は種子生種子として、種子が種子として相続していくことになります。  
 第二の果倶有に於て、何が遮せられるのかですが、ここは第一の刹那滅ですね、これを受けています。
 刹那滅は刹那生滅ですから、同時であることを意味しているわけですが、
 一つの理由は、果倶有も同様に、前後を遮す、前後を否定しているわけです。種子は刹那の中で深く関わりあっている。常に因果同時であることを明らかにしています。
 ですから種子には前後が無いということになります。前の因(種子)が後の果(現行)となるという時間的前後を否定しています。倶時である。現行は種子の表面化ですね。種子があって現行するのではなく、種子の表面化が現行であるということになります。
 種子は阿頼耶識の中に蓄積され蔵されているわけですが、現行する時は種子生現行で同時なんです。種子があっても縁に触れないものは現行しません。
 二つ目の理由は、「定めて相離とを遮す」、定離(じょうり)です。
 私と無関係に種子はあるわけではないのです。「現在の時に因の用有るべし」と。永遠の今と言っていいのでしょうか。今を成り立たせているものが種子である、と。私が、今、現に生きているのは昨日のことでもなく、明日のことでもなく、今であるということ、これが種子のもっている意味であるのです。現行の果を生ずる種子は必ず現行と倶有であり、倶時であるわけです。大切なことを教えられています。
 またにします。


唯識入門(15)

2020-02-09 13:12:54 | 唯識入門
 今日は、来週からまた初春の陽気になるそうですが、雨模様みたいです。今日明日はまだ冬型ですね、寒いです。
 前回から種子について考えていますが、少し論題から離れてですね、地獄・極楽を死後の世界と捉えると、死後の世界なんて信じられへんという返事が返ってきます。
 地獄・極楽は両極端のように聞こえますが、そうではないですね。地獄は極苦処とも、奈落(金輪際)ともいわれて、暗闇の世界を表しています。
 極楽はどうでしょうか。ネオン輝く繁華街を思い出してください。竜宮ですね。
 共に、自己を振り返る余裕はありません。そこでは言葉が通じない世界だと、よくいわれます。何故言葉が通じないのでしょう。それは自分の思い(自分の物差し)が強いからでしょうね。
 浦島太郎の物語や蜘蛛の糸で語られていることは、自己の物差しですね。自己中心の天秤が、それこそ、自然に出てきてしまうのでしょう。他者をかえりみる余裕が無い世界を表しています。
 人間世界はどうでしょう。地獄極楽の狭間に存在して、苦楽の中で生きることの意味を考えさせられる立ち位置に存在しているのではないですか。
 僕の若い頃、植木等のスーダラ節が流行りました。「わかっちいるけどやめられない」自分は分かったつもりで、分かったつもりを物差しとしているんですね。だから止められないのですが、往々にしてこのような間違いを起してしまいます。
 唯識は提言します。
 「外界は自己の心の投影」「他者は自分を映し出す鏡」「他者は自分の影像」であると。このことが分からんですね。自分では気づきを得ないという闇が覆っているのです。平気で差別をし、批判をしています。そのことを思う時、自分は世界の宰相になりたいのでしょうね。バーチャルでもいいから、自分が宰相として、世界をぶったぎっているのではありませんか。
 我の定義として、「我というは謂く主宰(しゅさい・自ら自己と他者を支配すること)。」であり、主とは自在、宰とは割断(かつだん・決断すること)と意味づけされています。
 支配するのは執ですね。自己を執することが他者をも支配する独裁として表面化しているわけでしょう。それを我というのですね。
 この執が種子の隠された意味になると思います。
 今日は三番目の恒随転(恒に随って転ず)についてです。
 「三には恒随転(ごうずいてん)、謂く要ず長時に一類相続(いちるいそうぞく)して究竟位(くきょうい)に至(いたる)が方(まさ)に種子(しゅうじ)と成る。」と教えています。
 恒随転とは、種子は一類相続して究竟位に至るまで断ずることがない。ここは第二番目の果倶有という異類と対応している所です。一類である。また、相続という点からは、第一番目の生滅と対応しています。種子は刹那滅ですが、刹那生滅を繰り返しながら同じ性質が変わらず相続していくということ。善の種子は善の種子とし、悪の種子は悪の種子として相続していく、非常に厳密ですね。種子生種子は自類相生し引生していくものである。他のものをもってくるわけにはいかないんですね。他者に変わってもらうわけにはいかないんです。
 「此は転識(てんじき)を遮(しゃ)す。転易(てんにゃく)し、間断(けんだん)するを以て種子法(しゅうじほう)與(と)相応せざる故に。此は種子の自類相生(じるいそうじょう)することを顕す。」
 転易とは、うつりかわることです。
 自類相生とは、阿頼耶識の中の種子は一刹那に生じては滅し、滅した次の刹那に自らとおなじ種類(自類)の種子を生じる(相生)ありようが不断に続く。この説は、外道の説く常一なる我(アートマン)と同じではないかと云う非難に対しての唯識側からの答えになり、阿頼耶識は非常非断の連続体であることを表す為に、「自類」という概念を用いています。
 恒随転において、転識を除外する、ということ。阿頼耶識に蓄積される種子は、その性質は変わらず自類相生であることを顕わしているのです。七転識は縁生ですから、条件が変われば、受け取り方も変わってくる、うつりかわり、間断が有るということになり、そのようなものは種子法と相応しない。変化するもの、転易するもの、そして間断があるものは種子ではない、種子は一類相続していくものであるのです。
 概念としては、現実の行動や思索のすべてが種子として揺ぎ無く蓄積されていて、そこから現実の行動が生み出されているということなんです。ここで無因論を破します。
 現行(現実の行動)は結果なんです。結果を生ずる種子は必ず現行と倶有であり、倶時であるわけです。
 非常に大事なことを教えていただいていますが、この刹那滅と恒随転の説明として、第二番目の果倶有(かくう)が説かれています。種子は、「現行(ゲンギョウ)と恒(ツネ)に倶(ク)にあるもの」であることを明らかにしています。
 次回に考えます。
 今日は長くなりました。すみません。眼を通して頂ければ幸いです。南無



 

唯識入門(14)

2020-02-02 10:42:35 | 唯識入門
 おはようございます。一週間早いですね。今日は穏やかな天候に恵まれています。お出かけ日和ですね。
 さて、今日は種子についてです。
 種子(しゅうじ)って何?という疑問がでてまいりますが、種子こそ現在の自分を規定している根幹を成すものなんですね。
 『論』では種子となるものを六つの方面から考究しています。すべてを紹介するのはかえって煩雑だと思いますので、大事なところだけを紹介したいと思います。
 種子を積極的に規定しているのが、種子の六義の中での第一番目の刹那滅(せつなめつ)と第三番目の恒随転(ごうずいてん)になります。
 有為法から種子を明らかにしています。有為法は生滅変化するもので必滅の用あるものです。
 刹那滅というのは、つまり、生ずると即座に滅する、間が無い(間断することが無い)けれども、その中で勝功力(しょうくりき・強い力)があるものが種子である。一刹那に生滅しながら私の人格を形成し、支えていくのが種子である、と云われているのです。
 種子生現行であって、種子と現行の間に断がないということですね。種子が有って現行が生起するということではなく、種子即現行即種子etcなのです。滅と生と滅と生との行間に命の躍動感があるのでしょう。いつも新しい命をいただいている、種子も現行も恒にリフレッシュされている躍動感なんですね。
 種子の第一の意味は、刹那滅であることを説いていますが、それに於いて何が除外されるのかといいますと、「常法」を除外する、常法は、転変することが無いからである。転変することのないものは、ものを生ずるという能生(のうしょう)の働きが無いからである、というわけです。
 転変することのないものは、真如ですね。無為法です。無為法を以て種子とすることはできないと説いているわけです。
 刹那滅という時は、そこに能生の用(ゆう・働き)が有って、そこで縁起が成り立っているわけです。それを阿頼耶識縁起(あらやしきえんぎ)といいます。
 つまりね、「本識の中に親しく自果を生ずる功能差別なり」と種子の定義がされていましたが、現行が因とすれば果は種子であって、時には因と果を同時に受け持っていると云う意味があり、生滅というところに種子の意義がるということなんです。
 次回は恒随転について説明します。

唯識入門(13)

2020-01-26 09:30:09 | 唯識入門
 おはようございます。
 唯識を学ぶ上で、どうしても避けてはならないところがあります。例えば、本識(阿頼耶識)と転識(前七識)との関係、或いは、表層の前六識と深層の二識との関係、表層でも、第六意識と前五識との関係ですね。
 そして、何が一番大切なことを教えているのかといいますと、第八阿頼耶識の行相・所縁です。行相は行相見分といわれていますので、阿頼耶識の積極的な動きであり、所縁は対象。阿頼耶識は何を対象としているのか、ここははっきりとしておかなくてはならないところです。
 少しづつ説明していかなければなりませんが、その前提となる種子(しゅうじ)。法律の場合は(種子)しゅし、ですが、唯識ではすべては阿頼耶識の中から生み出されてくる因として(種子)しゅうじを考えています。
 定義は「本識の中にして親しく自果を生ずる功能(くうのう)差別(しゃべつ)なり。」と。
 これは阿頼耶識の自相と関係してくるのですが、すべての経験(遺伝子を含む)を種子(因)として阿頼耶識は無分別に摂持(しょうじ)、すべてを収めとって維持しているのです。そこから果相が生まれてきますから、阿頼耶識は因相と果相を摂持していることになります。自らの因(種子)が自らの果(現在)を引いてくることになります。
 阿頼耶識は、「諸法の種子を執持(しっち)し、失わないので一切種と名づける。」と。執持を維持するという意味になります。、定義としては「摂して自体と為して、持して、不壊ならしむ」といわれています。
 阿頼耶識の中に蓄えられた種子、一切の経験の果を因として蓄えられた諸法の種子を失わないで持ち続けていく、過去・現在・未来に連続していく過程で、因が果となり、果が因となって現行していく、この面を捉えて因相、一切種子識と名づけられています。
 自相・果相・因相という三つの側面は、「今」の自己の存在の在り方を決定してくるという大事なことを教えています。
 種子生現行(しゅうじしょうげんぎょう)・現行熏種子(げんぎょうくんじゅうし)、種子が因、現行が果、現行の果が因となり、新たな種子を熏習(くんじゅう)するという構図です。現行の果から、どのような種子を植え付けるのかが問題になってくるのでしょうね。これが因相を説く課題となります。種子を熏習するとはどういうことなのか。これから学んでいこうと思います。
 一切ですからね、捨てられるものはないもないのです。すべてが経験されたものとして蓄積され、熏習されます。因は多種多様です。果はすべてを引きうけて現在している。
 種子は、熏習と深い関係をもった概念ですね、熏種子という。善悪業果という過去を背景に持って、今新たに種子を熏習して、未来を切り拓いていく。未来をどう開き規定していくのかは、今どのような種子を植え付けていくのか、そういう無限の可能性をもったものが一切種として現されているのではないかと思います。