おはようございます。あいにくの雨ですね。お昼以降春一番が吹き荒れるかもしれません。
コロナの勢いは収まりをみせません。政府が七割から八割の外出を控えるようにというのであれば、あらゆる業種に御願いして、一週間から二週間、休業補償などを含めてロックダウンをするのが賢明であると思いますが、一部が動いて、お昼の営業は可能で、夜は駄目というのはどうなんでしょう。また、法規制外の営業を認めるというのであれば、水をすくって駄々洩れ状態ではありませんかね。
家の近くの大型パチンコ店は来月六日まで営業を自粛されていますが、付近の個人店は営業されています。またここに依存症の人たちが集まるのですね。クラスターが発生する可能性大です。足並みが揃っていないことが要請の欠陥ではないでしょうか。
それはともかく、今日は、所熏(経験の蓄積される場所を明らかにする。)について学びます。
先ず、「若し法の始終一類に相続して能く習気(じっけ)を持す。」と定義されます。
法の始終一類とは、無始より仏位に至るまで、一類相続にして能く種子を保持することを述べています。これが所熏の一つの意義である、と。
一類相続は、変化しない、同じ性質が同じ状態で保持されていく。そのような場所が阿頼耶識であり、熏習される所として所熏という意味になります。
一類相続だから習気を持することができるのですが、反対に一類に相続しないもの、断絶のあるものは経験の蓄積される場所ではないことになります。
それが、転易(てんにゃく)のあるものですね。時と場合によって変化するもの、すなわち七転識になります。
そして、純粋に分け隔てをせず、すべてを平等に引き受けているところでなければならないということになります。それが無記性(むきしょう)といわれるところです。
大事なことは、所熏処である阿頼耶識に何を熏習するのかですね。そこで、「聞」が大切な要素、栄養源になります。新鮮なものをいただきますと、栄養素になりますが、腐ったものを口に含みますと下痢を起こします。理ですね。
仏法を聞く、所謂四諦の理を聞くということなんですね。聞くということがキーワードになります。四諦の理というのは、「『経』に「聞」と言うは、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。これを「聞」と曰うなり。」(『信巻』)と教えてくださっています。
私たちは、知る知らないにかかわらずですね、真理の中に生きているわけです。例えば法則ですね、宇宙の法則といってもいいかもしれませんが、知らなくても生きていくうえで何不自由はありません。これを仏教は法執と教えてきました。法執から我執が生まれてきます。心の閉塞性が我執です。我執が真理(空)を覆ってしまうのです。
我執は有為有漏として熏習されますが、真理そのものは熏習されません。所熏処となり得るものは熏習され得るものであるということ、ここが大事なところです。私たちは、業縁存在であるとか、遇縁存在であるといわれますが、因縁ですね。縁起性でしょう。縁起という真理の中で生かされているのです。それを恰も自分一人で生きているかのように錯覚をしているのが私の姿です。このような執着が熏習されてきます。
執着は苦悩を運んできます。孤独という苦悩です。考えさせられますね。また。
コロナの勢いは収まりをみせません。政府が七割から八割の外出を控えるようにというのであれば、あらゆる業種に御願いして、一週間から二週間、休業補償などを含めてロックダウンをするのが賢明であると思いますが、一部が動いて、お昼の営業は可能で、夜は駄目というのはどうなんでしょう。また、法規制外の営業を認めるというのであれば、水をすくって駄々洩れ状態ではありませんかね。
家の近くの大型パチンコ店は来月六日まで営業を自粛されていますが、付近の個人店は営業されています。またここに依存症の人たちが集まるのですね。クラスターが発生する可能性大です。足並みが揃っていないことが要請の欠陥ではないでしょうか。
それはともかく、今日は、所熏(経験の蓄積される場所を明らかにする。)について学びます。
先ず、「若し法の始終一類に相続して能く習気(じっけ)を持す。」と定義されます。
法の始終一類とは、無始より仏位に至るまで、一類相続にして能く種子を保持することを述べています。これが所熏の一つの意義である、と。
一類相続は、変化しない、同じ性質が同じ状態で保持されていく。そのような場所が阿頼耶識であり、熏習される所として所熏という意味になります。
一類相続だから習気を持することができるのですが、反対に一類に相続しないもの、断絶のあるものは経験の蓄積される場所ではないことになります。
それが、転易(てんにゃく)のあるものですね。時と場合によって変化するもの、すなわち七転識になります。
そして、純粋に分け隔てをせず、すべてを平等に引き受けているところでなければならないということになります。それが無記性(むきしょう)といわれるところです。
大事なことは、所熏処である阿頼耶識に何を熏習するのかですね。そこで、「聞」が大切な要素、栄養源になります。新鮮なものをいただきますと、栄養素になりますが、腐ったものを口に含みますと下痢を起こします。理ですね。
仏法を聞く、所謂四諦の理を聞くということなんですね。聞くということがキーワードになります。四諦の理というのは、「『経』に「聞」と言うは、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。これを「聞」と曰うなり。」(『信巻』)と教えてくださっています。
私たちは、知る知らないにかかわらずですね、真理の中に生きているわけです。例えば法則ですね、宇宙の法則といってもいいかもしれませんが、知らなくても生きていくうえで何不自由はありません。これを仏教は法執と教えてきました。法執から我執が生まれてきます。心の閉塞性が我執です。我執が真理(空)を覆ってしまうのです。
我執は有為有漏として熏習されますが、真理そのものは熏習されません。所熏処となり得るものは熏習され得るものであるということ、ここが大事なところです。私たちは、業縁存在であるとか、遇縁存在であるといわれますが、因縁ですね。縁起性でしょう。縁起という真理の中で生かされているのです。それを恰も自分一人で生きているかのように錯覚をしているのが私の姿です。このような執着が熏習されてきます。
執着は苦悩を運んできます。孤独という苦悩です。考えさせられますね。また。